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トム・クルーズがケイティ・ホームズと離婚することになった。トムは過去にミミ・ロジャーズ、ニコール・キッドマンとの離婚歴があり、ケイティとは3回目の結婚だった。エリザベス・テーラーは結婚、離婚を繰り返して生涯に8回の結婚をした。しかしそれよりも上がいる。「赤い風車」のザ・ザ・ガボール(94歳)は9回の結婚。今年1月に感染症で右脚を切断する手術を受けたが、元気に回復したらしい。男性ではわれらがミッキー・ルーニーだ。映画「ナイト・ミュージアム」(2009)でも健在ぶりをアピールしたが、8回の結婚歴を誇る。いまや映画界の生きる世界遺産といわれる。「トコリの橋」で来日し、淡路恵子と共演したのが懐かしい。
印刷会社の元従業員が胆管がんを多発するという。洗浄剤に含まれる化学物質が原因といわれる。私も5年間、印刷工場にいた。オフセット印刷の時代で製版をしていた。
cholangioma cancer 胆管がん
breast cancer 乳がん
kidney cancer 腎臓がん
carcinoma of colon 結腸がん
bladder cancer 膀胱がん
pancreatic cancer すい臓がん
laryngeal cancer 咽頭がん
lung cancer 肺がん
stomach cancer 胃がん
liver cancer 肝臓がん
esophageal cancer 食道がん
colorectal cancer 大腸がん
rectal cancer 直腸がん
prostate cancer 前立腺がん
brain hemorrhage 脳出血
cerebral meningitis 脳膜炎
sepsis 敗血症
leukemis 白血病
peritonitis 腹膜炎
leprosy ハンセン病
cardiac insufficiency 心不全
hepatic insufficiency 肝不全
myocardial 心筋梗塞
cirrhosis of the liver 肝硬変
renal insufficiency 腎不全
appendicitis 盲腸炎
ulcer 潰瘍
subarachnoid hemorrhage クモ膜下出血
duodenitis 十二指腸炎
pneumonoa 肺炎
tuberculosis 結核
have a stiff neck 肩こり
(英語,英単語)
lumbalgia 腰痛
aging 老化
heat rash あせも
diarrhea 下痢
vomiting 嘔吐
anemia 貧血
deafness 難聴
hemorrhoid 痔
asphyxia 窒息
hyperemia 充血
food poisoning 食中毒
fainting 失神
fecal impaction 宿便
stillbirth 死産
dystocia 難産
glaucoma 緑内障
insomnia 不眠症
urocystitis 膀胱炎
gallstone 胆石
appendicitis 虫垂炎
asthma 喘息
bronchitis 気管支炎
malnutrition 栄養失調
pregnancy 妊娠
beriberi 脚気
体温計の発明はガリレオの寒暖計の発明をヒントにして、カポディストリア(現在はスロヴェニアのコペル)の医師サントーリオ・サントーリオ(1561-1636)が1609年(1612年の説あり)考案したといわれる。しかしこれは実用からは程遠いもので、その後、ファーレンハイト(1686-1736)などによって改良され、カール・ブンダーリッヒ(1815-1877)によって医療への応用が進められた。
1866年イギリスの内科医トーマス・オルバット(1836-1925)によって小型の体温計が発明された。それまでの大きな体温計は体温を測るのに20分ほどかかるものであったがこれによって大きく短縮された。(Galileo,Santorio Santorio,Daniel Gabriel Fahrenheit,Carl Reinhold August Wanderlich,clinical thermometer)
見栄っ張りな海外ブランド志向の浪費家の女性を味噌女(テンジャンニョ)と韓国ではいう。逆に僅かなお金も出し惜しむケチ男のことをコチジャン男という。
スイカといえば丸形だったり、小玉のように楕円形だったりするが四角いスイカもある。香川県善通寺の生産者が約30年前に開発し、全国に流通している。価格は1個1万円で、甘味に乏しくディスプレイとして使われているらしい。
スイカがわが国に伝えられた室町時代。当時の人々は赤い果肉が生首を思い出すので食べられなかったという。江戸時代にも由比正雪の乱の翌年、慶安の頃にスイカが出回ったが、由比正雪の首だといって食べられなかったという話が伝わる。江戸にスイカが広まったのは万治(1658-1661)のころで、京都に広まったのは、寛文から延宝(1661-1680)以後とある。1770年、以降、スイカは夏の味覚として広く庶民にまで食べられるようになった。
人間の世界には、人間にとって重要な意味をもちながら、十分な研究はおろか意識されていない事象がたくさんある。しぐさやサインなどのノンバーブル(非言語的言語)は、その1つである。たとえば「親指をたてる」しぐさは、日本では「男」「彼」「お父さん」を示すが、外国ではたいてい「OK」「よくやった」という意味をもっている。英語圏では「Thumbs up」という成句とセットになっている。反対に「親指を下にむける」しぐさは、多くの国で「よくない」という意味で使われる。古代ローマの闘技場で、試合に負けた闘技士に対して、観客が不満の気持ちを表わすしぐさからきている。
「人さし指と中指を立てる」しぐさは、チャーチルの「勝利」や、ジョン・レノンの「平和」を意味するしぐさとして広く知られている。ベトナム反対運動のころフィギュアスケートのドロシー・ハミルが反戦を訴えたり、井上順がカメラのCMでピース・サインをしたことで日本にも広まった。若い日本人が写真撮影でやたらとピース・サインのポーズをすることが外国でも話題になっているそうだ。ただし国によっては思わぬ意味を表わすこともある。ギリシアでは「お前くたばれ!」の意味である。英語圏でも手の甲を相手に向けて出すと侮辱的な表現になることがあるので注意を要する。(nonverbal glossary,peace sign)
パリの歴史は、紀元前3世紀にケルト系のパリシイ人が、セーヌ川に浮かぶシテ島に住みついたことに始まる。紀元前52年ごろ、ガリア遠征中のカエサル率いるローマ軍がこの地を攻略した後、ルチチィア・パリシオルムと呼ばれるようになった。この地は河川交通の要衝として栄え、シテ島とセーヌ左岸を中心に、ヨーロッパ風の都市が形成されていった。歴史とともにパリは政治の中心地として発展してきたが、長い歴史を経て、19世紀も末に近い1870年には人口200万の大都市となった。ナポレオン3世の命を受けたセーヌ県知事ジョルジュ・オスマン(1809-1891)は、パリの大規模な改造計画を推進、工事は1852年に始まり、これによって清潔で明るいパリが生まれた。グラン・プールヴァール(大通り)に面してはカフェ、画廊、劇場、ブティック、百貨店もでき、人々はにぎやかに行き来し、乗合馬車も走った。シャンゼリゼ大通りから遠く凱旋門の立つエトワール広場まで見渡すことのできる光景は、オスマンのパリ改造計画によって誕生したものである。パリは世界中の都市計画のモデルにもなった。
また数度にわたって開催された万国博覧会は、パリを名実ともに「花の都」と呼ばれるにふさわしいヨーロッパの都へと成長させた。1889年に完成したエッフェル塔はその象徴である。また1900年の万博時には地下鉄(メトロ)も開通して、パリの主要な交通機関となった。こうして世界の芸術家がパリに集まり、絵画や映画など新しい文化を発信した。(Gerges Eugene Haussmann)
