大田南畝、狂歌との絶縁
明和から天明にはいって、狂歌は上方から江戸へ普及していった。なかでも四方赤良(蜀山人)が知られる。大田南畝(1749-1823)の狂歌名である。だが天明7年、前年失脚した田沼意次に代わって老中首座に就いた松平定信は、文武奨励令を出して寛政の改革に着手した。
世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶ(文武)といふて夜もねむれず
日本史の教科書や日本文学史などで蜀山人(大田南畝)の作として取り上げられる狂歌である。だが蜀山人自身は「一話一言」で「是ハ大田ノ戯歌ニアラズ」とはっきり否定している。上司の取り調べを受けたのを恥辱として突然に狂歌を作るのをやめ狂歌界との縁を断っている。謹厳な官吏としての生活を優先したのであろうか。
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