イン・ザ・ニア・フュチャー
「近いうち」という言葉が流行しているが、英語で言うと「before lon(まもなく)」「someday(いつか)」「soon(すぐに)」「sometime soon (そのうちすぐに)」といった表現がある。
Ⅰ hope to see you again in the near future.
近いうちにまた会えるといいですね
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「近いうち」という言葉が流行しているが、英語で言うと「before lon(まもなく)」「someday(いつか)」「soon(すぐに)」「sometime soon (そのうちすぐに)」といった表現がある。
Ⅰ hope to see you again in the near future.
近いうちにまた会えるといいですね
米大統領とローマ皇帝はよく似ているといわれる。現在、米大統領は世界最強の権力者で、絶大な力を持つが、決して無敵の存在ではない。なぜなら、議会と国民の支持を必要とする。古代ローマの皇帝も同様である。帝政ローマの初期の称号はプリンケプスといった。「市民のなかの第一人者」という意味である。元老院という議会と、ローマ市民の支持がなければ存在できない。聖書のなかにダニエル書がある。「四つの巨大な獣が海から上って来る」という夢をみた。それらの獣は世界強国を表わしている。四番目の獣はローマ帝国をさすが、さらに成長を続け、いまでは英米世界強国を意味している。ローマ皇帝に必要にものは金と雄弁と剣である。オバマ対ロムニー、勝敗を左右するのがクリエンテス(クライアント)であることはローマのむかしから変わりない。(Princeps,Clientes)
よく眠れた
Yes,Ⅰ slept very well.
うん、よく眠れた
No,Ⅰ couldn't fall asleep.
いや、眠れなかった
Ⅰ had a nightmare.
怖い夢をみた
You were snoring last night.
昨晩いびきをかいてたよ
Did Ⅰ keep you up?
君、寝られなかった?
My husband snores loadly.
夫は大きないびきをかく
You were swaing logs last night.
「saw logs」で「丸太をのこぎりでひく」だが、「いびきをかく」の意味で使われることがある。
sleep apnea 睡眠中無呼吸症
snore いびき
nightmare 悪夢
昭和天皇が記者から、どんな番組をご覧になられますか、と質問されたとき、色々見てるけど放送局に配慮されて、何を見ているかは言わないよ、と言って記者たちを爆笑させたことがある。しかし昭和天皇がテレビで相撲観戦をすることは有名であるし、「水戸黄門」から「プレイガール」までなんでも見ていたようである。(河出人物読本)
秋の園遊会では加藤みどりが「陛下はアニメをご覧になりますか?」と逆質問された。5秒ほど沈黙し、「少し」という会話があった。あとで皇太子や秋篠宮が家族で見ていますと話された。つまり皇室は公共放送しか見ないというような堅苦しい家風ではないということだけは判明した。
皇族にとってテレビとはいちばん庶民や世相がわかるツールである。昭和天皇から3代、開放的な家庭の雰囲気は伝統ともいえる。皇太子が若い頃、庶民派アイドル柏原芳恵(大阪西成出身)のファンであったし、ニューヨークに行ったときブルック・シールズの写真集を買ったことも話題になった。あまり堅苦しくない家風が国民になごみを与えた。後白河天皇が今様歌を好まれたというDNAがあるのだろうか。
神戸市と光州市が芸術・文化で交流するというニュースで、NHKは光州を「クワンジュ」と発音・表記していた。韓国の都市名は「仁川」「扶余」「慶州」「春川」と漢字で表記する慣習があった。Gwangjeouと音訳すると、全羅南道に広州市があり、「クワンジュ」と音訳では区別できない。Wikipediaでは「クァンジュ」と表記しおり、過去には「コワンチュ」と表記された時期もある。神戸新聞などでは「光州」と漢字表記されている。
京畿道・・・水原(スウォン)、利川(イチョン)、広州
江原道・・・春川(チュンチョン)、江陵(カンヌン)
忠清南道・・・大田(テジョン)、扶余(プヨ)、蔚山(ウルサン)
全羅北道・・・全州(チョンジュ)、南原(ナムウォン)
全羅南道・・・光州、木浦(モクポ)、麗水(ヨス)
慶尚北道・・・安東(アンドン)、慶州(キョンジュ)、大邱(テグ)
済州道・・・西帰浦(ソギポ)
松坂大輔は昭和55年の生まれ。この年、甲子園で活躍した早稲田実業1年生投手・荒木大輔にあやかって命名された名である。プロ野球には、大輔の名をもつ選手が多くいる。だが同姓同名となると、思いもよらぬ不幸が待っていることがある。昭和46年5月、平凡な会社員だった大久保清という名前の青年は、いつもと同じように朝刊をみた。トップに連続婦女暴行犯がつかまるとある。犯人の名前を見て驚く。自分と同姓同名の大久保清である。彼の人生はこの日を境に一変した。会社へ行けば同僚たちかにからかわれ、営業先で名刺を出すと、先方はたいへんに驚く。大久保清はかなり平凡な名前だったので全国に同姓同名のかたはかなりおられただろう。その後の人生がどうだったのかはいまだ話せる歳月ではなさそうだ。大久保清は1976年1月22日に死刑になった。没後36年が経つが、名前が風化するにはどれくらいの歳月を要するのか誰にもわからない。
ワンマン宰相といわれた吉田茂(1878-1967)にも、同姓同名の政治家で吉田茂(1885-1954)がいた。戦前、厚生大臣、軍需大臣をしている。ある日、間違ってお祝いの品が届いた。人の物をあけるとは何事だとトラブルとなった。2人は、生ものなど送り返す時間がないものは、届けられたほうが喰ってもよいという約束を交わした。流石に政治家である。
同姓同名で薬剤師に薬を取り間違えられたという話をきくことがある。また最近、歴史の本を調べていたら、村上春樹の「平将門」という本が出版されていることを知った。あの「海辺のカフカ」の作家が時代小説を書いたのかと思ったが、同名異人で国文学者の村上春樹(1937年生まれ)である。作家の村上春樹(1949年生まれ)よりも先輩であるし、出身大学も同じ。文句はいえないだろう。渡部二郎といえば、ふつうプロボクサーを思いうかべるが、東京大学教授に渡邊二郎(1931-2008)がいる。ハイデッガーの研究で著名な人である。映画監督の黒澤明(1910-1998)とロス・プリモスの黒沢明(1934-2009)。黒龍会の創始者、内田良平(1874-1937)と悪役俳優の内田良平(1924-1984)。詩人の島田陽子(1929-2011)と女優。佐藤愛子は作家とアイドルribbonの歌手。江川卓が怪物として高校野球で騒がれたとき、NHKロシア語講座の江川卓(1927-2001)がいた。著名なロシア語翻訳者は「えがわたく」と読み、筆名だった。 日本十進分類法の考案者としてしられる森清(1906-1990)にも同姓同名がたくさんおられた。愛媛県の政治家、森清(1925-2008)、千葉県の政治家、森清(1905-1968)、そして写真家の森清(1970年生れ)。自殺した漫画家とタレントの山田花子。イラストレーターの和田誠と音楽評論家の和田誠。ゴルファーの丸山茂樹(1969年生れ)とアーティストの丸山茂樹(1982年生れ)。宇宙飛行士アラン・シェパード(1923-1993)とオートバイレーサーのアラン・シェパード(1935-2007)。「おくろさん」の森進一より、古代ギリシア哲学の森進一(1922-2005)京都大学教授がいる。森泰三の筆名で小説も書き、3度も芥川賞候補にあがっている。
産経新聞「トルコ成長への玄関口 日系企業進出ラッシュ」(2012年7月28日付)の中で「首都イスタンブール」と誤記してあったそうだ。もちろんトルコの首都はアンカラ。痛い校正ミス。イスタンブールの語源は諸説あるが、「エイス・テン・ボリ」(ギリシャ語で「その町へ」の意味)をトルコ人が聞き知って、そこから「イスタンブール」と名付けられたといわれる。
日本の場合は、東京が政治・経済の中心だが、アメリカは、ワシントンが政治、ニューヨークが経済の中心と機能分散がなされている。ブラジルはブラジリアが政治、サンパウロが経済の中心。中国は北京が政治、上海は経済の中心。オーストラリアはキャンベラが政治、シドニーが経済の中心。カナダはオタワが政治、トロント、モントリオール、ハンクーバーが経済の中心。
