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2012年9月30日 (日)

数字と俳句

E_yotume 尾崎放哉「咳をしても一人」のように数字を詠んだ俳句をあつめる。

ひとり往けひとりかなしめ曼珠沙華(黒田杏子)

かくれんぼ三つかぞえて冬となる(寺山修司)

枕三つ叩いて寝れば宝船(星野明世)

四つ目垣茶室も見えて辛夷哉(夏目漱石)

六ツ切の食パンぱんぱんの二つ腕(大西政司)

トトリムク

28847914    ドングリでつくったお餅のような韓国料理。トトリはドングリの意。ムクはソバ、ドングリ、緑豆などの粉末をゼリー状に固めたもの。トトリムクそのものは味がないので醤油だれなどをかけて食べる。

林丘寺光子内親王

Xkannon   林丘寺光子(1634-1727)は当代一級の文化人であった後水尾天皇を父にもち、和歌や書、絵画に優れた才能を残した。とくに観音像を多く描いた。画像は光子自筆の「白衣観音之図」(池田市立歴史民俗資料館)。

    1680年、後水尾上皇が崩御すると、出家して、黄檗高泉より道号照山、法諱元瑤の号を受ける。1682年、修学院村に林丘寺を建立した。光子は寺を出ることなく、経典の読経や写経をして過ごした。また、捨て子を引き取り養育した。1727年、94歳の天寿を全うした。朱宮(あけのみや)光子内親王、元瑤内親王、林丘寺宮と表記されることもある。

「内股走り」の秘密

1_mg_8055   「所さんの目がテン」で徒競争が苦手でも1週間で速くなれる方法を教えていた。①カヌーの漕ぎ方で腕を大きく振ることを学ぶ②踵なしサンダルを履いて重心を前に乗せる③内股歩きを練習する。

③はスタートダッシュを向上させる。「内股走り」で知られる女子サッカー鮫島彩は、起動が速く、スタートダッシュが武器になっている。

2012年9月29日 (土)

まぼろしの配役

Jamesdean06   1955年9月30日、ジェームズ・ディーンは愛車ポルシェ・スパイダーを飛ばして衝突死してしまった。彼が主演した「エデンの東」、実は最初モンゴメリー・クリフトに出演の依頼があったが流れた。ハンフリー・ボガードの「カサブランカ」もロナルド・レーガンやジョージ・ラフトに話が来ていた。ジュリア・ロバーツはグウィネス・パルトローが主演した「恋におちたシェイクスピア」やサンドラ・ブロックの「しあわせの隠れ場所」を断わっている。ペ・ヨンジュン「冬のソナタ」は初めリュ・シュウォンが予定されていた。赤西仁で予定されていた「GTO」リメイク版は突然の降板でAKIRAが主演することになった。高倉健の「無法松の一生」も幻になってしまった。(James Dean)

三原じゅん子「激しく、そして心のままに」

Enn1012211621020p1    タイムマシンで1980年に行った。「松田聖子と三原順子はどうしてる?」と聞かれ、聖子は3度結婚し、順子は国会議員といえば、順子ほうがビックリ度が高い。先日の自民党総裁決選の模様がテレビ中継された。安倍晋三の隣に高市早苗、石破茂の隣に三原じゅん子が座っていた。笑顔の高市と対照的だったのは、真剣な表情の三原だった。「燃えろアタック」でデビュー、「3年B組金八先生」の山田麗子役。ポスト百恵、つっぱりで人気がでた。「セクシーナイト」もヒットした。1982年紅白出場、映画は「ああ野麦峠」「人形嫌い」「嵯峨野の宿」順調にみえたが失速した。1987年、フライデー記者に暴行し逮捕される。以後はヤクザのVシネマ女優となった。元歌手、元女優、元レーサー。挫折の後、政界に進出。なぜか当選した。意外と政治家に向いているのかもしれない。人生、七転び八起き。将来、石破が首相になれば、女性大臣も夢ではない。

2012年9月28日 (金)

アンディ・ウィリアムス、ハーバート・ロム逝く

Photo   「ムーン・リバー」で知られる歌手アンディ・ウィリアムスが25日、84歳で亡くなった。ウィリアムスは「ある愛の詩」「ゴッドファーザー愛のテーマ」などのヒット曲のほか、「酒とバラの日々」「いそしぎ」など映画音楽を数多くレコーディングしている。クロディーヌ・ロンジェは元妻。(Andy  Williams)

Photo_2   また「ピンク・パンサー」シリーズでドレフェス署長役で知られる俳優ハーバート・ロムが27日、95歳で亡くなった。チェコのプラハ生まれで、「マダムと泥棒」「戦争と平和」「スパルタカス」「エル・シド」「オペラの怪人」など100本を超える映画に出演した。ご冥福をお祈りします。(Herbert Lom)

ゆるキャラ「親切な青鬼くん」

Yurupedia    香川県の観光推進マスコットキャラクター「親切な青鬼くん」は全国数あるゆるキャラのなかでも最古参の一体であろう。青鬼は浜田廣介の童話「泣いた赤鬼」に出てくるキャラクターで、友達の赤鬼を助けるやさしい鬼である。香川県を訪れる観光客を温かく迎えるため2000年以前から活動している。

懐かしいファッション

Img_0002   アメリカではかなり昔からある着方で、脱いだセーターを肩にかけて首の前で袖を結ぶ。あるいは腰に巻く。このような外人の着方を真似して、日本人も1990年代にずいぶん流行した。しかし今日あまり見られられない。たまに年輩の人がしていると、若い人がずいぶんと驚く。カッコよく見えるか、カッコ悪く見られるかは着る人次第で変わる。

田中河内介と小豆島

Unkaiji_tanaka04100nensai_hi   幕末の寺田屋事件の田中河内介は薩摩へ護送される途中に垂水沖で惨殺されて、小豆島の福田の海岸に漂着した。勤王の志士を悼み、福田の遠手浜には追悼碑が建立され、雲海寺に田中河内介父子の墓がある。

大安寺と空海寺

Dej9u6s8    奈良は空海(774-835)との関係が深い寺がある。若き日の空海は大安寺(画像)で学び、唐から帰国後は東大寺の別当に就いている。大安寺は奈良市の南東部にひっそりと残る小さな寺であるが、かつては日本一の大寺院であった。空海寺はその名のとおり空海の創建であるが、1734年、本堂再建時に草堂および石窟石仏の座檀石が壊され、空海が造立した霊窟が失われた(奈良坊目拙解)と伝わる。

本の運命

Jondavisonbookshelvesincodringtonli     本には人と同じように運命がある。ベストセラーとして多くの読者に読まれる本。一度も読まれずに返本されて断裁される本。100年、200年と読み継がれる本。いちばん価値があると考えられる本はどこに置くだろうか。水害にあわないために書架の一番高いところに置くことが一般的だろう。こんな話がある。書物愛好家で知られたシピオ・マツフェが価値あるラテン語の写本を探していた。イタリアのヴェローナにあることはわかっていたが、2人の有名な学者、マビロンとモントフォーコンもそれを見つけることはできなかった。マツフェはヴェローナの修道院の図書館で、その本を発見した。書物はこの図書館の本棚の中にはなかった。そしてマンフェ以前には、誰一人として、梯子をよじ登って、本棚の頂辺を見ることに考え及ばなかったのである。そこにこれらの貴重な写本が全部、長い年月の間、塵に埋れてゴチャゴチャになって横たわっていたのである。マツフェは喜びのあまり、殆ど気が遠くなろうとした。そこに一番古いラテン語の写本が残存していたのだ!「あらゆる本はそれぞれの運命を持っている」というラテン語の格言がある。どんな本にも人とおなじようにさまざまな運命があるのだ。

2012年9月27日 (木)

ミャンマーの首都ネピドー

144   2006年、ミャンマー政府は首都をヤンゴン(人口410万人)からネピドー(人口10万人)へ移した。移転の理由は海岸に近いヤンゴンより内陸のネピドーのほうが軍事的に有利であると考えたのであろう。旧都ヤンゴン(旧称ラングーン)は首都移転後も経済の中心地としてその地位を維持している。(Mayanma,Naypyidaw,Yangon,Rangoon)

女性ドライバーの日

   1917年のこの日、栃木県出身の渡辺はまが日本の女性として初めて自動車の運転免許を取得した。ちなみに女性初航空操縦士は愛媛県の兵藤精(1899-1980)で1922年に取得した。

2012年9月26日 (水)

市電の走る街、豊橋

News0_5061b998def87  豊橋では今も市電が走っている。おそらく東海道に残る唯一の市電だろう。最近、市電を利用する人が増えてきた。とくに雨の日は多い。全国から撮影のために豊橋にやって来て街のシンボルになりつつある。この市電をこよなく愛した国文学者の久曽神昇(1909-2012)が死去された。豊橋の市電を愛する会の初代会長を務められた。古今和歌集の研究では第一人者で戦前からの著書は多数ある。つつしんでご冥福を祈る。

秋田県知事は殿様の子孫

   現在の秋田県知事・佐竹敬久は佐竹北家第21代当主である。かつての殿様の子孫が県知事であるというのは戦後では6例目だそうだ。久松定武(愛媛)、鍋島直紹(佐賀)、加納久朗(千葉)、松平勇雄(福島)、細川護熙(熊本)。日本は江戸の名残を現代にのこしている。藩名が県名として残っている県は、鳥取と佐賀と、そして秋田である。もちろん秋田でも幕末において、幕府につくか、討幕につくかと悩んだであろう。当初は幕府側につき奥羽越列藩同盟に参加していた。ところが尊攘派が形成され、列藩同盟を裏切った。これによって周囲からの攻撃を受けたが、新政府からは忠勤藩としての評価をえることができた。1871年の廃藩置県では「秋田県」が置かれることになった。

日本再生特効薬はあるのか

   自民党総裁選は安倍晋三が僅差で石破茂を破った。ちょうど6年前のこの日、安倍は第90代内閣総理大臣に就任した記念日でもある。安倍はどうして復活したのか。みずから「2年前に発売された特効薬が効いた」と述べている。ちまたの噂では潰瘍性大腸炎の特効薬アサコールという。なんとか新薬の効果で日本を再生してもらいたいと願う。

ソロレート婚

    ソロレート婚とは、妻が死んだ後、夫が妻の姉妹と結婚する制度。中央アジアのキルギス族や、アフリカのツワナ族にはその例が見られる。キリスト教では禁じられているが、フリードリッヒ・エンゲルスは妻メアリーの死後、妹リジーが姉の後を継いで結婚している。日本では順縁婚といい、小説家の本庄陸男の例がみられる。(Sororate marriage,Friedrieh Engels)

首都移転と首都機能移転

Daressalaam    首都を丸ごと移転する遷都とは異なり、政府機関の一部を移転することを首都機能移転という。パラオにおけるコロールからマルキョクは首都機能移転といえる。タンザニアではダルエスサラームからドドマに移転し、法律上の首都はドドマであるが、実質的な首都機能は、経済の中心地となっているダルエスサラームにある。(Dar es Salaam,Dodoma)

2012年9月25日 (火)

気になることば「ごきげんよう」

   「ごきげんよう」という挨拶は近頃あまり聞いたことがない。いま学校で先生は大きな声で、「ごきげんよう」と言っているのだろうか。「ごきげんよう」という言葉が使われだしたのは何時ごろかしらない。しかしなんとなく古風な感じで使いにくいので「お早う」とか「さようなら」と使うことが多いだろう。日活映画「今日のいのち」(昭和32年)のワンシーン。津川雅彦が「さようなら」というと、北原三枝が「さようならじゃないわ、ごきげんよう、ョ」という。おそらく原作にもあるのだろう。「ごきげんよう」は会ったときや別れるとき両方に使えるので便利である。

  この映画は北原三枝の主演映画だが、津川、石原裕次郎、森雅之、安井昌二、金子信夫と彼女を取り巻く男性陣が豊富である。数年後の大ヒット作「陽のあたる坂道」を予感させる作品である。原作は由起しげ子(1902-1969)の読売新聞連載小説。由起は戦後最初の第21回芥川賞作家。女性では戦前の中里恒子、芝木好子に次ぐ三番目。今日の芥川賞と違い、大衆性を供えたストーリーの展開でドラマチックな内容である。通俗的な傾向があるために文庫本化されず忘れられた作家ではあるが、流行作家としての力量は相当なものである。