アンリ4世(1553-1610)がパリに入城して以来、道路舗装、給水用の泉、下水、病院施設などの拡充と、合理的なパリの再建に力を入れた。1636年には、パリの道路は400を数え、道路の数は17世紀末には1000を越えるようになった。市内の馬車を曳く馬の数が12万頭といわれ、馬糞の臭いもひどかった。室内にトイレはなくおまるに用を足し、朝になったら窓から道に汚物を投げ入れた。道路は人糞や生活ゴミで足の踏み場もない状態だった。また当時、埋葬は土葬で近くの墓場から死臭がただようこともあった。太陽王ルイ14世の死後、摂政を務めたオルレアン公の母親エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(1652-1722)は手紙に次のように書いている。「通りはとても臭くて我慢できないほどです。ひどく暑いため、大量の肉や魚が腐り、しかもその上、通りで立小便をする人が大勢いるので、とてもいまわしい臭いとなり、どうにも我慢できたものではありません」(1718年8月25日の手紙から)
1854年、ペリー提督率いる米国海軍が日米和親条約により再来航し、以後幕府は入港してくる外国船に欠乏品を供給することになった。浦賀奉行支配組頭の黒川嘉兵衛は交渉事務や欠乏所創設の任に当たった。欠乏所とは航海上に必要に薪水・食料・石炭など必需品から漆器・織物・陶磁器・雑貨のような土産品まで販売していた。幕府は欠乏所売り上げの3割を税として徴収したので、思わぬ利益を得ることになった。1859年、神奈川、箱館、長崎が自由貿易港として開港されると、下田欠乏所は廃止された。黒川は1858年の安政の大獄で免職となり、のち一橋家に仕えたが、明治以降は京都に住んでいたといわれるが詳しいことは不明である。なおペリー再来航時に黒川を撮影した写真が最古の銀板写真といわれ残っている。1885年没。(「ペリーと下田開港」 森義男編 下田史談会)
フランス南西部アキテーヌ地方のサン・テミリオンはボルドーと並ぶワインの産地である。ローマ帝国の属領時代からワインの製造が行なわれてきたが、ボルドーやサン・テミリオンのワインがヨーロッパに知られるようになったのは、一人の誇り高い王女の結婚と関係している。
アリエノール・ダキテーヌ(1122-1208)はボルドーを含むアキテーヌ地方の公女として生まれたが、フランス王ルイ7世と離婚した後、アンジュー伯家の貴公子アンリ・ドゥ・プランタジネットと結婚した。アンリは2年後の1154年にイングランド王に即位し、ヘンリー2世となり、その領地ボルドーも英国領となった。以降、この状態は1453年にフランス領に戻されるまで続いた。この間、ボルドーワインは、イングランド王室や貴族などへの贈り物とされ、そのアルコール度の高い力強さによって「ワインの王様」とたたえられるようになった。( Alienor d'Aquitaine,HarryⅡ,Bordeaux,Saint Emilion )
小沢派議員の造反劇。54という数字が注目される。果てしない派閥争い。韓国時代劇のドロドロの権力争いと同じ世界だ。朝鮮王朝は太祖李成桂から純宗まで27代518年続いた。
さて韓国ドラマ「王女の男」は15世紀、第7代国王、世祖(1417-1468)の頃の物語。世祖(セジョ)は病弱だった兄の文宗と違って武芸に優れており、野心が大きかった。1453年、癸酉靖難(ケユジョンナン)を起こし、韓明澮ら腹心を動員して権力中枢にいた重臣を謀殺、政権を掌握する。政敵を情け容赦なく排除した世祖だが、朝鮮王朝の中央集権体制を確立するのに大きな貢献をした。職田法(チクチョン)を制定して財政を安定させた。さらに基本法典である「経国大典」(キョングクデジョン)の編纂を開始し、「戸典」(ホジョン)「刑典」(ヒョンジョン)を完成させた。
フランス南西部にあるボルドーは、ガロンヌ川の三日月形の湾曲部分が港として発達し、その地形に由来して「月の港」と呼ばれるようになった港湾都市である。古くからワインの産地として知られたボルドーは、ガリア人の集落を起源にもち、ローマ帝国の植民地となってからは交易都市として発達した。12世紀にはイングランドなどとの交易で一大商業都市に成長。現在の街並みは、絶頂期であった18世紀の新古典主義の都市計画によるもので、ブルス広場や大劇場などが残る。ピエール橋はガロンヌ川を渡る最初の橋である。( Bordeaux,Pont de Pierre,Port of the Moon,place de la Bourse,Garonne,Gallia )
ヘルマン・ブロッホ(1886-1951)はオーストリアの作家。ナチスの迫害を避けるためアメリカに亡命。アメリカで出版された「ウェルギリウスの死」はアメリカのインテリ層に大きな反響をひきおこした。アンナ・ゼーガース(1900-1983)は反ファシズムの作家としてフランス、そしてメキシコへ亡命。「第七の十字架」(1942)で国際的な作家となる。代表作は「死んだ少女たちの遠足」「死者はいつまでも若い」。マックス・フリッシュ(1911-1991)はスイスの作家。「アテネに死す」「我が名はガンテンバイン」などの小説で広く知られる。ハインリヒ・ベル(1917-1985)は住宅難による夫婦解体の危機を描いた「そして一言も言わなかった」で文名を確立した。ギュンター・グラス(1927年生まれ)は「ブリキの太鼓」で戦後ドイツ文学の代表的な作家となった。ウーヴェ・ヨーンゾン(1934-1984)は東西分裂のドイツ社会を描いた「ヤーコプについての推測」(1959)が代表作。(Hermann Broch,Anna Seghrs,Max Frisch,Heinrich Boll,Gunter Grass,Uwe Johnson )
act(行なう)→action(行為)のように、動詞にtionを付けると名詞になり、動作・状態・結果などを表わす。
ただし例外もある。affect(影響を及ぼす)とaffection(愛情)とは無関係である。これはイタリア語やスペイン語にafecto(愛情)があるが、もとはラテン語からきており、affctionとなった。
add(追加する)→addition(追加)
adopt(採用する)→adoption(採用)
abolish(廃止する)→abolition(廃止)
accommodate(収容する)→accommodation(収容力)
construct(建築する)→construction(建築)
correct(正す)→correction(訂正)
justify(弁護する)→justification(弁明)
inform(知らせる)→information(情報)
suggest(提案する)→suggestion(提案)
salvage(救出する)→salvation(救助)
satisty(満足させる)→satisfaction(満足)
平治の乱の首謀者、藤原信頼は「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と平家物語で散々にこき下ろされ、「体格は肥満で色白、衆道(男色)を好む」「後白河に愛され、あさましき程に御寵愛ありけり」と愚管抄にみえる。この寵愛とは男色関係に基づくものである。信頼と後白河の関係は、保元2年ころから深まったのであろう。この年に近衛中将になっている。近衛は男色関係を強く求められた官職であり、この任官はめざましい信頼の出世を意味している。信西は「長恨歌」を藤原師光に渡して後白河に見せた。唐の玄宗皇帝が楊貴妃にのめり込んで国を滅ぼした話であり、暗に後白河の軽挙を誡めたのであるが、帝は信西の真意に全く気づかなかったとある。
大阪府立中之島図書館の廃止が市長や知事から突然言われてた(2012年6月19日付)。国際児童文学館の場合もそうであるが、図書館は維持していくことは困難だが、破壊することはたやすい。中之島の場合、すでに図書館機能の低下は始まっていた。府民の利用も低下すれば、一等地にある施設を別の目的に活用できないかという意見は当然でてくる。図書館は100年、200年と継続してこそ実力が発揮できる。図書館の敵は水でも火事でもなく、為政者である。欧州では200年、300年以上の歴史ある図書館は存在する。大阪府立図書館はわが国で現存する最古の図書館の一つといってよい。近代大阪の図書館の歴史は1876年に設立された大阪書籍館が最初で、1888年府立大阪博物場図書室となり、住友家の寄付を受けて1906年に新しく大阪府立図書館になったのである。
しかしながら図書館の歴史をひも解けば、近代になって忽然と現れたのではなく、長い文庫の歴史を有し、既に1250年も前に石上宅嗣(729-781)が奈良県山辺の邸宅に公開図書館「芸亭(うんてい)」を開設している。芸亭とは、もともと書斎の意味で、芸は虫除けの薬草に由来している。芸亭創設の時期は諸説あるが、宅嗣が阿閦(あしゅく)寺を建立した761年とする説と、政府の高官となった770年とがある。宅嗣の没後、都が長岡京に遷都された関係で芸亭は消滅してしまった。本日は石上宅嗣の命日である。
