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日本でいう「三人寄れば文殊の知恵」と同様のことわざが中国にもある。「平凡な靴屋でも、三人集れば諸葛亮の知恵」(三個臭皮匠、合成一個諸葛亮)という。智謀の軍師・諸葛孔明は兵法だけでなく、知恵の象徴でもある。
日本では孔明といえば劉備との理想的な君臣関係(「三顧の礼」「水魚の交わり」)として知られ、至誠至忠の臣、南朝の忠臣・楠木正成に比せられることが多い。俗諺に「楠も孔明も跣足」というのがあった。「跣足(せんそく)」とは、はきものをはかない、すあしのこと。智謀の優れたことをいい、よい智恵の出た時などに使う言葉だった。
孔明の故事で有名なのは「涙を揮って馬謖を斬る」(揮涙斬馬謖」)である。「十八史略」が出典で、孔明は部下の馬謖を可愛がっていたが、彼が命令違反をして街亭の戦いに敗れたので、孔明は泣きながら馬謖を斬って軍律を順守した。上司が私情を捨てて部下を処断する時に使われる。
安楽死。回復の見込みがなく、苦痛の激しい病人を、本人の依頼または承諾のもとに人為的に死なせること。1993年オランダで世界初の安楽死を認める法律が成立した。euthanasia(英語)、euthanasie(仏語)、ユータナジー、オイタナジー。
地名がある人名に因んでつけられることはよくある。エベレスト、ベーリング海峡、マゼラン海峡、ビクトリア湖、ビスマーク諸島、クック諸島、マーシャル諸島、間宮海峡、タスマニア島、ブーゲンビル島、ギルバート島、ニカラグア、バンクーバーなど世界には多い。アメリカ北東部に位置するペンシルベニア州Pennsylvaniaもその1つである。1681年イギリス人ウィリアム・ペン(1644-1718)がこの地方の土地所有勅許状をイギリス国王に申請したとき、チャールズ2世は、ペンPennの名と、ラテン語のシルバsylva「森」と、地名接尾辞イア-iaを合成して、ペンシルベニアの地名で勅許状を与えた。「ペンの森の土地」の意味であった。ペンはここにクエーカー教徒のための入植地を開いたが、この地名を自分の名前とかかわりありとされることを嫌い、ペンは父の名であるとか、ウェールズ語で「岬」の意味であるとか主張したといわれる。参考:牧英夫「世界地名ルーツ辞典」 (William Penn,エポニム)
伊勢佐木町での路上ライブが人気を呼び、ゆずはスターへと羽ばたいた。今年、横浜で「ゆず展」が開かれ、もはや横浜はゆずの出身地として広く知られるようになった。芸能人の出身地を各1人選出する。松山千春=北海道足寄、千昌夫=陸前高田というように地域と密接な芸能人もいる。川島海荷の「海荷」は本名だが、海のない埼玉県の出身だ。
北海道 玉置浩二 安倍なつみ
青森 新山千春 吉幾三
岩手 藤圭子 新沼謙治
宮城 中村雅俊 さとう宗幸
秋田 藤あや子 落合博満
山形 あき竹城 佐高信
福島 芦名星 田部井淳子
茨城 白石美帆 永作博美
栃木 山口智子 森昌子
群馬 由紀さおり 篠原涼子
埼玉 川島海荷 嘉田由紀子
千葉 前田敦子 長嶋茂雄
東京 深田恭子 石田純一
神奈川 山口百恵 加山雄三
新潟 小林幸子 大桃美代子
富山 野際陽子
石川 田中美里 鹿賀丈史
福井 五木ひろし 朝田のぼる
山梨 田原俊彦 根津甚八
長野 美川憲一 上條恒彦
岐阜 熊田曜子 北川悦吏子
静岡 長澤まさみ 加藤剛
愛知 イチロー 竹下景子
三重 西野カナ 椎名桔平
滋賀 田原総一朗
京都 近藤正臣 都はるみ
大阪 大塚愛 沢口靖子
兵庫 上野樹里 松下奈緒
奈良 青山テルマ 吹石一恵
和歌山 岡本玲 坂本冬実
鳥取 水木しげる
島根 田中美佐子 江角マキコ
岡山 星野仙一 あさのあつこ
広島 綾瀬はるか 金本知憲
山口 西村知美 波田陽区
徳島 アンジェラ・アキ 板東英二
香川 要潤 松本明子
愛媛 眞鍋かをり 大江健三郎
高知 広末涼子 やなせたかし
福岡 松田聖子 浜崎あゆみ
佐賀 松雪泰子
長崎 福山雅治 麻生祐未
熊本 森高千里 宮崎美子
大分 南こうせつ 深津絵里
宮崎 堺雅人 青木宣親
鹿児島 辛島美登里 柏木由紀
沖縄 黒木メイサ 夏川りみ
英語には次の8品詞ある。
①名詞 cat dog rose desk apple
②形容詞 beautiful pretty big
③副詞 very slowly quickly
④動詞 walk write live
⑤代名詞 I you he she it
⑥前置詞 to on at with of
⑦接続詞 but and or if
⑧間投詞 Oh! Ah! Alas! Ouch!
8品詞は文の中で変化する。
It is cold. (寒い) coldは形容詞。
He has a cold.( 彼はかぜをひいている) coldは名詞。
次の文を日本語に訳し、各語の品詞をいいなさい。
She has a book.
答え:彼女は一冊の本をもっています。Sheは代名詞、hasは動詞、aは冠詞、bookは名詞。
徒事(とじ)ではなかった
徒爾(とじ)に終わる
2つの使い分けが難しい。「徒事」とは「むだなこと。効果のないこと」。「徒爾」は「いたずらなさま。むだなさま」
では問題。「いわずもがな」は①言わないほうがよいと思われる②言うまでもなく、という意味である。では次の各文のうち「いわずもがな」が正しく使われていないのはどれか。
1いわずものがなのことを言って後悔する。
2いわずもがなのことを言って発表する。
3子どもはいわずもがな、おとなまでが騒ぎ出した。
答え 2
中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾、森且克(1996年脱退)は1988年スケートボーイズの中から結成された。男性アイドルグループとして24年、異例ともいえる根強い人気を誇っている。グループ名のSMAPは Sports Music Assemble Peopleの頭文字から命名されたといわれている。これには異説もある。もともとSMAPは光るGENJIのバックで踊っていた。山本淳一は「今度スケートボーイズの中から光GENJIの弟分としてデビューさせるから。君たちの頭文字をとってSMAPとした」とジャーニー喜多川から言われたと証言する。つまり、Sato(佐藤寛之&佐藤敦啓) Moroboshi(諸星和己) Akasaka(赤坂晃) Panji(山本淳一のニックネーム)の頭文字をとっているというのだ。これが本当で、Sports云々は後付けかもしれない。
鈴木銀一はメジャー・リーガーのイチローの祖父。イチローの名前は「一朗」だが次男である。4歳年上の兄、鈴木一泰がいる。ではイチローは、なぜ次男なのに「一朗」なのか?。イチローが生れるとき、父の宣之の工場経営がうまくゆかず、祖父の銀一に援助してもらった。そのため銀一に尊敬と感謝の気持ちを込めて、生れた子供に「一」の字をつけることにした。「朗」の字は「苦しいときにも朗らかにふるまい、明るい子供に育ってほしい」という思いが込められている。
天然ブロンド娘エルは恋人から「ケネディはモンローよりジャクリーンを選んだ」といわれフラれる。ポジティブなエルはバーバード大学を受験し、見事、法律家として成功を収めるハッピーな痛快コメディ。低予算ながら世界中で大ヒットした。
主演のリース・ウィザースプーンは名家出身で、アメリカ独立宣言署名者ジョン・ウィザースプーンの子孫。現在リースはロサンゼルスのスティーヴン・セガールが以前に住んでいた豪邸に住む。ベッドルームが7部屋にトイレは9つでプールがあり、庭に寺院がある。セクハラの教授にはヴィクター・カーバー。あの「タイタニック」の設計者トーマス・アンドリュースに扮した人。(Reese Witherspoon)
「こだわり」を英語で訳すと、be particular about~。でも最近、日本では「料理にこだわる」と言うと、ポジティブに「一言ある、詳しい、気にしている」的なニュアンスが込められることがある。その場合は、keen(熱心な)を用いる。
He has his keen with about design.
彼はデザインにはちょっとしたこだわりがある。
宇治原史規「今さらこんなこと他人にき聞けない辞典」日本の常識研究会編とある。現代人にとって本当に必要なことを要領よく一冊にまとめた本である。2010年発行なので内容は少し古くなったが、ベストセラーを10冊紹介している。「バンド1本でやせる!巻くだげダイエット」山本千尋著、「日本人の知らない日本語2」蛇蔵&海野凪子、「スッパ抜く」の「スッパ」とは何か?スッパとは忍者のこと。「告白」湊かなえ著。「誰とでも15分以上会話がとぎれない!話し方66のルール」野口敏、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」岩崎夏海著、「超訳ニーチェの言葉」白取春彦、長谷部誠選手が記者会見で「批判という風を入れよ」という本書の言葉を引用した。「しがみつかない生き方」香山リカ著、「勝間和代を目指さない」が話題となった、「体温を上げると健康になる」斎藤真嗣著、「体脂肪計タニタの社員食堂」、「葬式は、要らない」島田裕巳著、各国の平均葬儀費用イギリス12万円、韓国37万円、アメリカ44万円、日本231万円。
2011年のベストセラーをオリコンランキングで調査。「謎解きはディナーのあとで」東川篤哉、「樫木式カーヴィーダンスで即やせる!」、「心を整える。勝利をたぐり寄せるための56の習慣」長谷部誠。「寝るだけ!骨盤ダイエット」、「KAGEROU」斎藤智裕、「老いの才覚」曽野綾子、「人生がときめく片づけの魔法」近藤麻理恵、「くじけないで」柴田トヨ。2012年は阿川佐和子「聞く力」、渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」、津田大介「情報の呼吸法」、池内了「生きのびるための科学」、誉田哲也「幸せの条件」、池井戸潤「ルーズヴェルト・ゲーム」、江口夏実「鬼灯の冷徹」。
「下流社会」という言葉は、現代日本をよく表現している。とくにニートなど若者たちの増加が象徴的である。それでいまの若い人は可愛そうだという意見がある。しかし歴史(人類史)をみるといつの時代も若者たちは過酷な運命と向き合うようになっている。帝政ロシア末期のラスコリーニコフフのように。現代はむしろ老人のほうが厳しい生活を強いられていると感ずる。財政事情が悪化すれば、消費税は上げられ、年金も減額される。衆院選が始まるが日本は変われるのか、変われないのか。TTPや金融政策、反原発、反消費税と争点は多いが14政党の乱立で有権者もとまどっているだろう。カエルを熱湯に入れると飛び出して助かるが、ぬるま湯につかっていると死んでしまうという。これを「ゆでカエルの理論」という。自己管理が大切で、注意力を喚起する必要がある。人は恐怖や不安の中よりも希望の中でもっと豊かに成長できるものである。