オセアニアと太平洋諸国14ヵ国の首都

Nauru  ナウル共和国の人口は10210人で、バチカン市国、ツバルに次いで世界で3番目に人口が少ない。正式の首都はなく、ヤレン地区が事実上の首都機能を有している。(Yaren)

1キャンベラ(オーストラリア)

2ウェリントン(ニュージーランド)

3ポートモスレビー(パプアニューギニア)

4スパ(フィジー諸島)

5ホニアラ(ソロモン諸島)

6ポートビラ(バヌアツ)

7ヌクアロファ(トンガ王国)

8アビア(サモア)

9ヤレン(ナウル)

10フナフテイ(ツバル)

11タラワ(キリバス)

12パリキール(ミクロネシア)

13マジュロ(マーシャル諸島)

14マルキョク(パラオ)

オートミールとクエーカー教徒

Quaker_oats   オートミールという食品はあまり日本人に馴染みのあるものではない。カラス麦(燕麦)の粰と皮を取って精白し、よく乾燥してから、粉砕機で粉砕したもの。かゆ状に煮て牛乳・砂糖をかけて食べる。クエーカー・オーツ・カンパニーのオートミールのパッケージには質素で誠実そうな男性の肖像が描かれている。つば広の帽子と地味な服装はクエーカー教徒をあらわしている。オートミールは質素な食事なのだろう。(oatmeal)

原稿用紙

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 尾崎紅葉「不言不語」の原稿

   東京・神楽坂に老舗文具店「相馬屋源四郎商店」がある。もともとは和紙問屋だったが、明治中期に和紙から洋紙への移行が進む中、近所に住んでいた尾崎紅葉が「マス目を印刷してはどうか」と提案したのが原稿用紙の始まりだった。洋紙の原稿用紙を売り出したところ夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥・・・・といった文人たちに愛用された。現在もなお、多くの作家たちが好んで使用している。

おきうと

833e1a74ad3c4d9fa97db7de0f47acd9   博多湾でとれるエゴノリを煮溶かして固めた食品。福岡では朝食の膳に欠かせない。かつお節にしょうゆ味で食べる。ところてんに近い。おぎうと。おきうど。おきゅうと。

2012年9月24日 (月)

遊川和彦「純と愛」

55081   NHKプロフェッショナル仕事の流儀は「純と愛」の脚本家・遊川和彦。人の心をとらえる鬼才といわれる。脚本家はふつうシナリオを書くだけで撮影現場にいないことが多いが、遊川は現場に足を運び、主演の女優にいろいろ注文するタイプらしい。夏菜もキャリアがないだけに演技にもがいている。朝ドラは岡田恵和「おひさま」、渡辺あや「カーネーション」、尾崎将也「梅ちゃん先生」と好評作品が続いた。「純と愛」には期待と不安がある。遊川和彦の個性が朝の時間帯の視聴者に受け入れられるか。ともかくマンネリを打破するようなドラマがみたい。

地名に現われたる戊辰戦争で旧幕府軍についた藩への処分

   全国47都道府県うち28府県が県名と県庁所在地都市名が同じで、19都道府県だけは違う。県名と県庁所在地が一致する県は鹿児島、宮崎、熊本、大分、佐賀、長崎、高知、徳島、山口、広島、岡山、鳥取、大阪、和歌山、奈良、京都、静岡、岐阜、長野、福井、富山、新潟、千葉、福島、山形、秋田、青森。これは大きくいえば戊辰戦争のとき、朝敵ないし曖昧な態度をとった藩の名を消して、官軍側についた藩は藩名を残すことを認めたことが理由の1つであると考えられる。たとえば鳥取藩などは官軍方についたので、そのまま鳥取県、鳥取市と藩名がそのまま残った。それに対して、仙台藩→宮城県、小田原藩→神奈川県、佐倉藩→千葉県、金沢藩→石川県、弘前藩→青森県など変更されている。

こじんまりとして心地よさそうな空間

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   全国各地にさまざまな本屋や図書館あるいは文庫がある。何万冊と揃っているところもあれば数百冊というところもある。最近、大きいければいいと思わなくなった。一度に読める本は一冊なのだから。むしろこじんまりとしてて心地よいところ、選書がしっかりとしているところがいい。

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下馬評

Sendai   下馬評とは、第三者が興味本位にする噂や評判。城や社寺の門前で馬を下りなければならない場所を「下馬先」という。江戸城大手門の下馬先には姫路藩主酒井雅楽頭の上屋敷があった。下馬札が立ち、残されたお供の者がお互い情報交換やら噂話を交わしたことから、下馬評の言葉が生まれたという。

ニワトリ1羽は何個卵を産むのか?

Thumbnail   連続クイズ「ホールドオン055」の問題。「鶏1羽(白色レグホン)は1年間に何個卵を産むのか?」答えは、およそ300個くらい。生まれてからだいたい150日くらいで卵を産むようになる。産み初めてからまもなく毎日産むようになるが、やがて産まない日がでてくるようになり、ほぼ1年半くらいで新しい鶏と交替させられる。

Which came first,the chicken or the egg?

鶏が先か卵が先か。

leghon    白色レグホン

cock      おんどり

hen        めんどり

chicken yard 養鶏場

poultry farm  養鶏場

play chicken 度胸だめしをする

   ジェームズ・ディーンの「理由なき反抗」で崖に向って2台の車が走行し、先に運転席から飛び出した者がチキン(臆病者)とされる。これをチキンレース、チキンゲームと呼ぶ。

勝利の女神ニケ

Img92   ルーブル美術館のダリュの階段踊り場には「サモトラケのニケ」といわれる翼を広げた女神像が展示されている。この有翼の勝利の女神像は前190年、ロードス島がセレウコス朝シリアのアンティオクス3世ギリシアへの戦勝を記念して、エーゲ海の北端のサモトラケ島の神殿近くに建てたという。最初の発掘は1863年フランスのシャルル・シャンポアソーがサモトラケ島のカビリ神殿の小室で数多くの断片で発見した。それから16年後、同地の近くでこの像が立っていた船首の部分が発見された。さらに1950年の同神殿址の再発掘の際、右掌と右薬指の断片が発見されたため、ウィーン美術館史博物館に保管されていた指の断片がこの像の一部であることが明らかとなった。女神は船の先端に立って勝利のトランペットを吹き鳴らしている。

    ニケはティターン神族の男神パラスと冥府の河の女神ステュクスとの間に生まれた4人の子(クラトス、ビア、ゼロス、ニケ)の1人。ニケは父や同族を捨てゼウス率いるオリュンポス陣営についた。ニケはアテナと親しく結びつき、アテナの随神と見なされるようになった。パルテノン神殿内の本尊アテナ・パルテノス像で、右手にニケの小像が載っていることはよく知られている。

   話は変わるが、映画「パリの恋人」(1957)でファションモデル役のオードリー・ヘプバーンが両手を広げて階段を降りるのも、「タイタニック」(1997)でケイト・ウィンスレットが船首で両手を広げるポーズも女神ニケを真似たものである。そして「冬のソナタ」(2002)でチェ・ジウが南怡島のデートで自転車に乗りながら両手を広げるシーンも「タイタニック」の影響があると思われる。

    実際の女神ニケの完全復元像を見たことはないが、一説によれば付根の状態から頭部は左にむけられ、右腕をあげ左腕をさげていた状態ではないかとする説が有力であり、おそらく勝利のラッパを吹奏していたのではないかといわれる。女優さんが真似たポーズとは大きく異なっているようだ。思うに、サモトラケのニケは完全な形体を止めていないがために、みる者をさまざまな夢想へと誘い、ロダンが言うように「美よりもさらに美しいもの。それは美の廃墟である」との思念が二つの大戦を経てヨーロッパ人に強く根をおろした。「自由」や「勝利」を想起させる女神ニケは、今日、オリンピックのメダルやスポーツブランド・ナイキの名の由来にもなって人気のある女神である。(Victoire de Samothrace)

ウィーンとザルツブルグ

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 ザルツブルグ(オーストリア)

   ザルツァッハ川沿いにあるザルツブルクは、美しい宗教都市である。メンヒスブルク山頂にそびえるホーエンザルツブルク城は11世紀にカトリック大司教の居城として建てられた。ザルツブルクはモーツァルトの生地として有名であるが、街の人々はあまり彼には好意的ではなかったという。別にその埋め合わせというわけでもないが、毎年行なわれる夏にはモーツァルトを記念する音楽祭を行なっている。

    ウィーンは音楽の都である。ヨハン・シュトラウスの像のある公園のベンチに腰をかけていると、ワルツが聴こえてきそうだ。この公園の近くには、ベートーベンの大きな銅像があり、その向かい側に、演奏会場コンツェルトハウス、並んでウィーン音楽院がある。グルック、ハイドン、シューベルト、ブラームスもウィーンに住んだことのある作曲家である。なかでもモーツァルト(1756-1791)はザルツブルグで生まれたが、25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そしてモーツァルトは経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フイガロの結婚」や「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神がもりこまれている。モーツァルトには時代を見る目があった。

  「人間を高めるのは身分ではなく心だ」

                (モーツァルト)

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土方歳三の肖像写真を撮ったのは誰だ?

1    土方歳三の有名な写真を撮影した写真師の名前は明らかではない。現在、確証はないものの、田本研造(1832-1912)が撮影したのではないかとみられている。田本は函館へ渡り、ロシア人医師ゼレンスキーの助手をしていたが、右足を失い、医師になることを諦め、写真術を学んだ。1866年から写真家として活動をはじめている。

バルト海に面した町タリン

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トーンベアの丘から全景を望むLrg_10082527 

  ヨーロッパの北東部、バルト海のほとりに位置するエストニア共和国は1991年に独立した。人口は約134万人。面積は4.5k㎡で九州と沖縄を合わせたくらい。1219年、十字軍を率いてこの地を制圧したデンマーク王バルデマー2世(1170-1241)は、トーンペアの丘に要塞を建てたのが始まりである。中世都市タリンはハンザ同盟として栄えた時代の栄華を偲ばせ、世界遺産に登録されている。把瑠都はスウェーデン系エストニア人。

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(Estonia,Tallinn,ValdemarⅡ)

バラライカ

Balalaika_before_full_view    ワシーリー・ワシーリエウィチ・アンドレーエフ(1861-1918)は古いバラライカに魅了され、3年後にパセルプスキーと共同でバラライカを改良した。1888年に初めてロシア民謡の演奏会をおこなった。(Balalaika)

西郷隆盛と菊池源吾

    安政5年の冬、安政の大獄と島津斉彬の病没に絶望した西郷隆盛は、僧月照とともに錦江湾に入水した。月照は死んだが、西郷は蘇生した。藩主後見となっていた島津久光は西郷を奄美大島へ流した。そのとき用いた変名は「菊池源吾」であった。文久元年、罪を許され島から召還された西郷は「大島三左衛門」という変名を用いた。これは読んで字の如く大島に三年流されたという意味で既に有名な話である。だが「菊池源吾」という変名には、あまり注意が払われていない。それは、「吾が源は菊池なり」という意味であろう。

    西郷隆盛の祖先は南朝の忠臣の菊池武光だと伝えられている。菊池氏の系図の中には、西郷姓を名乗っている人が少なくない。初代は菊池則隆、肥後の国菊池郡の領主である。二代経隆の弟に政隆があり、この人が西郷太郎と名乗っている。その後にも、西郷三郎と称した菊池隆政があり、西郷弥三郎と称した菊池隆盛が出ている。菊池の分流が西郷姓を称するのは、その発祥地が肥前高木郡西郷(一説には肥後菊池郡加茂川村字西郷)からだという。隆の字は菊池の名乗りで、わが西郷吉之助が隆永または隆盛と名乗ったことの因縁を感じる。西郷家の家系と血統に就いて、父西郷吉兵衛から教えられ、薩摩藩勤皇の心を自覚していた証左であろう。

    明治10年9月24日、城山にて自刃した。挙兵以来8ヵ月にも及んだ西南戦争もここに幕を閉じた。そのため逆賊とされたが、明治22年、罪を許され、正三位が追贈された。

2012年9月23日 (日)

泣く女

Imagecaslhgbs    1927年、パブロ・ピカソ(1881-1973)はマリー・テレーズ・ワルテル(1909-1977)と出会う。「あなたは興味をかきたてる顔をしている。肖像を描かせてくれませんか」と話しかけたことから始まった。ピカソとマリーとの恋愛が始まると、妻のオルガ・コクロヴァの嫉妬は燃え上がった。彼女はピカソやマリーを大声で罵った。1935年、オルガと離別し、マリーは娘マヤが生まれた。しかしピカソには新しい写真家のドラ・マール(1907-1997)と恋仲になった。「泣く女」(1937)はドラ・マールがモデルといわれる。(Pablo Picasso,Marie Therese Walter,Dora Maar)

