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2012年8月13日 (月)

幕末長州藩の内紛

411_original     文久3年4月、長州藩は、政策推進のために政庁を萩より周防山口へ移鎮する。文久3年5月、馬関で外艦船砲撃を実行したが、6月、米仏の反撃を受け、窮地に陥った。この局面を打開するため、正義派は士庶混成の力量を重視した奇兵隊を設立した。八月の政変により長州藩尊攘派七卿とともに京都より追放される。

   長州藩は、京都における尊攘派の政治勢力の挽回のため、武力による京都進発論が起こるが、正義派は進発派と割拠派に分裂した。元治元年6月の池田屋事件で挑発された長州藩は、7月、益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老が兵を率いて上京し禁門の変を起こすが久坂玄瑞、来島又兵衛らは敗退する。8月には四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩は壊滅的な打撃を受けた。8月14日、英米蘭仏と講話。さらに第一次征長令が下り、幕府軍が防長に迫ると、椋梨藤太を領袖とする俗論派が台頭した。正義派の井上聞多は俗論派に襲撃されて重傷、周布政之助は自刃、京都で工作していた木戸孝允は但馬出石に潜伏、高杉は筑前に亡命した。そのため、藩の権力は俗論派が掌握して幕府に恭順謝罪の意を表し、三家老・四参謀などを処刑するとともに、奇兵隊などの諸隊は解散令が出された。

   しかし、諸隊は民衆との連携を強めて、俗論派に対抗、筑前に亡命していた高杉も諸隊が駐屯する下関・長府に戻り、12月15日深夜、長府功山寺において挙兵し、下関にあった萩藩新地会所を襲撃した。こうして、藩内の内訌戦がはじまった。やがて奇兵隊も呼応し、大田・絵堂で内戦の末、藩論は武備恭順に統一される。

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