2011年、小笠原諸島は世界自然遺産に登録された。「東洋のガラパゴス」といわれる小笠原諸島は亜熱帯に属し、父島、母島、聟島、嫁島、西之島、硫黄島など30余の島々からなり、暮らしやすい気候だが、一般住民が生活しているのは父島と母島だけである。1593年、信州深志の城主小笠原貞頼の発見といわれる。1675年、江戸幕府が調査のために船を送り、「此島大日本之内地」という碑を設置、「無人島(ブニンジマ)」と名付けた。1830年にハワイから白人5人、ハワイ人25人が入植し、初の移住民となった。小笠原諸島の英語名は「無人島」を語源とするボニン・アイランズである。
小笠原諸島は大陸と一度も陸続きとなったことがない海洋島のため、生物種が独自の進化をとげた。近年、小笠原に持ち込まれ定着した新たな外来種の駆除が大きな課題である。ノヤギやノブタの根絶は達成されているが、グリーンアノール(トカゲの一種)、アフリカマイマイなど問題となっている。( Bonin Islands )
1914年1月22日、外電がドイツのシーメンス社Siemensの日本海軍高官にたいする贈賄を報じた。立憲同志会の島田三郎は、さっそく議会で山本権兵衛(1852-1933)首相、斎藤実海相の責任を追及し、野党は一致して内閣弾劾案の議会提出をきめた。世論は政府攻撃でわきかえり、2月10日、政府問責の国民大会が開かれ、数万の民衆が議会をとりかこんだ。山本内閣は収賄事件のもみ消しにやっきになったが、海軍高官がぞくぞくと逮捕され、さらに軍艦金剛の建造契約のさい、イギリスのヴィッガース会社から収賄したことも暴露されたため3月24日、ついに総辞職するにいたった。その後、1923年、山本は再び内閣を組織し、関東大震災後の復興処理にあたった。しかし、亀戸事件、大杉栄虐殺事件、朝鮮人虐殺事件、皇太子狙撃事件が起こり、その責任を取って退陣した。なおシーメンス・ジャパン社は東京都品川区に本社があり、日本との関わりが続いている。
シャルトル大聖堂 コロー 1830年 ルーヴル美術館蔵
フランス北西部、シャルトルの大聖堂は、13世紀初頭に完成したフランスを代表するゴシック建築である。 このシャルトル大聖堂の美しさに魅せられた画家は数多くいるがコローもその一人である。ジャン・バティスト・カミーユ・コロー(1798-1875)は1825年から28年、1834年、1843年と計3度イタリアへ旅行し、6年間のイタリア滞在の間に明るい光と色彩にも強い影響を受けた。1828年、第1回のイタリア旅行から帰国したコローはその感銘をフランスの田園風景の描写に生かそうとした。1830年7月の革命の勃発とともに、シャルトルへ逃れたコローは、大聖堂の圧倒する美に打たれてこの作品を描いた。前景の人物は、1830年に制作されたときには描かれていなかったが、それから40余年たった1872年に描き加えられたものである。またシャルトルの大聖堂は1834年に火災にあい、屋根の部分などが修復されたが、その意味からも、被災前の大聖堂の姿を知る上で、資料的に貴重な作品である。( Chartres Cathedral )
「グラビアアイドル」「グラドル」という言葉はあまり日常会話で使わないが、いまではお堅いNHKでも平気で使っている。スタジオパークのゲストは釈由美子。頭のよい女性らしく、しかもスリムなボディーで筋トレをしている。「美のカリスマ」といわれるだけあって34歳になるが衰えをしらない。東京都清瀬市出身。かつては清瀬市といえば中森明菜だったが、いまは釈由美子か堀北真希の出身地。1997年にデビューだが転機は「英語でしゃべらナイト」元祖グラドルである。眞鍋かをり、小池栄子、小向美奈子、平田裕香、伊東美咲、熊田曜子、サエコ、小野真弓、大谷みつほ、里田まい、周防玲子などなど。野球選手と結婚したり、女優となったり、活躍の場はさまざまである。釈由美子は一番自然流に芸能界に残っている。グラドル史は客観的な記述が難しいが、日本雑誌協会主催の「ゴールデン・アロー賞・グラフ賞」の受賞者を見れば一応の変遷の一端をうかがうことができる。1998年に優香が受賞し、以下、本上まなみ、釈由美子、井川遥、吉岡美穂、井上和香。岩佐真悠子、安田美沙子、ほしのあき、南明奈。ゴールデンアロー賞は2007年度で終了する。グラドルの終焉を意味するのかもしれない。雑誌愛読月間イメージ・キャラクターは継続しており、佐々木希、桜庭ななみ、武井咲、剛力彩芽と若手女優にシフトしている。
1980年に王貞治が引退した後、「若大将」とよばれた原辰徳が巨人の不動の四番となった。本塁打382本、打点1098点と長打力はあったが、安打が1675本と意外に少なかった。怪我に苦しみ1995年に引退と早かった。順調にスター街道を歩んだように思えたが、評論家、監督時代と波乱も多く、人知れず悩みも多かった。ついに現役時代ではONのようなスーパースターにはなれなかった。原騒動のなか明日からリーグ戦が再開、「夢の続き」を完結するには優勝して日本一になることしかない。
ちなみに巨人在籍した選手で名球界入りしたのは13人。(落合は辞退している) 張本勲、王貞治、長嶋茂雄、松原誠、加藤英司、柴田勲、駒田徳広、清原和博、松井秀喜、小笠原道大、金田正一、堀内恒夫、工藤公康。
「エジプト誌」(アイギプティアカ)を著わしたマネトによると、ヒクソスのエジプト支配は第15、16、17王朝である。これら3王朝は同時代に成立している(前1650-前1550)。ヒクソスに関する史料は、その知名度に反して余り多く残されていないが、ヒクソス王アポフィスとの戦いに勝利したのはカーモセ(在位前1573-前1570)である。しかしカーモセは凱旋直後に亡くなる。ヒクソスの支配者たちをデルタ地方から追放し、エジプトを再統一したのはカーモセの弟、初代第18王朝のファラオ、アハモセ1世(在位前1550-前1525)である。第18王朝は前15世紀、トゥトメス3世のときエジプトの最盛期を形成した。近年、アハモセ1世のミイラを調査したところ、王は35歳くらいで亡くなったことを示す結果が得られた。王墓の位置はいまだ確定しないが、テーベ西岸ドゥラ・アブ・エル・ナーガ付近と推定される。( Kamose,Ahmose,Apophis,Hyksos,Thutmes,Aegyptiaca )
サルトルといえばボーヴォワールだが、実は晩年のサルトルはサガンとも親密な交際関係にあった。ふたりは同じ誕生日で30歳の年齢差。10日に1度食事をした。「私は彼の手をとって支えるのが好きだった。そして彼は私の精神を支えてくれる」(私自身のための優しい回想)と記している。右目を失明したサルトルはわずか1年後に亡くなった。(Sarrtre,Sagan,Beauvoir)
巨人原監督の過去の女性問題が週刊誌で暴露された。西武の涌井など球界の女性スキャンダルはめずらしいことではない。むしろ数年も前のことがなぜ今ごろかという感がする。球界の盟主として自負する球団だけに社会に与える波紋は大きい。彼は恐喝された被害者である。結果としては、事実を認めざるを得なくなり、社会的ダメージは計り知れぬほど大きい。いつもダビデ王の話を思いだす。王は部下ウリヤの美しい入浴姿をたまたまみて、ひとめぼれした。その後、ウリヤが戦いに出ていないすきに王はバテ・シバを宮殿に連れて来させて、姦淫を犯した。さらにウリヤを最前線に送り、戦死させるという大罪を犯した。だが、神はダビデ王の罪を赦された。(David,Bathsheba)
台風4号が通過するなか、近畿に衝撃のニュースが走った。橋下と松井が会合で「あんなところに図書館いらん!」と発言し、大阪府立中之島図書館を廃止する方針を固めたという。大阪にはすでに東大阪市荒本に府立図書館があり、市内には西区に中央図書館、23の分館があり図書館網は整備されている。だが中之島図書館は100年以上の歴史を有し、関西に住む者なら貴重書を求めて何度も利用した経験のある人は多い。いわば関西の文化の殿堂である。大規模な図書館の存廃は経済的な事情で決めるべきではない。大阪では数年前に国際児童文学館が廃止しており、これらは悪魔のシナリオに添った思考である。つまり「図書館いらない」といえば文化好きのインテリは反対するが、むしろ図書館など1度も利用していない層からは支持を得られる、つまり図書館廃止が大量票獲得につながると判断したのであろうか。具体的な活用法を示すことなく、いきなり廃止と宣言するのも橋下流である。すでに「地方公務員が政治活動したら処分」と脅かされているので、司書たちの抵抗や反対運動はあまり起こらないだろう。こうした危機のとき図書館人が勇気をもって発言したり行動したりすることはすくない。弱体化した日本図書館協会も政治的なことは発言せず、世の趨勢に迎合した保守的な団体である。逆に向かった文化行政のベクトルを変えることは容易ではない。大学図書館や文化人は自分たちには関係なく対岸の火事とみるだろうが、大図書館の廃止は文化・文明の抹殺である。今後の中之島図書館の存廃問題を注視していく。
