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2012年2月29日 (水)

世界のことわざ

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    京都大原で200種類のハーブを育て、手づくりの暮らしを実践しているベニシア・スタンリー・スミスさんが好きである。美しい英語と日本語とを話し、すばらしい言葉が次々とでてくる。NHKあさイチで聞いた諺をメモしておいた。

人生は40歳から始まる。

Life begins at forty.

嵐が通り過ぎるのを待っているのではなく、雨の中で踊りなさい。

困難によって人は宝石のように輝く。Difficulties make you a jewel.

最後の成句に関し、司会者が「良い言葉ですね」というと、ベニシアさんは「日本のことわざなんですよ」と。

あとで考えると「艱難汝を玉にす」というのがある。明治の頃、イギリスの「Adversity makes a man wise.」(逆境は人を賢くす)からきいてると知る。日本人はイギリスのことわざをたくさん輸入している。

    このほかイギリスの有名なことわざを一つだけ紹介する。

結婚は悲しみを半分に喜びを2倍に、そして生活費を4倍にしてくれる。Marriage halves our griefs,doubles our joys,and quadruples our expenses.

    このほか世界には変なことわざもある。

自分の糞は臭くない(サーミ)

人は自分の放つ悪臭には鈍感なものである。他人にはすぐ目につく欠点だが、本人はなかなか自分の欠点に氣がつかない。

牛乳を飲む人よりも、これを配達する人のほうが健康だ。(小出義雄の言葉か?)

リウム・サムソン美術館

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    エルピーダ破綻。サムソンに負けた。大財閥サムソンに遺産争い。このところサムソンの記事を見ない日はない。ソウル市龍山区漢南洞にあるリウム・サムソン美術館。スイスのマリオ・ポッタ、フランスのジャン・ヌーヴェル、オランダのレム・コールバース、3人の世界的建築家の個性が調和した贅沢な空間である。

ああ、うらやまし、年の差結婚

W427747view   加藤茶(68歳)の新婦綾菜夫人(23歳)、実に46歳差である。ドリフではかつて荒井注、仲本工事も年の差の再婚だった。堺正章(65歳)も今年22歳下の女性と再婚した。石田純一は東尾理子と再婚。三田村邦彦は26歳差の女性。萩原健一は12歳下のモデル冨田リカと再婚。郷ひろみは24歳差の徳武利奈。古くは上原謙が38歳の元クラブ歌手大林雅美と再婚したときは週刊誌をにぎわせた。「砂の器」の老優加藤嘉、小沢栄太郎、レオナルド熊なども記憶にのこる。海外ではウッディー・アレンが35歳年下のスン=イ・プレヴィンと再婚している。

オルセー美術館のガラスのベンチ

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    先日BS「天海祐希パリと女と」を見ていると、オルセー美術館のガラス製のベンチ「Water Block」は日本人デザイナーが製作したものだという。吉岡徳仁。2011年米国誌Fast Company「世界で最もクリエイティブな100人」の1人に選ばれている。東京都美術館シンボルマークとロゴも吉岡徳仁。何でもかんでも吉岡徳仁。♪佐渡へ佐渡へと草木もなびく~。

ブンディのココナッツ煮

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    ブンディとは大きめのバナナ。小さく切って茹でて、冷まして茹で汁と一緒に食べる。甘くて美味しい。南太平洋のほぼ中央に位置するフィジー共和国の料理。国旗にもバナナがある。

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「白い羽」カルロス・ハスコック

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    ベトナム戦争で活躍した狙撃兵カルロス・ハスコック(1942-1999)は「白い羽」(White Feather)、ベトナム語で「Long Trang」と呼ばれて恐れられた。北ベトナム軍は彼に3万ドルという破格の賞金をかけて抹殺しようとしたが、殺すことができなかった。コブラとよばれたスナイパーとの対決では、敵の照準器を貫通して弾丸を眼窩に命中させたという伝説がある。ベトナム戦争で公式には敵兵を93名射殺したとされるが、推定では300名以上を射殺していると伝えられる。映画「山猫は眠らない」のベケット曹長(トム・ベレンジャー)はハスコックがモデルといわれる。

菅政権とは何だったのか

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    東日本大震災からもうすぐ1年。震災原発事故の議事録未作成の問題は「認識が不足していた」と。原発事故対応は「備えがなかったという意味で大失敗だった」と。なんでも一言でおしまいになる。現在、同行二人の菅笠に白装束で四国霊場巡りを再開する菅直人の表情はなぜか明るかった。専門的な知識を欠いた泥縄的な対応で事態を悪化させた菅政権とは何だったのか。

カワウソの須崎

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    特別天然記念物ニホンカワウソはイタチ科の哺乳類。川や湖の近くに住み、体は褐色。四肢は短く、水掻きがあって泳ぎに適し、水中で魚などを捕食。体長約70㎝。毛皮は良質。人間にとって身近な存在であり、河童伝説の原型になったと考えられる。毛皮を求めて大正から昭和初期にかけて乱獲が進み、1928年に捕獲禁止となったが、時すでに遅く、高知県南西部の沿岸部にわずか生息域を残すのみとなった。1974年に高知女子大学の研究チームが須崎市にある新荘川でメスの成獣を生け捕りにしたが、その後は捕獲されていない。1979年以来目撃例はなく絶滅が危惧されている。須崎市の市民憲章は「のこそう かわうそのまち すさき」とある。

バナナはおやつに入りますか

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 大正後期には「バナナのたたき売り」が全国に広がった

  ポルトガルの諺に「サルにバナナは好きかと聞く」がある。「聞くまでもない。わかりきっている。当然である」という意味。だがバナナが好きなのはサルだけでなく、人間も同じである。小学生時代、誰もが1度は先生に聞いたことがある質問。「おやつは300円まで」と金額の上限を言われて、「バナナはおやつに入りますか」と。バナナがおやつに含まれるかどうかは人類永遠のテーマである。バナナを主食にしている民族はいまでも世界に多くいる。年金暮らしの日本人も毎日バナナを買っている。100円で何とか餓死せずに生きていける。バナナは有り難い食べ物だ。

   ところでバナナが歴史に登場するのはいつごろだろうか。歴史上の人物では、ギリシアを征服したアレクサンドロス大王が、インドに遠征した際、バナナを初めて食べたといわれる。日本人がバナナを初めて食べたのはいつごろか不明であるが、日清戦争後の下関条約で台湾が日本の領土となったことから、バナナも食するようになったと考えられる。記録によると明治36年4月10日、台湾からバナナが輸入されたとある。しかし、明治・大正期は一般庶民にとってはめったに食べられない高嶺の花だったにちがいない。大正後期から昭和に入った頃から庶民の口にも入るようになった。芥川龍之介の短編小説に「果物の籠には青林檎やバナナが綺麗につやつやと並んでいた」(「お律と子等と」大正9年)とある。それでも子供は病気や遠足のときにしか食べられない特別な食べ物だった。

消えた清盛遺骨の謎

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  日本史では悪役イメージが強い平清盛だが、大河ドラマ「平清盛」では武士の世の礎を築いた改革者の視点で描いている。平清盛に関しては、直接彼を捉えた確実性のある史料に乏しく、「平家物語」と「吾妻鏡」のみが存在している。では清盛の墓の所在はどのように記るされているのだろう。

    「平家物語」によると、清盛は愛宕山で荼毘に付され、円実法眼が頸にかけて摂津国の経ヶ島に埋葬したと書かれている。「吾妻鏡」には播磨国山田の法華堂とある。この経ヶ島、法華堂が具体的にどこにあったのか不明のため、納骨の場所は特定できない。現在、有力なのは2つ。①能福寺附近の築島寺(来迎寺)説②八棟寺附近。八棟寺は現在なくなっいるが、兵庫区切戸町の清盛塚附近らしい。だが大正12年の調査で建立当初から遺骨は埋められていなかったことがわかった。つまり清盛塚は死後105年してから建立されたものである。あとは推測であるが、八棟寺の法華堂に納められた清盛の遺骨は、平家が西国へ逃れる際に持ち出し、壇ノ浦で沈んだという説。もう一つは、源氏が清盛の遺骨を奪い去ったが、仏罰を恐れて、名も無き播磨国山田の法華堂に埋葬したとの両説が考えられる。

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  能福寺の平相国廟

英語で「逆上がり」は?

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    スポーツや遊戯に関する英単語は日本語になったものも多いが、なかなか侮ることができない。

「dodge boll」「iron bar」「yo‐yo」が、ドッジボール、鉄棒、ヨーヨーと意外と読めない。(競技の鉄棒は、horizontal bar)

「逆上がり」は「forward upward circling」。「逆立ち」は「hand stand」。野球の死球は「pitched ball」、隠し玉は「hidden ball trick」、ランニングホームランは「inside-the-park home run」。

盛美園

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盛美館

    盛美園(青森県平川市遠賀)。地主で実業家の清藤盛美(1847-1915)が明治末年につくった武学派の池泉回遊式庭園。作庭者は小幡亭樹。和洋折衷の盛美館の北側に広がる庭は、枯池と池泉の二段とし、池泉には蓬莱の松を植えた神仙島を配している。アニメ「借りぐらしのアリエッティ」のモデルといわれ来園者が急増している。

盛美園保存整備事業報告書 清藤茂夫 2001

「別冊太陽128 日本の別荘・別邸」 2004

「週刊日本庭園をゆく11」 小学館 2005

「盛美園の四季」 伊藤勝之 名勝盛美園 2006

瓜生島伝説と沖の浜

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    大分県の別府沖の浜一帯には、慶長元年に津波被害があった。伝説によると、島山の一端に弁財天社があって、村のならず者が弁財天の顔をイタズラして赤く塗ったため、祟りのため大地震が起こったとある。これによると別府湾に位置していた瓜生島は1日にして沈んだとされる。島の大きさは周囲約12km、人口5千人余り。この地震は慶長地震といわれ、1596年9月4日、マグニチュード6.9と推定される。当時、日本に滞在していたイエズス界のルイス・フロイスも「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と書き留めている。海港とは沖の浜のことで、かつて大友宗麟によって築かれた港だった。その他、沖の浜の津波被害の記録はあるが、瓜生島の名はでてこない。瓜生島が文献に出てくるのは元禄以降である。「豊府紀聞」には「瓜生島がことごとく沈没して海底となった」とある。

    近代になって、大分市史なども瓜生島の存在を認める記述もみられる。しかし瓜生島については、存在を否定する説、島ではなく半島だったとする説、別府市または大分市にあたる村であったとする説、など諸説あり、現在のところ不明である。沖の浜の海底沈没の史実を下敷にして、地震が瓜生島伝説に置き換えられたと思われる。1977年と1980年の2度にわたって瓜生島調査会の海底探索にもかかわらず、遺物は何一つ発見されなかった。

「戦国時代の豊後府内港」 岡本良知 大分県地方史10  1956年

「府中沖の浜と瓜生島伝説」 加藤知宏 大分県立芸術文化短期大学研究紀要35  1997年

ぱぴぷぺぽバブゥ~

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    うるう日。この日生れた人は、4年に1度しか誕生日がない。嬉しいのか、悲しいのか、どっちだ。著名人では赤川次郎(1948年)、飯島直子(1968年)、いきものがかり吉岡聖恵(1984年)。吉岡7歳のお誕生日おめでとう。

ニンニク

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    2月29日は「ニンニクの日」。ニンニクの生産量日本一の青森県田子町(たっこまち)が実施。漢字で「忍辱(ニンニク)」と書くのは、僧が仏教でこれを食することを禁じられていたので隠して忍び食ったところからの称である。古代から自生し、「ニニク」といった。「ニ」は二ホヒ(匂)で、「ニク」はニクム(嫌)の略である。徳川家康は好物としていた。その武将、本多忠政も食べた。関東・九州・愛知・鹿児島ではヒル、関西ではロクトーという。

南太平洋の国々 漢字表記

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 日本と国交がない国 ニウエ

オーストラリア  澳大利亜

ソロモン諸島    所羅門群島

ツバル      図瓦盧

トンガ       湯加

ナウル      瑙魯

ニウエ      紐埃島

サモア      薩摩亜

ニュージーランド 新西蘭

バヌアツ      瓦努阿図

パプアニューギニア 巴布亜新幾内亜

パラオ       帕労

フィジー      斐済

マーシャル諸島 馬紹爾群島

ミクロネシア連邦 密克羅尼西亜連邦

    ミクロネシアのチューク諸島は、日本統治時代はトラック諸島(都洛諸島)と呼ばれ、春島(モエン島)、夏島(デュブロン島)、秋島(フュファン島)、冬島(ウマニ島)、婚島(ジープ島)、月曜島(ウドット島)、火曜島(ファラベケット島)、水曜島(トル島)、木曜島(パタ島)、金曜島(ポレ島)、土曜島(オナムエ島)などの地名がある。

石川丈山と詩仙堂

  宮本武蔵と吉岡一門との決闘で知られる一乗寺下り松を見た帰りに、洛北詩仙堂凹凸窠を訪れた。ツツジやサツキの庭園が美しい。石川丈山(1583-1672)は、大坂夏の陣で一番乗りで敵将を討ち取って功をあげるが、この時の軍律では先陣争いを禁じていたため、蟄居の身となった。そこで武士をやめ、学問に没頭した。その後、詩仙堂で30数年の閑適生活をし、90歳で没した。

    閑適を写す

              石川丈山

山棲 静幽に熟し

天性 伊優を辟く

黄巻 観れども尽くること無く

白駒 挽けども留まらず

暮堂 蚊蚋沸き

泉水 月星流る

酒に対して元亮を怜れみ

杖に倚りて阮修を憶う

病羸 双雪鬢

行理 一虚舟

淡を茹いて安楽に居り

道心 万事休す

    山中の隠棲も長くなり、閑静な暮らしにもすっかり慣れた。自分は生まれつき、他人に媚びへつらうことをきらってきた。書物は、いくら読んでも尽きることなく無限にある。だが歳月は、ひきとどめようにも過ぎ去ってゆく。夕暮れの座敷には蚊やブヨが沸いたように襲来するが、庭の池水には、月や星が影を映していく。酒に向かうと、あの酒好きの陶潜のことを慕わしく思い、杖をついて出ようとすると、阮修の故事が思い出される。病みつかれたこの身は、すでに両鬢とも雪のように白くなってしまったが、生き方としては、虚舟のように気ままにしてきた。あっさりした食べ物で安らかに楽しみ、道心を抱いて、何事に対しても、心のはたらきをとめてしまう。(参考:石川忠久「漢詩を読む」1999)

カッタイのカサウラミ

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   「いろはかるた」の「か」の文句「かったいのかさうらみ」という意味は何んろう。隣のベットの人は「あなたは2~3ヵ月の命です」と医師から告げられた。そして自分は「あなたは今週くらいしか生きられません」と医師に告げられた。私は隣のベッドの人を羨ましく感じた。自分よりわずかでも良い境遇の者を羨むたとえを「癩眉(かったい)の瘡(かさ)うらみ」という。もともとは癩病患者が梅毒患者を羨むことからきているという。

2012年2月28日 (火)

沈黙する目撃者たち

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    夜中に、近所で悲鳴が聞こえたら、あなたならどうするだろうか?すぐに警察に通報するか、それとも蒲団をかぶって、知らぬふりして寝てしまうだろうか。

    1964年、ニューヨークで深夜、キティ・ジェノヴィーズという若い女性が暴漢に襲われた。35分間も暴行は続き、その地域の住民が38人いたが、誰も通報せず、そのうち彼女は殺されてしまった。目撃者が大勢いたのに何故通報しなかったのか。早く通報していたら彼女は助かっていたかもしれない。他人の人が見ているから、私が連絡しなくてもいい、と自分の責任が分散される。日本でも衆人環視の殺人事件はこれまで何度かある。浅沼稲次郎刺殺事件(1960年)、豊田商事の永野一雄刺殺事件(1985年)、村井秀夫刺殺事件(1995)。いずれも大勢の報道陣が見守る中で起こった事件である。秋葉原通り魔事件(2008年)では、事故現場を写真撮影する傍観者に批難の声が上がった。これより前に紫雲丸事故(1955年)で報道カメラマンが助けを求める乗客を撮影した写真が新聞に掲載され問題となった。人命救助か、報道を優先するのか。今回の東日本大震災でも報道関係者は人命よりも報道優先だった。中国に「三人寄れば、無責任」という諺がある。

なぜ北海道の地名は記憶しやすいのか?

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    東京を除いて全国47都道府県で北海道の地名が一番よく口に出して出てくる。札幌、函館、室蘭、小樽、苫小牧、旭川、小樽、根室、釧路、網走、北見、稚内、帯広、富良野、夕張、登別、留萌、十勝、天塩、襟裳、知床、積丹、岩見沢、美唄、千歳、江別、紋別、名寄、石狩など普通の人でも10や20はスラスラいえる。これが鳥取県、和歌山県だと幾つ言えるだろうか。

    難読地名も多いがそのユニークな響きが魅力の一つである。

忍路、長万部、倶知安、択捉、馬主来、濃昼、花畔、妹背牛、音威子府、火散布、安足間、留辺蕊、大楽毛、和寒、弟子屈、標茶、興部、稀府、神恵内、比内、寿都、国縫、一巳、椴法華、然別など。

モルモン教とロムニー

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    一般に日本でモルモン教が知られるようになったのは、1970年の大阪万博からだろう。「モルモン館」は神秘的な中に敬虔な雰囲気に包まれ記憶に残るパビリオンだった。その後、日本では信者が一挙に12万人に増加した。アイドル斉藤由貴がモルモン教徒というのも話題になった。2002年冬季五輪ソルトレイクでもモルモン教が話題に出た。新興宗教というと批判も指摘される。一夫多妻というのも創設者のジョセフ・スミスの頃のことで、現在では主流派はもちろん一夫一婦制である。(分派として一部には原理派がいるらしい)酒、煙草の禁止、家庭を大切にする、敬虔な信者が多い。ケント・ギルバートやケント・デリカットをみればわかるだろう。いま人気の政治家ウィラード・ミット・ロムニーがモルモン教徒なのは有名な話。容姿・知性・学歴などパーフェクトな大統領候補。「恐ろしいほど完璧な大統領候補」というのが長所でもあり欠点でもある。全てが信仰からきていることは言うまでもない。もし彼が大統領になれば日本人のモルモン教に対する考えも大きく変わるかもしれない。国立国会図書館の蔵書検索すると、こんな本が見つかった。内田融の「モルモン宗」、文明堂から明治35年1月に刊行されている。日本にモルモン教が伝わって110年以上が経つのである。

黒のベルホルト

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    ドイツのフライブルクの市役所広場に修道士の銅像が建つ。一見すると、神への敬虔な信仰者のようにみえる。だが碑文を読むと、「ここにもっとも忌まわしい人物、黒のベルホルト眠る」と彫られている。その男の名はベルホルト・シュヴァルツ。彼は14世紀頃のフランシスコ会の修道士で、ヨーロッパで初めて黒色火薬を利用して火砲を発明したといわれている。銃の発明者「黒いベルホルト」が実在の人物か、架空の人物なのか、本当のことは誰にもわからない。しかし彼が発明した銃がその後の世界史を大きく変えたことは、少しの疑いの余地はない。

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冒険ダン吉はミクロネシアにいた

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 トシオ・ナカヤマ

    谷川俊太郎の詩に「ひとくいどじんのサムサム」というのがある。むかしはこれに曲がついて童謡としてNHKで流れていたが、いま聞くことができない。人食い土人がいて、お腹がすいたので亀の子たわしを食べて、次に隣に住んでいる自分の友だちを食べて、最後に自分を食べて、とうとう「ひとくいどじんのサムサムはいなくなった」という話である。ある評論家は「核時代の人類滅亡を警鐘したもの」として高く評価されたが、「土人」という言葉が差別語となって陽の目をみなかった。思えば、戦前までは「南洋の土人」といのは身近な存在だった。漫画「冒険ダンくん」は王冠をかぶり腰蓑をまとい、黒人の土人たちを従える。舞台は黒人や像が登場するのでアフリカのようであるが、実際はミクロネシアの小島と思える。ミクロネシア、むかしのトラック諸島はヴェルサイユ条約で日本の委任統治となり、1922年にパラオに南洋庁が置かれた。ミクロネシアには現代も多くの日系人が住んでいる。4代目、5代目になるらしい。ミクロネシアの初代大統領トシオ・ナカヤマ(1931-2007)は日本人の父と酋長の娘マルガレッタとの間にチューク島(秋島)で生れた。1979年アメリカから独立して初代大統領として2期8年努めた。現在の大統領マニ・モリも酋長の一族だった。

浦佐の堂押

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  新潟県南魚沼市浦佐で毎年3月3日、「毘沙門堂裸押合祭り」が行われる。五穀豊穣、除災招福を祈念する800年も続く歴史ある祭りで、日本三大奇祭の一つとされる。大祭の夜、普光寺の毘沙門天の本尊が年に1度、唐戸が開いて姿を現すや、大ロウソクが点火され、多数の裸の信者が堂に入り、やがて押し合いとなる。午後8時、1回目の福物撒与があり、これが何度となく繰り返されたあと、ササラすりの神事で祭りは終わる。鈴木牧之は「北越雪譜」に「押といふは誰ともなくサンヨウ、サンヨウと大音に呼ばる声の下に、堂内に充満たる老若男女ヲヲサイコウサイとよばはりて北より南へどろどろと押す、又よばはりて西より東へおしもどす」と記している。

パルメ暗殺事件の真相

    1986年2月28日、ストックホルムでスウェーデンのオロフ・パルメ首相(1927-1986)が狙撃され、絶命した。犯人は黒いオーバーの男という証言のみで迷宮入りかと思われた。しかし数年後、麻薬の売人だったクリステル・ペターションが逮捕されたが、裁判にかけられる直前、刑務所内で謎の死をとげた。本当にペターションは実行犯だったのか。パルメは反核・平和運動の世界的指導者だけにヨーロッパ中で反対勢力があり、背後には国際的陰謀がある。旧ソ連のKGBが絡むのか。あるいはクロアチアの独立を阻むユーゴスラビアの秘密警察の犯行との見方もある。パルメ暗殺事件は杳として謎に包まれている。

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  クリステル・ペターション

さむ~い死語

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「ねぇ~、わたしって魅力的(みりきてき)?」

    「もんじろう」というサイトには、ふつうの言葉をさまざまな言葉に変換してくれる。例えば、「こんにちは」と入れると、ごめんやす(京都弁)、まいど(大阪弁)、やっピー(のりぴー語)など。このほか「さむ~い死語」というのがあって、現在あまり使いにくくなった流行語を紹介している。順不同で、1.ナウい、2.4649(ヨロシク)、3.スッチー、4.マヌカン、5.おげれつ、6.ボインちゃん、7.モテモテ、8.ヤング、9.アベック、10.ランデブー、11.鼻血ブー、12.ニコヨン、13.朝シャン、14.バイビー、15.ちょっとタンマ、16.バイナラ 17.だっちゅうの 18.チョベリバ 19.スケバン 20.マドロス 21.とんでもハップン

   古いテレビ番組を見ていると、若い女性が「あたしって魅力的(みりきてき)!?」と言っていた。最近は聞かれない言葉だ。バイビーは高田みづえの歌「♪ふざけた調子でバイビー~」(涙のジルバ)、バイナラは欽ちゃんファミリーの一人、斉藤精六が元祖。

利休はなぜ秀吉に殺されたのか?

    千利休は天正19年2月28日、切腹した。一般には大徳寺山門に寄進した金毛閣上に自像を配したことから秀吉に罪せられたとある。   千利休の師である武野紹鴎は、心敬法師のいう「連歌は枯れかじけて寒かれ」という侘びの理論に心酔し、茶道の本質もまたそうありたいものだと考えた。天文23年正月、紹鴎の茶会の記録がある。客は松永弾正久秀と今井宗久であるが、囲炉裏のある四畳半の茶室であった。当時の堺には四畳半が流行した。四畳半は、古くは室町時代の足利義政の東求堂同仁斎にその起源をみることができるが、戦国時代に紹鴎の弟子の利休によって草庵風茶室が完成された。四畳半という大きさは、隠者の求めた山里の庵のそれであることがわかる。四畳半は「侘び」を強調した求道的雰囲気にふさわしい。ところで茶室の入口は「狭き門より入れ」という聖書の句にもとづくものだという説がある。当時、キリスト教が流行し、千利休も実は隠れキリシタンだったというのである。高山右近とも懇意な関係である。神戸市立博物館にある南蛮屏風には十字架を持ったキリシタン茶人が描かれており、それが千利休だという説もある。

    千利休が当時来日していた宣教師たちと交際しており、キリスト教に親しむ機会はあった。また後妻おりきの影響があったと伝えられる。千利休の侘び茶に秘められた精神とはキリスト教だったのか。そしてキリスト教信仰ゆえに秀吉に殺されたのだろうか?

月形潔と樺戸集知監

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  西南戦争後、明治政府の最重要課題は北海道の開拓だった。ロシアがクリミア戦争で敗北して南下政策が露骨になってくると、移民と屯田兵だけでは限界であった。そこで政府は北海道に国事犯・反乱分子を収監する集治監を建設し、開拓に当たらせるようにした。そして建設地選定を開拓長官・黒田清隆に依頼し、現地調査を当時内務省書記官だった月形潔(1846-1894)に指示した。月形は建設地をツベツブトに決め、明治14年8月に樺戸(かばと)集治監が完成した。2000人にのぼる囚人が収容され、この集治監の初代典獄に月形潔が就任した。この時、34歳という若さであった。

   この地は、背後にはヒグマが生息する樺戸の山々を従え、前面には原始の石狩川が広がる、逃亡不可能な自然の要塞だった。月形は官舎には住まず、受刑者と一緒に雑居房で生活した。さらに樺戸の村人とも交流を持ち、出所した元囚人の大工が村人の家を建てたり、監獄を中心に村は発展していった。そこで村人はこの村を「月形村」とすることを提案し、内務省も月形潔の業績を讃えて認め、「月形村」は明治14年7月1日、誕生した。これを聞いた月形は感激し、「この月形は死んでも、月形は死ぬことはない」と言った。

   なお新選組二番隊組長永倉新八は、杉村義衛と名を変えて、明治15年には樺戸集治監の剣術師範に招かれ、明治19年までその職にあったという。

    月形潔の従兄月形洗蔵(1828-1865)は、福岡枡木屋の町獄で斬首された勤皇党の領袖である。月形洗蔵と武市半平太から小説の月形半平太が生れた。時代劇俳優月形龍之介は月形半平太と机龍之介に由来する。

   北海道における集治監は、樺戸のほか、空知、釧路、網走、十勝に設置された。北海道には女囚はなく、労役が目的だった。原野の開拓、採炭、道路の開削、架橋など悲惨をきわめた囚人労働は、明治27年をもって廃止されたが、北海道開拓の尖兵として囚人たちは大きな役割を果たした。

ビスケットの日

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    水戸藩の蘭医・柴田方庵(1800-1856)はオランダ人からビスケットの製法を学び、安政2年(1855年)2月28日、水戸藩に宛てて製法を手紙に書いて送った、と「方庵日記」に記されている。この故事をもとに、全国ビスケット協会は1981年にこの日を「ビスケットの日」として制定した。

     日本人で初めて西洋菓子を食べたのは、織田信長といわれている。ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが、1569年に金平糖を献上したと「耶蘇会士日本通信」に記録されている。その後、本格的に西洋菓子を作り販売するようになったのは明治になってから。両国若松町にあった米津風月堂は1872年に開業し、有平糖をはじめ、1877年にケーキ、1878年にチョコレート、洋酒入りボンボン、ビスケットを製造販売した。その当時チョコレートは「貯古齢糖」、ビスケットは「乾蒸餅」と書いた。ビスケットは日本陸軍が日清戦争のころから軍隊の携行食として乾麺包(かんめんぼう)、いわゆる「乾パン」として普及した。

意味のない偶然の一致

   心理学者のユングがシンクロニシティ(synchronicity)の存在に気づいたのは、ある若い女性患者の夢の話を聞いているときだった。彼女が夢で黄金のスカラベ(コガネムシ)をもらったと告白したとき、部屋の窓をコンコンとたたく音がした。ユングが振り向くと、窓にコガネムシがいた。とっさにユングは窓を開けてコガネムシを捕まえた。「あなたのコガネムシがここにいますよ」ユングは彼女にしめした。物事を合理的にしか考えない彼女はこの偶然の一致があってからというものは、ユングの意見もよく聞くようになり、治療もはかどるようになったという。ユングが説くシンクロニシティとは「意味のある偶然の一致」のことである。ユング心理学は難しい。

    反対に「意味のない偶然の一致」にはどんなものがあるのだろうか。朝ドラ「こころ」のヒロイン中越典子。舞台は新潟。その翌年、中越地震。「なかごし」と「ちゅうえつ」だが奇妙な一致だった。金本知憲の連続試合全イニング出場1492試合とコロンブス新大陸発見1492年とは、たわいのない偶然の一致であろう。2月22日の午前2時22分に生れた佐々木主浩は平成2年に背番号22でデビューした。野球のボールの縫い目と除夜の鐘の数は同じ108。阪神大震災、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災、いずれも46分。リンカーンが暗殺されたのはフォード劇場、ケネディが暗殺されたのはフォード車。

ゴルチュンの法典の3身分制

   クレタ島の都ゴルチュンには紀元前450年頃にできた市民法典を刻んだ石碑が残っている。12の石版をつなげた長さは9メートルにも及ぶ。その一部はルーブル博物館にあるが、ほとんどはそのまま現地に保存されている。そのころのポリス社会の身分構成は大きく3つに区分されていた。市民エレウテロイ(自由人の意)、アペタイロイ(市民を組織する下部集団)、奴隷(ドロイ)の3身分に構成されていた。市民とアペタイロイは自由民であるが、アペタイロイは戦士市民の共同食事に加わる資格を失った脱落市民、在留外人、解放奴隷などであろうと推測する。これとは対照的に古典期のアテネは、アペタイロイのような中間的隷属者を全く欠き、ミケーネ時代の小ポリスが先進地域として大きく発展を遂げた。

2012年2月27日 (月)

アカデミー賞発表

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    ハリウッド映画界最大の祭典、アカデミー賞。その模様はテレビ中継もされているが視聴率はあまり高くない。ジャン・デュジャルダンというフランスの俳優が主演男優賞。主演女優賞のメリル・ストリープは助演も含め3回目のオスカー。作品賞「アーティスト」は初のフランス映画。また白黒無声映画は第1回受賞作「つばさ」以来、実に84年ぶり。アカデミー賞のすごいところは第二次世界大戦中においても中断されることなく継続されたことだろう。ただし、ここ数年、アメリカ国民の間にもアカデミー賞への関心は低下している。「ハリーポッター」が受賞されなかったことに関してメディアは批判している。「映画館に足を運ぶ若者たちに愛されているシリーズを冷たくあしらったことで、ハリウッドは自ら不幸の元凶を行った」とNBCニューヨークのブログは書いている。また映画誌は「ドライブ」とその主演俳優のライアン・ゴズリングが主要部門で無視したことに対して強く批難している。

あの日、あの場所から

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 あさま山荘

  日本列島、おそらくほとんどの日本人がその名前も知らない場所が、あるとき急に有名になることがある。いまなら「浪江町」「辺野古」のように。成田市の三里塚も空港反対運動が起こるまでは日本人が誰も知らない場所だった。御巣鷹山や雫石も航空機事故が起きるまでは誰も知らない場所だった。吉野ヶ里も遺跡が発見されるまでは誰も知らない場所だった。100年、200年、1000年と歳月が過ぎれば、また元のように誰も知らない場所に戻るのだろうか。軽井沢の浅間山荘は事件から40年が過ぎ、何事もなかったかのように静かに建てっている。

幸福なんです。「うん、何?」

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    島根県東部に雲南市という名の地名がある。中国の雲南省とは無関係だ。出雲国の南部に因む。ここで、1996年、39個の大量銅鐸が出土された。加茂岩倉遺跡といって日本史では有名である。映画「うん、何?」を製作したり、市のPRをやっているがイマイチ全国的に知られていないような気がする。

北緯35度線が通る町

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東西を通る北緯35度線の中心地点が湖南市の森北公園にあるモニュメント

    日本列島の東西のほぼ中心、標準子午線(東経135度)が通る兵庫県明石市。では南北のほぼ中心になる北緯35度を通る町はどこだろう。最西端は島根県江津市ー岡山県新見市ー岡山県美作町ー兵庫県西脇市ー京都市四条河原町ー滋賀県大津市ー愛知県知多市ー千葉県館山市、そして最東端が千葉県南房総市。

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 光州

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 釜山

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 山東省臨沂

    世界では北緯35度線上を通る大都市は意外に少ない。近くに位置する都市として、韓国では釜山、光州、中国では臨沂、洛陽、アメリカではチャタヌーガ(35度4分)、アルバカーキ(35度6分)。

そつがない

    「あの人のやることにはそつがない」などという。「むだがない」「手ぬかりがない」というほめ言葉である。「そつ」とは何か、はっきりしない。18世紀の「和訓栞」には「そつ 俗に費(ついえ。無駄な出費のこと)の事に云ふは、損墜の音成べし」とある。(阿部猛「雑学ことばの日本史」)

諸色高直(しょしきこうじき)

    「諸色」とは物価のこと。諸式とも書かれる。つまり物価騰貴のこと。本居宣長の日記に「諸色高直世上困窮」とある。この言葉、近ごろほとんど使われない。「諸式」には「いろいろな品物」という意味もある。古風に感ずるが、「諸式万端」(しょしきばんたん)は今日でも使われている。

違いがわからない男

 パリ・オルセー美術館にあるクロード・モネ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、この3人の画家の作品の類似と相似またその差異については、美術専門家ですら、とまどうことがある。川面に光りがあふれ、木々に木漏れ日が差し、風のそよぎが感じられる詩情ある風景画。ではアルマン・シルヴェストリの言葉を借りよう。

「一見したところ、モネの作品とシスレーの様式とピサロの様式を区別するのは難しい。しかしすこし検討すれれば、モネが一番技術的に優れかつ大胆であり、シスレーが一番バランスがとれていて、かつ臆病であり、ピサロが一番率直かつ素朴であることが分かるようになる」と語っている(1873年にデュラン・リュエルが刊行した印象派コレクション集)。

では3人の代表的な作品を並べてみよう。

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 モネ 「アルジャントゥイユのひなげし」

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 ピサロ 「シャンポンヴァルの風景」

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 シスレー 「モレのロワン河岸」

    モネが一番具象から抽象への度合いが高くみられ、色彩は原色に近い。ピサロは点描の技法がみられ、牧歌的な印象が感じられる。シスレーは「空の画家」といわれるほど画面構成において空の割合が高く、風景全体をワイドでとらえる傾向がある。

スイスの古城、シュピーツ城

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 スイスの中西部に位置するシュピーツ Spiez 城は、トゥーン湖の南岸、ベルナーオーバーラントにある町。11世紀に創建されたシュピーツ城は町のシンボルとなり、観光客が絶えない。現在、城の一部は博物館として公開している。

鼻がかみたい

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   課長が女子社員に「鼻がかみたい」といってティッシュを求めたところ、急に恥ずかしそうな顔をして、ブラウスのボタンをはずし始めた。どうしたのかとたずねたら、「だって、わたしの裸見たい、とおっしゃったでしょ」という。言葉の聞き間違いは日常よくある。

  「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「パプアニューギニア」と「パパは牛乳屋」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」、どことなく似ていると思いませんか?学問的にはこれを音韻連鎖というそうです。

京の遊女と新選組

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    本日は「新選組の日」。この日が京都守護職・松平容保が浪士組を会津藩御預りとする建白書を提出した日だそうだ。当初は手当など支給されることなく、商家などに出向き献金させていた。給金が支給されるのは文久3年の暮れから。近藤勇50両、土方歳三・山南敬助40両、沖田総司30両、他平隊士は10両が支給されたとある。

    壬生の屯所から島原角屋は近い。島原をはじめ、祇園新地、二条新地、北野上七軒、新三本木などそれぞれの京洛の遊里は、活況を呈するようになった。従来の京町人を中心とした顧客に加えて、諸国より来集してきたかなりの浮動人口が、何かにつけて、遊里を利用したからである。壬生浪士隊こと新選組が島原などで豪遊したことは映画、ドラマなどでお馴染みである。芹沢鴨の行動は目に余るものであったようだ。若い沖田総司は廓あそびと無縁のようにドラマでは描かれているが、井上松五郎の文久3年4月22日付の日記では土方歳三らと遊里に行くとあるので、沖田も例外ではないかもしれない。

人生古より誰か死無からん

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 驚異の長寿王シラリ・ムスリモフ168歳

   「鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、三浦大介百六つ」人は何歳まで生きられるのか?聖書でもモーセは120歳で没している。科学的には、動物の寿命はその動物が成熟に至る期間の5倍の寿命があるといわれている。つまり、人間の場合は25歳を成熟期として、125歳まで生きられる。世界最高齢の記録としては、フランスのジャンヌ・カルマンが122歳164日。男性では泉重千代が120歳237日。しかし非公認ながら旧ソ連のシラリ・ムスリモフ(1805-1973)は168歳105日である。伝説ではイングランドのトーマス・パーという農夫は152歳という長寿で知られた人物である。102歳のときに近所の少女を孕ませた罪で刑務所に入れられたが、チャールズ1世のはからいにより、罪をまぬかれた。スコッチ・ウィスキーの「オールド・パー」のモデルである。だがどんなに長命であろうと、人は昔からだれも死なないということがあろうか。だれもがみな死ぬものなのだ。

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1815年ナポレオン、エルバ島から脱出する

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    1814年3月31日、パリは陥落した。ナポレオンはフランス皇帝からの退位宣言に署名させられて、エルバ島の小領主として追放される。エルバ島はイタリア半島中西部に位置する面積224k㎡の小島。ナポレオンがエルバ島についたのは4月の半ば。「すみれの花咲くころにはパリに戻ってくる」と言い残していた。戦後処理会議としてウィーン会議が開かれた。「会議は踊る、されど進まず」の言葉どうりに紛糾が続いた。1815年2月27日、ナポレオンは100人の兵士とともにエルバ島を脱出した。3月1日、カンヌ付近に上陸したのち、敵との遭遇を避けるため、険しいアルプスを越えてパリまで進軍した。3月になるころには、ウィーン会議は決裂寸前の状態まできていた。そして3月7日、ナポレオンがエルバ島を脱出したという情報が届いた。列国は数週間のうちに和解を進め、力を合わせてナポレオンと戦うことを約束した。一方、ナポレオン軍は、ナポレオンを攻撃するために差し向けられた兵隊たちも加わって、しだいに膨らんでいった。そして3月20日、ナポレオンはパリに到着し、熱狂的な歓迎を受けた。

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2012年2月26日 (日)

