オランダ歴史さんぽ
オランダは王国である。ベアトリクス女王の次男ヨハン・フリーゾ王子が訪問先のオーストリアでスキー中に雪崩に巻き込まれて重体となっているそうだ。オランダで思い浮かべるものは何んだろう。チューリップ、レンブラント、ゴッホ、そしてシーボルト(実はドイツ人)。オランダの独立運動といえば、すぐゲーテの悲劇の主人公エグモント伯(1522-68)を思いだす人もいるだろうか。ゲーテはエグモントをその詩想のおもむくままにはばたかせているが、もちろんエグモントより現実のエグモントの方がもっと悲劇的であったといわれるほどである。しかも独立を彩るのは、この「自由のために生きてたたかい、自由のために死んだ」エグモント伯だけではない。自由の詩人シラーをしてその史筆をとらしめ、イエナ大学の歴史学講師の口を得さしめる機縁となったのも、この独立戦争であった。オランダの独立は、ヨーロッパの人たちにとって自由のための一つの実験・史劇であった。それは、その後につづくいくたの市民革命の第一ののろしであったといえよう。ネーデルランド諸州の人たちの反抗は信仰の自由・諸州の自由・経済上の自由を目標とするものであった。
スペインの専制政治に対する反抗は、ドイツのナッソウ家のオラニエ公ウィレムやエグモント伯、ホルン伯らの大貴族を中心として南ネーデルランドで開始され、次第に北ネーデルランドの中小貴族・商人をも闘争にまきこんでいった。このようにして1566年末ごろから主導権は貴族の手から市民に移った。スペインはこの運動に圧力を加えたが、ウィレムを指導者とした民衆の抵抗もますます激しくなり、闘争は独立戦争の様相を呈することとなった。この運動に加わった人たちはゴイセン(乞食)名づけられたが、それは運動の初期にスペインの宗教裁判所に反対してスペインの総督に請願状を出したネーデルランドの貴族の同盟に侮蔑的につけられた名である。北部7州(オランダという名はホラント州からくる)は1579年ユトレヒト同盟を結び、オラニエ公ウィレム1世を盟主に独立を宣言、1581年ネーデルランド連邦共和国を結成、1588年スペインの無敵艦隊がイギリス海軍に大敗し、スペインは衰退し、1609年にオランダとスペインとの休戦条約が成立して事実上の独立国となった。(参考:長谷川博隆「ベネルックスの歴史」世界文化シリーズ6)
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