カスピ海東方480㎞、トルクメニスタン南部のアシガバッド東12㎞付近に北丘、南丘、アナウ・テペ(19世紀に廃棄)の3遺跡からなるアナウ遺跡は彩文土器文化の先史遺跡で知られる。1903年から04年アメリカの地質学者パンペリーはカーネギー財団の援助によりロシア領トルキスタンに学術調査をおこなったが、この際ドイツの考古学者フーバート・シュミット(1864-1933)によってアナウ遺跡の発掘調査がされた。のちスウェーデンの地質学者ヨハン・グンナー・アンダースン(1874-1960)が1923年から24年、甘粛省寧定県半山で仰韶文化を発掘報告したが、彩文土器の類似性から西から東へ彩文文化が広がったとする西方伝来説が流行した。しかし近年の学者たちは彩陶の西アジア起源説には批判的である。彩陶は農耕社会のものであり、いかなる移住民もこのような彩陶土器を動物の背中にのせて持ち運ぶことはなかっただろう。つまり西アジアにおいても、中国においても、新石器農耕文化のある段階には彩色土器があらわれるという共通する意識形態が存在するという興味ある結果が明らかとなりつつある。
つばめを英語で swallow ということは小学生のときから知っている。野球球団「国鉄スワローズ」によるものである。なぜ国鉄が「つばめ」なのか。球団設立時、看板列車が「特急つばめ」だった。昭和25年1月、東京・大阪間を特急つばめが運行した。翌年、18歳の金田正一がノーヒット・ノーランを達成している。
sparrow すずめ
hawk たか
crow カラス
pigeon 鳩
shrike もず
duck アヒル
sea mew かもめ
crane つる
robin こまどり
stork こうのとり
parrot オウム
dusky thrush つぐみ
white-eye めじろ
kite とび
skylark ひばり
falcon はやぶさ
peacock 孔雀
pheasant きじ
陽明学の王心斎(1483-1540)にこんな話がある。巨大な甕の中に、大きなウナギがたくさんうずくまっていたが、身動きができず、まさに死なんばかりであった。その中に、一匹、小さなドジョウが混ざり込んでいて、大きなウナギの間を縦横に行き交いして泳ぎまわり、とうとう甕の外に出ることができた。すると、そのドジョウが甕の外に出ることができたお蔭で、隙間ができて、大きなウナギたちも動くことができるようになって、ドジョウが甕の外に出た後、ウナギたちもすべて甕の外に出ることができるようになった。「かの気息奄々たりしものみな蘇り、相ともに大海に帰りぬ」とある。
どんなに膠着し、閉塞した社会状況にあっても、だれかひとり、他愛のないものが、その状況から脱出することができると、中にいる全員が、苦境から脱出することが可能になる、という寓話である。(伝習録)
琵琶湖をのぞむ高台に大津市歴史博物館(大津市御陵町2番2号)がある。来館者も少なくひっそりとしている。ここの目玉は大津絵でも近江八景でもなく、津田三蔵の書簡かもしれない。NHKドラマ「坂の上の雲」で津田三蔵がロシア皇太子の頭部を斬りつけたシーンがあった。ドラマでも津田の動機についてはふれていない。その解明の手がかりとなる津田の書簡76通が保管されている。上野の津藩士の子であった津田には士族としての誇りがあった。そして西南戦争に従軍し、勲7等を授与されるほどの活躍をみせた。ロシアの一行が西南戦争記念碑に敬礼せずに通過したことに腹を立てたともいわれるが、動機は今となっては分からない。津田三蔵もまた復古と変革の時代に生きた秋山真之と同時代の青年だった。児島惟謙の名判決により、無期懲役となったが、同年に獄死しているのも不可解なことである。
NHK総合テレビの昼の番組「お元気ですか日本列島」そのなかの梅津正樹アナウンサーの「気になることば」は人気のコーナー。13日、梅津さんは「日本語・韓国語の今と未来を語り合う」というトークセッションに出席された。韓国からはKBSの人気アナウンサー、イム・スミンさんが出席。日本と韓国の相違点や類似点が印象に残る。そこで話題になったのは外来語。韓国でも外来語や若者ことばが氾濫している。韓国では外来語を使わずに韓国語を使うように呼びかけているそうである。日本では2006年の安倍晋三の「美しい国、日本」という演説がカタカナ語であふれていたので論議を呼んだ。たとえば、「イノベーションによる経済成長」「メディカル・フロンティア戦略」「戦後レジームからの脱却」など。日本では賛否両論あり、グローバリゼーションの時代だから英語が氾濫するのもやむをえないとする人もいる。たとえば韓国では「レシピ」を「調理法」と言うことにしている。日本でもレシピはここ10年くらいで定着した日本語になったようにおもえるが、やはりお年寄りにはわかりにくいと思う。ただし、「レシピ」イコール調理法か、というと材料の分量なども書かれているので、調理法と言い換えると、ニュアンスがでない場合がある。ことばの微妙な違いはあるので単純な言い換えはできない、といっている。
英語「recipe」は、「受け取る」を意味するラテン語「recipio」(レキピオ)。その命令形「recipe(レキペ)」が、「これらの薬を取り上げて調合せよ」といった意味として医師が薬剤師に指示する処方箋に書かれたことから「処方」の意味になった。1740年代初頭から料理用語として用いられるようになった。
人類が水泳を始めたのは、遊びや暑さを避けたりしたことが動機となったと考えられるが、その後は軍事的目的や職業などに結びついて発展してきたと考えられる。水泳に関する最も古い記録は、リビア砂漠のワディ・ソリの洞窟の岩壁に描かれた泳ぎの図で、これは紀元前9000年頃のものである。古代エジプトでは紀元前2160年頃に貴族たちに水泳の指導が行なわれていたという。オリンピック競技に自由形があるが、フリーだが事実上はクロールで競われている。crawl とは「はう」「のろのろ進む」という意味。19世紀後半に、アーサー・トラジオン(1852-1902)が南米に旅行した際に見た原住民の泳ぎをヒントにして、片方ずつ腕を掻く泳法を見出した(トラジオン・ストローク) 1908年ロンドンオリンピック、競泳男子100m自由形の優勝記録はチャールズ・ダニエルスの1分5秒06だった。1922年7月にジョニー・ワイズミュラーが1分の壁を破った。モントリオール五輪ではジム・モンゴメリーが50秒の壁を破った。現在の世界記録はイーモン・サリバンが2008年の北京五輪で出した47秒05である。( John Arthur Trudgen,Eamon Sullivan,Johnny Weissmuller )
田辺朔郎(たなべさくお 1861-1944)は、文久元年、洋式砲術家田辺孫次郎の長男として、江戸に生まれた。工部大学校(東大)を卒業するとともに琵琶湖疎水工事を担当した。これは当時、東京遷都で、経済が衰退した京都を復興させようとする京都府知事・北垣國道(1836-1916)の構想があった。田辺の実地踏査と測量に基づく卒業論文「琵琶湖疎水工事の計画」が、採用されるという大抜擢であった。明治18年に起工するが、機材は乏しく、人員にも事欠く始末。しかも、工事自体がオランダ人技師デ・レーケが「技術的・財政的に無理」と断じた難工事だった。第一疎水の大津市三井寺~京都市蹴上間には全長2436mの長等山トンネルなど、3つのトンネルを掘らねばならず、困難を極めた。工事費も国家予算の1.8倍という巨額で、市民の反対の声も上がった。しかし、田辺らは挫けることなく、トンネルを日本の竪坑方式で掘削し、当初の計画を変更して水力発電を導入するなど、未知の領域に踏み込んで、次々と新しい試みに挑戦した。その結果、明治23年、西欧諸国が驚嘆する疎水を造り上げた。完成後、ここから供給された電力が、京都の日本初の路面電車の動力源となるなど、古都の近代化を支えた。今日、若王子橋から銀閣寺橋までの疎水べりは哲学の道と呼ばれる散策コースとして人気スポットである。
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春日さす疎水の水の諸子魚かな
河東碧梧桐
垣に残る夕顔の雨意疎水べり
野澤節子
林芙美子が森本に送った書簡