1923年のこの日、トルコ共和国が成立。ムスタファ・ケマル・アタテュルクが初代大統領に就任。(Ankara,Istanbul,Mustafa Kemal Ataturk)
最近、何度目かの大奥ブームが到来している。かつての名和宏や成田三樹夫が将軍さまのエロい大奥物ではない。将軍役が柴咲コウ、菅野美穂、多部未華子と女優が演じている。つまり男女逆転した大奥で繰り広げられる愛憎劇。少女コミックが原作なので期待はずれの感ある御仁も多いだろう。「エロ将軍と二十一人の愛妾」や「徳川の女帝」といった昭和の本格派大奥が懐かしい。
1902年の秋、セオドア・ルーズヴェルトは熊狩りにでかけたが、獲物をしとめることができなかった。そこで同行していたハンターが小熊を追いつめて最後の一発を大統領に頼んだが、「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。このことが新聞に掲載され、翌年バーモント州の玩具メーカーが熊のぬいぐるみにルーズヴェルトの愛称である「テディ」と名づけて販売したところ、ブームとなり、この名前が広まったという。
セオドア・ルーズヴェルトは国の発展期に示したリーダー・シップとカウボーイ的な男らしさで、現在でも国民に人気が高い大統領である。大統領の肩書きのほか、軍人、歴史家、狩猟家、探検家、自然主義者の顔を併せ持つ。日露戦争の停戦を仲介し、その功績でノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞を受賞した初のアメリカ人である。(Theodore Roosevelt)
加納鷲雄(1839-1903)、本名・加納道之助は文久3年10月、篠原泰之進らと尊攘思想の実践のため新選組に加盟上洛する。伊東甲子太郎らとともに、孝明天皇の御陵衛士を拝命して、高台寺月真院に本拠を構える。慶応3年11月、七条油小路において新選組と乱闘、辛くも脱出し、中村半次郎(桐野利秋)を頼って薩摩藩の庇護下に入る。翌月18日には、伏見街道藤森神社付近で近藤勇を要撃、銃傷を負わせる。慶応4年4月、下総流山で投降した大久保大和こと近藤勇を看取する。その後、薩摩軍に属して野州並びに奥州に転戦する。会津並びに仙台において、降伏人の調査役を勤めた。明治4年には加納通広と改名し、開拓使となって札幌に赴く。明治10年の西南戦争には黒田清隆を助けて出兵、かつて新選組に追われてあわやの窮地を救ってくれた桐野利秋を敵に廻すことになった。明治15年には農商務省に転じ、19年には民間会社に移って明治35年10月27日、麻布の自宅で亡くなっている。加納鷲雄は幕末の動乱期を裏切りの連続で成功者となった稀有な例ではあるが、今日、新選組隊士一員としての彼の名を記憶する人はあるまい。
コロンブス交換とは、1492年ののち発生した東半球と西半球の間の植物、動物、食物、奴隷を含む人々など甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いる言葉で、アメリカの歴史学者アルフレッド・クロスビーが1972年に唱えた。コロンブスの新大陸発見の結果、トウモロコシとジャガイモとは18世紀のユーラシア大陸できわめて重要な作物となり、ピーナッツとキャッサバは、東南アジアや西アフリカで栽培されるようになるなど、世界の生態系、農業、文化の歴史において重要な出来事となった。
また多くの感染症も交換されることになった。コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペストなどが旧大陸から新大陸へもたせされた。免疫をもたなかった先住民はこれらの伝染病によって人口が激減した。一方アメリカ大陸より旧大陸にもたらされた感染症には、シャーガス病、梅毒、イチゴ腫、黄熱がある。(Columbian Exchange,Alfred Worcester Crosby)
福澤諭吉(1835-1901)の「心訓七則」という7ヵ条の教えが、世の中によく知られているが、実は偽作とされている。最後にある「世の中で一番悲しい事はうそをつく事です」というのはジョークであろうか。「徳川家康公遺訓」(人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず)なども偽作と見るのが通説である。「少年老い易く学成り難し」で知られる「偶成詩」も朱熹(1342-1406)ではなく、五山の僧侶、観中中諦(1342-1406)の作であるらしい。100年以上も日本人は朱熹の漢詩と信じて暗誦してきたのである。ドイツの宰相ビスマルクが言ったとされる「賢者は歴史から学び、愚者は自分(経験)から学ぶ」もビジネスマン向きの研修などに引用されるが偽作の疑いがある。寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやってくる」も典拠不明の名言である。
バッキーやバース、オマリーといった実績を残した外国人選手もいるが、期待はずれだった助っ人も多い。スタントンは三振が多くて「打タントン」といわれた。次のボウクレアと合わせて、「スカタンにボンクラ」などと呼ばれた。ボーグルソンは速球投手だったが、6回もたず降板することが多かった。ところがメジャーでいま大活躍しているという。むかしフィルダーが阪神在籍のときダメだったが、メジャーで活躍したことを思い出した。スカウトの眼力が大事だ。
CSでたまたま「ベストキッド4」(1994)を観た。空手の達人ミヤギ(ノリユキ・パッド・モリタ)が弟子を育てるストーリーは同じだが、今回は女子高生ヒラリー・スワンク(当時20歳)。彼女は30歳までに2回アカデミー主演女優賞を手に入れた。彼女の映画を見るのは初めてで名前も初めて覚えた。「ベストキッド」は空手で、「ミリオンダラー・ベイビー」はボクサーと肉体派の女優。ドレスを着るとフェミニンな雰囲気もあるが、顔立ちはゴッ苦しい。「コワい顔美女」系でシガニー・ウィーヴァーのような感じ。ゼロ年代に2度もオスカーを取った女優はほかになく、もっと名前が知られてもいいとおもうのだが、アンジェリーナ・ジョリーやミラ・ジョヴォヴィッチに比べ日本での知名度は低い。雑誌「SCREEN」の附録「スター名鑑」にその名前が載るようになったのは、なんと2度目のオスカー女優となってからである。それ以前から「ベストキッド4」「ビバリーヒルズ青春白書」にも出演していたというのに、日本ではブレイクしなかった。やはり外国女優の場合、日本人好みの顔立ちというのがあるのだろうか。(Hilary Swank)
「人間は2度生まれる」「人には2回の誕生がある。一つは、世に現れた誕生、一つは生活に入る誕生である」(エミール) ルソーによると、人間とともに生まれ、人間の生きている間、けっして彼を去らない唯一の情欲は自愛心である。したがって、子供はまず自分自身を愛することしか知らない。そしてその結果として、彼は自分の存在に役だつものを愛するようになる。たとえば、子供はかならずまず乳母を愛する。しかし、それは自愛から派生するもので、対象への愛とは関係がない。少年時代の他者との関係は、すべて彼と物との関係で、少年が自己を知るのは物質的な生活を通してのみである。
しかし、人間は孤立した存在ではないし、もともと、孤独にたえるほど強くはないから、欲望の発達が力の発達を追いこす頃になると、自分と同胞との関係を意識しなければならなくなる。その時から、人間ははじめて道徳生活に入り、男は男となり、女は女となるのだ。だから、「性に関係のないすべてにおいて、女は男だ」ということになる。
このほかルソーには名言が多いが出典のわからない言葉もある。むかし草柳大蔵が「日本の名門高校ベスト100公立高校編」の巻頭で次のような言葉を引用している。
「今では失われて聞くことのできない言葉でも必ず生きているものです。それに気がつけば現代の問題の解決の緒口になるのです」
この言葉の出処をあれこれ調べてみたがわからなかった。含蓄ある名言だが、草柳大蔵の創作かもしれない。(Jean Jacques Rousseau)
「砂漠の女ディリー」という本のあとがきに「雨あがりの砂漠に奇蹟のように咲く黄色い花、ワリス」という記述がある。ワリス(Waris)とはどんな花か?
