大野九郎兵衛、背信の謎
赤穂城開城にあたって、評定では籠城抗戦殉死か恭順開城か、分配金のやり方などをめぐって、大石内蔵助、奥野将監らと大野九郎兵衛らは対立した。結局、大野は公金を持ち逃げして、出奔し京都の仁和寺あたりにいたことはわかっているが、その後の消息は不明となった。大野九郎兵衛知房。播州赤穂藩城代家老。六百五十石。永く後世に汚名を残したが、大野ははたして本当に不忠者であろか。山梨県甲府にある能成寺には大野九郎兵衛と伝えられる墓がある。なぜ甲府に墓があるのかは不明であるが、もしかして大野の背信は偽装工作で、もし大石が失敗した場合に吉良義央を襲う作戦だったという説もあり、必ずしも不忠者ではないかもしれない。米沢にも大野九郎兵衛の供養塔がある。案内板にも大石が討入りを失敗した場合、彼は米沢領の入口板谷峠で吉良を討ち取るため第2陣の構えをとっていたとある。大野はここ馬場平で切腹し、亡君浅野内匠頭の後を追ったといわれる。
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