昭和6年頃、パリには多くの日本人がいた。画家では藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児。美術評論家の土方定一、詩人の金子光晴など。そんな中で異彩を放つのは考古学者・森本六爾(1903-1936)のパリ遊学である。
森本六爾は畝傍中学卒業後、奈良県下の遺跡を独力で調査し、昭和2年に考古学研究会(後の東京考古学会)を創設し、主幹となり雑誌「考古学」を発刊した。弥生時代に稲作農耕が存在したことをいち早く提唱した夭折の考古学者。この時「放浪記」(昭和5年刊行)で文壇に華々しくデビューした女流作家・林芙美子(1903-1951)も昭和6年11月にパリに来ており、孤独な二人の旅情はやがてかりそめの恋となる。
林芙美子は小柄で美人ではなかったが、明るくて女性的な魅力があった人である。このとき芙美子はすでに画家・手塚緑敏と結婚しているが、パリ滞在中も森本のほかにも、画家の外山五郎、建築家の白井晟一、坂倉準三、詩人の辻潤、仏文学者の渡辺一夫などとも交遊があった。芙美子は画家の外山五郎に会いたい一心で渡仏したらしい。失恋した芙美子の前に現れた男性が森本である。森本は芙美子と同じ年の28歳、ミツギ夫人がいる。
芙美子の日記に森本が登場するのは昭和6年12月26日である。「夕方顔氏(台湾人留学生)、森本氏達と支那めしをたべ、サンミッシェルを散歩する」とある。12月29日には森本、田嶋隆純(真言宗の学僧)とギメ美術館へ行った。翌年1月6日、芙美子は森本と田嶋を自分の部屋に招いて食事を供にした。翌日森本は朝早く芙美子を訪ねた。芙美子が好きだといった。日記には「へえ! こんなやぶれた女がね」「此男とは絶交する必要がある。本当はいいひとなのだろうが、学者にはどうも、精神的ケッカン者が多い」とある。1月10日にも森本が姿を見せたので、芙美子は「来らば水かけん」と宣言する。その翌日、ホテルに帰ると森本からリラの花三本が、「此花が御部屋を訪問いたします。どうか水をぶっかけて下さい。出来たら根の方が結構です」という手紙を添えて届けられていた。
やがて、2人はパリを離れロンドンへ。森本は1月29日、靖国丸で帰国する。芙美子は1月23日から2月25日までロンドンに滞在する。ケンジントンの下宿は森本に紹介してもらった。森本は3月9日帰国した。その年から翌年にかけて森本は活発に仕事をおこない、弥生文化研究の基礎をつくった。だが結核は進行していき、昭和11年1月、32歳で死んだ。(参考:関川夏央「女流 林芙美子と有吉佐和子」)
秋田といえば、しょっつる、ジュンサイ、ナメコ、ハタハタとならんで「きりたんぽ」が思い浮かぶであろう。郷土の偉人では、国学者・平田篤胤(1776-1843)が幕末思想界に大きな影響を与えた人物として重要。秋田藩はその篤胤の系譜をひく勤皇派が藩政を握ったため官軍にくみし、奥羽諸藩の幕軍と戦った。明治維新後、出羽国は羽前と羽後に分かれ、明治4年廃藩置県により秋田、岩崎、本荘、亀田、矢島、酒田の各県が誕生、同年、これらの県に南部領の鹿角郡を編入して今日の秋田藩の基礎が確立した。しかしながら、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、決して優遇的な対応はしなかった。そうした中でも、近代化を望む声は生まれてきた。明治10年1月の新聞の投書には芸妓や娼妓が苦境からの解放を訴え、参政権や男女同権の思想の芽生えをうかがうことができる。明治14年6月には、藩閥政府に反抗し、横手周辺で豪農襲撃事件(秋田事件)が発生したが、秋田立志会の主唱者・柴田浅五郎らが逮捕され、立志会はまもなく消滅した。
画像は秋田の郷土料理きりたんぽ。「たんぽ」は形がたんぽ槍に似ているところからという。炊きたての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉串に円筒形にぬりつけて焼きあげたもの。きりたんぼ鍋が生まれたのは、秋田で自由民権運動が起こった明治10年代だといわれている。
津田三蔵、安重根、難波大助、佐郷屋留雄・・・・戦前の暗殺史で、日本人が最もその名を知るのは安重根だろう。難波大助などは手元の日本史辞典にも名前すらない。NHKの歴史番組でもほとんど紹介されることはないだろう。やはり虎ノ門事件はいわゆる「未曾有の不詳事件」語ることすら憚られるタブーの日本史なのか。
難波大助(1899-1924)は衆議院議員・難波作之進の四男。難波は幸徳秋水を深く尊敬していた。そうして秋水を処刑にしたものに対して憤激と憎悪を強める一方、労働運動の無力を批判してテロリストの道を選ぶにいたり、摂政宮裕仁を暗殺せんとした。1923年12月27日、摂政宮を虎ノ門付近で狙撃したが弾はガラス窓を打ち抜いて天蓋に達し、車内にガラスの破片が散乱したが、摂政宮に命中することはなかった。難波はその場で逮捕され、翌年11月13日、大逆罪で死刑判決、2日後の15日に刑死となった。執行が判決の2日後というのは異常な早さである。32年前の大津事件では、大審院はロシア皇太子を普通人に対する謀殺未遂として、津田三蔵を無期徒刑にした。これは司法権の独立として高く評価されたが、難波の死刑(大逆罪)については目を向けることはほとんどないように思える。ウィキペディアに無期懲役から死刑に変わった経過が記述されている。大助の父はその後、閉門蟄居して餓死したという。
弾よりも速く、力は機関車よりも強く
高いビルも、ひとっ飛び
空を見ろ!
鳥だ!
飛行機だ!
いや スーパーマンだ!
そうだ スーパーマンだ。よその星から、人間をはるかにしのぐ力と能力を持ってやって来たスーパーマン。凄まじい河の流れを変え、鋼鉄を素手で曲げる。普段は、メトロポリタン紙の礼儀正しい記者クラーク・ケントと名を変えて、真実と正義と、アメリカのために、日夜闘いを続けるのである。
地球を守るために遠い星からやって来たスーパーマンは、クラーク・ケントと名乗り、デーリー・プラネット新聞の記者としてあらゆる犯罪に挑みこれを撲滅する。テレビシリーズ「スーパーマン」(1952-1958)が日本でも放送されるや、ジョージ・リーブスは世界のヒーローになった。だがスーパーマンの重圧に負けたのか、1959年6月16日、謎のピストル自殺を遂げた。まだ45歳だった。
「スーパーマン」はその後、クリストファー・リーブ(1952-2004)主演によりSFX劇場用映画として見事に蘇った。クリスファー・リーブの「スーパーマン」は、1978年、1980年、1983年、1987年と4本制作され、いずれも世界的な大ヒット。もともと舞台俳優をめざしていたクリストファー・リーブも様々な役に挑戦することを望んだが、スーパーマンとしてのイメージが強いため俳優として伸び悩んでいた。1995年落馬事故により、半身不随となり、2004年に52歳の若さで死去。何故かスーパーマン役者には、不運、不幸などの悲劇がつきまとうようだ。
昭和43年ころ、漫才コンビてんやわんやが鎌倉の獅子文六邸を訪れた。ひどく恐縮している様子で、額から汗を流し、お辞儀ばかりしている。もちろん初対面だ。獅子文六が何の用事できたのかとたずねたら、芸名に獅子だの、てんやわんやだのを、無断で使っているのを、詫びにきたらしい。彼らが漫才コンビを結成したのは昭和27年頃であるから、今頃になって、何で誤りに来たのか、よくわからなかったが、多分、誰かに著作権侵害のおそれがあると脅かされて、慌ててやってきたのだろう。背の高いほうの獅子てんや(本名:佐々木久雄)が南伊予の出身で、そこを舞台にして「てんやわんや」を芸名にしたのだという。ともかく著作権にはまだ寛容な時代だったので、無断借用の件はお許しいただけたようだ。(獅子文六「てんや君とわんや君」オール読み物 昭和44年11月号)
めずらしく寺尾聡がスタジオパークに登場。土曜ドラマ「永遠の泉」の番宣。アウトドア派らしく日焼けしている。宇野重吉の息子。1966年にグループサウンズ「ザ・サベージ」でベースを受け持つ。当時は奥島吉雄のほうが人気があった。「いつまでもいつまでも」や「この手のひらに愛を」はヒットしたがすぐに解散している。「おくさまは18歳」やジュン・サンダース范文雀と結婚したことなど私の知っている話題にはふれない。「ルビーの指輪」(1981)や「雨あがる」(2000)などが中心。最近はモーターパラグライダーが趣味とか。寺尾はエレキギター→アイドルと共演・結婚→アクション・スター→性格俳優→ミュージシャン→アウトドアと常に時代をリードしている。( motor paraglider )