図書館ではさまざまな植物図鑑などを調べたがわからなかった。「砂漠の女ディリー」の著者ワリス・ディリーはソマリアで生まれ、FGM(女性性器切除)という蛮行を受け、砂漠をさまよい、ボンド・ガール、スーパーモデルとなった著名人の自伝。最近、「デザート・フラワー」という映画も作られた。つまり「ワリス」とは花の名前ではなく、彼女を「砂漠に咲く花」と形容したものではないだろうか。黄色い花ということは、おそらくヒマワリではないだろうか。ヒマワリを持ったワリスの写真がある。(Waris Dirie)
赤穂四十七士のひとり、木村岡右衛門貞行(1658-1703)は浪々のうちにも学問に熱心であり、文才をうたわれた。漢詩を作り、これを兜頭巾の裏につけて、吉良邸に攻め入り、奮戦した。討入りに際しての詩「野詩一絶を綴りて以て其志を述ぶ」が残っている。
身浮雲に寄す滄海の東
久しく恩義を愆世塵の中
花を看 月に対し無窮の恨み
散じて暁天草木の風と作らん
(室鳩巣「赤穂義士録」)
「ノボケイン」(01)という奇妙なタイトルの映画。身に覚えのない麻酔密売や殺人容疑で、警察に追われるハメになるエリート歯科医(スティーヴ・マーティン)のコメディタッチのサスペンス。「私は好奇心の強い女」(1967)スウェーデン映画。ヴィルゴット・シューマン監督。アメリカでのポルノ解禁のきっかけとなった作品。「ケロッグ博士」(94)コーンフレークの発明者でもある博士が経営する健康センターに集まる人々を描く。アンソニー・ホプキンス。「ポワソン」(01)アントニオ・バンデラス、アンジェリーナ・ジョリー。「マリー・アントワネットの首飾り」(01)フランス革命前夜、王妃マリー・アントワネットの人気を失墜させる一因になった事件をもとにしたドラマ。ヒラリー・スワンク。「ドライビング・ミス・デイジー」(89)はアカデミー作品賞。ジェシカ・タンディー。「幸せの教室」(11)はジュリア・ロバーツとトム・ハンクス。(Novocaine,Larry Crowne)
うそ寒の裏戸閉じて夕支度 井田満津子
「うそ寒」広辞苑には「秋になって初めておぼえる寒さ。秋寒」とある。歳時記には「なくとなく、うそうそと寒いことをいう。うそは薄(うす)の訛りで、うすら寒く心の落ちつかない感じである。
かつて栃木といえば「♪小山ゆうえんち~」だったが2005年に閉園。マスコットゆうきとキララとどこへ消えたのか。いま栃木といえば「イチゴ・かんぴょう・大島優子」が三大名物だそうだ。しかしここに栃木弁でしゃべる漫才・U字工事でさかんに栃木をPRし観光ツーリズムに貢献している。益子卓郎が山中教授に激似とネットでは評判だ。関西在住のケペルは、栃木と群馬と茨城との位置関係すらわからない。宇都宮ぎょうざ祭り、佐野厄除け大師、しもつけかんぴょうまつり、二荒山神社、東照宮、華厳の滝、中禅寺湖、益子陶器市、コジマ、丸和、カメラ用交換レンズ。栃木県出身の有名人。小田茜、船村徹、森昌子、落合恵子、大島弓子、山口智子、ガッツ石松、澤村拓一。古いところでは栃木山、ピストン堀口。
巨人中日第4戦は沢村拓一と川上憲伸の先発だった。沢村の力投により巨人が一矢むくいた。不思議におもうのだが、アナウンサーは沢村は姓だけで呼ぶが、川上はいつも川上憲伸とフルネームで呼んでいる。そういえば高橋由伸もタカハシヨシノブ、あるいはヨシノブの名だけで呼ぶこともある。単なる習慣なのだろうが、名前というのは興味がつきない。西武ライオンズ「おかわり君」中村は「中村剛也」だがナカムラタケヤとフルネームであまり呼ばない。大江戸捜査網の中村竹弥を思いうかべるからだろうか。
ちなみに山本昌も「ヤマモトマサ」とは変な名前で、本名は山本昌広である。最初にチームに同姓がいたので区別するため「山本昌」と登録したので、そまま続いている。むかし大洋に「近藤昭」「近藤和」「島田源」と中途名前の選手がたくさんいた。
山中伸弥は自宅の洗濯機が故障し、修理中にノーベル賞の受賞の連絡を受けた。これを聞いた田中真紀子文科相は、閣僚懇談会で「山中教授に洗濯機を寄付しよう」と提案した。その場では全員賛成したが、閣僚の寄付行為は法律に抵触する恐れがあるとして話は進んでいない。
ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、重力に関する最初の発見がうかんだ。スペンサー博士は、軍事用レーダーを開発中、「ポケットに入れてあるチョコレートが柔らかくなっている」ことから電子レンジの原理がうかんできた。アルキメデスは風呂に入ると湯があふれるのを見て「エウレカ!」と叫んで、全裸で疾走したといわれる。
いかなる人物も常に事物と運命的な関わりを持つ。
アメリア・ジェンクス・ブルーマーとブルマ
アンリ・デュナンと国際赤十字
アルフレッド・ノーベルとダイナマイト
エドモンド・カートライトと力織機
エルヴィン・ロンメルと戦車
エルノー・ルービックとルービックキューブ
サン・テグジュペリと飛行機
ジェームズ・ディーンと愛車ポルシェ・スパイダー
ジークムント・フロイトと夢
ジュール・レオタールとレオタード
ジョージ・ワシントンと桜の木
ジョン・スピルズベリとジグソーパズル
ジョン・ペンバートンとコカ・コーラ
セオドア・ルーズベルトとテディ・ベア
ディオゲネスと樽
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーとバレエ
ヒュー・へフナーとプレイボーイ
フィンセント・ファン・ゴッホとヒマワリ
マリー・ジャコブとブラジャー
ヤコブ・フッセルとアイスクリーム
ロバート・バーカーとパノラマ
ルイ・アームストロングとトランペット
今朝の朝の露ひやびやと秋草や
すべて幽けき寂滅の光
伊藤左千夫の晩年の一首。「朝の庭に、ぬれた秋草のさまも、すべて冬枯れ前の寂光のつつまれていることだ。」 「今朝の朝」は重言(「あとで後悔」「いちばん最後」などの類)ではなく、万葉的な語法である。
1992年の日本。内閣総理大臣は宮沢喜一、衆議院議長は桜内義雄。社会党委員長は田辺誠。東京佐川急便の金丸信への5億円政治献金事件。PKO協力法案が成立。ソ連崩壊、ロシア大統領にエリツィン。宇宙飛行士の毛利衛が米スペースシャトル「エンデバー」打ち上げ成功。アメリカ留学中の服部剛丈「フリーズ」誤射殺。学校週5日制スタート。100歳の双子姉妹「きんさんぎんさん」。映画「シコふんじゃった」「ミンボーの女」。若者の熱帯魚ブーム。カード地獄。ドラマ「ずっとあなたが好きだった」佐野史郎が超マザコンの演技「蝶の標本集め」冬彦現象。プロ野球は西武ライオンズがヤクルトを破り日本一。甲子園、松井秀喜に5打席敬遠にブーイング。イチローはプロ1年目で24安打を放つ。金本知憲はゼロ安打スタート。今給黎教子、女子単独ヨット世界一周。アルベールヴィル冬期五輪、伊藤みどりが銀メダル。バルセロナ五輪、女子平泳ぎで14歳の岩崎恭子が金メダル、マラソン森下広一、有森裕子が銀メダル。尾崎豊が死亡。Dreams Come True「晴れたらいいね」、米米CLUB「君がいるだけで」レコード大賞。チェッカーズ解散。歌手の小金沢クン。ほめ殺し。ナタデココ。コンニャク畑。ツインピークス。もつ鍋。長谷川町子に「国民栄誉賞」。貴花田と宮沢りえが婚約。フランスのシラク大統領から祝電がきたそうだ。
