烙印の女たち 管野スガ
管野スガ(1881-1911)は、大阪市北区絹笠町の生まれ。19歳のとき、鉱山師の父管野義秀が事業を失敗したため、東京深川の商家小宮福太郎と結婚したが、22歳のとき離婚。大阪で宇田川文海に師事し、「大阪新報」の女性記者として活躍。天満基督教会で受洗。大阪婦人矯風会会長林歌子の知遇を得、明治36年、大阪の演説会で近づきになった島田三郎から木下尚江を紹介され、その演説を聞いて感動したのが動機となって、社会主義運動に接近した。明治37年、婦人矯風会の大阪支部代表として上京、平民社に堺利彦を訪問。明治39年、その紹介で紀州田辺の「牟婁新報」に入社。そこで荒畑寒村と知り合い、翌年結婚。その後「毎日電報」の社会部記者となる。明治41年、荒畑寒村と別居。同年赤旗事件にまきこまれて入獄。出獄後、幸徳秋水の経済的援助によって療養生活をつづけたが、彼との間に恋愛問題がおこり、やがて同棲。管野は、赤旗事件の判決で無罪になったが、二ヶ月以上も拘束されたうえに、毎日電報社を辞めなければならなかった。肺結核の進行と失業の中で、彼女は弾圧下の運動にますます身を投じた。明治39年、管野は幸徳らと「自由思想」を発行したが、発行人であった管野は新聞紙条例違反として告発された。このころ政府の弾圧が強まり、宮下太吉の爆裂弾製造・所持が発覚したのを機に、天皇暗殺計画を名目として幸徳伝次郎(秋水、享年41歳)、管野スガ(31歳)、宮下太吉(37歳)、新村忠雄(25歳)、大石誠之助(45歳)、成石平四郎(30歳)、古可力作(28歳)、奥宮建之(55歳)、森近運平(31歳)、松尾卯一太(33歳)、新美卯一郎(33歳)、内山愚堂(38歳)、坂本清馬、武田九平、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、佐々木道元、飛松與次郎、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治ら24名は死刑判決を受ける。(うち12名は無期に減刑) これが大逆事件である。 明治41年1月、管野は東京監獄内で絞首台の露と消えた。享年29歳。以後、社会主義、労働運動は全く自由を失い、「暗い谷間」の時代を迎える。
管野スガの獄中歌一首
くろがねの窓にさしいる日の影の
移るを守り今日も暮らしぬ
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