ミラノの歴史
イタリア北部、ロンバルディア地方の中心都市ミラノの町は、古くはエトルリアの町で、前4世紀にガリア人に征服された。さらに前222年にローマ軍が占領、その時の記録によると、都市は「メディオラヌム」(平原の中心地)と呼ばれている。これは、ガリア語のメディオ(中心地)とラン(平原)を合成した地名である。前194年、ローマが都市を再び占領し、メディオラヌムの古名が用い続けられ、次第に転訛して、現在のミラノとなり、北イタリアの中心として繁栄した。374年に聖アンブロシウスがミラノの大司教となり、このころからミラノは北イタリアの宗教的中心となった。聖アンブロシウスは現在にいたるまでミラノ市の守護聖人とみなされている。大司教の権力が大きくなったのはシャルマーニュ治下のころからであり、戦乱を避けてミラノの城壁内に流入する人口は増大し、11世紀にはロンバルディアにおける最強の都市になった。1163年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世により市が破戒されたが、ミラノはロンバルディア同盟に加わり、1176年、レニャノの戦いにおいて皇帝軍を破った。その後ロンバルディア諸都市は再び反目し合い、またミラノはギベリン党とゲルフ党の抗争に巻き込まれ、市内が諸勢力に分裂するところとなった。しかしこの間に、ミラノでは織物工業の発達がはじまり、近郊農村においても土地改良がすすめられて、ロンバルディアにおけるミラノの経済的地位は圧倒的なものとなった。1277年、ビスコンティ家が、貴族勢力の支持を受けてミラノの領主となり、以後、わずかの中断を除いて、1447年までミラノに君臨した。3年間の共和制の後、ビスコンティのもとで将軍だったフランチェスコ・スフォルツァが領主になり、以後1535年スペインの支配はつづくが、この間に、すでに始められていた大聖堂の建設が大いに進み、運河が開かれ、ブラマンテ、レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする文人・芸術家も集って黄金時代を呈した。この時以降、ミラノは経済的には繁栄を遂げ、ロンバルディア商人はヨーロッパ各地に進出したが、ミラノがイタリア史の中心的役割を果たすことはもうできなかった。
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