2012年9月22日 (土)

リオデジャネイロ

Hostelriodejaneiro    サンパウロに次ぐブラジル第2の都市であり、2016年の第31回夏季オリンピックの開催地。ブラジルの経済発展は著しい。高さ39.6mの巨大なキリスト像は「コルコバードのキリスト像」という。1931年のブラジル独立100周年の記念像で、新世界七不思議の1つになっている。(Rio de Janeiro,Christ the Redeemer)

南米の第2都市一覧

コルドバ(アルゼンチン)
サルト(ウルグアイ)
グアヤキル(エクアドル)
ニューアムステルダム(ガイアナ)
メデジン(コロンビア)
ニウ・ニッケリー(スリナム)
コンセプシオン(チリ)
シルダー・デル・エステ(パラグアイ)
マラカイボ(ベネズエラ・ボリバル)
アレキパ(ペルー)
サンタクルス(ボリビア)

2012年9月21日 (金)

日本にサッカーが伝わる

Photo   日本に初めてサッカーを紹介したのは、第2次顧問団長として来日したイギリス海軍少佐アーチボルド・ルシアス・ダグラス(1842-1913)といわれる。明治6年秋、築地の海軍兵学寮でサッカーを教えたのが最初である。かつては東京大学工学部の前身である工学寮のイギリス人講師ライメル・ジョーンズが明治7年に紹介したといわれていた。そのほか体育伝習所でサッカーの指導にあたったG・A・リーランド、そして東京高等師範で教鞭をとったデ・ハビランドなどの外国人の名前があげられる。(Archibald Lucius Douglas)

ホルガー・ニールセン

8f244ad451e6473ea4d382c63c3cf25f    ハンドボールは、7人ずつの2組がボールを相手のゴールに投げ入れる競技。1898年に、デンマークのホルガー・ニールセン(1866-1955)が考案した7人制とドイツでコンラッド・コッホが考案した11人制があったが、1960年代から7人制で統一されている。(handball,Holger Louis Nielsen)

アートの遊園地・直島

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   瀬戸内海にアーティストの島といわれる直島(香川県直島町)がある。「家プロジェクト」は1998年に始まる。古い家屋を改修して家空間そのものを作品とした。島の南端にあるベネッセハウスは安藤忠雄が設計した地中美術館。地中にありながら、自然光が効果的に降り注ぐ。美術館で鑑賞できるのは、モネの「睡蓮」、ウォルター・デ・マリアの「球体」、「光のアーティスト」ジェームズ・タレルの作品などと限定されている。

パリが教えてくれること

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「マトラの船着場 モレ・シュル・ロワン」 シスレー

  日曜日には靴を磨く習慣こそが、エレガントな女性への近道なのです。ヨーロッパでは、初対面の人をまず靴で判断すると言われています。靴が何よりも持ち主を物語るからです。きれいに磨かれていなかったり、ヒールが擦り減っていたりすると、だらしない人間と評価されます。手入れされていない靴は、どんなに装いが素晴らしくても、すべてを台無しにしてしまうからです。(「パリが教えてくれること」)

 

宮沢賢治の信仰心

   宮沢賢治の一家の宗教は浄土真宗で、両親もかなり信仰の篤い人たちだった。母イチは賢治を寝かしつけるときにも、人は何のために生まれて来たか、世のためになるようにと語りきかせていた。賢治の幼い心に、母の慈悲深い心が伝わっていた。少年時代の賢治は、父親から今にお前は何になると聞かれた時に、「むやみにえらくならなくてもいい」と言った。そんな答え方では満足しない父が一層強くたずねると、「寒いときには鍛冶屋になればいいし、暑いときには馬車屋の別当になればいい」と言ったという。

    賢治は大正3年9月、18歳のとき「漢和対照妙法蓮華経」を読み、感動し、体のふるえを禁じ得なかったという。浄土真宗を信仰する父・政次郎と、法華経を読んで以来日蓮宗を信ずる賢治とは争ったが、賢治は生涯、法華経の精神をもって生きた。

恋は危険なほど燃え上がる

    ショパンとリスト、2人は仲がよかった。リストはオペラとも縁が深い。娘のコジマは不倫の末にワーグナーの妻になっている。コジマがスイスにいるワーグナーのもとへ走った事件は国際的に報道されて世間の非難を浴び、父のリストも激怒したといわれるが、リストも何回も不倫をしているのであまり強くいえないだろう。おもえば19世紀のロンマ派の芸術家は恋の時代だった。18世紀から19世紀、ナポリやミラノで隆盛をみたオペラのテーマもほとんど色恋、情事の礼賛である。リストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人はリストよりも6歳年長だっというから、芸術家とパトロンのような関係だっただろう。

2012年9月20日 (木)

大統領と首相のいる国

   世界にはアメリカ合衆国のように大統領がいる国、日本やイギリスのように首相がいる国、そして大統領も首相もいる国がある。大統領と首相がいる国は、ロシア、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、フィンランド、ギリシア、インド、モンゴル、韓国、ラオス、ペルーと多い。大統領と首相、とちらが権限があるか、それぞれ国の事情によって異なり一様ではない。たとえばフランスが共和制になったとき初代大統領はナポレオン1世の甥、ルイ・ナポレオン・ボナパルト(在位1848-1852)で、首相はオディロ・バロ、オプール伯爵アルフォンス・アンリ、レオン・フォシエだったが政治的実権は大統領にあったことは言うまでもない。しかし後になると首相が政治的役割を果たすようになるが、ド・ゴールの時代に大統領の権限を強化してから、フランスでは大統領が国家元首となっている。これに対してドイツ、イタリアでは戦後、大統領の権限は弱く、首相が国家元首となっている。

テッサロニキはギリシア第二の都市

Thessalonikiharbour  テッサロニキはむかしサロニカと地図帳で表記されていた。歴史都市で、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨していた。人口は約32万人で、バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで人口が多い。ヨーロッパ諸国の第二都市をあげる。

アークレイリ(アイスランド)
コーク(アイルランド)
マンチェスター(イギリス)
ミラノ(イタリア)
スウォンジ(ウェールズ)
グラーツ(オーストリア)
ロッテルダム(オランダ)
ロンドンデリー(北アイルランド)
リマソール(キプロス)
テッサロニキ(ギリシア)
ジュネーヴ(スイス)
ヨーテボリ(スウェーデン)
グラスゴー(スコットランド)
バルセロナ(スペイン)
コシツェ(スロバキア)
ニシュ(セルビア)
ブルノ(チェコ)
オーフス(デンマーク)
ハンブルク(ドイツ)
ベルゲン(ノルウェー)
デプレツェン(ハンガリー)
トゥルク(フィンランド)
リヨン(フランス)
ヴァルナ(ブルガリア)
アントウェルペン(ベルギー)
ウッチ(ポーランド)
バニャ・ルカ(ボスニア・ヘルツェ・ゴヴィナ)
ポルト(ポルトガル)
ビトラ(マケドニア)
ラバト(マルタ)
ティラポリス(モルドバ)
クルージュ・ナポカ(ルーマニア)
エシュ・シュル・アゼット(ルクセンブルク)

(Thessaloniki,Salonika)

インド・アニメ「巨人の星」

Photo   スポ根アニメの金字塔「巨人の星」がインドのテレビでリメークされる。インド版「スーラジ ザ・ライジング・スター」は、ムンバイのスラム街に暮らす少年スーラジが多くの試練の道をへて、プロのクリケット選手の輝く星となる物語。スーラジとは太陽の意。ライバル花形満はビグラムと名乗る財閥系企業の御曹司。星一徹は日雇い人夫ではなく、三輪タクシーの運転手。左門豊作はスラム街の子沢山一家の長男。養成ギブスや魔送球はもちろんでてくる。

たちまちビール

3c1687d668e5fcf932f06a80c56bbb27   本日のNHK「お元気ですか日本列島」気になることばコーナー。広島では「とりあえず」「さしあたり」のことを「たちまち」と言う。居酒屋で「たちまちビール」「たちまち刺身盛り合わせ」と注文する。お年寄りなども使い古くからある方言だが、実は平安時代に使われていた標準語だった。なぜか広島にだけ残った言葉である。平清盛の部下が都の言葉を安芸に伝えたのだろう。

昼の連続ドラマのヒロイン

Susanflannery1sized    スーザン・フラナリーという女優は日本ではあまり知られていないが、アメリカではとても有名である。出演作は「小びとの森の物語」「タワーリング・インフェルノ」「激走!5000キロ」くらい。実は昼の連続ドラマのヒロインとして長く続いている。アメリカでは石鹸洗剤メーカーがスポンサーにつくことから「ソープ・オペラ」といっている。日本でも花王「愛の劇場」、「ライオン奥様劇場」、P&G「東海テレビ昼ドラ」の類である。日本で昼ドラの女王といえば長内美那子。三ッ矢歌子、小畑絹子、佐治田恵子、三条江梨子、島かおり。(Susan Flannery,soap opera)

いま日本が危ない!

E0065412_20491692   19日、尖閣諸島接続水域に中国のフリゲート艦2隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認している。尖閣国有化以降、周辺海域で中国海軍が動いたのは、初めてとなる。日本政府は尖閣は日本固有の領土であり、実効支配していると主張している。領土問題は存在せず、野田首相は本日の街頭演説でも尖閣の国有化の実績を国民に訴えている。しかしこの理屈はあくまで内向きには受けても、対外的には激しい反発をともなう。反日デモ、日本製品の不買運動、ついには日本企業の中国撤退にもなりかねない。日中平和友好時の尖閣棚上げを外務省は認めていないが、実は両国間に暗黙の了解のもとに続いていたと考える。一方的な国有化は反発を買うのは必至である。外交政策のまずさが指摘されよう。両国がにらみ合い艦船が衝突することも想定される。あるいは中国側が発砲すれば、自衛手段として日本も応戦せざるをえない。最悪の場合、武力衝突の危機を想定しなければならない。いまの政府にそのような覚悟があるだろうか。イギリスとアルゼンチンとの間で3ヵ月間おこなわれたフォークランド紛争が教訓になるだろう。アルゼンチンは戦後、この島に様々な行政・医療サービスを行い、あきらかな実効支配してきた。レオポルド・ガルチェリは民衆の不満をそらすため、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の不満の矛先を逸らせようとした。1982年に戦われたフォークランド戦争では、イギリスの勝利に終わった。イギリスの艦艇の損失はアルゼンチン軍のそれを大きく上回ったが、揚陸作戦を成功させ、同盟国であるアメリカ軍の援助を得て情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を収めた。イギリスは戦後ほとんどの植民地や海外領土を手放したが、フォークランド諸島だけは手放さずにすんだ数少ない海外領土である。野田政権も消費税増税の国内の不満をそらすため、領土問題で強気にでたようであるが、墓穴を掘ることになりかねない。内閣支持率は低く、野田・赤松・鹿野の街頭演説でも聴衆は少なく、拍手はまばらだった。首相には「辞めろ!」の罵声まで飛んでいる。もし野田が「近いうち」に失脚すれば、尖閣問題もますます中国が優位に進めてくることになる。原発事故、経済失速、巨大地震、沖縄問題すべて解決できない日本は危ない。

2012年9月19日 (水)

綿矢りさは京都がよく似合う

Pn2012040601001846___ci0003    本日のNHKスタジオパークは芥川賞作家、綿矢りさがゲストだった。17、18日に予定されていた日中青年作家会議に出席予定だったが、反日デモの影響で中止されたが、そのような話は聞かれなかった。トークは苦手なようで言葉は途切れがちで大人しい雰囲気だったが素顔がみれてよかった。2年前から故郷の京都に戻って執筆活動に専念している。綿矢りさ京都おすすめスポットは金閣寺。近くに住んでいたという。愛読書は「風とともに去りぬ」や太宰治。10年間で「インストール」「蹴りたい背中」「夢を与える」「勝手にふるえてろ」「かわいそうだね?」「ひらいて」、ほか短編「しょうがの味は熱い」「自然に、とてもスムーズに」など寡作。最近、大江健三郎賞を受賞している。林芙美子や瀬戸内晴美とは違う。あくまで自然流で誠実なフツーの女性である。

2012年9月18日 (火)

「テトラファビア」 4は不吉な数字か?