「平清盛」で美福門院や白鳥麗子を演じた松雪泰子がトラックと衝突事故。女優リンジー・ローハンがまたもや交通事故。永山絢斗、高倉健、ケンタロウ。昨年、清原と元木の2人は、お互い別々な場所で乗用車を運転中、交通事故を起こしていた。ジローラモやスピードワゴンの井戸田潤も1月に交通事故。2010年末は田中将大が人身事故で書類送検。過去に松本潤、相武紗季、MEGUMI、秋山竜次、堤下敦、三浦りさ子、畠田理恵、広末涼子、森下千里など著名人の交通事故は枚挙に遑がない。狭い日本、そんなに急いでどこへ行くんだろう。むかしはお抱え運転手がいたセレブでさえも自ら運転して車を乗り回す時代だから、有名人の事故の発生率は以前にくらべ高くなる。どうか注意してもらいたい。これまでも自動車事故で若く散ったスターがいる。高橋貞二(昭和34年)、佐田啓二(昭和39年)、小柳徹(昭和44年)、高橋良明(平成元年)たち。みんな生きていればもっと活躍しただろうに。注意一秒、怪我一生。心がけよう、安全運転。( Lindsay Lohan,car accident )
あさイチで紹介されていた「かぜ薬にひそむ重い副作用」スティーブンス・ジョンソン症候群とは何か。広辞苑にもないがルルの使用説明には載っている。高熱(38℃)を伴って、発疹・火傷のような水ぶくれが全身の皮膚にあらわれる。中毒性表皮壊死症。1922年にアルバート・スティーブンス(1884-1945)とフランク・ジョンソン(1894-1934)によって発表されたが未だ原因はよくわからない。SJSの被害がほとんど知られないのは製薬会社の販売に悪影響があるからだろう。薬には効用もあるが副作用もある。( Stevens-Johnson syndrome,Albert Mason Stevens,Frank Chambliss Johnson,eponym )
むかしのドイツ映画に「Sehnscht202」(1932)がある。ゼーンズフトとは「あこがれ」という意味で、少女の役にはルイーズ・ライナー(102歳)が演じている。ルイーズはいまもロンドンのヴィヴィアン・リーが所有しているアパートで暮らしている。山田五十鈴は「剣を超えて」(1930)で大河内傳次郎の相手役で映画デビューしているからルイーズより2年古いことになる。戦前派には森光子(92歳)、原節子(91歳)、赤木春恵(88歳)らがいる。中村メイコは榎本健一主演の「江戸っ子健ちゃん」(1937)でデビューしている。子役や脇役のかたのなかには戦前派がいるかもしれない。津川雅彦は「狐の呉れた赤ん坊」(1945)がデビュー作である。現役女優最古参は「女優」(1947)でデビューした千石規子。津島恵子は「安城家の舞踏会」(1947)、三国連太郎「善魔」(1951)がデビュー。あと1950年代は宇津井健「思春の春」(1953)、小林旭「飢える魂」(1956)、里見浩太郎「天狗街道」(1957)など。
世界のなかで現役俳優で一番デビューが早いのは、おそらく「ハリウッドの化石」ミッキー・ルーニー(91歳)。「Orchids and Ermine」(1927)がデビュー作。
町村が市に昇格するとき、既に同名の市が存在することが多い。そのような場合、旧国名を頭につけることがある。河内長野市、土佐清水市、大和郡山市、陸前高田市、豊後高田市、大和高田市、安芸高田市など。また旧国名をそのまま使うこともある。美濃市、越前市、安芸市、伊予市、土佐市、東近江市など。しかし稀な例として本来の旧国名の領域ではない地域で、旧国名を名乗ることもある。1959年の市制施行にともない神奈川県に大和市が誕生した。市制施行から半世紀以上が経つが、100人に「大和市は何県にあるか?」と聞いたら、99人は奈良県にあると答えるだろう。
平成大合併には悲喜交交の物語がある。とくに地名の変更にまつわる哀話。長年、親しんだ町村名が変わるのは辛いことだ。愛知県みよし市は2010年に誕生した。本来は漢字の「三好」だった。「同じ漢字の市名は既存の市の名称と同一とならないように十分配慮すること」(1970年)との自治省通達がある。徳島県三好市、広島県三次市がある。つまり同名はNG、同音異名はOK。三好町ではなんとか名前を残したいと考えた。総務省から「相手方に異議がなければOK」との見解をえた。だが徳島県三好市からは×の返事があり、泣く泣く断念し、平仮名の「みよし」にしたという。
むかし鉄道の世界では「鉄」の字をしばしば「鉃」と変形して使った。「金」が「失う」では縁起がわるいので、わざと「鉃」の字を書いたのだ。大木伸夫の流行歌「鉃路の男」もわざと俗字を使っている。現代ではこのような悪習は消えてしまったようである。
NHK大河ドラマ「平清盛」に欠けているのは何かをあれこれ考えている。どうも出演者はみな善人で、いわゆる時代劇に必要な悪役、敵役がいないことだと考える。信西(阿部サダヲ)、頼長(山本耕史)も憎憎しさが足りない。かつて東映時代劇に阿部九州男(1910-1965)という悪役がいた。信西を阿部サダヲではなく阿部九州男が演じたらどんなだったろう。眼光するどく、大物らしくもったいぶった所作で、善玉・市川右太衛門に斬られる。そのようなカタルシスが「平清盛」にはまるでない。阿部は55歳で亡くなっているから当時は意外と若かったのだ。
阿部の若き日の作品は観る機会もないが、痩せており、板割の浅太郎や沖田総司などを演じたという。1933年に大都に移り、杉山昌三九と並ぶ看板スターとなった。戦後は大映、東映で貫禄ある悪役となる。阿部九州男がとくにいまでも有名なのは、おそらくテレビの「てなもんや三度笠」によく出演していたためだろう。
ところで阿部九州男が美剣士・沖田総司を演じたのは本当だろうか。通説では沖田総司はテレビ「新選組血風録」「燃えよ剣」で沖田を演じた島田順司からといわれる。実は昭和初期にすでに大衆文芸で新選組はブームであり、「維新の京洛」(1928)で寺島貢が演じたのが最初である。「剣士沖田総司」(1929)で月形龍之介が、「大殺生」(1930)で阿部九州男が沖田を演じた。このころから沖田=美剣士のイメージは出来上がった。以後映像作品において沖田総司は若手二枚目俳優が演じることが多くなった。
「鳴門の渦潮」と言うが、ナルトとは「渦潮」の意味。古くは阿波の門の意味から粟門(あわと)と呼んでいた。平安時代には「鳴門」の表記が現れる。あくまで海峡の名称だった鳴門が村名として現れるのは明治22年の町村制施行時である。昭和15年には鳴門町になった。さて、現在市役所のある鳴門市街地は撫養(むや)という歴史の古い町だった。昭和22年に撫養町と里浦村・鳴門町・瀬戸町が合併して鳴南市(めいなんし)となった。鳴門海峡の南側の地方一帯を鳴南と称したことから命名された市名だったが、市民になじみがないと不評だった。2ヵ月後に鳴門市と改名されて、鳴南市は短命に終わった。
フランク・ジェンクス(1902-1962)。眼光鋭く、いかつい風貌だが、フレッド・アステアやディアナ・ダービンなど音楽映画の名脇役。「オーケストラの少女」での次のセリフはよく知られる。
運転手(フランク・ジェンクス)「あんな美声なら、世界一幸せなはずなのに。見事な高音だ。体が浮き上がりそうだったよ。シャンデリアまでビリビリ震えてたぜ。すごかった。さっき歌ってたやつは何ていう歌だい?」パッツィ(デイアナ・ダービン)「モーツァルトのハレルヤ」運転手「ただのハレルヤで皆を感動させるとは、大歌手になれるよ」パッツィ「そう?」運転手「絶対だとも。大儲けできるぞ」パッツィ「でも、ずっと先の話かしら」運転手「何事も我慢だ。幸せはすぐには訪れない」パッツィ「我慢強くて」運転手「かなりね」パッツィ「今、起こるべきことを何年も待てる?」運転手「待たなきゃいけないなら」パッツィ「じゃあ、待ってね。タクシー代がないの」
フランク・ジェンクスがいう「何事も我慢、幸せはすぐにやってこない」は映画の名セリフの一つ。1930年代のタクシー料金メーターがハッキリ映っているのも面白い。1933年に映画デビュー、生涯に130本以上の映画に出演し、「ディック・トレイシー」「スーパーマン」などのドラマ出演がある。代表作「艦隊を追って」「世界の歌姫」「裏街」「海と青年」「北半球SOS」「地獄街」「銀の靴」「有頂天時代」「春の序曲」「姉妹と水兵」「画家とモデル」「スピード王」など。(Frank Jenks)
