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2012年8月31日 (金)

郡司成忠大尉、占守島上陸

Photo_4    郡司成忠(1860-1924)は明治26年、白瀬矗(1861-1946)らと報效義会を設立し、8月31日、占守島・捨子古丹島及び幌筵島にそれぞれ隊員を上陸に成功した。そして越冬を試みたが、占守島以外は全員病死していた。7人全員は占守島での越冬に成功、開拓をはじめた。しかし日清戦争を目前にして海軍が成忠の水雷術の腕前を必要としたため、占守島を去らねばならなくなる。成忠は身を引き裂かれる思いで白瀬に後を託し、島を去った。白瀬らはさらに1年間の孤島生活は悲惨をきわめたが、明治28年8月、函館区長の命令で島を去る(第1次千島開拓)。

    明治29年9月6日、再度千島に向かう。占守島に上陸し、農業開拓、漁業開発に成功。日露戦争では義勇隊24人でカムチャッカへ進撃。成忠はヤヴィノ村に「この地を日本の領土と認める」という標柱を建立。その後、コサック兵に襲われ、14人の死者を出す。成忠は官警に捕われ、会員は命からがら遁走。別所佐吉ら14人は残留を主張し、56人は占守島を去る。

   中川倉吉という船員は若いときアメリカ捕鯨帆船に乗り込み鯨採りをしていた経験がある。帰朝後、報效義会の小帆船「竜睡丸」の船長となった。竜睡丸は、占守島と内地との連絡線として島人に食糧その他日用品を送っていた。明治32年龍睡丸が遭難し、ハワイの北の無人島に漂着したという。漂流者は中川倉吉、榊原作太郎、鈴木孝吉郎ら全員で16名。漂流の記録は、明治36年、大道寺兼吉「竜睡丸漂流記」(共昌社)が刊行されている。また昭和23年に中川倉吉船長からの話をもとにして須川邦彦が「無人島に生きる十六人」を刊行している。

   島の残ったのは14人であるが、そのうちの一人別所佐吉(1863-1935)は別飛(べっとぶ)河畔の漁舎に住んでいた。最後の一人となった別所佐吉(73歳)は家族とともに住み続けた。昭和10年10月24日に佐吉は死んだが、別所二郎蔵(1907-1976)と妻の和子、夫二ら幼い子供4人で暮らしていた。昭和20年8月18日、ソ連軍が攻めてきたため占守島から脱出した。

   しかしこの千島開拓の先覚者たちの前に忘れてはならない偉人がいる。徳島の岡本監輔(おかもとかんすけ、1839-1904)である。明治の初め樺太全島を前後4回探検し、北門社を組織する。明治25年、千島を視察し、千島義会を設立して開拓を志して不成功であったが、彼の熱意は報效義会の結成へと結実した。

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