ふたつの藤ノ川
昭和40年代に活躍した力士に藤ノ川武雄がいる。北海道音更町出身、小兵技能派で成績よりも記憶に残るタイプである。柏戸の弟弟子で四股名も明治中期に活躍した柏戸宗五郎(4代)が「藤ノ川」と名乗ったことに因む。この柏戸宗五郎の出身地は分からないが、おそらく土佐の藤ノ川と無関係であろう。
内田康夫の「平家伝説殺人事件」で土佐藤ノ川地区は平家落人で一般に広く知られるようになった。平家が滅亡し、その落人が入村したのは1185年のことである。森、遠地氏が落合、大向の土地の開拓を始めた。さらに上山氏が1244年に入村し、寛元年間にその開拓の守護神を祀るものとして河内神社が、続いて永正年間に一条氏によって京都の賀茂神社の分霊が勧請され、加茂神社に祀られた。1586年には、一条家五代兼定公の家老であった今城伊豆守が隠遁して藤ノ川地区に入村し、さらに豊後の国大友氏に仕えていた稲葉右京進が入村して藤ノ川地区の開拓にあたった。天正年間、「稲葉」が「稲田」にかわって、現在の稲田家がある。(参考:「四万十川上・中流域のくらしと音楽Ⅶ 高知県幡多郡西土佐村藤ノ川地区」岩井正浩ほか 神戸大学発達科学部研究紀要3-2,1996年)
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