新井白石の時代から300年にわたる邪馬台国論争が徐々に明らかになりつつある。1997年には黒塚古墳から34枚の銅鏡が発見された。そしてホケノ山古墳、纏向古墳などの考古学的発見、池上曽根遺跡で発見された大型建物に使われたヒノキの柱根が年輪年代法で紀元前52年のものであることが推定され、弥生中期の大集落遺跡として注目された。そして箸墓古墳から出土した土器を放射性炭素年代測定法で調査したところ、この古墳の築造時期を240~260年とする調査結果が得られた。以前から言われてきたこの墓が卑弥呼か壱与の墓であるとする説がますます補強されることとなった。NHK「邪馬台国を掘る」では纏向遺跡周辺から出土した2765個の桃の種から中国道教との関係を指摘する。魏志倭人伝に記された鬼道を示す証拠とみている。
かつては邪馬台国論争は考古学的遺跡や出土資料の上からは九州説が圧倒的に優勢であった。1989年2月22日、吉野ヶ里遺跡が発見され、楼観、環濠など発掘される。朝日新聞も「吉野ヶ里の楼観から見れば邪馬台国がみえる」と報道した。数理文献学の安本美典は甘木市(現・朝倉市)を中心とした地域に邪馬台国があったと推定した。記紀が伝える神武東征は、邪馬台国の東遷を伝えるものであると主張した。もちろん高島忠平、七田忠昭ら九州の学者は今でも九州説が多い。壱岐原の辻遺跡から大量の鉄器が出土されている。甘木・朝倉では「邪馬台国古代祭り」が行われ、パレードやミス卑弥呼コンテストなどが行われている。邪馬台国九州説には宮崎康平、安本美典に限らず異色の研究者が多い。奥野正男もその一人だろう。炭鉱で働きながら小説を書いていた。1980年、「邪馬台国」創刊一周年記念論文で最優秀賞を受賞し、一躍九州説の旗手となった。現在、筑紫古代文化研究所代表となっているが、最近の動向は知らない。
中国史の渡辺義浩は魏が邪馬台国の位置を南方にあるものと誤認したと考えている。
九州は大陸文化伝来の先進地であり、近畿は政治的中心地である。九州と近畿とは緩やかな連合体であったかもしれない。
フランスの気象学者レオン・ティスラン・ド・ボール(1855-1913)は1902年のこの日、大気の層は対流圏と成層圏の性質の異なる二つの層に分かれていると論文で発表した。成層圏発見の日とされる。(Leon Teisserenc de Bort)
販売促進のため、表向きの広告戦略ではなく、消費者に気づかれないように、裏でこっそり情報操作をおこなうこと。たとえば有名人のブログや掲示板に特定商品をそれとなく話題にする。これをステルス・マーケティング、略してステマという。(Stealth Marketing)
第4回AKB総選挙は大島優子が2年ぶり首位を奪還したのは見事。「何事も全力で笑顔で」とそして、「花はいつか枯れてしまうので、これからも太陽でいてください」とファンに挨拶。優子の魅力はいつも全力で元気なこと。どこのクラスにもいるような男の子からも女の子からも好かれる理想的タイプ。以下の順位は次のとおり。渡辺麻衣、柏木由紀、指原莉乃、篠田麻里子、高橋みなみ、小嶋陽菜、板野友美、松井珠理奈、松井玲奈。
世界でもネット時代の新しいアイドルが台頭している。ディズニー系の番組から生まれたアイドル、マイリー・サイラス、セレーナ・ゴメス、エミリー・オズメントらは同じ20歳。セリーナは父はメキシコ系で母はイタリア系。日本人好みのキュートなルックスが魅力。ジャスティン・ビーバーとの恋が破局。エミリーは天才子役ヘーリー・ジョエル・オズメントの妹。まだ15歳ながらヘーリー・スタンフェルドは有望株。韓国の少女時代イム・ユナ。モデル、イ・スビン(李秀彬)は人形のような可愛らしさで中国で話題となっている。(Miley Cyrus,Emily Osment,Selena Gomes,Hailee Steinfeld)
マイリー・サイラス、エミリー・オズメント、セレーナ・ゴメス、ヘーリー・スタンフェルド、イム・ユナ、イ・スビン
函館市末広町に北海道坂本龍馬記念館がある。龍馬の甥、直(なお)と直寛は北海道に渡っている。そして2人の墓は浦臼にある。とくに直寛(1853-1911)は1897年に600余名とともに北見に入植する。1898年に4人の子どもとともに浦臼に移り、1902年には旭川に移り、北見教会を設立。坂本本家は北海道に移住したのである。孫の坂本直行は十勝で酪農を営み山岳画家となった。
龍馬(1835-1867)が蝦夷地開拓を夢みていたことは手紙などで明らかであるが、誰から蝦夷の情報を得たのであろうか。土佐藩士の北添佶摩(1835-1864)が1863年に能勢達太郎、小松小太郎と3人で蝦夷地視察旅行をしている。龍馬は江戸で、北添から、あるいは北添から話を聞いた千葉重太郎から蝦夷地の現状などを聞いたものと思われる。
明治44年3月、洋画家の松山省三(1884-1970)と平岡権八郎(1883-1943)は、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。新聞の三行広告で、女性を募集する時に、当時は「女ボーイ」と呼ばれていたが、字あまりになるというので、女の給仕という意味で「女給」という言葉が生れた。プランタンに次いで、パウリスタ、ライオン、ブラジルなどが京橋を中心として開店した。女給の衣裳は、着物の上から胸当て付ききで、丈の長い白いエプロンを付けるという、和洋折衷的なスタイルだった。
大正期は若い芸術家たちのサロンだったカフェーも、昭和になると時代の流れの中で、「女給」を売りにした風俗営業となっていった。カフェーの女給は、大阪と東京ではかなり違いがあり、大阪のカフェーの特色は客のそばに寄り添ってサービスするエロ路線だった。昭和5年頃、女給全盛時代となるが、女給崩れの中からは、街頭で身を売る「ストリート・ガール」、タクシーの助手席から男を誘う「円タク・ガール」、消毒ガーゼを使って接吻する「キッス・ガール」(1回50銭)という新手の風俗業も登場した。
わたしゃ夜さく 酒場の花よ
赤い口紅 錦紗のたもと
ネオン・ライトで 浮かれておどり
さめて さみしい 涙花
「女給の唄」(西條八十作詞、昭和6年)
最近、流行の兆しをみせているのが「ガールズバー」。露出度の高い衣装で接客するという。日本は変わらないな。
日本ではVサイン(ピースサイン)は写真を撮る際に必ずといってよいほどこのポーズがとられる。
しかし同じ身ぶりでも国が違えば意味するところが変わる。ギリシアではピースサインは「お前くたばれ!」の意味だそうだ。Vサインをして半殺しのヒドイ目にあわないよう注意しなければならい。ところでキリスト教の祈りには「父と子と聖霊との名によって」という表現を聞く。この3つは一体であり、神は唯一である。つまり三位一体(トリニタス)という。むかし西洋で宣誓の際に右手の親指、ひとさし指、中指を立てて宣誓するが、親指は父なる神を、ひとさし指は神の子を、中指は聖霊という意味がある。 つまりV字型の中央の空間にイエスが象徴されるのである。三位一体はイエス時代の教理ではなくて、さらに何世紀も古いバビロニアや古代エジプトの三つ組の神の古代宗教をキリスト教が取り込んだものである。VサインそのものはBBCのアナウンサーがレジスタンスのシンボルとして考案したものであるが、実は長い前史があるのである。
女優ドリュー・バリモアが米カリフォルニア州モンテシトで3度目の結婚。式にはキャメロン・ディアス、ジミー・ファロンら豪華な顔ぶれが参列した。「ET」のガーディ役で世界的に知られるようになったドリューだが、祖父ジョン、大伯父ライオネル、大伯母エセルはいずれも名優、両親も俳優という名門バリモア家の一員。芸能人の名家といえば高嶋家。高嶋政伸がモデル美元と離婚裁判。父高嶋忠夫、母寿美花代、兄政宏の幸福いっぱいの芸能ファミリーに訪れた醜聞は耳をふさぎたくなる。野田内閣改造で登場した国土交通大臣、羽田雄一郎。祖父は羽田武嗣郎、父は羽田孜。名家に生まれた雄一郎だがはたしてその実力や如何に?(Montecito,Drew Barrymore)
1950年代まで美醜の感覚はだいたい東西一致していた。ハリウッドで美人といわれれば日本でも成る程と思われていた。現代を代表する美人女優といえばナタリー・ポートマン、キーラ・ナイトリーとキルスティン・ダンスト。ところがネットなどで調べると、「スパイダーマンのヒロインがブサイク」とある。ナタリーとキーラはともかく、キルスティンの顔立ちは意見が分かれるところである。ドイツ系美人は日本人には理解できないらしい。もちろん笑顔や仕草がカワイイとみるのは同感ながら、顔だけを見ると主演級というのは難しいのではと思える。だがスパイダーマンやら作品にも恵まれトップスターを維持している。3歳からCMの仕事をしているのでアメリカ人にとっては愛着の持てる顔立ちなのであろうか。このまま活躍すれば外国映画史の美人の基準を変えるかもしれない。外国女優の顔を大きく分類すると、化粧法にもよるのだが、グレタ・ガルボとイングリッド・バーグマンが一つの分岐点と考えられる。以来、美人のスタンダードはバーグマンであったが、21世紀のキルスティン・ダンストは一つの分岐点かもしれない。(KIrsten Danst)
