無料ブログはココログ

« 中野重治忌 | トップページ | サランハゴ、イッスムニダ(愛しています) 韓国語単語集 »

2012年8月24日 (金)

清盛、秦始皇の父子関係の謎

  「尊卑分脈」の平氏系図には、清盛が忠盛の嫡男となっているが、母についての記載がないということは長い間の日本史の謎の一つであった。清盛が1118年に生まれたことは確かであり、忠盛には数人の妻がいた。それは「尊卑分脈」の系図に明らかであるが、少なくとも4人が確認されるし、その他にもまだいたと思われる。さて、「平家物語」には清盛の母はどのように伝えられているか。「平家物語」には種々の異本があり、大きく分類すると、①白河天皇の寵姫の祇園女御とするもの②祇園女御に仕えた中﨟女房③祇園女御と関係のない兵衛佐局の三つとなる。また「源平盛衰記」には、清盛の父は忠盛ではなく、白河法皇が祇園女御との間に儲けたという説を記している。ところが「コンサイス日本人名辞典」では、母は祇園女御の妹とある。

    祇園女御とは、白河天皇の後宮にあった女性だが、姓氏は明らかでない。その祇園女御が、帝の胤を宿したまま、平忠盛のもとへ嫁ぎ、清盛が生まれた、と「今鏡」には説かれている。一般には明治時代まで清盛皇胤説が信じられていた。明治26年、星野恒は胡宮神社の古文書の中に、「仏舎利相承系図」を発見し、清盛の母は祇園女御の妹であることを説いた。この説が学界でも、ほとんど定説化し、清盛落胤説を裏付ける資料となっている。大河ドラマの清盛皇胤説は十分に根拠あることである。しかし五味文彦は白河上皇の落胤説を否定し、忠盛が祇園女御に仕えるなかで、その妹との間に清盛を儲けたとしている。

    「平家物語」の冒頭の語り出し、「おごれるもの久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」は平家滅亡と秦帝国崩壊が重なり合うところがうかがえる。「史記」の記述には始皇帝が呂不韋の子であったとあるが、近代の学者、馬非百や郭沫若などはこの記述は虚構であると指摘している。清盛皇胤説にも信憑性が少ない。

(人物叢書「平清盛」)

A85a62cc1c7d908b2e34275102500b0e

« 中野重治忌 | トップページ | サランハゴ、イッスムニダ(愛しています) 韓国語単語集 »

「日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 中野重治忌 | トップページ | サランハゴ、イッスムニダ(愛しています) 韓国語単語集 »

最近のトラックバック

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30