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2012年8月18日 (土)

幕末の長州藩主・毛利敬親

Img406   毛利敬親(1819-1871)。天保2年7月、長州藩では天保大一揆と呼ばれる未曾有の民衆蜂起が起こり、次いで天保8年の飢饉時にも一揆が再発し、藩政改革を余儀なくされる。第12代藩主となった毛利敬親(たかちか)は、村田清風と坪井九右衛門で交代で登用して改革を断行する。この後、長州藩では村田派と坪井派が対立する。

   安政になると、村田の政策を引き継ぎ、木戸孝允や高杉晋作などの尊攘派を抜擢した周布政之助の正義派と、坪井と坪井が抜擢した椋梨藤太の俗論派の対立が鮮明になってくる。安政五年、長州藩は朝廷への忠節、幕府への信義、祖宗への孝道などを定めた藩是三大綱を基本方針とし、周布は富国強兵を目指した藩政改革を断行した。また、長井雅楽(1819-1863)は開国進取・公武合体を主張する航海遠略策をとなえ、藩論をひきいて、公武間の周旋につとめた。しかし安藤信正の没落、尊攘運動の激化のなかで、藩内でも吉田松陰門下の尊攘論者に批判されて、破約攘夷へと態度を改めた。

    文久2年7月、京都での尊攘運動が高揚するなか、上京した毛利敬親が臨席し御前会議が開かれた。会議は周布や木戸が主導して藩是を破約攘夷に転換し、結果、中央の政局を長州藩がリードするこになった。この京都での決定に対して、「俗論派の巣窟」であった萩では、藩是転換に反対する議論が沸騰して御意難事件が起こり、坪井九右衛門は遠島に処せられた。

    こうして幕末の長州藩は、藩論を尊王攘夷へと統一した。文久3年八月十八日の政変、元治元年の禁門の変、第一次長州征伐、四国連合艦隊の襲来、藩内の内訌戦、第二次長州征伐(四境戦争)と相次ぐ難局を、人材の発見とその適切なる活用によって乗り越え、施政の方向を誤らせることのなかった毛利敬親の藩主としての功績は大きい。明治2年正月、敬親は版籍を奉還。同年6月従二位に進み権大納言に任じられ、また復古の功により永世高十万石を賜る。この月、家督を世子広封(元徳 もとのり 1839-1896)に譲り山口町の野田に隠居、翌4年3月俄かに病んで没す。(参考:「歴史読本2003.3 幕末維新300藩事件簿」)

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