尖閣諸島の周辺海域で緊張状態が続いている。侵略など有事への対応や南海トラフ巨大地震などの防災対策への取り組みが新たな役割として期待されるなか、自衛隊の存在がクローズアップされている。自民党の安倍総裁はなんと自衛隊を国防軍と名前を変えると発言している。これまで何度かネーミングの変更はあった。警察予備隊、保安隊、そして自衛隊。日本国憲法第9条「戦争放棄」と「自衛力」の問題からあえて「軍」の呼称は避けられてきた。改称すれば周辺諸国から日本の軍国主義化が懸念されることになる。どうしても「軍隊」として位置づけたいのであれば、SFもどきながら「地球防衛軍」の響きがいい。異星人からの侵略を撃退するという名目で軍事力の強化をはかれ。
アラビア半島南東部の首長国オマーン(Oman)。紀元前2世紀頃、アラブ人が移住した。7世紀になると、ここはイスラーム人の影響下に入ったが、土侯諸国は事実上の独立を維持し続けた。1509年ポルトガル人が渡来し、16世紀初頭にポルトガルの支配下に入る。1650年ヤアーリバ朝がポルトガルからマスカットを奪回しオマーン全土を回復した。18世紀に入り、アフマッド・ビン・サイードによるサイード王朝が興り、マスカット市を首都としてマスカット・オマーン国が建国された。1891年からイギリスの保護国となるが、1964年ザンジバル人民共和国が成立。1970年、国名をオマーンと改め、現在に至る。
地名オマーンは、2世紀のギリシアの地理学者プトレマイオスの「地理学集成」には、この地に、オマン商業地Omanum Emporiumなる国があることを記録している。オマーンの意味については諸説ある。一説によると、古アラビア語で、「滞在地」を意味するという。遊牧民の基地・滞在地となるオアシスの地くらいの説であろうか。別の説によれば、オマーン・ベン・イブラヒムなる人の名が地名化したとする。そうすれば「オマーンの領地」くらいの意味である。(Ptolemaios,Ben Ibrahim)
クルマに乗るとき聴きたい音楽は?フランク永井の「夜霧の第二国道」、若原一郎の「ハンドル人生」。ちゃうちゃう。恋人とドライブするときかけるドライビング・ミュージック。経験ないのでわからないが、稲垣潤一「ドラマティック・レイン」「エスケイプ」「夏のクラクション」、杉山清貴&オメガトライブが定番。洋楽をBGMとしてさりげなく流すのが無難かも。「雨にぬれても」「素直になれなくて」「遙かなる影」「その風の誘惑」「あなたのとりこ」「ダンシング・シスター」「シェリーに口づけ」みんな古すぎぞ。10代から30代の女性に聞きました。恋人とドライブの時に聴きたい曲ベスト5。1位いきものがかり「じょいふる」、2位L'Arc-en-Ciel「Driver's High」、3位mihimaruGT「気分上々」、4位JUDY AND MARY「Over Drive」、5位AKB48「ヘビーローテーション」。40代から50代は?1位ユーミン「中央フリーウェイ」、2位松田聖子「青い珊瑚礁」、3位プリンセス・プリンセス「OH YEAH!」、4位1986オメガトライブ「君は1000%」、5位サザンオールスターズ「涙のキッス」。さすがに若い娘たちはテンションを上げるアップテンポな曲を好むようです。
今年もAKB48を筆頭に女性アイドルグループが花盛り。ソロではテクノポップ渡辺麻友の「ヒカルものたち」も好調。もも色クローバーZもブレイクの兆し。アクロバットを取り入れた女性5人組。むかしの一心同体、少女隊か。
ソロアーティストのYUIが活動休止宣言。結婚したいアーティスト2年連続1位と男子から人気のYUIに何があったのか。松浦亜弥もこの1年完全に休止状態。華原朋美(38歳)が12月のFNS歌謡祭で5年半ぶりに再活動する。現在の女性アイドルのスタイルは華原の「I'm prould」(1996)から始まるといってもよい。
昨夜久しぶりにミュージックステーションを見る。近藤真彦がでていた。エクザイルのatsushiがソロ新曲「MELROSE~愛さない約束」を披露。いまの歌番組は「歌謡コンサート」のような歌謡曲・演歌中心の番組と「ミュージックステーション」のようなJ-POP中心の番組に2分化されている。かつては「紅白ベストテン」や「ザ・ベストテン」のように歌謡曲もニューミュージックもフォークも1つの番組で一緒に出演していた。音楽性の違いから井上陽水、ユーミン、中島みゆき、松山千春などのように出場辞退するミュージシャンも多くいた。時は流れた。
最新主演作「北のカナリアたち」が公開中で、吉永小百合の旧作がBS・CSで27作品もオンエアされている。通算116本の出演映画を3つに分けると、60年代の日活青春映画時代、代表作「愛と死をみつめて」、70~80年代の「夢千代日記」など演技派への転換期、90年代から現在に至る大女優として変わらぬ美貌と演技力で輝き続ける時代。最近、青春スターとしてフレッシュな魅力に溢れていた1962年の映画「ひとりぼっちの二人だが」を観る。共演は坂本九と浜田光夫、高橋英樹、渡辺トモコ。同年同キャストで「上を向いて歩こう」がある。
「ひとりぼっちの二人だが」主題曲もステキで、坂本九のエンターティーナーとしての才能が光る。だがやはり吉永小百合と浜田光夫の相性は抜群である。映画の舞台である東京浅草の風景も懐かしい。50年前の女優が現在も第一人者であることにあらためて驚きを感じる。
韓国ドラマ「愛の群像」(1999)は良質の大河小説のような味わいがある。全44話を半年かけてゆっくり視聴した。ラストがとてもいい。ジェホ(ペ・ヨンジュン)の病が進行し、目も耳も悪くなる。義弟のソック(パク・サンミン)に赤ん坊が生れた。ソックは握っていたジェホの手を開いて、文字を書く。赤ん坊の名前にジェホとつけた。ジェホは笑った。「なんでそんなことをしたんだ?よりによって、俺みたいな馬鹿な男の名前をつけたんだ」ソックはそれには何も返事をせず、ただ笑みを返した。「ソック、お前がうらやましいよ、赤ん坊しっかり育てるんだぞ」ジェホの言葉にソックは胸が詰まった。
「愛の群像」はもちろんジェホとシニョン(キム・ヘス)の愛の物語である。しかし2人を温かく見守り支えてきた家族たちがよく描かれている。とくに水商売をしながら、ジェホとジェヨン(イ・ナヨン)を育てたチョン・ジンスク(キム・ヨンエ)。ラストでジェホは実母と15年振りに再会する。「冬のソナタ」ユジンの母親で知られるキム・へスクである。「愛の群像」から「冬のソナタ」へ見えない糸でつながっている。
映画「白雪姫と鏡の女王」のリリー・コリンズの濃い眉が話題になっている。これまでハリウッドでもグィネス・パルトローやキルステン・ダンストのように薄い眉毛が美人の主流だった。かつて80年代はマーゴ・ヘミングウェイやブルック・シールズ、ジェニファー・コネリーのように太い眉の全盛時代もあった。日本でも戦後、生命力にあふれた新しい女性像を表現するため太い眉の女優が現れた。それまで日本では細くて薄い三日月眉が美人の典型とされていた。久我美子や北原三枝の登場で太い眉毛が社会的にも認知されたといえる。その後、80年代になってブルック・シールズの影響で、石原真理子、安田成美など太い眉のトレンディー女優が現れる。北原三枝は石原まき子となったが、なぜか石原姓には太い眉が多い。石原良純、石原さとみ、石原真理子、石原まき子。ムムム、不思議だ・・・。
連日のように謝罪のニュースがある。漫画家さかもと未明が飛行機内でのクレーム騒動で謝罪。大島優子が試写会途中退席で謝罪。田中真紀子が大学不認可騒動で謝罪。NHK総局長が森本アナウンサー逮捕で「視聴者を裏切った」として謝罪。「万里の長城遭難」旅行会社社長が謝罪。豊橋市の教育長が教員の盗撮で謝罪。10月はPC遠隔操作誤認逮捕で警察が謝罪。8月は野田首相が「消費税引き上げることには総選挙マニフェストに明記をしていなかったことについておわび」と謝罪。7月は越直美大津市長がいじめ自殺で遺族に謝罪。6月は巨人の原監督が「私はある女性と関係を持ちました」と謝罪。そのほか会社、役所、団体などの謝罪には枚挙するに遑ない。
フランスやイギリスの国旗なら知っているけど、スペインの国旗ってどんなんだっけ?という方は多いのではないだろうか。フランスの面積は海外領土を含めると67万k㎡もあり、ロシア・ウクライナに次いでヨーロッパ第3位。スペインも海外領土(バレアレス諸島、カナリア初頭、セウタなど)を含めると50万k㎡もあり、スウェーデンに次ぐ第5位である。スペインはヨーロッパの大国ながら日本人にとっていささか印象のうすい国である。フラメンコ、闘牛、アルハンブラからガウディまで観光大国で世界遺産40件はイタリアに次ぐ世界第2位。
スペインの国旗は、赤・黄・赤に並んだ横三色に国章が配されている。民間では国章のないものを使用する。1785年に制定されたが、国章は何度も変更があり、現在の国旗が制定されたのは1981年である。
Tom is a lady-killer.
レディ・キラーは直訳すると「女殺し」だが、人殺しではなく、女性たちをコロリとまいらせるような色男のこと。handsomeは、hand(手)とsome(~しやすい)からなる語で、「手で扱いやすい」、つまり顔立ちがよいと女性たちを扱いやすいことから、ハンサムと呼ばれるようになった。目鼻立ちが整った美しい顔立ちの人をいう。ハンサムは堂々とした中年以上の女性に用いられることもある。
このほかplayboy「遊び人」、フランス語のgigolo「ジゴロ」もある。ジゴロは女から金を得て生活むしている男で、エレガントで洗練され、どのような生きているかわからない若者をいう。
夏目漱石は見合いで表裏ない中根鏡子(1877-1963)に好感を抱く。以前によくいわれた不仲説や悪妻説は否定されている。
二人の間には2男5女がある。漱石は来訪した友人に向かって「本当に女は妊娠ばかりしやがって、どうしようもない」と愚痴をこぼした。すると友人は真顔で「そりゃ奥さんも悪いかもしれないが、妊娠させる君も悪い」と言った。
森鴎外には最初の妻、赤松登志子、後妻の荒木志げ、それに妾の児玉せき、がいる。
島崎藤村の初恋の人、佐藤輔子。そして最初の妻は秦冬子。病死後、長らく独身であったが、昭和3年、24歳年下の加藤静子(1896-1973)と結婚。静子は藤村の思い出を「ひとすじのみち」「落穂」などに著した。
Let's meet again soon. 近いうちにまた会おう。
I hope you come to see me sometime soon. 近いうちに会いに来てね
sometimes(時々)は、ここでは「いつか」という意味。
近い未来に「~しようとしている」「~しそうだ」は「be going to~」
The train was going to start for Osaka.
汽車は大阪に出発しようとしていた。
「be about to ~」で「~しようとしている」の意で、より近い未来を表わす。
It seemed to me that something unusual was about to happen.
