武蔵と小次郎
宮本武蔵(1584-1645)の伝記は不明なところが多い。生年には、天正12年説(「五輪書」)と天正10年説(「宮本系図」)の二説がある。また生地についても、美作説、現在の岡山県英田郡大原町説(「宮本村古事帳」)と播磨説(「五輪書」)など諸説ある。また父についても新免無二斎という、十手の達人と伝えるが詳らかでない。幼少から剣を好み、13歳のとき新当流の有馬善兵衛に勝ったのをはじめ、28から29歳ごろまで諸国を歴遊して60回も勝負し無敗であったという。なかでも剣の名門・吉岡清十郎を倒して京で高名を成した。奈良では槍術の名人・覚禅坊胤栄、一心流鎖鎌の開祖・宍戸梅軒と対戦した。しかし、最も名高い勝負は佐々木小次郎との対決であろう。
佐々木小次郎の伝記も明らかではないが、諸書によれば、生まれは越前、幼少より剣を好み、中条流富田勢源、あるいは勢源の弟子・鐘巻自斎の門に学んだ。のち諸国を歴遊し、いわゆる燕返しの秘剣を案出し、ついに一流を立して巖流を呼称、小倉藩主細川忠興に仕えた。
こうして宮本武蔵と佐々木小次郎の試合は、慶長17年4月13日、辰の上刻(午前7時)と決められた。場所は小倉の沖合い4キロ程の海上にある船島。ところが武蔵の小船が船島に着いたのは、約束の時間から遅れること、3時間後、巳の刻(午前10時)のことである。島には細川家の手で厳重な警固がしてある。武蔵は洲崎で舟をとどめると着ていた綿入れを脱ぎ、刀は舟に残して脇差のみを差し、裳を高くからげ、木刀を提げて、素足で舟から降りた。それから波打際を進んで行くとき帯に挟んだ手拭を取って鉢巻にした。佐々木小次郎は備前長光三尺余の長刀を帯びて待ちつかれた態であったが、武蔵の姿を見ると憤然として、「「我は刻限を守って来るに汝は約を違えること甚だし。さては気おくれ致したるか」と大声に呼ばれるが武蔵は聞えぬふりをしている。小次郎はますます怒って、刀を抜いて鞘を海中に投げ捨てると、武蔵は「小次郎、敗れたり」と叫んだ。「何っ」「勝つ身であれば、何故鞘を捨てるか」と。小次郎は怒髪天を衝いて、「黙れっ」、長刀を振りかぶり、武蔵は八双に構えた。
すると武蔵は、潮を蹴りながら砂地へ駆け上がる。小次郎も波打ち際の線に沿ってその姿を追う。二人の足が止まった。長い間、二人は同じ姿勢のまま、ただ呼吸し合っている。そして小次郎の足が、じりじりと武蔵に小刻みに寄って行く。間隔も詰めながら武蔵の隙を狙っていた。その足が止まった時、突如武蔵の櫂の木刀が跳ね上がって、武蔵の身体が宙へ飛び上がった。小次郎の剣が武蔵を追って宙を斬る。同時に武蔵の木刀が小次郎の頭に振り下ろされていた。武蔵が鉢巻にしていた柿色の手拭いが二つに切れて落ちる。しかし小次郎の頭蓋は木刀で微塵に砕かれていた。武蔵は木刀を提げながら倒れた小次郎を見つめていたが、やがて、また振り上げて打とうとする時、小次郎は伏しながら刀を横に払った。武蔵の袷の膝の上に垂れたところ三寸ばかりが切り裂かれた。一方、武蔵の払った木刀で小次郎はあばら骨をくだかれ鼻口から血を吐いて死んだ。武蔵は木刀を捨て、手を小次郎の口鼻にかざして顔を寄せて死活をうかがったのち、遥かに検使に向かって一礼し、木刀をとり、素早く舟に飛び乗った。帰りの海は引き潮になっていた。流れに乗った伝馬舟は矢のように走り、みるみるうちに彦島の岬にかくれてしまった。武蔵が帰途を急いだのは、島かげのあちこちに潜んでいる小次郎の門弟たちの襲撃を警戒したのだと伝えられている。
碑文には「岩流、三尺ノ白刃ヲ手ニシテ術ヲ尽スニ、武蔵、木刃ノ一撃ヲ以テ殺ス。電光ナホ遅シ、俗、後ニ舟島ヲ改メテ岩流島ト謂フ」
武蔵が生命を賭して試合をしたのは巌流島が最後である。以後は62歳で熊本に没するまで、ついに殺戮の闘争をしなかったという。
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