   日本の病院やマンションは「4」という部屋番号を欠番にしていることが多い。4は日本語で「死」を連想することから、避けられる。野球の背番号も13は多いが、4はほとんどみることはない。かつて巨人では黒澤俊夫が背番号4をつけていたが、現役のまま病死したこともあって永久欠番になっている。大リーグではルー・ゲーリッグの背番号として有名であるが、彼も病により引退し、若くして亡くなった。歴代大統領の中で、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、ケネディと暗殺された大統領は4人である。四苦八苦、四谷怪談、四面楚歌、四人組、すべて「死」と関係している。やはり数字には科学では説明できない魔力のようなものが潜んでいるのではないか。(Tetraphobia,Lou Gehrig)

野田政権の日中外交の失策

M0013317603   尖閣諸島や竹島に緊張した状況が続いている。今年4月、石原慎太郎東京都知事が「尖閣諸島を都が買う」と言い出し、約13億円もの寄付金が集まった。あわてて政府が購入すると言い出した。だが尖閣国有化を中国がどのように受け止めるのか政府は慎重に判断したのだろうか。オリンピックによるナショナリズムの高揚がアジア諸国に火をつけたとしか思えない。銀座五輪パレードは政治に利用された。異常な熱狂ぶりは不安の裏返しとみえる。尖閣諸島の領有問題については、1978年の日中平和友好条約をめぐり、鄧小平が「我々の世代に解決の知恵がない問題は、次世代に任せよう」と提案し、問題を実質的に「棚上げ」して、日中両国の友好を優先させてきた。尖閣国有化するには事前の中国との綿密な協議が必要であった。いきなり国有化宣言するのは国内で受けても、対外的反発があることは当然に予測されるものである。野田佳彦にそれだけの覚悟があったのか疑問である。玄葉外相もオーストリアから日程を切り上げて慌てて帰国している。政府もこれほどの騒動になるとは予想していなかったとみるべきだろう。18日には中国反日デモは約100都市で起こり、多くの日系企業や日本食の飲食店などは休業している。日本製品のボイコットもおこっている。経済的損害額は2000億円以上といわれる。すべて野田政権の失策である。冷静な対応が必要である。

セカンドバージン

Photo   NHKドラマで話題となった「セカンドバージン」が松竹が映画化。鈴木京香、長谷川博己、深田恭子と同じキャスト。つまりテレビ版の続編。ほとんどはマレーシアの病院が舞台。しかしストーリーの展開がなく退屈。ベットシーンも中途半端。これは完全な失敗作だろう。やはりテレビ版は出会って2人が破滅する過程がスリリングだった。映画の世界では古典的ともいえるテーマでむかしローレンス・オリヴィエ、ジニファー・ジョーンズの「黄昏」などが思い出される。日本映画が全体的に落ちているようだ。

気になることば「鶏姦と巨乳」

    「鶏姦」(けいかん)という言葉は今日あまり耳慣れない。しかし広辞苑にはちゃんと載っている。「男の同性愛や性行為」「男色」。明治時代には使用されていたが「同性愛」「男色」という言葉ができてからはほとんど死語に近い。なぜ広辞苑はいつまでも載せているのかはわからない。これに対して、現代よく使用される言葉に「巨乳」が広辞苑にない。下品な言葉だから、あるいは性的表現としてふさわしくない、という理由だろうか。俗語であるが、すでに30年以上使用されたという歴史がある。アメリカ映画「マシュマロ・ウェーブ巨乳」(1980年)の邦題で使用されたのが最初である。1987年、女性解放団体「行動する女たちの会」が「巨乳」などの性的用語を糾弾したこともある。広辞苑編集部は糾弾を恐れて辞書に載せることをためらったのであろうか。言葉の収録基準に倫理観を差し挟んだり、美しいと思える日本語だけにすることが正当なる行為であろうか。ちなみに小学館の「大辞泉」には「巨乳」も「貧乳」もちゃんと載っている。

2012年9月17日 (月)

春香クリスティーン

O0480064011558707282_350    NHK「ひるブラ」でレポーターとしてたまに登場する春香クリスティーンは可愛い。スイスから来日してわずか4年なのに日本語がとても上手。趣味は落語鑑賞。可愛い容姿なのにお笑い系で売っていく事務所の方針らしい。むかしのキャッシー(プリン&キャッシーの司会)を思い出す。

デンマークの国花はマーガレットか、レッド・クローバーか

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    レッド・クローバー

   ネットで調べるとデンマークの国花はマーガレット(キク科)とある。だが妻鹿加年雄「世界の国花」によると、レッド・クローバー(マメ科)とある。クローバーとは和名ツメクサ。つまりアカツメクサのこと。江戸時代に南蛮船が持ち込んだ荷物の詰め物として用いられたので、「詰め草」と名付けられた。

    どうやらレッド・クローバーがデンマークの国の花と呼ぶのにふさわしい気がする。リンネにより1753年に「Trifolium Pratense」の学名が与えられた。Pratenseは「牧場に見られる」の意のラテン語。(Denmark)

アラファトは毒殺されたか?

350pxbill_clinton_yitzhak_rabin_yas    パレスチナ自治政府のヤセル・アラファト前議長(1929-2004)は8年前パリの病院で死去した。ところが下着などから放射性物質ポロニウム210が検出され、妻のスーハが仏裁判所にアラファトは毒殺された疑いがあり告訴状を提出していた。仏当局は、ヨルダン川西岸に埋葬されたアラファトの遺体を掘り出し再調査するという。(Yasir Arafat)

チピロネス・エン・スー・ティンタ

26l   スペイン・バスク地方の郷土料理。チピロネはイカ、ティンタとは墨のこと。イカを墨で煮込んだ料理。(chipirones en su tinta)

パエリア

Bude_restaurant_spanish_cuisine_pae   スペイン・バレンシア地方の郷土料理。パエジャと発音する。丸型の浅い鍋に米と白身魚、鶏肉、アサリ、ムール貝、エビ、野菜などを加え、サフランなどで風味をつけて炊き上げたもの。パエジャとはもともとフライパンの柄のないものをさする。発音は「パエジャ」「パエリャ」ともいう。(paella)

タンゴ発祥の地ボーカ

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タンゴは最初、男同士で踊っていた(1900年頃)

    タンゴはアルゼンチンのブエノスアイレスの港町ラ・ボーカという町で生れた。スペインやイタリアからの貧しい移民たちが、ここの酒場で踊ったといわれる。(ボーカは「母をたずねて三千里」でマルコがイタリアからアルゼンチンに渡り、最初に着いたところ)最初は男同士で踊ることも少なくなかったが、やがて娼婦を相手に踊られるようになった。ただ、リズムに関しては、キューバのハバネラ、ヨーロッパ伝来のワルツやポルカ、アフリカ起源のカンドンベ、アルゼンチンのパンパで生れたミロンガなどが、影響を与え、タンゴができあがっていく。1870年の初め頃であろうといわれるが、詳しい資料はなにも残っていない。(Argentina,Boca)

2012年9月16日 (日)

地球を歩こう

Santouka21    「千里の道も一歩から」というが、千里とはおよそ4000㎞。東京・大阪が556㎞。札幌・鹿児島が2663㎞。イスタンブールからパリまでが1799㎞。ニューヨークからロサンゼルスまでが約5800㎞。地球一周が4万km。「リッチマンプアウーマン」日向と真琴の日本ブラジル遠距離恋愛。1万8590㎞。
(Istanbul)

フォアグラ禁止令

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   カモ、アヒル、ガチョウなどの肝臓を強制的に肥えさせたものをフォアグラという。フランス料理の必須オードブル。ところが鳥の飼育方法が残虐だとして米カリフォルニア州ではフォアクグラ禁止令が今年7月から施行された。今も方の抜け穴をくぐつてフォアグラを出し続ける店、動物愛護団体が騒ぐなど賛否は分かれている。(foiegras)

ベトナムのすっぽん料理「バ・バ」

Photo_4    ベトナムはなんでも食材にしてしまう国である。なかでも北部地方の犬料理と鳩料理は有名だ。ホッ・ヴィッ・ロンは家鴨料理。カエル、トカゲ、ヘビ、コウモリ、アルマジロも料理の対象である。ハノイのレストランではスッポン料理がかなり格安で食べられる。バ・バ(Ba ba)という。(Vietnam)

リゾット

Photo    イタリア映画「にがい米」(Riso amaro)はポー川流域の水田地帯が舞台である。イタリアは中世から米作に成功した国で、スペインと並んでお米を食べる。イタリア語で米は「リソ(riso)」。米をバターで炒め、スープとサフランを加えたものがリゾットの原型である。リゾット(risotto)とは米と最高(ottimo)を合わせた造語といわれる。戦後、トマト、チーズ、玉ねぎ、セロリ、キノコなど好みの食材を使ったさまざまなリゾットがうまれた。ミラノ風リゾット(リソット・アッラ・ミラネーゼ)は、米をバターとスープで炒め炊きした黄色いサフラン風味の米料理。(Risotto alla milanese)

足助素一と叢文閣

    今日9月16日というのは、大正12年のこの日、関東大震災時の戒厳令下で憲兵大尉甘粕正彦らに大杉栄、伊藤野枝、甥橘宗一らが虐殺された日である。

  足助素一(あすけそいち、1878-1930)は札幌農学校に学び、小樽で貸本屋独立社を経営したが、上京して大正2年、叢文閣を創業した。農学校時代の先輩有島武郎の社会主義研究会に出席していた足助は、当時新潮社が大正6年から出しはじめていた「有島武郎著作集」の出版権を佐藤義亮社長に懇望して譲り受け、「小さき者へ」「或る女」「惜しみなく愛は奪ふ」「一房の葡萄」など、6年ほどで16 冊を出版、大部数を売り、大正出版史上の壮挙となった。有島武郎の個人雑誌「泉」も刊行した。このほか、大杉栄「無政府主義者のみたロシア革命」(大正11年)、大杉栄訳の「アンリ・ファブル昆虫記」、柳宗悦など。昭和初年、左翼系の出版物をだしている。

   足助素一は大正12年の有島武郎の心中事件(7月12日)、大杉栄、伊藤野枝の死(9月16日)に奔走した。足助は有島から大杉と伊藤を経済的支援するよう申し渡されていたという。

2012年9月15日 (土)

大森貝塚

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    1877年のこの日、エドワード・モース(1838-1925)が大森貝塚(品川区)の1回目の発掘調査を実施した。日本で最初の科学的発掘調査として知られる。出土品は、多種類の貝類をはじめとして、土器、土偶、土板、石斧、石鏃、人骨片、鹿やクジラの骨など多様で、これらはすべて東京大学に保存されている。(Edward Morse)

桃花褐(あらぞめ)

Photo   桃の花の色に似た淡い紅花染の色をいう。「退紅」ともいう。「日本書紀」天智天皇6年の条に見える「桃染布」や、「衣服令」の「桃染の衫」、「万葉集」の「桃花褐の浅らの衣」など見える。「ももそめ」「つきそめ」ともいう。

タイ料理あらかると

Tomuyamu1   タイ料理は今や人気で、ヤム・ヌア(あぶった牛肉のサラダ)や、トムヤム・クン(エビ入りの辛くて酸っぱいスープ)などファンが増えている。ヤム(yam)とは辛いサラダ。ヌア(nua)とは牛肉。トムヤム(tomyam)とはスープで、クン(kung)とはエビのこと。スキータイ(sukithai)とは魚介類、肉類、野菜を鍋で煮ながら食べるタイ式シャブシャブ。

卓球の起源

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   卓球の起源はあまりはっきりしないが、13世紀のフランスの貴族が宮廷で行っていた「ジュ・ド・ボーム」といわれるものらしい。これは素手や手袋をはめた手のひらでメリヤスでつつんだボールを打っていた。近代の卓球のような形になってきたのは、1870年代のイギリスである。雨の日など屋外テニスができないので、室内でテーブル・ゲームとして長い柄のついたラケットでコルク球を打っていた。テーブルテニスという名前もここから来ている。ただし卓球が誕生した年については1881年という説や1880年代という説などがあって定かでない。1890年にジェームス・ギブがアメリカでセルロイド球を見つけて持ち帰った。上流階級で流行っていた「バトルドア・シャトルコック」のラケットでこのセルロイド球を打ってみたところ、ラケットに当れば「ピン」、テーブルに弾めば「ポン」と音がして、打ち合うことが面白いと感じた。友人のジェームス・シェークスは「ピンポン」と商標登録し、1898年、ボールとラケットをケースに入れて、「ピンポン・セット」と名付けて販売したところ大流行となり、各地で「ピンポン・パーティ」が催され、女性はロングスカート、男性はタキシードの正装でピンポンを楽しんだ。セルロイドのボールとラバーのラケットの発明で、打ち合いが軽妙となり、ゲームの興味が増し、卓球は急速な発展を遂げた。日本には坪井玄道(1852-1922)が明治35年、イギリスから道具をもち帰って卓球が伝わった。( James Gibb,ping-pong )