何か異常なことが起ころうとしているように思えた。
(参考:チャート式「詳解英文解釈法」21p)
慶事や祝事をたたえる時に、日本人は「おめでとう」という言葉をよく使う。お祝いの言葉「おめでとう」は、一般に「congratulations」という英語に対応すると考えられることが多い。しかしながら「おめでとう」と「congratulations」の使われ方を比較してみると、両語は必ずしも完全に同義という訳ではない。「congratulations」は、卒業や入学、昇進など、いろいろな場面で使うことができる。ただし、「誕生日おめでとう」は Happy birthday!. 「新年おめでとう」は、Happy New Year!と言い、congratulationsは使えない。congratulationsという語は、努力して成功した人に対する祝いの言葉である。誕生日や新年は人間の意識的な努力によって獲得されるものではなく、時の流れによって時期が来れば自然に訪れるものだからである。(「おめでとう」の言語文化論 松原健二、松原浩子著 松本大学研究紀要5、2007年)
スペインの衰退の原因は社会的・経済的要因があげられるが、イギリスとの世界覇権争いは、軍事面での敗北がその衰退に直結する。1588年、スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊に敗北したことにより、大西洋の海上支配権を喪失した。そして1808年ナポレオンがスペインを征服したことで決定的となった。19世紀ヨーロッパ世界の繁栄は、一律にどこでも同じようにみられたわけではない。画像の「19世紀ヨーロッパの産業発展」で石炭、粗鉄、蒸気機関、鉄道、紡績などイギリス、フランス、ドイツ、イタリアと比較すると大きく立ち遅れている。19世紀に国民産業として工業発展を遂げたのは、わずかにカタルーニャとバスク地方だけであった。カタルーニャの繊維工業、特に綿工業は1830年代から発展期に入り、1842年には綿工場数約4500、労働者数約10万人を抱えていた。製鉄業は、すでに1830年代にマルベーヤ、ウエルバなどから起こったが、19世紀後半には鉱山を有するバスク地方で急速に発展した。しかしカタルーニャ繊維工業は大部分が中小規模の工場であり、バスク地方の製鉄業にしても、外国工業との競争に対抗する力はなかった。これらの地方の産業家は、カスティーヤ穀物業者と同盟して、保護貿易主義を主張せねばならなかった。一方19世紀後半から、外国資本の投下によって鉄道建設事業と鉱山業が急速に発達した。鉄道建設は、一部カタルーニャ資本によるものの、大部分フランス・ベルギー資本によって実現された。1848年、初めて29キロの線が開通したが、1860年から1865年の間に飛躍的に建設が進み(3600キロ)、1900年に鉄道網は12,000キロに及んだ。しかし多くの資材はフランスから輸入されたために、鉄道建設に伴う全三行への相乗作用は限られていた。鉱山業は、1860年、フィゲローラ蔵相による自由貿易政策の採用以降、やはり外国資本の投下らよりアストゥリヤスなどで大いに発展するが、鉱石はそのままヨーロッパ諸国へ輸出された。従って、この場合もスペイン工業が受ける恩恵は少なかった。更に外国資本は、銀行・保険など各分野で事業をおこした。3大動産信用銀行はフランス・ベルギー資本によるものであった。そしてスペインの保守的な地主・ブルジョワは、これらの会社に投資することで満足した。結局スペイン経済は、ヨーロッパの植民地的性格をもっていた。(Spain)
お笑いコンビ、キングコングの西野亮廣は「僕は太宰治が(いかがわしいから)大嫌いなのです」とツイートし、太宰ファンから謝罪を求められた。先日も大島優子が「私はこの映画が嫌いです」と試写会を途中退席し物議をかもした。否定的な発言は個人の自由ながら、理由や根拠を明らかにしてほしいものである。ツィッターなど短い発言では真意が伝わらず誤解を与えることも多い。ネガティブな発言はくれぐれも注意したいものである。
007ジェーズ・ボンドが初代ショーン・コネリーから数えて今年で映画製作50周年。世界中で愛されたヒーローはダニエル・クレイグで6代目と意外と少ない。一方、ターザンを務めた俳優は映画・テレビで1918年から20人を超える。歴代ターザンはエルモ・リンカーン、ジーン・ポラー、P・デンプシー・タブラー、ジェームズ・ピアース、フランク・メリル、ジョニー・ワイズミュラー、バスター・フラブ、ハーマン・ブリックス、グレン・モリス、レックス・バーカー、ゴードン・スコット、デニー・ミラー、テューダー・オーウェン、ジョック・マホニー、ロン・エリー、マイク・ヘンリー、マイルズ・オキーフ、クリストファー・ランバート、ジョー・ララ、ウルフ・ラーソン、キャスパー・ヴァンティーン。ターザン役ではワイズミュラーが最も有名だが、戦後レックス・バーカー(1919-1973)のターザン映画も印象に残る。「ターザン魔法の泉」(1949)、「ターザンと密林の女王」(1951)、「ターザンの憤激」(1952)、「ターザンと巨像の襲撃」(1955)の4本。学生時代スポーツ選手として鳴らし、ジョニー・ワイズミュラーの後を継いでターザン映画の主役をつとめ、1954年以後は欧州を中心に数多くの映画に出演。フェリーニの「甘い生活」にも出演している。結婚歴も見事なもので、2度目の妻はアーリン・ダール(土曜は貴方に)、3度目の妻はラナ・ターナー(悲しみは空の彼方に)、最後の妻は5人目でスペインの貴族、と華麗な人生であった。
ジョック・マホニーはサリー・フィールドの義父(母マーガレット・フィールドがジョックと再婚したため)。クリストファー・ランバートはダイアン・レインの夫。
(Tarzan,Lex Baker)
NHK連続クイズホールドオン!117回の問題。「シェイクスピアの戯曲ロミオとジュリエットの中で、朝を告げる鳥として登場する鳴き声が2人の別れを促すことになる鳥とは何でしょう?」
ロミオとジュリエットの初めての夜は瞬く間に過ぎ去り、やがて東の空が白んできた。朝の到来を知らせる鳥ヒバリの声が聞こえる。ロミオが苦しみながら「もう朝が、行かなければならない」というと、ジュリエットは「あれはナイチンゲール、ヒバリじゃないわ」と引き止める。ジュリエットが聞いた鳥の鳴き声は間違いなくヒバリだった。が、それを現実とは思いたくない一心で発したセリフである。(It was the nightingle,and not the lark.)
東海道五十三次の39番目の宿場。「ちりふ」と読み、現在の愛知県知立市(人口7万人)。桶狭間古戦場跡は隣の豊明市にある。江戸時代、馬市で栄えた。芭蕉は「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」と詠う。
さてこの地は、池鯉鮒や知立の名よりも八橋(やつはし)の地名が知られる。伊勢物語中、最も有名な9段。「三河の国八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもでなれば、橋を八つわたせるによりてなん八橋といひける。(略)その沢に燕子花いとおもしく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふ五文字を句のかみにすえて、旅の心をよめといひければよめる。」として「唐衣きつつ馴れにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」(私には愛しあい睦びあった妻が京に残っているので、はるばるとやって来たこの旅は悲しくてならない)が愛唱されている。
NHKお元気ですか日本列島。読書の秋ということで図書館を特集。千代田区の図書館ではカフェや書店を併設。有料の読書スペースもある。2時間で300円。明治大学では会話OKのスペースをつくる。携帯やペットボトルもOK。多くの人により便利に。日本全国の図書館1年間平均1人当たり貸し出し冊数5.4冊というのは過去最高だそうだ。秋田県立図書館では電子書籍化が進み、古文書など貴重書がタブレット端末やスマホからアクセス可能。携帯とインターネットがたいへん便利なものであることを否定する人はまずいないだろう。テーマ「変わる図書館」もバラ色の未来を思わせるような報道内容であった。しかしネットのアクセスの増加や喫茶店化が図書館の本質的な問題とは到底おもえない。現実には神奈川県の2図書館廃止や中之島図書館の廃止への動きなど、地すべり的に図書館は崩壊しつつある。
ユーラシア大陸の北東部にあるカムチャツカ半島はかつてアイヌ民族の居住地であった。17世紀になるとイワン・カムチャツキーやセミョン・デジニョフ、イワン・ルベツらによって、この地の存在がロシアに知られるようになり、17世紀末、シベリアコサックのウラジミール・アトラソフ(画像 1660-1711)が初めてカムチャッカ半島南部まで足を踏み入れた。1697年、アディールからカムチャッカ西岸を約120人の軍勢が南進し、アイヌと戦闘を起こした。大坂谷町の伝兵衛は漂流民としてカムチャッカにいたが、アトラソフによってモスクワへ連れて行かれ、ピョートル1世と謁見している。(Vladimir Atlasov,Kamchatka)
ロシアの西シベリア・ケメロボ州でイエティ(雪男)と呼ばれる謎の動物の体毛を米国の調査機関が鑑定した結果、「電子顕微鏡での体毛検査やDNAの抽出を通して、60~70%の確立で、イエティの毛であるといえる。チンパンジーよりはヒトに近い」という。アザス洞窟で見つかった足跡も95%の確立でイエティのものという。2年ほど前に身長2mほどの人間に似た毛むくじゃらの生き物を見たとの猟師らの目撃情報があり、専門家らは「ケメロボ州に雪男は95%の確立で存在している」と結論づけている。雪男といえばヒマラヤだが、その正体については、クマなどの誤認説もあるが、登山家の高橋好輝は「雪男は間違いなく存在する。ヒマラヤで独自の進化を遂げたオランウータンの亜種ではないか」と述べている。(yeti,Kemerovo)
イタリア映画「青い体験」(1973)。シシリーの町。妻が死んだ3人の息子持ちの男の家庭に、若いお手伝いさんが来たことから親子が争奪戦を始めてしまう。ラウラ・アントネッリの世界的にヒットした艶笑喜劇。ポスターは粗悪なアメリカのもの。
A saucy romp that pokes fun at morals,marriage and young manhood
ポスターに何と書かれているのか気になる。saucyには「エロチックな」、rompには「娯楽作品」という意味がある。そして「pokes fun at morals」を「道徳をからかう」と解すればだいたい意味がつうじる。映画の内容をストレートに表現したものでキャッチコピーとしては最低。
むかし趣味といえば盆栽か囲碁・将棋くらいであった。徳川吉宗は大の将棋好きで知られるし、伊東巳代治は盆栽。近代日本人の知的生活のスタイルは科学者である寺田寅彦(1878-1935)から始まったというても過言ではない。俳句はもちろん、美術、音楽、映画などのハイカラ趣味があった。夏目漱石はレコード鑑賞や活動写真をみることはなかったが、寺田はレコードを聴き、銀座を歩き、浅草で映画をみている。「秋の歌」という随筆には、チャイコフスキーのピアノ曲集「四季」(1876)の中の一曲を鑑賞したという、ただそれだけの内容ものである。演奏者はエフレム・ジンバリスト(1889-1985)である。つまりテレビ俳優エフレム・ジンバリストJRはその息子である。大正時代になって、「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句が現れた。この名コピーは三越宣伝部の浜田四郎(1873-1952)の作。
参考文献: 浜田四郎「百貨店一夕話」 日本電報通信社 1948
近年、山間部の豪雨による被害は毎年のように起きている。その原因の一つに都市への人口集中と過疎化によって地域社会の生活そのものの維持が困難になっているところがある。これまで山間部の山林や水田が、降った雨を受けとめて雨水を貯える役割をはたしてきた。だが山間部から都市へ人口が流入し、今まで維持管理されてきた山林や水田が放棄されて、治山や治水の機能も失われてしまった。こうしたときに集中豪雨に襲われると、雨は直接山をけずり、そのまま流れ下って土砂くずれを起こしたり、下流の河川で洪水を引き起こすことになる。都市への人口集中はますます加速しているが、都市生活は人間にとってそれほど理想的だろうか。ある研究によると、「都市で生活する人は小さな町で暮らす人と比べてストレスの影響を強く受けるようだ」と、ポーランドの雑誌「プシェクルイ」は伝えている。「都市で人々は過剰な刺激にさらされている」と心理療法士ミエチスワフ・ヤスクルスキは言う。「都市生活者は農村部の人と比べて、不安発作を発症するリスクは21%高く、気分障害のリスクは39%高い」という。では都市で暮らす人はどうすればいいのか。「自分にはどうにもできない事柄に腹を立てない」、「終業後は仕事のことは忘れる」、「散歩をする」、「心配しないで休暇を取る」といった事柄をこの雑誌は勧めている。
