邪馬台国の謎に迫る
新井白石の時代から300年にわたる邪馬台国論争が徐々に明らかになりつつある。1997年には黒塚古墳から34枚の銅鏡が発見された。そしてホケノ山古墳、纏向古墳などの考古学的発見、池上曽根遺跡で発見された大型建物に使われたヒノキの柱根が年輪年代法で紀元前52年のものであることが推定され、弥生中期の大集落遺跡として注目された。そして箸墓古墳から出土した土器を放射性炭素年代測定法で調査したところ、この古墳の築造時期を240~260年とする調査結果が得られた。以前から言われてきたこの墓が卑弥呼か壱与の墓であるとする説がますます補強されることとなった。NHK「邪馬台国を掘る」では纏向遺跡周辺から出土した2765個の桃の種から中国道教との関係を指摘する。魏志倭人伝に記された鬼道を示す証拠とみている。
かつては邪馬台国論争は考古学的遺跡や出土資料の上からは九州説が圧倒的に優勢であった。1989年2月22日、吉野ヶ里遺跡が発見され、楼観、環濠など発掘される。朝日新聞も「吉野ヶ里の楼観から見れば邪馬台国がみえる」と報道した。数理文献学の安本美典は甘木市(現・朝倉市)を中心とした地域に邪馬台国があったと推定した。記紀が伝える神武東征は、邪馬台国の東遷を伝えるものであると主張した。もちろん高島忠平、七田忠昭ら九州の学者は今でも九州説が多い。壱岐原の辻遺跡から大量の鉄器が出土されている。甘木・朝倉では「邪馬台国古代祭り」が行われ、パレードやミス卑弥呼コンテストなどが行われている。邪馬台国九州説には宮崎康平、安本美典に限らず異色の研究者が多い。奥野正男もその一人だろう。炭鉱で働きながら小説を書いていた。1980年、「邪馬台国」創刊一周年記念論文で最優秀賞を受賞し、一躍九州説の旗手となった。現在、筑紫古代文化研究所代表となっているが、最近の動向は知らない。
中国史の渡辺義浩は魏が邪馬台国の位置を南方にあるものと誤認したと考えている。
九州は大陸文化伝来の先進地であり、近畿は政治的中心地である。九州と近畿とは緩やかな連合体であったかもしれない。
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