人生は朝露の如し

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  人の一生は、朝に降りた露が日が昇るとともに消えるように、はかなくもろく短いものである。この「人生は朝露の如し」は、漢の武将、李陵が友人蘇武に与えたことばの中に見える。蘇武は匈奴の捕虜となりながらも降伏せず、苦節19年、ついに漢に帰って栄誉を受けた人物である。その蘇武に、彼とは対照的に早く匈奴に降伏した李陵が与えたことばが「はかない人生、どうして自ら苦しむことがあろうか」というものであった。蘇武はのちに許されて帰国するが、李陵はそのまま匈奴のもとに残り、その地で一生を終えることになる。

聖徳太子怨霊伝説

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    607年に聖徳太子が創建した法隆寺が、再建されたものか学界で論議されたが1939年に西院伽藍の南東部から火災に遭ったとみられる伽藍跡が発見された。これにより法隆寺は670年に落雷により全焼し、711年頃に藤原氏によって再建されたと考えられている。藤原氏が再建に尽くしたのは、かつて鎌足が聖徳太子の息子である山背大兄王の命を蘇我入鹿に殺させ、中大兄皇子を利用して、乙巳の変を成功させたという謀略があったからである。しかし737年、四兄弟が相次いで病死すると、太子怨霊の崇りであると恐れ、太子一族を鎮魂するため、夢殿のある東院を再建した。つまり法隆寺は怨霊封じ込めのための寺だった。

ンドンバ

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  カメルーン南部の郷土料理。ナマズをぶつ切りにして、バナナの葉にくるんで蒸したあと、トマトソースでじっくり煮込んだンドンバはカメルーンのごちそうである。

赤道直下の町

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        キトの赤道標識            カンバラの赤道標識

    赤道(Equator)。地球の南北両極から90度を隔てた地域。緯度〇度。アフリカ大陸の中西岸に、赤道ギニア共和国という国があるが、赤道より約100km北に位置しており、領域内に赤道は通っていない。ケニアの首都ナイロビもガボンの首都リーブルビルも赤道から少し距離がある。実際に赤道が通っているのは、エクアドルの首都キト、ウガンダの首都カンバラ郊外には赤道が通っている。小さな村ではカリマンタン島のポンティアナク、バリ島のウブドゥなど。

   ギニア湾にあるサントメ島、プリンシペ島などからなる共和国には赤道が通っている。本島サントメではなく、南にある周囲12㎞ほどの小島ロラス島である。ポルトガル海軍のガーゴ・コーチニョ(1869-1959)がロラス島に赤道が通っていることを発見した。

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舎密局跡とハラタマ博士

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 ハラタマ博士像

    大阪市中央区の警察会館前に舎密局跡がある。舎密(せいみ)とはオランダ語で化学(chemie)「セミー」の当て字である。1869年5月、この場所で我が国最初の理化学学校が開設された。オランダからクーンラート・ウォルデル・ハラタマ( Gratama 1831-1888)博士が来日した。この学校はその後度々名称を変えた。大阪開成所分局理学所大阪開成学校となり、1885年には京都へ移って第三高等学校となった。現在の京都大学教養部である。

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絆される

   2011年の「今年の漢字」が「絆」だったせいか、近ごろ「絆」という文字がやけに目につく。「絆ほっこり東北の鍋」という番組名がある。「絆」も「ほっこり」も人気ある言葉を巧みに並んでいる。「絆」はよく知られた漢字なのに、なぜか「絆される」という文字を読めない人が多い。「ほだされる」と読む。「束縛される」「からみつかれる」という意味。「情にほだされる」と使う。ホダシとは、馬の脚に縄をからませて歩けなくすること、またその縄をホダシといった。人についても手足にかける鎖や枠など、すなわち手カセ、足カセである。「絆」を「きずな」と読むときも「恩愛の絆を断ち」(沙石集)というように「断つ」が後に続くことが多かった。「絆」の語感も様変わりするものである。

オークパークとヘミングウェイ

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    アメリカ・イリノイ州オークパーク。シカゴから西へ約16㎞に位置するこの町は、1800年代後半に開発されたニュータウンである。レイ・クロック(マクドナルド創業者)、バローズ(類人猿ターザンの作者)、フランク・ロイド・ライト(帝国ホテルの設計者)などこの町ゆかりの有名人は多いが、なかでもアーネスト・ヘミングウェイの生家があることで知られる。この生家が52万5000ドルで売りに出されているという。

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 写真左からマーセリン(姉)、マドレーヌ(妹)、父クラレンス・エドモンズ、母グレイス・ホール、アーシュラ(妹)、アーネスト(9歳)、1906年撮影

仰いで天に愧じず

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    自分の行いが正しく、天に対しても何ら恥じることがないこと。「孟子」尽心に見える。君子には三つの楽しみがある。第一は、「父母が健在で兄弟にも何事もないこと」、第二は、「天や人に恥じる後ろめたい点がないこと」、第三は、「天下の英才を集めて教育すること」。ここから「育英」「教育」の語が生れた。関連語「仰いで天に愧ぢず、俯して人に怍ぢず」「俯仰天地に愧じず」など。

コスタリカと日本

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 オスカル・アリアス・サンチェス

   コスタリカが地球のどこにあるか即答できる人は地理に詳しいかただろう。中央アメリカ、北をニカラグア、南をパナマに挟まれた国である。国土の面積は約5万1100k㎡で、九州と四国を合わせたより小さい。コスタリカは親米政策の国にもかかわらず、1983年にモヘン大統領は非武装・永世中立国を宣言した。1987年、レーガン大統領から再軍備提案を受けたが、アリアス大統領は拒否し、非武装を貫いた。2004年には、コスタリカ裁判所はイラクへの軍事介入の同盟国に参加するのは憲法違反であるとしている。つまり平和憲法をなしくずしにする日本と大きく異なり、アメリカに対してNO!と言える国である。もちろん現在の日本がコスタリカのように非武装・永世中立国への道を選択することは夢物語として一笑に附されるだろう。中国の古典「書経」にも「偃武」(えんぶ)という語がみえる。戦争をやめて天下が本当の平和になることをいう。だが永世中立国は他国からの軍事的脅威に遭えば自国で解決しなければならず、通常、スイスのように巨大な軍事力を保有することが多い。コスタリカは完全な非武装国で、なくなった軍事費をすべて教育費に回している。むしろ日本では天皇制を基本に新たなる右翼勢力が台頭し、憲法改正論議も浮上している。これは自衛隊が1992年のPKO協力法の成立により、後方支援を目的とした派兵が合法化されたからである。そして国民の支持をバックに大阪市長が「憲法改正を国民投票で」などという提案をしている。敗戦直後の国民の願いは恒久平和であったはずだ。安保など同盟条約や米軍基地問題が懸案の課題である中、国民の良識が問われている。

世界の国から「こんにちは」

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   外国人から日本語で「こんにちは」とあいさつされると親しみを感じます。これと同じで、現地語であいさつすれば、グーンと親近感が増します。サウジ人に会ったら、「アッサラーム アライコム」と声をかけてみよう。その返事をするときは「ワレイコムッサラーム」と言います。

ボンジュール(フランス語)

ブェノスディアス(スペイン語)

グーテンターク(ドイツ語)

ボンジョルノ(イタリア語)

ズドラーストヴィチェ(ロシア語)

ボア タルヂ(ポルトガル語)

ニイハオ(中国語)

アンニョンハシムニカ(韓国語)

チャオ アウム(ベトナム語)

スラマッシアン(インドネシア語)

サワディー(タイ語)

マガンダン ハーポン(フィリピン語)

サイン バイノー(モンゴル語)

サラーム アレイコム(ペルシャ語)

アッサラーム アライコム(アラビア語)

シャローム(ヘブライ語)

ナマステ(ヒンディー語)

ジャンボ(スワヒリ語)

アロハ(ハワイ語)

ボーナン ターゴン(エスペラント語)

2度の世界大戦の敗れた国

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 トラキア人の墳墓

    ドイツの他に、第一次、第二次世界大戦、2度ともに敗れた国はどこだろう。ハンガリーは1914年に始まった第一次世界大戦にやぶれ、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊。ハンガリーは国土の3分の2を失った。1930年代になると領土の回復を求める運動が高まり、ナチス・ドイツに近づき、三国同盟に加わり、参戦するが、途中で停戦しようとしたため、1941年にドイツに占領され、1945年にソ連により解放される。   

   ヨーロッパのバルカン半島北東部に位置するブルガリアは、古来より東西を結ぶ交通の要地にあり、紀元前はトラキアと呼ばれていた。7世紀後半、タタール系のブルガリア民族が侵入、681年にブルガリア王国が成立。1018年東ローマ帝国領となり、1186年独立したが、1396年トルコに征服された。1908年ブルガリア王国として正式に独立を宣言した。第一次大戦では同盟国側に参戦、第二次大戦では枢軸国に立ったが、国内では反ナチの祖国戦線が結成され、1944年親独政権は倒され、1947年ブルガリア人民共和国が成立した。

桃園に義を結ぶ

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    「桃園結義」(とうえんけつぎ) 義兄弟の約束を結ぶこと。明の羅貫中の小説「三国志演義」にある話。

  184年、黄巾の乱が勃発したとき、劉備は幽州涿県の農村で、母と二人。わら靴やむしろを売って暮らしていた。漢皇室の末裔であったかれは、朝廷の義勇軍募集のよびかけに応じようと思ったが、資力がないのを残念に思っていた。このとき、知りあったのが近くで肉屋をやっていた張飛である。

    張飛はひげ面でまんまるの眼をぎらぎらさせた巨漢だった、劉備の決意を聞くと、私財を投げうって資金を提供することを申し出た。二人で酒屋にはいり義勇軍の相談をしていたとき、店にはいってきた男があった。こげ茶色の顔に美しいひげをはやした偉丈夫である。これはただものではないと思った劉備が自分たちの決意を話したところ、意見が一致したので、三人で挙兵することにし、張飛の提案でかれの家の裏にある桃畑に祭壇をつくり、天地の神々の前で、「われわれ三人は、姓を異にしているとはいえ、ここに兄弟の約束をかためたうえは、心を一つにして力をあわせ、国恩に報じ民草を救おう。われわれは同年同月同日に生まれることはできなかったが、死ぬときは同年同月同日にしよう。天地の神々よ、なにとぞわれわれのこの決意をご照覧あれ。約束を破り恩を忘れたなら、天も人もこれを許さず、天誅がくだるであろう」という誓いのことばを読みあげ、義兄弟の約束をした。このあと、義勇兵を募ったところ三百数十名の若者が集まり、また、通りかかった中山国の馬商人から多額の資金提供をうけて、甲冑や兵器をととのえることができたのである。

二・ニ六事件

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反乱軍は赤坂の山王ホテルを占拠し、司令部にしていた

    ニ・ニ六事件を起こした将校たちは「陸軍歩兵大尉野中四郎外同志一同」の名をもって「蹶起趣意書」を遺している。そこには「万民の生々化育を阻害して塗炭の痛苦に呻吟せしめ」ている「元老重臣軍閥官僚政党」の「君側の奸臣軍賊を斬除して」「彼の中枢を粉砕する」とある。この実現のため軍隊組織を最大限に動かし、兵器・弾薬を使用して決行したクーデターがニ・ニ六事件(昭和11年)である。

    それは昭和5年ごろから、軍人や国家主義者は、クーデータを計画し、暗殺を決行した。その主な事件は次のものである。

浜口雄幸狙撃事件(昭和5年11月14日)決行

三月事件(昭和6年2月~3月)          未遂

十月事件(昭和6年9月~10月)        未遂

満州事変(昭和6年9月18日)           :決行

血盟団事件(昭和7年2月、3月):      決行

五・一五事件(昭和7年5月15日)      決行

神兵隊事件(昭和8年1月~7月)    未遂

相沢事件(永田斬殺事件)(昭和10年8月12日) 決行

  そして昭和11年2月26日の複数の場所への一斉襲撃が、革新運動の最後・最大の事件であった。前夜から降り始めた雪は、東京で実に30年ぶりという大雪となり、その中を、第一師団隷下の歩兵第一、第三連隊の将校、兵を主力とする約1400名の兵士が決起した。岡田啓介首相、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎教育総監の公邸、私邸を襲撃。河野大尉の一隊は湯河原の旅館に牧野伸顕前内大臣を襲った。いわゆるニ・ニ六事件である。

   参謀本部は、佐倉、甲府、高崎の連隊、約7000で叛乱軍を包囲し、説得を続けた。28日、天皇の奉勅命令が出されるや、反乱軍は降伏した。反乱軍を指揮した将校たちへの軍法会議は一審制、非公開、弁護士なし、であった。北一輝など民間人を含む19名の死刑、将校下士官は無期禁錮などに処せられる厳罰が下された。荒木貞夫、真崎甚三郎大将を頂点とする皇道派はここに壊滅し、陸軍はこの事件のもたらした脅威を最大限に利用して日本ファシズム体制を完成し、日本の全権力を握って、戦争へと突入していくのである。

やっぱりオルセー美術館は最高

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19世紀印象派の作品群は最上階の5階に集中している

    オルセー美術館の建物は1900年のパリ万国博覧会にあわせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅(ヴィクトール・ラルーフ設計)である。1986年12月9日、かつての駅舎から「印象派の殿堂」オルセー美術館へと生まれ変わった。最近、リニューアルされより自然光を取り入れ、作品の色彩が際立つように工夫されている。

    コレクションは3つを基盤として成り立っている。①ルーヴル美術館に収蔵されていた作品のうち、1820年以降に生れた画家あるいは第二共和政下で活躍するようになった画家の作品。②ジュード・ボーム美術館(ルーヴル美術館付属印象派美術館)に収蔵されていた印象派の作品。③国立近代美術館に収蔵されていた作品のうち、1869年以前に生れた画家の作品。

  館の方針としては、原則として2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっている。つまり、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥーセンターという役割分担がなされている。ただし、ロダンの製作を手伝った彫刻家フランソワ・ポンポンの「白熊」(1922)のような例外もある。

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 フランソワ・ポンポン 「白熊」(1922年)

   BSプレミアム「天海祐希パリと女と・・・」オルセーひとりじめ。オルセーへ行ったら先ず5階へ。そして2階のゴッホへ。番組で取り上げられた作品を紹介。

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 ルノワール 「ムーラン・ド・ギャレット」1876年

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 モネ 「睡蓮 緑のハーモニー」

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 モネ 「サン・ラザール駅」

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 ゴッホ 「オーヴェールの教会」

西鶴の墓

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    「好色一代男」など大阪町人の生活を描いて名を馳せた井原西鶴の墓所は長い間わからなったが、1889年、幸田露伴が誓願寺(大阪市中央区上本町)の境内の無縁塔にまじっていたのを発見した。この墓の銘により生没年が明らかとなった。墓石には「仙皓西鶴 元禄六年八月十日」とある。寺の日牌と月牌との記載に「鑓ヤ町 松寿軒井原西鶴 五十二」とある。

2012年2月25日 (土)

ハンガリー人は世界で活躍する

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     バルトーク         マンハイム 

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    ピューリッツァー    チョチョリーナ

    古くはフランツ・リストがそうだが、ハンガリー人は海外で活躍する傾向がある。バルトークやゴダーイら音楽家、ルカーチやマンハイムらの思想家。ジャーナリストのピューリッツァーもハンガリー人。御堅い人ばかりじゃない。池田満寿夫監督の「エーゲ海に捧ぐ」で日本でもお馴染みのチョチョリーナ。彼女は結婚でイタリア国籍を取得したが、実は本名シュターッレルーイロナーというハンガリー・ブタペスト生まれ。

有栖川宮家断絶

   有栖川宮家は、寛文12年(1672)6月8日、幸仁親王が有栖川宮という宮号に改称したことに始まる。9代熾仁は戊辰戦争において東征大総督として参加、官軍を率いて東下した。その後、明治28年、日清戦争において、広島大本営に下るが、この地で腸チフスを発病し、神戸舞子で薨去した。明治41年4月、10代威仁親王の子、栽仁王が病没し、大正2年7月には、当主の威仁親王が薨去した。旧皇室典範の規定により、威仁親王妃の病没(大正13年)後、妃の1年祭以後に廃絶となった。

マドロスと咸臨丸

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     マドロスを広辞苑で引くと、簡単に「海員。水夫。船乗り。マタロス」とある。最近は耳にすることなく、ほとんど死語に近い。オランダ語「マタロス」(matros)が語源だそうだ。初めて太平洋を往復した咸臨丸はオランダ船だから、そのとき「マドロス」という言葉は伝来したのかもしれない。明治、大正には「マドロス」は文献に見える。だが「マドロス」物という歌謡曲のジャンルができるほど人気だったのは戦後、岡晴夫や美空ひばりの全盛期であろう。昭和25年の東映「マドロスの唄」(久我美子、龍崎一郎)がある。おそらく東映の初期の作品である。

来年は式年遷宮

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 伊勢神宮「木本祭」

  私が伊勢神宮を参拝したのは小学校の修学旅行のときである。このとき見た神宮は昭和28年の遷宮の殿舎。以来、昭和48年、平成5年と2度造りかえられたが、1度も参拝していない。来年は第62回神宮式年遷宮にあたる。すでに平成17年から儀式は始まっている。平成17年5月2日の夜に「木本祭」が行われた。「心御柱」(こころのみはしら)と称する神秘の柱を伐採するに当って、木の本に坐す神を祭る儀式である。この柱は「皇太神儀式帳」(804年)には「忌柱」(いみばしら)と書かれており、正殿の床下中央に埋められるものである。造替のとき、殿舎が取り払われたあとも、この御柱は地上の小さな覆屋とともに残される。その覆屋のなかには榊がさされ「天平賀」(あめのひらか)と称する土器を納める。そして次の造営に先だって新たに建て直されるのである。

混濁の世に我立てば

    76年前の2月26日、若手将校らが「昭和維新」を目指して決起行動を行った日である。いま政界は「大阪維新の会」という嵐が吹いている。大阪都構想、船中八策、そして憲法改正。日の丸、君が代の強制。改革を叫びなかせら何ら改革できない既成政党に失望した国民の支持が維新の会に集まっていく。ファシズム化する状況は昭和初期に似ている。歴史は繰り返す。

抑圧された科学者グレイ

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   スティーヴン・グレイ(1666-1736)は電気の発展に貢献した科学者でありながら、なぜか教科書にあまり載っていないし、記念碑もない。電気を表す英単語electricityはギリシヤ語の「エレクトン」(琥珀)に由来する。古代ギリシヤ人が琥珀をこすることにより静電気が発生したことにちなんでいる。このように電気に関する現象は古くから知られていたが、科学としての進歩が見られるのは17、18世紀になってからである。ギルバート(1544-1603)は磁気と静電気を区別し、ゲーリケ(1602-1686)は静電発電機を発明した。そしてスティーヴ・グレイは1729年に金属が電気的性質を伝えることを発見し、その作用をおこす存在わ電気と名付け、物質ほ導体と絶縁体とに分類した。グレイの業績が認められたのは晩年になってであるが、不遇であったといわれる。それは彼の支持者フラムスチードがニュートンと不仲であったためで、意図的に無視されていたらしい。

切手に描かれたガガーリン

   ユーリイ・ガガーリン(1934-1968)は1961年に人類最初の宇宙飛行をボストーク号で成功させた現代の英雄である。切手に肖像も世界各国から発行されている。

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チェコスロヴァキア切手(1977年)

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 カメルーンの切手

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コンゴの切手(1974年) カガーリンとシェパードが並ぶ

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外国切手に登場した日本人

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 1988年にグレナダが発行した南野陽子の切手

    1950年代後半から1960年代にかけて、グリコが商品のおまけに切手を入れたことを端緒として、日本に切手ブームが起こった。1960年代の「少年サンデー」「少年マガジン」誌には毎号切手紹介の記事が掲載されていた。スタンプ済みの切手であれ、切手を収集し、図柄を通じて世界の文化に興味を抱くことができた。また世界の小国には、海外のコレクターを対象に外貨を獲得することを政策的に行っている国もある。日本人を取り上げた外国切手も多数あるが、代表的なものを紹介する。青木功、アントニオ猪木、井沢周八、上杉重房、片山潜、葛飾北斎、黒沢明、小泉純一郎、皇太子徳仁、笹原正三、佐藤栄作、昭和天皇、杉原千畝、雪舟、田村亮子、天皇明仁、東条英機、戸田城聖、長嶋茂雄、中曽根康弘、庭野日敬、野口英世、紀宮清子、牧口常三郎、三波春夫、南野陽子、源頼朝、横山大観。(参考:内藤陽介「外国切手に描かれた日本」)

切手に描かれたナポレオンも痒いの?

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    切手の肖像で誰が最も多いのだろうか?おそらくナポレオン・ボナパルトはベストテンに入るのではないだろうか。なかには1971年にセネガルの発行した切手のように、あまりナポレオンに似ていないものもある。だが腹部に手を差し入れる得意のポーズをしているのでそれらしい雰囲気がある。

    ナポレオンが腹部に手を差し入れているのは、実は水虫(体部白癬)のため」という説がある。新感覚派の小説家・横光利一の短編に「ナポレオンと田虫」という作品があるが、水虫のように足だけでなく、手、股、腹部なども白癬菌が移っていたらしい。世界中の切手の肖像も手を差し入れたポーズのものは多い。

    1809年、ナポレオンは、世継ぎをえるためと、政略のためジョゼフィーヌ(1763-1814)と離別し、翌年、ハプスブルク家のマリールイーズ(1791-1847)と結婚した。ナポレオンはこの腹にできた醜い田虫のことを美しい新妻に知られたくなかった。にもかかわらず、ある暑い晩に、いつもの田虫のかゆさが絶頂に達した時に起こる発作が起きたことから、それを知られてしまった。そこでナポレオンはその名誉回復のため、1812年夏、無謀なロシア遠征を企てた。容易に征服し得ない田虫に対する怒りにかきたてられていたナポレオンの征服意欲が、皇女への見栄や恥とからんで、筋ちがいの、しかも強引すぎた征服的行動となった。ナポレオンほどの英雄でも、腹の上にはびこる田虫を征服しきれず、かえってこれにあやつられてしまったみじめな傀儡に過ぎないというのが、横光の小説の粗筋である。

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日本古代遺跡難読地名

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 忍路(おしょろ)環状列石 北海道小樽市

   埋蔵文化財の存在が知られている土地は全国で約44万ヶ所以上あるといわれる。古代遺跡名には旧大字、小字が使われる場合が多く、読みづらい難読地名がある。

幾つかその例をあげてみる。

妻木晩田(むきばんだ) 鳥取県西伯郡大山町

平原(ひらばる)福岡県前原市

石清尾山(いわせおやま) 香川県高松市

加曽利(かそり) 千葉県市川市堀之内

綾羅木郷(あやらぎごう) 山口県下関市

金隈(かねのくま) 福岡県福岡市

西都原(さいとばる) 宮崎県西都市

マレーの虎・山下奉文

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    山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。

    山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。

    しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、絞首刑になった。(参考:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

菅原道真の怨霊伝説

    菅原道真は901年に大宰府に左遷され、2年後、2月25日、59歳で薨死した。道真の死後、天変地異が多発したことから、無念の死をとげた道真の崇りだと人々が考えた。時平が909年に早世し、923年には醍醐天皇の皇太子が夭折し、930年に醍醐天皇が46歳で崩御した。一方、道真一族は、五男淳茂、長男高視の息・文時が文学博士となった。中世となると、菅原氏は紀伝道を家業とし、明治になると子爵を授けられ、一族は繁栄した。

2012年2月24日 (金)

最新の古代史論争

Photo_8 加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(島根県立古代歴史博物館)

Photo_9 神庭荒神谷遺跡出土の銅剣

    弥生時代の青銅器には銅剣・銅矛・銅鐸などあるが、銅剣や銅矛が北九州を中心にして多く発見され、銅鐸は近畿地方が中心として多く発見されるので、この時代には、2つの文化圏があったと考えられていた。ところがこのような考古学の常識を覆すような発見が続いた。昭和58年、島根県の神庭荒神谷遺跡で銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土した。そこから南東3.4kmのところにある加茂岩倉遺跡で銅鐸39口が発見された。大きな銅鐸の中に小さな銅鐸が入っている「入れ子」状態が15組もある。どのような理由で弥生人は銅鐸などを埋めたのであろうか。銅鐸は豊作を祈る儀式として使われたと考えられている。いままで使用してきた祭器が不要となる社会変化とは何か古代史の謎はさらに深まる。

    つまりこれまで、古代日本の中心は「畿内説」「九州説」を中心に論議されてきた。しかし、近年、荒神谷遺跡以来、加茂岩倉、妻木晩田、松江田和山、青谷上寺地、出雲大社の3本柱、など山陰地方におい、他の地域に類例のない遺跡の出土が相次いでいる。古代日本の中心地は、果たして「畿内」か?、「九州」か?「山陰」か?

在日米軍再編問題は「パンドラの箱」

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    在日米軍再編のロードマップ見直しを巡って在沖縄海兵隊の一部を米軍岩国基地に移す米国の打診に対し、17日の衆院予算委員会で野田首相は受け入れ拒否を明言した。山口県側の猛反発を受けてのことだが、おかしな話である。沖縄が普天間の辺野古への移転案に対しどんなに拒否しても、政府は強引にやるという。沖縄差別の表れであろう。今後、埋め立て申請をしても、仲井真知事が許可する見通しもない。だが普天間飛行場を固定化させてはいけない。戦後67年、与党政治家に腹をくくって、もう米国軍事支配に決別する覚悟がほしい。

セーケシュフェヘールヴァール

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 イシュトヴァーン1世

  セーケシュフェヘールヴァールはハンガリーの首都ブダペスト南西約60㎞にある歴史的な都市。初代ハンガリー国王イシュトヴァーンがここに聖堂を建設し、以後歴代国王が戴冠・埋葬されたところである。イシュトヴァーン1世はハンガリーを統一し、西暦1000年にローマ教皇シルウェステル2世から王冠を授けられ、ハンガリー王国が正式に成立した。現在も8月20日は「聖イシュトバーンの日」として祝日に定められている。

ファンタジーは映画の王道

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「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) 青銅の巨人タロス

    金曜特別ロードショー「アバター」の視聴率15.1%。地上波初のわりには低い。理由はわからない。最先端のVFX技術を駆使して、科学兵器と弓矢などの原始的な兵器の対決も面白い。3D技術によって映画界に新たな時代の幕開けをもたらしたともいわれる。

    アバター(Avatar)とは、サンスクリット語で「化身」を意味する「アヴァターラ」(avataara)を語源とし、主にインターネット・コミュニティーで自分の分身として使うキャラクターのことを指す。「広辞苑」第6版(2008)には当然ながら収録されていない言葉。

   ファンタジー映画といえば「オズの魔法使い」(1939)が代表とされるが、21世紀になって「ハリーポッター」シリーズの世界的ヒットで今や映画の王道といわれるようになった。「ロード・オブ・ザ・リング」(01)、「ライオンと魔女」(05)、「テラシビアにかける橋」(07)、「ライラの冒険、黄金の羅針盤」(07)、「カスピアン王子の角笛」(08)、「アスラン王と魔法の島」(10)。ジェームズ・キャメロンの次回作も「アバター2」だそうだ。

「八甲田山遭難事件」自殺と美談の形成

    明治32年1月の199人が死亡した青森歩兵第五聯隊の八甲田遭難事件は小説、映画になり広く知られている。北大路欣也演じる神田大尉のセリフ「天は我々を見放した」は映画公開時、流行語にもなった。映画では変名にしているが、神田大尉は神成文吉である。指揮官は神成大尉であったが、編成外の連隊本部山口鋠少佐が途中から指揮をとり、このことが遭難をまねいた一因とされる。歩兵第五聯隊遭難ニ関スル取調委員は審議で遭難の直接の原因は山口少佐にあるとしている。しかし山口少佐への責任追及は十分にされなかった。山口少佐は1月31日に奇跡的に駒込川の谷底の岩洞で発見された。2月2日、山口に明治天皇は叡旨を与えられ、御菓子料が下賜されたが、その当日に山口は拳銃自殺した。公式には症状が悪化したとされているが、陸上自衛隊青森駐屯地の資料館には山口が自殺に使用した拳銃が展示されている。異説はある。「凍傷を負った手で拳銃が使えるのか?」「という指摘もある。この他、自殺幇助説、麻酔による殺害説などもある。いまとなっては真相は不明だが、山口少佐の死によって、事件の責任者はいなくなり、遭難事件には決着がついた。新聞は美談を書きたて、八甲田の遭難事件は愛国心を高める物語に創り上げられていく。

W_img017山口少佐が自決に使用した拳銃

ハンガリーは音楽が盛ん

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 ドボルヤーンのスケッチ(1850年頃)

   ハンガリーを代表する音楽家といえばフランツ・リスト。人生のほとんどを外国で活動したが、晩年はブダペスト王立音楽院(現在のリスト音楽院)を設立し、音楽教育の普及に尽くした。

   リストは1811年10月22日、ハンガリーの小さな農村ドボルヤーンに生まれた。ドボルヤーン村は第一次世界大戦後オーストラリア領となり、ライディングと呼ばれている。

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 聖マルティン教会(プレスブルク)

    1820年、リスト、9歳のとき、プレスブルクで演奏会を開き、センセーショナルな成功を得た。

1822年、一家はウィーンへ。

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 1830年ころのパリ・オペラ座

1824年、パリのオペラ座デビュー。

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  リスト博物館(ワイマール)

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同博物館の一室。食堂に使われていた同博物館のピアノ

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リスト      ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人

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七月革命

1830年、フランスに起こった七月革命に強烈な刺激をうける。この年、ベルリオーズと知り合う。リストはベルリオーズを継承して標題付交響詩の形式を確立した。

遠島配流、悲劇の伝説

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 俊寛像  硫黄島

    戦に負け、政争に敗れ、絶海の孤島に流された貴人・英雄が日本史には幾多いる。1156年、保元の乱に敗れた源為朝、関ヶ原の役で敗れた宇喜多秀家などは伊豆の八丈島に流され、秀家は在島49年で没している。1221年の承久の乱で隠岐へ配流となった後鳥羽上皇は、在島19年で崩御している。1333年、隠岐へ流罪となった後醍醐天皇は、翌年に無事脱出に成功。1177年、鹿ヶ谷の謀議で流罪された俊寛は在島3年で没した。西郷隆盛は1859年、奄美大島へ、3年後には沖永良部島と2度も島流しに遭っている。

江釣子古墳群

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  江釣子古墳群(岩手県北上市)は和賀川北岸に位置する五条丸、猫谷地、八幡、長沼の各古墳群を総称したもの。直径6~15mの円墳が130基以上もある。また河原石を積んで北側に立石を立て、そこに頭部がくるように埋葬した横穴式石室に縄文時代の信仰がうかがえる。副葬品には勾玉、切り子玉、蕨手刀、直刀、馬具など数多く出土している。金銀箔を貼ったガラス玉は、国内でも数例しかない貴重な出土品で、古代に大陸との交易があったことを推測させる。江釣子の地名はアイヌ語の「カムイへチリコ」(神々の楽園)という意味。7から8世紀の古墳時代末期、東北の地に独自の蝦夷文化が誕生したことをうかがわせる。

スイスの古城、エーグル城

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  エーグル Aigle はレマン湖に流入するローヌ河を10㎞余遡行した左岸に発達した古市で、城はその郊外に設けられている。城の創建は11世紀までに遡るが、その後、サボイ伯爵家の所領となる。やがて、この地方がベルンの支配下に入ると、エーグル城もまたベルンから派遣された代官の城として用いられるようになった。この状態が続いた後、1804年にエーグル市の所有となり、1974年から城館の復原修理工事が行われて現在の姿となった。周囲を葡萄畑に囲まれたワイン博物館として利用されている。

直木三十五の速筆

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    第146回芥川賞は円城塔と田中慎弥、直木賞は葉室麟がそれぞれ受賞した。現在の作家はパソコンやワープロで原稿を書くだろうが、むかしはペンが一般的な筆記用具であった。もちろん万年筆という高級な筆記用具もあるが、貧乏な文士は「つけペン」が主流である。芥川龍之介の原稿の字の小さいのは知られているが、それよりも久保田万太郎が小さく、直木三十五はさらに細かくで細い字を書く。それに速筆である。普通の人は1日に400字詰原稿用紙10枚程度だが、直木は1日に60枚は書いた。銅色のGペンをペン軸に差し込み200字詰の原稿用紙に書く。その無理がたたって昭和9年2月24日、43歳の若さで死んだ。

石田三成と関ヶ原の合戦

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 関ヶ原合戦図屏風

  慶長3年(1598)年8月18日、豊臣秀吉は秀頼の将来を案じつつ苦悩のうちに没した。享年62歳。辞世の歌が残されている。

つゆとをちつゆときへにしわがみかな

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    秀吉の死後、遺訓に示された徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、上杉景勝、毛利輝元の五大老の合議によって政治が運営された。また前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家が五奉行として庶政を執行した。五大老と五奉行の間に、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴の三中老が、大老と奉行の調停役という意味でおかれた。慶長4年正月、秀頼は伏見城を出て大坂城に入った。前田利家がお守役としてこれに従った。そこで家康が伏見の自邸で政務をとることになった。しかも、かつて、ねねと藤吉郎の仲人役をはたした前田利家は翌年3月病没した。利家の死は、家康の独走への道をひらいたものであり、三成の失脚ともなったわけである。三成は政務執行の実力者であったため、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明らの武将に恨まれることが多かったらしい。暗殺を察した三成は、大坂から伏見に逃げた。しかも、三成はもっとも敵対しているはずの家康に保護を求めて、ようやく近江の佐和山城に帰ることができた。こうして家康は伏見の自邸から伏見城にうって政務を見ることになる。

    石田三成は佐和山城を修築し、浪人団を雇い、反家康派の大谷吉嗣を呼んで作戦をねり、安国寺恵瓊と吉川広家のもとに使者を走らせ、家康打倒の意思をつたえ協力をもとめる。さらに、毛利輝元を大坂城に迎えて、策を告げる。三成派の長束正家、増田長盛、前田玄以らも、軍備をととのえ、大坂城に参集する。そののち三成は鳥居元忠が守る伏見城を落とし、美濃大垣城にはいり、ここに西軍を集結させた。石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家らのひきいる西軍は関ヶ原に陣をしいた。

    慶長5(1600)年9月15日辰の刻の朝(午前8時頃)、天下分け目の戦いが関ヶ原ではじまった。西軍は石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、脇坂安治、小早川秀秋、吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの軍勢8万、東軍は徳川家康、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、井伊直政、藤堂高虎、福島正則、山内一豊、浅野幸長、池田輝政ら7万といわれる。西軍は伊吹山麓から松尾山の間に陣をとり、南宮山方面から東軍の側面をつく作戦であったが、松尾山の小早川秀秋やその麓の脇坂安治らが寝返りを打ち、南宮山の吉川広家がすでに内応していたため、勝敗はおのずと明らかであった。天下を分ける大戦は、たった半日てせ終わってしまった。この一戦により、家康の覇権は確立した。

   三成は伊吹山中に逃げ、家臣とも別れ、単身近江に入り、幼少のころ手習いをした三重院という寺をたずねて、かくまってくれとたのんだがことわられ、ついに山林をさまようこと数日、ようやくのことで、伊香郡古橋村の与次郎という者の家にたどりついた。与次郎の義侠心で山中の岩窟にかくしてもらったが、とても逃げられると悟った三成は、与次郎にすすめて訴人させ、22日、領主の田中吉政の手に捕らえられた。石田、小西、安国寺の三人は大坂に拘置されていたが、10月朔日首かせをはめられて、大坂・堺・京の市街を引きまわされて、六条河原で斬首された。その首は自殺した長束正家の首とともに、三条の橋ぎわにさらされたという。

日本海海戦

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   ドラマ「坂の上の雲」の名場面。ロシアのバルチック艦隊がシンガポール沖を通過して北上してきた。問題は日本近海におけるバルチック艦隊の航路である。朝鮮海峡を通って日本海を抜けてウラジオストックへと向うのか、太平洋を迂回して津軽海峡を抜けてウラジオストックへと向うのか。東郷平八郎は、朝鮮海峡で待機する決断を下した。参謀たちの不安は消えない。5月27日、哨戒任務に出ていた信濃丸から敵艦隊発見との電報が入った。東郷は「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス」と電文を作成した。首席参謀の秋山真之は、その文に「天気晴朗ナレドモ波高シ」と加筆した。天気が晴れていることは敵艦を狙いやすい。そして波が高ければバルチック艦隊の砲撃の命中率が低くなるということを伝えたと言われる。そして13時55分、戦艦「三笠」のマストにZ旗が掲げられた。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」連合艦隊主力はなんと敵前で横腹を見せるかたちで、相手の進路をさえぎるT字戦法にでた。そして主力以外の艦は、南下して敵艦隊の後尾を突いた。まさに、日本艦隊の圧勝であった。

源頼朝、挙兵

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    治承4年8月17日、伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山で平家方の大庭景親と合戦した。三百余騎の頼朝軍に対して、むかう大庭軍、三千余騎が立ちふさいでいた。24日、無勢の頼朝軍はたちまちに敗走し、平氏軍はこれを追撃した。しかし、ついに頼朝を捕えることができず、その行方を見失ってしまった。この時、大庭景親の軍勢に属していた梶原景時が、頼朝の在りかを知りながらこれを逃したという話の真偽は疑わしいものの、当時、平氏の陣中にあって頼朝に心を寄せていたのは、景時だけではなかった。飯田家義という相模国の武士も、景親の軍中にありながら頼朝を慕い、山中の隠れ家までやってきてぜひ供に加えてくれ、願ったという。

    こうして虎口を逃れた頼朝は、この付近の豪族・土肥実平に導かれて真鶴岬から小舟に乗り、海路を房総半島の南端安房国へと逃れ、次第に勢力を拡大する。ついには平家を討ち滅ぼし、武家を中心とする新しい政治体制を確立したのである。

    頼朝挙兵の頃の関東の豪族をながめておこう。挙兵時より頼朝に味方した豪族としては、北条時政、天野遠景、三浦義明、三浦義澄、和田義盛、宇佐美助茂、土肥実平、加々美長清、安田義定、武田信義、下河辺行平。

    挙兵直後頼朝に味方した豪族としては、豊島清光、葛西清重、千葉介常胤、上総介広常、小山朝光、安西景盛。

    挙兵時頼朝に敵対しのち従った豪族としては、梶原景時、江戸重長、河村義秀、渋谷重国、河越重頼、熊谷直実、畠山重忠、新田義重、足利俊綱。

    頼朝に敵対し討たれた豪族は、大庭景親、波多野義常、山本兼隆、伊東祐親、志田義広、萩野俊重、佐竹秀義らがいる。

ペリー浦賀来航

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 武州潮田遠景 近晴画 黒船館蔵

   嘉永6年6月3日、江戸とつい目と鼻の先の浦賀沖に、4隻の黒船が姿を現した。江戸の町は大騒ぎとなった。「太平のねむりをさます上喜撰 たった四杯で夜もねむれず」気のはやい町民のなかには、家族や荷物の疎開を始める者もいた。江戸の町は大パニック。これから時代は幕末に向かう。マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858)はロードアイランド州サウス・キングストンで、クリストファー・レイモンド・ペリー大佐の三男として生まれた。母はアイルランド出身のセーラ・ウォーレス。兄のオリヴァー・ハザード・ペリー(1785-1819)も海軍軍人。1809年士官候補生として海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなどに勤務し、ブルックリン海軍工廠司令官時代には蒸気軍艦フルトン号を建造し、「蒸気海軍の父」と称賛された。

   アメリカは嘉永4年にアメリカ東インド艦隊司令長官オーリックを訪日使節に任命したが、オーリックは旗艦サスケハナ艦長との不和其他の問題を起こして解任された。代わって選ばれたペリーは、オーリックの先輩であったが、日本の開国が重要性を理解しており、甘んじて承諾した。ペリーは非常に慎重で且つ勇断の武将であった。彼は出発前、詳細な日本研究に没頭し、日本人の国民性に考慮して、無理な強制は避けなければならないが、十分な威圧を加え、忍耐強く交渉する決意を抱いた。彼に与えられた使命は、漂流民の保護、薪水食糧及び石炭の供給、通商の開始、の三つであった。嘉永5年10月、ペリーはアメリカ東海岸ノーフォークを出発し、大西洋まわりで4月香港投錨。そして6月、サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの4隻を率いて日本、浦賀に入港した。久里浜で幕府の戸田氏栄、井戸弘道にフィルモア大統領の親書を手渡し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められ退却した。

    一旦中国に帰ったペリーは、ロシア、イギリス、フランス等が、日本に向かう気配のあるを察し、予定を早めて、嘉永7年1月(1854年2月)、艦隊を7隻に増加して、日本に来航し、談判中は更に2隻を加えて、9隻を以て威圧しつつ、神奈川において、3月3日(3月11日)、日米和親条約締結に成功した。同条約では、幕府に下田、箱館の開港、生活必需品の供給、領事駐在権、片務的最恵国待遇を認めさせた。さらに6月下田で、通商の足がかりとなる追加条約を締結した。これをもってペリーは、日本を開国・通商に導き、西洋資本主義社会に日本を包摂したと評された。

   ペリーは帰途、那覇にも寄港し、琉球王国とも修好条約を締結、帰国後、「日本遠征記」(1857)を監修した。翌年、ニューヨークにて死去。享年63歳。

「東風吹かば」の歌は偽作!?

