定家忌
小倉百人一首の編者については、①藤原定家説②宇都宮入道頼綱(定家の子の為家の先妻の父)説③宗祇説④藤原定家の歌の流れを汲む歌人、ないし定家の学問の系統につらなる某が、定家に仮託して選んだという説。およそ以上の4説に要約できるようであるが、今日なお定説といえるものはない。さりとて、「小倉山荘色紙形和歌」「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」などと呼ばれた小倉百人一首が、京都の小倉山に住んだ藤原定家(1162-1241)となんらかの関係があったことは明らかであろう。巷間伝えられるところによれば、藤原定家は醜男で、10歳近くも年上の女性に恋こがれていたらしい。それは「新古今和歌集」第一の女流歌人、式子内親王である。式子は後白河天皇の皇女で、叔父は崇徳院、兄は以仁王、甥は安徳天皇である。彼らが源平の騒乱に巻き込まれていく悲運を目の当たりに見て、その悲しみを歌に沈潜させていった。定家にとっては恋すれどかなわぬ高嶺の花であった。定家の日記には式子の晩年の病状が詳細に記されているという。建仁元年、式子が亡くなり、定家の思いがカズラとなって墓を覆うようになった。人はそれを「定家葛」と呼んだ。
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とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿: 履歴書 | 2012年8月31日 (金) 10時04分