マリア・テレジアとマリー・アントワネット
マリア・テレジアは、20年の間に16人の子どもを出産した。もともと多産系のハプスブルク家でも特に多かった。成長したのは10人だけで、6人が女児だった。女児のうち3人はブルボン家系の家に嫁いだ。六女のマリア・アマリアはパルマへ、十女のマリア・カロリーナはナポリへ。そして末娘のマリア・アントニアは、1770年、フランスの皇太子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)のもとに嫁いだ。マリー・アントワネットのことである。
マリー・アントワネット(1755-93)が、祖国オーストリアを離れ、異国の地フランスに嫁いだのはわずか15歳のことである。あまりの習慣の違いにショックを受け、嫁いだ当初は母マリア・テレジアに手紙を書き綴っていたという。しかし、次第に宮廷内の贅沢三昧な暮らしになれていく王妃。この華燭に満ちた生活は、やがて重税であえぐ国民の反感をかい、フランス革命勃発へとつながった。捕われ、処刑台に上がるときに役人の足を踏んでしまったマリー・アントワネットは、「お許しください。わざとではないのです」と謝ったという。処刑台を目の前にし、こんなにも気品のある言葉がごく自然に出たという。1793年10月16日、38歳の若さでその短くもはかない人生を閉じた。(Maria Theresia,Marie Antoinette)
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