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    日本人は古来から歴史上の有名人の名を借りて物事をいう、いわゆる仮託を好む民族である。聖徳太子や行基ゆかりの寺は全国に数多くあるが、実は当人が関わっているとは到底思われない寺も多い。「学問の神様」と神格化された菅原道真の詩文にも数多く偽作と思われるものが含まれている。例えばもっとも有名な「東風吹かば」の歌には2種ある。初出は「こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわするな」(拾遺和歌集巻第14雑春)もう一つは「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」(宝物集)。一般に「春な忘れそ」のほうが人口に膾炙していると思われる。歌は道真が宇多法皇に別れ際に詠んだとされるが、いずれにしても道真の死後から100年から180年も経って世に現れた歌である。漢学者の道真の真作であるとは考えにくいが、仮託が許される文学風土なので、この歌にケチをつける人は誰もいない。

児島高徳

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 「児島高徳」 羽石光志画

    児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。

    後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。

安土城主7年

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 安土城図 大阪城天守閣蔵

    織田信長は浅井氏を滅ぼして近江一帯を治め、天正4年(1576年)岐阜から安土に進出して安土城を建設した。高さ115mの安土山の頂を本丸とし、本丸の側に二の丸を設け、山腹に諸将の邸を置いた。ここに招かれたキリシタン宣教師は大天守閣の壮麗さに驚いた。「中央に一種の塔があ。塔は七層楼で、内外ともに驚くべき構造である」と耶蘇年報に記している。日本で最初に天守台を備えた城は安土城だったと俗にいわれるが、実はすでに岐阜城、北ノ庄で天守の城はある。

     信長がこの安土城に拠ったのは天正4年から同10年にかけて、彼が43歳から本能寺で亡くなる49歳にかけて、わずか7年ということになる。城に移り住んでからわずか3年である。ところで安土城を焼いたのは誰であろうか?通説では安土城の守備を命ぜられた女婿、明智秀満(左馬助)が山崎の敗報を聞き、坂本城へ退却するときに放火したといわれてきた。この他、秀満が去った後に、安土城に入城した織田信雄が攻撃したときに全焼したとする説、信雄が何らかの理由で放火したとする説、近在の農民や野武士が安土城に略奪に入り、放火したとする説などあって、現在のところ定説はない。

2012年2月23日 (木)

崇源院vs春日局

  BS歴史館「大奥」を見る。徳川秀忠や母のお江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国松(忠長)を寵愛していたとされ、そののちに起因する竹千代派と国松派との3代将軍の座を巡る争いとして発展。春日局が家康へ直訴したため、竹千代派の勝利で終わる。この通説に対して、番組(小和田哲男ら)では、家康の「訓戒状」があり、長子相続が決められており、お江とお福のバトルの逸話には否定的な見解を示す。番組の最後に、京都岡崎にある金戒光明寺の崇源院の墓を紹介。造ったのは春日局。側には春日局と忠長の供養塔がある。

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 崇源院の墓(金戒光明寺)

19世紀フランス画家5人男

    アングル(1780-1867)、ドラクロワ(1798-1863)、コロー(1796-1875)、ミレー(1814-1875)、クールベ(1819-1877)の5人の顔を弁別できるだろうか。ドラクロワはよく自画像を描いているので知っている人も多いだろうが、他4人はなかなか区別しにくい。最年長アングルと最年少クールベとの年の差は39歳である。

Photo_3 アングル

Photo_4 ドラクロワ

487pxcamille_corotnadar コロー

472pxjeanfrancoismilletnadar ミレー

Gustave_courbet クールベ

岸田國士「暖流」

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    山田洋次が選んだ日本の名作100本「暖流」(1957年)を見る。戦前版、吉村公三郎、令嬢志摩啓子に高峰三枝子で有名な作品であるが、戦後映画、ドラマでこれまで7回も作品化されている。日疋祐三は根上淳、平幹二朗、富田浩太郎、高松英郎、吉田輝雄、近藤正臣、山田祐大である。このうち近藤版は記憶にある。松坂慶子、中田嘉子の恋のさやあて。戦前版の笹島医師の徳大寺伸も有名だが、品川隆二の現代劇も珍しい。

外国切手にある「佐藤B作」?

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下段中央が佐藤B作(文字が小さくて読めないのが残念)

   核兵器を持たず、作らず、持ち込まず。非核3原則は国是であった。核搭載した米艦船が横須賀や佐世保に寄港しても真実を究明することができなかった。国民は騙され続けた。1969年に佐藤栄作とニクソン大統領との間に米軍の核持込を容認する密約が交わされていた。合意文書は佐藤家で保管されているらしい。沖縄返還の功績によって1974年、佐藤栄作はノーベル平和賞を授与されている。佐藤栄作は真実を語ることなく国民を騙し続けて1975年に没した。1995年、モルジブが歴代のノーベル賞受賞者の切手を発行した。その1枚の佐藤栄作の人名表記は「Bisaku」となっている。佐藤にちなんで芸名をつけた俳優「佐藤B作」の名が切手に登場したのである。

イギリスの古城、ドーヴァー城

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    イングランド南東端の断崖ドーヴァーには早くから城砦が築かれたが、ローマ軍が撤退したのちはアングロ・サクソン人が引き続いてここに城郭を構えた。1066年にノルマン王ギョームが対岸のノルマンディから海岸を渡ってイングランドを制圧しようとするや、これを察したイングランド王ハロルドは1064年にドーヴァー城をいっそう強化して待機したが、ノルウェー軍との交戦中に不意をつかれて別の場所に上陸されてしまった。あわてて引き返して応戦したもののハロルドは敗死してしまい、その後は、征服王ウィリアム1世(ギョーム)によるノルマン朝の時代に入る。ウィリアム1世は、この港町を重視してドーヴァー城の防備を厳にした。だが、ドーヴァー城が今日みられるように整備されて高度の城郭となったのは、プランタジネット朝の初代、ヘンリー2世(在位1154-1189)の時代である。中心をなすキープからこれを取り巻く城壁や空濠、塔や城門までが完全に残っており、ドーヴァー城はイギリスを代表する古城である。

スイスの古城、ニヨン城

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    ジュネーヴの北約25㎞に位置するニヨン(Nyon)の町はカエサルが征服したローマ植民地で、ノヴィオデュヌムという名で知られていた。近年、ローマ時代の遺品が多数出土し、ローマ博物館がつくられた。

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  レマン湖北岸にあるニヨン城は13世紀ころ、サボイ伯爵によって建造された。16世紀にはベルンの支配下に入り、現在の建物は、この時代に再建されたものである。

今治タオル100年史

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      菅原利鑅         阿部平助

   愛媛県今治市はタオルの町として知られる。全国の約6割を生産し、人口12万5000人のうち、下請けの内職を含めると2万5000人はタオルに関係している。今治は世界最大のタオルの産地である。

    タオルは1801年、フランスのジョゼフ・マリー・ジャカールによって発明され、日本にきたのは明治の初め頃である。しばらくはタオルの使い方も分からず、里井園治郎が明治22年に創製し、泉州で細々と生産されていた。明治27年、今治の阿部平助(1852-1938)が綿ネル機械を改造し、タオルの製造したのが今治タオルの始まりである。明治43年に麓常三郎(1868-1929)により大衆向け縞柄タオルが創製された。大正13年には愛媛県工業講習所の技師、菅原利鑅(1891-1958)により、高級なジャカード織りの今治タオルが生産されるようになった。

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ジョゼフ・マリー・ジャカール(1752-1834)

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 ジャカード織機

蘇我入鹿暗殺

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 多武峰縁起絵巻

    中大兄皇子が中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺して、権力を奪った政変を「大化の改新」と覚えたが、今の歴史教育では入鹿暗殺事件は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的である。

    ともかく645年という年号は、わが国で初めて年号をたてて大化元年とした、記念すべき年である記憶されるべき出来事であることには間違いない。大化改新によって律令による政治が確立されたとされる。

 無事故(645)で終わった大化の改新

変事、中大兄皇子は葛城皇子と名乗っていた。

6月12日、葛城皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す

6月13日、蘇我蝦夷が自害

6月14日、皇極天皇、軽皇子に譲位(孝徳天皇)

最近、軽皇子が乙巳の変の黒幕ではないかという説もあるそうだ。

敵は本能寺にあり

100928_800pxhonnoj 錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

 「敵は本能寺にあり」(日本外史)

信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

    戦国最大のミステリー本能寺の変。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持した。近年では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。つまり朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。(参考文献:立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年)

愛と恋について

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   アメリカのエリオット・アーウィットは、目線を低くした等身大の人間像と国境を越えたヒューマニズム、ユーモアの漂う作品で知られる写真家である。なかでもちっちゃなカップル、年季の入ったカップル、不思議なカップル、など、男と女が織りなす、甘くやさしい写真を40年以上とり続けた。

    「恋愛」とは何か。「愛」よりも狭く、「恋」よりも相互性が高く客観的に見た感じもある。(語感の辞典)

    恋愛メロドラマの世界もハリウッド、日本映画も美男美女の愛を美しく純潔なものに描くという古典的パターンは、韓国映画の登場によって、さらに量産されるようになった。日本でも一時期、薄っぺらいメロドラマとして、低迷した時期もあったが、「恋空」の大ヒットによって、カップルの映画は不滅のジャンルであることを証明している。名コンビといわれるスターを思いだすままにあげると、ダグラス・フェアバンク&メリー・ピックフォード、クラーク・ゲーブル&ジーン・ハーロー、ミッキー・ルーニー&ジュディ・ガーランド、ハンフリー・ボガート&ローレン・バコール、ジョン・ウェイン&モーリン・オハラ、ジェームズ・スチュアート&ジューン・アリスン、ジャック・レモン&シャーリー・マクレーン、ライアン・オニール&アリー・マックグロー、リチャード・ギア&ジュリア・ロバーツ、上原謙&田中絹代、佐田啓二&岸恵子、浜田光夫&吉永小百合、三浦友和&山口百恵、などであろうか。このようなゴールデン・カップルといわれるスターはいまではあまり見られない。

キーツとファニー・ブローン

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  映画「ローマの休日」の舞台で知られるローマのスペイン広場。イギリスの抒情詩人ジョン・キーツ(1795-1821)はこのスペイン広場近くの家で1821年2月23日に25歳の生涯を閉じた。現在はキーツ・シェリー記念館となって、キーツの髪の毛やシェリーの骨壷があるという。そういえば映画の中でアン王女(オードリー・ヘプバーン)がうわ言で詩の一節を言うのだが、新聞記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)と作者がキーツかシェリーかで言い争うシーンがあ.る。「アスレーザはアクロセラニアンの山の雪のしとねから身を起こし」この詩の作者はジョーが言うとおりシェリーだそうだ。そして、映画「ローマの休日」の二人か結ばれなかったように、キーツとファニーの恋も実らなかった。

   キーツは、ロンドンのムア・ゲイト(モーゲート)85番の貸馬屋の長男として生れた。1814年からロンドンの医学校でまなび、その後、医者をこころざして、免許をとったが、開業せず、詩人になろうと決意した。1818年夏にキーツはハムステッド・ウェントワース・プレースの下宿の近くに住んでいた美しい少女ファニー・ブローンを見初め恋におちる。キーツ22歳、ブローン18歳。しかしキーツは結核を発病した。医者の勧めもあり、ファニーとの結婚を諦め、ハムステッドの下宿を大きな未練を残しながら去り、ローマを療養の地とした。しかし友人ジョーゼフ・セーバンの看病も空しく、かの地で亡くなった。

   ファニーに寄せるうた

          1  

自然という医師よ。わたしの魂から血を抜いておくれ。ああ、わたしの心から詩を取り出し安らかにしておくれ。息づまるほど切ない詩情をわたしのこの満ち溢れる胸から退いてゆくまで、おまえの祭壇にわたしを投げ出しておくれ。主題。主題。大いなる自然よ。主題をおくれ。わたしに夢を見させておくれ。わたしはここに来ておまえがそこに立っているのがわかる。冷たい冬の空のしたに私を連れ出さないでおくれ。

          2

ああ、愛する女よ。わたしの怖れと希望と悦びと息切れのするような耐え難さをすべて宿すひとよ。思えば今夜のあなたの美しさはまるで楽しい微笑を浮かべていることでしょう。うっとりと、胸のいたくなるような、奴隷的な目なざしで、あまい驚きに我を忘れて、見つめれば見つめるほど素晴らしく明るい微笑を浮かべて。

          3

どん欲な目つきで、いま、わたしの目のごちそうを食い荒らすのは誰か。わたしの銀いろの月をいま曇らせるほどしつこく見つめているのは誰か。ああ、せめてその手だけは汚さないでおくれ。どうかどうかその恋の焔を燃やしておくれ。けれどどうかおまえの心のながれを私からそんなに早くそらさないでおくれ。ああ、わたしのために哀れと思ってあなたの高鳴る胸の動悸をとっておいておくれ。

          4

そいつをとっておいておくれ。愛する女よ。わたしのためにたとい音楽がみだらな思いを暖かい空気に混ぜるようとも。踊りの危険な誘惑の環のなかを飛びまわる時にも、あたかも四月の日のように。微笑み冷静でたのしくあっておくれ、美しくしかもつつましい百合の花であっておくれ。そうすればきっと暖かな六月がわたしにもやって来るだろう。

          5

まあ、それは嘘よと、あなたは言うだろう。ファニーよ。あなたの柔らな子を心臓の高鳴る真白い胸において、告白しなさい。なんでもないことだけど。女は海に浮ぶ軽い羽根のように風にゆられ波にゆられて、ふらふらしてはいけないでしょうかと。牧場からとんでくるたんぽぽの頭のように気まぐれに飛んだりしては。

          6

私にもそれはわかる。でもそれは失望です。ファニーよ、わたしのようにあなたを愛しているものにとっては、わたしの心はどこへでもあなたを求めて飛びまわり、あなたが外にぶらりと出かけるとわたしの心はわびしくて落ちつかない。愛。愛だけが厳しい、多くの苦痛をもっている。だから恋しいひとよ、どうか、苦しい嫉妬から私を自由にしておくれ。

          7

ああ、もしあなたが哀れな色褪せた短かい一時間の誇りよりわたしの押さえた魂をほめてくれたら、誰にもわたしの恋の神聖な座を汚させはしない。また荒々しい手で秘跡のパンを裂かせることも許さない。誰にもまたその新しく芽を出したばかりの花に触れさせない。もし触れたら恋人よその失われた休息のうえに、わたしの目を閉じさせておくれ。(出口泰生訳)

2012年2月22日 (水)

古代世界のゾウ使い

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   古代戦争などでは、巨像大軍が強力な戦車のような兵器として用いられたことはカルタゴのハンニバルなどの話でもよく知られている。かのアレクサンドロス大王も東方遠征ではゾウに苦戦したと伝えられる。前326年、ピュダスペス川上流のタクシラで、パンジャブ王国のポロスは200頭のゾウを用いて、アレクサンドロス軍の侵入を防いだ。ゾウの扱いは難しいと思うが、すぐれた調教師がいたのだろう。

清和源氏の隆盛と衰退

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    兵庫県は「平清盛」の舞台として観光PRしているが、摂津は多田源氏の発祥の地である。

    宝塚市千刈貯水池の北岸にある波豆(はず)八幡神社の祭神は誉田別尊(応神天皇)。応永10年、源満仲の弟、源満政の創建と伝えられる。源満仲は安和2年に起こった安和の乱で実力をみせ、清和源氏の名を高めた。摂津国多田荘を領地としたため、多田満仲とも呼ばれた。満仲の子、頼光、頼親、頼信も異色の武勇人として台頭し、それぞれ摂津源氏、大和源氏、河内源氏の流祖となった。頼義、義家父子が前九年、後三年の役への出兵で東国にその名を馳せることで、源氏の東国での人気が高まった。だが義家の子、義親が九州にて反乱を起こして、為義の時代には衰退していく。

コンモドゥス帝暗殺

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    ローマ皇帝で暴君といえばネロとカリギュラの名前が挙げられる。だが最近は映画「グラディエーター」(2000年)のおかげで第17代皇帝コンモドゥスの残忍性も知られるようになった。いずれも浪費癖があり狂気じみた独裁者たちである。コンモドゥスはマルクス・アウレリウスの息子ながらとびきりの暗愚だった。愛妾マルキアと侍従エクレトゥスと近衛隊長のラエトゥスらによって192年、暗殺された。その様子をギボンは次のように書いている(ローマ帝国衰亡史)。

  マルキアはある時彼が猛獣狩で疲れきった後で1杯の葡萄酒を彼に献げる機会を捉えた。コンモドゥスは寝所に退いた。しかし彼が毒と酔との効によって悶え苦しんでおる間に、角力を職業とする一人の頑強な青年が彼の寝室にはいって行って何の抵抗も受けずに彼を絞殺した。皇帝の死について市内はもとより、宮中でさえも些かの疑念を抱かない前に、彼の死体は宮中から運び出された。これが名君マルクスの子息の運命であった。そして一個人としての体力や能力においては、その君主と同等であるところの幾百万の人民を、人為的機能によって、13年のあいだ暴壓し続け怨恨の的となった暴君を滅落せしめることは、かほどに容易であった。

もう一人のトルストイ

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    福音館書店から発行している絵本「おおきなかぶ」は教科書に掲載されただけではなく、保育園や幼稚園、図書館などで子供の頃に誰もが一度は手にした絵本でしょう。(私の子供の頃はまだ出版されてなかったけれど) 表紙に「A.トルストイ再話」とある。大抵の日本人がトルストイと聞けば、「戦争と平和」のトルストイだと早合点する。だが文豪の名はレフ・二コラエヴィチ・トルストイである。略記すればL.N.トルストイで、明らかにA.トルストイとは同姓異人である。アレクセイ・ニコラエヴィチ・トルストイは「苦悩の中を行く」「ピョートル1世」など歴史小説を書いた作家である。「おおきなかぶ」は再話「ロシア民話集」の中の一編。

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A.トルストイ(1883-1945)

豚汁はなぜ「重箱読み」なのか

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   最近、豚汁(とんじる)は「ぶたじる」とは言わないらしい。なぜ「とんじる」なのか理由は知らない。「ぶたじる」でもいいと思うのだが。広辞苑には「ぶたじる」で載っている。漢字の熟語・複合語に「重箱読み」と「湯桶読み」というのがあって、重(じゅう)と箱(はこ)のように、前半が音、後半を訓で読む読み方を「重箱読み」という。これに対して、前半が訓、後半が音とする読み方を湯桶読みという。ウィキペディアには「豚汁」を重箱読みの代表例に挙げているが不思議だ。お好み焼きでも豚玉は「ぶたたま」であって「とんたま」とは言わないだろう。

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1000人に聞いてみると、およそ8割の人が「とんじる」と言う。

うどんはなぜ「饂飩」と書くのか

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 小麦粉を使った唐菓子

    旺文社「古語辞典」を引くと「うどん」の項目は見当たらないが、「うんどん」と引くと「饂飩、うどんの古称」とある。「うどん」はなぜ「饂飩」と書くのだろうか。

   奈良時代に渡来した唐菓子に「混沌」(こんとん)というものがある。食べ物なので、食扁に改めて「餛飩」と書いた。熱い食べ物なので「温飩」になった。これが、また食扁に変って「饂飩」になった。丸い形だったものが、薄くのばして、細く切るようになって今日のうどんのようになった。読み方は「オントン(温飩)」から「ウントン(饂飩)」、室町時代に「ウドン」という呼び名が使われ始めた。

パチャカマック神

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 リマ南東30kmにあるパチャカマック遺跡から出土

    パチャカマック Pachacamac はインカに征服される前のペルーの創造神。パチャカマックは土から最初の人間の男女を作った。パチャカマックは怠惰な性格のため、食料をつくることを怠ったため、男が餓死した。女は一人で木や草の根を食べていた。哀れに思った太陽神が、男の子を授けた。この太陽神の行いに怒ったパチャカマックは子供をひき裂いて殺し、地中に埋めてしまった。するとどうだろう。死体の歯からトウモロコシ、骨からはイモ、肉からは幾多の野菜や果物が生え出した。

スイスの古城、ヴュフラン城

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    スイス南西ローザンヌの隣町モルジュにあるヴュフラン城Vufflens。城郭の創建は1305年着工で1420年に完成した。その後、16世紀にベルン州執政官の城館として大改修をしたものが現在の姿であるが、個人の邸宅なので入館はできない。四隅に円塔を持ち、円塔兆部には円錐屋根を設けるなど、スイスにおける城館形式の標準型である。

氷筍(ひょうじゅん)

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    洞窟に発生する逆さの氷柱。厳冬期に上から滴り落ちた雫が、瞬時に凍りついたもので、タケノコ(筍)のような形状をしているからこの名で呼ばれる。広辞苑の項目にはない。

招猫

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  近江彦根藩主、井伊直孝(1590-1659)は江戸で鷹狩りのさい、ある貧しい寺に立ち寄った。そこで手招きする猫のおかげで落雷から命を救われた。直孝は、この寺を菩提寺とし、のち招猫堂がつくられた。

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 豪徳寺招猫堂

  招猫という、座って前足を挙げている縁起物の置物がある。今戸神社が招猫の発祥地の一つだが、ほかにも自性院、伏見稲荷などにも由来が伝わる。置物が一般的になるのは明治になってからである。

映画のなかの世界史

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 「イントレランス」 1916年

    映画をみて世界史を知ることも多い。とくにアメリカは、歴史が浅いせいか、古い歴史に対してコンプレックスのようなものがある。20世紀の初め、映画が誕生したとき、しばしば見世物のような歴史劇が多く創られた。とくに聖書の世界や古代エジプトやバビロニアの世界である。D・W・グリフィスの「イントレランス」(1916)では中世フランス、ユダヤ時代、バビロンなどが大がかりなセットで再現された大作だった。セシル・B・デミルの「十誡」(1923)やフレッド・ニブロの「ベンハー」(1924)もシネマ・スコープでリメイクされたが、無声映画もいまでは容易に見ることができる。フリッツ・ラングの「ジークフリード」(1923)はニーベルンゲン物語だがオペラを題材としたものも多い。クローデット・コルベールの「クレオパトラ」(1934)、「ヘンリー五世」(1945)、「成吉思汗」(1951)、「黒騎士」(1952)、「クォ・ヴァディス」(1952)、「ジュリアス・シーザー」(1953)、「聖衣」(1953)、「円卓の騎士」(1953)、「悲恋の女王エリザベス」(1953)、「デジレ」(1954)、「ユリシーズ」(1954)、「異教徒の旗印」(1954)、「エジプト人」(1954)、「バルテルミーの大虐殺」(1954)、「獅子王リチャード」(1954)、「ピラミッド」(1955)、「トロイのヘレン」(1955)、「アレキサンダー大王」(1956)、「ヴァイキング」(1957)、「ハンニバル」(1959)、「ソロモンとシバの女王」(1959)、「ローマ帝国の滅亡」(1964)など美女、英雄などが登場する歴史物は世界中どこでも好まれるジャンルだ。

いま、なぜ由紀さおりなのか?

    昨年発売された由紀さおり&ビンク・マルティーニのCD「1969」が海外のチャートで上位を記録しているという。これまで幾多の日本人シンガーが米進出に挑戦して失敗した。英語の壁のようなものがあると諦めていた。しかしむしろ逆で、美しい日本語ならば、言葉がわならなくても、その情景が浮かび、感動を与える。12曲の選曲をみると、かなりバラエティーに富んでいる。「ブルー・ライト・ヨコハマ」「夕月」のような歌謡曲、「パフ」のような誰もが知っているフォークソング、「さらば夏の日」のようなスクリーン・ミュージック、そして由紀さおりの代表曲「夜明けのスキャット」。これは世界の人が日本の曲でどのようなジャンルが好まれるのか、実験的な試みの第一歩ではないだろうか。これまで宇多田ヒカルのようなJ-POPでないとダメという固定観念があったようだ。むしろ日本の楽曲に自信と誇りをもって、日本語で歌うことのほうが、ハートが伝わるのではないだろうか。シャンソン「枯葉」やカンツォーネ「ヴォラーレ」が世界中に広まったのはアメリカ人が発見したからである。日本の名曲を美しい言葉で世界に伝えよう。

橋の上の象徴主義あるいは神秘主義

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  「叫び」(油彩)

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  「叫び」(パステル)

    現代人の心の奥底にある感情や不安や生と死、孤独、嫉妬、病患などを主題とした画家ムンク。代表作「叫び」の4作あるうちの1点(パステル)が競売にかけられるという。2008年には「橋の上の少女たち」が約32億円で落札された。有名な作品「桟橋の上の少女たち」(1899年)いずれも橋の上である。なぜ橋の上なのか、いろいろ考えてみたがわからなかった。

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 「橋の上の少女たち」

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 「桟橋の上の少女たち」

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 「絶望」

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 「不安」

「じんだつめり」はどんな味?

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    30年くらい昔の百科事典・学研のジャポニカでカラーで紹介されている宮城県の郷土料理「じんだつめり」。いまネットで検索したがヒットしない。方言で枝豆を「じんだ」という。「つめり」は小麦粉をこねたもの。枝豆をすり鉢ですりつぶし、両者を混ぜて味を付ける。地域によって「ずんだ餅」とか「じんだ餅」とか、「つめり」を「ひっつめ」とかいろいろ違いがあるので、現在は「ずんだ」(枝豆をすりつぶして作る緑色のペースト)に統一されたのだろうか。写真でみるかぎり、おいしそうだし「じんだつめり」というネーミングは素朴でいいと思うが…。

「生類憐れみの令」は古代エジプトにもあった!?

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 古代エジプトでは猫もミイラになった(大英博物館)

    人間と最も身近な動物といえば、まず「ネコ」である。2月22日は「猫の日」。野生の猫は、5000年も昔に、最初は穀物をネズミの害から防ぐ目的などで飼い馴らされたらしいが、のちにこまやかな情愛を注がれたペットとしての家猫が現れる。

    大河ドラマ「平清盛」を見ていると、白河法皇は仏教の教理に従って殺生を禁じているシーンがあった。「生類憐れみの令」のような禁令は徳川綱吉が初めてではなかった。古代エジプトにも、猫を殺すと死刑にされるという時代があったそうだ。猫の頭をもった女神バステトBastedがいる。ブバスティスでは猫のミイラが多数出土し、古代エジプトでは猫を家畜化する一方で、神として崇拝するようになったことが明らかになっている。ヘロドトスによれば、「猫が死ねば、家人は悲しみを表明するために眉を剃り落とし、死体をミイラにして手厚く葬る。・・・・火事の際には、真っ先に猫を助けなければならない」と記している。こうした猫崇拝が盛んだったのは紀元前16世紀から紀元前11世紀の新王国時代や紀元前6世紀のときが最盛期で、前525年、ペルシアのカンビュセス2世は最前列に猫を配してエジプトを攻め、矢を放つことができないエジプト軍は滅ぼされてしまったという。(本当の話とは信じ難いが)西洋の諺に「A cat has nine lives.」(猫には九生ある)とある。この起源は古代エジプトで、猫は9つの魂を持ち、9度生まれ変わることができると信じられている。当時流行のライオン狩りなどのスポーツも不信心な行いとしてみられ、バステトの祭りの期間中は禁じられていた。

なぜ本を読まなければならないのか?

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  フランス文学者の鹿島茂さんの話。「なぜ本を読まなければならない」という演題で講演してほしいと公共図書館から依頼された。鹿島は悩んだ。鹿島の説によれば、いまから百年ほど前までは、本など読んでもなんら役に立たない、というのが社会の常識だったという。この常識に対して大正教養主義の人たちが読書をすすめたという。たとえば白樺派や赤い鳥の人たちだろうか。世界文学全集や百科事典、絵本や童話などが薦められた。ただし、下層、中産階級の人たちにとっては、読書で得た知識で競争を勝ち取るには、まだるっこい、面倒くさい、と感じる人たちが増えてくる。昭和40年代、たとえばファッション、スポーツ、車、というモノで「ドーダ」を誇示するようになる。だが鹿島自身は、「読書には速効性はないものの、遅効性のサプリメント的な効果がある」といっている。この表現は流石に上手い。そして読書の効能は「今になって振り返ってみれば」という事後的には明白であるものの、若い人たちにどのように勧めたらいいのか悩む。結論は、「理由は聞くな、本を読め」だそうだ。

   これは「子供より古書が大事と思いたい」など刺激的なタイトルの本を出版されている人の見解であって、あくまで鹿島流である。鹿島のいう大正教養主義が端緒であるとすれば、小泉信三の「読書論」(岩波新書)が最もクラシックであろう。「なぜ本を読まなければならないか」というテーマは結局、読書論としてかなりの量の文献がある。図書館関係者もこのテーマに関しては多く語っているが、読書推進や良書普及という目的が前提にあるようで、学際的な研究にはなっていない。むしろ子供の読書を対象とすることが多いので、「本を読みなさいって言わないで」というスタンスのものが多い。自然に身近に本がある環境をつくることで本好きにさせようという考えである。しかし皮肉なものですべてに恵まれているとかえって当たり前になって本との出会いの喜びや感動を知らなくなることもある。

啄木と不来方城

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    石川啄木は小説「葬列」に「市の中央に巍然として立つ不来方城に登つて瞰下せば(中略)屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、實に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ」と書いている。

   不来方城(こずかたじょう)は、盛岡藩の南部氏居城で、同家27代の藩主南部利直(としなお)が慶長3年に着工、およそ10数年の歳月をかけて築城したものである。

   「不来方」の名はむかし清原武則の甥、不来方貞頼がこの地に城を設けたと伝えられるので、そう名づけられたものであろうが、もともとの地名の由来は、この地を荒らした鬼が取り押さえられ、もう来ないと約束したという伝説に因むとされる。その他にも、徒渉地点の「越し川」、小さい丘の「小塚田」、冠の頂の形「巾子(こじ)形」、アイヌ語のコチ・カタ(川の跡や河畔)、など諸説もある。

   南部氏が現青森県三戸から「不来方」へ移って築城したのは16世紀末で、地名を「森岡」に、さらに「盛岡」へと改名した。石川啄木が在学していた盛岡中学は、城址から約300mの近さにあり、啄木はしばしば学校を抜け出し城址で時を過ごした。

「不来方」の古名は石川啄木の「一握の砂」の次の短歌で広く全国に知られるようになった。

 不来方のお城の草に寝ころびて

 空に吸われし

 十五の心

   初出は「スバル」明治43年11月号。「秋のなかばに歌へる」の題下に発表された百十首中の一首。初出歌は「不来方のお城のあとの草に寝て空に吸われし十五の心」となっている。草茂る荒城で、広々とした大空に託す少年の日の夢と、青空に浮かぶ白雲を眺めながら何時しか無心になりゆく少年の日の記憶が巧みに表現されている。「一握の砂」には、ほかに不来方城を詠う次の二首がある。

 教室の窓より遁げて

 ただ一人

 かの城址に寝に行きしかな

          *

 城址の

 石に腰掛け

 禁制の木の実をひとり味ひしこと

邪馬台国はどこにあるか

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1989年2月22日を吉野ヶ里遺跡が発見された日としている

   長年の論争が徐々に明らかになりつつある。黒塚古墳、ホケノ山古墳、纏向古墳などの考古学的発見、池上曽根遺跡で発見された大型建物に使われたヒノキの柱根が年輪年代法で紀元前52年のものであることが推定され、弥生中期の大集落遺跡として注目された。そして箸墓古墳から出土した土器を放射性炭素年代測定法で調査したところ、この古墳の築造時期を240~260年とする調査結果が得られた。以前から言われてきたこの墓が卑弥呼か壱与の墓であるとする説がますます補強されることとなった。NHK「邪馬台国を掘る」では纏向遺跡周辺から出土した2765個の桃の種から中国道教との関係を指摘する。魏志倭人伝に記された鬼道を示す証拠とみている。

    かつては邪馬台国論争は考古学的遺跡や出土資料の上からは九州説が圧倒的に優勢であった。1989年2月22日、吉野ヶ里遺跡が発見された。朝日新聞も「吉野ヶ里の楼観から見れば邪馬台国がみえる」と報道した。数理文献学の安本美典は甘木市(現・朝倉市)を中心とした地域に邪馬台国があったと推定した。記紀が伝える神武東征は、邪馬台国の東遷を伝えるものであると主張した。もちろん高島忠平ら九州の学者は今でも九州説が多い。それは地域おこしや産業ビジネスとの関係もあるからだろう。いまも甘木・朝倉では「邪馬台国古代祭り」が行われ、パレードやミス卑弥呼コンテストなどが行われている。だが九州説を唱えた邪馬台国本がトンデモ本として叩き売りされる日は近い。

    邪馬台国九州説には宮崎康平、安本美典に限らず異色の研究者が多い。奥野正男もその一人だろう。炭鉱で働きながら小説を書いていた。1980年、「邪馬台国」創刊一周年記念論文で最優秀賞を受賞し、一躍九州説の旗手となった。現在、筑紫古代文化研究所代表となっているが、最近の動向は知らない。

ワシントンと桜の木

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  2月22日はアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの誕生日(1732年)。

  ジョージ・ワシントンは、叔父さんから斧を借りると、ためし切lりがしたくなった。そして庭にある一本の桜の木が目についた。「よし、あれを切ってみよう」と思いたった。

   父のオーガスチンが帰ってきて驚いた。「だれだ、あの桜の枝を切ったのは」そしてジョージに訊ねた。「お前だね。桜の枝を切ったのは」

   「はい、ぼくが切りました」とジョージは正直にいいました。「ジョージ、お前のしたことはたしかに悪い。切った木はもとにもどらないからね。でもねぇ、わたしはお前が正直にわびてくれたので、とてもうれしいよ。よし、許してあげよう」ジョージは「ほんとうに、ぼくが悪かったと思います。これからは気をつけます」と心から反省した。

   あまりにも有名なこの逸話は、後世の伝記作家の創作といわれている。

2012年2月21日 (火)

スイスの古城、サン・メール城館

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   レマン湖北岸、ローザンヌにある14世紀の城館サン・メール(St.Maire)。スイスの諸城の大部分が、市街を離れた険阻な岩山上や湖岸などに構築されている中で、本城は当初から旧市壁内の市街地に建設されているのも、スイスの古城中では例外といえる。司教執政官の城館として使用されてきたので、多分に城郭宮殿的な性格を持っていた。

仁徳陵の被葬者は仁徳天皇じゃないの!?

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 仁徳陵出土の埴輪女子頭部 宮内庁所蔵

    大阪府堺市にある日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵。百舌烏の地には仁徳、反正、履中の3天皇陵が存在する。これまで仁徳陵から出土した宮内庁が保管している埴輪などを検討すると履中陵より新しい可能性がでてきた。つまり考古学的な調査からいうと、履中陵→仁徳陵→反正陵の順で築造されたことになる。真実を明らかにするためには、古墳を調査すればよいのだが、宮内庁は認めていない。仁徳天皇陵から明治年間に出土した人物形埴輪の頭部は、島田髷に似た髪型をしているが、これらは5世紀後半に当る埴輪編年Ⅳ期の特徴を備えている。仁徳陵は5世紀中頃と思われ、履中陵と同時期とする説もある。現在、教科書などでは仁徳天皇陵という呼び名はせずに、大仙陵古墳としている。

スイスの歴史

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チューリッヒから30㎞東南にある町ラッペルスビル

  スイスは国土の半分以上が高度1000メートルを越す山地で、古くからヘルヴェティア族がいたが、カエサルの征服によってローマ帝国の属州となったのが紀元前1世紀のことである。5世紀の中頃ブルグント族がこの地方の西南部に侵入し、ややおくれてアラマン族が東部に入った。前者はすぐにキリスト教に改宗し、ラテン語を使いはじめたが、後者の改宗はおくれ、ゲルマン語をすてなかった。

    843年にヴェルダン条約でフランク王国が分裂したとき、スイスの東部は東フランク王国に、西部はロタール王国となり、888年にブルグント王国領となった。1033年以来スイスは神聖ローマ帝国領となったが、スイス諸州はかなりの自治を享受していた。しかるに、1273年にハプスブルク家のルードルフが皇帝になると、その支配は各州に強く及び、いわゆる原始3州などが同盟を結んで反抗した。シラーの描くヴィルヘルム=テルの伝説はこの時代を背景としている。農民軍は1315年ハプスブルク軍を破り、翌年皇帝は3州の特権を承認した。16世紀にはチューリヒでツヴィングリが宗教改革運動を起こした。彼の死後スイスの宗教改革はカルヴィンによってジュネーヴ市を中心として展開され、全世界に大きな影響を与えた。スイスが正式に神聖ローマ帝国から独立したのはウェストファリア条約(1648年)においてであった。そしてスイスが永世局外中立の地位をえたのは1815年のウイーン会議(条約)においてである。

スイスの古城ベッリンツォーナ三城

スイス南部ベッリンツォーナ Bellinzonaには13世紀から15世紀にかけて築城された、カステル・グランデ城、モンテベッロ城、サッソ・コルバロ城の3城郭がある。都市を守る城郭は一箇所が普通であるのに、同時に3箇所に設けられたというのは類例がない。国境地帯の要衝であったからであろう。

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 カステル・グランデ城

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 モンテベロ城

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 サッソ・コルバロ城

ほんとうに偉い人は誰れ?

