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2012年5月26日 (土)

三ヶ島葭子と左卜全

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    明治19年8月7日、埼玉県入間郡三ヶ島村堀之内(現・所沢市堀之内)に生れる。父・三ヶ島寛太郎は、中氷川神社の出、小学校長。明治41年6月から大正3年3月まで、東京府西多摩郡小宮尋常高等小学校(現・あきる野市立小学校)に在職。この時期、与謝野晶子の門下となり、「女子文壇」「スバル」等の雑誌に多くの短歌・散文を発表した。一時は晶子の後継者と目されたこともあったが、大正5年に発病。原阿佐緒の紹介で島木赤彦の門下となり短歌を発表する。大正10年、親友の原阿佐緒と石原純との恋愛問題に関する論文を、「婦人公論」に掲載したことにより、アララギを破門される。大正15年、古泉千樫の「青垣会」結成に参加したが、昭和2年3月26日、麻布谷町(現・六本木)の自宅で喀血の後、逝去。なお、俳優の左卜全は、葭子の異母兄弟である。

名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき 我もまた見ぬ人の恋しき

寂しさを歌ふ人なくなりし時 ろをまの国は亡びしときく

   左卜全(1894-1971)、本名・三ヶ島一郎は、寛太郎と後妻のぶとの間に生れる。葭子は異母姉。明治42年に上京。さまざまな職業につきながら立教中学に通う。大正3年、帝劇歌劇部3期生の補欠募集で入り、「ブン大将」のコーラス・ボーイで初舞台。昭和になって松旭斎天華一座に入る。その後、軽演劇のムーラン・ルージュで老け役の喜劇俳優として独自の芸風を確立した。埼玉県所沢市の三ヶ島葭子資料室には、卜全資料も平成6年に、夫人・三ヶ島糸(旧姓・中村糸)から市に寄贈され、資料室内に合わせて展示されている。

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