黒田嘉兵衛と下田欠乏所
1854年、ペリー提督率いる米国海軍が日米和親条約により再来航し、以後幕府は入港してくる外国船に欠乏品を供給することになった。浦賀奉行支配組頭の黒川嘉兵衛は交渉事務や欠乏所創設の任に当たった。欠乏所とは航海上に必要に薪水・食料・石炭など必需品から漆器・織物・陶磁器・雑貨のような土産品まで販売していた。幕府は欠乏所売り上げの3割を税として徴収したので、思わぬ利益を得ることになった。1859年、神奈川、箱館、長崎が自由貿易港として開港されると、下田欠乏所は廃止された。黒川は1858年の安政の大獄で免職となり、のち一橋家に仕えたが、明治以降は京都に住んでいたといわれるが詳しいことは不明である。なおペリー再来航時に黒川を撮影した写真が最古の銀板写真といわれ残っている。1885年没。(「ペリーと下田開港」 森義男編 下田史談会)
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