観行院と静寛院宮
橋本経子は1826年、橋本実久の娘として誕生した(兄は橋本実麗)。仁孝天皇の寵愛を受け和宮をもうける。しかし和宮が誕生する前に仁孝行天皇が崩御した。天皇の手がついてできた女官は崩御と同時に落飾、という宮中のしきたりによって経子は薙髪し、観行院と号した。これによって後宮を離れて経子は、実家の橋本家の屋敷にて和宮を育てた。
井伊直弼が亡くなると、幕府は公武合体をすすめた。公家の岩倉具視も公武合体を唱え、和宮降嫁を斡旋していった。和宮はやむなく降嫁を承諾し、1861年10月、江戸へ下向する。「住み馴れし都路出でてけふいく日 いくぞもつらき東路のたび」和宮は、その気持ちを、こう歌っている。和宮を支えてきた観行院も1864年秋ごろより体調を崩し、1865年夏に入ると重体となり、8月9日に江戸城に死去した。享年40歳であった。
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