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  この世には、国民栄誉賞、文化勲章、ノーベル賞など多数の賞という名のつくものが存在し、その偉大な功績に対して栄誉を与えている。あるいは、織田信長、アレキサンダー大王、ジュリアス・シーザー、シャルルマーニュ大帝、ジンギスカン、ナポレオンなど強力な支配者も現われ、歴史上の偉人を英雄と呼ぶかもしれない。ほんとうに偉い人は誰か?歴史家のH・G・ウェルズによると、人の偉大さは、「どんな発展性のあるものをあとに残すかによって、また他の人々が、その人の死後も新しい線に沿って絶えず精力的に思考するようになるかどうか」によって計られる。ウェルズの基準に従えば、イチローが今後、何本ヒットを打とうと、森光子が何回「放浪記」を上演しようが、「ご苦労さん」といえばいいことで、偉大さとは無関係なものであることになる。思い浮かぶ人がひとりいる。その人は、辺鄙な村で田舎の女性の子供として生まれた。育ったのは別の村で、30歳になるまでその村で指物師として働いた。その後、3年間は各地を巡って伝道をおこなった。本を書いたこともなく、公職に就いたこともない。家族をもうけたことも、家を持ったこともない。大学に通ったこともないし、大都市に行ったこともない。生れた場所から320キロ以上離れたところに旅行したこともない。世論の動きがその人に敵対するようになったとき、わずか33歳だった。友人たちは逃げ去った。その人は敵に引き渡された。形だけの裁判を受けた。そして、2人の強盗の間に立てられた杭に釘付けされた。死にかけていたとき、死刑執行人たちは、その人が地上で持っていた唯一の財産だった衣服のくじ引きをした。死んだときには、ある友人の哀れみにより、借りた墓の中に横たえられた。その人は今日人々が思うような偉いことは何一つ行っていないと言っていい。地位も財産も権力もない。しかし、その人は約2000年経ったいまも、その人の教えと、教えに調和した生き方によって、世界中の人々の生活に影響を与えてこられたのである。

梅の木にウグイス

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    われわれはウグイスは「ホケキョ」と鳴くように聞こえる。これは江戸時代に「法華経」と知っている言葉に置き換えたからだ。奈良・平安の頃は「ウウウクヒ」と聞こえた。鳥を示す接辞「ス」がついて「ウグイス」という名前が誕生した。

  鳥の鳴き声を、それと似た言葉で置き換えることを「聞き倣し」という。ホトトギスは「てっぺんかけたか、本尊たてたか」と聞こえた。いまは「特許許可局」である。「ブッポーソー(仏法僧)」と鳴くのはコノハズク。「一筆啓上仕り候」と鳴くのはホオジロ。鶏が「コケコッコー」と鳴くのは明治36年の尋常小学校読本にあるからで、それ以前は「カケロ」と聞こえたそうだ。(NHK2012.2.21放送「気になることば」)

民の竈から煙が見えない

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    天皇陛下が入院、手術も無事終了のニュースに国民が喜ぶ陰で無縁社会の悲惨な現実がある。札幌では姉妹2人が衰弱死していのが発見された。まだ40歳台である。電気・ガスは昨年末で止められている。埼玉では親子3人が餓死。部屋には飴玉と一円玉数個が発見されたが、冷蔵庫は空っぽだった。埼玉では7年前にも母子が餓死している。昨年、豊中では資産家の姉妹が餓死した。平成7年以降の餓死者が1084人と急増している。不況が続き、今後も餓死者は増える恐れがある。GKB国会論戦で印刷費数百万円の税金をムダにするより餓死者を救うことが大事だ。数年後、消費増税でさらに餓死は増加するだろう。豊葦原瑞穂の国、日本は豊かなのか、貧しいのか。悲しみが止まらない。

スイスの古城、シヨン城

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    レマン湖畔に建てられたシヨン城 Chillon は大変有名の城である。バイロンの詩とクールベの絵画によるところが大きい。発音は英語読みだとシロンだが、現地ではフランス語読みにしてシヨンと言っている。日本ではむかしはシオンと表記するものも多い。

   16世紀の修道士フランソワ・ボニヴァル Francois Bonivard(1496-1540)がサボイ伯によってこの城に4年間も幽閉された。その話を1816年にここを訪れたバイロンが「シヨン城の囚人」と題する詩を作った。すると、この詩が広く愛唱されて一躍シヨン城は有名になった。画家のクールベもこの城を描き、たいへんポピュラーな作品となり、多くの贋作が世にでるほど人気であった。クールベは1874年から1876年にかけて22点のシヨン城をテーマとした作品を残している。

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スイスの古城、バチアーツ城

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    レマン湖に注ぐローヌ川の屈折点に位置するマルティニーは、古代のケルト時代にはオクトドゥールスと呼ばれたた国境の町。断崖上に設けられたバチアーツ城 Batiazは、小規模ながらも本格的な城郭で、現在も遺構の中心にはベルクフリード(天守閣)にあたる巨大な円塔が聳立する。1518年にジョージ・スパーサコにより破壊され、現在は廃墟になっている。

「耳ざわりのよい」は誤用か?

    広辞苑に「耳ざわりのよい」は誤用とある。「耳障り」とは聞いて嫌な感じがすることであるから「よい」というのは矛盾するという説。では「耳触り」と「触」の字を使えばよいのかというと、やや苦しい。もともと「耳障り」は「~が良い」「~が悪い」というのではなく、「耳障りである」という使われ方をしてきた言葉で「手触り」「舌触り」「肌触り」とは別ものだということだそうだ。やはり日本語はむずかしや。

平清盛皇胤説

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 若一神社の清盛石像(京都市下京区)

  「尊卑分脈」の平氏系図には、清盛が忠盛の嫡男となっているが、母についての記載がないということは長い間の日本史の謎の一つであった。清盛が1118年に生まれたことは確かであり、忠盛には数人の妻がいた。それは「尊卑分脈」の系図に明らかであるが、少なくとも4人が確認されるし、その他にもまだいたと思われる。さて、「平家物語」には清盛の母はどのように伝えられているか。「平家物語」には種々の異本があり、大きく分類すると、①白河天皇の寵姫の祇園女御とするもの②祇園女御に仕えた中﨟女房③祇園女御と関係のない兵衛佐局の三つとなる。ところが「コンサイス日本人名辞典」では、母は祇園女御の妹とある。

    祇園女御とは、白河天皇の後宮にあった女性だが、姓氏は明らかでない。その祇園女御が、帝の胤を宿したまま、平忠盛のもとへ嫁ぎ、清盛が生まれた、と「今鏡」には説かれている。一般には明治時代まで清盛皇胤説が信じられていた。明治26年、星野恒は胡宮神社の古文書の中に、「仏舎利相承系図」を発見し、清盛の母は祇園女御の妹であることを説いた。この説が学界でも、ほとんど定説化し、清盛落胤説を裏付ける資料となっている。だが、清盛は生前、自分の実母について、何も口にしなかった。大河ドラマの清盛皇胤説は十分に根拠あることである。

霧笛が俺を呼んでいる

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    昭和30年代、日活はタフガイ石原裕次郎を筆頭に、マイトガイ小林旭、そして「第三の男」として赤木圭一郎(1939-1961)を売り出した。都会的な甘いマスクで憂いを感じさせた「トニー」はまたたくまに人気スターとなった。(愛称の由来は、西河克巳監督がトニー・カーティスに似ていると感じたことからきている) 赤木圭一郎は昭和36年2月21日、日活撮影所内でゴーカートの誤操作により事故死した。21歳の若さだった。

   赤木圭一郎の代表作のひとつ「霧笛が俺を呼んでいる」(山崎徳次郎監督、昭和35年)。すずらん丸のエンジンが故障して港に着いた航海士・杉敬一(赤木圭一郎)は旧友の浜崎(葉山良二)を訪ねる。が、杉は浜崎が2週間前に突堤で溺死体で発見されたことを知る。杉は浜崎の恋人美也子(芦川いづみ)とバンドホテルで会う。杉は森本刑事(西村晃)から浜崎が麻薬の売人だったと知らされる。実は浜崎は生きていた。浜崎は麻薬を持ち出し逃亡しようとする。それを知った渡辺(二本柳寛)一味は浜崎を殺そうとする。赤木は浜崎に自首をすすめる。しかし浜崎はビルの非常階段から転落死する。

   ストーリーは、もちろんキャロル・リードの名作「第三の男」そのままであるのはご愛嬌。アメリカ人の作家ホリーが赤木で、ハリー・ライムが葉山で、アンナが芦川であろう。石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」がハンフリー・ボガートの「カサブランカ」の翻案であるのと同様、映画ファンのお楽しみでもあるのだ。

    原作の「第三の男」に無い登場人物は難病の美少女。まだ少女の面影を残す吉永小百合が葉山良二の妹役で登場しているが、添え物的であり、ヒロインはやはり芦川いづみである。スカーフをした芦川の憂いに満ちた表情は美しい。霧の流れる波止場でのラストシーン。芦川が「これから私は北海道へ行きます。あなたはどこへいらっしゃるの」と聞くと、「そうさなぁ。なんだか霧笛が俺を呼んでいるような気がするぜ。霧笛にでも聞いてくれよ」という気障なセリフも、赤木圭一郎だからサマになる。赤木ほど「マドロス」が似合うスターはいない。実際に赤木は海への憧れやみがたく、当時の東京商船大学を受験している。失敗して成城大学に入学し、日活第4期ニューフェースとして入社。この映画が撮影された頃の東京は安保闘争で混乱していた。

    昭和35年6月15日、赤木(当時大学在学中だった)はスポーツカーを運転して日活撮影所に向かう途中、安保反対のデモ隊に遭遇した。赤木は撮影所のテレビでデモの様子を熱心に見つめていたと、共演者の西村晃は語る。そして赤木は西村に頼んで、9日後の樺美智子の追討デモに参加している。「こんな時に、ピストルごっこなんかやっていていいのかな?」と赤木は同じ大学生として感想を周囲にもらしたという。翌年、赤木圭一郎はゴーカートによる激突事故で21歳の短い生涯を閉じる。

   共演者の吉永小百合は後年、次のように語っている。「撮影所だけが私の世界だったのです。そこで好意を持ったり、初恋とも呼べる感情を抱かなかったと言えば、うそになります。でも、そこに踏み込んでいくほど積極的に恋愛を考えませんでしたし、忙しさの中で私はみたされていたのかも知れません」(「現代」1996.3)この15歳のスターレット吉永小百合の初恋の相手とは誰であろう。おそらくは、憧れのスター、赤木圭一郎ではないだろうか。

体育の四原則

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 施薬院解男体臓図 1798年

   体育の普及の手段としての内容は体操からスポーツを中心に移行し、近代スポーツは、オリンピック大会、アジア大会、ユニバーシアード大会、国体などの大きなスポーツ行事と、一般人の場合しリクレーションとしてのスポーツが急激に発達し、ややもすれば体育はむしろスポーツにおきかえられた感がある。ここにスポーツと体育の混同をきたした。医師や保健婦からも「あなたはスポーツはなにもしないのですか?」と聞かれる。「身体的な体操や運動は日常的にしていますが、競技としてのスポーツは何もしていません」というと、けげんな顔をされる。とくに日本の場合、明治の初期からフィジカル・トレーニングとしての体操と、競技としてのスポーツがほぼ同時に学校で取り入れられたため古くから混同されてきた。

  では体育とは何か。ここでは少しふるいが、アメリカにフィットネスの概念を導入した体育生理学者アーサー・スタインハウス(A.H.Steinhaus)の「体育の四原則」を紹介する。

1.人間尊重の原則

体育が教育であるためには人間尊重の原則を忘れてはならない。教育である手段では、特に身体的、精神的、道徳的のために相当のトレーニングを必要とする場合もあろうが、その手段としてはいろいろなスポーツが用いられる。しかし、それらスポーツ種目と人間が同価値のものではあり得ない。たとえば、コーチや学校を有名にするためそれを行なわせたとすれば、人間性は無視され教育の分野から除外される。

2.オーバー・ロードの原則

筋や呼吸循環機能は、現在能力をこえた、一般人が1日作業する強度をこえた負荷(刺激)を与えない限りそれ以上の発達はしない。

3.可逆性の原則

人間のからだはトレーニングを反復しなければ元に戻る。身体運動というストレスを長く与えると多くの組織器官はこれに対する適応力を与えられるが、これを中断して実行しなければ可逆的である。

4.integrationとintegrityの原則

全身の全機能を動員する能力、心身一体の行動をintegrationというが、この機能が社会から容認された理想に向かって、社会的因子、知的因子、情緒的因子が統合作用に権威と方向を与えるときintegrityである。体育はこの両面がなければならない。(参考文献:森脇勤「保健体育学概論」啓文社)

数字「9」の謎

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    1988年2月21日、東京都世田谷区鎌田の区立砧南中学校で午前1時ごろ、覆面をした5、6人の若い男が学校に乱入した。宿直の警備員をトイレに監禁し、校舎内の机447脚とイス9脚を校庭に運び、「9」の机文字を描き出したまま放置して逃走した。犯人は同中の卒業生を中心とした大学生たちで、9人が机文字をつくり、3時間で完成した。彼らは何んのために奇行に及んだのであろうか。「9」の数字の意味は、「9は一桁の数字では最大。宇宙人に対するアピールでもある。宇宙人から選ばれれば限りないパワーを持つことができる。宇宙人は絶対に存在する」などと語っている。本当のところは、ただ世間を騒がせたかっただけなのであろうが、彼らもいまでは40歳を過ぎたオッサンになっている頃だろう。

2012年2月20日 (月)

口語自由律短歌の未来

    57577の定型短歌ではなく、口語自由律短歌という現代語の自由な表現方法で「新短歌」とか「前衛短歌」と呼ばれるものが戦後多く生れた。最近も若い歌人が活躍しているらしい。ゼロ年代短歌と呼ぶ人もいる。2000年から2009年の間に発表された作品である。3首あげる。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょう
ぶちまけられてこれはのり弁 (斉藤斎藤)

ハロー夜 ハロー静かな霜柱
ハロー カップヌードルの海老たち (穂村弘)

3番線快速電車が通過します
理解できない人は下がって (中澤 系)

生き様

    「生き様」という言葉は、「生き方」やそのありさまをさし、近年、マスコミなどでよく使われる。国立国会図書館の蔵書検索で調べると、書名に「生きざま」が使用されるのは、1975年以降からで比較的新しい表現である。広辞苑では「自分の過ごして来たぶざまな生き方。転じて、人の生き方」とある。「ざま」にマイナスイメージが付着しているため、「死にざま」はぴったりするが、明らかなプラス評価とともに感動的に用いる「生き様」という用法には違和感を覚える。

日光東照宮御祭礼

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 日光東照宮参詣図屏風 江戸東京博物館蔵

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 東照宮御祭礼行列図 日光東照宮所蔵

    元和2年4月17日に逝去した徳川家康の遺骸は、遺言により駿河国久能山に埋葬されたが、一周忌にあたり日光山へ遷座される。これに合わせて秀忠が日光に参詣を行ったことが、日光社参の始まりである。以後将軍の日光参詣は、天保14年まで17回も行われた。

日本語語感の辞典

   「フランス」という通常の片仮名表記では特別の語感は生じないが、「仏蘭西」と書くと高級感が増す感じになる。「仏蘭西料理」という店の看板を見ると、値段が心配になって店の前で財布の中身を調べる。「ふらんす語」という看板を見ると、宿題を出さずに手を取って教えてくれそうな優しい雰囲気を感じ、スタンダールが読める段階まで進まないような気がする。これまで「意味」を調べる国語辞典は数多く出ているが、「語感」を探る手がかりとなる専門辞典は存在しなかった。2010年に岩波書店から刊行されたのが本書である。1170ページもの分量ながら中村明の個人執筆であることに敬服する。項目の説明は感というか思いつきのような記述もみられるが、楽しく読む辞典である。3000円とは岩波としては格安の値段である。

「小股の切れ上がった」すらりと脚の長い意の古めかしい和風の表現。「小股の切れ上がったいい女」の意味としては、特に下半身のすらりとした体型をさしているだけであるが、この古風な表現は伝統的に着物姿の小粋な婦人の形容に用いてきたため、「小股の切れ上がった長身の美男力士」などと男性の形容に用いるわけにいかない雰囲気がある。また、レビューガールや女子バレー選手について用いると、和服姿でないという点でやはり違和感が残る。ことばの意味というよりも、何に対して用いてきたかという表現対象の在り方に関する履歴上の違和感に近い。ことばの伝統的な使用がいわば照り返しとなって規制が働く一例である。(引用「語感の辞典」380p)

梅寄生(ばいきせい)

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漢方薬。サルノコシカケ。腫瘍や心臓病の治療に用いられる。

なぜアメリカの偉大なミュージシャンは早世なのか?

   ホイットニー・ヒューストン(48歳)の早すぎる死は全世界に衝撃を与えた。過去にもビリー・ホリディ(44歳)、ジミー・ヘンドリックス(27歳)、ジャニス・ジョプリン(27歳)、エルヴィス・プレスリー(42歳)、マイケル・ジャクソン(50歳)など50歳以下で亡くなっているが、アメリカの薬物依存の恐ろしさを物語っている。古くは1938年、ロバート・ジョンソンは僅か27歳だった。彼の死因については不明である。ジョンソンは、ミシシッピ州クラークスデールズの十字路でブルースのテクニックのため悪魔に魂を売り渡したという伝説がある。

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阪神間に遣るヴォーリズ建築

    明治38年、アメリカから来日したウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)は英語教師、宣教師、実業家(メンソレータム)、ハモンドオルガンの普及など多方面に活躍した。なかでも建築家として今日広く知られる。日本各地に設計した個人住宅は400棟余りといわれる。また教会、ミッションスクールの建物など関西に多く現存する。

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 関西学院大学

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 神戸女学院講堂

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 神戸女学院ソールチャペル

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 旧ユニオン教会(神戸市中央区)

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 高碕記念館(宝塚市雲雀丘)

ハンガリーの切手から世界史が見える

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    切手の図案は念入りにデザインされるもの。しかし、日本を描いた外国切手にはおかしなものもある。ハンガリーが1960年12月に発行した「世界の童話切手」のうち1枚にmomotaro(モモタロウ)という切手がある。われわれが知っている「桃太郎」は、桃から生れた桃太郎が、犬・猿・雉を連れて鬼ヶ島の鬼を退治するという話だ。ところが、ハンガリーの切手の図案にはそうした情景が描かれていない。中央に描かれているのは芸者、あるいは花魁ふうの若い女性である。女性の手の上に乗っている小人が、生れたばかりの桃太郎であるとすれば、服を着ているのは不自然であるし、なにより、桃太郎が入っていた桃がどこにも見当たらない。おじいさんの姿も見当たらない。この図案は「お椀の船」こそないが、一寸法師の話を図案化したものに近い。つまりデザイナーは桃太郎と一寸法師の話を混同したのではないだろうか。東西冷戦下の1960年、東側陣営のハンガリーがなぜ日本に関心を寄せたのだろうか?日本の安保闘争を反米運動として捉え、日本に親近感を抱いてという説もある。1940年に日・独・伊三国同盟に加わり、敗戦国になったということもあるだろう。しかし、根本にハンガリー人は自分たちのことをマジャル人と呼び、アジア民族であることを忘れていないのが日本に好意的な理由の一つだろう。

世界史人名は何人くらい知っていればいいのか?

   膨大な世界各国の歴史上の人名をおよそ何人くらい知っていればいいのだろうか?1000人以上知っていれば一般常識人であろうか。山川出版社の「世界史人名辞典」は1,914名が収録されている。中国史でいえば、酈道元、魏忠賢、黎元洪など難しい名前も含まれている。では人名事典として2,000人あれば十分かというと、実際に使ってみると、いささか少なくて頼りない。たとえば漢の財務家、桑弘羊が採録されていない。塩鉄の専売について、存廃論議を集めた「塩鉄論」で有名である。数研出版の「世界史辞典」や創元社の「東洋史辞典」には採録されているだけに検討してもらいたい。

   龔自珍(1792-1841)も収録されていない。号を定庵という。「清末末の変革的思想は定庵より筆を起こす」といわれるほどである。ちなみに「コンサイス日本人名事典」は約14,000名が収録されているので、世界史においてもそれくらいの規模が望まれる。

    たとえばナポレオン・ボナパルトの母レティツィアは13人の子を産んでいる。男5人女3人が成人した。長男はジョゼフ、次男がナポレオン、三男がリュシアン、四男がルイ、五男がジェロームといった面々である。彼らが収録された事典はみかけたことがない。

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    ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルト(1768-1844)は76歳まで生きている。

曲亭馬琴と路(みち)

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 鏑木清方「曲亭馬琴」 明治40年

  滝沢馬琴(1767-1848)は、明和4年、父・滝沢興義、母・吉尾門左衛門の娘お門の五男として、江戸深川に生まれた。安永5年から天明7年の間、はじめ松平、次に戸田、水谷、小笠原、有馬の各家に仕えたが持前の傲慢な性格と不遜な野望が禍をして、いずれも短期で仕を辞している。寛政元年頃、亀田鵬斎に入門、石川五老から狂歌を学ぶ。翌年山東京伝を訪ねて知遇を得、京伝から貰った大栄山人の号で「用尽二分狂言」を刊行したのが戯作生活のはじめで、旺盛な創作活動が開始された。

  「南総里見八犬伝」(1814-1842)の第1輯が刊行されたのは、馬琴が48歳の時で、最後の第9輯帙下の下編の刊行を見たときは、馬琴は78歳に達していた。つまり八犬伝は28年という長年月を費やされて完成されたものであった。

   天保4年の秋のある朝のことである。67歳の馬琴は右目が見えなくなっていることに気づいた。長年の執筆の疲労が表れたのである。それでも左目がみえるので、苦にすることもなく書き続けていると、天保9年からは左目もかすみだし、11年の夏になるとまったく朦朧たる状態になり、原稿も手探りで書くようになった。八犬伝の完成のため、息子の宗伯(天保6年死亡)の嫁お路に口述筆記させることで完成しようとした。ところが、お路は無筆に近く、まず字の書きようから教えねばならない。八犬伝は、普通の読本以上に難字僻句が多用されているから、これを教わるお路の苦労は並大抵のものではない。ついには辛さのあまり泣き出すほどである。その内にはお路も仕事になれて、八犬伝の名前くらいは空で書けるようになり、進度もはかどるようになった。最後の巻が天保13年の正月に刊行された。すべて106巻、180回より成る、日本で最も長い小説、いな、世界でも有数の長編小説である。八犬伝の完成のうらには、一人の寡婦の血のにじむような苦闘があったのである。(参考:「南総里見八犬伝」日本の古典16、世界文化社)

聖徳太子の謎

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 江戸時代の幽竹法眼が描く「聖徳太子・ニ王子像」1763年

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 唐本御影

    日本の古代史上に輝かしい足跡を残した聖徳太子(574-622)は、日本人にとって最もなじみの深い人物で、広く崇敬を集める偉人である。だが「日本書紀」に現れる厩戸皇子は謎の人物である。たとえば、生れてすぐ口がきけたとか、十人の訴えを一度に聞いた、とか。ここでは、伝説には眼をつぶって彼の歴史上の業績をみてみよう。崇峻天皇が殺されて、聖徳太子の叔母推古天皇が即位するが、太子はその摂政となり、603年12月、冠位十二階を制定し、翌年4月には十七条の憲法をつくったと「日本書紀」には記されている。当時の飛鳥王朝は蘇我馬子(?-626)が実力者であり、大家(おおとじ)・推古と叔父馬子の共同統治であった。若干20歳の厩戸が政治に関与できるところはきわめてすくなかったのではないだろうか。有名な十七条憲法も外部に発表されてものであるのか明らかではない。またその用語の研究から、太子の作ではなく、太子信仰が昂まった時点の僧侶の偽作とする説もある。太子の宮殿斑鳩宮は643年、蘇我入鹿の襲撃によって焼き払らわれ、一族子弟は全滅したので、十七条憲法の記録だけが残って「日本書紀」に転載されたのはいかにも不自然である。十七条憲法は後世の偽作とみるのが自然であろう。唐本御影の聖徳太子像。2人の王子は、右前方(向って左)が弟の殖栗皇子、左後方(向って右)が息子の山背大兄王とされる。聖徳太子の同母弟の殖栗皇子が子どものように描かれるのは不自然である。

志賀直哉と石巻

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 幼稚園ころの志賀直哉

  羽黒山北麓と、蛇行して南流する北上川とに囲まれた平野に立地する石巻村住吉町(現・石巻市)で、明治16年2月20日、志賀直哉(1883-1971)は生まれた。兄の直行は、前年、満2年8ヶ月で早世。父直温は第一銀行石巻支店員としてこの地に在勤中で31歳、母銀は元勢州亀山藩の家臣佐本源吾の4女で21歳であった。2年後には一家は東京麹町内幸町へ移転しているので、幼い志賀直哉には石巻の記憶はないが、志賀は生涯に3度も石巻を訪れている。

    明治政府は石巻と小倉を日本の2大要衝視し、明治4年4月に東山道鎮台本営を設置したが、同年11月仙台に移された。昭和10年代には鰹の水揚げ全国一になっている。平成23年、東北大震災での石巻の被害は甚大で、死亡者数3014人、行方不明者2770人、避難者数7632人。(平成23年5月20日)。

廃城後も経済発展した岐阜城

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  濃尾平野の北端、岐阜市街地の北東部に屹立する金華山に築かれた山城。13世紀の鎌倉時代、二階堂行政(ゆきまさ)がここにはじめて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏の守護代・斎藤利永(生年不詳ー1460)が修築して居城としたとされるが、この山城が美濃を制する軍事的・行政的な名城・稲葉山城へと飛躍するのは、16世紀半ば、急速に台頭した斎藤道三によってである。

   ところが斎藤道三は、稲葉山城を譲った長男の義龍(よしたつ)に討たれ、義龍の子の龍興(たつおき)が城主のとき、尾張の織田信長によって落城する。(1567年)

   織田信長は、山上・山麓に本格的な城を築き、城下町を造って、あらたに岐阜と命名した。中国周の文王が岐山(ぎざん)に興って天下平定をなしとげたという故事に基づく。阜は丘の意。「美濃を制するものは天下を制する」といわれた念願の美濃を手中に収めた信長は「武をもって天下を治める」(天下布武)ことを決意する。岐阜は信長の城下町として繁栄した。しかし、信長の死後、家康は岐阜城を廃し、その南に加納城を築いた。しかし、岐阜の街は、廃城後も経済発展を遂げた。

長すぎる書名

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    映画には、スタンリー・キューブリック監督、ピーター・セラーズ主演で、1963年制作された、「博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」というやたら長い題名のものがあった。

    書物の世界でいちばん長い題名のものは正確にはわからない。一説では17世紀のベストセラーで、「古代および現代の哲学者、自然の秘密、また算術、幾何学、宇宙形状学、時計学、天文学、航海術、音楽、光学、建築、統計学、力学、化学、噴水、花火等の実験により抽出された、現在までに一般には明らかにされていない数学の娯楽および雑多な問題集、大部分の原典はギリシャ語およびラテン語で書かれ、近年フランス語でヘンリー・ヴェン・エッテン・ゲントにより編纂され、そして現在、検証、訂正、付録を加えて英語版で登場」というものである。(野口悠紀雄「超勉強法」)

   日本語文献では、「クレーム・パワハラ・理不尽な要求を必ず黙らせる切り返し話術55の鉄則」神岡真司 TAC出版 2010年刊行、がある。(33文字)

「日本映画のほんとうの面白さをご存知ですか?」白井佳夫 講談社 1981年刊行(20文字)

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ウェーバー 岩波文庫(21文字)

「分ければ見つかる知っている漢字白川静先生に学んで漢字の学習システムをつくる宮下久夫遺稿集」 宮下久夫 太郎次郎社(43文字)

とっぽい奴

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「悪名」 八尾の朝吉とモートルの貞

  「とっぽい奴」という表現はヤクザ映画などでしばしば使われる。よく耳にする形容詞ではあるが、時代や前後の文脈により、さまざまな使われ方をする言葉だ。もともと明治時代には「ずる賢い」「抜け目がない」という意味であったが、昭和に入ると「気障で不良じみた人」「生意気」などという意味も加わってきた。そのためヤクザ風の若い男に対して使われることが多い。広辞苑には「気障で生意気である」とある。だが戦後、「いかす」「イケてる」などと比較的近いニュアンスを持つ言葉が流行したことで、「とっぽい」の意味に変化が生ずるようになる。1970年代の吉田拓郎の「とっぽい男のバラード」に見られるように「何をやってもダメな奴」というイメージで歌われている。歌詞には「何をやってもダメなうすのろだけの男、好きな女がいても他の男にとられて、とっぽくてとりえのない男」とある。

    つまり現在では「ずる賢い、抜け目がない、ちゃっかりしている」という本来の意味から、正反対の「間が抜けている、ダメな人」という意味へと移行しつつある言葉ではないだろうか。自分中心のナルシストという意味も含まれる。

    同様に「とっぽい娘」も昭和の初めには「気障」「ちゃっかりしている」からモダン・ガールなどのような近代的、都会的なタイプの女性を指したようだが、戦後になると「田舎出のとっぽい娘」という矛盾した表現もみられるようになる。つまり「とっぽい」はテキ屋の世界では、「抜け目のない」という意味だったが、時代とともに「間抜け」の意味で使われることのほうが多いようになっている。

  個人的には「とっぽい」というイメージは、何をやってもダメな奴というよりは、イキでちゃっかりしている現代的なヤクザ風の男をイメージする。つまり映画「悪名」(田中徳三監督)で田宮二郎が演じたモートルの貞のようなアンちゃんである。ちなみにモートルとはモーターのことだが、博打を意味する符丁だそうだ。

こんな言葉、いままで知らなかった。知らないのは私だけなのか・・・

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  人生長く生きていても、日本人永くやってても、こんな言葉知らなかったという発見は日々あるものです。朝昼晩と辞書を引きましょう。

「琴柱に膠す」(ことじに にかわす)。

琴柱とは弦を支えて音の調節するのに用いる具。琴柱をニカワで固定すれば、調子を変化させることができないことから、融通の利かないことをたとえていう。

2012年2月19日 (日)

オランダ歴史さんぽ

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   Graf Egmont (1522-1568)

  オランダは王国である。ベアトリクス女王の次男ヨハン・フリーゾ王子が訪問先のオーストリアでスキー中に雪崩に巻き込まれて重体となっているそうだ。オランダで思い浮かべるものは何んだろう。チューリップ、レンブラント、ゴッホ、そしてシーボルト(実はドイツ人)。オランダの独立運動といえば、すぐゲーテの悲劇の主人公エグモント伯(1522-68)を思いだす人もいるだろうか。ゲーテはエグモントをその詩想のおもむくままにはばたかせているが、もちろんエグモントより現実のエグモントの方がもっと悲劇的であったといわれるほどである。しかも独立を彩るのは、この「自由のために生きてたたかい、自由のために死んだ」エグモント伯だけではない。自由の詩人シラーをしてその史筆をとらしめ、イエナ大学の歴史学講師の口を得さしめる機縁となったのも、この独立戦争であった。オランダの独立は、ヨーロッパの人たちにとって自由のための一つの実験・史劇であった。それは、その後につづくいくたの市民革命の第一ののろしであったといえよう。ネーデルランド諸州の人たちの反抗は信仰の自由・諸州の自由・経済上の自由を目標とするものであった。

   スペインの専制政治に対する反抗は、ドイツのナッソウ家のオラニエ公ウィレムやエグモント伯、ホルン伯らの大貴族を中心として南ネーデルランドで開始され、次第に北ネーデルランドの中小貴族・商人をも闘争にまきこんでいった。このようにして1566年末ごろから主導権は貴族の手から市民に移った。スペインはこの運動に圧力を加えたが、ウィレムを指導者とした民衆の抵抗もますます激しくなり、闘争は独立戦争の様相を呈することとなった。この運動に加わった人たちはゴイセン(乞食)名づけられたが、それは運動の初期にスペインの宗教裁判所に反対してスペインの総督に請願状を出したネーデルランドの貴族の同盟に侮蔑的につけられた名である。北部7州(オランダという名はホラント州からくる)は1579年ユトレヒト同盟を結び、オラニエ公ウィレム1世を盟主に独立を宣言、1581年ネーデルランド連邦共和国を結成、1588年スペインの無敵艦隊がイギリス海軍に大敗し、スペインは衰退し、1609年にオランダとスペインとの休戦条約が成立して事実上の独立国となった。(参考:長谷川博隆「ベネルックスの歴史」世界文化シリーズ6)

切手になった映画スター

  「犯罪警報」コロンボが殺人犯ジョージ・ハミルトンに聞く。「郵便切手になった最初の映画スターは誰?」答えはグレース・ケリー。1956年、レーニエ3世と結婚したとき、モナコ政府が発行した。現在、ジェームズ・ディーン、ハンフリー・ボガート、ジョン・ウェイン、オードリー、ヘップバーン、クリント・イーストウッドなど多くスター切手が発行されている。とくに多いのがチャップリンとモンロー。全世界で100種類以上ある。

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モンローとケネディがアベックの切手は珍品。サントメ・プリンシペという国は西アフリカのギニア湾に浮かぶ島国

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  中央アフリカ(2003)

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     モンゴル          トルクメスタン

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村の花嫁

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「村の花嫁」 ジャン・バティスト・グルーズ 1761年 ルーヴル美術館

    画面左側に娘との別れを悲しむ母親や妹。右側に花婿に持参金を手渡す椅子に腰掛けた娘の父親。先に結婚をする妹に対して嫉妬心を抱く姉の姿などが描かれている。物語性を感じさせる風俗表現は当時、批評家から高い評価が与えられた。

璋子(たまこ)と得子(なりこ)

    大河ドラマ「平清盛」。目下、朝廷での主役は鳥羽上皇の皇后・中宮、璋子と得子。藤原璋子は藤原公実の娘で崇徳、後白河天皇の母。院号は待賢門院。得子は藤原長実の娘で1139年に皇子躰仁(なりひと)を生む。近衛天皇である。だが1155年に近衛天皇が若くして没したとき、得子はこれを崇徳上皇と藤原頼長の呪詛として、上皇の皇子重仁親王を退けて、後白河天皇を即位させた。これが保元の乱の原因となる。

    ところでドラマでは璋子を「たまこ」、得子を「なりこ」と呼んでいる。竹内理三の「武士の登場」(中公・日本の歴史6)では「しょうし」「とくし」とルビがある。最近の研究成果なのだろうか?。

カルマル城

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    スウェーデンの南部、イョーランド島の対岸にカルマルの港町がある。バイキング時代から、彼らにとって屈強な根拠地とされた。歴史上に有名なのは「カルマル同盟」で、当時デンマークの女王マルグレーテ1世(1397-1412)はノルウェー王を兼ねていたが、この条約によってスウェーデン王も兼ね、デンマークの三国統一支配が完成した。

    カルマル城の創建は12世紀末、クヌート・エリクソン(1167-1196)の時代と考えられる。13世紀末にマグヌス・ラドゥロース(在位1275-1290)によってカルマル城の整備がなされたが完成をみることなく、14世紀初まで続いた。1397年のカルマル同盟によって長くデンマークの支配下にあったが、1632年グスタフ・アドルフはリュッツェンの戦いに勝利する。やがてストックホルムの王城が整備すると、カルマル城は廃れ、グスタフ3世(在位1771-1792)のときには、造酒工場に転用され、その後も穀物庫や監獄として用いられたりした。

ウィンザー城

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 ウィンザー城

    ロンドンを訪れた人が郊外まで出かけるとき、必ず立ち寄るといわれる観光地ウィンザー。ウィンザー城(Windsor Castle) はロンドンの西方36㎞に位置し、テムズ河に臨む閑静な地。1066年、ウィリアム1世によって創建されたといわれる。ノルマン王朝、プランタジネット王朝などの諸王たち、エドワード3世(在位1327-1377)、ヘンリ4世(在位1399-1413)などこの城で生れている。このようにウィンザー城は中世から近世に至る850年間の長い間、イングランド王家の重要な城郭宮殿であった。19世紀ヴィクトリア女王のとき、バッキンガム宮殿を王宮と定めてからは、ウィンザー城は離宮となり、現在に至っている。

ローマ帝国と邪馬台国

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カラカラは弟ゲタを殺害したのち、彼の肖像画の顔を塗りつぶさせた

   テオドシウス帝の死後まで約400年続いたローマ帝国と邪馬台国とでは歴史上の比較にならないが、セプティミウス・セウェルスの妻ユリア・ドムナ(170-217)と卑弥呼(170-248)とがほぼ同時代生きて、かつ女性でありながら帝国の最高権力者であったという共通すべき点がみられる。またユリアはシリアの太陽神エル・ガバルの祭祀の家系で、鬼道に仕えたシャーマン卑弥呼と共通している。

    ユリアには2人の息子がいた。夫の死後、息子のマルクス・アントニヌス(愛用した上着の名称をとってカラカラと呼ばれた)とゲタが共同皇帝として即位した。2人はたえず反目しあい、それぞれローマの多数の取り巻きを集めたが、最終的にカラカラが勝利を収めた。即位してわずか数ヶ月後に、ゲタを殺害させたのである。カラカラ帝の名は、大浴場の遺跡によって、今日一般には有名であるが、歴史的に重要なのは、この弟を殺した翌年に彼が発布したカラカラ勅令である。この勅令は、ローマ帝国に住む全ての自由人にローマ市民権を与えることを宣言したものである。それはカラカラ帝がアフリカ人とシリア人の混血だったということと大きく関係している。

Img_1432168_60581749_0_2 カラカラ

オランダの古城

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 マイデン城

    マイデン城(Muiden slot)はアムステルダムの東方10㎞余に位置する、おとぎ話にでてくるような美しい古城がマイデン城である。1280年にフローリス5世により建造されたが、彼が1296年に城中で殺害されたあと、主を失った城は放置されて廃墟化された。これを14世紀後半に再建された。1609年に城主となったピーター・ホーフトは芸術家や音楽家を集めて文芸サロンを開いた。現在、一部を博物館として公開している。

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 ヘルモント城

    オランダ南部にあるヘルモント城(Chateau Helmond)は1402年に建造された。城の周囲は水濠で囲まれている。

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 聖ウデンロード城

    聖ウデンロード城はオランダ南部スヘルトへーンボス近郊にあり、近世に改築されて図書館になっている。

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    ライデン城(De Burcht te Leiden)の創建は10世紀まで遡る古城であるが、現在の城郭が構築されたのは1150年である。城は小丘上の頂部に環状城壁を廻らして、その一箇所に通路を設ける。

弓削道鏡の虚像と実像

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  関西大学名誉教授横田健一先生が2月6日、ご逝去された。心より哀悼の意を表すとともに謹んで先生のご冥福をお祈りしたい。著書「道鏡」(人物叢書)の「はしがき」に、次のように記されている。