「婚活」という言葉は社会学者・山田昌弘が2007年「AERA」で使った造語である。いまや少子化を反映して、合コン、婚活ブームがおこり、若者たちの間で「必ず結婚しなければならない」や「結婚しなければ孤独死が待っている」と不安にさせ、ビジネス展開を図っている。そのためストレスを感じ、「婚圧」という新語すらできた。はたして人はみな、結婚して子どもを産むことが義務づけられているだろうか。また家系を絶やさないようにすることが立派なことだろうか。テレビでは「家族に乾杯」が放送され、家族との絆が美化されている。生涯独身を恥や悲嘆の原因とみなす考えは間違いだ。結婚しなければ幸福でないというのはウソである。独身には結婚よりも数々の利点がある。皮肉なことにそれは結婚したものだけがわかる。
「人生劇場」の尾崎士郎が西尾市出身。阿部夏丸「泣けない魚たち」は昭和40年代の矢作川が舞台。清水義範、諏訪哲史、大沢在昌、城山三郎、山口洋子、連城三紀彦、二葉亭四迷、井沢元彦、辻真先、山田正紀ら名古屋出身。平野啓一郎、宮城谷昌光は蒲郡市。中村文則は東海市。小栗風葉、新美南吉は半田市。堀田あけみはあま市。松岡圭祐は稲沢市。木藤亜也は豊橋市の出身。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」室生犀星にとって故郷金沢は魂を傷つけずにおかない土地であった。しかし犀星の文学というと先ず金沢を思い浮かべる。「性に目覚める頃」「幼年時代」「杏っ子」。泉鏡花、徳田秋声、桐生夏生、唯川恵と金沢出身の作家は多い。石川県を扱った作品には高橋治「風の盆恋歌」、三島由紀夫「美しい星」、松本清張「ゼロの焦点」、唯川恵「病む月」など。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」。小説の舞台は書かれていないがトンネルがあることから、すぐに越後湯沢であるということになってしまった。新潟にはこの「雪国」のほか名作といわれる文学の舞台は少ない。司馬遼太郎の「峠」ぐらいである。藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」、佐藤亜紀「戦争の法」。
ほとんどの作家は原稿が売れるようになるまで、さまざまな職歴を経て独立している。最近は何らかの文学賞を受賞をして有名になるケースが多いのであまりユニークな経歴のある人は少なくなったように思う。俵万智や綿矢りさが有名になっても、どこかお嬢様ぽいところがある。戦後の作家のほとんどはサラリーマンが多い。村上春樹のジャズ喫茶経営などユニークなほうだろう。大江健三郎なども学生作家だったので、あまり実社会での経験などはないのに、よく物事を深くみつめることができると感心する。大江や村上らは異才であり、とても凡人にはできないことだ。若い綿矢りさにできるか心配だ。車谷長吉や浅田次郎は人生経験が豊富なだけに作家としては安定しているだろう。むかしの文士・作家は経済的な裏づけはなくみな貧乏だった。伊藤左千夫は牛乳搾取取業として、毎日18時間労働を続けた。吉川英治は横浜ドック会社の船具工として働いていたが、作業中に転落して入院した。これが転機となって苦学しながら作家への道をすすむ。江戸川乱歩は古本屋の店員、山本周五郎は質屋の店員だった。池波正太郎は都職員でDDTを散布していた。井上光晴は炭鉱夫、椎名麟三は車掌、深沢七郎は日劇ミュージックホールでギターを弾いていた。変わったところでは清岡卓行はプロ野球の日本野球連盟の社員として大リーグを研究したり、昭和39年までセ・リーグのペナントレース日程を編成していた。野坂昭如はCM ソングの作詞家として活躍したことがある。ハトヤ、ハウスバーモントカレー、パルナスの歌など。 林芙美子や平林たい子らは、下足番、女工、事務員、女給などさまざまな職業を経験している。幸田露伴の娘、幸田文は断筆宣言して柳橋の芸者置屋に住み込みで働き、そのときの経験をもとに「流れる」を書いた。脚本家向田邦子は雄鶏社の編集員。中園ミホは占い師。
19歳で芥川賞を受賞し、早稲田大学を卒業してそのまま専業作家になった綿矢りさ。これからも長い作家活動をするわけだが、なに不自由のない暮らしで書斎とパソコンに向いはたしてリアルな小説が書けるだろうか。瀬戸内晴美は出家という方法を選んだ。これはもっともベストの選択だけどできないだろう。綿矢りさちゃんにも、女流文学の先輩に倣い幸田文のように断筆宣言して、就職してはどうだろうか。芸者置屋はあまりないので、自衛隊もしくは海上保安庁、あるいは身近な消防署など体をはってはたらく職場なんてどうか。たしか三島由紀夫や開高健も体験的に入隊したと思う。
石坂洋次郎は横手の女学校での教師生活の体験を生かした青春小説「青い山脈」「山と川のある町」などを著わしている。熊谷達也「邂逅の森」はマタギの青年の物語。小林多喜二「母」、高井有一「北の町」、伊藤永之介「警察日記」、塩野米松「ペーパーノーチラス」「芝棟の家」、石川達三「私ひとりの私」。
「たしかに北海道には稔りの秋という感じがある。・・・生産的で充実していて忙しくて、ぴちぴちしていて健康で若々しくて、なにか新鮮である」風巻景次郎(1902-1960)は随筆「北海道の秋」で書いている。
北海道を舞台とした文学作品は多い。むかしは「文学散歩」とか「文学地図」とかいっていたが、最近、ご当地ソング、ご当地グルメという表現から「ご当地文学」という軽い表現もありとなっている。
国木田独歩、石川啄木や有島武郎の有名な作品もあるが、現代文学にも目をむけてみる。三浦綾子「氷点」「塩狩峠」、渡辺淳一「阿寒に果つ」「氷紋」、川村たかし「新十津川物語」、浅田次郎「鉄道員」、辻仁成「海峡の光」、長嶋有「猛スピードで母は」、恩田陸「麦の海に沈む果実」、川上健一「雨鱒の川」、佐江衆一「北の海明け」。古い作品では、小林多喜二「蟹工船」、葉山嘉樹「海に生くる人々」、原田康子「挽歌」、武田泰淳「森と湖のまつり」「石狩平野」、石森延男「コタンの口笛」、石坂洋次郎「若い人」、村上元三「蝦夷日記」、早川三代治「処女地」、木山捷平「斜里の白雪」、本庄睦男「石狩川」。
ばら戦争(1455-1485)は、ランカスター家とヨーク家が王位継承をめぐって争った国内の戦争である。ランカスター家のヘンリー6世が精神の病を得たため、ヨーク公リチャードが王位継承を求めたことに端を発した。セント・オールバンズにおいてヨーク軍がヘンリー6世の軍を破り、ヨーク公リチャードの息子エドワード4世が王位についた。エドワード4世の死後、弟リチャードは2人の王子をロンドン塔に幽閉し、リチャード3世として王位についた。シェークスピアはこの無残なばら戦争のいきさつを「リチャード3世」に著わした。ランカスター家の血をひくヘンリー7世がリチャード3世を、ボズワースで破り、ばら戦争が終結、テューダー朝が始まった。(HenrryⅦ,Wars of Roses,St Albans,Bosworth)
「ひき逃げ」「当て逃げ」という言葉は毎日のように耳にする言葉である。いつから日本で使われるようになったのだろうか。「スガシカオが当て逃げ被害」菅止戈男は著名なミュージシャン。「おれのクルマ、パーキングで当て逃げされた。許さん」とフェースブックにその怒りを書いている。「轢き逃げ・当て逃げの犯意」松鵜潔、「法学新報73」(1966.12)という論文がある。小説では大阪圭吉の「白妖」(1936年)に「自動車の轢逃げなんですがね、それがとても妙なんです。ただの轢逃げ事件じゃアないらしいんです」とある。「ひき逃げ」は1930年代、車時代の到来とともにさかんに生まれたであろう。しかし「当て逃げ」という言葉は戦後かもしれない。最近の国語辞典には「当て逃げ」はあるが、金田一京助の「明解国語辞典」には載っていない。「当て逃げ」は1960年前後から生まれた新語だろうか。