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トンはタウンと語源は同じ

    人名でニュートンとかワシントンとかの「トン(ton)」は「タウン(town)」(町)のくずれたものである。だから地名によく使われる。ワシントンはジョージ・ワシントン、ニュージーランドのウェリントンはワーテルローの戦いでナポレオンを破ったイギリス軍人の名前に因んでいる。(George Washington)

ナイティンゲールと煙草

1   たばこは、喫煙者本人のみならず、喫煙母体の胎児や、喫煙者の近い人たちの健康をも脅かすものとして、嫌煙運動、禁煙運動が普及している。紙巻タバコの歴史はたかだか150年ほどであるが、葉巻の歴史は古代マヤ文明にまでさかのぼるといわれる。有名な哲学者・政治学者ホッブス(1588-1679)は「世のなかで、たばこほど、衛生上からだにいいものはない」と言っていた。そしてホッブスは91歳で天寿をまっとうし、自説をみずから証明した。最近では養老猛司が「たばこの害は根拠なし」「禁煙運動家はたばこを取り締まる権力欲に中毒している」(「文藝春秋2007年10月号)と山崎正和との対談で語り、物議を醸した。たばこのリラックス効果を認める人は昔から大勢いる。たとえば「クリミアの天使」といわれたイギリスの看護婦フローレンス・ナイティンゲール(1820-1910)である。ナイティンゲールが従軍看護婦としてクリミア戦争の野戦病院で従事していたときの話。当時の野戦病院は設備も悪く衛生状態も悪く、どんなに献身的に看護しても、負傷した兵士たちの苦しみを医薬品だけでやわらげることはむづかしかった。ところがある日、一人の兵士がたばこを取り寄せて一服し、その煙が辺りにたちこめると、とたんに病院内に平穏な静けさがただよった。その光景を目にしたナイティンゲールは、感動で目に涙を浮べた。そしてナイティンゲールはたばこが傷ついた兵士たちに安らぎを与える効果があることを実感したのだった。(Nightingale)

ローリーと工場風景

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 塀の上に横たわる男 1957

    ローレンス・スティーブン・ローリー(1887-1976)は、マンチェスターに生まれ、生涯の大半を近くの街ソルフォードで過ごした。彼の絵になじみの工場風景を見出したのもこの地である。両親と一緒に暮らしながら、地代集金人を職とし、一方で絵画とデッサンの教室に通った。1939年に母が死亡し、ローリーは神経衰弱の一歩手前まで追い込まれていたが、この不幸な時期は彼の絵が世に認められ始めたときと重なっていた。ルフェーヴル画廊の個展につづいていくつかの大展覧会が開かれ、ローリーの人気は1967年に記念切手が発行されるほど高まった。しかし、彼は質素な生活を変えることなく、1976年に世を去った。(Laurence Stephen Lowry)

ひじきの日

Photo_9     本日は「ひじきの日」。野坂昭如の小説「アメリカひじき」を読むと「ひじきと油揚げは大阪商人の丁稚の好物」と書いてある。そういえば私はひじきの五目煮を毎日のように食べている。スーパーの弁当にも必ず端にひじきがある。ひじきを食べると長生きする、と昔からいわれる。ところがひじきには発ガン性のある無機ヒ素の含有率が高いという説もあるが、ともかく、ひじきはご飯のおかずとしてポピュラーである。鹿尾藻、鹿角菜、鹿尾菜、羊栖菜、六味菜とも書く。野坂の小説「アメリカひじき」はちょっと人を食ったところがあって、ひじきは実はアメリカ製の紅茶の葉。水につけて戻し、干してから食べたところ、美味しくなかったという、体験談を題に付けている。「ひじき」は夏の季語。

屋代島ってどこにあるの?

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    瀬戸内海にはおよそ600ほどの島々があるが、屋代島(面積128.3平方キロ)は、淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島である。漁業と農業を営み、山口ミカンの産地として知られるが、ほかにみるべき産業がないため出稼ぎ、ハワイ移民も多かった。島にはハワイ移民資料館がある。「忘れられた日本人」の著作で知られる民俗学者の宮本常一(1907-1981)はこの島の出身。昭和を代表する空前の旅人が、ただいまと帰るふるさとがこの島だった。久賀歴史民俗資料館、橘民俗資料館、農村交流伝承館・文化財収蔵庫、周防大島交流文化センターなど文化施設も多数ある。

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陽気なチリの踊り・クェッカ

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   クエッカはボリビア・チリ・アルゼンチンで盛んなダンス。酒場で今でもクェッカ・ダンスは見られるのだろうか。クェッカ(Cueca)はラブハントのために踊るもので、男性と女性がお互いに右手で白いハンカチを振りながらぐるぐると回る。まるでオンドリがメンドリを追いかけるような格好だ。ギターで全て伴奏を行うが、アーコーディオン・ハープなども使う。ステップはなかなか難しいが、女性の踊りはとくに魅力的である。

H5zt    もともとペルーのリマで発生して、チリに渡ってきたといわれる伝統的な民謡で、18世紀頃から盛んに踊られるようになった。スペインのフラメンコの流れをくむもののようである。代表曲に「ラ・ボリビアーナ」「水瓶のクェッカ」「忘却のクェッカ」などがある。(Cueca)

2012年9月14日 (金)

引越魔列伝

Photo_11    葛飾北斎は生涯に60回は引越しをしたといわれる。谷崎潤一郎も40回以上はあるだろう。楽聖ベートーヴェンは少なくとも70回以上の引越しを繰り返した。(Beethoven)

女性映画監督

_mg_8169     最近、女性監督の活躍がめだつ。「かもめ食堂」の荻上直子、河瀬直美「萌の朱雀」、佐藤嗣麻子「コーストもういちど抱きしめて」、井上奈巳「犬猫」、蜷川実花「さくらん」、安田真奈「幸福のスイッチ」。そして西川美和「夢売るふたり」。 

     日本映画史において古くは坂根田鶴子の「初姿」(昭和11年)や田中絹代の「恋文」(昭和28年)など6作品あるが、桃井かおり「無花果の顔」など有名女優の肩書きで監督することが多かった。また小説家・椎名桜子などが華々しく登場したが、すぐにメッキがはがれた。だが日本の映画で本格的に継続して映画を撮り続けた女性映像作家のパイオニアは浜野佐知であろう。「十七才好き好き族」(1972)から「SEX捜査局くわえ込みFILE」(2006)まで300本以上ものピンク映画がある。 

   なお近刊書に「開拓の花嫁・1943年・満映」池川玲子著という坂根田鶴子(1904-1975)の評伝がある。プロパガンダ映画「開拓の花嫁」を取材している。

マルセル・シュウォッブ

Photo_6   マルセル・シュウォッブ(1867-1905)はパリ近郊シャビルに生まれ、9歳のとき家族と共にナントに移る。ユダヤ家系の裕福な家庭に育つ。学士院図書館副主事であった博学な伯父の許で養育された。ルイ・ル・グラン中学では、レオン・ドーデ、クローデルらの級友に恵まれた彼は、夙に教養の薫り高い環境の裡に成長した。ショーペンハウェルをはじめあらゆる哲学、また、ギリシア・ラテン文学、中世文学、とくに英米文学など、古近の文学を渉猟し尽くす。中世コキヤール党の隠語およびフランソワ・ヴィヨンのすぐれた研究者であり、他方シェイクスピアの翻案者、デフォーの翻訳者、またキーツ、スティーブンソン、メレディス、エドガー・ポオのよき理解者でもあった。小説家としての彼は、ことに短編小説に秀で、実生活の俗悪にあくまで抗しつつ、異常な人物・事件・滑稽な、もしくは悲劇的な幻想を追い求め、これをよく冷徹巧緻の文体にせしめた。晩年病を得て後は、パレ・ロワイヤルの住居に引籠ったが、彼の魅力ある会話が、アナトール・フランス、ロベール・ド・モンテスキュー、レミ・ド・グウルモンらの友人をそのサロンにひきつけた。代表作に「少年十字軍」「黄金仮面の王」「フランス語の隠語についての研究」など。江戸川乱歩はシュウォッブの作品を愛読していたことで知られる。(Marccel Schwob)

エジソン、小学校を3か月で退学

Photo_2     エジソンは、小さいころから「なぜ?」「どうして?」と質問ばかりして、大人を困らせる子どもだった。小学校へはいっても、彼は、自分が納得できるまで「わかった」とは決していわなかった。そのため、先生からも頭が悪い子だと言われたりして、小学校をわずか3か月でやめてしまった。その後、エジソンは、母親に勉強をおそわった。とくに彼は、科学の本が好きで、本で何かを知ると、自分で実験してみなければ気がすまないほどだった。この好奇心が、のちのエジソンを発明王にしたのである。(Thomas Edison)

ヤスパースとハイデッガー

67c5be53fefc2063313e622b2fc3ceee   2人が初めて出会ったのは1920年フライブルク大学のフッサールの誕生日のお祝いの席であった。ヤスパースはハイデッガーのいかにも哲学者らしい語り口にすっかり魅了された。それ以来2人は家族ぐるみの交わりをするようになった。しかしその後1933年にハイデッガーは、ナチスが支配するドイツでフライブルク大学の学長に就任した。他方、ハイデルベルク大学の教授であったヤスパースは、ユダヤ人の妻を持つていたため、ナチスの反ユダヤ主義によって大学を迫害された。戦争が終わった1945年には、ヤスパースはハイデルベルク大学の教授に復帰し、ハイデッガーはフライブルク大学から追放された。戦後ハイデッガーはヤスパースに「私は単純に自分を恥じる」と書き送っている。ハイデッガーは現代最大の哲学者だが体系的な著書を残さなかった。彼の師はフランツ・オーバーベックといい、ニーチェとも親交があった神学者である。ハイデッガーは生涯にわたりオーバーベックを尊敬していた。(参考:「ヤスパース・ハイデッガー往復書簡1920-1963」名古屋声大学出版会、松田幸子「ヤスパースとハイデッガー」上田女子短期大学31 2008年)Martin Heidegger,Karl Jaspers

パーカー牧師とタルボット神父

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    有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉はリンカン大統領の創作ではなく、宗教改革者ジョン・ウィクリフが1384年に出版した聖書の序文に書かれている。それもリンカンはウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。

   ピエール・ド・クーベルタン男爵の言葉として一般に伝わる「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することに意義がある」というのも、実はクーベルタンが考え出したのではなく、聖公会のペンシルベニア大主教のエセルバート・タルボット神父(1848-1928)が1908年のロンドンオリンピックの際にアメリカ選手たちに対して贈った言葉である。これに感動した男爵はこの言葉をスピーチに引用したところ、たちまちクーベルタンの言葉として世界に広まってしまった。(Abraham Lincoln,Pierre de Coubertin)

書評誌「Guardian of Education」とトリマー夫人

Photo_7   英国19世紀児童文学・教育評論「ガーディアン・オブ・エデュケイション」およびトリマー夫人評伝」全7巻(英文)が復刊されている。トリマー夫人(1741-1810)は「こまどり物語」で知られた児童文学者。フランス革命を危険思想とみなし、子どもの教育のために動物の擬人化を用いて教訓的な創作物語を書いた。また児童書の書評誌「ガーディアン・オブ・エデュケイション」(1802-1806)を執筆・刊行する。たとえば、「シンデレラ」は嫉妬心、家族への嫌悪感、虚栄心などを子どもの心にうえつけるものであり、「ロビンソン・クルーソー」は放浪生活や冒険心をたきつけるものであり、「マザー・グース」にでてくる奇想天外なアイデアは子どもたちの心を乱すものとしている。熱心なクリスチャンであるトリマー夫人は、想像力が野放図に広がることに強い懸念を持っていたと考えられる。

2012年9月13日 (木)