米国ニューヨーク市ブロンクスにあるアルバート・アインシュタイン医科大学のミッシェル・リプトン博士らの研究によると、サッカー選手が1年に行うヘディングが、ある一定以上の回数を超えて脳に衝撃を与えた場合、外傷性脳損傷と同様の大脳白質の異常が発生するリスクがあると発表した。そして脳画像を詳しく解析した結果、ヘディング回数1320回以上のグループに脳震盪や外傷性脳損傷患者と同様の変化が観察された。つまりへディングによって脳の損傷と認知能力の低下の危険が増す。博士は、サッカー選手は世界で2億5千万人以上が存在しており、またサッカーをする子どもたちが多いことから、脳の健康を考えた場合、できるだけヘディングの回数は減らすべきだとしている。(Michael Lipton)
野田首相は党首討論で捨て身の覚悟で「16日に解散」を表明した。小学生のとき通信簿の成績は下がったが、生活欄に「野田くんは、馬鹿正直です」と書かれていて、父親は叱るどころか誉めてくれた。ワシントンのサクラの木のような話だ。
「私はウソをつこうという気持ちはない」と前置きをして、16日の解散を切り出した。こういうトークは個人的には好きだが、結局は「うそつき」呼ばわりされるのを嫌い、解散に追いつめられたようにも映る。茶番劇と見る向きもあるが、野田の決断は立派だったと思う。野田政権の通信簿は12月16日の国民の審判で決まる。「バカヤロウ解散」「郵政解散」などいろいろあるが、今回は「嘘つきじゃないノダ解散」か。
梶芽衣子が本名・太田雅子で出演していた頃の日活映画「青春前期 青い果実」(1965)を観る。ストーリーの展開に驚かされる。東京の明道高校に転校してきた椎ノ木武志(太田博之)は、無口で暗い影のある青年だったが、級友の河合奈津子(太田雅子)は魅かれていった。初デートで遅れて行って2人は会えず、奈津子はチンピラグループから強姦される。このことが学校中に知れてしまい奈津子は叔父のいる信州へ預けられる。武志は奈津子に会いに信州に行き、温泉宿に泊まるが、武志は過去の女性体験から奈津子と結ばれることはなかった。東京に帰った2人は学校に相談するが、逆に武志が不良であるとして会議にかけられる。窮地に追い込まれた奈津子は自殺を図るものの一命だけはとりとめる。逆上した武志はチンピラグループを空手で殴り倒す。最後は2人強く生きようと決意する。原作は若杉慧の小説。野添ひとみで映画化している。太田博之の美少年ぶりと太田雅子のフレッシュさが際立つ。松竹版では内藤武敏の役を上原謙が演じてしたので印象が大きく異なっている。最近、成海璃子の「きみにしか聞こえない」や川島海荷の「私の優しくない先輩」などをみると青春映画もずいぶんと変化してきたことに驚かされる。
巨人が五冠を達成した。阿部・坂本・長野・内海といった主力選手の活躍もあるが、澤村・山口・高木・石井・松本などの活躍も見逃せない。とくに日本シリーズ、アジアシリーズではボウカー、実松が意外性を発揮した。ボウカーは打率1割9分、3本塁打と期待を裏切ったが、日本シリーズでは大事な場面でホームランを放った。実松も地味ながら故障がちの阿部の二番手としてよくやった。打撃は弱いと思われがちだが、高校通算39本塁打とスラッガーで知られていた。98年のドラフト日本ハムが松坂大輔の外れ1位指名で獲得。2006年巨人にトレードするも控え捕手になることが多かった。だが昨年、今年と故障の阿部に代わってスタメン出場することも多く、持ち前の長打力を発揮しだした。大一番は意外と下位打線で勝負が決まることがある。
古代中国の諸制度の中で、最も不明確であるのが、兵役制度である。とくに、漢代では、のちの時代とは違い兵役と力役(徭役)とが完全に分離していないのが特徴である。漢の兵制は、秦の始皇帝の影響から、漢初から徴兵制を採用していた。その在役年限は23歳(景帝2年までは20歳)から56歳までの壮年男子は、2度にわたって兵役に服することを課せられていた。兵役の内容は、そのうち1年は京師(首都)で衛尉指揮下の南軍の兵士(衛士)となり宮城守護につく、所属の郡国において警備兵として1年間勤務する、毎年1回の大査閲(都試)を受ける、といったところであった。正卒としての期間は30年以上に及ぶが、戦時下は別として、衛士が1年、地方兵が1年のあわせて2年が実質最低就役期間であった。(参考文献:「アジアの歴史と文化 1」冨谷至執筆 同朋舎出版)
石川県中能登町一青。字「一青」を「ひとと」と読める人は、近頃はけっこう多いだろう。「一青窈」(ひととよう)という珍しい名前の歌手がいるからだ。お父さんが台湾人で、お母さんが日本人。お母さんはこの地方の出身者で、地名を姓にしていたと推定される。「しとと」の語源には2説ある。吉田茂樹は「しと(湿)と(処)」であり、低湿地であったからと説く(日本地名大事典)。筒井功は「シトトというスズメ目ホオジロ科の鳥が語源である」(日本の地名)としている。中能登町一青の南隣には「黒氏」(くろじ)の地名があり、ホオジロ科クロジにもとづく地名と考えられる。中能登町の旧地名は鹿島郡鳥屋町であることから「一青」は鳥名「シトト」に由来するものだろう。
アメリカ合衆国最南端にあるフロリダ半島、キーウェスト島。実際の最南端はキーウェスト海軍航空基地であるため、民間人が立ち入りできる地点としては「サザンモスト・ポイント」である。ここからキューバまで90マイル(145㎞)の標識がある。このキーウエストを世界中に知らしめたのは、文豪ヘミングウェイである。彼は1928年、パリからキーウェストに移り、2番目の妻ボーリン・プァイファーと住んだ家が今も一般公開されている。ヘミングウェイの趣味は魚釣り。ここで大物のカジキマグロを狙う日々を過ごした。
世界の文豪の趣味を調べるとなかなか面白い。トルストイの乗馬とチェス。チェーホフの切手収集。サン・テグジュペリの飛行機。ヘッセの水彩画。
鹿児島県伊佐市の菱刈鉱山は日本最大の金鉱山である。1985年から採掘を始め、累計で200トンを超えた。佐渡金山、石見銀山に匹敵する鉱山だった。この鉱山にはまだ150トンがあるほか、先月には約30トンの金量が見込まれる新たな鉱床が確認され、最近の金価格で7800億円分の金が眠っていることになる。黄金の国ジャパン。ああ、それにつけても金の欲しさよ。
横綱力士は、初代明石志賀之助から当代日馬富士公平まで約360年間に70人を数える。そして横綱土俵入りの型には雲竜型と不知火型の2種類がある。かつて不知火型の横綱は短命というジンクスがあった。玉の海、琴桜、隆の里、双羽黒、旭富士、若乃花と横綱在位の平均は約1年半。白鵬がこのジンクスを破った。
イエスと女性との出会いは聖書にもいくつかの記述がある。これらの女性たちの名前や人数を正確に調べることは困難であるが、ラザロの姉妹マルタとマリアたちをはじめさまざまな女性たちがイエスのまわりにはいた。それらの女性たちをイエスはやさしく受け入れ、身体と心の癒しをあたえた。そして、なかには進んでイエスにつき従う女性もでてきた。これらの女性のなかでもとくにマグダラのマリアの存在は特別であった。イエスが逮捕されたときも他の弟子たちはみな逃げたが、このマリアは師の最期を、そして埋葬を見届けている。「ピリポ福音書」にはこうある。「主は母マリアと、その姉妹と、人々が彼の妻とよぶマグダラのマリアといつも一緒にいた。主はマグダラのマリアをどの弟子よりも可愛がり、ときおり彼女に接吻した」神聖化されたイエスのイメージは、後世の布教のために理想化されたものではないだろうか。その理由は、イエスやその弟子たちは、人々からラビ(律法学者)と呼ばれていたが、ラビの第一の業務は生めよ増やせよで、結婚していないラビなど、ユダヤの観念からは考えられないからである。今年、エジプト北部でコプト語で書かれた4世紀頃のパピルスが発見された。そこには「イエスは彼らに言った、私の妻は」と読める断片がある。「ダ・ヴィンチ・コード」のようにイエスが結婚して子どもがいたというのは真実だろうか。
オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(1860-1911)の晩年の交響曲「大地の歌」(1908)は悠久な自然への讃歌と厭世観に満ちている。李白などの中国の詩が歌詞につかわれている。マーラーはハンス・ベートゲ編訳による詩集「中国の笛」から詩を採用した。しかしベートゲは中国語を解さず、忠実な訳詩でないため原詩の特定に困難がともなったが、近年の研究で7編のうち6編は確定している。第1楽章「大地の悲嘆についての酒宴の歌」の原詩は李白「悲歌行」、第2楽章「秋に寂しき者」は銭起「古(いにしえ)の秋の長さに效(なら)う」は銭起「效古秋夜長」、第3楽章「青春について」は李白「陶家の亭子に宴す」、第4楽章「美について」は李白「採蓮曲」、第5章「春に酔える者」は李白「春日酔起言志」、第6章「告別」は孟浩然「宿業師山房期丁大不至」と王維「送別」。ただし第2楽章については銭起については疑問視され、張籍もしくは張継とする説もある。最初にフランス語に訳した、ユディット・ゴーティエの訳詩がかなり自由な改変があったためである。(Gustav Mahler)
高野佐三郎(1862-1950)は、秩父郡大宮郷(現・秩父市)で生れる。祖父の高野佐吉郎は小野派一刀流(中西派四代目)の中西忠兵衛子正から免許皆伝を受けて秩父で道場を開き、禅は広見寺の坂井守道禅師に師事し、感化を受ける。祖父の佐吉郎は、孫の佐三郎に3歳から小野派一刀流の形稽古をつける。15歳の頃には、試合で負けることがなく、「秩父の小天狗」と称されたが、明治12年、18歳の春に、北辰一刀流の岡田定五郎に惨敗する。佐三郎は山岡鉄舟の門に入る。明治19年、鉄舟の推挙で警視庁に奉職し、剣道の指導に当たる。明治21年、浦和明信館を建て、剣道の指導を行なう。明治28年に大日本武徳会が創設され、演武大会の試合において名声を博す。明治35年、九段坂に剣道教授法研究所明信館本部を開設する。大正7年、渋沢栄一の援助により、神田に修道学院を開設し、昭和20年の敗戦まで多くの人材を養成し、剣道の発展に貢献した。剣道は太平洋戦争の敗戦後、連合国占領軍によって7年間にわたって禁止される。佐三郎は剣道の復活を見ぬままに、昭和25年に失意のうちに亡くなった。享年89歳。
MBS「サワコの朝」川渕三郎との対談が面白い。阿川佐和子の新書「聞く力」がロングセラーもナットク。阿川佐和子は作家阿川弘之の娘。檀ふみは作家檀一雄の娘。大宅映子は評論家・大宅壮一の娘。田中真紀子は田中角栄の娘。平野レミはフランス文学者・平野威馬雄の娘。高見恭子は作家高見順の娘。津島佑子、太田治子は太宰治の娘。岡田茉莉子は二枚目俳優岡田時彦の娘。円地文子は国文学者上田萬年の娘。幸田文は幸田露伴の娘。スタール夫人は財政家ネッケルの娘。「白雪姫と鏡の女王」のリリー・コリンズはフィル・コリンズの娘。アンジェリーナ・ジョリーはジョン・ヴォイドの娘。いまではジョン・ヴォイドはアンジェリーナの父親といわれる。アンジェリーナ主演映画で父親役で出させてもらっている。娘は有難や、有難や。
森鴎外「高瀬舟」は弟を安楽死させた喜助と、それを護送する同心庄兵衛の話。高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟で、江戸時代、島流しにある罪人が舟で、京都から大阪へ送られた。鴎外は「ここに病人があって死に瀕して苦しんでいる。それを救う手段は全くない。傍からその苦しみを見ている人はどう思うであろうか。たとえ教のある人でも、どうせ死ななくてはならぬなら、あの苦しみを長くさせて置かずに、早く死なせてやりたいという情は必ずおこる。楽に死なせて、その苦しみを救ってやるというのである」(高瀬舟縁起)と書いている。安楽死への関心は自分の娘の茉莉をモルヒネ注射するかどうか悩んだ経験があり、自責の念にかられて執筆したといわれている。
京都は川端康成「古都」、谷崎潤一郎「細雪」、志賀直哉「暗夜行路」など名作の舞台となることが多い。芥川龍之介「羅生門」、梶井基次郎「檸檬」、三島由紀夫「金閣寺」、宮尾登美子「序の舞」、万城目学「鴨川ホルモー」。
