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2012年6月26日 (火)

むかしパリは臭かった

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   アンリ4世(1553-1610)がパリに入城して以来、道路舗装、給水用の泉、下水、病院施設などの拡充と、合理的なパリの再建に力を入れた。1636年には、パリの道路は400を数え、道路の数は17世紀末には1000を越えるようになった。市内の馬車を曳く馬の数が12万頭といわれ、馬糞の臭いもひどかった。室内にトイレはなくおまるに用を足し、朝になったら窓から道に汚物を投げ入れた。道路は人糞や生活ゴミで足の踏み場もない状態だった。また当時、埋葬は土葬で近くの墓場から死臭がただようこともあった。太陽王ルイ14世の死後、摂政を務めたオルレアン公の母親エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(1652-1722)は手紙に次のように書いている。「通りはとても臭くて我慢できないほどです。ひどく暑いため、大量の肉や魚が腐り、しかもその上、通りで立小便をする人が大勢いるので、とてもいまわしい臭いとなり、どうにも我慢できたものではありません」(1718年8月25日の手紙から)

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