赤松登志子

Photo_3    森鷗外が最初の妻、赤松登志子(1871-1900)との離婚に至る状況を、登志子の兄が父に報告する書簡の下書きが静岡県磐田市で見つかった。和紙6枚に毛筆書きで、気性が合わず、筆硯の妨げになることを理由に、相談の上で別居したとつづられている。ただし「決して離婚などはいたさず」とあり、研究家・杉本完治は「別居時には2人に離婚の意思がなかったのでは」と話している。鷗外が登志子と生後間もない長男於菟を残して家を出て後の1890年10月ごろに書かれたとみられる。登志子は海軍中将赤松則良の長女。佐藤泰然の曾孫。28歳で病死している。

プラトンとアリストテレス

Photo_4     古代ギリシア哲学者プラトン(前427-前347)は至高のイデアは善であるとした。この直観的、主観的な考えに対して、弟子のアリストテレス(前384-前322)はプラトンの哲学をそのまま踏襲したのではない。彼はすべての理論は、立証できる事実の裏付けが必要であり、観察と厳密な論理を哲学の基盤とした。これに対してプラトンはアリストテレスを「書物の人」と言ったり、「クセノクラテス(第3代アカデメイアの学頭)には拍車が必要だが、アリストテレスには手綱が必要である」と言っている。プラトンはアリストテレスの俊敏さは認めるものの生意気な青年にみえたのかもしれない。しかし、アリストテレスはプラトンが死ぬまで20年間、忠実なプラトン学徒として、アカデメイアで活動した。後年、アリストテレスは師プラトンのイデア論に反対して、一元論の立場をとった。世間の人々はアリストテレスの態度を背徳忘恩の徒として非難したが、彼は「真理も友も、共に敬愛すべきであるが、私は友以上に真理を愛す」と言い、終生師プラトンを畏敬し続けた。(Plato,Aristotles)

アラウンパヤ王

Pyinoolwin__dsa_alaungpaya    ビルマのコンバウン王朝はアラウンパヤ(1711-1760)により創建される。第6代ボードーウパヤのとき最盛期を迎える。第1次イギリス・ビルマ戦争(1824-26)、第2次(1852-53)、第3次(1885-86)により敗戦。最後の王ティーボーがイギリス軍の捕虜となって王朝は滅亡した。(Konbaung,Alaungpaya,Bodawpaya,Thibaw Min)

穀物法廃止運動

   イギリスでは、ナポレオンの没落後大陸封鎖が解除されてから、ロシアの穀類が大量に輸入されて穀価の暴落をみたので、当時議会の主導権をにぎっていた地主層は、1815年議会で穀物法を成立させ、輸入穀物に重税を課して穀価つり上げを行ない、利益の確保をはかっていた。しかしこれがために労働者は深刻な生活難におそわれ、暴動すら起きた。ところが七月革命の結果、自由主義の台頭とともに一般民衆の利益に反しかつ自由貿易と矛盾する穀物法に対する反対の声が高まり、マンチェスターのコブデン、ブライトらは1838年の選挙法改正により議会においても資本家の勢力が地主勢力をおさえて優位にたち、1846年、議会において今後3年間に食料品輸入税を全廃することを決議するにいたった。これよりさき1833年に東インド会社の貿易独占権が廃止されていたが、これにつづいて1849年には航海法が廃棄され、ここにイギリスの経済上の自由主義体制が確立した。以後は名実ともに自由貿易国の代表として、国際貿易に活躍することとになった。また1833年には奴隷廃止法が成立して、イギリス植民地の約80万の奴隷が政府補償のもとに解放され、世界各国の奴隷解放の機運を大いに促進した。なお奴隷使役は人道上好ましくないとしてウィーン会議でその廃止が決議されたが、実行されるにいたらなかったのである。(参考:『世界史の研究』吉岡力)

13の恐怖(トリスカイデカフォビア)

Photo_3   欧米では、13の数字は不吉といわれる。13日の金曜日は、家の新築や引越しや旅行、結婚式はすべて避ける。ヨーロッパのホテルや病院には、13号室とか13階がないことも多い。絞首刑台を俗に13階段という。13という数字を嫌う恐怖症をギリシャ語を使ってトリスカイデカフォビアという。4の恐怖症をテトラフォビア、666恐怖症はヘクサコシオイへクセコンタへクサフォビアという。だがなぜ、13という数字が不吉といわれるかというと、どうもいわれがハッキリとしない。キリストが処刑された日が13日の金曜日だったからとか、最後の晩餐でキリストを裏切ったユダが、13番目の席に着いていたからなどいわれている。いずれにしても、キリスト教と関係があることだけは確かであろう。もともと金曜日は金星(Venus)で、ヴィーナスの名が示すように愛の女神を讃える日だった。ところがキリスト教が普及すると、それは快楽に溺れる邪教の祭りとされ、中世では金曜日は悪魔崇拝の日として忌み嫌われるようになった。魔女の饗宴(サバト)は金曜に開かれ、しかも集まる人数も13人。魔女と黒猫が悪事をたくらむときも、かならず13人と13匹ずつ集まるという。この伝承が、13が忌み嫌われた理由である。だが、本当はそれよりももっと古い時代から、13という数字は嫌われていた。古代バビロニアで12進法で数えるとき、13番目は「はみだしたイヤな数」とされ、このことからだんだん、13を不吉とするジンクスが生れたようだ。では、金曜日はなぜ嫌われたかというと、古代のヨーロッパでは罪人は、いつも金曜に処刑されていた。そこで金曜日が不吉に結びつけて考えられるようになった。これらは現代の人々にとっては、ただの迷信にすぎないと考えるかもしれない。野球選手の背番号はどうであろうか。大リーグでも日本でも13の背番号の選手は多い。西武の西口文也、中日の岩瀬仁紀、阪神の榎田大樹のように投手が多い。これは相手チームにとって嫌がられるような呪いがこめられているように感ずる。巨額契約金問題の巨人の野間口貴彦は入団時は背番号13だった(現在は45)。通算勝利も13勝。13という数字に本人が呪われているようだ。

   13という数字は、いまも、世界の人々の意識の下に根を下ろし、呪いをかけているかのようである。

( Triskaidekaphobia,Tetraphobia,Hexakosioihexekontahexaphobia,Sabbath )

乃木希典の殉死

    乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに大喪の儀式当日自邸で殉死した。東郷平八郎は、明治天皇が崩御されたとき、「乃木さんは死ぬだろう」と考えた。だから乃木夫妻の死を聞かされた時にも、あまり驚かなかった。

    東郷は乃木への鎮魂歌をこう詠んでいる。

   見るにつけ 聞くにつけてもただ君の

             真心のみぞ しのばれにける

東大の東洋史学者の市村讃次郎(1864-1947)は、

   生きてだに死にたる人の多き世に

            死にて 生きたる君ぞ尊き

と鑚仰している。

(参考:戸川幸夫『明治の逸材』人物探訪・日本歴史18)

2012年9月12日 (水)

おやじ飲んでるかい

Photo    福井県出身の歌手といえば五木ひろしだが、朝田のぼるもいる。朝田は1975年「スター誕生」の出身で、翌年「白いスカーフ」でデビュー、「おやじの酒」はヒットした。1980年ころまではテレビでもよくみたが、消えてしまった。今日のNHK歌謡コンサートに出演していた。久しぶりにみた朝田はもう青年の面影はなかったが歌唱力は健在だった。

アーバーダーン危機で消えたマッキー

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 皇帝派クーデターによって逮捕されたモハンマド・モサッデグ(1953年)

    イランは戦後、石油の国営化を宣言し、アングロ・イラニアン会社の施設を接収したので、イギリスとの関係が危機に陥った。ドワイト・アイゼンハウアー大統領はCIAにイランの政権転覆を命じた。その結果、イラン首相モサデグはクーデターで失脚し、親英米路線のパフラヴィー国王の実権が戻った。いわゆるアーバーダーン危機で消息がわからなくなった政治家も多い。CIAに殺されたのだろうか。モサデグの片腕といわれたフセイン・マッキー(Hussein Makki)のその後の消息がわからない。「最後の血の一滴までイギリスと戦う」と言っていた。

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「世界現代人名小事典」(1953年)には「マッキ」が載っていた

(Dwight Eisenhower)

2012年9月11日 (火)

明荷

Photo_3   明荷(あけに)。大相撲において関取力士が化粧廻し、締め込み、浴衣、小物類、といった身の回りの品を入れる行李のこと。

高倉健、男の美学

Photo_2  通算205本目となる映画出演作「あなたへ」が公開中の高倉健。「単騎、千里を走る」以来6年ぶりとなる。さすがに老けた健さんだが、81歳とは思えない。足腰はしっかりしていて颯爽としている。撮影現場では決して座らない、とか、スタッフへの細かい気くばりとか、いろいろな秘話が聞かれた。番宣も意欲的でNHKのインタビュー番組では素顔の健さんがみれた。寡黙なイメージだが、持論ではかなり喋るようで、「ゴッド・ファーザー」「ディア・ハンター」が好きだ。大スターにもかかわらず、キャップ・ハットにジャンパー姿、競馬・麻雀はしない、酒は飲まず珈琲を好む。礼儀正しく、義理堅い。アスレチックに通い体を鍛えている。禁欲的な健さんという神話は本当だった。まさにプロフェッショナルとよぶにふさわしい人だ。

郵便差出箱

Photo    郵便物を投入するため、各所に設けている箱をふつう郵便ポストというが、ポストとは英語で「郵便」を意味する言葉なので、「馬から落馬する」のように「郵便」の重ね言葉になっている。郵便法などの正式名称は「郵便差出箱」である。

2012年9月10日 (月)

ゲートボールを考案したパン屋さん

Photo   ゲートボールは5人1組の2チーム対抗で行われる日本発祥のスポーツ。1947年に北海道芽室町の鈴木栄治(のちに和伸と改名、1918-1983)は、子供たちのために、手軽にできる健全な遊びをつくろうと考え、クロッケーをヒントに、ゲートボールを考案した。1970年代になって全国に普及していった。木の槌で木のボールを打つスタイルは、鈴木栄治がパン屋の前に材木関係の仕事をしていたことがきっかけだった。

ネズミの店賃(たなちん)

留守の多い家で、まるでネズミのために家賃を払っているようなものだとの意味。江戸ことば。

清盛の出家

   大河ドラマ「平清盛」第35回「わが都、福原」では1168年2月、病から回復した清盛は、明雲の手によって出家する。平家一門の前で頭を丸めた姿を披露した。そして福原に隠居する。平信範(112-1187)の日記「兵範記」にも病の記録がみえる。清盛は「寸白」という寄生虫病を発病して、数日、危篤状態に陥ったとある。そしてその後の出家については、「除病延寿菩提」とある。出家することで病が癒えると信じていたようである。この「兵範記」の原文テキストは京都大学電子図書館でウェブ上で閲覧が可能である。

テレビ父さん

04_09   さっぽろテレビ塔のキャラクター。緑色の腹巻をした赤い塔。シンプルなデザインで脱力系ゆるキャラとしてトップクラスの人気がある。

ねずみ

    左甚五郎は奥州の旅に出て仙台城下に入り、鼠屋というみすぼらしい小さな宿に泊まった。向いには仙台一の大宿、虎屋がある。店主によれば、以前は虎屋の主だったが、番頭に騙されて乗取られたという。甚五郎は木片で鼠を彫って置いていった。名人甚五郎の鼠が動くといのが評判になり、鼠屋には連日客が大入りで、増築をし、奉公人も増えて来た。一方、向かいの虎屋は寂れるばかりで、一計を案じた主人が飯田丹下に虎を彫らせて、鼠を見下ろす2階の手摺りに置いたところ、鼠が動かなくなってしまった。知らせを受けた甚五郎が駆けつけると、虎の出来はたいしたことはないと思った。そこで動かなくなった鼠にあの虎がそれほどに怖いのかと尋ねたところ「あれは虎だったんですか、猫だと思った」

芭蕉、西鶴の文芸

Gn745   芭蕉と西鶴は寛文から元禄という同時代を生きた。俳諧は同門で、西山宗因の談林派である。芭蕉は西鶴の文章について「詞(ことば)あしく賤しくいひなし、西鶴が浅ましく下れる姿あり」(去来抄)と手厳しい批評を下している。品格に欠けるというのであろうか。一方、西鶴は「西鶴名残の友」で芭蕉を、「只俳諧に思ひ入りて心ざしふかし」として、別に非難する態度をみせない。同世代の2人の人間性のちがいをかいまみるようである。2人の大きな相違は芭蕉が其角・去来など「蕉門十哲」と称せられる優秀な門人がいたことである。(岡崎義恵「芭蕉と西鶴」支倉書林 1946年、廣末保「芭蕉と西鶴」未来社 1963年、乾裕幸「芭蕉と西鶴の文学」1983年)

2012年9月 8日 (土)

朝ドラヒロイン渡辺梓

Photo_4    NHK連続テレビ小説「梅ちゃん先生」もそれそろ話が終盤にむかう。1961年の「娘と私」から数えると86作品になる。連続テレビ小説のメジアン(中央値)は何か。43作目の「和っこの金メダル」(1987)。ヒロインは渡辺梓。現役女優である。

2012年9月 7日 (金)

エースはどっち?