兵庫県は、現在、国産の約90%に当たるマッチが製造されている。そのほとんどが姫路市周辺で生産されている。国内でマッチ製造が始まったのは明治8年。神戸港があることや乾燥した気候などから生産力が集中した。
第一次世界大戦の正確な死亡者数は特定できないが、「新ブリタニカ百科事典」によると、兵士の死亡者数だけでも合計850万人に上る、と推定される。第二次世界大戦はもっと破壊的で、兵士と一般市民の死亡者数は、およそ6000万人と見られている。また世界史には数字を含んだ歴史用語がかなりある。百年戦争、三十年戦争、十字軍、九品中正法、九か国条約、八旗、八王の乱、七年戦争、呉楚七国の乱、戦国の七雄、六朝、五代十国、五胡十六国、五斗米道、春秋の五覇、五・四運動、五賢帝、平和五原則、四大文明、四汗国、四庫大全、四書五経、三頭政治、三顧の礼、三圃制度、三位一体、三民主義、三国干渉、三国志、三角貿易、二月革命、一条鞭法、一神教、三藩の乱、三武一宗の法難、三部会、三民主義、四国借款団、十二イマーム派、十二表法、ブリュメール18日、倭の五王、ロンドン四国条約など。最近の世界史では、六信五行が重要語として取り上げられている。イスラーム教徒に義務として課せられている、6つの信仰と5つの行い。神、天使、啓典(コーラン)、預言者(ムハンマド)、来世、天命が六信。信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼が五行である。
山中伸弥教授のノーベル賞受賞で沸きたつなか、読売新聞は森口尚史が重症の心臓病患者にiPS細胞で治療に成功したと発表した。だがハーバード大学ではこの事実を一切否定。13日読売新聞は一転して、森口の説明は虚偽で、それに基づく一連の記事は誤報と謝罪した。「東大医学部iPS細胞バンク研究室室長」などの肩書は詐称、論文の内容もほとんど捏造であろう。刑法的には特定の被害者がないので問われることはあるまい。ただのインテリのホラ話だったのだ。ケーシー高峰か横山たかしに弟子入りし医事漫談するしか今後の道はない。しどろもどろにホラを吹き、あげくに「すまんのぉ~」と涙ながらにハンカチを握り締めて泣けば、みんな笑うほかない。
1868年、明治天皇が京都御所から江戸城(現在の皇居)に入城されたのをちなみ、この日を「引越しの日」と引越し業界が定めている。
ベートーヴェンは生涯に70回以上引越しをしたといわれるが、葛飾北斎はそれを上回る93回である。江戸の庶民は頻繁に引越しをしたらしい。夏目漱石や谷崎潤一郎といった明治人も生涯幾度となく引越しをしているのも江戸っ子気質のためであろうか。(Beathoven)
なんでもかんでも数えてみよう。
Q大化から平成まで元号はいくつ?
A大化、白雉、朱鳥、大宝から南北両朝の元号を含めて、現在の平成まで246である。
Q徳川15代将軍で名前に「家」がつかない将軍はなん人いるか?
A秀忠、綱吉、吉宗、慶喜の4人。
Q幕末は何年間だった?
Aペリー来航から明治元年まで16年間。
Q「パリ」のようなカタカナ2文字の首都はいくつある?
Aパリ(フランス)、ローマ(イタリア)、リマ(ペルー)、キト(エクアドル)、ロメ(トーゴ)、スバ(フィジー)、マレ(モルディブ)、リガ(ラトビア)、ドーハ(カタール)、バクー(アゼルバイジャン)、ロゾー(ドミニカ)の11ヵ国。
Q大相撲横綱。初代明石志賀之助から日馬富士まで何人?
A70人。
Qローマ法王。ペテロからベネディクトゥス16世まで何人?
A265人。
オリコンは6回目となる「2012年 好きなスポーツ選手ランキング」を発表した。アンケート調査対象は10代から40代の1000名の男女。男子第1位は今年もイチロー4連覇達成。以下、内村航平、北島康介、入江俊介、香川真司、本田圭佑、内田篤人、松井秀喜、高橋大輔、長友祐都。女子の第1位は澤穂希。以下、浅田真央、福原愛、吉田沙織、クルム伊達公子、竹下佳江、田中理恵、松本恵、川澄奈穂美。オリンピック・イヤーとサッカー人気。日本プロ野球は人気が低迷。
ちなみにケペルの少年時代の好きなスポーツ選手は、力道山、若乃花幹士、大鵬、長嶋茂雄、榎本喜八、山中毅、小野喬、猪谷千春、荻村伊智朗、ファイティング原田、田中聡子。
▽「ゴッホ」のようにカタカナ3文字の画家。
▽「ハイドン」のようにカタカナ4文字の音楽家。
▽「サルトル」のようにカタカナ4文字の著述家。
▽「パリ」のようにカタカナ2文字の都市。
答え:画家ピカソ、ピサロ、ムンク、マルケ、モリゾ、ルドン。
音楽家:ヘンデル、スメタナ、ホルスト、カラヤン、サリエリ、ショパン、テレマン。
著述家:ホメロス、ミルトン、バニヤン、スコット、ミュッセ、ワイルド、ベケット、ロンドン、ブレヒト、カロッサ、レマルク、ガルシン、レスコフ、イブセン、キャロル、ランサム、アミチス、ザルテン、ルブラン、シムノン、アシモフ、バロウズ、ヴェルヌ、ウエルズ、ボルヘス、バイロン、コリンズ、ブレイク、テニソン、ブロンテ、パトモア、トムソン、イェイツ。
都市:ボン(ドイツ)、ピサ(イタリア)、リマ(ペルー)、キト(エクアドル)、ロハ(エクアドル)、ロメ(トーゴ)、ゴム(イラン)、モカ(イエメン)、ワリ(ナイジェリア)、ワワ(カナダ)、アバ(ナイジェリア)、イカ(ペルー)、ガザ(パレスチナ)、カノ(ナイジェリア)、ガヤ(インド)、カリ(コロンビア)、サキ(ナイジェリア)、スバ(フィジー)、ソチ(ロシア)、チタ(ロシア)、ナガ(フィリピン)、バル(インドネシア)、ハレ(ドイツ)、ピア(アメリカ)、ビダ(ナイジェリア)、ヒラ(イラク)、プネ(インド)、プリ(インド)、ペト(メキシコ)、ペヤ(コソボ)、マレ(モルディブ)、ミト(ベトナム)、メス(フランス)、ユマ(アメリカ)、ラベ(ギニア)、リガ(ラトビア)、リダ(ベラルーシ)、リノ(アメリカ)、リバ(フィリピン)。
(Paris,Bonn,Pisa,Lima,Quito,Loja,Lome,Mocha,Wari,Wawa,Aba,Ica,Gaza,Kano,Gaya,Cali,Saki,Suva,Sochi,Chita,Naga,Baru,Halle,Pierre,Bida,Hilla,Pune,Puri,Peto,Peja,Male,Me Sor,Metz,Yuma,Labe,Riga,Lida,Reno,Lipa)
ゴムはむかし「コム」と表記されていた。(Qom)
徳川家康が鯛の天ぷらを食べて下痢で亡くなったという話は有名である。天ぷらの語源は室町時代末期に日本に入ってきた外来語の1つとして知られている。だがスペイン語かポルトガル語か諸説ある。スペイン語・イタリア語に「神殿」あるいは「天上の日(鳥獣の肉が禁じられ、魚肉の揚げ物を食べる日」を意味する「templo」から生まれたとする。またポルトガル語で「調理」を意味する「tempero」から生まれたとする説がある。
サッカー・ブラジル代表の愛称はユニフォームが黄色いことから「カナリア軍団」という。発音は「オス・カナリーニョス(Os Canarinhos)」である。スペイン語「カナリヤ(canaria)」が日本語と発音が近いのは、室町時代、カナリアがスペイン人によってもたらされたからであろう。