   道鏡の伝記には、小説めいたおもしろさがある。とくに後代にできたて俗説は、おもしろすぎるくらいである。もし人が、この書物に、そうした興味を期待してよまれたならば、おそらく失望されることだろう

    横田先生が道鏡研究に手をそめたのは、新村出、西田直二郎らの推挙があったからだそうで、昭和18年頃のことである。ちなみに作家の坂口安吾は昭和22年に道鏡を小説にしている。当然、横田先生も読まれたであろうことは想像に難くない。だが坂口安吾の小説を読むと、坂口が建部綾足の「本朝水滸伝」を読んで書いたような形跡はない。坂口の小説では、藤原百川が阿曽麻呂を使って道鏡を追討しようとしたとある。道鏡と女帝とは純愛関係であり、和気清麻呂も阿曽麻呂もぐるで、道鏡をおとすワナだというのだ。しかし、一見珍説に思えるような話は、すでに歴史家の喜田貞吉が「道鏡皇胤論」(大正10年)を発表し、その後、学界では、阿曽麻呂も和気清麻呂も、その手先につかわれたにすぎないという説は戦前かなり有力な説であったという。横田先生は戦後、実証的な研究により、戦前の説を否定し、本書を書かれたのである。半世紀以上経ったが、現在でも横田先生のものが道鏡研究の基本となっているようだ。

  要するに、道鏡の人物評価については、江戸の読本作家、明治の歴史家、昭和のデカダン作家、戦後の実証的歴史家、虚像と実像が混沌として決定打がないように思う。ケペルは道鏡悪玉論や巨根伝説には後代の創作であるという疑念を抱くようになっている。

道鏡関係文献目録

図書
弓削道鏡伝 松本幹雄 大同館書店 昭和8年
法師道鏡 上田正二郎 冨山房 昭和25年
人物新日本史 1 上代編 滝川政次郎 明治書院 昭和28年
道鏡 横田健一 吉川弘文館 昭和34年
論文
僧道鏡 久米邦武 史海12  明治25年
道鏡の艶聞 鼎軒 史海13  明治25年
僧道鏡の墳墓に就て 森本樵作 下野史談2-4 大正14
孝謙天皇 田口卯吉 史海8、9
光仁天皇 田口卯吉 史海10
僧道鏡 久米武夫 史海12
田口氏に答ふ 久米邦武 史海13  明治25年
道鏡皇胤論 喜田貞吉 史林6-4  大正10年
道鏡皇胤論 喜田貞吉 禅宗351-353  大正13年
道鏡皇胤論に就て 喜田貞吉 宗教と思想2-8  大正13年
道鏡皇胤論について 喜田貞吉 斎東史論
習宜阿曽麻呂の冤柱 喜田貞吉 歴史地理8-3
武将伝説と僧侶伝説1 弓削道鏡と冠石 田中勝男 上方116 昭和15
道鏡をめぐる諸問題 日本古代政治史のための断章 北山茂夫 立命館法学4-5  昭和28
清麻呂と道鏡 幸田露伴 朝日評論4-4 昭和24
弓削道鏡 滝川政次郎 新潮50-4  昭和28
道鏡伝考 横田健一 関西大学文学論集1-2、2-2 昭和27,28年
道鏡 門脇貞二 日本歴史講座2
道鏡事件の政治史的考察 古代天皇制の一性格 福富文哉 北陸史学5 昭和31
道鏡私考 堀池春峰 芸林8-5  昭和32
道鏡政権下の僧位について 舟ヶ崎正孝 歴史研究4 昭和41
道鏡政権の歴史的評価 天平神護元年三月五日の勅をめぐって 江川潔 史流2 昭和34
道鏡天位託宣の社会的背景 中野幡能 大分県立芸術短大研究紀要1 昭和37

読書量が減った

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    平成になってから国民全体の読書量はたしかに減ったと感じる。おそらくこれはインターネットの普及と関連するだろう。たしかにネットは調べるには便利な道具だ。ただこれによって、容易に情報が入手できるため、人は面倒で苦痛をともなう本をじっくりと読むという時間は少なくなってきた。雑誌やマンガの軽読書はしても、専門書を読破するという作業は減った。研究者もパソコンに向かう時間は増えても、読書時間そのものは減っている。これは明らかに知性の低下現象である。新刊書店の本をみても、わかりやすく書いた入門的な本、中身のないスカスカの本がよく売れている。

ベルギー歴史さんぽ

    ベルギーといえば何が思い浮かべるだろうか。小便小僧、名探偵ポアロの好物チョコレート。歴史好きの人ならアントワープ城、フランドル伯城(ゲント)、ディナン城(アルデンヌ)、ベールセル城(ブリュッセル郊外)、ガースペーク(ブリュッセル郊外)など。文学愛好家なら2人の象徴詩人の名前を思い出すだろう。メーテルリンクとベルファーレン。メーテルリンクの神秘性、ベルファーレンの土に根ざしたヒューマニズム。土くささと神秘性、それに加えるに軽快さ、こういったもののミックスされた味がベルギーではなのではないか。そのベルギーの歴史とは、一言でいえばフラマン系(:ゲルマン系でオランダ語を話す)とワロン系(ラテン系でフランス語を話す)との二つの民族の対立をはらみながらも、恵まれた工業資源によりいちはやく工業化を達成してヨーロッパの工業国となる過程であり、またそれらが彼らの歴史にさまざまのひずみを残しているといえよう。

   17世紀にオランダが独立したのち、今のベルギーの地は分離してスペインの手に残った。ところがスペイン継承戦争の結果、この地方はオーストリアのハプスブルグ家にうつり、またオーストリア領となった。しかもフランス革命のときには二度も革命軍に占領されている。1798年から99年に農民暴動が起こったが弾圧された。一方ナポレオン時代には各地に近代産業の萌芽がみられる。

    1815年、ウィーン会議によってネーデルランド王国(1581年に成立したネーデルランド連邦共和国の復活)が生まれるや、ベルギーはオランダに併合されてその一部となり、オラニエ家のウィレム1世が国王となった。しかし、オランダとは民族・言語・宗教および経済的利害を異にしていた上に、政府はオランダ側に代表していたため、ベルギー人は離反、独立のチャンスをねらっていた。1830年、フランスに七月革命が起こると、8月に南部が暴動を起こし、オランダ兵を撃退して10月に独立を宣言した。1831年に列国はその独立を承認し、さらに1839年のロンドン条約でベルギー・オランダ両国は永世中立国の地位を与えられた。なお1831年に制定された憲法は、フランス憲法を範として、国民主権主義をうたい国民の権利の保障も進歩的で、19世紀のヨーロッパ大陸型憲法の典型といわれる。同年に即位したレオポルド1世(位1831-65)はフランスとの友好関係を確立し、オランダとの民族的対立をはらみながらも、石炭をはじめとする豊富な国内の地下資源とコンゴの鉱山資源はベルギー工業を飛躍的に発展させた。(参考:長谷川博隆「ベネルックスの歴史」世界文化シリーズ 世界文化社)

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 ディナン城

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 フランドル伯城

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 ベールセルの水城

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 アントワープ城

鼻系の人々

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    顔のパーツで鼻は重要である。中央に位置するため巨大な鼻の存在は決定的な印象を与える。手塚治虫の漫画に登場する人物には猿田はじめ、お茶の水博士など巨大な鼻の持ち主が多い。外国俳優ではカール・マルデン(「欲望という名の電車」1951年)、ジェラール・ドパルデュー(「シラノ・ド・ベルジュラック」1990年)であろうか。

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   かつて日本では高い鼻は美人の一要素だった。轟夕起子、原節子、山本富士子、鰐淵晴子・・・。しかし近年は凹凸のある顔よりも、平板な顔が好まれる傾向にある。平べったい顔が好まれるようになったのは山口百恵の影響があるかもしれない。

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鼻がシンボルの原節子

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 平べったい顔立ちの上戸彩

熊本城天守閣炎上の謎

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 熊本城激戦図錦絵(部分)

    天下の三名城の一つにうたわれた熊本城は加藤清正の築城、慶長12年(1607年)以来270年、戦場となることは一度もなかった。ところが日本最後の内戦である西南戦争において、熊本鎮台が薩摩軍の精鋭を迎え撃つ壮絶な攻防戦が明治10年2月22日から繰り広げられた。

   薩摩軍四番大隊長・桐野利秋(1838-1877)は手にした杖のかわりの竹をひと振りし、「熊本城は、これをひと振りすれば一気にも陥ちもす」と豪語した。桐野利秋、池上四郎らは正面軍を指揮して攻撃したが、熊本城の守りは固かった。熊本鎮台司令長官・谷干城(1837-1911)は樺山資紀を参謀として鎮台をよくまとめ、薩軍と交戦し、籠城すること50余日が過ぎても陥落することはなかった。

   この西南戦争熊本城攻防戦での最大の謎は天守閣の炎上であろう。話はさかのぼるが、いよいよ薩摩軍総攻撃の3日前、すなわち明治10年2月19日、午前11時40分、本丸二の天守付近から原因不明の出火により天守閣と本丸御殿一帯は全焼した。出火原因としては①台所からの失火説、②薩軍の放火説、③鎮台自ら火をつけたとする自焼説、がある。食糧として蓄えられていた米1251表が焼け跡から出てこなかったことなどから、③の自焼説が有力である。つまり、熊本鎮台司令長官・谷干城が児玉源太郎(1852-1906)に命じて放火させたともいわれている。天守閣が復元されたのは昭和35年のことであった。

2012年2月18日 (土)

セプティミウス・セウェルスとカラカラ

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「セプティミウス・セウェルスとカラカラ」 ジャン・バティスト・グルーズ 1769年

   NHKスペシャル「異端の王 悠久の古代文明紀行」。古代の2人の異端の王を取り上げる。一人目は、クシュ王国のピイ(Piy,Piankhy)。エジプトを征服した最初のヌビア人であり、第25王朝(前728-前658)の基礎を築いた。王名表をしめす。

ピイ(ビアンキ) 前728-前716
シャバコ(ネフェルカラー) 前716-前702
シャピトゥコ(ジェドカウラー) 前702-前690
タハルコ(クネフェルテムラー) 前690-前664
タヌタマニ(バカラー)  前664-前656

    黒人のファラオが5代続いた。アメン神、オペト祭、ピラミッドなどエジプトの伝統を守った。スーダンにある遺跡ゲベル・バルカル(聖なる丘)は世界遺産に登録されている。

   2番目はアフリカ出身のローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193-211)。レプティス・マグナ(リビアのトリポリ東130㎞)に生れる。食糧の確保、強力な軍隊を整備し帝国の衰退を防いだ名君。211年、セウェルスは属州ブリタニアのエボラクムで病没。息子のカラカラは弟ゲタを殺して単独の君主となるが、セウェルス朝は断絶する。

    NHKスペシャル番組の予告。大英博物館の地下室の収蔵庫に眠る遺物が歴史の謎を解く鍵となる。近年、世界各地で発掘される新発見。トルコ南部のギョベックリ・テペ遺跡で狩猟採集民が築いたとみられる1万1600万年前の神殿跡で世界史の定説を覆すような新発見とは?殷王朝以前の古代王朝の謎に迫る。2012年秋放送。

ウェストミンスター大聖堂

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身廊の高さが34mもあり、イギリス国内の聖堂では最も高い

  ウェストミンスター・アベィは、アベィ(Abbey)とあるように本来、7世紀にさかのぼる古い教会のあとに建てたベネディクト会の修道院であった。現在の姿の基礎をおいたのは、ヘンリー3世(1207-1272)の時代で、1245年にゴシック様式の聖堂として改築させた。ヘンリー8世(1491-1547)の宗教改革の際に、イングランド中の修道院が廃止され、この修道院は大聖堂となった。ゆえに現在の正式の名称はアベィではなくて、「ウェストミンスターの聖ペテロ教会」という。中世紀以後歴代の国王や皇后はここに葬られ、征服王ウィリアム以来戴冠式もここで行われるしきたりとなった。代表的なイギリス人もここに葬られることを名誉としてきたが、とくに南の翼廊は「詩人の隅」と呼ばれて文学者の記念にあてられている。次の人たちが葬られている。

ジェフリー・チョーサー(1340年ごろ~1400年)中世イギリス最大の詩人で、近代英詩の創始者。

エドマンド・スペンサー(1552-1599)イギリス・ルネサンスを代表する偉大な詩人。代表作は「妖精の女王」(1609)

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)エリザベス朝のみならず、イギリスを代表する最大の劇作家であることは周知の通りである。彼はまた十四行詩の詩人としてもすぐれ、「ソネット集」(1609)は作者の深い人間理解を示す傑作である。

ベン・ジョンソン(1572-1637)シェイクスピアと並ぶエリザベス朝演劇を代表する劇作家であり、とくに喜劇において独自の境地を開く。彼の抒情詩はとくに古典的な典雅さにみちている。

ジョン・ミルトン(1608-1674)若い頃から宗教詩人として大成を志したが、清教徒革命に際してはクロムウェルの共和政府の秘書官となり、過労のため失明した。

エイブラハム・カウリー(1618-1667)詩人。牧歌劇「恋のなぞ」「保護者」内乱のためケンブリッジを追われ、一時パリへ亡命する。

ジョン・ドライデン(1631-1700)詩人。ケンブリッジ大学で学び、最初は清教徒の立場から詩作。その後、王党派に転じ、1668年、桂冠詩人となる。代表作「アブサロムとアキトフェル」

サミュエル・ジョンソン(1709-1784)一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)と呼ばれる。英語における最初の学問的辞書といわれる英語辞典(A Dictionary  of the English Language 1755年)を刊行した。

アルフレッド・テニソン(1809-1892)ヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、その繊細で美しい抒情性は特筆に値する。

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)科学者で、進化論を確立した。代表作は「種の起源」(1859)

ロバート・ブラウニング(1812-1889)テニソンとともにヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、劇的独白(dramatic monologue)というテクニクを駆使して人間の魂の微妙な動きを描いた。

チャールズ・ディケンズ(1812-1870)サッカレーとともにヴィクトリア朝を代表する作家である。正規な学校教育は受けていない。ある新聞の通信記者となったたことが切っ掛けとなり、独自の才筆が生まれた。

トマス・ハーディ(1840-1928)若い頃建築家を志したが、のち詩や小説の創作に専心した。「ダーバヴィル家のテス」等の傑作によって小説家という名声を博したが、むしろ彼の抒情詩のほうに、彼の人間性そのもの、また人生観が鮮明に示されている。

ラドヤード・キップリング(1865-1936)兵士や水夫の生活を歌ったキップリングの詩作は、当時きわめて人気があり、「兵営の歌」はバイロンをしのぐといわれた。ノーベル賞受賞。代表作「ジャングル・ブック」

ジョン・メイスフィールド(1878-1967)海洋にあこがれ船員となって、アメリカに渡って放浪したのち詩作を始め、「海水のバラード」Salt-Water Balladsなどすぐれた詩を書き桂冠詩人となった。

待賢門院堀河

    NHK大河ドラマ「平清盛」。鳥羽天皇の中宮璋子に仕える女房・堀河局(りょう)。西行とも親しい関係。歌人として有名でドラマでも百人一首80番の歌が詠まれていた。

長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ

    ひたぶるな愛に生きる女の姿があざやかに浮かんでくる。当時においては、女性の黒髪は今日では想像出来ないほどのいのちを含み、女性美の象徴でもあった。たとえば源氏物語、若紫の巻に「髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして」「髪ゆるらかにいと長く」「こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ」等、紫ノ上をたたえるにすべて髪の美しさを通して語られている。「長からむ」の歌は女性らしい実感を強く歌い上げ、かつその不安ななやみもみれる。官能の香りの強い歌である。

敦盛は生きていた?

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 「青葉の笛」 須磨寺蔵

  「青葉の笛」で知られる平敦盛は、史実では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。

    それにしてもあの須磨寺の宝物館に伝わる「青葉の笛」は敦盛が所持した本物なのであろうか?

毛利元就「三本の矢」のルーツは?

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  農夫の子どもたちが、おたがいにけんかばかりしていました。農夫はいろいろいって聞かせても、子どもたちの心もちを変えさせることができなかったので、実際のもので教えなければためだと考え、子どもたちに棒のたばをもってこさせました。子どもたちが持ってきますと、農夫はまず、棒をいっしょにしばって、それを折れといいました。いっしょうけんめいやっても、折ることができなかったので、つぎにそのたばをほどいて、子どもたちに1本ずつ渡しました。子どもたちは、それはらくに折りましたので、農夫は、「いいかね、おまえたちも心をあわせていれば、悪いやつのおもうようにはされないが、たがいにけんかしていると、すぐにひどいめにあわされる」と、いいました。仲よくしていれば、強くなりますが、けんかをしていると、ひどいめにあわされるものです。

   これは「イソップのお話」(河野与一編訳)に出てくる「棒のおしえ」である。戦国時代の武将・毛利元就(1497-1571)の「三本の矢の教え」の逸話の原型とみられる。実際に元就が嫡男の当主隆元、次男吉川元春、3男小早川隆景に、毛利家発展のために力をあわせるように述べた「三子への教訓状」が現存している。このような話がもとになり、「前橋旧蔵聞書」に「三矢の教え」の故事が生れた。イソップの話がどのようにして毛利元就の逸話となったか経緯については明らかではない。「イソップ」が『伊曽保物語』として文禄2年(1593年)には和訳され刊行されているが、「棒のはなし」は収録されていない。だが三本の矢に似た話は、世界中にある。ペルシア(3世紀)では、7人の子に杖を折らせる。中国(5世紀)では、20人の子に矢を折らせる。どのようなルートで、日本に伝播したのだろうか。江戸時代初期の人が毛利元就の故事として創作したことは充分に考えられる話である。

エディンバラ城

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    7世紀初め、7王国の一つであるノーサンブリアの王エドウィン(在位617-633)が創建し、「エドウィンの城市」と呼ばれたが、これが通称となってエディンバラなる地名が生じた。中世のエディンバラは、国都としてよりもむしろイングランドに対する軍事的都市としての色彩が強かったので、国王にしても、常時ここに在住することきなかった。エディンバラが名実ともにスコットランド王国の首都となるのは15世紀になってからで、現存するほとんどの建物はこの時以降のものである。

   スコットランド女王メアリ・ステュアート(在位1561-1568)は仏王フランソア2世と結婚したが死別し、のちにダーリン卿と再婚してジェームズ1世を生む。夫を暗殺させたためイングランドにのがれ、エリザベス1世に頼ったが、旧教徒の女王暗殺事件に連坐し斬首された。

モンゴル人の名前

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   元横綱朝青龍の本名は、ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ。ドルゴルスレンギーンとは「ドルゴルスレン(父親名)の」という表現で、本人の名前はダグワドルジのみである。白鵬や日馬富士なども同様で、父親の名前が姓の代わりになる。白鵬はムンフバティーン・ダワージャガル。本人の名は「月曜日の幸福」という意味のダワージャガル。近代になって父親の名を「家族名」の代用とする習慣が確立された。モンゴルの革命家ホルローギン・チョイバルサンのように母の名「ホルロー」が使用される場合もある。

フローベールの一語説

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   19世紀フランス文学の研究家、生島遼一(1904-1991)は次のように述べている。「フローベールは文体というものを、小説家が自分の観念をうまくはめこんでゆけばいい出来あいの鋳型のごときものとは考えなかった。一つの観念、一つの視覚、それを正確に表現するには、唯一の表現、唯一の言葉あるのみで、それを求めるのが芸術家の働きだといちずに信じていた。路傍の小石一つ一つに特色を見出いだし、特殊の表現をさがせ、というのがかれの信条だった」(『文体』)

    ともかくフローベールは、一つの目に見えるものを、正確に表現するためには、たった一つのことばがあるのみであると考えた。これが有名な一語説というものである。それほどフローベールは表現に対して厳格な立場を守った作家であり、芸術至上主義の作家といえるものである。

ロシアの家庭料理

    ロシア料理といえば、ザクースカ(前菜)やスープの種類が多いのが特徴です。ザクースカは、ニシンやイワシなど魚の酢づけ、サケのマリネ、肉のくんせいやサラダなどがあげられます。スープといえば、ボルシチが有名。材料はタマネギ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモ、ビーツ(ロシアではスビョークラ)などにトマトスープ、こしょうを調味料として煮込んでいます。ほかにオーブンで焼いた肉料理ジャルコエ。豚肉、ジャガイモ、タマネギをいためて蒸し煮する。ペリメニは小麦粉と少量の卵を水で練って作った薄い生地で細かく刻んだ肉を包んだタンブリングの一種。ロシア風の水餃子。

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なぜか口にしたくなる歴史用語

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    語呂がよい言葉やインパクトの強い言葉は、何年たってもなかなか忘れないし、懐かしい響きがある。そんな歴史用語を集めてみました。

墾田永年私財法 743年

    奈良時代、初めて全面的に土地の私有を許可した法令

張作霖爆死事件 1928年

    張作霖が北京から奉天に引き揚げる途中の皇姑屯(奉天近郊)で関東軍河本大作大佐らの謀略で列車を爆破されて即死した事件。別名「皇姑屯事件」「奉天事件」「満州某重大事件」ともいう。

シナントロプス・ペキネンシス 1923年

    北京原人の学名。ただし、現在ではホモ・エレクトス・ペキネンシスといわれる。

戦艦ポチョムキン号の反乱 1905年

     日露戦争の敗戦を機にオデッサ停泊中の黒海艦隊のポチョムキン号の水兵が反乱を起こしたが失敗する。

アンボイナ虐殺事件 1623年

    インドネシア東部アンボイナで香料貿易をめぐる争いから、オランダ官憲がイギリス人10名、日本人、中国人を斬殺した事件。

アナタハン島猟奇殺人事件 1951年

    アナタハン島という孤島で一人の女性をめぐって7人の男性が殺された。争いの元である比嘉和子は逃走し、米軍に救出される。日本人兵19人も帰国。

シャルル禿頭王

    カール大帝の孫。カール2世(823-877)。843年、ヴェルダン条約で西フランクを得てシャルル1世となる。

血の日曜日 1905年

    10万人近い労働者が司祭ガボンの指導のもとにペテルブルクの冬宮前広場でデモを行い、数百名の死者、千名以上の負傷者を出した。

リットン調査団 1932年

    国際連盟調査団長リットンは報告書で満州国を否認。

長谷川時雨と三上於菟吉

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  長谷川時雨(1879-1941)。本名、長谷川ヤス。明治12年10月1日、東京日本橋区通油町(現・大伝馬町)一番地に免許伝言人の長女として生まれる。最初の結婚に失敗して実家に戻った。このころ気の向くままに書いた戯曲「海潮音」が読売新聞に入選した。明治43年8月、「操」が好評を得、翌年「桜吹雪」と改題、尾上菊五郎によって歌舞伎で上演された。これによって劇作家としての地位を確立することができた。大正になると、時雨は菊五郎・猿之助らとともに「新舞踊劇運動」を起こし、歌舞伎に新風を吹き込んだ。同時に、演劇雑誌「シバキ」を発行したり、菊五郎らと「狂言座」を組織したりした。また大正12年、岡田八千代とともに女性文芸誌「女人芸術」を刊行したりしたが、これは経済的理由で2号で廃刊となった。この間、時雨は戯曲のほかに「名婦伝」「美人伝」「旧聞日本橋」などの伝記小説や随筆も書き、脚光を浴びるようになった。

   三上於菟吉(1891-1944)は、埼玉県北葛飾郡桜井村字木崎の生まれ。早稲田大学に進み、宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、直木三十五、国枝史郎、近松秋江などを知り、三富朽葉、北原白秋と親しくなる。処女作「春光のもとに」が朝鮮独立運動を題材にしていたため発禁となる。不遇をかこつ於菟吉を深く理解したのが、長谷川時雨だった。

   昭和のはじめに、時雨と於菟吉との結婚は、劇界や文壇をおどろかせた。時雨は昭和3年、「女人芸術」を再度発行して主宰した。(昭和3年7月から昭和7年6月まで全5巻、48冊)神近市子、山川菊枝、平林たい子、中条百合子(宮本百合子)などの論客に、林芙美子、矢田津世子、上田文子(円地文子)、ささきふさ、窪川いね子(佐多稲子)、中本たか子、岡本かの子、森三千代などの女流作家を育てた。昭和3年10月から連載された林芙美子の「放浪記」で一躍注目を浴び、多くの女流文学者が輩出し、当時の女流文芸雑誌の頂点に立った。於菟吉も「敵討日月双紙」「鴛鴦呪文」「淀君」「雪之丞変化」などで大衆作家としての人気を博した。於菟吉の稼ぎは赤字経営の「女人芸術」に惜しげもなく注ぎ込まれた。だが於菟吉の実生活は乱脈を極めた。昭和10年、長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」が大当たりし、全盛期を迎えるが、翌年に自動車事故で右腕を骨折、さらに血栓症で病に伏せて文壇から遠ざかった。時雨は昭和16年8月22日、慶応病院で死去、63歳だった。於菟吉は昭和19年2月18日、埼玉県幸松村(:現・春日部市八丁目)で53年の生涯を閉じた。

2012年2月17日 (金)

ハイデルベルク城

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    ハイデルベルク城はドイツで最も有名な城の1つである。ハイデルベルクという村名が記録に現れるのは1147年の文書からである。プファルツ伯オットーが居城する13世紀前半をハイデルベルク城の成立と推定している。プファルツ伯は以後、18世紀までの500年間の長期にわたって居城地としたので、本来なら、遺構や建築物も残るはずであるが、プファルツ伯は新教に改宗したため、三十年戦役に際して、1621年に旧教派である皇帝軍の侵略をうけてハイデルベルクは大きく荒廃してしまった。戦後、1718年にプファルツ伯カール・フィリップは修復に努めたが、翌々年に居城地をハイデルベルクからマンハイムに移したので、同市は急激に衰退した。

     またハイデルベルクは大学の町としても有名であるが、ループレヒト・カール大学は1368年の創立でドイツにおける現存最古の大学である。

嫌煙運動の日

    昭和58年2月18日、東京四谷で市民グループが「嫌煙権確立をめざす人々の会」を結成し、日本でも本格的な嫌煙運動がスタートした。この日にちなんで「嫌煙運動の日」がある。さらにそれより74年も前の明治38年、東京の市電で車内禁煙が実施された日でもある。

    ふるい映画やドラマをみると刑事がカッコいいスモーカーだった。

ハイライト 昭和は遠くなりにけり

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プーシキンの妻

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 ナターリア・プーシキン

   世界史には悪妻と呼ばれる女性がいる。ソクラテスの妻クサンティッペは後妻だという説もあるが、2人にはかなりの年齢差があったらしい。怒りっぽい気性だといわれるが、後世のつくり話かもしれない。作曲家モーツァルトの妻コンスタンツェ、トルストイの妻ソフィヤ・アンドレーエウナを世界三大悪妻と呼ぶらしい。チャイコフスキーの妻アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリュコーヴァとの結婚生活も悲劇的なものだった。ロシア最高の国民詩人プーシキンの妻ナターリアも悪妻の一人といえるだろう。ダンテスとの情事を知り、プーシキンが決闘を申し込み、その傷がもとで37歳の若さで亡くなった。

冬の情景 日本の野生動物

都会に住んでいるので野生動物を見る機会はほとんどないが、同じ日本列島に暮らしているんだ。

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 ニホンカモシカ

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 ニホンザル(地獄谷野猿公苑)

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 エゾリス

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 ホッキョクグマ(円山動物園)

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 ツキノワグマ

魚の大量死

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     アユ              イワナ

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      ヘラブナ       キンブナ(マブナ)

  ネット情報では魚の大量死のニュースをよく見る。「青梅市で魚5000匹の死骸。都当局では水質汚染は発生していない」「多々良沼でヘラブナ、マブナの大量死」「金沢でアユ1万匹が大量死」などなど。最近頻発する魚の大量死が気になる。水質汚染がすすみ、人体への影響が懸念される。

中世ヨーロッパの旅

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    クロアチアのドゥブロヴニクは中世の面影を色濃く残す美しい要塞都市で、世界遺産にも登録されている。7世紀初め、ギリシア南部の都市エピダウルスがスラブ人によって破壊されたとき、エピダウルスの住民が避難してきた。その後、ドゥブロヴニクはビザンツ帝国、都市国家ヴェネツィア、ハンガリー帝国、オスマントルコなどの諸国に次々と臣従しながらも、1806年にフランスに占領されるまで都市共和国として一定の独立を保ちつづけてきた。それを支えてきたのは、強力な艦隊と人々の自由(リベルタス)への確固とした意志、そして民主制度であった。

  西洋中世関係文献

「西洋中世世界の成立」増田四郎
「ヨーロッパ世界の誕生」ピレンヌ
「西洋中世史」山中謙二
「西洋中世世界の崩壊」堀米庸三
「西洋中世の文化」大類伸
「中世文化史」ドーソン
「フランス文学の精神」佐藤輝夫
「中世の美術」吉川逸治

平清盛、南都焼き討ち

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    NHK大河ドラマ「平清盛」の視聴率が低迷するなか、ゆかりの地では清盛関連グッズ合戦が熾烈である。ところで清盛といえば奈良の諸寺を焼き討ちにするという大罪を犯したことで知られる。便乗商法とみるべきか、地域振興とみるへきか、それが問題だ。この現状を奈良ではどのように受けとめているのだろうか。

  平安末期は末法思想が世の中を覆い始めていたが、民衆の宗教心は今よりもはるかに篤いものがあった。奈良の東大寺は武闘勢力を抱える独立王国のような存在であり、源氏と連携を強め、平氏と対立するという構図となった。1180年に平清盛に命じられた重衡の軍勢は南都の焼き討ちを行い、東大寺、興福寺、元興寺などの諸堂をほぼ壊滅させた。「灰燼は山のごとく、余煙は黒雲の有り様」であったという。東大寺は二月堂や法華堂を除き、大仏殿をはじめ多くの伽藍を焼失した。だが大仏の修復は1183年に始まり、1185年には開眼供養が行われるというスピードぶりだった。当時の民衆がいかに大仏を哀惜し、またその崇りを恐れたかがわかる。

ロンドン塔

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 中央にホワイト・タワー、時計回りに、ソルト塔、マーティン塔、ビーチャム塔、ベル塔がある

    ロンドン五輪まであと5ヵ月に迫った。ロンドンという地名の由来は謎である。一説によると、ケルト語「ロンディノス」(Londinos)勇士の土地、という意味がローマ化されてラテン語で「ロンディニウム」(Londinium)、それが転訛してロンドン(Londn)となったという。

またロンドンの誕生が、紀元43年にローマ軍により創建されたのか、またそれ以前から存在していたのかも明らかではない。だが1世紀末には早くも商業都市として栄えていたことは事実である。5世紀にローマ人が撤退したあとは、アングロ・サクソン人の侵入となり、やがて1066年にはノルマン人のウィリアム1世によるイングランド制服が行われ、ノルマン朝の成立となる。ウィリアム1世は、1078年に、ロチェスターの司教ガンドルフに命じてホワイト・タワーと呼ばれるキープ(天守)を造らせた。これがロンドン塔の始まりである。石造4階建ての天守閣の中で、もっとも神聖な場所はセント・ジョーンズ礼拝堂である。その後、ウィリアム2世、リチャード1世、ヘンリ3世、エドワード1世らによってロンドン塔は増築された。

道をひらく

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    「仁義なき戦い」「トラック野郎」や任侠映画のイメージがある菅原文太だが、近年は文化講演会などの知的活動がめざましい。農業医学夏季大学の講演では「農業に用いる農薬や原発などは、化学の力に頼りすぎているのではないか」と有機農業の実践やがん闘病の体験談を語る。モデルから映画界に入ったことはよく知られているが、学生時代は仕送りもなくアルバイトで苦労したそうである。二コヨン、出版社の梱包・運送、バーテン、はてはインチキ神主など、ユニークな経歴の持主である。

    70年代のシラケ世代の代表的な女優秋吉久美子が早稲田大学大学院に入学したことも、人間は印象と異なることを示す一例である。熱心に勉学したようで、2009年には学位を取得している。

オスタンキノ宮殿とシェレメチェフ

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   帝政ロシアのシュレメチェフ家はロマノフ王朝でも有数の貴族として繁栄していた。現在モスクワの玄関口シェレメチェヴォ国際空港もシュレメチェフ家の領地であったことに由来する。18世紀末、ニコライ・シュレメチェフ伯爵は、モスクワのオスタンキノに宮殿を建てた。バレエや演劇が好きだった伯爵は、農奴のなかから才能ある人を集めて、俳優や歌手、ダンサーにした。そのなかにプラスコービヤ・コバリョーバという美しく才能あふれた女優がいた。当時、貴族が農奴と結婚することは考えられなかったが、伯爵は周囲の反対をおして彼女と結婚した。しかし、彼女は3年後亡くなり、伯爵は2度とこの宮殿に来ることはなかったという。

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 プラスコービヤ・コバリョーワ

サンタンジェロ城

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    ローマのテヴェレ川右岸にあるサンタンジェロ。その意味は聖天使城。映画「ローマの休日」で夜のダンスパーティーの舞台となったところ。皇帝ハドリアヌスが自らの堂廟として139年、建設を開始し、アントニヌス・ピウス帝の治世、西暦149年に完成した。しかしこの廟はローマを守る城として改造されたため、幾度も敵に包囲されることとなった。1527年、ドイツのカール5世がローマに侵入し、教皇クレメンス7世はサンタンジェロに避難したが、ローマは掠奪されルネサンスが終焉した。現在では城は公開され。内部は歴史博物館となっている。

世界で一番

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   世界で一番小さな本。縦横5mmの「主祈祷文」。今回、ロンドン・クリイティ競売所で展示されている。豆本はだいたい5㎝くらいの大きさがふつう。

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   世界で一番小さな女性は?インドの高校生、ジュディー・アムゲ(18歳)ちゃん。身長は約60㎝、体重はわずかに5㎏。ジュディーの夢はハリウッドの女優になることだそうです。

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山内一豊 名馬の誉れ

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    信長はある日馬揃えを催した。群臣武将が居並ぶ前を、多くの武将が行進する。その中にひときわ目立つ栗毛の名馬に跨る若武者一騎。手綱さばきも鮮やかに、まことに天晴れなる武者ぶりだ。信長も「あれなる者は」と問うた。「はっ。山内一豊にございます。」「何、一豊とな。あの貧乏な一豊がどのようにして、あのような駿馬を手に入れたのか。」これには秘められたる逸話があった。馬市で素晴らしい逸物を見つけた一豊は欲しいは山々だが買う金がない。無念に思いながら家に帰って妻に話をすると、妻は鏡台から黄金を取り出し、「夫の一大事の時に使えと嫁入りの日に母がくれたもの。これにて馬を」と言った。毎日の暮らしに心奪われず武士の面目をわきまえたる天晴れ貞婦の鑑と、信長もいたく感動して多くの褒美をあたえたという。(参考文献:「日本歴史図鑑」省光社)

ロンドンの古本屋

   ロンドンのレスタースクエア近くにあるセシル・コートには本屋がたくさん並んでいる。ナイジェル・ウィリアムズ・レア・ブックスには状態の良い文学書、児童書、絵本、推理小説などの初版本がある。ピーター・エリス・ブックセラーには、厳選した希少な古書が多くある。だが外に出されたワゴンには1ポンド均一の本が並んでいて、道行く人が足を止めて立ち読みしている姿はいずこも同じである。

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 ナイジェル・ウィリアムズ・レア・ブックス店内

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 ピーター・エリス・ブックセラー

東西文学雑談 中島敦とスティブンソン

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 イエール大学図書館

   中島敦の「光と風と夢」。健康をそこねたスティブンソンは、療養のためサモアにやってくる。執筆のあいまに畑仕事をしたりするほか、農園のことやサモア人の争いごとの間に立ったりしている中で死を迎える。多くのサモア人が彼の埋葬に立ち合い、ツシタラ(物語の語り手)の死を見送る。

「図書302号」1974年10月、目次。

今野一雄「秋に思う」

生島遼一、野間光辰、吉川幸次郎「東西文学雑談(座談会)」

淮陰生「余財ありて清節あり」

飯沢匡「笑わない人々」

中村一明「伊豆大島・火山島の自然2」

寺田透「郎女その人柄は」

桑原万寿太郎「動物のコミュニケーション生体と情報」

   例によって目次の紹介。本号の特集「東西文学雑談」は吉川幸次郎を中心として京都学派の話など面白い読物となっている。

家庭は道徳の学校

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   毎年1月、2月には全国各地で「ペスタロッチ祭」という教育関係者の研究大会が催されることが多いが、それはスイスの教育者ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746-1827)の生誕(1746年1月12日)と命日(1827年2月17日)に因んでのことだろう。ペスタロッチの教育実践は我が国の教育界では広く知られるところであり、岡山県苫田郡鏡野町ではスイスのイフェルドン市と友好憲章を締結し、町立図書館を「ペスタロッチ館」と名づけ、ペスタロッチの銅像を建てている。1階には7万冊の開架室がある。

    ペスタロッチに「家庭よ、なんじは道徳の学校なり」という名言があるそうだが、なるほど道徳や礼儀は子どもたちが学校教育を受ける以前から家庭で両親から教えられるべきものである。「チャーリーとチョコレート工場」(ティム・バートン監督)というファンタジー・コメディー映画を観たが、西欧諸国では教育の基本は家庭のしつけであり、「子どもは見られるものであって、聞かれるべきものではない」という厳格なしつけの大切さを確信していることに感心させられた。

    原作はイギリスの作家ロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」。主演のジョニー・デップが工場長に扮し、「シザーハンズ」のティム・バートンとコンビを組んだ楽しい映画。しかし中味はなかなか辛口である。日本語吹き替えなのですべてのパロディを理解できないが、子どもも大人も楽しめ教訓も含まれるおすすめの映画だ。