   昨シーズン18勝5敗で名実ともに巨人のエースとなった内海哲也。ところが、FAでソフトバンクから杉内俊哉が移籍し、内海と杉内、どっちがエースかという問題が起こっている。本日のヤクルト戦。杉内は約1か月ぶりの登板で11勝目をあげた。内海は12勝6敗。杉内は11勝2敗。信頼度では杉内がまさるが、チーム貢献度では内海が上。内海と杉内、これからの大一番の活躍がエースの座を決めることになるだろう。

メジアン宰相・東久邇稔彦

Photo_2    野田佳彦首相は内閣発足から1年が過ぎ、民主党代表選への出馬を表明している。注目の細野豪志、田中真紀子らが不出馬を表明、野田の再選が濃厚となった。細野(41歳)は若くみえるが、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任したとき44歳2ヵ月だった。

    野田は伊藤博文から数えると第95代の首相で、実質は62人目。つまり戦後の幣原喜重郎から数えると32人目。伊藤博文から鈴木貫太郎(臨時の内田康哉を入れる)までが30人。ちょうど間のメジアン(中央値)宰相首相は、31番目の東久邇稔彦(1887-1990)。国体護持を至上命令とした、最初で最後の皇族内閣だったが僅か54日で幣原喜重郎に譲った。

メジアンと平均値との違い

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  厚生労働省の統計によると、平成19年の1世帯当たり平均所得金額は556万2千円である。サラリーマンの給与所得の年収額を分布図でみると、400万円以下が半分以上を占める。1000万円以上も多く、少数の高額所得者は引き摺られて右すそが長くなる。消費税増税問題は400万円以下の生活者には負担は大きく、死活問題であるが、高額所得者にとってはさほど問題にはならない。

Bunpujoho    度数分布を調べると、右に向って非対称的な(正の値に歪曲している)ことがわかる。この場合、平均値は最頻値(モード)よりも大きくなる。中央にあたる値をメジアン(median)という。現実には所得ゼロ世帯が多く、平均という数値は一部高額所得者が押し上げているにすぎない。いまの日本は豊かな国ではなく、貧乏人の国である。

2012年9月 6日 (木)

「飼い犬に手を噛まれる」英語でどう表現する?

   日ごろ面倒を見てやっていた部下、あるいは助手から害を加えられること。「double-cross 裏切る」を用いる。

I was double-crossed by my trusted assistant.

信頼していた助力者に裏切られた。

気になることば「月極駐車場」

Resize044289ea3   「月極」(つきぎめ)とは1か月を単位として契約すること。月極は古い漢字の使い方で、辞典にもあるが、常用漢字の時代では「月決」のほうが正しい。最近、札幌や高知で「月決駐車場」という看板も出現しているという。この事例は「掛り」と「係り」に似ている。昭和40年ころまでは、会社や役所の組織名称は「○○掛」という漢字を使っていたが今ではほとんど見かけず、「○○係」が一般的である。

多摩と多磨、太田と大田

Photo   府中市にある西武鉄道多摩川線に「多磨駅」がある。「多摩」ではなく、よく東京の人でもよく間違えるらしい。多磨霊園、多磨火葬場である。

  東京都にあるのは大田区。群馬県にあるのは太田市。島根県には大田市がある。人名にも太田と大田がいる。江戸城は太田道灌。蜀山人は大田南畝。青森県三沢の太田幸司、巨人の大田泰示。

   印刷物に誤植はつきものである。むかし「禅研究の第一人者、鈴木大拙」とあるべきところを、禅と褌とを誤植して、ふんどしの研究家になりさがってしまったという笑い話がある。「庇(ひさし)」と「屁(へ)」もよく混同される漢字である。写植時代は字形で活字を探していたが、最近はワープロなので漢字変換の際にミスが起きるようである。

斎藤斎藤という名の作家

    いま斉藤斎藤という名前の歌人がいるらしい。1972年生まれ。ここでお話するのは、1916年生れの斎藤斎藤(1916-1999)である。奄美大島の生まれで、昭和25年に「雨降る孤島」で夏目漱石賞を受賞、のちに「シュロン耕地」で直木賞候補になっている。もともとの姓は中野で、中野斎藤だった。おそらく奄美では斎藤というのは名だと考えていたのではないか。斎藤家の令嬢と恋愛し、養子に入って斎藤斎藤となった。誤植のような変な名前なので、裁判所でも改名を認めてくれて、斎藤芳樹となった。

ンドンバ

Photo_7   「ン」から始まる言葉に興味深々。チャドの首都は「ンジャメナ」。カメルーン南部の郷土料理に「ンドンバ」と好きな「ン」が2つもある。ナマズをぶつ切りにして、バナナの葉にくるんで蒸したあと、トマトソースでじっくり煮込んだンドンバはカメルーンのごちそうである。(Cameroon,N'Djamena)

2012年9月 5日 (水)

気になることば「はしゃぐ」

   「はしゃぐ」とは調子にのって、うかれ騒ぐ、の意味。もともと室町後期から「はしやぐ」という言葉は、「乾く」「乾燥する」という意味で使われていた。その後、江戸初期に「浮かれて騒ぐ」の意味が派生した。「はしゃぐ」は、漢字で書くと、「燥ぐ」乾いて軽くなる、という意味から、「フワフワと浮き立つ様子」を思い浮かべて、この漢字を当てたのかもしれない。しばらくの間は、「乾く」と「騒ぐ」の両方の意味があったが、後に、「乾く」の意味は薄れて、「騒ぐ」という意味の方がより一般的になった。たが明治生まれまでの人は、「乾く」の意味で使っていた。「桶がはしゃぐ」「かっぱしゃぐ」(からからに乾燥する)。「この魚、かっぱしゃいてて、もう食えねぇよ」(遠州弁)と使う。

ンコ文字

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N'ko brochure(ンコ文字の小冊子)

  1949年にギニアの作家ソロマナ・カンテ(1922-1987)がギニア・マリ・コートジボワールなどで話されるマンデ諸語のマンディニカ語表記のために考案した文字。徐々に普及しており、ヴァイ文字と並んでこの文字は、アフリカ人が自分たちの言語のために考案した文字の中で、比較的成功している文字といえる。アラビア文字のように右から左に連続している。「ンコ」はマンデ諸語で共通して「私は言う」の意味。(N Ko alphabet,Mandinka,Solomana Kante)

ロドグナ王女像

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トルクメニスタン歴史民俗博物館蔵

   トルクメニスタン・アシガバート西方18㎞にあるニサ(Nisa)遺蹟は、パルティア王国(BC195~AD247)の最初の都として栄えた町。1952年にヘレニズム時代につくられたとされる彫刻が出土した。高さ60cm、大理石製。アフロディーテの姿をかりて、パルティア王ミトリダテス1世の娘ロドグナ王女を表したとされている。紀元前2世紀後半。官能的な美しさはミロのヴィーナスを思わせる。イラン人の遊牧国家はギリシア文化の影響が大きくみられる。(Mithridates)

あいたた最中

Photo_5   いま加古川で有名なものといえば、上野樹里(むかしは菅原洋一だった)と名物「あいたた最中」。豊かな甘みの餡をサクサクとした食感で楽しめる。聖徳太子ゆかりの寺、刀田山鶴林寺の「あいたた観音」に因むネーミング。その昔、盗人が観音さまを盗み出し、溶かして儲けようとしたら観音さまが「あいたた」と言ったので驚き、観音さまをお寺に返し改心したという。

人間国宝第1号、富本憲吉

Photo_3    陶芸家、富本憲吉(1886-1963)は1955年、色絵磁器の技術で重要無形文化財(人間国宝)に認定された。文化財保護法によって新設された認定制度後、最初に認定された者の1人である。個人指定は現在までに165人が認定されている。

長沼孝三

Photo    長沼孝三(1908-1993)は長沼忠兵衛の3男として山形県長井に生まれる。昭和6年、東京美術学校を卒業し、昭和初期のモダニズムを彫刻で表現、現代具象彫刻家のひとり。作品の底辺にあるのは、清新な人間愛であり、見る人を優しい気持ちにしてくれる。代表作「インテリゲンチャ」「愛の女神」。長沼孝三彫塑館が長井市に1992年開館。

尾竹紅吉

Photo_2    尾竹紅吉(おたけこうきち、1893-1966)。本来はべによしと読む。本名は尾竹一枝。女流画家。婦人運動家。明治26年、富山市越前町で生まれる。日本画家・尾竹越堂(1868-1931)の長女。本郷菊坂の女子美術学校中退。明治45年1月、青鞜社に入社。「五色の酒事件」「吉原登楼事件」などの騒動を引き起すも、平塚らいてうの寵愛を受け、「青鞜」の表紙を担当する。やがて、平塚に奥村博史という恋人ができると、尾竹と平塚の仲は破綻する。失意の中、青鞜社を退社し、大正3年3月、神近市子、小林哥津らと雑誌「番紅花」(さふらん)を発行する。その雑誌の装丁を富本憲吉(1886-1963)に依頼するうちに、ふたりは恋仲となり、大正3年10月、結婚する。昭和2年、奈良から千歳村(現・世田谷区上祖師谷)に移り、新居と窯を築く。富本一枝という筆名で「解放」「婦人公論」「婦人文芸」「女人芸術」などに評論、随筆を発表。戦後、一枝は憲吉と別れ、大谷藤子の協力で山の木書房を創立し、壺井栄の「柿の木のある家」などを出版する。由起しげ子の執筆を後押しするなど多彩な活動をみせた。のち「暮らしの手帖」に童話を連載した。(参考:渡邊澄子「青鞜の女・尾竹紅吉伝」)

2012年9月 4日 (火)

ウダイプール

Udaipur_2    インド北西部、ラージャスターン州南部の都市。ピチョラ湖を見下ろす宮殿が美しい。また湖上に建つレイク・パレス・ホテルも評判である。(Udaipur,Lake Palace Hotel)

肖り、もじり名

Photo   むかし「ベンハー」といえば、チャールトン・ヘストンではなく、ラモン・ノヴァロだった。時代劇スター羅門光三郎は彼の名ラモンを肖(あやか)って芸名にしている。映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルは「白鯨」のメルヴィルの肖り。女優のミムラは童話ムーミンに登場するミムラ姉さんから拝借している。女優リー・グラントは南北戦争の両司令官ロバート・E・リーとユリシーズ・グラントから取っている。日本でいえば西郷海舟という風な感じか。レオナルド・ディカプリオは父はイタリア人でレオナルド・ダ・ビンチに因んでつけられた。西郷輝彦。郷土の偉人、西郷隆盛にあやかる。アニメ「ちびまるこちゃん」のナレーターでおなじみのキートン山田。喜劇俳優バスター・キートンに肖る。益田喜頓、谷啓などはバスター・キートン、ダニー・ケイのもじり。巨人の阿部慎之助はピーター(池畑慎之助)をあやかる。( Charlton Heston,Lee Grant,Leonardo DiCaprio )

クラシックの日

   カルロ・ドルチ(1616-1686)といえば国立西洋美術館にある「悲しみの聖母」でわが国でもよく知られている画家である。そのドルチの作品に「オルガンを奏でる聖セシリア」(1670)がある。聖セシリアは3世紀の人で音楽の守護聖人。古代キリスト教時代の殉教者として最も崇敬されている1人で、早くも4世紀にはローマにおいて祝日が定められている。(Saint Cecilla,Caro Dolci)

Carlo_dolci_cecilia

2012年9月 3日 (月)

