秋田事件と自由民権運動
秋田といえば、しょっつる、ジュンサイ、ナメコ、ハタハタとならんで「きりたんぽ」が思い浮かぶであろう。郷土の偉人では、国学者・平田篤胤(1776-1843)が幕末思想界に大きな影響を与えた人物として重要。秋田藩はその篤胤の系譜をひく勤皇派が藩政を握ったため官軍にくみし、奥羽諸藩の幕軍と戦った。明治維新後、出羽国は羽前と羽後に分かれ、明治4年廃藩置県により秋田、岩崎、本荘、亀田、矢島、酒田の各県が誕生、同年、これらの県に南部領の鹿角郡を編入して今日の秋田藩の基礎が確立した。しかしながら、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、決して優遇的な対応はしなかった。そうした中でも、近代化を望む声は生まれてきた。明治10年1月の新聞の投書には芸妓や娼妓が苦境からの解放を訴え、参政権や男女同権の思想の芽生えをうかがうことができる。明治14年6月には、藩閥政府に反抗し、横手周辺で豪農襲撃事件(秋田事件)が発生したが、秋田立志会の主唱者・柴田浅五郎らが逮捕され、立志会はまもなく消滅した。
画像は秋田の郷土料理きりたんぽ。「たんぽ」は形がたんぽ槍に似ているところからという。炊きたての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉串に円筒形にぬりつけて焼きあげたもの。きりたんぼ鍋が生まれたのは、秋田で自由民権運動が起こった明治10年代だといわれている。
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