森本六爾と林芙美子、巴里のめぐり逢い
林芙美子が森本に送った書簡
昭和6年頃、パリには多くの日本人がいた。画家では藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児。美術評論家の土方定一、詩人の金子光晴など。そんな中で異彩を放つのは考古学者・森本六爾(1903-1936)のパリ遊学である。
森本六爾は畝傍中学卒業後、奈良県下の遺跡を独力で調査し、昭和2年に考古学研究会(後の東京考古学会)を創設し、主幹となり雑誌「考古学」を発刊した。弥生時代に稲作農耕が存在したことをいち早く提唱した夭折の考古学者。この時「放浪記」(昭和5年刊行)で文壇に華々しくデビューした女流作家・林芙美子(1903-1951)も昭和6年11月にパリに来ており、孤独な二人の旅情はやがてかりそめの恋となる。
林芙美子は小柄で美人ではなかったが、明るくて女性的な魅力があった人である。このとき芙美子はすでに画家・手塚緑敏と結婚しているが、パリ滞在中も森本のほかにも、画家の外山五郎、建築家の白井晟一、坂倉準三、詩人の辻潤、仏文学者の渡辺一夫などとも交遊があった。芙美子は画家の外山五郎に会いたい一心で渡仏したらしい。失恋した芙美子の前に現れた男性が森本である。森本は芙美子と同じ年の28歳、ミツギ夫人がいる。
芙美子の日記に森本が登場するのは昭和6年12月26日である。「夕方顔氏(台湾人留学生)、森本氏達と支那めしをたべ、サンミッシェルを散歩する」とある。12月29日には森本、田嶋隆純(真言宗の学僧)とギメ美術館へ行った。翌年1月6日、芙美子は森本と田嶋を自分の部屋に招いて食事を供にした。翌日森本は朝早く芙美子を訪ねた。芙美子が好きだといった。日記には「へえ! こんなやぶれた女がね」「此男とは絶交する必要がある。本当はいいひとなのだろうが、学者にはどうも、精神的ケッカン者が多い」とある。1月10日にも森本が姿を見せたので、芙美子は「来らば水かけん」と宣言する。その翌日、ホテルに帰ると森本からリラの花三本が、「此花が御部屋を訪問いたします。どうか水をぶっかけて下さい。出来たら根の方が結構です」という手紙を添えて届けられていた。
やがて、2人はパリを離れロンドンへ。森本は1月29日、靖国丸で帰国する。芙美子は1月23日から2月25日までロンドンに滞在する。ケンジントンの下宿は森本に紹介してもらった。森本は3月9日帰国した。その年から翌年にかけて森本は活発に仕事をおこない、弥生文化研究の基礎をつくった。だが結核は進行していき、昭和11年1月、32歳で死んだ。(参考:関川夏央「女流 林芙美子と有吉佐和子」)
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