1973年、ストックホルムの銀行を強盗が襲い、犯人は数人の人質をとって立てこもった。事件は解決したが、人質たちは犯人を憎まず口々に犯人をかばうような証言がみられた。そして、人質の1人であった女性がなんと、犯人グループの1人と結婚してしまう。この事件から「ストックホルム症候群」という言葉が生まれた。日本でも1979年の三菱銀行北畠支店人質事件で、人質が犯人に同調した行動をとるような現象が一部みられた。被害者が犯人と長時間にわたり接触するとき、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうことがある。近年、形は異なるが「真幸くあらば」「悪人」などの映画作品などもストックホルム症候群に近いテーマを扱っている。
中山美穂が向井理と共演。映画「新しい靴を買わなくちゃ」。いよいよ酒井法子も芸能界復帰か。大西結花、17歳年下の男性と結婚。松田聖子、浅香唯が大河ドラマ「平清盛」に出演。80年代アイドルが元気だ。岡田有希子が生きれていれば今年で45歳。そこで80年代アイドルクイズ。曲名から歌手を答えてください。
①「夕暮れ物語」「夢見るSeason」「もう一度覚えてますか」
②「哀しみのブリザード」「涙のペーパームーン」「熱風」
③「逢えるかもしれない」「天国にいちばん近い島」「恋をしよう」
④「青春のいじわる」「「もう逢えないかもしれない」
⑤「リトルプリンセス」「恋はじめまして」「哀しい予感」
⑥「涙の茉莉花LOVE」「落葉のクレシェンド」「青いスタスィオン」
解答①伊藤つかさ②石川秀美③原田知世④菊池桃子⑤岡田有希子⑥河合その子
大和田建樹(1857-1910)が作詞した「鉄道唱歌」(1900)の第64番の歌詞を知っているだろうか。神戸の湊川神社付近を歌っている。
まもるといひし楠公の
いしぶみ高き湊川
ながれて世々の人ぞ知る
湊川の戦いで破れた楠木正成を詠んでいる。ここでの「君」は天皇のことで、「君が代」とは天皇の代が何千年も続きますように、と解釈することが自然であろう。しかし「君が代」が国歌として法制化され、式典などで斉唱するとき、民主主義国家として、天皇家の繁栄を祝うというとことはいかがなものか、ということで新たな解釈がなされるようになったらしい。たとえば小林よしのりは「天皇論」の中で次のように書いている。「実は君が代は、古代から人々に愛唱され、江戸時代には相当広範囲な一般庶民が、自分の敬愛する人の長寿を祈る歌であったのであり、君は特に天皇に限定される意味ではなかった」と説いている。戦後の民主主義と合致させようと、「君が代」を解釈するのは不自然な感じがするが、「君」を天皇を解する人と、一般の人々を解している人が一緒になって唱和しているのも可笑しな光景である。
2010年10月10日アメリカのソウル歌手ソロモン・バーク(70歳)はロサンゼルスから出発した飛行機の中で容態が悪化しアムステルダムのスキポール空港で死去した。国際化に伴い異国の地で亡くなる「客死」というケースが増加の一途をたどっている。「客死」の定義は旅行先であるのか、異境の地であるのか明確ではない。たとえば770年の阿倍仲麻呂や1615年の高山右近(マニラ)、1630年の山田長政(シャム)が客死といえるのは分からない。1909年の二葉亭四迷がロシアからの帰国の途中インド洋上で病死し、シンガポール郊外で火葬された事例は客死の典型となっている。1938年、嘉納治五郎はカイロからの帰途、氷川丸船上で病死している。戦後は飛行機事故で亡くなる著名人も多い。1952年に大辻司郎、1981年に向田邦子、1985年に坂本九が亡くなっている。1996年に写真家・星野道夫はロシア・カムチャッカでヒグマに襲われて亡くなっている。2000年、作家の田中小実昌はロサンゼルスで、2009年、古橋廣之進はローマのホテルで急逝した。
加藤繁(かとうしげし、1880-1946)は、明治13年9月3日、松江市奥谷町の士族内田虎次郎、セイの四男として生まれた。翌年、同じ旧松江藩士の加藤文八、シマの養嗣子となる。明治34年、上京し、国民英学舎で語学を学び、翌年9月、東京帝国大学の支那学科に選科生として入学する。内田銀蔵(1872-1919)の影響もあって経済史を専攻した。明治40年秋から大正4年初夏まで、京都帝国大学で「清国行政法」の編纂に従事する。大正5年、「支那古田制の研究」を公刊する。大正14年、「唐宋時代に於ける金銀の研究」によって、東京大学から文学博士の学位が授与される。昭和2年、東洋文庫から「支那経済史考証」が刊行される。加藤は蓑田胸喜の主宰する雑誌「原理日本」に早くから文章をのせ、「絶対の忠誠」(昭和18年)を刊行していることから、戦後、一部学者から批判されることになるものの、中国経済史という特殊問題研究の客観的事実究明に努めたその学問的功績は大きいものがある。
代表的論文「漢代に於ける国家財政と帝室財政との区別並びに帝室財政一斑」(大正8年)、「算賦に就いての小研究」(大正8年)、「交子の起源に就いて」(昭和5年)など多数。
いま「いじめをなくそう」「いじめゼロ宣言」というスローガンをよく耳にする。これに対して、一部には、いじめが起きていない状況を「あるべき姿」として設定することが、学校の隠蔽体質を助長するものだという意見もある。むしろ「いじめゼロ」から「いじめはなくならない」に発想を転換すべきという意見である。本日のNHKスタジオパークからこんにちはのゲスト乙武洋匡は語る。「もちろん、いじめなんて起こっていいはずはないし、なくしていかなければならない。でも、いじめゼロということを目的にしてしまうと、やはり、いざ起こった時に、隠してしまったり、なかったことにしてしまおうと、思うんですね。ボクは、いじめというのは、なかなかなくならないものだと思っているんです。たとえばですよ。永井さんが田代さんと、普段は仲がいいんですけれど、実は本当は嫌いだったとする。でも、それが、1年に1ぺんしか会わない関係だったら、だれも、1年に1度しか会わない相手のことをいじめてやろうとは思わないんですね。でも、ほんとは嫌いな人間と毎日顔を突き合わせて「1年間同じクラスですよ」そういわれて、固定化された人間関係になると、どうしても、「あいつ、やだな、あ、いっぱいくわしてやろう」って気持がでてくる。これはむしろ自然なことだと思うんですね。ですから「いじめゼロ」を目指すのではなくて、いざ、いじめが起こった時に、どう早期発見して、どう解決をしていくのか、そこを目的にしなければならないし、教員の評価自体も、いじめのなかったクラスがいいのではなくて、いじめがおこっても、すぐに発見し、解決できたクラス、これをボクらは求めていくべきなのかなあと思うんですね」
「いじめゼロ」から「いじめはなくならない」に発想を転換すべし。「すべての学校からいじめをなくそう」というスローガンは誰でも賛成しやすく、耳あたりがよいが、実は「日本社会から犯罪をなくそう」と言ってることと同程度の空疎な理想論であり、実現不可能な目標なのである。
かつてインドネシアの最高額紙幣である1万ルピア札の肖像はカルピニという女性だった。ラーデン・アシェング・カルティニ(1878-1904)はインドネシアの婦人解放運動の先駆者。中部ジャワのジャバラで貴族の娘に生まれた。オランダ語による近代教育を受け、封建制の打破やとくに女性差別の問題に目をむけるようになり、当時のオランダ領東インドの教育省長官アベンダノン(1852-1925)の支持のもとに各種の改革運動に取り組んだ。書簡集「暗黒を超えて光明へ」は文学的にも高く評価されている。出産時の産褥熱で早世したが、彼女の没後、各地にその名を冠した女学校が建設された。(Panden Ajeng Kartni)
