弘前の歴史
弘前は、かつて鷹ヶ岡(高岡)とよばれていた所で、津軽藩によって城を中心に町づくりがおこなわれた。津軽藩祖大浦為信は津軽の統一とともに、それまでの堀越城が要害に欠けるところから、慶長8年(1603)、鷹ヶ岡に町割りや、新城の築城を計画した。しかし完成前に死去し、二代藩主大浦信牧(おおうらのぶひろ)が推進し、慶長16年(1611)城築は完成した。以来明治2年まで、津軽藩10万石の中心として発展した。明治4年7月、廃藩置県によって、「弘前県」となったが、9月に「青森県」となって青森市が県庁所在地となり急速に衰微した。明治27年には弘前・青森間に鉄道が開通し、明治31年に第八師団司令部が設置され、軍都として発展する。さらに、大正10年に、官立弘前高等学校(現在の国立弘前大学)が開校し、学園都市としての性格を持つ。太宰治は昭和2年から昭和5年まで弘前高等学校に在籍し、「弘前新聞」や同人誌で作品を発表している。
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