志賀直哉「正義派」の今日的テーマ

    志賀直哉「正義派」は明治45年1月の作品であり、教科書にも取り上げられ、大勢が一度は読んだことがあるだろうが、その先見性に注目したい。粗筋は5歳の女児が電車に轢かれて即死した。現場で作業していた3人の工夫が目撃していた。運転手は「女の子が車の前に突然に飛び込んできて、ブレーキをかけたが間に合わなかった」と不可抗力で事故は回避できないものと主張した。だが工夫らは「最初は車と女の子との間にはカナリの距離があり、すぐにブレーキを掛けさえすれば、事故は起きなかった」と証言した。工夫らは真実を語って、初めはスッキリしたが、会社の監督から「余計なことをしゃべるな」と言われたことを思い出すと、仕事を失うのではないかと、不安になり、ジレンマに陥る。牛肉屋で激しく酔っ払った後で、3人はもう一度事故現場へ向うが、結局降りずに事件のことは忘れようとする。今日であれば、運転手は、起こりうる状況を予見しながらそれを回避するように運転することが求められ、小説「正義派」の運転手はおそらく過失が問われるであろう。この小説のテーマには普遍性があり、交通事故だけにととまらず、会社が違法行為をした場合、社員が告発できるか、とか、学校内でイジメがあったとき、組織の都合の良いように隠蔽せず、見て見ぬふりをせずに真実を伝えることができるかという、現代的な課題にも直結するように感じられる。

日本全国名所だらけ

    純文学の小説家が人名や地名をNとかSとかイニシャルであらわすことをしばしば見かける。これは、読者に固定イメージを与えず、なるだけ普遍的な問題として捉えてほしいからであろう。ところがそのような作家の意図とはうらはらに、地元の行政や図書館では、「オラが村さの流行作家だべ~」とばかりに、「ここのサル公園は風の歌を聴けにてでくる」とか「海辺のカフカはここの図書館がモデルだ」と喧伝したもんだ。さぞかし作家には迷惑なことだろう。谷崎潤一郎の「細雪」や「猫と庄造と二人のをんな」などのように明らかに地名が記されてあれば、文学と風土が不可分であり、郷土文学として研究するに十分なる意義が認められるだろう。ところが謎解きのように、作品の描写からご当地の都合の良いように宣伝に利用する風潮に恥じる気持ちはないのであろう。おそらく行政はそれほど暇で茶坊が跋扈しているのであろう。もちろんこのようなことは日本的でむかしからある。須磨寺には源義経の腰掛松というのがある。一の谷の合戦後、義経が敦盛の首実験をするときに腰掛けたというのである。平重衡とらわれの松もある。須磨寺宝物館には「青葉の笛」「弁慶のつり鐘」がある。誰も本物と信用する人はいないと思うが、名残を残す名所旧跡になっている。

清水幾太郎功罪論

Photo_6 清水幾太郎(1907-1988)は、60年安保闘争の指導者として活躍し、その後、防衛力の増強を主張するなど思想的立場を急速に転換した戦後知識人しとて知られる。評論家の大宅壮一が「平和論の神様」と評した人物が、後年「天皇論」で天皇を擁護し、「戦後の教育について」で教育勅語を再評価し、「わが人生の断片」では基地反対運動や安保闘争の内幕を語り、果ては「戦後を疑う」で治安維持法を弁護し、ついに「核の選択 日本よ国家たれ」(諸君 昭和55年7月号)で核武装の可能性を含む軍事力増強論を唱えるに至っている。もちろんケペルは肯定しているわけでも、支持しているわけでもないのだが、今日ですらタブーとされる問題を、昭和55年に論じていることにただ驚くばかりだ。清水の先見性は安保後の昭和40年代にすでに見えていた。まだ国内ではマルクス主義が知識人の間で有効性をたもっていた時代に「現代思想」(昭和41年)で19世紀思想の崩壊を予想しており、続く「倫理学ノート」(昭和47年)において「人間の幸福」という問題が科学の外部に排除されていることを指摘している。格差社会やニートという言葉はなかったが、これらの社会問題はすべて今日的な最も重要課題であろう。ただ清水の思想の急転回には、ケペルなどの凡人にはとてもついていけないところがあり、清水を転向者として軽蔑していた時期がある。しかし、死後20年近くたってくると、その膨大な著作である「清水幾太郎全集」全19巻を少しは読んでみようという気になりだした昨今である。清水の長所はすぐれた社会学者であり、ジャーナリストであるというこの二面性を備えた稀なライターだということである。昭和24年9月4日号の「週刊朝日」の「顔」というコラムで清水を次のように紹介している。

   清水幾太郎は批評のうまい人で、どんな問題についても人とはちょっと変わった角度から光線をあてて照らしてみせる。(中略)アイデアがいいと言ってもよいし、思いつきが器用だといってもよい。思想的にはプラグマティズム。学識もあるし、視野も広いし、才人でもあり才筆家でもある。専攻は社会学だが、哲学もわかる。物の見方にソツがなく、広く高く物を見る人なので、ジャーナリズムが放っておくわけがない。ジャーナリズムにはもってこいの便利な社会評論家である。高級総合雑誌の巻頭論文などにはウツテツケの筆者である。

    誰がこの記事を書いたかわからないが、すでにこの時から清水の本質を見抜いているように思える。

『北越雪譜』と雪譜まつり

15000995s_kinenkan   新潟県南魚沼市塩沢では600本近い蝋燭に火を灯した幻想的な祭り「しおざわ雪譜まつり」が毎年2月に行われている。寺島しのぶ主演映画「ヴァイブレータ」にもでてくる。雪譜とは日本における科学随筆の先駆である鈴木牧之の著書『北越雪譜』に因んでいる。鈴木牧之(1770-1842)は、明和7年正月27日、越後国魚沼郡塩沢に生まれた。幼名弥太郎、後に儀三治と改め、俳号を牧之と称した。家は特産の縮の仲買いと質屋を営み、父の恒右衛門は、家業が安定するにつれて俳諧に親しんだ。この血をうけて牧之も文芸を好んだ。生来器用な彼は、三国街道を往来する文人墨客に啓発され、句や絵などに上達した。徳昌寺の虎斑禅師に詩歌を、狩野梅笑に画を学ぶ。しかし分を知る彼は、趣味への惑溺を自ら戒め、家業に精励した。商売の中心を、縮仲買いから次第に質営業に移しつつ、一代で家産を三倍にふやし、時に貧民に施して会津藩小千谷陣屋の褒賞をうけた。

    牧之は19歳の時に縮80反を持ってはじめて江戸へ出た。27歳の正月には伊勢神宮を参拝した。雪のない世界に接して彼は、今更ながら郷里魚沼の雪深い生活に感慨を覚えた。しかも雪国の実状を伝える書物は、まだどこにもない。文才のある彼は、魚沼の自然と習俗、また住民の生活の哀歓を、薄雪の地の人々に紹介しようと企てた。彼はまず、山東京伝に草稿と雪具の雛形を送って頼みこんだ。話はまとまらず、滝沢馬琴、岡田玉山、鈴木芙蓉と依頼するが断られた。半生の苦心がみのり、山東京山の好意的協力をえて、『北越雪譜』初編三冊を「鈴木牧之編撰、京山人百樹刪定」というかたちで世に出したのは、天保8年の秋であった。思いたってから40年の歳月が過ぎていた。

    刊行されるまでは紆余曲折をへた『北越雪譜』ではあったが、売り出されてみると、雪の風土を描いた書物が今までになかったことも手伝ってか、時好に投じて広く読まれ、続編が待望された。牧之はすでに中風の床にあったが、老躯に鞭うって二編の執筆をすすめ、天保12年11月に出版した。翌13年5月15日、牧之は73年の生涯を閉じた。鈴木牧之記念館(新潟県南魚沼市塩沢)がある。

日曜洋画劇場

Photo    昨夜、久しぶりに日曜洋画劇場を見ようと思ったが、休止。「よゐこの無人島0円生活」が放送されている。来週はスギちゃんの事故で洋画がオン・エアされる。本番組は無くなったわけではないが頻繁に休止がある。末期症状なのだろう。

    もともと「土曜洋画劇場」といい1966年10月1日にスタートで長寿番組の1つ。ハンフリー・ボガードとエバ・ガードナー主演の「裸足の伯爵夫人」。1949年以前のMGM作品が中心。翌年から「日曜洋画劇場」となった。この番組で外国スターの名前を覚えた。ゲーリー・クーパーの「ヨーク軍曹」やシドニー・ポアチエ「野のユリ」(1963)、ブリジット・バルドー「軽蔑」(1963)、エリザベス・テーラー「いそしぎ」(1965)、テレンス・スタンプの「コレクター」(1965)が印象深い。歴代高視聴率は「スーパーマン」「エマニュエル夫人」「ザ・デイ・アフター」「ターミネーター」「ダイ・ハード」「ロボコップ」などである。淀川長治の解説が無くなってから見ていない。だが時たま日曜の夜9時になると、なぜか洋画が見たくなる。(The Barefoot Contessa)

2012年9月 2日 (日)

ロミオとジュリエット

8469100437975ac4   シェイクスピアの名作「ロミオとジュリエット」が最初に上演されたのは1595年ころといわれる。以来、舞台、オペラ、バレエ、映画、ミュージカルなど世界中で何度上演されたか詳らかではない。舞台では1845年が記録に見えるが、20世紀に入ってから無声映画で何本か作られた。ポール・パンザーとフローレンス・ローレンス(1908年)。舞台では1935年にジョン・ギールグッドとローレンス・オリヴィエがロミオを交替で演じて話題となった。1936年の映画ではレスリー・ハワードとノーマ・シアラーもヒットとなった。その後もローレンス・ハーヴェイ、ジェロニモ・メニエルなどがロミオを演じたが、原作に最も年齢が近いといわれたのは1968年のフランコ・ゼッフィレッリ監督の作品で、16歳のレナード・ホワイティングと14歳のオリヴィア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」である。翻案ものもいっぱい現れた。「ウェスト・サイド物語」(1957)やディカプリオ主演の「ロミオ&ジュリエット」(1996)などは現代版である。「王女の男」(2011)の韓国版、アンドレ・カイヤットの「火の接吻」(1946)、「ロミオ&ジュリエット マンハッタンのいたずら」(1990)などエイズが題材となりバリエーションが豊かで笑える。(William Shakespeare,Romeo and Juliet,John Gielgud,Laurence Olivier)

キャンデー

Bonbons6qx7   砂糖を煮詰めて作った飴菓子。ボンボン、ドロップ、キャラメル、ヌガーなどの総称。キャンデーは仏語で「ボンボン」、独語で「ボンボーン」、伊語で「カラメッチ」、西語で「カラメーロ」、葡語で「バラ」、蘭語で「スヌッピェ」、羅語で「サッカロ・コンディオ」、希語で「カンフェータ」、露語で「カンフェータ」。(candy,bonbon,Bonbon,caramella,carmelo,bala,snoepje,saccharo condio)

2012年9月 1日 (土)

ドアノブ

Removedoorknob   「ドアノブ」は、フランス語で「ポワニュ」、ドイツ語で「テューアリンケ」、イタリア語で「マニーリア」、スペイン語で「ポーモ」という。西洋諸国それぞれ独自の言い方があったのだろう。日本語で何と言うのだろうか。「取っ手」か。(doorknob,poignee,Turklinke,maniglia,pomo)

80年代セクシーな男たちのその後

1251591499   1988年アメリカの芸能誌「アス・ウィークリー」の女性読者が選んだ「セクシーな男たち」ベストテン。1位はチャーリー・シーン。以下ドン・ジョンスン、マイケル・J・フォックス、ロブ・ロー、ジョン・ボン・ジョヴィ、ジョン・F・ケネディ・ジュニア、ウィリアム・ハート、コービン・バーンセン、ジョージ・マイケル、デニス・クェード。チャーリー・シーンは「プラトーン」(1986)でブレイクしたが、トラブル続き。ドン・ジョンソンも「マイアミ・バイス」がヒットし、「刑事ナッシュ・ブリッジス」でも人気を集めた。マイケル・J・フォクスは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)でブレイク。パーキンソン病の治療に専念。ロブ・ローは青春スターとして人気があった。ボン・ジョヴィはロックバンド。JFKジュニアは80年代最もセクシーな男性といわれたが、1999年に飛行機墜落事故で38歳の早過ぎる死となった。ウィリアム・ハートは「蜘蛛女のキス」でアカデミー主演男優賞に輝く名優。「メジャーリーグ」のコービン・バーンセンも俳優。ジョージ・マイケルは「ワム!」で大ブレイク。ロンドン・オリンピック閉会式にも出場したが新曲を披露してブーイングだった。デニス・クェードはメグ・ライアンと結婚したが2001年に離婚。俳優としては順風満帆。(Usweekly,Charlie Sheen)

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 コービン・バーンセン

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 デニス・クェード

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