明治時代に誕生した言葉で、アメリカから輸入された小麦粉。アメリカン粉と聞いた日本人が、アクセントのかからない最初の母音アを聞き落としたため、訛って「メリケン粉」となった。
ランニングの接地は、つま先から、あるいは踵から?これまで専門家は、踵から着地するほうが安全であると説いてきた。本日放送のNHK総合の番組で「つま先着地」を薦めていた。ネットで調べて見ると、最近は「つま先着地」が主流になりつつある。
①通常の立位姿勢。足裏全体で身体を支える
②やや前傾するが、身体を支える支点がつま先へ移行
③さらに前傾を強めると、足裏では身体を支えられなくなり、身体は前方へ倒れる
④転倒防止として片脚が前にでる
踵着地だと、ふくらはぎ、足の筋肉の疲労がたまり長距離には向いていない。マラソンランナーはすべて「つま先着地」。アフリカの選手は小さいころから裸足で走っていたので、自然に「つま先着地」が身についている。番組で千葉真子がつま先着地の走法を解説し、裸足で走ることを薦めている。しかし、つま先走法はかなりのバネを必要とする。むしろ健康のためのジョギングであれば、踵着地のほうが相応しいという説もある。
ロンドン五輪でイギリスのイメージは変わったか。これまでは印象では建物が頑丈で重厚な感じ。ヴィクトリア女王の時代に一新したのだそうだ。夏目漱石がロンドン留学のときヴィクトリア女王の葬儀があったという。ところで、ロンドンという地名の由来は、あまりはっきりとした定説はない。ローマ帝国の支配下であったとき、ケルト人がテムズ河畔の沼沢地に建てたロンディニウムLondiniumに由来するらしい。意味は古代アイルランド語のロンドLond(野性味のある、勇敢な)、ロンディノス(勇者の地)から、いつしかロンド、ロンドンLuan-dun、すわち「月の都」となった。
イギリス人というと蝙蝠傘と紳士服というイメージがいまだにある。知性的だがお堅いイメージ。キャロル・リードの「第三の男」「文化果てつるところ」など格調が高い。1980年代にイギリスから美形の貴公子然とした俳優が多数現れた。その中でもヒュー・グラントはロマンチック・コメディが似合うようで、イギリス人のお堅いというイメージがなくなってきたように思う。映画「ラブ・アクチュアリー」は現代イギリスのトップスターが出演しているが、生活を楽しんでいる雰囲気が伝わる。映画の中で米大統領を対談するシーンで、「イギリスは小国ながらも、シェークスピア、チャーチル、ビートルズ、ベッカム、そしてハリー・ポッターを生んだ」という言葉が効いている。
1571年のこの日、ギリシアのコリント湾口のレパント沖で、ローマ教皇庁・スペイン・ヴェネツィアからなるキリスト教国連合艦隊とオスマン艦隊が激突した。連合艦隊が視界に入ったとき、オスマン艦隊はまだ錨をおろしていた。この一瞬の遅れがひびいて、2時間の激戦は、火力に優れた連合艦隊が勝利した。オスマン側はアリ・パシャが殺され、艦艇117隻が拿捕された。死者はオスマン側が3万に対し、連合軍は8000人だった。この戦いの7年後、連合軍の指揮官ドン・ファン・デ・アウストリアは発疹チフスで31歳の若さで死去。「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスもこの戦いに参戦している。(Lepant,Don Juan de Austria,Ali Pasa)
映画「最高の人生の見つけ方」(2007)。性格も境遇も正反対の2人が、余命6ヵ月と宣告され、偶然に同じ病室になる。自動車修理工のカーター(モーガン・フリーマン)は博覧強記のクイズマニア。エドワード・コール(ジャック・ニコルソン)は病院を経営する大金持ち。あるときカーターが落とした死ぬまでにしたいことを書いたメモ(棺桶リスト)をエドワードが拾って見る。2人は一緒に世界旅行をして、壮大な風景を見てまわる。だがエベレスだけは悪天候で登れなかった。いま2人の骨はエベレスの山頂に安置されている。余命宣告された人の物語は過去にも「死ぬまでにしたい10のこと」、黒澤明「生きる」などあり、世界に無数にあるだろう。ロブ・ライナーは暗くなりがちなテーマを、あっさりとヒューマン・コメディとして仕上げている。ベタな演出ではあるが、宗教色をなくして、ハリウッド的に陽気にしたのが成功の一因であろう。原題は「The Bucket List」。俗語で「kick the bucket」は「死ぬ」という意味がある。つまり「bucket list」は死ぬ前に書くリスト、「棺桶リスト」になる。(Jack Nicholson,Morgan Freeman)
ナイジェリアのラゴスでダナ航空の旅客機が民家に墜落、乗客乗員163人の死者が出ている(2012.6.3)。今年4月にはパキスタン航空機がイスラマバード国際空港近くで墜落し、127人全員が死亡している。史上最悪の航空事故は1977年のテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故で583人の犠牲者が出ている。最近の事故の原因としては航空会社の経営悪化から老朽機による事故も多い。今回も機体は22年前に製造されたものだった。海外で飛行機に乗る場合は航空機の状態を乗客がチェックする必要がありそうだ。
数年前の映画「ノウイング」は大災害や事故などの数字は予兆があり、すべて知らされているという。車のナンバーや受験番号など多くの人は数字に験をかつぐ。数字は何をかたっているのだろうか。
(Nigeria,Dana Air,Lagos,Boeing)
ますます陰湿化するイジメが問題になっているが、イジメのひとつに「シカト」がある。「あいつ、シカトしようぜ」などと大勢が示し合わせ、ひとりの生徒を無視することだが、この言葉の語源は花札に由来するという説がある。花札の10月の絵柄は紅葉と鹿が描かれている。この鹿は、プイと横を向いて、知らん顔しているようにみえることから、相手を無視することを「シカトする」というようになったのだとする。漢字で書けば、「鹿頭」あるいは「鹿十」か。
しかし、ケペルは「シカトする」という言葉を少年時代、青年時代に聞いた覚えはない。漫画やアニメ、ドラマで使われる比較的新しい言葉のような気がするが、広辞苑にも収録されており、花札説が採られている。古くからヤクザや下衆の間で使われていたのだろうか。
母さんはよなべをして
てぶくろ編んでくれた
木枯らし吹いちゃ冷たかろうて
せっせと編んだだよ
ふるさとのたよりは届く
いろりのにおいがした
日本最初のシンガーソングライターは誰だろう。戦前、添田唖蝉坊や石田一松のように自作自演は古くからあるが、一般にシンガーソングライターといわれだしたのは、荒木一郎「空に星があるように」(1966)、大橋節夫「倖はここに」(1967)からだろう。だが窪田聡作詞、作曲の「母さんの歌」(1956)は歌声喫茶などで歌われ、NHK「みんなのうた」ペギー葉山で広く知られるようになった。今日、窪田聡はシンガーソングライターの草分けといわれている。
Ⅰ awoke one morning and found myself famous.