キルスティン・ダンスト、ナタリー・ポートマン、ダイアン・キャノン、パトリシア・ロック、オードリー・ヘップバーン、エリザベス・テーラー、ドロシー・ダンドリッジ、アン・ブライス、ジャネット・リー、イングリッド・バーグマン、デプラ・パジェット、ダイアン・ベーカー、グレース・ケリー、キャロリン・ジョーンズ、マリリン・モンロー、テリー・ムーア、マーガレット・ロックウッド、マール・オベロン
ジョディー・フォスター ジョニー・ウィッテカー(トム・ソーヤの冒険 1973年)
「子役出身スターは大成しない」などという。しかしジョディー・フォスター、ナタリー・ポートマン、ジェシカ・アルバ、リース・ウィザースプーン、リンジー・ローハン、ドルー・バリモア、クリスティナ・リッチー、キルステン・ダンストなどトップアクトレスは子役からスタートしている。
名子役の筆頭はチャップリンの「キッド」(1921)のジャッキー・クーガン(1914-1984)だろう。ヴァージニア・リー・コービン(1910-1942)は天才子役だったが、惜しくも31歳の若さで他界した。シビル・ジェイソン(1927-2011)はシャーリー・テンプルに匹敵する子役スター。
倒産寸前のFOXを救ったシャーリー・テンプルも1940年代になると人気は下降したが、変わってディアナ・ダービンやジュディー・ガーランドのような歌える少女スターが現れた。そしてエリザベス・テーラー、マーガレット・オブライエン、ナタリー・ウッドなどが映画黄金期に活躍した。1950年代から60年代はドナ・コーコラン、パティ・デューク、少女歌手ブレンダ・リー、テューズデー・ウェルド。70年代リンダ・ブレア、テータム・オニール、ブルック・シールズ、ジェニファー・コネリー、ダイアン・レインと1980年代まで美少女ブームが続いた。
Who wrote the British national anthem God Save the Queen?
According to Brewer's Dictionary of Phrase and Fable,both words and music were written by a Dr. Henry Carey in 1740.
イギリス国歌「神よ女王陛下を守らせ給え」は誰が作ったのか?「ブルーワー英語故事成語大辞典」によれば、作詞と作曲との両方ともヘンリー・ケアリーによって1740年に書かれたとされている。
エリザベス2世即位60周年を祝うパレードが開催中。イギリス連邦の加盟国は現在何ヶ国あるか?イギリスを含めて54ヶ国である(うちフィジー共和国は軍事政権を樹立し、資格停止中)。(Commonwelth of Nations)
イギリスの地名には詳しくない。鉄道の発祥の地だけに映画に鉄道がよくでてくる。英映画に地名が出てきてもブリテン島のどのあたりにあるのか地図で探さなければ分からない。「心の旅路」(1941)という名作があるが、メルブリッジという地名が本当に存在するのだろうか。リヴァプールから少し離れた英国中部の田舎らしい。まるで理想郷のようだ。当時の映画はロケではなく、撮影所のセットなのでおそらく架空地名であろう。ラストシーンは韓国ドラマ「冬のソナタ」で出てくる「心の家」に似ている。
アルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画「バルカン超特急」(1938)にロンドン・ビクトリア駅がでてくる。そのほかは架空の地名である。(Melbridge,Liverpool,London Victoria Station)
10代は分、20代は時、30代は日、40代は週、50代は月といわれる。つまり、40代の人だったら、「じゃあ来週のことにしよう」と、週を単位にして約束をする。ところが、その人が50代になると、「それは来月のことにしよう」と。月を単位にして予定を立てる。このように時間の受け取り方が、年齢に応じて加速度化していくことをこの話は表わしている。「日長きこと少年に似たり」という句があるが、少年のころの1日は長い。そのために、人間は一生の生活設計を、とかく間違うことが多い。20年、30年生きるという前提で将来の設計を立てたりするから、設計と実際に誤差を生じ、結局、晩年に悔いを残す。われわれは一歳を重ねるごとに1年の回転率がそれに比例して早くなることを、念頭におかなければならない。
The day is short and the work is much.
日はまもなく暮れるが、やり残した仕事は多い
日本映画チャンネルを見ていると懐かしい女優がでている。真理明美、賀川雪絵、宇津宮雅代、江夏夕子など(大坂城の女)。豊浦美子、菱見百合子、進千賀子広瀬みさ。進千賀子といえば「美しきチャレンジャー」(1971)、ヒロイン小鹿みどりのライバル七瀬茜である。日活時代は吉永小百合の映画の脇にまわされた。東宝の黒沢年男・酒井和歌子「めぐりあい」に脇役で出ている。大手自動車工場の美人事務員。酒井はベアリングの町工場の事務員。黒沢は進に振られて、酒井を選ぶ。1968年の恩地日出夫のこの青春映画は世相がとてもよく描かれている。クーラーのまだ普及していない暑い夏、大学進学熱はまだ高かった、学園紛争、ベトナム戦争が泥沼化、グループサウンズの流行。すべて青春の原点がこの1本に詰め込まれているような作品だ。進千賀子はとてもきれいな女優だったが、主演作品を見たことがない。
スポーツ界で50歳現役選手はいるだろうか?ゴルフ、射撃、乗馬など高齢者でも技術でカヴァーできる競技ならいるだろうが、野球、サッカー、相撲といった体力勝負のスポーツはなかなか難しい。過去、日本プロ野球で最年長記録は浜崎真二の48歳10ヵ月。工藤公康も同じ48歳で現役引退したが、各球団からのオファーがなく試合には出場することはなかった。記憶に残る名選手をあげれば、苅田久徳40歳、藤村富美男42歳、落合博満45歳、岩本義行45歳、野村克也46歳などである。松井やイチローは何歳までプレーできるだろうか。
北ウェールズの美しい町コンウィ(人口3800人)にエドワード1世(1239-1307)がウェールズ征服のための拠点として建てた城がある。城の建設は1283年に始まり、わずか4年半で完成した。イギリスの城塞のなかでも最も保存状態がよく観光客で賑わう。
エドワード1世はウェールズを征服して、スコットランドにも出兵して王の主権を認めさせた(1292)が、征服にはいたらなかった。王妃エレノア(1241-1290)との間の子エドワード(のとのエドワード2世)がウェールズで生まれ、乳母もウェールズ人であったため彼に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号が与えられたから、以後、これがイギリス皇太子の称号になった。
コンウィ城の夕景を画家ターナーが描いており、その作品がカーディフ国立博物館に収蔵されている。
(EdwardⅠ,Conwy Castle,Eleanor of Castile,Prince of Wales,Turner)
6月はエリザベス女王即位60周年記念式典が、7月にロンドン五輪が開催され、いまはイギリス・ブーム。「イギリス」という呼び名の国名は実際には存在しない。正確には「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」である。略してU.K.(United Kingdom)と言う。イギリス人全体を指す場合は「British」と表現する。イギリス政府は「British Government」、イギリス文学は「English Literature」。ちなみにフランス語ではロアイヨーム・ユニ(Royaume Uni)、イタリア語ではグラン・ブレターニャ(Gran Bretagna)
16世紀以降、南蛮人紅毛人の渡来によってイギリスの情報が日本にももたらされたが、「イングレス」ポルトガル語Ingless、オランダ語Englschから訛って「エゲレス」となり「イギリス」となった。今日の連合王国になっても、日本人にはイギリスという呼称が定着しているので使われている。英会話では使わないように。(the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)
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