   ここで夢のチョコレート工場に招待される5人の子どもたちを紹介しよう。最初の当選者は何よりも食べることが大好きな肉屋の肥満少年、オーガスタス・グループだった。彼はチョコレートを食べまくって、ゴールデン・チケットを手に入れた。2番目の当選者はナッツ工場の社長令嬢ベルーカ・ソルト。父の財力にものをいわせてチョコレートを買い占めた。かんくしゃく持ちの何でもすぐに欲しがるわがまま娘。3番目の当選者は、あらゆる賞を獲得することに執念を燃やす熱血少女バイオレット・ボーレガード。今はノンストップでガムをかみ続ける世界記録に挑戦中だ。勝つことにこだわり、チャーリーを「負け犬」と言っている。4番目の当選者は頭の良さをひけらかす凶暴なハイテクおたくの天才少年マイク・ティービー。彼はチョコレートの製造年月日と気候による増減と日経平均(ウソ)からチケットのありかをつきとめた。年に一度しかチョコレートを買ってもらえないチャーリー・バケット(フレデイ・ハイモア)には当選の確立は限りなく低い。彼を愛する両親(ノア・テイラー、ヘレナ・ボナム・カーター)は貧しい暮らしの中から誕生日のチョコレートをいつもよりはやくチャーリーにプレゼントする。しかし、チケットは入っていなかった。チャリーはその一枚を家族みんなに分けてあげる。(「一杯のかけそば」のパロデイか)今度はジョーおじいちゃんがくれたヘソクリのお金でチョコレートを買うが、やっぱし、チケットは入っていない。すべての望みはたたれたかに思えたが、ある雪の日、チャーリーは道でお金を拾い、チュコレートを買った。(良い子のみなさんは拾ったお金は交番に届けましょう)最後のゴールデンチケットが出てきた。当選の知らせを聞くと、寝たきりだったジョーおじいちゃんは、急にベットから起き上がり、元気いっぱいに飛び跳ねた。いよいよ工場見学の日。工場の前に5人の子どもたちと同伴者が並ぶ。そこについに伝説人物、ウィリー・ウォンカが現れる。前髪そろえのオカッパ頭にシルクハット、顔を白く塗った彼はエキセントリックな印象だ。ウィリーは子ども時代に歯科医である父(ドラキュラ役で有名なクリストファー・リー)から虐待に近い躾を受けて育ったためトラウマになって、現在もペアレンツ(両親)という言葉を口にできず、フラッシュバックを起こすアダルトチルドレンなのだ。そして子どもたちが案内された工場内で起こる奇妙な出来事で、わがまま放題の子どもたちが一人、また一人と消えていく…。そして最後に残ったのは良い子のチャーリーだけとなった。ウォンカは工場は君にあげるといい、家族は大喜びするが、チャーリーは家族が世界で一番大切なものだ、といいウォンカの申し出を断わる。家族の素晴らしさに目覚めたウォンカは、父親を訊ねる決心をする。再会したウォンカの父親は息子との再会を喜び、ふたりは長年のわだかまりを乗り越えることができた。チャーリーのおかげで家族の大切さを知ったウォンカは、結局、チャーリーに工場を譲ることになり、ふたりはチャーリーの家の食卓で温かい食事と家族の愛に包まれながら、新しいお菓子作りに夢をふくらませるのだった。「チャーリーとチョコレート工場」には「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」あるいはディケンズの「クリスマスキャロル」などという古典、教訓を盛り込んだ楽しいファンタジーの系譜がきっちりと生きている。発想の奇抜さ、新鮮さと時代遅れのギャグとパロディという相反する要素をおもちゃ箱に入れてそれをひっくり返す楽しさ、ハリウッドとビクトリア朝イギリスの厳格主義の合作、とても日本人には真似できないジャンルであろう。

   

2012年2月16日 (木)

ガイヤール城

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  フランス北西部レ・ザンドリーの市街やセーヌ川を見下ろす高台に、イングランド王獅子心王リチャードが1196年に建造したガイヤール城がある。「きびきびした」「頑強な」という意味だが、正にシャトウ・ガイヤールは難攻不落の城だった。この時代、イギリスがフランスの大西洋岸の広大な領土を支配していた。1203年、イングランド王ジョンはフランス王フィリップ2世に攻撃され、8ヵ月間も籠城したのち、さしもの堅固な城も落城した。その後、長い間、廃墟の時代が続いた。(図説ヨーロッパ100名城公式ガイドブック」紅山雪夫 2011年)

イギリスと日本

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    イギリスも日本と同じような島国でともに王室・皇室を上にいただく国であり、歴史も似ている。西暦2世紀ローマ皇帝ハドリアヌスのときローマ属州ブリタニアと呼ばれたが、5世紀の初めにローマが撤退すると、アングロサクソンが侵略する。日本に仏教が伝来したのは6世紀(公伝は552年説と538年説がある)といわれるが、ブリタニアにキリスト教が伝来したのも、やはり6世紀頃である。596年にアウグスティヌスが40人の修道士とともにやってきたとされるが、それより前に伝来していたともいわれ、西暦563年という説がある。バッキンガム宮が1703年といわれ、慶長天守が完成したのは1607年のことで、江戸城はバッキンガムより100年ほど古いことになる。

「黒い乳房」と安保闘争

   新東宝「黒い乳房」(1960)の公開は6月でちょうど安保闘争が空前の盛り上がりをみせていた頃だった。異父姉妹がキャバレーの姉、小畑絹子と看護婦の池内淳子。恋人、高宮敬二と菅原文太が2人に絡む。悪女の姉が社長の娘になりすますが、実は死刑囚の娘で、妹が本当の社長の娘。悪事が露見し、結婚式の日にヤクザの情夫に刺殺される。大時代のドラマの展開がむしろ新鮮にみえる。フランス映画「太陽がいっぱい」の翻案物。妖艶な美女小畑絹子は新東宝の看板スターだった。倒産後、他の俳優が活躍するなか、小畑絹子はなぜか不遇だった。

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西行と文覚

    乱暴者で知られた文覚は、日頃から、西行のことを快く思っていなかったが、今日こそは目にもの言わせてやろうと待ち構えている。文覚の弟子たちは、はらはらしている。だが、いざ西行と対面すると、和やかな雰囲気のうちに何事もなかったかのように西行は帰っていく。そこで、弟子がどうしたのかと聞くと、「西行に自分にぶたれるような面構えがなく、こちらのほうこそやられてしまう」と言ったという。頓阿(1289-1372)が著した「井蛙抄」に載っている。

   西行は治承4年、伊勢に居を移し、文治2年、東大寺復興勧進のため再度陸奥への旅に出る。帰国後、居を河内国弘川寺に定め、歌人としても最も円熟した活動を行った。建久元年2月16日、73歳で没す。

思いがけない事故に遭わない方法

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    われわれの生まれ方は1つだが、死に方はさまざまである。今年は豪雪のため雪下ろしの作業中に亡くなられた方が多かった。火事で亡くなるニュースは毎日のように聞き胸の痛むおもいがする。ご冥福をお祈りします。

    安全であるはずの自宅でも思いもよらない事故がある。風呂場や階段で転倒。餅などで窒息死。台風がくるというので慣れない大工仕事で事故死。とくに車の事故は歩行者も乗用者も多い。ダンサーのイサドラ・ダンカンはマフラーが車輪に巻き込まれて惨死した。事故予防には髪は短く刈って、余計な装飾品はせずに、体にピッタリとした服装で、履物はころばない慣れたものにする。屋外にでたら、前方、左右を絶えず確認・注意をし、余分なことは考えない。呼吸を整え、あわてず、あせらず、用事を済ましたら、真っ直ぐに家に帰ることである。家ではテレビをつけて津波警報をいつも確認すること。

忘れられぬ人々

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    篠崎誠監督の映画「忘れられぬ人々」(2000)は、シュールとでもいうべき不思議な味わいの作品に仕上がっている。3人の戦友たちの老後を描いているのだが、いわゆるありきたりな病気と生死だけではなく、現代社会の矛盾など変わった視点で問いかけている。後半から霊感商法で被害に遭う老人が出て、日本刀で会社に復讐する壮絶なラストは異様ともいえるが、三橋達也、大木実ならそれを期待するファンもいるだろう。突貫小僧の青木富夫が暗くなる映画にユーモアをかもしている。老優をよく知っている日本人が見ると面白いと思っていたら、意外に俳優のことなど全然知らない海外の人がこの映画をみると、新鮮な感動があるらしい。映画とは不思議なものである。内海桂子が「私たち死んだら思い出もなくなっちゃうのかしらねぇ」というセリフがあるが、そんなことはない。3人の俳優の名演技は深く心に残っている。

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青木富夫(左) 「突貫小僧」(昭和4年)

煙も見えず雲もなく

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  伊東祐亨(いとうすけゆき、1843-1914)は天保14年、薩摩藩士伊東祐典、喜多の四男として鹿児島城下上清水馬場に生まれる。長崎海軍伝習所、江川塾で学び、戊辰戦争に従軍。明治海軍の初代連合艦隊司令長官。

   伊東は樺山資紀海軍軍令部長より、黄海の制海権維持のため、清国北洋艦隊の撃滅を命ぜられた。連合艦隊は、明治27年9月17日、丁汝昌提督の率いる北洋水師を視認した。当時、まだ望遠鏡すら未発達のため、敵艦発見はもっぱら水平線上の煤煙の視認に頼っていた。「煙も見えず雲もなく、風も起こらず波たたず、鏡のごとき黄海は、曇り初めたり時の間に」と「勇敢なる水兵」で歌っている。

   午前10時50分、先頭を進む「吉野」のマストに信号旗が上がった。「敵艦隊東方に見ゆ」。両艦隊が会敵し、黄海海戦の戦闘が開始された。「鎮遠」の主砲弾が、旗艦「松島」を直撃し、90余名の死傷者が出た。水兵・三浦虎二郎は、瀕死の重傷を負いながら、副艦長向山少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と尋ねた。向山少佐は「定遠は戦闘不能になった。これからは鎮遠をやるのだ」と答えた。これを聞いた三浦水兵はほほえんで「どうか仇を討ってください」の一言を最後に絶命した。この話が軍歌「勇敢なる水兵」(作詞・佐々木信綱、作曲・奥好義)の元となった。

   しかし、実際は「定遠」も「鎮遠」も沈まなかった。5時間後、北洋艦隊は威海衛めざして退却した。日没とともに伊東司令長官は戦闘中止を下令。黄海海戦は、撃沈数で比較すると、連合艦隊の最初の勝利と言える。しかし、朝鮮半島周辺の制海権を握るという戦略目標からすると、問題が残っていた。北洋艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」のほか、巡洋艦4隻、砲艦1隻などが残存し、根拠地である旅順港か威海衛から出撃してくる可能性があった。明治28年2月4日、5日の威海衛夜襲が行なわれた。2月17日には威海衛が占領され、北洋艦隊の撃滅に成功する。

   伊東祐亨は、日清戦争後、海軍軍令部長となり、より近代的な艦隊編成の形成や北清事変への対応など、内外の諸問題に対処した。その後、日露戦争終結後まで軍令部長としてその職にあり、在職期間は明治38年12月に至るまで続いた。これは歴代海軍軍令部長のなかで最長である。

ヨンキント

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   ヨハン・バルトルト・ヨンキント(1819-1891)はオランダの画家。モネに影響を及ぼした印象主義の先駆者。オンフルールはフランス・ノルマンディーの港町。

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「セーヌ川とノートル・ダム大聖堂」 1864年 オルセー美術館蔵

 ノートル・ダム大聖堂をセーヌ川越しに正面から見た光景。空に浮かぶ雲や川面の移ろう様子も活写されている。水面の反射を表現するために使われた、短く素早い筆触は印象派に受け継がれた。

木簡の長さ

    奈良時代から平安時代、紙はまだ貴重だったので通常は木簡が書写の材料として用いられた。長さは20センチから30センチ程度のものが多い。ところが先日、新聞で歌会専用の推定74センチもある長い木簡が存在したことが報道されていた。(朝日新聞2007.11.29)「儀式で長い木簡に和歌を書き、出席者全員で唱和したのではないか」と栄原永遠男教授(大阪市立大大学院)は話している。

    ところで古代中国では、木簡の長さに一定の規準があったようである。その長さは、文書の用途や重要度によって異なっていた。六経(易・書・詩・礼・楽・春秋)はすべて2尺4寸、「孝経」は1尺2寸、「論語」は8寸の簡だった。というのは、「孝経」と「論語」は、9世紀に至るまでは、儒教における経典とは見なされていなかったからである。

    漢代に用いられた木簡の標準的な長さは、約23センチである。23センチというのは、漢尺の1尺に当たる。木簡の長さが意味をもっている。漢には「尺一詔」(しゃくいつのしょう)という言葉がある。普通の文書が1尺であるのに対して、皇帝の詔は1尺1寸の木簡を使ったことからできた言葉である。「塩鉄論」貴聖篇には「二尺四寸の律」とあり、「史記」酷吏伝には「三尺の法」という言葉もある。律令は長い簡に書かれていたらしい。後漢の劉熙の書いた「釈名」には「槧」(ざん)という文字に「版の長さ三尺のもの」という説明がある。漢代の3尺というと約70センチの長さである。ただし三尺もの長い木札をどのように使われたのかは知らない。

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 居延漢簡  役所の記録類

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 古代中国の書物

健康なとき駄作を書き、病床で傑作をものにした作家

   「出家とその弟子」や「愛と認識との出発」などで知られる倉田百三は闘病生活が長かった作家である。そのため「病床で傑作をものにした作家」というレッテルを貼られることがある。これに対して倉田百三の妹である作家・倉田艶子(1896-?)は「出家とその弟子は兄の文筆生活中の一番健康な時に書かれたものだ」と反論している。(「出家とその弟子」ができるまで)

   「病床で傑作をものにした作家」というレッテル誕生の発端は、どうやら倉田の晩年に交友があった亀井勝一郎にありそうだ。

   「倉田氏の生涯をみてふしぎに思うことは、病気のとき傑作をかき、健康なとき駄作をかいたことである。「出家とその弟子」の読者は、ここにみなぎる逞しい意力と情熱に驚くであろう」とある。現代知識人の典型的評論家の亀井勝一郎がこのように言い切っている。(新潮文庫解説)

   大正5年6月、姉の政子が重態であるとの知らせに、百三、艶子は帰省した。7月15日には政子死去する。倉田百三の年譜などでよく「出家とその弟子」は帰省先で脱稿したことになっているが、艶子の記憶によると帰省先で書かれたものではないという。百三が発病するのは翌年の大正6年になってからのことで、「出家とその弟子」は大正5年の健康時に書かれたものであるという。百三の帰郷と発病とが前後して名作誕生となっているが、事実は艶子の証言どおりであろう。

   倉田百三(1891-1943)。明治23年2月23日、広島県比婆郡庄原町字庄原(現・庄原市)において、倉田吾作の長男として生まれる。一高時代、西田幾多郎に傾倒する。また宗教家・西田天香(1872-1968)の修養団体・一燈園に入る。「出家とその弟子」の親鸞は西田天香がモデルといわれる。

2012年2月15日 (水)

マラカイト(孔雀石)

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    孔雀石の名は微結晶の集合体の縞模様が孔雀の羽の模様に似ていることに由来する。紀元前2000年ころのエジプトですでに宝石として利用されている。当時のエジプト人はラピスラズリ(青)や紅玉髄(赤)などと組み合わせ、特定のシンボルを表す装身具に用いられた。現在でも美しい塊は研磨して貴石として扱われ、アクセサリーなどの宝飾にも用いられるが、モース硬度3.5-4と柔らかい鉱物であることから、硬度7以上を定義する宝石には合致しない。

ローマ帝国の退廃と絵画

    19世紀の新古典派の画家は歴史画を好んで描いたが、とりわけ逸楽に身を堕した古代ローマ人を題材とした。トマ・クテュール(1815-1879)の「退廃期のローマ人たち」(1847年)は贅沢な食事と酒と女に溺れるローマ貴族の姿を表している。

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    ローレンス・アルマ・タデマの「ヘリオガバルスの薔薇」(1888年)はローマ皇帝へリオガバルスは客人に薔薇を見せて、大量の花びらを落として窒息死するのを眺めて愉しんだという逸話を題材にしている。

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野狐禅

    やこぜん。禅学を修めて、なまかじりなのに自分だけが悟りを開いたつもりで自惚れること。

生活と芸術

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    産業革命の結果、大量生産による粗悪な商品が暮らしにあふれている。こうした状況を見直す運動が19世紀末にあった。ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動もその一つである。柳宗悦が提唱した民芸運動もその流れともいえる。沖縄や韓国の伝統民家に住む人々も、むかしながらの暮しを残しながら、自然とゆったりと暮らしている。21世紀の都会でこのような生活ができないだろうか。神戸大丸で「ベニシアと仲間たち展」が3月から開催される。「猫のしっぽカエルの手」でおなじみのハーブ研究家ベニシア・スタンリー・スミスの京都大原での暮しぶりが紹介される。大量生産・使い捨ての時代に私たちが忘れてしまった心の豊かさを思い起こしてくれそうだ。

書斎

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 部屋に書物がないのは体に魂のないようなものだ(キケロ)

真理の言葉は単純である(アイスキュロス)

   イギリスの小説家ジェーン・オースティンの言葉に「どんなパーティーでも早く終わるほどよい」がある。 

「鳥のなかで、一番のお喋りといわれるオウムは、飛ぶことが非常に下手です。よく飛ぶ鳥は、お喋りはいたしません。私のスピーチも、これで終わりです」初めての飛行実験に成功したライト兄弟、その兄であるウィルバー・ライトが祝賀会の席上で行われた見事なスピーチである。フレーズは短いほどいい。ガリレイ「それでも地球は動く」、孫文「革命いまだならず」、ガガーリンの「地球は青かった」、テレシコワ「わたしはカモメ」、キング牧師「私には夢がある」、アリ「蝶のように舞い、蜂のように刺す」、円谷幸吉「もうこれ以上走れない」いずれも短い言葉だが納得させられる。パスカルの「人間は考える葦である」、デカルトの「我思う、故に我あり」もその短いフレーズゆえに永く愛される名言となっている。

    感動的な名言とはいえないが、その時代の息吹を感じさせるため、世界史に残る言葉もある。シーザーの「来た、見た、勝った」。ルイ14世「朕は国家である」、ザモイスキーともティエールとも言われるが「国王は君臨すれども統治せず」は18世紀以降のイギリスの君主政を表すことばとして有名。キップリングの詩の一節「東は東、西は西」は今でも通用する。「会議は踊る、されど進まず」はタレーランともリーニュ候の言葉ともいうが、ウィーン会議をよく表している。

ターナーと天文学者

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 展覧会に出品されたターナーの絵をみた、ひとりの天文学者が、「この絵は嘘である。天文学上からいってこんな美しい景色はゼツタイに有り得ない」と批判した。するとターナーは「あなたはこのような景色をみたいとはお思いになりませんか」とたずねた。すると天文学者は「それは見たいですね」というと、こんどは、「そうですか。わたしは誰もが見たいと感じている理想の美を描いたつもりです」ターナーはそういって微笑んだ。

全裸のゴダイヴァ夫人

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    中世イギリスの領主レオフリックは強欲で、領有する町に重税を課そうとした。夫人のゴダイヴァは信心の篤い聖い心の持主で、重税を思いとどまるように幾たびも説得した。が、レオフリックはいっこうに取り合おうとしない。あまつさえ戯れに、「もし、お前が全裸で町中をねりまわったら、税は免じてやろう」といった。夫人は髪を解きほぐし、馬にまたがり、裸で町を完走した。町の人々は、自分たちのためにあえて恥をしのんで犠牲になった夫人に深く感謝して、誰も通りに出ずに、夫人を見ようとしなかった。だが、トムという好色な仕立て屋は、深窓の貴婦人の裸身が見たくて、ひそかに覗き見しようとした。すると、どうしたことか、仕立て屋が目的を達する前にめしいてしまって、夫人の裸を見ることができなかった。イギリスでは出歯亀のことをピーピング・トム(Peeping Tom)という。欧米では、増税反対のためにスキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスが行なわれることがある。

ロンドンの古書店

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    イギリスの小説家デイム・アントニア・スーザン・バイアットの作品に「抱擁」(新潮文庫)がある。グィネス・パルトロウで映画化されている。若い研究者が図書館でビイクトリア朝の桂冠詩人アッシュの直筆の恋文を発見する物語。ロバート・ブラウニング(1812-1889)とクリスティナ・ロセッティがモデルらしい。映画はつまらなかったが、本場ロンドンのアンティークな古書にはため息がでる。さすがにかつての大英帝国の知的情報の蓄積は他国を圧倒している観がある。サックヴィル・ストーリーにあるサザランズは1761年の創業でヨーク発祥の書店である。新しい本もあるが、ほとんどがアンティーク。チャールズ・ディケンズの初版などもある。

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実篤の言葉

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  薬師丸ひろ子の歌に「天に星、地に花」(作詞・松本隆、作曲・筒美京平)がある。NTTのCMに使用された「あなたを・もっと・知りたくて」がヒツトしていた頃である。歌詞には「優しい人が言いました。いま天に星、地には花、君に愛を」というサビのフレーズが印象的であった。この言葉はオリジナルではなく、どうやら武者小路実篤がルーツであることを知ったのは最近のことである。昭和40年頃から実篤の人生論の図書や色紙の複製品などが広く世の中に出回っていた。「仲良き事は美しき哉」「この道より我を生かす道なし。この道を歩く」こういう色紙に見覚えある人は多いだろう。「天に星、地には花、君に愛を」という色紙は見たことはない。芳賀書店から出版していた「実篤人生論シリーズ」(昭和42年頃)は第6集まで刊行されたが、その第3集のタイトルが「天に星地に花人に愛」である。現物を見ていないが、同タイトルの詩があるのかも知れない。二見書房から刊行された「愛ただひとつの言葉」(昭和44年)のタイトルページには「天に星地に花人に愛」という画と画賛が掲載されていた。松本隆は実篤をパクったのだろうか。それとも武者小路実篤というあまりにも有名な人の言葉ということで、文化的な共有財産ということで容認されるのであろうか。そのような著作権上のことはおいておくとして、実篤は40歳頃にあたる大正末年頃から絵筆をとり始め、昭和51年に90歳で亡くなる直前まで書画の制作を続けていた。色紙に添えられた言葉を画賛というが、その数もかなりなものになるだろう。幾つか印象に残った言葉を取り上げる。

思い切って咲くもの萬歳(向日葵、昭和43年)

何故に我が花咲くか知らねども我は素直に我が花咲かす(木蓮)

勉強勉強勉強のみよく奇跡を生むかく思ひつつ我は勉強する也(勉強勉強 昭和12年)

我ただ天意に従って生長す(樹木図 昭和10年代)

生まれけり死ぬる迄は生くる也(自画像 昭和15-25年)

我水を愛し又沈黙を愛す(「鯉之図 昭和34年)

わが行く道に茨多し。されど生命の道は一つ。この道より我の生きる道なし。この道を歩く(この道 昭和35-40年)

この世に美しき物あるは我等の喜び(この世に美しき物 昭和47年)

一滴の水 書になり画になる よく生かしたし(昭和42年)

共に咲く喜び

君は君 我は我也 されど仲よき

和而不同

美愛眞

石を愛せ草を愛せ喜びその内にあり

読書さんぽ

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    近ごろ、運動のために20分くらいかけて歩いて図書館に通い、本を借りている。本を開く、その本どくとくの香りがただよってくる。期待に胸がふくらむ。至福の一瞬である。

シンガポール陥落

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    太平洋戦争における南方作戦は南方の石油獲得が目的であり、マレー作戦の成否は、以後の作戦に対して決定的意義を持っており、最も重要視された作戦であった。山下奉文中将指揮する三個師団基幹の第25軍は、昭和16年12月8日を開戦日を決定した。そして昭和17年2月15日にはシンガポールを陥落した。

    山下奉文中将と英軍パーシバル中将の降伏交渉は15日夜に行われた。日露戦争の乃木稀典将軍とステッセル将軍の会見場面を思い浮かべながら会見に臨んだ山下は、降伏条件の一つ一つに注文をつける英国式のやり方と、通訳の拙さに堪りかねて、「イエスかノーか」の回答を求めた。これが勝利に思い上がった傲慢な態度と宣伝されてしまい、山下が願った美しい会見の場は実現できなかった。

古代ローマ人の道路建設

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   すべての道はローマに通ず(ラ・フォンテーヌ「寓話」)

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  ローマ帝国は放射状の道路があらゆる地方へと結ばれ、いくつもの道路を建設したことで名高い。その建設には捕虜や奴隷が用いられ、全長は約8万㎞に及んだ。これらの軍道は建設した役人(ケンソル)の名をとってフラミニア街道、アエミリア街道、アンニア街道、カッシニア街道、サラリア街道、ラディナ街道などと名づけられた。その中で最も有名なのはアッピア街道で、前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスによって建設され、ローマからカプアまでいく道だった。後ベネウェントゥムを通ってブルンディシウムまで延長された。全長540㎞、幅8m。舗装の厚さは約1.5m。中央部をやや高くして、雨水が側溝に流れ込むように設計されている。土を盛ることを、ローマ人は「アッゲル」と言った。アッゲルとはもともと「土手」とか「城壁」を意味する言葉で、道路自体を周辺地盤より高く盛り上げることをいい、土手道とか盛土道と訳されることもあった。

    道路は最初は軍事用に建設されたものが多かったが、まもなく経済面で役に立つようになり、大量の商業運輸に使われた。州境では輸入税が課せられ、帝政時代後期には荷の積み過ぎを防ぐために荷車を検査する任務の役人がいた。道路維持経費の一部は、道が通ることで利益を得る地域社会が負担させられた。

リムスキー・コルサコフ夫人の肖像

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    フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター(1805-1873)の作品に「リムスキー・コルサコフ夫人の肖像」(1864)というロシア上流貴婦人を描いた名画がオルセー美術館にある。日本人からの観光客が見て誰もが驚く。女優の名取裕子に激似なのだ。リムスキー・コルサコフはロシア五人組の作曲家とは別人である。ロシアの名取裕子Madame Barbe(1833-1878)は、このとき 31歳で、45歳で亡くなっている。

2012年2月14日 (火)

芸歴50年

    芸能人の勲章の1つに「芸歴50年」がある。北島三郎が今年、メジャーデビュー曲「ブンガチャ節」(1962年)から50年になる。半世紀もの間、演歌界の看板であることは大したもの。もちろん50年以上の長いキャリアの芸能人は他にも多数いる。寅さん映画全48作に出演した三崎千恵子が老衰のため死亡した。90歳。1939年松竹演芸部に歌手として所属し、「ムーランルージュ新宿座」で人気スターだったという。芸歴70年を超える。山田五十鈴、森光子はさらに古いだろう。淡島千景、岸恵子、若尾文子という美人女優も芸歴60年を超える。男優は流石に60年を超えるかたは少なくなったが、津川雅彦「狐の呉れた赤ん坊」(1945)、三國連太郎は「善魔」(51)デビュー。落語家など古典芸能には多くいるだろう。宇津井健は「思春の泉」(53)、仲代達矢は黒澤監督の「七人の侍」(53)が映画デビュー作。品川隆二「こんな別嬪みたことない」(54)、宝田明「かくて自由の鐘は鳴る」(54)、中村嘉葎雄「振袖剣法」(55)、小林旭「飢える魂」(56)、高倉健「電光空手打ち」(56)、平幹二朗「貸間さがし」(56)、菅原文太「哀愁の街に霧が降る」(56)、里見浩太朗「天狗街道」(57)、ミッキー・カーチス「ウェスタンカーニバル」(58)、加山雄三「男対男」(60)など。脇役俳優ならもっと他にいるだろう。

NHK「タイトロープの女」で工場長の役で佐川満男がいい味をだしている。「佐川ミツオ」でロカビリー時代、人気歌手だった。映画「命みじかし恋せよ乙女」「背広姿の渡り鳥」も出演しており芸歴50年を超えている。

    ハリウッド・スターで芸歴70年以上といえば、ルイーゼ・ライナー(102歳)は「Sehnsucht 202」(1932)というドイツミュージカル・コメディ(ロミー・シュナイダーの母親マグダ・シュナイダー主演)で映画デビュー。今も現役俳優でいえばミッキー・ルーニー。

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死のサイン

    最近「GKB」という言葉が話題になった。2012年度の自殺対策防止強化月間の標語「ゲートキーパーベーシック」の略語である。自殺を考えている人のサインに気づき、声を掛けて見守ったりする人を指す。標語うんぬんよりも、年間3万人以上の自殺者がでる現実が問題である。

    なぜ人を死へ追い詰めるのか、その内的なものは他人からは知ることはできないが、現代社会の病理的なものを感じている。小説の世界でも自殺をほのめかしたものは、なにかしら純文学的なものとして、高く評価される傾向があるように思える。芥川龍之介や太宰治の作品には随所に死への暗示がなされている。吉行淳之介の短編「夏の休暇」を読んだ。短編で少年が主人公なので、夏の気楽な読み物と思って読んだのだが、結末は暗示的なものであった。小学生の一郎が若くてハンサムな父親に連れられて、夏休みにO島へ行く。母は病弱なので行かなかった。さわ子という美しい女性が現れる。どうやら父の愛人のようである。一郎がミミズに小便をかける場面がある。さわ子は「ミミズに小便をかけると、おちんちんが腫れるよ」という。一郎は汗で濡れたさわ子のブラウスをみて、ペニスが初めて勃起するのを経験する。だが一郎はミミズのせいで腫れたのだと思っていた。この小説は少年から大人へ変わろうとする自分の性を描いたものであろう。不可思議な行動をとる父との対比で描いている。父には死への暗示のようなものがみえる。もちろん読者は吉行淳之介の父は作家の吉行エイスケであることは知っているのだが、実名などは避けて、現実よりも小説の世界を描きたいのだろう。大島や熱海もO島、A温泉としている。父が一人で沖に泳いでいき、死んだのか、無事に生還したのかは、はっきりと書かれていない。父は自殺したのだろうか。自殺の理由は何なのか、はっきりとは書かれていない。最後の一文は「なにかしら解放感のようなものが、甘くひろがってゆくことにも気づいた」とある。いろいろに解釈できることが一層、文学的な芳香を放つのであろうか。生と死は、生きている者たちの永遠のテーマである。働き盛りの自殺者が急増しているが、最近ふさいでいる人に対して、周囲の人たちが自殺のサインに気づいて、何気ない一言をかけることも自殺防止の一助だと思う。

「自殺は殺人の最悪の形態である。というのは、それは後悔の念を起こさせる機会を少しも残さないからである。」(コリンズ)

桜庭一樹は女性だった・・・

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    知らないのは自分だけかもしれないが、編曲者、若草恵は男だった。山川千秋、柳田泉、美水かがみ、すべて男である。反対に尼子騒が兵衛、松本ひで吉、銀色夏生、恩田陸、桜庭一樹は女だ。本来の性とは異なる性を連想されるペンネームをつける意図は何んだろうか?

土井ヶ浜遺跡

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   国指定史跡「土井ヶ浜遺跡」人類学ミュージアム(下関市豊北町神田上891-8)は日本人のルーツがわかる人類学の博物館。発掘調査は昭和28年から始まり、昭和63年まで13次にわたる調査が行われた結果、弥生時代前期から中期の約300体の弥生人骨や副葬品が出土した。

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 一箇所に集められていた頭蓋骨

    弥生時代の人骨が多数出土したため、初めて弥生人の顔・かたちが判明した。彼らの顔・かたちは面長で、鼻根部が扁平で、高身長という、縄文人とは異なる容貌をしていることが明らかとなった。

    埋葬地にある遺体は、体の軸がほぼ東西になるように埋葬され、しかも頭をやや高くし、顔が西側を向くように、すなわち海岸の方向へ顔を向けて葬られている。

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聖徳太子は子沢山

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    世界史の人物で子沢山といえば「音楽の父」バッハが20人。インドのムガール帝国のシャー・ジャハーンですら14人。チャップリンは11人。平清盛16人、源為義26人、蓮如27人、織田信長17人、徳川家康16人、徳川家斉55人、常陸山55人、明治天皇15人、松方正義18人。

    意外に妃妾が多数いて子宝に恵まれていたのが聖徳太子。莵道具蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎、膳大郎(高橋妃)の4人の妃がいて、48年の生涯で7男7女の14人の子、孫5男2女(難波麻呂古、麻呂古王、弓削王、佐々女王、三島女王、甲可王、尾治王)がいた。山背大兄王は643年、斑鳩寺で妃妾・子弟とともに自害したとあるが、他の一族の事蹟に関しては不詳である。平安時代になると太子信仰が高まり、太子は超人的存在として伝説化された。

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蛍石

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   日本各地に産する鉱物のひとつで、色の変化にも富む。ふつうはほとんど無色か、深い緑色をしているが、紫外線を当てると、燐光を発する。このことから和名の「蛍石」が名付けられた。また、熱によって溶けやすいことから、英名「フローライト」(Fluorite)はラテン語で「流れる」を意味する「fluere」に由来する。

    古代エジプトでは、彫刻やスカラベ(ペンダント)に蛍石が使われていた。中国では、彫刻の素材として、300年の歴史がある。

風呂屋のペンキ絵

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    太宰治は、東京のアパートの窓から見る富士山をクリスマスの飾り菓子といい、天下茶屋から見た富士山を「風呂屋のペンキ絵」と言った。「おあっらえむき」にできすぎて「恥づかしく」俗な富士であると短編「富獄百景」で書いている。太宰独特のユーモア精神と通俗的な権威に対する反抗心でもある。

    都会の銭湯にペンキ絵が現れたのは大正になってから。大正元年、神田猿岩町にあるキカイ湯の店主、東雄三郎が子どもが喜んで銭湯に入れるようにと思い、川越広四郎画伯に依頼してペンキで富士山の絵を描かせたのが始まりという。しかしやっぱり富士山はいい。あの有名な言葉「富士には、月見草がよく似合う」と小説にある。この言葉は聖書の「マタイによる福音書」のソロモンの栄華と野の百合の対比を想起させる。だが太宰の欧米での文学評価のイマイチなのは、聖書からの引用が作品に深みを与えていなという指摘がなされていることにあるようだ。ドナルド・キーンも太宰が私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたか懐疑的であると述べている。海外では聖書の成句をヒントにした小話は文学的な深みを感じさせないようである。

冬来りなば春遠からじ

   イギリスロマン派の詩人シェリーの「西風に寄せる歌」(1819年)という長詩の最後の一句。「おまえ荒々しい精よ、わたしの魂となれ!烈しいものよ、 わたしとなれ!わたしの言葉を人類のあいだにまき散らせ!おう風よ、 冬来なば 春や遠からずや」 翻訳者は木村毅で、婦人雑誌に収録された。最初は「冬来なば」であったが、アメリカ映画が大正14年、日本で公開されたとき、邦題が「冬来りなば」となってしまったので、それ以来、「冬来りなば春遠からじ」として親しまれている。

負けて腐るな、勝って驕るな

   数ある名言、格言の中には最初に誰が言ったのかは、わからないものも多い。「愛されたいなら、愛しなさい」は古代ローマの哲学者セネカの言葉として知られている。ラテン語では「Si vis amari,ama.」

   ところがベンジャミン・フランクリンとする本もある。調べて見るとフランクリンの言葉は「もし愛されたいと願うならば、愛して、愛らしくしなさい」 If you would be loved,iove and be lovable.である。

   女優の池脇千鶴は名言をいくつか書いて壁に張っているそうである。「勝って驕るな負けて腐るな」「人の痛みを解かる人間になれ」「人に優しく」「自分自身を愛する」いずれも由来はハッキリしない名言ばかりだ。「負けて腐るな、勝って驕るな」は松下幸之助という説もあるが、池脇千鶴はテレビで長嶋茂雄だと言っていた。むかしの戦争アニメ「決断」の主題歌は「♪泣くも笑うも決断ひとつ 勝っておごるな敗れて泣くな」だった。

    「人間は40歳を越すと、だれでも自分の顔に責任をもたねばならぬ」は米大統領リンカーンの言葉とされているが、出典がわからず本当かどうか疑わしい。

雛人形の配座

  姫路にある日本玩具博物館では特別展「雛まつり 江戸と明治のお雛さま」が開催中である。江戸を中心に「段飾り」が発展する一方、上方では「御殿飾り」が優勢だった。建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(3人上戸)、警護にあたる随身(左大臣、右大臣)など人形を添え飾るもので、御殿を京の御所に見立てたところから、桜・橘の二樹も登場する。御殿飾りは明治大正時代を通じて京阪神間で人気があり、戦後には西日本で流行した。

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   雛人形の男雛、女雛の配座はどちらが上席か意見が分かれる。現在、商品として展示されている雛人形を見ると、向かって左側に男雛が配置されているのが一般的である。だが時代雛をみると、人形の配置は左右反対である。

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京阪風古今雛屏風飾り(江戸後期)

    江戸時代までは、男雛は向かって右側であった。これは古来日本では左側(向かって右)を上席とされてきたため、京風の時代雛では男雛が左側(向かって右)となっている。明治天皇が欧米風に倣って左側に立ったので、関東では左側となった。昭和初年の天皇皇后のご真影でも、向かって左に天皇、右に皇后が立っている。東京雛人形卸商組合が、それにならい、今日に至っている。関西では、伝統的に京風を守り、向かって右に男雛を配置することもまだ残っている。では、左右どちらに配置したらよいのか?さぞや悩まれる方も多いのではないだろうか。各家庭の今までのしきたり等で飾っていかれたらよろしいのではないでしょうか。

思わずクスっと笑える芸名

    世志凡太(せしぼんた)の芸名はフランス語の「セシボン」(それは素敵だ)からきている。むかしシャンソンの「セ・シ・ボン」がアメリカのジャズでヒットし、世界的に流行した。それにしても、粋でシャレていてクスっと笑える芸名だ。このように「駄じゃれ」「もじり」「あやかり」をベースに「クスっと笑える」のような芸名を探してみる。

    昭和を代表するコメディアン益田喜頓は、アメリカの喜劇王バスター・キートンに由来するが、やはり芸名に風格というか気品が漂う。山茶花究(さざんかきゅう)も九九の「3×3=9」がベースとなっているが、こどもの頃は「山茶花」が読めなくて「やまちゃばな」と言っていたのを思い出す。山茶花究と同じ「あきれたぼーいず」の芝利英はモーリス・シュバリエだそうだ。谷啓もアメリカのミュージカルスター・ダニー・ケイのもじり。久石譲もクインシー・ジョーンズのもじりだとは知らなかった。漫談師の森野福郎は、ほのぼの系の芸名でクスっと笑える。はせさん治は「馳せ参じる」(大急ぎで参上する)からくる。漫才師の南都雄二も「何という字?」から来ているらしい。味のある演技の右左田一平は酒好きで「そうだ、1杯やろう」から。二枚目の加勢大周は勝海周の語呂合わせらしい。佐藤B作は政治家・佐藤栄作のあやかり。反町隆史はボクサーの龍反町に因む。「およげ!たいやきくん」の子門真人はイエスの弟子シモン(ペテロ)からくる。キートン山田はバスター・キートンからくる。二つの芸名をかけあわす方法はよく使われるが、桜田聖子は桜田淳子+松田聖子。さくらももこは桜田淳子+山口百恵。歴史上人物のあやかりは、藤原釜足(藤原鎌足)、西郷輝彦(西郷隆盛)、ガッツ石松(森の石松)、根津甚八(真田十勇士の一人)など多い。駄じゃれ系としては本名をもじることが多い。モロ師岡、寺門ジモン、浅越ゴエ、たかたかし、のこいのこ、段田男など。

    たけし軍団にもユニークな芸名は多いが下品で侮蔑的なニュアンスがあり、クスっと笑えない。いまではメディカル・ドラマは多いが、その先駆となったのが「ベン・ケーシー」。白衣を着た医療漫談・ケーシー高峰は名前を聞いただけで、思わずクスっと笑える。