不認可騒動。9日の記者会見で田中真紀子は「心からおわび申し上げます」と謝罪し、一件は落着した。これまで自分の非を認めなかった真紀子がなぜ一転したのか?舞台裏で「真紀子の顔を潰さず、文科官僚傷つかず、大学納得」のシナリオを模索。そして野田は「設置認可の見直しをして、大学の質の向上を図っていくことは重要」と真紀子を擁護。真紀子は「今回の騒動が逆にいい宣伝になった」と発言しているところからみると民主党は何も反省していない。不認可騒動は民主党が国民をなんとも思っていないということがはっきりしたということ。相当これで支持率を下げただろう。最近の野田首相は顔がむくみ、表情は乏しく、目は虚ろ。国会答弁では呂律が回らず、自分で頬を叩く有様。どうもストレスをまぎらすため自宅で深酒をしている。アルコール依存症に陥り、心身を病み始めている。
クレオパトラと楊貴妃(玉環)ほど、美女の代名詞として使用される女性はいない。ただしクレオパトラはエジプト・プトレマイオス朝の女王であり、楊貴妃は唐玄宗皇帝の寵愛を受けた妃にすぎず、クレオパトラのような政治的野望があったわけではない。美貌がゆえに波乱の人生を送ったのである。クレオパトラが39歳、楊貴妃が38歳と、その華麗で波乱万丈の生涯はともに短い。2人が大きく違うのは、クレオパトラには子女があったが、楊貴妃には実子はなかったことである。クレオパトラはカエサルとの間にできた男子カエサリオンはオクタウィアヌスに殺害されたが、アントニウスとの間には双子(男女)がいた。娘セレネは成人して、ユバ2世と結婚し、男女2人の子をもうけている。玄宗皇帝は59人の子がいるが、楊貴妃との間に子供はできなかった。玄宗の息子で玉環を妃に迎えた寿王とのあいだに子どもが生れたという記録もない。楊貴妃は生来の石女(うまずめ)であったのであろうか。あるいは子宝に恵まれていたが、子どもが殺害されていたため故意に史書から抹殺されたのであろうか。(CleopatraⅦ,Caesarion,Selene)
2013年カレンダーが発売されている。今、活躍の俳優、アイドルたちにとって販売数は人気のバロメーターである。最近のドラマをみると顔ぶれが変わったように思う。大河ドラマ「平清盛」も松山ケンイチが若いので脇役陣も若手起用となっている。朝ドラ「梅ちゃん先生」もほとんど無名の近い男優陣だった。松坂桃季、高橋光臣、満島真之介らは一躍スター級になった。「大奥」も将軍を女性にして、陪臣にイケメン俳優を多数出演させる手法がとられている。やはり視聴率をとるには女性にターゲットをあてることなのだろう。ここ数年、「イケメン」という語が、美男でも二枚目でもハンサムでもなく、頻繁に耳にするようになった。だがイケメンはちょっと品がないのでハンサムもまだ死語にはなっていない。「ハンサムスーツ」(2008)という映画はヒットした。もともと英語handsomeからの和製語。hand(手)とsome(~しやすい)からなる言葉で、「手で扱いやすい」、つまり顔立ちがよいと美女を扱いやすいということから、ハンサムと呼ばれるようになった。日本でいつ頃から使われ出したのかはっきりしない。デカダンの織田作之助や坂口安吾の小説にはしばしば使われている。田中英光「オリンポスの果実」(1940)にもハンサムという語がみえる。おそらく昭和初期のモガ・モボの時代にまでさかのぼるかもしれない。しかしハンサムが一般化するのは戦後からだろうか。池部良、鶴田浩二、根上淳らスーツの似合う若手スターが典型であった。昭和30年代になると、新東宝が日活ダイヤモンドラインに対抗して、長身の若手俳優、菅原文太、吉田輝雄、寺島達夫、高宮敬二の4人をハンサム・タワーズと称して売り出した。かつてハンサムと呼ばれた男性たちもすっかり白髪の老人である。
「げだい」とは「外題」、つまり本の背表紙をいつもながめて商売している者は、内容はまったく知らないが、知ったかぶりの学者きどりであるという皮肉が込められている。貸本屋はいまは少なくなったが、図書館の司書とて、すべての本を読んでいるわけではあるまい。むしろ知ったかぶりでもいい。本のタイトルと著者と装丁を知っているだけましである。では「外題」だけ記す。
木内高音「建設列車」
藤森成吉「ピオの話」
石井桃子「ノンちゃん雲に乗る」
平塚武二「太陽よりも月よりも」
国分一太郎「すこし昔の話」
竹山道雄「ビルマの竪琴」
筒井敬介「コルプス先生汽車に乗る」
猪野省三「希望の百円札」
太田博也「ポリコの町」
北畠八穂「ジロープーチン日記」
青木茂「三太武勇伝」
岡本良雄「ラクダイ横丁」
壺井栄「柿の木のある家」
塚原健二郎「風船は空に」
壺井栄「母のない子と子のない母と」
与田準一「五十一番目のザボン」
壺井栄「二十四の瞳」
阿部知二「新聞小僧」
佐藤義美「あるいた雪だるま」
打木村治「生きている山脈」
北畠八穂「あくたれ童子ポコ」
住井すゑ「夜あけ朝あけ」
国分一太郎「鉄の町の少年」
太田博也「風くるま」
片山昌造「あかつきの子ら」
国分一太郎「リンゴ畑の四日間」
いぬいとみこ「ながいながいペンギンの話」
石井桃子「山のトムさん」
石森延男「コタンの口笛」
新田次郎「風の中の瞳」
今井誉次郎「たぬき学校」
平野威馬雄「レミは生きている」
大蔵宏之「戦争っ子」
佐藤暁「だれも知らない小さな国」
いぬいとみこ「木かげの家の小人たち」
塚原健二郎「風と花の輪」
柴田道子「谷間の底から」
斎藤了一「荒野の魂」
山中恒「赤毛のポチ」
松谷みよ子「龍の子太郎」
鈴木実他「山が泣いている」
早船ちよ「キューポラのある街」
古田足日「ぬすまれた町」
いぬいとみこ「北極のムーシカ・ミーシカ」
吉田とし「少年の海」
香山美子「あり子の記」
那須田稔「ぼくらの出航」
中川李枝子「いやいやえん」
山口勇子他「つるのとぶ日」
庄野英二「星の牧場」
早乙女勝元「火の瞳」
稲垣昌子「アマおばさんはネコがすき」
長崎源之助「あほうの星」
いぬいとみこ「うみねこの空」
今西祐行「肥後の石工」
古田足日「宿題ひきうけ株式会社」
山中恒「青い目のバンチョウ」
那須田稔「白カバと少女」
長崎源之助「ヒョコタンの山羊」
前川康夫「ヤン」
フローベル(1821-1880)とモーパッサン(1850-1893)はともにノルマンジーの出身である。フローベルは1842年にパリに出て、「感情教育」「ボヴァリー夫人」「サランボー」などで知られる作家となった。文学志望の青年モーパッサンがパリに出たのは1871年のこと。モーパッサンはフローベルを師と仰ぎ、日曜日ごとにフローベルの指導を受ける。完璧な芸術至上主義者であったフローベルはモーパッサンに文学への尊敬の念と小説の技術を根気よく教えた。このような師弟関係は文学史上においてきわめて稀である。当時フローベルのサロンにはツルゲーネフ、ゴンクール兄弟、ドーデ、ゾラなどもいた。フローベルは「脂肪の塊」の校正刷に眼を通して、「これは巨匠の傑作だ」といって褒め、本が出てからもこれを読み返して「こういう作品を4、5編書けば、君も一人前になるだろう」といった。モーパッサンの作家人生は10数年と短かったが、流行作家としては成功した。1891年ごろから発狂し、1893年に没した。(Flaubert,Maupassant)
20世紀の最も偉大な画家の一人であるアンリ・マティス(1869-1954)の生涯において、重要な出来事のひとつは、1904年サントロペで夏の休暇を過ごした際、近くの別荘にきていた新印象派の大家、ポール・シニャック(1863-1935)とアンリ・エドモン・クロス(1856-1910)に出会ったことである。彼らに影響されて、マティスのパレットは一段と明るく鮮やかになった。翌年の夏はコリウールに滞在し、そこで初めてフォーヴィスム風の作品が生れた。シニャックに比べ、クロスの名前はそれほど知られていないが、マティスの明るい純粋色を用いた色彩感覚はクロスから深い影響を受けている。クロスはスーラの新印象派とフォーヴィスムとの架け橋となったのである。(Henri Matisse,Henri Edmond Cross)
平清盛と源義朝は、ほぼ同世代の武士だったが、2人の前半生は対照的だった。清盛は武士として初めて昇殿を許された忠盛の子として、中央政界で昇殿を重ねる。一方の義朝は、官位を持たないまま東国に下向し、勢力を扶植する。だが平治の乱に敗れた源義朝は、数人の家来と共に野間(愛知県美浜町)に逃れる。家来の鎌田正清の舅、長田忠致の居館に身を寄せるが、忠致・景致父子は裏切り義朝を風呂場で殺害する。最期は2つの説があり、だまし討ちを察した義朝は正清に自らを斬らせる(大河ドラマ「平清盛」)。一般には風呂場で乱闘のうえ斬り死にした最期がよく知られている。義朝の郎党、渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)は、忠致を討とうとしたが、敵が多くてかなわず、都へ逃げ帰った。のち土佐坊昌俊と名乗って鎌倉幕府創立に尽くしたといわれる。
20世紀はオートメーションに代表される技術革新によって、テクノロジーの時代を出現させた。しかしまたガンジーとチャップリン、2人の現代文明への批判、とくに機械の否定も歴史に記録すべきであろう。ガンジーの「ヒンドゥ・スワラジ」(1909年)から引用する。
「機械はヨーロッパを荒廃させかけている。イギリスはいまや破滅の寸前にある。機械は近代文明の主要な象徴であり、重大な罪悪を意味する」
しかし、ガンジーが機械文明を一切否定することは、21世紀の現在はもちろん、20世紀初頭においても、珍奇な意見とみられていた。あるときガンジーは、文豪タゴールのたてたヴィシュヴァバラティ大学の学生ラマチャンドランと、つぎのような対話を行なった。
ラマチャンドラン「あなたは主義として、いっさいの機械に反対されるのか」
ガンジー「そんなことがどうしてありえようか。自分の肉体が特別に精巧につくられた機械以外のなにものでもないことをわたしは知っている。手紡ぎ車も機械だ。わたしは機械そのものと闘っているのではない。機械は労働を節約する、という考えかたのなかにある狂信と闘っているのだ。たしかに、数千にのぼる人々が仕事もなく、街頭で飢え死にするほど(労働は節約されている)。わたしは、人間の一部のみに仕事や生活の安定をもたらすのではなく、すべての人にもたらしたいものである。わたしはただの少数の者が、すべてを犠牲にしたうえで繁栄するようなことを望まない。現在は、一部の少数者が大衆の搾取によって生活することを機械は助けている。この少数者の行為は、人道や人間愛ではなくて、貪欲と欲望である。わたしは全力をあげてこれと闘いたい」機械を否定するときのその語気の激しさは、後年、ガンジーが原子爆弾に対して行なった、まっこうからの挑戦のなかに見られる激しさに通じるものがある。
ガンジーは1931年9月、ロンドンで開かれたインドの憲法制定に関する第2回英・印円卓会議に出席したとき、喜劇王チャップリンと会見したことがある。二人の話題が機械のことに及んだ。「失業者をだすような機械の罪悪に反対しているのであって、機械そのものを否定しているのではない」というガンジーの言葉は、チャップリンを非常に感動させた。後年この感動から、映画「モダン・タイムス」(1938年)に、人間と機械の対立を描いたという。
ガンジーは1948年1月30日、ニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義者によって暗殺された。3発のピストルの弾丸が撃ち込まれたとき、ガンジーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作であった。(参考:「世界の名著63 ガンジー ネルー」)
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ジョヴァンニ・ボッカチオ(1313-1375)の「ボッカチオ」は近代小説のさきがけとなったルネサンス文学の代表的作品だが、現代ではもはやポルノとして扱えない古典文学であるため、名のみ有名で誰も読まない本の一冊だろう。肉体の喜びを謳歌する点もさることながら、聖職者の偽善的生活を諷刺したため、16世紀にはローマの教皇庁の禁書目録に加えられている。作者のボッカチオ自身は放蕩で淫乱な人生を過ごし、女性遍歴もさぞかし多いことを期待したいが、「デカメロン」を執筆後、意外に禁欲な人生を歩んだ。世間の非難から、これまでの奔放な生活を恥じ、ついに小説を書くことをやめて、ダンテの研究に過ごした。敬愛するペトラルカから評価が得られなかったことが原因ともいわれる。ペトラルカの遺言には、金50フィオリーニを親友ボッカチオに贈るとある。ボッカチオも師のあとを追うように翌年に亡くなっている。
今年もあと50日余りになった。デパートではクリスマスケーキの予約受付が始まった。今年の流行語はなんだろう。お笑いのギャグや流行語は大流行しても、死語になることが多い。14年前にパイレーツが胸の谷間を強調して、ポーズで「だっちゅーの」が流行ったが2年ともたなかった。
