戦争の後始末
昭和41年11月の9日と14日、相次いで旧海軍軍人(元・連合艦隊司令長官)が亡くなっている。14日は第20代連合艦隊司令長官・吉田善吾(1885-1966)、9日は第24代・小沢治三郎(1886-1966)である。それぞれの在任期間、吉田は日独伊三国同盟問題、小沢はポツダム宣言受諾という重大な政局に連合艦隊司令長官を任せられたのである。
吉田善吾が就任した昭和12年12月、当時52歳という異例の若さでの抜擢であった。その後、昭和14年8月に海軍大臣に就任する。吉田の方針は、日独伊三国同盟に反対、対米戦争反対という前任の米内光政と同じであった。だが、吉田は海相として一人で仕事を背負い込み、病に倒れた。後任の海軍大臣・及川古志郎(1883-1958)は同盟に同意し、日本は戦争への一歩を踏み出すことになる。
昭和20年8月、ポツダム宣言受諾が問題になっていたころ、大西瀧治郎は小沢に面会し、徹底抗戦を主張したが、小沢は「いまさら抗戦を説いて何になる」と言った。その1週間後、大西は割腹自決した。寺岡謹平中将は小沢を訪ねて、「君、死んじゃいけないよ。昨日宇垣纏は沖縄に飛び込だ、大西は腹を切った。みんな死んでいく。これでは誰が戦争の後始末をするんだ」と言った。
吉田善吾も小沢治三郎も戦後かなり長く生きた。自決しなかった二人の長官は自らの責任を強く感じながら、生きて責任をとったのだ。吉田善吾、享年81歳。小沢治三郎、享年80歳。
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