ほんとうに偉い人は誰れ?
この世には、国民栄誉賞、文化勲章、ノーベル賞など多数の賞という名のつくものが存在し、その偉大な功績に対して栄誉を与えている。あるいは、織田信長、アレキサンダー大王、ジュリアス・シーザー、シャルルマーニュ大帝、ジンギスカン、ナポレオンなど強力な支配者も現われ、歴史上の偉人を英雄と呼ぶかもしれない。ほんとうに偉い人は誰か?歴史家のH・G・ウェルズによると、人の偉大さは、「どんな発展性のあるものをあとに残すかによって、また他の人々が、その人の死後も新しい線に沿って絶えず精力的に思考するようになるかどうか」によって計られる。ウェルズの基準に従えば、イチローが今後、何本ヒットを打とうと、森光子が何回「放浪記」を上演しようが、「ご苦労さん」といえばいいことで、偉大さとは無関係なものであることになる。思い浮かぶ人がひとりいる。その人は、辺鄙な村で田舎の女性の子供として生まれた。育ったのは別の村で、30歳になるまでその村で指物師として働いた。その後、3年間は各地を巡って伝道をおこなった。本を書いたこともなく、公職に就いたこともない。家族をもうけたことも、家を持ったこともない。大学に通ったこともないし、大都市に行ったこともない。生れた場所から320キロ以上離れたところに旅行したこともない。世論の動きがその人に敵対するようになったとき、わずか33歳だった。友人たちは逃げ去った。その人は敵に引き渡された。形だけの裁判を受けた。そして、2人の強盗の間に立てられた杭に釘付けされた。死にかけていたとき、死刑執行人たちは、その人が地上で持っていた唯一の財産だった衣服のくじ引きをした。死んだときには、ある友人の哀れみにより、借りた墓の中に横たえられた。その人は今日人々が思うような偉いことは何一つ行っていないと言っていい。地位も財産も権力もない。しかし、その人は約2000年経ったいまも、その人の教えと、教えに調和した生き方によって、世界中の人々の生活に影響を与えてこられたのである。
« 梅の木にウグイス | トップページ | スイスの古城ベッリンツォーナ三城 »
「キリスト教」カテゴリの記事
- 宣教医ベッテルハイム(2023.04.05)
- トビアの晩(2019.01.02)
- Buck to 1970(2022.02.04)
- 21世紀はなぜ2001年からなのか?(2016.03.17)
- ヴィア・ドロローサ(2016.01.10)
コメント