2012年流行語大賞にノミネートされそうな言葉をあつめる。オスプレイ、iPS細胞、RSウィルス、東京スカイツリー、金環日食、なう、スマホ、街コン、承知しました、どうするぅ、ニホンカワウソ、無縁老人、原発賠償、電力ビジネス、ヒッグス粒子、尖閣竹島、排他的経済水域、優浜、中二病、いじめゼロ宣言、豪雪、ネットボール、4メッツウォーキング、牛レバ刺し、国民の生活が第一、あのひと買い、おうち外食、フットサル、ズッ友(ずっと友達の略語)、バカッター、ナマポ、コンプガチャ、塩麹(しおこうじ)、タトゥータイツ、サイバー攻撃、忘れられる権利、反日デモ、ドラム缶死体遺棄、第3極、週末起業、不認可、復興デパートメント、イクジイ、霊長類最強女子、ナマポ、東京ソラマチ、うどん県、キラキラネーム、ステマ、サンディ、あげぽよ、ワイルドだろぉ~?、てへぺろ、いい感じ。オッケ~、きゃりーぱみゅぱみゅ。「近いうち」「あすへの責任」「失望の3年」「康介さんを手ぶらで帰えすわけにはいかなかった」「これまでに経験したことのないような大雨」。宇野常寛の著書「ゼロ年代の想像力」から2000年から2010年の間を「ゼロ年代」と呼ぶことが流行っている。
流行語大賞は野田首相の「近いうち」が最有力。だが中日の高木守道監督の「何とか一泡吹かせたいね」もいい。通常、勝負の世界で弱いほうが使うので禁句のはず。あえて劣勢を認めて、選手に平常心でのぞませ、リラックスさせる心理的効果を狙った作戦は流石だ。CS 第4戦巨人澤村は6回を無失点に抑えシリーズの流れを変えた。お立ち台で「やったぜ」と絶叫。ストレートな表現がナインを奮い立たせた。
志賀直哉は、明治35年、学習院中等科卒業の際に落第し、原級(6年)に留まることとなった。しかし一人個人の出来事が近代日本文学史に大きな意味をもつ。落ちたクラスには武者小路実篤がいたからだ。これはまことに幸せな出会いであった。志賀は「武者小路実篤全集」(昭和25年)に次のような一文を書いている。
武者との交わりはもう3年経てば半世紀になる。武者と私とは随分違った性質もあり、こまごました点では寧ろ反対なことが多いが、会って、一番心に近く感じ、別れて後まで愉しい気持を残してくれるのは矢張り武者小路である。(中略)唯、異った性質は互にはっきり分っていて、そういう事では決して干渉し合わないが、私は芸術の上でも武者からよきものを摂取して来たと感じている。(中略)私は私の人生で、武者という人間に出会わなかった場合を想像する事は出来ない。
武者小路実篤も「志賀直哉のこと」(昭和40年9月)という一文で、晩年の二人の友情を示す面白いエピソードを披露している。
志賀はまた親切で、よく気がつき、気がついたことはぼくより実行力がある。ぼくはいろいろのことを考えて、いろいろのことをしたが、万事他人任せで、一切気にならない質だが、志賀の方はわりに気になる。自分がいいと思うものがあるとぼくにすすめてくれる。去年ぼくのところに電話をかけて来て、カラーテレビを手に入れたから見に来ないか、同じものがもう一ついい条件で手に入るから、よかったら世話すると言うのだ。僕はカラーテレビは前からほしいと思っていたので、ほしく思ったが、いろいろの理由で金がいる時なので、ちょっと考えていたが、志賀が親切に言ってくれるので見に行って、気に入ったが、条件がいくらいいと言っても米国出来の最優品らしいので少し考えさせられていたら、志賀はぼくに気にいったことがわかると、ただでくれるというのだ。話がうますぎるが、相手が志賀なのでただで喜んでもらった。ところがオリンピックの直前に故障が出来て、他ではなおせないので、志賀に相談し、志賀から買った所に話してもらった。オリンピックの直前でぼくはあきらめていたら、オリンピックの前日に完全になおってとどけてもらったのにぼくは感心した。志賀がやかましく言ってくれたのでまにあったのだと言うことはぼくにはわかりすぎていた。おかげでオリンピックの入場式を孫達と一緒に見ることが出来た。志賀はもちろん恩にきせるようなことは一言も言わないし、ぼくも別にお礼を言う必要は認めなかったが、感謝はした。
志賀直哉と武者小路実篤との友情秘話というと、何か特別なことを想像するかもしれないが、80歳を過ぎた老人が東京オリンピックをカラーテレビで見て素直に喜んでいる様子は普通の人とかわりがないようにも思える。仲良きことは美しき哉。左画像は志賀直哉と武者小路実篤、甲府から信州方面徒歩旅行(明治39年4月)
宮本武蔵(1584-1645)の伝記は不明なところが多い。生年には、天正12年説(「五輪書」)と天正10年説(「宮本系図」)の二説がある。また生地についても、美作説、現在の岡山県英田郡大原町説(「宮本村古事帳」)と播磨説(「五輪書」)など諸説ある。また父についても新免無二斎という、十手の達人と伝えるが詳らかでない。幼少から剣を好み、13歳のとき新当流の有馬善兵衛に勝ったのをはじめ、28から29歳ごろまで諸国を歴遊して60回も勝負し無敗であったという。なかでも剣の名門・吉岡清十郎を倒して京で高名を成した。奈良では槍術の名人・覚禅坊胤栄、一心流鎖鎌の開祖・宍戸梅軒と対戦した。しかし、最も名高い勝負は佐々木小次郎との対決であろう。
佐々木小次郎の伝記も明らかではないが、諸書によれば、生まれは越前、幼少より剣を好み、中条流富田勢源、あるいは勢源の弟子・鐘巻自斎の門に学んだ。のち諸国を歴遊し、いわゆる燕返しの秘剣を案出し、ついに一流を立して巖流を呼称、小倉藩主細川忠興に仕えた。
こうして宮本武蔵と佐々木小次郎の試合は、慶長17年4月13日、辰の上刻(午前7時)と決められた。場所は小倉の沖合い4キロ程の海上にある船島。ところが武蔵の小船が船島に着いたのは、約束の時間から遅れること、3時間後、巳の刻(午前10時)のことである。島には細川家の手で厳重な警固がしてある。武蔵は洲崎で舟をとどめると着ていた綿入れを脱ぎ、刀は舟に残して脇差のみを差し、裳を高くからげ、木刀を提げて、素足で舟から降りた。それから波打際を進んで行くとき帯に挟んだ手拭を取って鉢巻にした。佐々木小次郎は備前長光三尺余の長刀を帯びて待ちつかれた態であったが、武蔵の姿を見ると憤然として、「「我は刻限を守って来るに汝は約を違えること甚だし。さては気おくれ致したるか」と大声に呼ばれるが武蔵は聞えぬふりをしている。小次郎はますます怒って、刀を抜いて鞘を海中に投げ捨てると、武蔵は「小次郎、敗れたり」と叫んだ。「何っ」「勝つ身であれば、何故鞘を捨てるか」と。小次郎は怒髪天を衝いて、「黙れっ」、長刀を振りかぶり、武蔵は八双に構えた。
すると武蔵は、潮を蹴りながら砂地へ駆け上がる。小次郎も波打ち際の線に沿ってその姿を追う。二人の足が止まった。長い間、二人は同じ姿勢のまま、ただ呼吸し合っている。そして小次郎の足が、じりじりと武蔵に小刻みに寄って行く。間隔も詰めながら武蔵の隙を狙っていた。その足が止まった時、突如武蔵の櫂の木刀が跳ね上がって、武蔵の身体が宙へ飛び上がった。小次郎の剣が武蔵を追って宙を斬る。同時に武蔵の木刀が小次郎の頭に振り下ろされていた。武蔵が鉢巻にしていた柿色の手拭いが二つに切れて落ちる。しかし小次郎の頭蓋は木刀で微塵に砕かれていた。武蔵は木刀を提げながら倒れた小次郎を見つめていたが、やがて、また振り上げて打とうとする時、小次郎は伏しながら刀を横に払った。武蔵の袷の膝の上に垂れたところ三寸ばかりが切り裂かれた。一方、武蔵の払った木刀で小次郎はあばら骨をくだかれ鼻口から血を吐いて死んだ。武蔵は木刀を捨て、手を小次郎の口鼻にかざして顔を寄せて死活をうかがったのち、遥かに検使に向かって一礼し、木刀をとり、素早く舟に飛び乗った。帰りの海は引き潮になっていた。流れに乗った伝馬舟は矢のように走り、みるみるうちに彦島の岬にかくれてしまった。武蔵が帰途を急いだのは、島かげのあちこちに潜んでいる小次郎の門弟たちの襲撃を警戒したのだと伝えられている。
碑文には「岩流、三尺ノ白刃ヲ手ニシテ術ヲ尽スニ、武蔵、木刃ノ一撃ヲ以テ殺ス。電光ナホ遅シ、俗、後ニ舟島ヲ改メテ岩流島ト謂フ」
武蔵が生命を賭して試合をしたのは巌流島が最後である。以後は62歳で熊本に没するまで、ついに殺戮の闘争をしなかったという。
近江八景は日本を代表する名所として古くから知られているが、いつ成立したものか明らかではなかった。この度、京都大学の鍛治宏介は江戸初期の近藤信尹(1565-1614)が琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み、それが公家たちの間に広まって知られるようになったと説いている。これまで信尹説は随筆「閑田耕筆」(1803年刊)にも記されていることから、裏付けされ明白となったわけである。
The progress of an artist is a continual self-sacrifice,a continual extinction of personality.(芸術家の進歩とは絶えざる自己犠牲であり、不断の個性の消滅なのである。 T.S.エリオット)
トマス・エリオットは1888年ミズーリ州セントルイスに生まれる。1927年イギリスに帰化しイギリス国教会に入信。「荒地」(1929)などの初期の詩や「伝統と個人の才能」を含む処女評論集「聖なる森」(1920)によって、新鮮な一種の純粋詩論を実践して現代イギリス詩の先達となったが、改宗の前後からキリスト教的世界観をふまえた詩観を展開、「四つの四重奏」(1945)に究極する詩のほかに「一族再会」(1939)以下の特異な詩劇を書き、また「異神を求めて」(1934)、「キリスト教社会の理念」(1939)などに見られる文芸、社会批評を生んだ。彼の特徴は各著作が広範な全活動の一面となる有機的関連性をもつことであり、その影響は多様な形で今日にまで及んでいる。(Thomas Stearns Eliot)
山村暮鳥(1884-1924)は、牧師をしながら詩や短歌を作り、自由詩社に参加。大正2年処女詩集「三人の処女」を出版。大正4年「聖三稜玻璃」を出す。大正7年「風は草木にささやいた」は発想・表現ともに明朗・平明になり、これによって民衆詩派の詩人といわれた。牧師をやめ人生と自然に順応する生活の中から「雲」(没後の大正14年に刊行)の詩風が生まれた。
*
雲
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめている
*
おなじく
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐木平の方までゆくんか
*
風景 純銀もざいく
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな。
・
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな。
・
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
*
友におくる詩
何も言うことはありません
よく生きなさい
つよく
つよく
そして働くことです
石工が石を割るように
左官が壁をぬるように
それでいい
手や足を動かしなさい
しっかりと働きなさい
それが人間の美しさです
仕事はあなたにあなたの欲する一切のものを与えましょう
サンフレッチェ広島vsアルビレックス新潟。イギリス人のスティーブン・ウォルシュは日本のサッカー・チーム名につねづね不思議に思っている。どうしてあんな名前をつけたのだろうかと。もちろんその名の由来、毛利元就の3本の矢の教えや白鳥座の美しい星アルビレオからきているということは聞かされている。しかしその語源が明らかなると、ただただ滑稽に感じるという。やはり日本人の外来語(カタカナ語)のセンスの問題であろう。おおくの日本人にとっては意味不明であり、摩訶不思議な響きはむしろ心地よく聞こえるのかもしれない。だが言葉は意味がはっきりしていることが重要である。意味不明の造語は、もしチームが国際試合に出場したとき、気どっているととられるのはまだしもよいほうで、趣味が悪いと首をひねられるのが落ちである。
「ゆりかご」は「cradle」。「あやとり」は「cat's cradle」(猫のゆりかご)
「ゆりかごを揺らす手」(1992年)というスリラー映画があった。ことわざ「the hand that rocks the cradle rules the world」(ゆりかごを動かす手が世界を支配する)に因む。
blunder 大失敗
brick れんが
detox 解毒
draft すきま風
folly 愚行
hide-and-seek かくれんぼ
infamous 悪名の高い
nightmare 悪夢
pedestrian 歩行者
petroleum 石油
