吉川英治と川柳
吉川英治(1892-1962)は、明治25年8月11日、神奈川県久良岐郡中村根岸(現・横浜市中区山元町)に生まれる。父、吉川直広、母、いくの次男。本名は英次(ひでつぐ)。吉川英治は大正元年、雉子郎の号で「講談倶楽部」に川柳俳句を投稿、たびたび入選掲載され、つぎのような句が残っている。
水欄に眉涼しけれ初袷
杜若(かきつばた)傘紺青に夕明り
お勝手で女子大学が敗をとり
姿見の前に一人でいい気なり
その彼が川柳人として立つことができたのは、井上剣花坊(1870-1934)のおかげであろう。井上は阪井久良岐とともに新川柳を提唱し、「川柳」を創刊して川柳の近代化につとめていた。大正元年のころ「大正川柳」を創刊していたが、井上は若い吉川の才能を見抜き、ある日突然、英治の家を訪ねた。話あううちにすっかり意気投合し、まもなく井上のすすめで柳樽寺川柳会に加わった。このグループは剣花坊を中心として、各地に支部をもち、機関誌「大正川柳」を発行していた。英治は大正3年1月、「文芸の三越」(日本橋ビル落成記念に三越呉服店が、小説、短歌、川柳等を募集して出版した本)に川柳一等当選する。
駿河町地を掘り空へ伸してゆき
このころ井上らとの親交深まり「大正川柳」の同人となり、発展期の「大正川柳」をささえた。当時の東京の川柳壇はほとんど柳樽寺系のグループによってしめられていた。英治の所属したさくらぎ会は、下谷、浅草方面に住む同人によって組織され、仲間には正木十千棒、鈴木すず六、村田鯛坊、花又花酔、浜田如洗、佐瀬剣珍坊などがいた。その頃の句作にはつぎのようなものがある。
柳原涙の痕や酒のしみ
出納の余白に「折にふれて」詠み
我に鳴らす此の子の吹くよ木の葉笛
巡繰りの塔婆で寺の風呂が沸き
彼は川柳をとおして江戸の庶民文芸の気風にふれた。東京の下町にはまだ昔ながらの江戸の面影が残っており、そういったこともおおいに吉川文学の糧となっている。英治は大正5年、隅田川に関する古川柳を研究して「古川柳隅田川考」を「大正川柳73号」に発表している。またこの時期、遊び好きな川柳仲間にさそわれて茶屋酒の味をおぼえ、女遊びも体験し、そこで最初の妻となった赤沢やすともめぐりあっている。
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