漱石「坊っちゃん」の謎解き
夏目漱石は大学を出た後、東京高等師範学校の講師をしていたが、1年半ほどたって四国の松山にある愛媛県尋常中学校の教師になった。松山にはわずか1年しか居なかったが、その経験が小説「坊っちゃん」の素材になったことはよく知られている。このことからモデルは当時(明治28年頃)の同僚教師に求めることが一般的である。つまり主人公の坊っちゃんは弘中又一(1873-1938)といわれる。その根拠は年齢が当時22歳であったこと、シッポクうどんを4杯食べたことが小説では天麩羅蕎麦4杯となっていること、数学教師であったことなどが挙げられる。数学主任の渡辺正和はイガグリ頭の山嵐、堀田と比定される。このように校長の狸、教頭の赤シャツ、野だいこ、うらなり等を、それぞれ住田昇、横地石太郎、高瀬半哉、梅木忠朴に比定されている。だが、漱石が単純に当時の田舎の学校の様子を戯画化しただけの小説なのかという疑問が残る。関川夏央は「坊っちゃん」のモデルを18歳の明治大学生の太田仲三郎としている。(「坊っちゃんの時代」関川夏中、谷口ジロー)昭和6年に「自分が、多田のモデルである」と証言しているからである。太田(おおた)は多田の変名というのである。小説中に坊っちゃんの姓が、「清和源氏で、多田満仲の後裔で旗本の家柄」とあることから、多田→太田、満仲→仲三郎、というのである。ただし、坊っちゃんの姓が本当に多田であるのかは不明である。関川は当時の漱石の交遊関係から山嵐を堀紫郎、校長を山縣有朋、赤シャツを伊集院影韶、野だいこを桂太郎、うらなりを森田草平、マドンナを平塚明子、清を樋口一葉、あるいは井上眼科病院で出会った初恋の人に当てている。異説には井上眼科の美女は日根野れん(1866-1908)という説もある。だが、このような断片的事実からモデルを実在の人物に推定することは、一種の謎解きの面白さはあるものの漱石は小説で何を言いたかったのかが見えてこない。「坊っちゃん」は単なる勧善懲悪の子供向き読み物ではなく社会諷刺的要素が含まれているのである。西洋かぶれの赤シャツはむしろ夏目漱石の戯画化にも見えてくる。日清、日露の帝国主義拡張の世相を諷刺するとみれば、マドンナは遼東半島であるるとする説がある。不凍港をロシアが渇望したように、遼東半島を美女に喩える傾向は当時流行していた。つまり赤シャツ(西洋列強)に加えられた天誅とは日露戦争の寓意として読み取れる。次の「三四郎」では漱石の国際観は大きく変化するが、「坊っちゃん」執筆時は漱石自身も国家主義的な思想を持ち、作品に暗喩させ、また当時の読者の喝采を浴びたのではないだろうか。
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