バーレスク・ストリップ盛衰史
初期のバーレスクは、19世紀末、パリのカフェ・コンセールなどで評判とした「イベットの就寝」で、踊りながら衣類を脱いでいった女が、ついに全裸になった瞬間にベッドに飛びこむという趣向があった。アメリカでは1865年ごろM・B・リービットによって性と喜劇のエンターテインメントとしてバーレスクが始められたが、1866年渡米したイギリスの女優トムソンら脚線美を誇る一座の大好評をきっかけに「脚のショー」ともいわれて、以来隆盛を続けた。その構成は種々多様であるが、踊り、寸劇、曲芸などを組み合わせて第1次大戦前を最盛期とし、1930年代にはバーレスクショーは衰え、その後はストリップショーとなった。
日本では昭和22年1月15日、東京新宿の帝都座でヘレン滝が試みたストリップショーが本邦最初の実演といわれる。この興行に最初に取り組んだのは、秦豊吉である。同月、「額縁ショー」が5階劇場で公演され、「ヴィーナス誕生」の一幕で元NDT(日劇ダンシングチーム)の中村笑子は、ブラジャーの上に紗を巻いて舞台の額縁のなかに静止して立った。初期の「額縁ショー」は裸女が額縁の中で動かず、名画のポーズをとるだけであった。3月の公演「ル・パンテオン」では、甲斐美春が裸身の腰を大きな麦わら帽子で隠しただけの本格ヌードを初公開した。これが日本初のストリップ第1号とする説もある。
田中小実昌によれば、昭和22年5月、渋谷の東横第二劇場でトーキョー・フォーリーズというショーグループが公演した際、ソロダンサーのライナー多坂が、ブラジャーを舞台ではずしたのをストリップの最初と証言している。
やがてエスカレートして、露出を中心としたジプシー・ローズ(本名・志水敏子、1935-1967)、メリー松原、ヒロセ元美などの踊り子らが人気を集めるが、「ストリップ追放令」が出されるに及び、日劇小劇場では、「ヌードは芸術としてのエロチシズムを追求せんとするものなり」と理屈をつけて、「ヌード芸術の殿堂」として日劇ミュージックホールを昭和27年に開場した。ちなみに日本のジプシー・ローズの命名はブロードウェイの「戯曲の女王」ジプシー・ローズ・リー(1911-1970)に由来するらしい。
メリー松原は1928年生まれ。本名は松原栄子。12歳から舞踏を学び、敗戦直後にアーニーパイル劇場の専属舞踏団第一期生となる。その後1948年2月、「南国の処女」と題したショーで浅草ロック座にデビューし、ストリップ草創期の大スターとなった。
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