push and shove game 押し競饅頭
life span 寿命
miser けちんぼう
monitor 学級委員
morning glory 朝顔
snore いびき
starve 飢える
tutor 家庭教師
red light,green light だるまさんがころんだ
yawn あくび
thistle あざみ
smbarrassing 恥ずかしさ
ハン・スーインがスイス・ローザンヌの自宅で死去した。享年95歳という。 テレビで秋川雅史が歌う「慕情」を聴いて、ふとキリスト教と関係があるのかと感じた。これまで何百回となく聞いたメロディーなのに一度もそんなことは思わなかった。日本語歌詞がテロップで流れる。
4月のバラが早春になによりもふさわしいように、恋とは自然の恵み。生命の生き甲斐の一つの理由。黄金の冠は1人の男を、いともたやすく1人の王様へと変える
「黄金の冠」「王様にする」というフレーズは意味不明であろう。作詞はポール・フランシス・ウェブスターだが、原詩は「A Many-splendored Thig」というフランシス・トムスン(1859-1907)の詩「神の御国」からとっている。中国人とイギリス人の混血である女医ハン・スーイン(1917-2012)の自伝的小説「多くの輝きをもつもの」が原作だが、歌劇「蝶々夫人」にも一脈通じる、美しい悲しい恋物語。映画主題曲でこんなにポピュラーな曲もめずらしいが、愛のすばらしさ、喜びが最も素直に表現されている。人間のすばらしいところの一つは、愛する能力があることです。愛の喜びの賛歌でもある。
white lie.白い嘘。善意の、または、居留守を使うなど、罪のない嘘。事を円満に運ぶための手段として、実害のない嘘を言わねばならぬ場合もあるという意味で、日本語の「嘘も方便」に通ずるものがある。
なぜ日本4は年中行事が諸外国に見られないほどたくさんあるのだろう。除夜の鐘、鏡開きや初午、冬至、追儺、桃の節句、端午の節句、七夕、盆踊りなど1年を通じてさまざまな行事が全国各地にある。これは、日本が季節の変化に富んでいること、感受性がゆたかな国民性を持っていることが、行事を生んだ背景にあります。なかでも大きな要因は、日本が農業国であるということです。そこに古来の信仰心や中国からの伝承が加わり、日本独自の年中行事を作り上げました。
ちゃくだのまつりごと。平安時代に、盗犯・私鋳銭などの罪を犯した者に鈦(鉗、つまり囚人を連繋する道具)をつけさせて、獄に送る儀式で、818年に初めて行われたといわれる。毎年5月と12月に日を選んで行なった。当日は衛門佐以下が居並ぶなかで、看督長が囚人の罪状を衛門佐に示したのち、左右獄の囚人をひきつれて来、そして衛門佐が看督長に命じて鈦をつけさせて獄に送らせるのである。罪によっては決杖して原免したり、服罪しない者を拷問することもあった。行政の儀礼化の一例である。鎌倉時代からは、有名無実となり、京都の見世物的な年中行事となった。
丿貫(へちかん)は村野紹鷗の門下の茶人で、山科に居を構え、数々の奇行をもって知られた。薮内竹心の「源流茶話」によれば「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかわらず、器軸を持たず、一向自適を趣とす」と書かれており、作法や高額な茶器にとられない清貧の侘び茶を追求していた。千利休と交流を持ち、共に茶道を競い合う仲だったが、権力者と付き合いすぎる利休を嘆いていた。北野大茶会で丿貫は朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、注目を集めた。
招かれて
師は立ち給ふ
お話を聴く
影と影とは
啜りなく
日本アルプスすべりたる
光の海に師の影ゆらぎて
たそがれの心にしみる
秋の涙…
(三石勝五郎『散華楽』より「秋の涙」)
三石勝五郎(1888-1976)は長野県青沼村に生まれ、大正2年、早稲田大学英文学科を卒業。釜山日報の記者を務めた。京都の一燈園で托鉢修行のあと、放浪する。詩にある師というのは、一燈園主の西田天香のことである。
三石の人となりを知る有名なエピソードがある。早稲田大学を主席で卒業し、答辞の中で、「どんなに勉強した人でも、カラスのカアカアと鳴く、声の意味は分からない」と述べ、当時の早稲田生の度肝を抜いた逸話が残されている。著書に「散華楽」(大正12年)、「火山灰」(大正13年)、「佐久の歌」(昭和17年)
ケンタッキー州はアメリカ合衆国中部南東寄りに位置する。アパラチア山地の西では最も早く開け、1748年にトーマス・ウォーカーが開拓を行い、続いてダニエル・ブーンがケンタッキー川に沿ったブーンズボロを建設した。もちろんその前に、インディアンがたくさん住んでいた。ケンタッキーという地名は、インディアン語のケンタケ(牧草地、平原)が語源。1776年ヴァージニア州の1郡となり、1792年に州となった。南北戦争では北部のリンカーン、南部のデーヴィス両大統領がケンタッキーの出身で、州は中立を守り、州民は両軍に分かれて参戦した。
ケンタッキー州の別名、ブールグラスとは学名ナガハグサというヨーロッパ原産の牧草のことである。この牧草は、レキシントンを中心にこの州でよく育ち、馬や牛がとくに好む。このためケンタッキー州は馬の飼育地として有名である。毎年、ルイビルで行われるケンタッキー・ダービーは、1875年から開催されている。このほかケンタッキー・バーボンとして有名な、バーボン・ウィスキーの材料となるトウモロコシも産出される。リンカーン大統領の父親がケンタッキー州からインディアナ州へ移るとき、彼は20樽のバーボンウィスキーと現金20ドルをもって行った、といわれる。
しかし今日ケンタッキーといえば、カーネル・サンダースのケンタッキー・フライドチキンが最も有名であろう。ハーランド・デーヴィッド・サンダース(1890-1980)は、1930年9月、ケンタッキー州のコービンで、ガソリンスタンドの一角を借りて客席わずか6つの小さな食堂を始めた。「もし美味しくなかったらお代はいりません」という自信と、お客一人ひとりと会話を交わすもとなしから食堂は繁盛する。だが高速道路の開通で客が激減、そこでフランドチキンをワゴン車で巡回販売した。これがケンタッキー・フライドチキンの始まりである。日本進出は万博年の昭和45年、名古屋でオープン。店頭に置かれたカーネル・サンダース像は典型的な「南部の紳士」を象徴する白いスーツを着用している。(Kentucky)
三千院は、最澄が比叡山の開削に際して、東塔南谷の梨の大木の下に住房を置いて、一念三千院または円融房と称せられたのに発祥する。(788年)その後、第4世の叡南大師(承雲)が、清和天皇の勅願によって東坂本の梶井に大殿を建てて、円融房の里房としたので「梨下」の法流の拠点となった。ところが、堀河天皇の第2皇子最雲法親王が12世に豪の嗣資となって梶井に入室され、1130年に14世の法主となられたので、円融房は自づから宮門跡の格に列し、且つ、1156年に大原の魚山一帯に在った大原寺(来迎院、勝林院等の総称)を兼管せらるる事になり、今の三千院となっているところに円融房の政所が置かれた。それが今、三千院が大原にある原因である。
大原に梶井門跡の政所が置かれたとは言え、それは門跡の本拠ではなく、法親王等の門跡が常住せられた訳でもないので、唯だ、大原には、梶井門跡の別院的な、或は山荘的な存在があるというだけのことで、明治維新までの700有余年は過ぎてきたのである。
したがって、1156年に建礼門院が大原に隠棲されても、その翌年に法然上人が勝林院に来て念仏仏義を問答しても、東坂本梶井にある門跡には直接の関係はなかった。また、護良親王(尊雲)が梶井の門主として31世になられても、大原へ入住せられた訳ではなく、梶井門跡の本拠は1330年までは東坂本に、その後は、紫野や白河等等と転移しただけであり、徳川時代(1698年以降)には加茂河畔の河原町に広大な境域を御殿として御所的に堂々と営まれていたのである。河原町御車小路の梶井御殿は、1871年に、50世昌仁親王の復帰と共に梨本宮家となってしまったので、大原の政所を梶井法流(梨本流)の本拠とすることとなり、政所に充てていた龍神院(今の客殿)を本坊とし、直轄していた極楽院を加え、寺号も改めて三千院(霊元天皇の勅語に因んで)と公称することとなり、門跡の格を保って今日に及んでいる。以上は、昭和45年頃発行の参拝しおり「三千院門跡略記」による。
馬祖が弟子の百丈と歩いていると野原から野鴨の一群が飛び立って去っていった。それを見た馬祖が、百丈に尋ねた。「あれは何だ」「野鴨です」「どこへ飛んでいったのか」「わかりません。ただ飛んでいったみたいです」答えを聞いた馬祖は、いきなり百丈の鼻を強くつまみあげた。思わず、百丈は叫んだ。「痛いっ!」すると、馬祖はいった。「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」百丈は、我に返り、大いに悟った。
さて、俗人の身としては、百丈がなぜ鼻をつままれたのか知りたいであろう。馬祖は、飛び去った鴨を漫然として見てしまっている百丈に「お前の心はどこにあるのか」と厳しく指摘したかったのだ。事象を眺めるとき、それを自分自身の心がどう捉え、どうかかわっているのか、自らの心のありかと、究明と飛躍を求めたのである。
百丈(正しくは「はじょう」と読む)は、江西省の百丈山に住した中唐の大智覚照懐海禅師(749-814)である。百丈懐海はそれまで各寺院において、それぞれ習慣法的に行なわれてきた規則を、普遍的な一般規則として統合して成文化した。これを「古清規」(のち散逸し、序文しか現存せず)という。その後これは時と所に応じて適宜に取捨し改変しながら用い、中国と日本の禅宗寺院ではほぼこの「百丈清規」にのっとって各種の規則と儀式を運用する。日本では室町時代にこれを覆刻した五山版が出版された。大正大蔵経48巻に収められているのもこれである。
英語で 「学校をさぼる」は、
play hooky from school
日本語の「さぼる」の語源は?もともとはフランス語の「サボタージュ」を略して、ラ行五段活用語尾を付けた造語。外来語に語尾「る」を付けて動詞化することは、ダブる、トラブる、ミスる、ハモる、アジる、ググる、バグる、など多くの例がある。
「サボタージュ」とはフランスの労働者がサボ(sabot 木靴)で機械を破壊したことが語源。怠業。日本で最初に使われたのは、大正8年、川崎造船所の賃上げ要求の総怠業で、当時の大阪朝日新聞の記者、本多雪堂が社説の中でその言葉を使っている。
(参考:村嶋帰之「サボタージュ 川崎造船所怠業の真相」大正9年)
本日も cataloging
近代支那における宗教結社の研究 伊藤斌 東亜研究所 1944
近代支那の学芸 今関天彭 民友社 1931
近代支那の政治及文化 矢野仁一 イデア書院 1923
近代支那文化 和田清等編 光風館 1943
近代支那文化思想運動史 何幹之 日本青年外交協会出版部
近代支那民族運動史 中国現代史研究委員会編 石川正義訳 生活社 1940
近代支那論 矢野仁一 弘文堂 1923
近代主義に挑戦する中国 片山巌編 恒文社 1971
金代女真の研究 三上次男 日満文化協会 1937
金代政治制度の研究 金史研究2 三上次男 中央公論美術出版部
1970
近代西蔵史研究 矢野仁一 雄山閣 1930
近代西蔵史研究 ほか3篇 東洋史講座14 矢野仁一ほか 雄山閣 1935
近代中国 中国の歴史8 佐伯有一 講談社 1975
近代中国絵画 鶴田武良 角川書店 1974
近代中国外交史研究 坂野正高 岩波書店 1970
近代中国革命史 今永清二 弘文堂 1970
近代中国関係欧文図書目録 東洋文庫近代中国研究委員会編 東洋文庫 1975
近代中国関係文献目録 1945~1978 近代中国関係文献目録刊行委員会編 中央公論美術出版部 1980
近代中国関係文献目録彙編 近代中国研究委員会編 東洋文庫油印本 1961
近代中国教育史資料 清末編 多賀秋五郎編 日本学術振興会 1972
近代中国教育史資料 民国編 上中下 多賀秋五郎編 日本学術振興会 1975
近代中国教育史資料 人民中国編 多賀秋五郎編 日本学術振興会 1976
近代中国研究 仁井田陞等 好学社 1948
近代中国研究 1 2 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1958
近代中国研究 3 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1959
近代中国研究 4 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1960
