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2012年6月 7日 (木)

奇兵隊創設

260pxkeiheitai   菅直人が新内閣に「奇兵隊内閣」と命名したのは2年前である。高杉晋作(1839-1867)が、山口の藩庁に呼び出されたのは、文久3年6月4日。長州藩が下関で外国船の報復攻撃を受けた直後のことである。晋作は、毛利敬親に対して、現状を打開するためには「兵には正奇があり、戦いには虚実がある。奇をもって敵の虚を制する兵を作りたい」と「奇兵隊」の創設を願い出た。身分にこだわらず、志と実力さえあれば誰でも参加できる軍隊である。吉田松陰の草莽崛起の実践を行ったのである。

    6月7日、藩主から許可を得た晋作は、下関の豪商白石征一郎(1812-1880)邸で奇兵隊を創設し、初代総督になった。最初は、50人ばかりであったが、日ごとに入隊する者が増え、本営を、正一郎邸から壇ノ浦近くの阿弥陀寺に移した。そこで、藩の正規軍先鋒隊との間に事件がおこり(教法寺事件)、その責任をとって、晋作は総督を辞任した。隊の創設からわずか3ヶ月の間だったが、奇兵隊士は、厳しい訓練の元に鍛えられた。奇兵隊二代目総管には河上弥市(1843-1863)と滝弥太郎(1842-1906)の二人が共に務めた。文久3年10月、滝弥太郎が他の仕事を命じられたため、3代目の総管に、赤根武人(1839-1866)が就いた。そして、その補佐役である軍監には山県有朋(1836-1922)が命じられた。赤根は元治元年10月、総管を辞職する。赤根はその後、戦争回避に奔走したため慶応2年斬首される。

 いっぽう、山県有朋は、慶応元年1月、奇兵隊総管となる。6月、第二次征長の役に際し幕軍と戦った。山県有朋は軽卒という武士以下の身分から、元帥という最高の位に上り詰めた。

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