   作家の江戸川乱歩はエドガー・アラン・ポーのもじりということは有名であるが、花登筐がイギリスの劇作家バーナード・ショウに由来することはあまり知られていない。

    映画「群衆」を見ていたら、ホームレスのゲーリー・クーパーがジョン・ドゥー(John Doe)という名前。よくわからないが、名無しの権兵衛という意味だそうだ。

いとしのバレンタイン

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    寒い冬の日にも、薄日が差し込んで、春を思わせる天気が続いている。本当に春が待ち遠しい。今日はバレンタインデー。むかしからこの頃ラジオでかかる曲はフランク・シナトラの「マイ・ファニー・バレンタイン」と決まっていた。ネルソン・リドルの指揮・演奏でシナトラの名唱中の名唱。シナトラとキム・ノヴァック主演の映画「夜の豹」(1957年)に挿入されていた。もともとはロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャーズ作曲による1937年の作品。同年のミュージカル「ベイブス・イン・マイ・アームズ」で使われた曲だった。このミュージカルは2年後MGMで映画化され、ジュディ・ガーランドが歌って知られるようになった。バレンタインとは男性の名前。つまり、この曲はバレンタインデーとは全く関係がないのだ。「私のいとしのバレンタイン様」と女性があこがれの男性に思いを伝える歌である。女性が歌うべき曲ではあるが、なぜかチェット・ベーカー、フランク・シナトラなど男性の曲が多く、人気が高い。クリスマスソングは数限りなくあるし、卒業シーズンの歌も多い。なのにバレンタインデーの歌は少ない。パフュームの「チョコレート・ディスコ」、国生さゆりの「バレンタイン・キッス」(1986)ぐらいか。今日もスーパーのチョコ売り場で流れていた。歌詞のサビの部分では「バレンタインデー・キッス」と繰り返されている。

   2月14日のバレンタインデーで愛を告白し、3月14日のホワイトデーでその返礼をしたのち、4月14日のオレンジデーで愛を確かめ合う。ちなみに韓国では4月14日はブラックデーといって、バレンタインのチョコをもらわなかった人が黒ずくめの服を着て、黒飴を嘗めるという日がある。

コロンブスの卵

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    コロンブスが第1回の探検で西インド諸島のキューバ島などを発見してスペインへ帰ったとき、盛大な歓迎会が開かれた。その席上「コロンブスでなくても誰でも西の海へ航海すれば新しい土地は発見できたわけだよ」というささやきを耳にした彼は、テーブルに並んだゆで卵を指して「皆さん、これを立ててごらんなさい」と言った。その場にいあわせた人々が卵を立てようと、いろいろ工夫してやってみるが誰ひとりとしてできなかった。「あまり難しいことではありませんよ。まあ、わたしのやるのを見ていてください」といい、コロンブスはゆで卵のはしを少したたいて立たせた。「なんだ、そうすれば誰でもできる、なんでもないじゃないか」と言いあって笑った。彼は「そうです。卵を立てるなどなんでもないことです。でも、あなた方は誰ひとりとして気がつかず、私だけが気づいたのです。最初にやるのが貴く、大切なのです」と言って笑った。「コロンブスの卵」の話は、発見、創造性というものの難しさを教えてくれる。科学者の中谷宇吉郎も「立春の卵」という随筆で、落ち着いて静かにやってみれば、10分ほどで卵は立つ、と書いている。いま大学では、目の前に横たわる卵を生徒であるとして、体育大学生に、躓いている生徒を指導して、「卵を立てる」ことを実践する、という面白い授業があるそうだ。

黄鳥歌

   シェリー(1792-1822)は友人キーツ(1795-1821)の訃報に接すると、「アドネイイス」を書いてその死を悼んだ。映画「ローマの休日」でアン王女がシェリーの詩をキーツと思いちがいして、新聞記者ジョーと言い争う場面がある。韓国映画「ピアノを弾く大統領」に似た場面がでてくる。熱血女教師ウンス(チェ・ジウ)が韓国大統領ハン・ミヌク(アン・ソンギ)に罰として韓国の古詩「黄鳥歌」を100回書かせる。ところが一箇所「地」は「之」が正しいという。大統領は「地」が正しいと言い張る。結局、女教師が正しかった。そういえばこの映画「ピアノを弾く大統領」は身分違いの恋だが、「ローマの休日」の逆バージョンである。つまりハッピー・エンドだ。

    ところで問題の古詩は高句麗瑠璃明王の作(前17年)のもので韓国人なら誰でも知っている有名な詩らしい。

   「黄鳥歌」

翩翩黄鳥 楽しげに飛ぶ黄色の鳥よ

雌雄相依 つがいとなって相寄り添う

念我之独 自分と省みれば私は独りである

誰其與帰 誰とともに帰ればよいのだろう

    瑠璃王(前19-後18)は中国の史料「魏志東夷伝」に見える「騶」に比定される。つまり朱蒙(チュモン)東明王の子。瑠璃は新の王莽によって殺されたとされている。

崇徳院の怨霊

    保元の乱で後白河天皇に敗れた崇徳院は四国讃岐の地に流された。松山の浦に上陸された院は、3年間、綾高遠で過ごされた後、鼓が岡の木丸御所で6年間苦難の日々を過ごした。院は指の先から血をしたたらせながら五部の大乗蔵を写経した。その経文を都のどこかに奉納したいと願ったが、信西のために送り返された。院はこの恨みをはらすため自分の血で願文を書き、魔道に生きようとした。長寛2年死去、46歳であった。歌人の西行はかねてから院の知遇を得ていたが、その没後4年たって讃岐へ渡り、白峯(香川県坂出市青海町)の崇徳院の御陵を訪れている。そこで西行は真心をつくして院に諌めの言葉をかけるが、院の怒りを抑えることはでなかった。この話は上田秋成の『雨月物語』「白峯」にも伝えられている。後世になっても、天変地異があればよく崇徳院の崇りとされた。

ポンテ・ヴェキオ

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   ローマとミラノのほぼ中間の位置にルネサンスの発祥地フィレンツェがある。市街の中央にはアルノ川が流れ、ポル・サンタ・マリア街とグッチャルディ二街を結ぶポンテ・ヴェキオの古橋が有名である。

   現在に残るその橋は、1345年ネリ・ディ・フィオラヴァンテ作ということであるが定かではない。橋の両岸には2階建ての貴金属商の店舗付き住居が並び、その片側はパラッツォ・ヴェッキヨからパラッツォ・ピッティに至る渡り廊下(コリドイオ)が架けられている。

   桂冠詩人ダンテが、この橋のたもとでべァトリーチェを見染めたという話は、よく知られているが確証はない。

2012年2月13日 (月)

オプティカル・アート

    オプティカル・アート(Optical Art)とは、視覚的効果を狙った模様やデザイン。美しいものに共通する構成美の要素には、バランス(均衡)、強調(アクセント)、リズム(律動)、シンメトリー(均斉)、グラデーション(漸層)、ハーモニー(調和)、プロポーション(比例)、ムーブメント、コントラスト(対比)、リピート(繰返し)、アクティブ(活動)、ジオメトリック(幾何学的な模様)、アブストラクト(抽象的な模様)、イリュージョン(錯覚)、ネブラウス nebulous (不明瞭な模様) などがある。

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山内一豊、真田昌幸のような左右対称の名前

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    むかしから鏡文字といって左右対称の文字は縁起がよいとされる。身体そのものが基本的に左右対称のシンメトリーで各部分のつりあいがとれている構造なので、姓名学でも当然のことながら、左右対称はよいとされる。ところが著名人を調べてみても完全な左右対称は意外と少ない。明治大正期の哲学者・田中王堂、小説家の森田草平、教育者の山本鼎、劇評家の三木竹二、クラブ化粧品の中山太一、作曲家の大中寅二、高木東六、筒美京平。経営者の大西一、政治家の高市早苗、ラグビーの大西一平など。韓国ではノーベル平和賞の金大中。美人女優キム・ヒソンの漢字名は金喜善。キム・アジュンは金亜中。

    田中角栄、吉永小百合のようにほぼ左右対称の著名人は無数にいる。

平時子vs由良姫

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  NHK大河ドラマ「平清盛」第6話「西海の海賊王」。海戦シーンが見所だった。しかし視聴率は13.3%と急落。理由はわからないが、朝廷、平家、源氏と人物関係が複雑なのかもしれない。だが今回から頼朝の母となる由良姫(田中麗奈)と清盛の二番目の妻となる時子(深田恭子)が顔をみせた。平清盛vs源義朝、時子vs由良姫、というシンプルな構図を抑えてみればいい。実際は清盛が義朝より5歳年上。演ずる俳優は松山ケンイチが玉木宏より5歳年下というのが気にかかる。時子は清盛よりも8歳年下だが、深キョンはケンイチより2歳年上。由良姫の生年は不詳だが、玉木と麗奈は同年。おそらく由良姫はもっと若かっただろう。清盛役が若すぎる俳優のため、共演者と年齢のバランスがとれていない。主役の松山・玉木のライバルに視聴率がかかっている。深田・田中が絡むシーンはないだろうが、実際の2人はそのキャリアを調べると完全なライバル関係にある。深田が「FiVE」(1997)でデビュー、映画初主演が「死者の学園祭」(2000)。田中が「スーパー・ハイスクール・ギャング」(1995)でデビュー、映画初主演が「がんばっていきまっしょい」(1998)。ともに2000年代の日本映画界を支えてきた美人女優である。平時子、由良姫をメインに観ることにする。

バレンタインデー

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 皇帝クラウディウス・ゴチクスの命令で首を刎ねられる聖バレンタイン

    2月14日はバレンタインデー。ローマ帝国では、2月13日から15日まで豊穣と結婚の祭りルペルカリアが盛大に行われ、とくに2月14日はユノ(JUNO)の祭日である。むかしローマ皇帝クラウディウスが帝位についてほどなく、ゴート族を撃退し、「ゴティクス」という添名がついた。皇帝はより軍隊を強くするため、兵士たちが愛する妻がいると勇敢に戦えないとして、結婚を禁じた。ところが、司教のウァレンティヌス(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させたため、捕らえられ処刑された。あえてユナの祭日を処刑の日に選んで2月14日としたという。西暦269年のことである。311年、コンスタンチヌス大帝のキリスト教寛容令が出されてから、殉教者の聖バレンタインの人気がでた。いつしか聖バレンタインデーの記念日とされるようになり、愛する人に贈物をする風習が始まった。日本では1958年頃より流行し、女性から男性にチョコレートを贈る習慣になっている。

翻案それとも盗作?

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    山田洋次の映画「幸福の黄色いハンカチ」はピート・ハミルの小説を原作に翻案・映画化したものとしてよく知られる。むかしから外国の作品を自国の設定になおして、リライトすることはよくある。尾崎紅葉の「金色夜叉」も実はイギリスの小説「女より弱き者」(バーサ・M・クレー)を基にしているという研究がある。シェークスピアの「ハムレット」にも、「スペインの悲劇」(トマス・キッド著)という元になった話があったという。最近、ヨーロッパではスイスのヨハンナ・スピリ(1827-1901)の「ハイジ」(1880年)も1830年ごろドイツで出版された「アルプスの少女アデレード」(ヘルマン・アーダム・フォン・カンプ著)に筋が酷似していことが指摘され話題になっている。アルプスの山小屋に住む少女がドイツの都会に引っ越すという設定が同じなのだそうだ。翻案か盗作か、それが問題だ。

新井白石と康熙帝

    18世紀初め、幕府はオランダと清とだけは長崎で貿易を認めていた。またそれ以外にも、朝鮮に対して対馬藩、琉球に対して薩摩藩、アイヌ民族に対して松前藩が外交関係を結んでいた。とくにオランダ・中国は「通商の国」であり、輸入超過の状態が続いていた。清の康熙帝が統一をとげると、海上の平和が回復し、日本に来航する中国商船が激増した。このため新井白石は1715年に正徳新例とよばれる貿易統制を行なった。「信牌」とよばれる証明書を発行し、これを持参する者に限り貿易を認めるものである。だが中国では、伝統的に信牌とは朝貢国に対して与えるものであったため、清当局の一部で問題になった。白石は信牌は「日本の政府が交付したものではなく、唐通事が交付するものである」と抗議を行った。康熙帝もまた「これは通訳と商人の間で取り交わされた民間の証文にすぎない」として問題にしないとの裁可を下し、1717年には落着した。

愉快犯

    「愉快犯」とは世間を騒がせて、自分だけが楽しむ悪質きわまりない犯罪のことで、なんら実益が伴わない犯行である。 

    昭和52年1月4日早朝、東京港区高輪で青酸ナトリウムを混入したコーラによる毒殺事件が連続して起こった。最初の犠牲者は高校1年生の檜垣明くん。電話ボックス内にあったコカ・コーラを口に含んだとたん、「腐っている」と吐き出した。その直後、意識不明となり病院に運ばれたが午前7時30分頃死亡。

    もう一人の被害者は菅原博(46歳)。グレーの作業服を着たまま路上で死亡していた。解剖の結果青酸反応が検出され、中毒死と判明。続いて2月13日、大阪藤井寺で類似の青酸コーラ事件が発生してが、こちらは狂言だった。小山信幸(39歳)は狂言でコーラを飲んだりして騒ぎが大きくなりすぎたため、引っ込みがつかなくなり自殺したものと思われる。

    さらに、2月14日のバレンタイン・デーでは、東京駅八重洲地下街で青酸ナトリウムが混入されたチョコレート40箱が発見された。中箱の裏にカタカナで「オコレルミニクイニホンシンニテンチュウオクタス」(おごれる醜い日本人に天誅を下す)と書かれていた。

    東京港区の事件は1992年に時効が成立した。犯人は今もどこかで息をひそめ、誰かの生命をねらっているのだろうか。「愉快犯」という不気味な言葉はこの青酸コーラ無差別殺人事件から生まれたといわれている。

「平清盛」は本当に災いの種だった

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    NHK大河ドラマ「平清盛」の視聴率の低下が止まらない。毎回楽しみに見ているが、ドラマが活気があってよい出来栄えである。盛り上がらない第1の理由は、平清盛が活躍した平安末期が現代人からは想像しにくく、親近感がないからだろうか。第2は、ヒーローが義経ではなく、アンチヒーロー清盛で、無理矢理に善玉にしたてた作品では感情移入しにくい。第3は清盛の子、重衡が東大寺、興福寺を焼いたことに仏罰。第4は、崇徳院の崇り。第5は、ツーリズム、地域振興という美名に借りた商法への反感。大河ドラマの舞台=観光地、経済振興、という図式にもうイヤ気をさしているのだ。「柳の下にいつも泥鰌はおらぬ」という。同じ方法で、いつも上手くいくと思ってみても、そうはいくまい。この諺の類は、世界各国にある。英語表現にも似たものがある。

A fox is not taken twice in the same snare.(同じ罠で狐を2度捕らえることはできない)

There are no birds in last year's nest.(去年と同じ巣に小鳥はいない)

2012年2月12日 (日)

ホイットニー・ヒューストン急死

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Whitney Houston,one of the biggest superstars to emerge frome the 1980s,has died at the age of 48.Her biggest single on the Hot 100 chart is her iconic ゛I Will Always Love You",from her film ゛The Bodyguard".The track spent a staggering 14 weeks atop the list and at the time was the longest-running No.1 single in history.

ホイットニー・ヒューストンは1980年代からの最も偉大なるスーパースターの一人で、48歳で亡くなった。ビルボードHot100で14週連続No.1を記録する驚異的なヒット曲で彼女自身が出演する映画「ボデーガード」の主題歌「オールウェーズ・ラヴ・ユー」は史上最も長きにわたるNo.1シングルだった。

三内丸山遺跡の謎

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     三内丸山遺跡(青森県青森市三内字丸山)は縄文時代の前期中頃から中期末(BC3500~BC2000年)に存在した最大の集落跡。1953年より本格的な発掘調査が行われ、1992年からの発掘調査で、竪穴住居跡、掘立柱建築跡、貯蔵穴などが見つかり、集落全体の様子がわかるようになった。遺蹟のシンボルともいえる大型掘立柱建物(復元)の用途についてはさまざまな説がある。大きく建物説と非建物説(木柱列説)に別れ、具体的には祭殿や神殿などの宗教的施設、物見櫓、灯台、見張り台、天文台、トーテムポールなどさまざまな見方がある。

びた一文

    びた一文とは、ほんの僅かな金銭のこと。「びた」は「鐚」と書き「鐚銭」の略で、粗悪な銭のこと。「びた一文」は、室町時代から江戸初期にかけて使われた粗悪な一文銭のことで、中国から輸入した永楽銭一文に対して鐚銭四文が交換の基準となるほどで、貨幣価値が低かったことから、「びた一文まけられない」などと使われるようになった。鐚銭の「びた」の語源は、鐚銭が平たいことから、「薄べた」「平べったい」などの「べた」が転訛したと考えられる。

張松、益州の地図を献ず

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    三国時代、益州の地は、要塞堅固で物産豊富、「一州自活の地」たりえる経済力を有していた。益州の刺史、張松は劉璋に仕えていた。かつて魏へ使者として曹操に面会したとき冷遇されたため曹操を嫌い、劉璋へ劉備と結ぶよう進言する。張松は容貌は優れなかったが、才覚のある人物だった。劉備からの手厚い歓待を受けた張松は、益州の軍備や地理について詳しく語り、地図を献じた。後日、劉璋から劉備に内通したとして、その妻子ともども処刑されることになる。

ブルータスの母

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 「カエサルの死」ヴィンチェンツォ・カムッチーニ

  「ブルータス、お前もか」 シェイクスピアの芝居、「ジュリアス・シーザー」で有名なこの言葉が本当に史実かどうかはさておき、シェークスピアより先に芝居で使われていた名セリフだそうだ。ブルータス、正式名はマルクス・ユニウス・ブルトゥス。暗殺事件当時、母親のセルウィア・カエピオニスはカエサルの愛人だった。父はブルトゥスが幼い頃に死んでおり、彼はカエサルを父親代わりに育ったといわれる。カエサルもクレオパトラとの間にできたカエサリオン以外、子宝にはほとんど恵まれなかったので、彼を可愛がったといわれる。フィリッピの戦いで死んだブルトゥスの遺灰は母セルウィアの元に届けられた。彼女の晩年については歴史は何も記していない。

一所懸命か、一生懸命か?

    先日、テレビを見ているてある若いタレントが色紙に「一生懸命」と書いて、人生の目標としたい、という。ケペル世代では、中学生時代の書き取り試験などで「一生懸命」というのは誤りで、正しくは「一所懸命」だと覚えた。漢字書き取りの傾向と対策のようなもので、「危機一発ではなくで危機一髪が正しい」というのと同類の認識をもっていた。ところが、いつごろからか日本では「一生懸命でもよい」から「むしろ一生懸命のほうが良い」とまで進展しているらしい。若い人の説明によると、一所懸命は、ある人が一ヶ所の領地をめぐって、命がけでその土地を守ったことに由来するが、平和な今の時代人生において命がけで勉強する、とか頑張るという程度のことであれば「一生懸命」のほうがよいという。「一所懸命」と使うのは「俺は知っているんだ」という感じがでてしまう、という意見をネットでみた。言葉は変化しているものである。いろいろ調べてみても「一所懸命」は分が悪い。もともとは「必死」「「死にものぐるい」「背水の陣」という壮絶な死の覚悟があったが、本来の意味からトーンダウンして「生き死に関係なく、人生において「全力をあげて何かをする」という程度の気持ちなので使い勝手のよい言葉となった。「一生懸命」の大安売りである。武部良明「四字漢語の用法」を見ても「一生懸命」を見出し語としている。センスの問題だが自分は「一所懸命」のほうが気概とか覚悟が込められて真剣味を感じる。日本人でたった自分ひとりになっても「一所懸命」を用いたい。

平家人物考 「平明子」

  NHK大河ドラマ「平清盛」の人物相関図をみると、清盛の最初の妻は明子(加藤あい)、二番目の妻は時子(深田恭子)とある。コンサイス日本人名事典をみると、平時子の名はあるが平明子はない。平重盛の項を見ると、母は「右近将監高階基章の娘」とある。平明子は長男重盛、次男基盛の母であるが、詳細はわからず、生没年も不明であるが、早世したらしい。兵部権大輔時信女時子が正室になっていからである。子の基盛24歳で、重盛49歳で、ともに病死しているから明子も蒲柳の質であったかもしれない。重盛は武勇に優れ、後白河法皇を守り、清盛を諌め、「日本の三忠臣」とされるが、平家一門のなかでは孤立していたという。嫡男でありながら、実際に重んじられたのは時子の子息たち、宗盛、知盛、重衡らであった。明子は身分が低く、有力な親族が無かったためとされる。だが時子の子らは1185年にみな戦死するので、明子の末裔だけが命を取りとめる。1198年、維盛の子、高清が没して平家の嫡流が断絶する。人の命運とは不思議なものである。

小督と想夫恋

   平家物語に登場する女性の中で最高の美女は誰か。すぐに思うのは常盤御前や静御前かもしれないが、高校古典にでてくる小督が印象的だ。桜町中納言成範(信西の子)の娘小督は、その美貌と琴の名手として知られ、中宮(建礼門院)に仕えていた。そのころ少将であった冷泉隆房が彼女を見初め、熱心に歌や手紙を送る。はじめは消極的であった彼女もついに隆房の求愛を受け入れる。ところが、そのころ傷心の高倉天皇を慰めようと中宮が彼女を天皇のもとへつかわし、小督は天皇の寵愛を受けるようになり、隆房との関係は引き裂かれることになる。清盛がこのことを聞き、2人の娘の婿を小督に奪われたと激怒し、その怒りを恐れた小督は、密に内裏を出て姿を隠した。

   小督を失った天皇は深く嘆き、かつて小督の琴の相手の笛をつとめた源仲国にある夜その探索を依頼する。仲国はかすかな噂をたよりに嵯峨野を訪ね歩くがなかなか見つけることができない。

   「亀山のあたり近く、松がひとむら立っているところから、かすかに琴の音が聞こえてくる。峰吹く風か、松風の声か、それとも尋ねる人の琴の音か、半信半疑であったけれども駒を進めて近づいていくと、片折戸の家の中から、冴えた琴の音が聞こえてくる。駒をとめて聞くと、まさしくそれは小督の爪音だった。曲は何かと聞きますと、夫を想って恋うるという想夫恋(そうぶれん)の曲であった。やはりそうか。帝を恋い慕われて、琴の曲も多い中からわざわざこの曲を選んで弾いていらっしゃるお心のやさしさよと、仲国は感動し、腰から横笛をぬきとり、ひと吹鳴らしてから、門の扉をほとほとと叩くと、たちまち琴の音がやんだ」

   そして仲国は尻込みをする小督をなかば強引に内裏に連れ戻した。夜を徹して待っていた天皇は喜び、小督を密にかくまい夜ごとに愛したところ、姫宮(範子内親王)が誕生した。激怒した清盛は、小督を捕らえ尼にしたうえで内裏を追放した。彼女は嵯峨野あたりに庵をかまえて生涯を終えたという。こうした悲しみが積もって高倉院(1161-1181)も病にかかり死去した。

    小督(生年1157年)は佳人薄命という印象があるが享年を調べたが不明だった。1205年に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明である。50歳近くは生きたらしい。

日本の死刑制度 

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 網走刑務所居室

    近世死刑史で史実に記されるのは、慶長5年(1600)8月の石川五右衛門の釜煎の刑であろう。同年10月には関ヶ原の合戦で敗れた石田三成、小西行長が斬首されている。江戸期、鈴が森の刑場が有名で丸橋忠弥(1651)らが処刑されているが、幕末になると処刑者は増える。頼三樹三郎(1859)、橋本左内(1859)、吉田松陰(1859)、平野国臣(1864)、武市瑞山(1865)ら憂国の志士がいる。小栗忠順は新政府軍によって斬首された(1868)。

    近代になると、江藤新平は司法制度の整備に尽力したが、皮肉なことに自ら確立した司法制度の下、裁かれて死刑となった(1874)。大逆事件では検察側が「十一月謀議」をでっちあげ、幸徳秋水ら12人の無罪の人たちを処刑した(1911年)。敗戦後の1948年、東条英機らA級戦犯7人が絞首刑となっている。近代法治主義では、犯罪が行われてから法律をつくって裁くというのは、罪定法定主義と法律不遡及の原則に反するものであろう。2006年のサダム・フセインの場合も正義の裁判だったとは到底思えない。つまり戦勝国が演出した裁判ショーである。現在、オウム真理教の松本智津夫ら死刑囚121人が拘置されている。

    だが民主党政権になってから死刑執行は1回(2人)だけである。鳩山邦夫は安倍・福田内閣の1年弱の法相在任中に13人の死刑執行を命じた。刑事訴訟法で、法相は死刑確定の判決から6ヵ月以内に執行を命令するように定められている。法相が死刑廃止論者なのだろう。いま日本の死刑制度の是非が問われている。

我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ

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パトリック・ヘンリーの名演説

   パトリック・ヘンリー(1736-1799)は、ヴァージニア州の有能な弁護士だった。州の議員となり、1765年の印紙条例に対し、北米植民地が本国議会に代表を送っていないので、「代表なくして課税なし」とヴァージニア植民地議会の決議などで反対運動をひきおこした。1767年、本国議会は新しくタウンゼント諸法でガラス・鉛・茶などの課税を定めた。これも本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招き、茶を残し廃止されたが、反対運動の続いたマサチュセッツでは1773年、ボストン茶事件が起こった。1774年、大陸会議を開き、1775年レキシントンの戦いで独立戦争となり、翌1776年にはアメリカ独立宣言が発表された。1781年のヨークタウンの戦いで大勢が決定したが、1783年パリ条約によって独立が正式に承認され、1787年アメリカ合衆国法を制定、1789年ワシントンを大統領とする新政府が発足した。

   「我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な文句は、1775年3月23日、ヴァージニアの植民地会議が解散されたため、リッチモンドで開かれた非合法の人民大会においてヘンリーがおこなった演説の一部で、イギリスとの開戦を主張したものである。

できちゃった結婚

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    赤西仁、黒木メイサの結婚発表と同時におめでた発表、いわゆる「できちゃった結婚」が話題になっている。1977年、中村雅俊、五十嵐淳子カップルの同程度の衝撃度だろう。大先輩に倣い幸せな家庭を築いてほしい。内閣府の調査によると、「愛情があれば結婚前に性交渉を持つことは構わない」と考える若者は8割を超えている。多くの本や映画は、正式な結婚関係になくとも、男女間に愛があれば性的行動は道徳的にも正しいと考えている。10代の男女がデートをし、最初のうちは手を握ったりキスをしたりしているが、そのうちに局部を触ったりセックスするようになる。断わると愛していないと思われるので、お互いに淫行にいたる。多元的で寛容な日本社会では「できちゃった結婚」という言葉が社会的に広く知られるようになった。聖書では未婚の男女の性的関係をどのように見ているのだろうか。聖書では「神は淫行の者を裁かれる」とはっきり述べている。淫行と訳されるギリシア語の「ポルネイア」は、夫婦ではない者同士による生殖器の誤用を指す。姦淫。同性愛行為、獣姦なども含まれる。離婚に関しては聖書は許されている。ただし、淫行以外の理由で離婚することは認めていない。性格の不一致という理由で離婚することは神からみて好ましいことではない。

生没同日の偶然

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    太宰治は昭和23年6月13日、愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺した。2人の遺体は奇しくも太宰の誕生日である6月19日に発見された。そのため今官一(1909-1983)によって6月19日を「桜桃忌」と名づけられた。

    歴史上、生まれた日と死んだ日が同日の人物が数人いる。シェークスピアは正確な誕生日は不明であるが1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録に残っており、推定で23日が誕生日とされ、1616年の同日に、この世を去っている。室町幕府6代将軍足利義教は1441年の誕生日に赤松義祐に暗殺された。坂本龍馬は旧暦での同日、京都近江屋で暗殺されている。国学者の夏目甕麿(1773-1822)は溺死している。(旧暦同日)夏目は当時伊丹に住んでおり、昆陽池で遊んでいて溺れた。

   冒険家植村直己(1941-1984)は2月12日、43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日以降は連絡が取れなくなって、消息不明となった、命日は2月13日としている。

2012年2月11日 (土)

ハヤシライス誕生の謎

Photo_2 ハヤシライスの生みの親、早矢仕有的

   牛肉と野菜をトマト味で煮込み、カレーライスのように飯にかけて食べる料理ハヤシライスは誰がいつ考案したのか謎が多い。ウィキペディアによると諸説ある。①ハッシュ(細かく刻む)の意。ハッシュ・ライスが訛ってハヤシライスとなった②林子平の姉の子孫が考案した③丸善創業者の早矢仕有的が丸善で働く丁稚のために作った夜食ハヤシライス④牛肉を食べると「早死にする」から⑤門司港の食堂で「早いライス」から。いずれも珍説ばかりだが、とくに注目は、丸善の早矢仕有的(はやしゆうてき)だろう。早矢仕は安政のころ江戸に出て医学を学んだが、福沢諭吉に師事、医業をすてて商業に転身、横浜に丸屋商社を興し、店の主人を丸屋善吉と称して、洋書の輸入をはじめた。医業に関心があったことから、ハヤシライスを考案したという説も説得力があるように感じる。カレーライスが伝来したのが、明治維新前後、イギリス船によってカレー粉がもたらされた、とあるから日本人はハヤシライスのほうがカレーライスよりも先に食していたかもしれない。

阿部サダヲと藤原信西

   NHK大河ドラマに阿部サダヲが高階通憲という役で出演している。一般に藤原信西といったほうがわかりやすい。不遇な境遇から抜け出るため藤原頼長につき、また高階重仲の娘をめとり、高階通憲と名乗っている。今後、展開する保元平治の乱のキーパーソンとなる重要人物である。信西は「法曹類林」という判例集を著し、死罪を復活した。

    保元平治というのは日本史でも人間関係が複雑でわかりにくい。ドラマでイメージがつかめると理解しやすくなる。保元の乱では後白河天皇と崇徳上皇とが対立、戦が始まった。摂関家では関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、平清盛が叔父の忠正(ドラマでは豊原功補)が敵味方に分かれた。義朝(玉木宏)は父・為義(小日向文世)と戦った。平治の乱はその3年後に起きた。保元の乱の勝者同士の争い。信西を憎む藤原信頼と義朝が接近、義朝は清盛が熊野詣に出かけた留守中に御所を襲撃。二条天皇と後白河上皇を幽閉した。清盛は義朝追悼の宣旨を出す。乱に破れた義朝は、尾張国野間で、長田忠致に謀殺される。藤原信西は平清盛と結んで源氏を制したが、平治の乱で殺され都大路に梟首された。

子規庵

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 子規の机(レプリカ)

    NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放送されてから、根岸にある子規庵への来庵者は、それまでの1万人から倍増しているという。現在の子規庵は昭和25年に再建されたもので、子規が住んでいた建物は昭和20年4月14日の空襲で焼失している。正岡子規がこの建物に住むようになったのは明治27年で、故郷松山より、母八重と妹律を呼び寄せ、母子3人で暮らしていた。子規が没してからも友人や門弟が常に集い俳句や短歌の句会を催した。

信長が愛した女たち

   信長の正室濃姫や側室たちの多くは変時には安土城に居たと思われる。濃姫の消息は掴みにくいが、信長の母・報春院とともに安土殿とよばれていたのが濃姫と推定されている。織田家の過去帳にある「養華院殿要津妙玄大姉」慶長17年7月9日没とある。

    正室濃姫には子がないため、側室の生駒吉乃が信忠、信勝、徳姫を産んだ。つまり実質には吉乃が正室の扱いをうけていたが、変のときにはすでに亡くなっている。7男信高の生母、お鍋(興雲院)は、変後すぐに、岐阜の崇福寺に保護を加え、信長の菩提を弔った。秀吉からも敬意を払われ北の政所に仕えた。秀吉没後も500石が安堵されたが、関ヶ原合戦で息子の信吉(8男)が西軍に与したため、知行を失った。のち秀頼、北の政所からも知行を与えられ、晩年は京都で過ごしたと伝わる。「平家物語」の書写を公家に依頼するなど教養ある婦人だった。

信長の末子、長次(1574-1582)の生母の名前は不詳である。長次は関ヶ原の戦いで戦死した。

菅公の父、菅原是善

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                 菅家邸址 産湯井戸

    京都御苑の付近、菅家邸址に菅原道真産湯井戸がある。本当に道真が京都で生まれたのか、奈良の菅原町で生まれたのか定説はない。また母親も伴真成の娘となっているが、父の是善(833-850)が出雲に在任のとき村娘との間にできた子ともいわれている。是善は平安初期の学者で文徳・清和天皇の侍読となって「文選」や「漢書」の進講を行った。「日本文徳実録」などを編纂した。

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「菅公図」 小堀鞆音筆 東京大学大学院総合文化研究科教養部美術博物館蔵

愛された国王・アンリ4世

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    アンリ3世(在位1574-1589)が熱狂的なドミニコ会士の凶刃によって暗殺されヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世(1553-1610、在位1589-1610)がフランス国王に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの勅令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。ブルボン家のアンリ4世は35歳、均斉がとれた身体、活気にあふれ、威厳に満ちた歴戦のつわもの、柔軟な知性と明敏な政治力を持っていた。プロテスタントとカトリック双方の信頼を勝ち得て、フランスの王権は急速に強化された。シュリー公(マクシミリアン・ド・べテューヌ、1559-1641)を財務官に起用して、財政改革と農業保護にあたらせた。王とほとんど同年輩で、その同志にして友人、宗教内乱歴戦の勇将、王に改革をすすめこそすれ、自分はつねにルターとカルヴァンの肖像を壁にかけていた気難しく頑固な人物は、勤勉そのもの、吝嗇なまでに節約家であった。「耕作と牧畜とはフランスの二つの乳房」とは、彼の有名な言葉である。シュリー公にとって国土の復興とは、フランス農村の立て直しをはかることであった。農業とそれに従事する人間だけが、フランスに国富と平和をもたらす、というのが、彼の信念であった。もちろんシュリー公の仕事にも限界はあった。農業中心で商業、工業にはあまり関心がなかった。だが、明敏なアンリ4世は養蚕、絹織物、ゴブラン織などの工業をおこし、海外貿易に力をいれた。サミュエル・ド・シャンプラン(1567-1635)がカナダを探検してケベック植民地などの建設がはじめられ、東インド会社がつくられたのも、アンリ4世の治世のことである。

    アンリ4世は色事でも勇名をはせたが、一説に恋人の数は56人以上に及ぶという。最初の妻であるマルグリッド・ド・ヴァロアとはサン・バルテルミの虐殺という忌まわしい事件のため別居状態が続き、子供もなかった。アンリ4世はガブリエル・デストレとの結婚を望んでいたが、1599年4月にガブリエルは24歳の若さで急死した。身分の低さからガブリエルを嫌ったマルグリッドも、メディチ家の娘マリー・ド・メディシス(1573-1642)との縁組には応じた。国王47歳、新しい王妃は26歳であった。二人の結婚式は、1600年10月5日にフィレンツェ大聖堂で挙行された。アンリ4世は政務多忙のためフランスを離れられなかったので、トスカーナ大公が新郎の代理となった。荘厳な結婚式と1週間に及ぶ祝祭のあと、マリーは金襴緞子で飾られた豪華なガレー船でマルセイユに向けて船出した。そしてリヨンで初めてアンリ4世にまみえ、1600年11月にその地で結婚の儀は完了をみた。イタリア人のマリーはフランス語が喋れなかったため宮廷での暮らしは孤独だった。それを紛らすためか、マリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりする生活だった。だが翌年の9月には世継ぎであるルイ13世を出産した。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に王政の全権をマリーに与える布告を出した。夫妻の生活を取戻しやっとこれから王宮での穏やかな生活を送ることができると思われたが、1610年5月14日、狂信的なカトリック教徒ラヴァイヤックによってアンリ4世は暗殺された。国民の驚き、悲しみは、祖父により、父によって、子々孫々にまで語りつがれた。フランスの王のなかで、これほど死をいたまれた王はあるまいといわれる。勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的なこの王はまことに国民から敬愛されていた。

メアリー・カサット

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「庭で縫い物をする若い女性」 1880~1882年 オルセー美術館

    アメリカ東部ペンシルヴァニア州の裕福な家庭に生れたカサット(1844-1926)は、本国の正統派的な教育機関で絵を学んだのち、ヨーロッパで古典美術を研究した。人物の表情を巧みにとらえる才能が、ドガに称賛され、印象派展へと誘われる。女性の自由な外出が許されない時代だったので、作品はおのずと、母親や子どもがいる家庭的な場面を取り上げる。ただし、本人は終生未婚。縫い物に熱中している若い娘を描いた本作は、背景に斜めに道を走らせた構図が斬新である。

リメイク作品はオリジナルを超えられるか?

   市川崑や木下恵介が晩年、自らの作品をカラーで再映画化した。なぜ大監督は再映画化したがるのかその心理はよくわからない。リメイク作品がオリジナルより良いという例はほとんどない。アクションや特撮ものであれば技術の向上により面白い作品に仕上がるケースはある。しかし小津安二郎などの名作をリメイクすることは、かなり冒険に近いことである。山田洋次はここ数年、小津作品に関心を示している。既に舞台の演出で「麦秋」「東京物語」を手がけてきた。そして「東京物語」をモチーフに、舞台を現代に移し、家族の在り方を描く「東京家族」の制作を発表している。だが主演級の菅原文太、市原悦子、室井滋らは降板するという異例の事態。そして小津作品をリメイクすることに対して「天を恐れぬ所業」(河谷史夫)との批判もある。映画は観てから批判すべきだと思うのだが、なにやら暗雲がただよう。芸術は既成の名作を破壊して新しいものを創造していくことに真価があるとおもうのだが、80歳を過ぎた巨匠にはやはり過去をよりどころにするしかないのであろう。映画界も話題性と安全性とでリメイク映画が生れるのだろうか。文太との意見相違の真相も知りたいところである。

カティリナ事件

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 元老院で演説するキケロ(左)  マッカリ筆のフレスコ画

    没落貴族カティリナは、エトルリアを中心として各地に植民しているスラの退役兵など不平分子を戦力基盤としてクーデターを計画していた。このとき執政官となったキケロは元老院でカティリナを激しく非難し、死刑にするように提案した。カトも賛意を示したが、カエサルはカティリナが有罪であることには同意したが、懲役にするべきと主張し二人は対立する。カトはカエサルがカティリナ派と共謀したとして攻撃した。カティリナはイタリア北部へ逃れて挙兵したが、ローマ軍との戦いで敗死した。

井出ノ小路の大ヒノキ

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   知られざる神秘の山がある。井出ノ小路山(岐阜県中津川市)、標高1840m。阿寺山地の中でもとりわけ奥深い山には樹齢500年を越える大ヒノキが林立している。不入山といわれ江戸時代、樹木の伐採は厳しく禁じられた。尾張藩が管理し、内木家は山守(やまもり)として代々受け継がれた。現在も国有林として営林署が管理し、入山できない。ヒノキは10万本ともいわれるが、伊勢神宮や名古屋城のために伐採されるのは年間30本以内と定められている。

快楽主義と禁欲主義

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プレイボーイが販売されている国は赤、かつて販売されたことのある国はピンク

    雑誌「プレイボーイ」がアメリカのシカゴで創刊されたのは、1953年9月のことである。日本では集英社から日本語版も発売されているので、どんなにお堅い方でも男性なら一度は手にし、見たことがあるだろう。ところが世界では、販売はおろか持ち込みが禁止されている国も多い。全てのイスラム教国、あるいは仏教国、ヒンズー教国など宗教的理由や政治的理由からである。韓国、中国、インドなど比較的自由と思われる国でも販売されていない。意外なことだが、イギリス、カナダ、マレーシア、シンガポール、チリ、ペルーなどでも見ることはない。プレイボーイが販売されるのはアメリカ、日本、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ロシア、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、コロンビア、フィリピン、インドネシアなど世界の半数以下である。しかしかってのプレイボーイ帝国といわれた時代は過ぎさり、いまでは発行部数は減少している。現在はヒュー・へフナーの娘クリスティーがCEO(最高経営責任者)になっている。

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ヒュー・へフナー(85歳)は壮健。快楽主義と長寿は関係するのだろうか

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エレン・ストラットン

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リサ・ウィンタース

初期のプレイボーイはヌードもソフトだった。エレン・ストラットンやリサ・ウィンタース、名前を聞くだけで懐かしい

平成3人娘は売れるか?

