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2012年3月10日 (土)

王家の血筋という捏造

    「帝王編年記」によると、中大兄皇子(のちの天智天皇)は、寵愛する妃(車持君国子の娘の与志古娘)を中臣鎌足に与えた。妃はすでに妊娠6ヵ月であり、皇太子は妃を鎌足に与えたときに、「生れてくる子が男子であれば鎌足の子とし、女子であれば自分の子とする」と命じた。鎌足は、4ヵ月の間、大切に妃を守り、ついに子が生れたが、その子は男子であった。そこで命令のとおり、その男子は鎌足の子となった。それが藤原不比等である。だが「多武峰略記」には第一子の貞慧にも同じパターンの皇胤説が記されている。「日本書紀」にも軽皇子(のちの孝徳天皇)が寵妃をもって鎌足をもてなしたとある。つまり不比等皇胤説は事実に基づくとは考えがたい。平清盛の白河法皇落胤説も創り話である可能性が高い。皇胤説の背景には、権力を掌握する者の血筋は皇室との特別な関係を持つことが必要であった。藤原家、平家が繁栄した理由づけに王家の血統であることを史書で捏造したのである。

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