大原三千院
三千院は、最澄が比叡山の開削に際して、東塔南谷の梨の大木の下に住房を置いて、一念三千院または円融房と称せられたのに発祥する。(788年)その後、第4世の叡南大師(承雲)が、清和天皇の勅願によって東坂本の梶井に大殿を建てて、円融房の里房としたので「梨下」の法流の拠点となった。ところが、堀河天皇の第2皇子最雲法親王が12世に豪の嗣資となって梶井に入室され、1130年に14世の法主となられたので、円融房は自づから宮門跡の格に列し、且つ、1156年に大原の魚山一帯に在った大原寺(来迎院、勝林院等の総称)を兼管せらるる事になり、今の三千院となっているところに円融房の政所が置かれた。それが今、三千院が大原にある原因である。
大原に梶井門跡の政所が置かれたとは言え、それは門跡の本拠ではなく、法親王等の門跡が常住せられた訳でもないので、唯だ、大原には、梶井門跡の別院的な、或は山荘的な存在があるというだけのことで、明治維新までの700有余年は過ぎてきたのである。
したがって、1156年に建礼門院が大原に隠棲されても、その翌年に法然上人が勝林院に来て念仏仏義を問答しても、東坂本梶井にある門跡には直接の関係はなかった。また、護良親王(尊雲)が梶井の門主として31世になられても、大原へ入住せられた訳ではなく、梶井門跡の本拠は1330年までは東坂本に、その後は、紫野や白河等等と転移しただけであり、徳川時代(1698年以降)には加茂河畔の河原町に広大な境域を御殿として御所的に堂々と営まれていたのである。河原町御車小路の梶井御殿は、1871年に、50世昌仁親王の復帰と共に梨本宮家となってしまったので、大原の政所を梶井法流(梨本流)の本拠とすることとなり、政所に充てていた龍神院(今の客殿)を本坊とし、直轄していた極楽院を加え、寺号も改めて三千院(霊元天皇の勅語に因んで)と公称することとなり、門跡の格を保って今日に及んでいる。以上は、昭和45年頃発行の参拝しおり「三千院門跡略記」による。
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