カフェーの女給とガールズバー
明治44年3月、洋画家の松山省三(1884-1970)と平岡権八郎(1883-1943)は、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。新聞の三行広告で、女性を募集する時に、当時は「女ボーイ」と呼ばれていたが、字あまりになるというので、女の給仕という意味で「女給」という言葉が生れた。プランタンに次いで、パウリスタ、ライオン、ブラジルなどが京橋を中心として開店した。女給の衣裳は、着物の上から胸当て付ききで、丈の長い白いエプロンを付けるという、和洋折衷的なスタイルだった。
大正期は若い芸術家たちのサロンだったカフェーも、昭和になると時代の流れの中で、「女給」を売りにした風俗営業となっていった。カフェーの女給は、大阪と東京ではかなり違いがあり、大阪のカフェーの特色は客のそばに寄り添ってサービスするエロ路線だった。昭和5年頃、女給全盛時代となるが、女給崩れの中からは、街頭で身を売る「ストリート・ガール」、タクシーの助手席から男を誘う「円タク・ガール」、消毒ガーゼを使って接吻する「キッス・ガール」(1回50銭)という新手の風俗業も登場した。
わたしゃ夜さく 酒場の花よ
赤い口紅 錦紗のたもと
ネオン・ライトで 浮かれておどり
さめて さみしい 涙花
「女給の唄」(西條八十作詞、昭和6年)
最近、流行の兆しをみせているのが「ガールズバー」。露出度の高い衣装で接客するという。日本は変わらないな。
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頑張ってください。
投稿: うつ病 | 2008年12月20日 (土) 20時06分