西郷隆盛と菊池源吾
安政5年の冬、安政の大獄と島津斉彬の病没に絶望した西郷隆盛は、僧月照とともに錦江湾に入水した。月照は死んだが、西郷は蘇生した。藩主後見となっていた島津久光は西郷を奄美大島へ流した。そのとき用いた変名は「菊池源吾」であった。文久元年、罪を許され島から召還された西郷は「大島三左衛門」という変名を用いた。これは読んで字の如く大島に三年流されたという意味で既に有名な話である。だが「菊池源吾」という変名には、あまり注意が払われていない。それは、「吾が源は菊池なり」という意味であろう。
西郷隆盛の祖先は南朝の忠臣の菊池武光だと伝えられている。菊池氏の系図の中には、西郷姓を名乗っている人が少なくない。初代は菊池則隆、肥後の国菊池郡の領主である。二代経隆の弟に政隆があり、この人が西郷太郎と名乗っている。その後にも、西郷三郎と称した菊池隆政があり、西郷弥三郎と称した菊池隆盛が出ている。菊池の分流が西郷姓を称するのは、その発祥地が肥前高木郡西郷(一説には肥後菊池郡加茂川村字西郷)からだという。隆の字は菊池の名乗りで、わが西郷吉之助が隆永または隆盛と名乗ったことの因縁を感じる。西郷家の家系と血統に就いて、父西郷吉兵衛から教えられ、薩摩藩勤皇の心を自覚していた証左であろう。
明治10年9月24日、城山にて自刃した。挙兵以来8ヵ月にも及んだ西南戦争もここに幕を閉じた。そのため逆賊とされたが、明治22年、罪を許され、正三位が追贈された。
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今、高橋安美 作の「軍神広瀬武夫」を読んでいます。冒頭に「広瀬の家は菊池の子孫」と出てきます。広瀬武夫についても、教えて下さい。
投稿: 杉野兵曹長 | 2006年9月25日 (月) 20時18分