平清盛、南都焼き討ち
NHK大河ドラマ「平清盛」の視聴率が低迷するなか、ゆかりの地では清盛関連グッズ合戦が熾烈である。ところで清盛といえば奈良の諸寺を焼き討ちにするという大罪を犯したことで知られる。便乗商法とみるべきか、地域振興とみるへきか、それが問題だ。この現状を奈良ではどのように受けとめているのだろうか。
平安末期は末法思想が世の中を覆い始めていたが、民衆の宗教心は今よりもはるかに篤いものがあった。奈良の東大寺は武闘勢力を抱える独立王国のような存在であり、源氏と連携を強め、平氏と対立するという構図となった。1180年に平清盛に命じられた重衡の軍勢は南都の焼き討ちを行い、東大寺、興福寺、元興寺などの諸堂をほぼ壊滅させた。「灰燼は山のごとく、余煙は黒雲の有り様」であったという。東大寺は二月堂や法華堂を除き、大仏殿をはじめ多くの伽藍を焼失した。だが大仏の修復は1183年に始まり、1185年には開眼供養が行われるというスピードぶりだった。当時の民衆がいかに大仏を哀惜し、またその崇りを恐れたかがわかる。
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