近代中国研究 5 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1963
近代中国研究 6 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1964
近代中国研究 7 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1966
近代中国研究入門 坂野正高、田中正俊、衛藤瀋吉編 東京大学出版会 1974
近代中国史 文庫クセジュ ジョルジュ・デュバルビエ 後藤富男、白鳥芳郎訳 白水社 1955
近代中国史 紀伊国屋新書 蔵居良造 紀伊国屋書店 1965
近代中国思想 藤原定 思潮社 1948
近代中国社会史研究序説 中村哲夫 法律文化社 1984
近代中国人物研究 山田辰雄編 慶応通信 1989
近代中国政治外交史 坂野正高 東京大学出版会 1973
近代中国政治史研究 東大社会科学研究叢書26 衛藤瀋吉 東京大学出版会 1968
近代中国政治思想論 藤谷博 晃洋書房 1989
近代中国とイギリス 百瀬弘、沼田苗丙雄 蛍雪書院 1940
近代中国都市地図集成 地図資料編纂会編 柏書房 1986
近代中国と日本 北山康夫 法律文化社 1958
近代中国における宗教の足跡 W.T.チャン著 福井重雅訳 金花舎 1974
近代中国における女性解放の思想と行動 中山義弘 北九州中国書店 1983
近代中国における民衆運動とその思想 里井彦七郎 東京大学出版会 1972
近代中国・日中関係図書目録 市古宙三編 汲古書院 1979
近代中国のあゆみ 青木新書 米沢秀夫 青木書店 1972
近代中国の革命思想と日本 湯志鈞著 雅児野道子訳 日本経済評論社 1986
近代中国の苦力と「猪花」 可児弘明 岩波書店 1979
近代中国農村社会史研究・付租覆(影印) 東洋史学論集8 東京教育大学東洋史研究室 大安書店 1967
近代中国の国際的契機 朝貢貿易システムと近代アジア 浜下武志 東京大学出版会 1990
近代中国の思想世界 「新青年」の群像 野村浩一 岩波書店 1990
近代中国の書 附・中国遊記 松井如流 二玄社 1960
近代中国の政治と思想 野村浩一 筑摩書房 1964
近代中国の政治と社会 市古宙三 東京大学出版会 1971
近代中国の思想と文学 東京大学文学部中国文学研究室 大安 1967
近代中国の社会と経済 仁井田陞 刀江書院 1951
近代中国の社会と民衆文化 日中共同研究・華北農村社会調査資料集 佐々木衛編 東方書店 1992
近代中国の対日観 山口一郎 アジア経済研究所 1969
近代中国の地主制 祖覈の研究訳注 鈴木智夫 汲古書院 1977
近代百年史 川上忠雄 高文堂出版 1979
近代中国文学運動の研究 秋吉久紀夫 九州大学出版会 1979
近代東北人民革命運動史 旧民主主義革命時期 中国科学院吉林省分院歴史研究所編 大安 1966
近代東北人民革命運動史 汲古書院 1970
近代における中国と日本 新文化選書 北山康夫 法律文化社 1958
近代日支鮮関係の研究 田保橋潔 原書房 1979
近代日中関係史研究論文目録 1946年~1989年 塚瀬進 龍渓書舎 1991
近代日中関係史の諸問題 河村一夫 南窓社 1983
近代日中関係資料 1~10 加藤祐三編 龍渓書舎 1975
近代日中関係資料 小島麗逸編 龍渓書舎 1976
近代日中関係史文献目録 山根幸夫編 東京女子大東洋史研究室 1979
近代日中交渉史の研究 佐藤三郎 吉川弘文館 1984
近代日中交渉史話 実藤恵秀 春秋社 1973
近代日中政治交渉史 歴史選書30 渡辺龍策 雄山閣出版 1978
近代日中民衆交流外史 渡辺龍策 雄山閣出版 1981
近代日本外国関係史 田保橋潔 刀江書院 1943
近代日本とアジア 文化の交流と摩擦 国際関係論のフロンティア2 平野健一郎編 東京大学出版会 1984
近代日本と中国 上下 朝日選書 竹内好、橋川文三編 朝日新聞社 1974
近代日本と中国 日中関係史論集 安藤彦太郎編 汲古書院 1989
近代日本と東洋史学 五井直弘 青木書店 1976
近代日本における対満洲投資の研究 金子文夫 近藤出版社 1991
近代日本の中国語教育 六角恒広 淡路書房新社 1961
近代日本の中国語教育 六角恒広 不二出版 1984
近代日本と東アジア 年報・近代日本研究2・1980 近代日本研究会編 山川出版会 1980
近代日本の中国認識 アジアへの航跡 野村浩一 研文出版 1981
近代日本の東アジア認識 レグルス文庫 河原宏 第三文明社 1976
近代日本綿業と中国 歴史学選書 高村直助 東京大学出版会 1982
近代日本を創った百人 上下 大河内一男、大宅壮一監修 毎日新聞社 1965~1966
近代の中国 中学生歴史文庫 世界史11 北山康夫 福村書店 1950
近代東アジア世界の形成 東アジア世界の形成2 藤間生大 春秋社 1977
近代仏教界の人間像 常光浩然 世界仏教協会 1962
近代文学における中国と日本 共同研究・日中文学関係史 伊藤虎丸、祖父江昭二、丸山昇編 汲古書院 1986
近代蒙古研究 矢野仁一 弘文堂 1925
近代露支関係の研究 沿黒龍江地方之部 宮崎正義 満鉄会社 1922
近代露清関係史 世界史研究双書 吉田金一 近藤出版社 1974
昭和10年3月、当時26歳の太宰治は、東京帝大の卒業は絶望的であり、都新聞社の就職も失敗した。単身鎌倉に行き、鎌倉山で縊死を図るが、未遂に終わる。4月、篠原病院で急性盲腸炎の手術後、腹膜炎を併発し重態に陥る。入院中、パビナールを射ち、漸次習慣化する。昭和11年には、パビナール中毒治療のため、済生会芝病院に入院、10日ほどで全治せぬまま退院する。10月パビナール中毒治療のため武蔵野病院に入院する。入院中に妻初代、姦通事件を起こす。11月、中毒を根絶して退院する。昭和12年3月、初代の過失を知り、水上温泉で夫婦のカルモチン心中を図るが未遂に終わる。6月、初代と離別する。初代は青森の実家へ帰り、太宰は単身で井伏鱒二の家の近くの鎌滝方に止宿することになった。
太宰治は、「昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟」(「富嶽百景」)で旅に出た。甲州御坂峠の天下茶屋に滞在中の井伏鱒二から勧誘されたからである。井伏を通じて縁談があった。9月石原美知子と見合いする。11月には石原家で酒入れ式(婚約披露)を行う。昭和14年1月、東京の井伏家で結婚式を挙げ、その日のうちに甲府市御崎町の新居に入る。9月、甲府を引払い、東京布北多摩郡三鷹村下連雀130番地に移転、ここが終の栖となる。「富嶽百景」「女生徒」、書下し創作集「愛と美について」を発表する。
富士五湖の一つ河口湖をはるかに見下ろす地点にある御坂峠の天下茶屋。ここからの富士の眺めは天下一品と称される。太宰は、それまでのデカダンな生活から抜け出して、思いを新たにする覚悟で、初秋の天下茶屋にやってきた。バスの中を描写した「富嶽百景」の最後に有名な「富士には、月見草がよく似合う」がでてくる。
フォーティファイドワイン(酒精強化ワイン)ブドウ果汁を発酵させている途中でブランデー等を添加したもの。ワイン全体のアルコール度を高め、味にコクをもたらせるとともにワイン自体の保存性を高めたもの。食後に飲む。フォーティファイドとは「強化した」という意味。代表的なワインは、ポルトガルのポートワイン、マデイラ、スペインのシェリーなどが有名。
ワインは、その他、スティルワイン(非発泡性ワイン)、スパークリングワイン(発泡性ワイン)、フレーヴァードワイン(アロマダイズドワイン、混成ワイン)の4種類に製造法で分けることができる。(Hartly & Gibson,Fortified Wine,Still Wine,Sparkling Wine,Flavored Wine)
11月6日に行われるアメリカ大統領選挙は激戦が今も続いており、どちらが大統領になるかは最後まで、不透明な状態である。だがハリケーン被災地支援でオバマの支持率がアップしたという。日本では小浜市の「おばまガールズ」が緊張のうちに状況を見守っている。ところでカリブ海に浮かぶ小さな国アンティグア・バーブーダの人々も同じように戸惑いながら大統領選挙をみている。ここのアンティグア島にある山はもともとボギー山という名前だったが、2009年8月4日米国オバマ大統領の誕生日に、なんとオバマ山という名称に正式に改称した。「おばまガール」「オバマ山」といった肖(あやか)り名はもしオバマ落選したらどうするのだろうか。(Mount Obama,Antigua and Batbuda)
ローマ法王ベネディクト16世はシスティーナ礼拝堂天井画完成500周年記念式典を執り行った。システィーナ礼拝堂は、1473年に、ジョヴァンニーナ・デ・トルチによって、教皇シクストス4世のために造られた。シクストス4世は、この地、テーヴェレ河にシスト橋をかけ、ヴァチカン図書館を大規模に拡大した。この礼拝堂には、この教皇の名前が付いており、この礼拝堂に枢機卿が集まり、教皇選挙を行う。1508年ミケランジェロ・ブォナローティ(1475-1564)は教皇ユリウス2世からシスティーナ礼拝堂の天井画を依頼される。システィーナ礼拝堂はユリウス2世の伯父シクストゥス4世によって建造されたもので、壁面にはモーセとキリストの生涯を描いた15世紀のフレスコ画があったが、天井は伝統的な星で飾られた青のままであった。7月には足場が築かれて、騒音と破片について文句をいっていた枢機卿たちは平穏のうちに勤めを行うことができるようになった。数週間後、5人の若い助手たちがローマに到着したが、礼拝堂の扉が封鎖されているのを見て事情を察し、フィレンツェに戻ってしまった。結局、ミケランジェロがほとんど1人で、4年の歳月をかけて天井画を描いた。完成した天井が1512年10月31日に公開された。「この作品が公開されたとき、ミケランジェロのつくった天井画を見ようと世界中から人々がやってきた。そして、確かにそれは驚嘆のあまり言葉も出ないような作品だった」とヴァザーリは記録している。(Michlagelo Buonsrroti,Cappella Sistina)
BSやCSで野球を見ていると、何度も同じコマーシャルを見せられると、うんざりするとき、ありますね。
「over and over=repeatedly」(繰り返して、何度も)を使って表現します。
Oh,no.They keep showing that same commercial over and over.
何度も同じコマーシャル流さないでよ
I tried over and over agin,but it didn't work.
何度もやってみたがうまくいかなかった
He does things over and over again until he is completely satisfied.
彼は自分の納得のいくまで何度でもやり直す
昭和61年11月1日の早朝、和歌山市毛見の浜の宮海岸を散歩中の老人が黒い煙が出ているのを発見した。傍らに寄ってみると、異臭をあげて黒焦げになっている人間の遺体だった。遺体は7人で、すべて女性である。各自遺書がしたためられており、真理の友教会の信者による集団自決であった。事件の前日、教祖である宮本清治(享年62歳)が肝硬変のため死亡したため、女性信者7人が海岸で灯油をかぶって後追い自殺を図ったものと思われる。教祖の宮本清治は元国鉄職員で、昭和51年頃に紀三井寺の観音像の前で座禅して悟りをひらき「真理(みち)の友教会」を創設したという。しかしその教義はキリスト教に近く、宗教法人登録の申請には、主神をエホバとしている。宮本宅では「神の花嫁」と呼ばれる女性信者たちと8人による集団生活を営んでいた。新興宗教にありがちな付近住民とのトラブルもなく、教団はいたって平穏であった。事件後、教祖を失った真理の友教会は自然消滅した。
石原慎太郎と五木寛之はともに昭和7年9月30日の生まれ。田中将大と福原愛はともに昭和63年11月1日の生まれである。生年月日がまったく同じの著名人たちを集める。
ビートたけしと衣笠祥雄(1947年1月18日)
森山良子と笑福亭鶴光(1948年1月18日)
関根勤と円広志(1953年8月21日)
西城秀樹と上沼恵美子(1955年4月13日)
ジミー大西と増田明美(1964年1月1日)
香川照之と尾美としのり(1965年12月7日)
原田知世と蓮舫(1967年11月28日)
内山理名と片瀬那奈(1981年11月7日)
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