ジョージ・ゴードン・ノエル・バイロン(1788-1824)は奇行の多い没落貴族に生まれ、父ジョン・バイロン大尉が1891年に死んだあと、6代目バイロン卿となった。美貌だが生来跛という肉体的欠陥を負っていたためか、バイロンの誇りと感受性は傷つきやすく、女性遍歴と放蕩にその充足を求めることになる。キャロライン夫人、オックスフォード夫人とのロマンス、異母姉オーガスタとの不倫の恋。ロンドン社交界での数々の艶聞のため、1816年4月25日、祖国イギリスを去り、再び戻ることはなかった。スイス、ヴェネツィアと転々とした。1823年、ギリシアの独立運動に参加して、ミソロンギに上陸し、そこでマラリアに感染し、1824年4月19日、その波瀾にみちた生涯を閉じた。
今さら口にするまでもないあの頃
1
決して忘れはててしまえるものではないゆえに、今さら口にするまでもないあの頃は、あなたも私も、思いはすべて一つだったが、ああ、わが心ばかりが、今日までも渝(かわ)らぬ。
2
あの時、はじめてあなたの唇が、私に劣らぬ愛を囁いてからは、あなたの露知らず、まして思いも見ぬ、かずかずの悩みが私の胸を噛む。
3
何にもまして胸深く食い入ったこの嘆き、なべて誠なき接吻のように果敢なく、あの恋はすべて過ぎた、という思い、それもただあなたの胸に消えただけ。
4
しかも、私の心がおぼえたある慰めは、いつかあなたが口にするのをきいた時だった。むかしは真実ともおもへた口ぶりで、あの過ぎた日の憶ひ出をささやくのを。
5
慕わしくも、また限りなく惰(つれ)ないひとよ。ふたたび、あなたが愛してくれることはないであろうが、あの恋の思ひ出は生きていると、知るにつけて、私はこよなく愉しいのだ。
6
ああ、私にとっては何とかがやかしい想ひだろう。この心はもはや悔むこともない。あなたがどんな人であろうと、どんなになってしまはうと。ああ、かっていとしくも私ひとりのものだったのだ。あなたは。
(阿部知二訳)
(Lord Byron)
歴史秘話ヒストリアとザ・プロファイラー。「家康の長生き大作戦」では徳川家康は和剤局方(薬局)を設置して健康法に心がけた。家康の遺品の薬壷に秘薬「烏犀圓」(うさいえん)がある。これが徳川光圀に伝わり、彼も健康法につとめた。ウォーキング、水泳、そして食事療法。中国から朱舜水を水戸に招いた。ラーメン、餃子、牛乳酒、チーズなど食したのは日本人で光圀が最初といわれる。貝原益軒は自らの病弱を克服しようと健康法につとめた。夫婦で20年以上も体重を計測している。清の西太后には128人の専属の料理人がいて健康食につとめた。医食同源。
中国人に代表的な神を一人挙げてくれというと迷うことなく関羽(関聖帝君)と答えるという。関羽は蜀漢劉備に仕えていた武将で、悲劇的な死を遂げるが、後世の人間より神格化されて47人目の神となった。清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祭る武廟を建てさせた。孔子廟はのちに多数破壊されたが、関帝廟は単独で多く各地に残る結果となった。そろばんを発明したのは関羽と信ぜられ、華僑によって商売の神となり、世界中の中華街などに祭られている。道教・仏教・儒教を超えて信仰されているのが関羽である。このように孔子と対比される関羽だが、武神としてだけでなく、学問の神、文神としても祀られている。儒家の間では、古くより「山東の一人「春秋」を作り、山西の一人「春秋」を読む」という語が伝えられている。「春秋」を作った山東の一人とは孔子を指し、「春秋」を読んだ一人とは、関羽を指したところから、関羽は五文昌(五人の学問の神)のひとりに数えられている。
京都の名門女子大の職員(59歳)がストーカー行為を注意され、逆恨みで同僚を殺害するという事件があった。事件の真相は知る由もないが、退職経験者としては感じ入ることがある。容疑者は東京で文部官僚をしていたが、数年前から同校に単身赴任している。真面目で温厚な人物だったという。端からみると羨望の高給取りながら、当人としては栄達の夢破れ、都落ちの淋しい生活であったろう。退職目前で、国とのパイプ役にもなれず、周囲の同僚からも冷たくされていたと想像する。長年、精勤してきたが、彼の全盛期を知る人もなく、相談する人もいない。若い女性との交際を断われたことや、年下の者から注意されたことが、彼のプライドを傷つけ過度に追いつめられパニックになったのではないかと推測する。おそらく本人の心の中ではストーカー行為と思ってなかったのではないだろうか。事件の心理は三人三様の受け止め方があり、車中でどのような会話がなされたのか誰にもわからず、藪の中である。ただいえるのは、サラリーマンの終末を迎える男はみんな淋しいのです。
今年6月、原監督は1億円不倫問題が発覚し、致命的なイメージダウンと思われたが、巨人は好調でリーグ優勝した。とにかくラッキーな人である。背番号は「88」。幸運の秘密は「88」にあるように思える。88という数字は古来から縁起がよい数とされている。88歳は米寿の祝い。四国八十八箇所。全天の星の数は88個。自動車やバイクのナンバープレートの「88」は抽選対象番号である。グランドピアノの鍵盤の数は88個である。長崎平戸といえばキリシタンで知られるが、ここには平戸八十八ヶ所巡礼めぐりがある。空海が田の浦から唐に出発した地とされる。霊場を88ヵ所巡るとご利益があるとされるのも88に隠されたパワーがはたらくのであろう。「渡唐大師像」は巨大である。(高さ16m)(数秘術)
写真は25歳前後のチャイコフスキー。ネクタイは紐状のものであるが、結び目、幅など現在のものとはだいぶん異なる。もともとネクタイの原型はフランスのクラバット(cravat)といわれる。17世紀にフランスの兵士たちが妻や恋人から贈られたスカーフを首に巻いていた。ルイ14世がそれに興味を示し、「あれは何か?」と尋ねたところ、側近の者はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いし、「クラバット(クロアチア)です」と答えたために、その布をクラバットと呼ぶようになったという逸話がある。その後、19世紀に入ってイギリスで、伊達男としてその名を馳せたジョージ・ブライアン・ブランメルが、ネッククロースという紐状の固いタイを締めたスタイルを考え出したところ、これが評判になり世界中に流行した。チャイコフスキーのネクタイもその流行の先端であろう。さて、日本人で初めてネクタイを締めた人は誰だろうか?。おそらく中浜万次郎(ジョン万次郎)ではないだろうか。1884年10月1日、小山梅吉が日本で初めてネクタイを製造した。この日にちなんで「ネクタイの日」を制定している。(Chaikovsky)
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