廃城後も経済発展した岐阜城
濃尾平野の北端、岐阜市街地の北東部に屹立する金華山に築かれた山城。13世紀の鎌倉時代、二階堂行政(ゆきまさ)がここにはじめて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏の守護代・斎藤利永(生年不詳ー1460)が修築して居城としたとされるが、この山城が美濃を制する軍事的・行政的な名城・稲葉山城へと飛躍するのは、16世紀半ば、急速に台頭した斎藤道三によってである。
ところが斎藤道三は、稲葉山城を譲った長男の義龍(よしたつ)に討たれ、義龍の子の龍興(たつおき)が城主のとき、尾張の織田信長によって落城する。(1567年)
織田信長は、山上・山麓に本格的な城を築き、城下町を造って、あらたに岐阜と命名した。中国周の文王が岐山(ぎざん)に興って天下平定をなしとげたという故事に基づく。阜は丘の意。「美濃を制するものは天下を制する」といわれた念願の美濃を手中に収めた信長は「武をもって天下を治める」(天下布武)ことを決意する。岐阜は信長の城下町として繁栄した。しかし、信長の死後、家康は岐阜城を廃し、その南に加納城を築いた。しかし、岐阜の街は、廃城後も経済発展を遂げた。
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