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   かつて芸能界のジンクスとして女性3人組は絶対に売れるというジンクスがあった。美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみのジャンケン娘、団令子、中島そのみ、重山規子の銀座のお姐ちゃん、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりのスパーク3人娘、森昌子、桜田淳子、山口百恵の花の中三トリオ、ラン・スー・ミキのキンディーズ、トライアングル、わらべ、までか。このトリオの黄金比率もアイドル氷河期以降、ジンクスは忽然と消えた。ラジオっ娘、キャンキャン、少女隊、おかわりシスターズ、オリーブ、オナッターズ、オレンジシスターズ、ベリーズ、COTTN。記憶に残るアイドルユニットは、工藤静香、生稲晃子、斉藤満喜子の「うしろ髪ひかれ隊」、永作博美、松野有里巳、佐藤愛子(引退)の「ribbon」くらい。石川梨華、三好絵梨香、岡田唯(引退)の「美勇伝」、木南晴夏、酒井彩名、あびる優の「Licca」、後藤真希、松浦亜弥、藤本美貴の「ごまっとう」などなどユニットを結成しては消えていく。はして武井咲、忽那汐里、剛力彩芽の平成3人娘は売れるか?

フランス革命と浅間山大噴火

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    ギルバート・ホワイト(1720-1793)の「セルボーンの博物誌」は古典的名著である。セルボーンという場所はイギリスのハンプシャー州の寒村。1789年、フランス革命と同じ年に刊行されている。「1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こった」とある。この恐ろしい現象は実は日本とも深く関係している。浅間山は1783年5月9日から8月5日にかけて活動が活発化し、6月25日には大噴火が起こった。この時の噴煙は成層圏にまで達し、その後数年にわたって、そこに滞留したため、世界的な気候の寒冷化をもたらした。気温の低下は平均で、セ氏1.5度に達したと推定される。浅間山の噴火によって日本では天明の大飢饉が全国に及ぶが、その影響は海外にも及んだ。噴火の直後から小麦の不作がフランスを襲った。小麦価格の高騰がみられるような社会不安がフランス革命の動因となったと考えられる。気候変動が世界史を動かすことがある。

ベルト・モリゾ「夏の日」

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 ベルト・モリゾ  夏の日  1879年

    19世紀後半、女性の社会進出は限られており、ましてや画家になるのは困難をきわめた。パリのエコール・デ・ボザールも、1897年まで女性の入学を許していなかった。そんななか、裕福な家に生れたベルト・モリゾ(1841-1895)は、家族の理解にも恵まれ、画家として成功する。コローに師事して風景画を習ったのち、マネと知り合い、身近な人々を観察することの大切さを教わる。夏の強い日差しを浴びた光の描写がモリゾの特徴である。

エッチは息の長い流行語

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   広辞苑は流行語は採録しないという。ただし流行にとどまらず、言語生活に定着した言葉は現代語として収録する。「いけ面」「食育」「うざい」は6版より新収録された。「性的にいやらしい言動をする人やそのようす」を「エッチ」というが、昭和27年頃から使われた言葉で、戦後流行語の長寿記録といわれる。語源は変態(hentai)の頭文字、一説には彼(he)とも。英語では dirty-minded または lewd

   当初はスケベーの否定的な意味であったが、1990年頃からは、軽く肉体関係の意味で使われることが多い。トレンディードラマでヒロイン赤名リカが「カンチ、Hしょう!」という感じで使う。勿論いまでは広辞苑に採録されている言葉だ。つまり日本人はエッチが大好きな民族なのだ。

   米ドラマ「ヒッチコック劇場」を見ていると様々な精神病理をテーマとしたドラマが多い。分裂症、二重人格、閉所恐怖症、高所恐怖症、ヒステリー症、健忘症、アルコール依存症、変態性欲などなど。変態という語は大正初期に生れたもので、精神医学における術語であったが、一般社会でもすぐに広まった。主に変態性欲という意味で使われる。自体愛(ナルシズム)、持物愛(フェティシズム)、服装倒錯(コスプレ)、小児性愛(ペドフィリア)、少女愛(ロリコン)、少年愛(ショタコン)、老人性愛(ジェロントフィリア)、近親性愛(マザコン、ファザコン)、獣姦、屍姦、強姦、サディズム、マゾヒズム、カニバリズム、糞尿愛好症、虐待行為、露出症、窃視症、強姦強迫観念、ズーサディズム、テレフォン・スカトロジアなど。大正6年から昭和初期まで刊行された雑誌「変態心理」は神経疾患や異常心理現象に関して幅広い専門家から寄せられた論文が掲載され、精神医学の先駆となすものである。主宰者の中村古峡(1881-1952)は奈良県出身で明治40年、東京医専で精神医学を専攻し、昭和4年には中村古峡記念病院を開院。中原中也の診療したことでも知られる。中村古峡は夏目漱石の弟子で、小説も書き、代表作に「殻」(大正2年)がある。

デカルトとクリスティナ女王

   ルネ・デカルト(1596-1650)はスウェーデンのクリスティナ女王(1626-1689)の熱心な招聘を受けた。デカルトの親友シャニュ(1601-1662)がストックホルム駐在のフランス大使で女王にデカルトを売り込んだのだ。その19歳の若い女王はデカルトの「愛についての書簡」を読んで感動した。デカルトは寒い国に行くことは気がすすまなかった。しかし強引な女王は軍艦までよこして招聘につとめたのでさすがのデカルトも無碍に断われなくなった。1649年9月オランダを出発し、10月、ストックホルムに着いた。厳冬早朝の講義は、ひ弱で、朝寝の習慣を持っていたデカルトにとって身にこたえるものであった。1650年2月2日、デカルトは病気になった。風邪から肺炎にかかって2月11日早朝、あっけなく54歳の生涯を終えることになる。

アルクイユの水道橋

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 ギヨマン  アルクイユの水道橋

   印象派の画家アルマン・ギヨマン(1841-1927)は、鉄道会社やパリ市役所に勤めながら、余暇に絵画制作をしていたが、50歳のときに宝くじが当たり、本格的に画家として活動した。都会の生活感が作品ににじみでている。

最後の晩餐

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 最後の晩餐 ギルランダイオ 1480年

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 最後の晩餐 ヤコボ・バッサーノ 1542年

    伝承によれば、最後の晩餐は町の南西部にある友人の家でなされたという。食事は多分過越のごちそうであったろう。紀元29年に、もし過越の祭りが金曜日の夜にはじまったとすれば、ガリラヤの巡礼者たちは旅行の禁じられている安息日の前に帰らなければならなかった。それで、ごちそうを一日早く祝うことが許されていたのである。

   とにかくイエスはこの食事に特別な意味を与えた。パンをさき、ぶどう酒を与えて、彼は彼の来たるべき死を新しい約束、すなわち預言者エレミアによってバビロン捕囚の際に告知された「契約」に結びつけた。

    讃美を歌った後、イエスと弟子たちは、ケデロンの谷を横切ってオリーブ山に来た。山の斜面にゲッセマネと呼ばれる小さな園があった。ゲッセマネから、イエスは数分間で山の頂にいたり、ユダヤの荒野の深い峡谷を抜けて東にでも南にでも逃げることができた。逃げれば追跡者は彼を見つけ出すことはほとんど不可能であった。

   しかし、彼は逃げる道を選ぼうとはせず、ペテロとヤコブとヨハネとが深い眠りにおちいる間も、祈りつづけたのであった。

   ゲッセマネにおいて、イエスは自分で予期していたとおり逮捕された。弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、祭司たちと組んでイエスを裏切った。ユダは宮の警備兵の小さな分遣隊を連れてやってきた。多分その中には幾人かのローマ兵士たちもいたであろう。

   弟子たちは目をさまして、逃げ去った。そして警備兵は抵抗しないイエスを捕えて、大祭司カヤバの邸宅へ連れていった。そこにはユダヤ人の議会、サンへドリンの議員たちが集まっていた。サンヘドリンは死刑を命じる権限をもたなかったので、議員たちはただ、イエスの罪が死刑に値すると述べただけであった。そして彼らはイエスをローマの総督ポンテオ・ピラトのところへ送った。

海辺の画家ブーダン

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 トゥルーヴィルの浜 1867年

    ルイ・ウジェーヌ・ブーダン(1824-1898)はフランスのノルマンジー海岸オンフルールの水先案内人の子として生まれる。「ブーダンだけが空を知っている」とクールベが語ったように、生涯、海と空の風景を描いた。1858年、当時18歳のモネはブーダンと出会って、印象主義絵画開拓への一歩を踏み出す。

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死んだら股引を

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  神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(カール5世の父)は姿の美しいのが自慢で、つねに優雅にふるまうことを念願とした。祖先の一人が、火急の場合に便器にまたがったまま国務をとったのを最大の恥として、最もなれた従僕にも、便所にある姿を見せようとせず、隠れて尿をする癖があった。最後には、医者にもその陰部をみせまいとして、自分が死んだら股引をはかせてくれと、遺言を残したという。

レセップスは子沢山

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    スエズ運河開鑿者フェルディナン・ド・レセップス(1805-1894)は17人の子女がいた。写真では7人を連れてドライブするところか。インド・ムガール帝国の王シャー・ジャハーンは愛妃ムムターズとの間に14人の子がいた。J・S・バッハは2回の結婚で20人、喜劇王チャップリンは4回の結婚で6男5女の11人。世界史ではエジプトのラムセス2世(紀元前13世紀)が100人から200人の子どもがいたといわれている。

   日本では平清盛は16人(8男8女)、蓮如は27人、織田信長は17人(11男6女)、徳川家康は16人、伊達政宗は16人、11代将軍・徳川家斉や横綱常陸山は55人の子供がいた。明治天皇は15人。松方正義は18人。明治天皇に「お前の子供は一体何人いるか」と聞かれて、松方は「よく存じませんので、帰ってから調べます」と答えたそうだ。明治・大正時代の農家では10人くらいの子女は普通だった。最近の著名人で子だくさんのかたがたは次のとおり。

橋下徹    7人
高橋和也  6人
石橋正次  6人
タケカワユキヒデ 6人
馬渕澄夫(議員)   6人
谷原章介  5人
牟田悌三  5人
堀ちえみ   5人
薬丸裕英  5人
哀川翔    5人
菅原孝(ビリーバンバン) 5人
ケント・デリカット 5人
工藤公康  5人
川相昌弘  5人
山田隆夫    4人
中村雅俊   4人
加山雄三  4人
浜美枝    4人
中山秀征  4人
つるの剛士 4人
土田晃之  4人

    ブラッド・ピットはアンジェリーナ・ジョリーとの間に3人いるが、養子を含めると6人。記録に残る子沢山ナンバー・ワンは岡山藩主池田綱政(1638-1714)。健康にも恵まれ長命であったので、なんと70人以上の子供を作った。ぜひ、皆さんも子づくりに励んでください。

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悲劇は繰り返される

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    イタリア豪華客船コスタ・コンコルディア号転覆事故の映像をみると1970年代に作られた映画「ポセイドン・アドベンチャー」を思い出す。「タワーリング・インフェルノ」「エアポート75」と続々パニック映画が生れた。そのころ1971年12月24日、ソウルの高級ホテルで火災が発生した。大然閣ホテル火災は163人の犠牲者を出した史上最悪の惨事である。翌年の5月13日、大阪の千日デパート火災で118人の死者、1973年11月29日、熊本の大洋デパート火災で103人の死者が出た。1982年2月8日、東京都千代田区永田町のホテルニュージャパン火災で33人の死者が出た。横井英樹社長の徹底した合理化が生み出した悲劇だった。いま38階建てのプルデンシャルタワーが聳えている。

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 プルデンシャルタワー

2012年2月10日 (金)

螻蛄になる

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    所持金を使い果たして無一文になることを「螻蛄になる」という。語源は昆虫のケラから。ケラは地中に住み、土を掘るため前脚が大きく発達しており、つかまえると万歳をした格好になるので、お手上げになった状態にたとえたもの。また、ケラは裸虫ともいわれることから、衣服まではぎとられた者をたとえたとも。さらにまた、植物のオケラからで、根の皮をはいで薬用にするところから、身ぐるみはがれることにたとえたともいわれる。

釣り餌を食べた王安石

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 北宋の政治家・王安石には、そのユニークな性格を物語るエピソードが残されている。北宋は軍事費や外交費で危機的な財政状況であった。王安石は神宗の信任を得て、次々に新法と呼ぶ改革を行った。しかし、保守派はこれに反発し、新政を激しく非難した。これに対する王安石の報復もきびしかった。彼は清廉な人で、詩文にも長じていた。反面、自己の才能を過信し、他人の忠告を受け入れないという欠点をもっていた。頑固で自説をゆずらぬ強情さは彼の人気を一層低めた。その強情さはすさまじく、天子が臨席する釣りの宴席(賞花釣魚園)で誤って釣り餌を食べてしまった。しかしながら、王安石は一口で気づきながらも、途中でやめずに最後までたいらげたという逸話が残っている。彼のこの頑固な性格が、せっかくの改革を台無しにしたのである。

山口二矢と野田佳彦とは年の差、14歳しか違わない

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    総理大臣がめまぐるしく変わるのは、いまに始まったことではない。野田佳彦は歴代95代の総理大臣となったが、伊藤博文から126年間の間に62人で、単純平均するとおよそ2年間で交代することになる。野田の勝因の一つに演説の上手さがあげられる。相田みつおの詩「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ」と泥臭い庶民派を印象づけたのは成功だったと思う。自らの政治家になる動機として浅沼刺殺やケネディ暗殺をあげたこともよかった。54歳という年齢を考えると本当に記憶にあるかは疑問だが・・・・。浅沼刺殺は昭和35年11月2日のことで当時、野田少年はまだ3歳5ヵ月。山口二矢(17歳)が満場の聴衆の面前で野党第一党の党首を刺殺した胸中などわかるはずもない。二矢は11月2日、少年鑑別所で自殺した。事件は少年の単独犯となっているが、その背景は闇にほうむられた。野田にとって浅沼刺殺やケネディ暗殺は単なる過去の歴史の出来事としての印象でしかないのであろう。

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この度、妹と結婚しました

    自分の妻が死んだのち、その妹と結婚したというケースはよくある話である。小説家の本庄陸男(1905-1939)は妻の大屋清子が昭和9年に病死すると、10年に亡妻の妹たま子と再婚している。妻が死んでから、妻の妹という話はよくあるが、妻が生きているうち、妻の妹と結婚というのは珍しい。映画監督の羽仁進が左幸子と離婚し、四女の額村喜美子(左幸子の実妹)と再婚している。

琉球は沖縄か?

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    大江健三郎の著書「沖縄ノート」に、あるアメリカ政府高官に日本地図を書かせたら、四国や九州や北海道、そして本州よりも大きく沖縄を描いた、というエピソードがある。米軍基地はいまだ圧倒的な存在感でそこにある。そして多くの矛盾を抱える沖縄。

    沖縄に関係する文献を一瞥すると、書名に「沖縄」とある場合と、「琉球」とある場合がみられる。

沖縄の歴史研究会編『沖縄の歴史』 1984

高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』 1993

新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』 1994

中山盛茂編『琉球史事典』 1969

    このように名称一つ比べても沖縄問題は歴史的、文化的に複雑である。沖縄には沖縄の顔と琉球の顔があるといわれる。沖縄の文献上の初見は、8世紀に書かれた鑑真の伝記『唐大和上東征伝』である。ここでは「阿児奈波島」と書かれている。753年11月21日に沖縄に上陸している。そして12月20日、薩摩坊津(南さつま市)に到着した。「平家物語」(長門本)には「おきなは」という呼称が初めて見える。ただし、古代の東アジア世界では、一般的に用いられた名称は「琉球」であった。隋の煬帝が607年に朱寛を琉求に遠征させたとある。(「隋書東夷伝」)『隋書』の「琉求」の所在については、新井白石が琉求=沖縄説を唱え、フランスの学者が琉求=台湾説を唱えて、明治30年代から昭和30年代にかけて国際的な論争となったが、有力な学説はでなかった。明末のマテオ・リッチの「坤與万国全図」(1584年)には、大琉球と小琉球が描かれ、大が沖縄、小が台湾をさす。明代を通じて、「琉球」の呼称は東アジアに定着し、江戸幕府も琉球と呼んでいた。ところが明治日本は1872年、琉球王国を廃して琉球藩を設置し、国王尚泰を藩主とした、さらに、1879年に琉球処分により沖縄県とした。つまり琉球と呼ぶと古代からの独自の文化概念をも包括することとなるが、沖縄とすれば明治以降の日本の一つの県としての色彩が鮮明に出てくるのである。そういえば「沖縄タイムス」と「琉球新報」の2紙がある。

伝説の海獣ラガーフロットワーム現る

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    伝説の海獣ラガーフロットワームLagarfljot wormがアイスランドで発見されたという。巨大ヘビのような姿をしている。バルト海には謎の巨大物体がある。海底に沈むUFOだと噂されている。このような話は騙されても楽しいウソである。ネス湖の怪物、火星人来襲、雪男。日本発の話題はスケールが小さい。「あなたもGKB宣言!」「面白い恋人」パロッてなんぼのもんじゃい。

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日露戦争と号外

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    2月10日は日本がロシアに対して宣戦布告した日露戦争開戦の日である。国木田独歩の小説「号外」のなかで読者は「何度読んでも涙がこぼれる」と言っている。新聞は今とは違って美文調である。鈴を鳴らして「号外、号外」と大声で叫んで配っていた。赤刷りだった。明治37年3月27日の第2回旅順閉塞作戦は次のような感じである。

    「戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野兵曹長の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水甲板に達するをもって、やむを得ず、ボートにおり、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり」

    明治38年5月27日早朝の日本海海戦は次のとおり。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす、本日天侯晴朗なれども波高し」旅順の陸戦の模様については、「死屍は累々として相重なり、肉片は地上に飛散し、鮮血は淋漓として萌え出る若草を染む」とある。

東京タワー秘話 高さは380メートルだった

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    日本ではじめてテレビ放送が開始されたのは、昭和28年2月1日のこと。その年の3月末の契約台数は1485台にすぎず、100万台になるのは5年後の33年5月であった。最初はそれぞれのテレビ局が電波塔を立てて電波を飛ばしていたのだが、映りが悪いという苦情も多かった。そこで、各テレビ局が共同して使用する送信場所をつくろうと計画されて生れたのが東京タワーである。昭和32年に日本電波塔株式会社が設立されて、当時世界一だったパリのエッフェル塔より高くしたい、というので380mで設計された。ところが、9月に建設をはじめてみると、途中で資金不足をきたした。そこで、やむなく塔の高さを削り、333mで12月23日に完成した。それでも当時世界一の高さだった。そんな東京タワーも今年スカイツリーにランドマークの王者の地位を譲ることになる。

ジャン・ジョレス暗殺事件

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    フランス社会党のジャン・ジョレス(1859-1914)は独仏両国の社会主義政党の連携のうえに反戦平和の運動を推進しようとし、1914年サラエボ事件以後の国際情勢が切迫するなか、平和の意志を表明するため急遽パリ大会の招集を提案した。その直後の7月31日、彼はパリのカフェ・クロワッサンでラウール・ヴィランという熱狂的な愛国者に暗殺された。このころから各国の社会主義政党内に動揺が起こり、やがて第1次世界大戦が始まる。

キャサリン台風

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 キティ台風(昭和24年)平井駅に押し寄せる住民

    終戦直後の昭和20年9月17日は枕崎台風が鹿児島に上陸した。昭和22年の9月14日はキャサリン台風が関東に襲来。死者2247人。これから戦後の一時期、キャサリン台風、キティ台風など台風の呼び名には女性名が付けられるようになった。昭和28年の6月4日から気象庁がその年の発生順に台風に番号をつけるようになったそうだ。福田恒存の「キティ颱風」という戯曲があるが、なぜかその時代背景と結びついて記憶に残りやすいものである。昭和22年のキャサリン、昭和23年のアイオン、昭和24年のデラ、ジュディス、キティ、昭和25年のジェーン、昭和26年のルース、昭和27年のダイアナ台風等が来襲した。

離婚の代償

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     OS司会センター代表の末広幸子が、仲のよい夫婦が増えることを願って、1987年に制定した「いい夫婦の日」。日付は、「夫婦」の語呂あわせで2月2日。毎年この日に、「夫婦の日の集い」のイベントを企画している。また、この日を「Couples Day」として、国際的にも定着させていくという。

    世界で一番有名なカップルは誰れ?昨年11月8日から10日まで総勢6人の子どもを引き連れて来日したブラッド・ピット&アンジェリーナ・ジョリーは「いい夫婦」の最右翼だろう。娘シャイロと男女の双子の他、養子と賑やかなファミリー。ハリソン・フォードはカリスタ・フロックハートと2010年に結婚。カート・ラッセルとゴールディー・ホーンは入籍しない世界一の事実婚カップル。

    「猿の惑星」の女優へレナ・ボナム・カーターはティム・バートン監督と結婚し、2子あり。ナタリー・ポートマンは振付師ベンジャミン・ミルピエと結婚、2011年に男児出産。トム・クルーズは2006年にケーティー・ホームズと結婚、女児あり。ニコール・キッドマンは2006年に歌手キース・アーバンと結婚、女児あり。ジュリア・ロバーツは2002年に写真家ダニエル・モダーと結婚、3子あり。「あの頃ペニー・レインと」のアナ・パキンは俳優スティーヴン・モイヤと2010年に結婚。マシュー・ブロドリックとサラー・ジェシカ・パーカーには3子あり。

   バーブラ・ストライサンドの夫は「ワイオミングの兄弟」のジェームズ・ブローリン。ブローリンの子ジョシュはダイアン・レインの夫。つまりバーブラとダイアンは嫁姑の関係。

   韓流カップルではチャン・ドンゴン&コ・ソヨン。2010年に結婚、男児あり。ヨン・ジョンフンとハン・ガインは2005年に結婚。なぜか韓国芸能界にはビッグなスターカップルがいない。

   「ひだまりの詩」のル・クプルは中古ワゴンで全国行脚の末に大ヒット。フランス語で夫婦という意味だが、2人は2007年に離婚した。名曲「ひだまりの詩」が現在、聞けないのはあまりに悲しい。

   日本では今年になって芸能・スポーツ関係者の離婚の話題が多い。大リーグの西岡剛とモデル徳澤直子が離婚するらしい。西岡は2010年ロッテ時代に首位打者となり、ロッテの日本一に貢献した。メジャーリーガーと人気モデルの結婚生活は1年半で破綻した。宮崎あおいと高岡蒼佑、浜崎あゆみとマニュエル・シュワルツ、ダルビッシュと紗栄子、菊池桃子と西川哲、賀来千香子と宅麻伸。女性関係、金銭トラブルなど原因はさまざま。いまの日本はモンロー・デイマジォの頃のようだ。「僕は君のトロイ・ドナヒュー、君は僕のサンドラ・ディー」という歌が流行った。ご本人トロイとサンドラは結婚しなかった。サンドラは1960年ボビー・ダーリンと結婚したが、6年後に離婚。トロイは1963年にスザンヌ・プレシェットと結婚したが、9ヵ月のスピード離婚。青春スターカップルの愛は儚いものである。そして4人とも長命できなかった。離婚の代償は高くつく。

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ボビー・ダーリンとサンドラ・ディー

淀川の愛した映画

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   20世紀から21世紀になって最初の10年があっという間に過ぎた。 「20世紀は戦争の世紀だった」というのが歴史の語るところである。だが映像の世紀だったともいえる。残されたフィルムはそれまでの時代よりも圧倒的に多い。これら20世紀の膨大なフィルムを全て見た人はいない。だが淀川長治という映画評論家の存在は世界でも稀有だという。淀川長治は1998年11月11日に東大病院で亡くなった。89歳であった。黒柳徹子は弔辞で次のように言っている。「生きた映画の図書館が一つ消えたようなものです」と。まさしく多くの世代の日本人が淀川という映画図書館から学んだように思う。岩波ジュニア新書の中に「淀川長治さんが愛した映画30」というリストがある。「黄金狂時代」「街の灯」「モダン・タイムス」「独裁者」「ライムライト」「駅馬車」「風と共に去りぬ」「我が道を往く」「我等の生涯の最良の年」「仔鹿物語」「赤い靴」「禁じられた遊び」「シェーン」「エデンの東」「旅情」「鉄道員」「戦場にかける橋」「ベン・ハー」「奇跡の人」「サウンド・オブ・ミュージック」「黄昏」「E・T」「ドライビング・ミス・デイジー」「ニュー・シネマ・パラダイス」「フィールド・オブ・ドリームス」「ドクター」「ギルバート・グレイブ」「フォレスト・ガンプ」「世界中がアイ・ラヴ・ユー」「桜桃の味」である。

    30本のリストの中には淀川節の解説で見た映画も多く漏れている。おそらくとても入りきれないからだろう。「イントレランス」「散り行く花」「カリガリ博士」「戦艦ポチョムキン」「自由を我等に」「望郷」「嘆きの天使」「市民ケーン」「第三の男」「天井桟敷の人々」「わが谷は緑なりき」「自転車泥棒」「ローマの休日」「道」「第七の封印」「十二人の怒れる男」「死刑台のエレベーター」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバコ」「大脱走」「真夜中のカーボーイ」「大理石の男」「ルードウッヒ・神々の黄昏」など。映画評論家としての淀川の功績は「みんなを喜ばせて、なおかつ作品の質が高い」ことを力説し、以前の大学美学系の映画評論家とは異なる大衆の映画ファンを大切にしたことであろう。テレビでの解説が洋画ファンの拡大になった功績は図り知れないほど大きい。ほぼ20世紀の映画を観た淀川であるが、最晩年の1998年、1999年度製作の映画は未見に終わったものもあるだろう。1998年の韓国映画「八月のクリスマス」は見ただろうか。「シュリ」「JSA」は見ていないだろう。以下、淀川未見の作品。「アメリカン・ビューティー」(99)「グラディエーター」(00)「ハリー・ポッターと賢者の石」(01)「ビューティフル・マインド」(01)「ロード・オブ・ザ・リング」(01)「マリー・アントワネットの首飾り」「シカゴ」(02)「ブリジット・ジョーンズの日記」(04)「パイレーツ・オブ・カリビアン」(03)、「ミリオン・ダラー・ベイビー」(04)「クラッシュ」(05)「ディパーテッド」(06)「ノーカントリー」(07)「スラムドッグ$ミリオネア」(08)「ハート・ロッカー」(09)、3D映像の「アバター」(2009)など。この中で「淀川の愛した30本」に匹敵できる作品があるだろうか。

楽しい春がやってくる

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   子どものころラジオでよく聞いた歌。

「♪緑の森の彼方から、陽気な唄が聞えます。あれは水車のまわる音、耳をすましてお聞ききなさい」と、若い女性の明るく澄んだ美しい歌声。「森の水車」(作詞・清水みのる、作曲・米山正夫)だ。この曲は高峰秀子が昭和17年9月にレコード発売されたが、敵性歌謡とみなされ、発売禁止となった。広く知られるようになったのは、戦後のことで、昭和26年のNHKのラジオ歌謡で荒井恵子が歌ってからである。しかし荒井はNHK専属歌手のため、レコード化はされず、並木路子でレコード化された。ナツメロでテレビ番組で並木が歌っているのは見たことがある。だが、ケペルがラジオで記憶するのは荒井恵子のほうである。

    荒井恵子は戦後、農林省に勤務していたが、戦後の第2回「素人のど自慢」全国コンクールの歌謡部門で「南の花嫁さん」で優勝した。紅白歌合戦も6回出場している。

    ところで紅白トップバッターというのは、その時代の最高の可愛い歌手が登場する、という暗黙のきまりごとのようである。南沙織「17才」、天地真理「ひとりじゃないの」、小柳ルミ子「漁火恋唄」、山口百恵「ひと夏の経験」、岩崎宏美「ロマンス」、山口百恵「横須賀ストーリー」、桜田淳子「気まぐれヴィーナス」、榊原郁恵「夏のお嬢さん」、石野真子「ジュリーがライバル」など、最近では浜崎あゆみである。荒井恵子は昭和28年「ポカピカパカ」で紅白初出場はトップバッターを暁テル子に譲ったものの、「希望をのせて馬車は行く」(昭和30年)、「南の花嫁さん」(昭和31年)、「橇は飛ぶよ」(昭和33年)、「白菊の歌」(昭和34年)、「青い月夜の散歩道」(昭和35年)とトップバッターを5回も務めている。明るく澄んだ歌声に憧れる男性からは、顔が見られない苛立ちから、放送局にはラブレターが殺到したとか。

    画像は「平凡」の記事からだが、もちろん小柄で瞳の大きい女性が荒井恵子。大柄の女性はNHN東京放送劇団の七尾玲子。

第二次世界大戦の人的被害状況

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    第二次大戦の人的被害で最も大きいのは独ソ戦であろう。フランス、イギリスがすでに戦いに敗れたと確信したヒトラーは対ソ電撃作戦バルバロッサ計画により、1941年6月22日突如、ソ連邦に侵入した。ヒトラーはレニングラードを「地上から抹殺してしまえ」と命じていた。10月のはじめに、ヒトラーは「東部の敵軍は叩きのめした。2度と立ち上がるこことはあるまい」と宣言した。しかしヒトラーの楽観的な予測は、早計だった。ロシア軍は後退こそしたものの、その力は全ったく損なわれてはおらず、ドイツ軍はロシアの内陸部におびきよせられていった。ナポレオン配下の兵士たちと同様に、ドイツ兵たちも、ロシアの冬将軍に苦しめられ、冬季に入って戦線は膠着した。1942年春以後の攻撃は南ロシアに限定された。ドイツ軍スターリングラード攻撃に主力を集中したが、ソ連軍も抵抗し、激戦が続いた。11月19日、ソ連軍の新部隊がドイツ軍を逆に包囲し、補給を断たれたドイツ軍は1943年1月31日、司令官パウルスは降伏した。第二次大戦の人的損害は次のとおりである。(数値は軍人と一般人を含む)

ソ連       1800万人

ドイツ     1050万人

中国      2100万人以上

ポーランド 580万人

日本    310万人(厚生省援護局)

朝鮮     35万人

台湾      3万人

第二次世界大戦で全世界で約6000万人の犠牲者をだしたと推計されている。

人はそれをスキャンダルとよぶ

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    朝日新聞(2011.2.18)に「敗れざる40代女子」で元女流棋士・作家の林葉直子のインタビューがある。「将棋のプロになんか、ならないほうがよかったかな。そう思うことがあります」といきなりネガティブな話から始まる。「最初は私が電話番号のメモを渡したんです。電話がかかり、尊敬する上司に目をかけられたOLみたいな感じで舞い上がってた。でもね3ヵ月で飽きましたね。相手は有名人でしょ。ドライブにもレストランにも行けない。彼はとことんマイペース。定刻に来て、お酒飲んで・・・」それが中原誠の「突撃します!」だったのか。男と女のよくある話、それでいいじゃないか。あのジョン・F・ケネディは女好きだった。ジャクリーン以外にもマリリン・モンロー、オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレン、アンジー・ディキンソン。なんとマレーネ・ディートリッヒの名前まで挙がっている。関係なかったのは、ブリジット・バルドーだけか。チャップリンの認知騒動。ウッディ・アレンの養女虐待。マーロン・ブランドの息子の殺人。アラン・ドロンのマルコヴィッチ事件。克美茂愛人絞殺事件。ラナ・ターナーの娘の殺人。シナトラとマフィアとの関係。それらにくらべればビル・クリントンのモニカとの情事はかわいいもの。巨人の二岡がモナとの情事が発覚して、坊主になったりしたけど、色事で世間に詫びるのは相手の女性はどんな気持ちかなと思うことがある。愛は世間が裁くものじゃない。最近はSEXやエロスに過敏になりすぎて、ある美術館では、性的な作品に抗議がでて突如の中止になった。都の青少年条例が強化されたことも背景にあるらしい。

2012年2月 9日 (木)

20世紀ファッション・デザイナーベスト10

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 岸和田のコシノ洋裁店

    小篠三姉妹を世界的ファッションデザイナーに育て上げた、小篠綾子の生涯をモデルとしたNHK連続テレビ小説「カーネーション」がますます面白くなっている。劇中にデザイナーの名前が出てくるが、ブランドに興味がないので知らない。20世紀のファッション・デザイナー、ベストテンに入る人物くらいは覚えておこう。

ココ・シャネル

クリスチャン・ディオール

ピエール・カルダン

ローラ・アシュレイ

イヴ・サンローラン

カルバン・クライン

マリー・クワント

ジョルジュ・アルマーニ

ジャンニ・ヴェルサーチ

アンドレ・クレージュ

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 マリー・クワントはやっぱりミニ・スカート

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ユベール・ド・ジバンシィはオードリー・ヘプバーンと一緒にいても似合うほどの二枚目

災害、事故、パニックを忘れない

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    8日21時に佐渡で震度5強の地震発生。その後も9日12時、九州の日向灘で震度3、伊豆半島でも震度3。今世紀になって地球的規模で地震、津波、台風、干ばつなど自然災害が起こっている。また原発事故、飛行機、鉄道、船舶など人間と機械がもたらした文明による惨事もたびだひ起こっている。それは人間の技術に対する過信であり、奢りでもある。

チェルノブイリ原発事故(1986)、パンナム・KLLジャンボ機の衝突(1977)、日本航空ジャンボ機墜落事故(1985)、韓国「大然閣」ホテル火災(1971)、福島原発事故(2011)、奥尻島地震(1993)、阪神淡路大震災(1995)、トルコ大地震(1999)、アメリカ同時多発テロ事件(2001)、スマトラ島沖地震(2004)、ハリケーン・カトリーナ(2005)、四川大地震(2008)、ハイチ地震(2010)、ニュージーランド・クライストチャーチ地震(2011)、東日本大震災(2011)、東アフリカソマリア飢餓(2011)

やせたソクラテス

   昭和39年3月28日、東京大学の卒業式で大河内一男総長が卒業式に贈ることばの中で「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と訓辞した。当時、この言葉は流行語のように広まった。ところが、総長本人はこれを読み飛ばしてしまい、実際の卒業生はこの言葉を聞かなかったという。「痩せたソクラテス」にはパクリ疑惑がある。イギリスの経済学者ジョン・スチュワート・ミルの有名な言葉に「満足している豚よりも満足していない人間である方が良い。満足している愚か者より満足していないソクラテスである方が良い」というのがある。大河内の言葉をこの名言をかなり短くしたものだった。

ロバート・フルガムの「人生に必要な知識はすべて幼稚園の砂場で学んだ」この言葉もどこか聞いたことがある。ワーテルローでナポレオンを破ったウェリントンの言葉に「ワーテルローの戦いは、イートンの校庭で勝たれた」がある。

The battle of Waterloo was won on the field of Eton.

鄭永慶とカフェ

   歌人の穂村弘は言う。「カフェと古書店がある街は、良い街…」と。もともとヨーロッパにはタヴェルヌやキャバレのような酩酊の場所はあったが、覚醒作用の伴うコーヒーを飲む場所はなかった。イギリスのオックスフォードに最初のコーヒーハウスができたのは1650年のこと。ジェイコブスという。カフェは近代市民社会の発展と共に普及していった。日本で初めてのカフェは東京上野下谷に明治21年4月13日、開業した「可否茶館」。鄭永慶(18859-1895)という中国名前だが日本人。洋館2階建てで、新聞・雑誌を置いて閲覧させ、ビリヤード場、トランプ、クリケット、碁、将棋、図書室などが設けられていた。コーヒー1杯が1銭5厘。しかし赤字続きで明治24年に倒産。翌年、鄭は西村鶴吉という名前で渡米し、シアトルで没する。

元祖カワイイが人気

   中原淳一、内藤ルネが現在の「かわいい」の元祖として注目されている。21世紀になって内藤ルネ展など全国でよく催される。回顧ブームともいえるが、現代につながるものがある。絵描き歌を歌いながら、ガラス板に両手でお絵描きするパフォーマンスの水森亜土も「カワイイ」の後継者といえるだろうか。猫のキャラクターやカップルがキスするイラストも懐かしい。

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2人のシンデレラお玉とトンイ

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    BSプレミアムの韓国ドラマ「同伊(トンイ)」も終盤になる。貧しい身分ながら王の側室となり、後の名君主、英祖を産み育てるトンイの波乱万丈の生涯を描く。監督は「大長今」「イ・サン」の時代劇の巨匠イ・ビョンフン。主演は「春のワルツ」のハン・ヒョジュ、「大長今」のミンジョンホ役のチ・ジニ。ところで、時代はいつ頃の話だろうか。歴史年表で調べないと、東洋史専攻の私でもわからない。粛宗は朝鮮王朝第19代の王で在位は1674年から1720年と長い。徳川綱吉、家宣、家継、吉宗の時代である。清は康熙帝のころ。つまり、粛宗、吉宗、康熙帝と東アジアに名君が君臨した安定した頃である。民衆は有能な政治家、君主がいれば幸福に暮せるという。毎年、リーダーが交代したり、無能な政治家がいれば災害も起こり、塗炭の苦しみを味わうこととなる。NHKはドラマを通じてご政道の批判を暗にしているのではないだろうか。

   トンイ(同伊)の正式名は淑嬪崔氏(スッピン・チェシ 1670-1718)。宮廷のムスリ(雑事を担当する下女)出身。第19代粛宗の嬪(側室の最上位)となり、第21代英宗の生母となった。徳川に比定すると綱吉生母の桂昌院(1646-1709)に近い。庶民出身でありながら女性として最高位についたこと、玉の輿の元祖である。

    阿玉(お玉 1624-1705)は寛永4年、京都の八百屋仁左衛門の二女として生れたが、母が本庄太郎兵衛宗利に再嫁し、その養女となった。寛永16年、13歳のときお万(永光院)に従って江戸城へ下り、家光の寵愛を受けて徳松(綱吉)を生む。延宝8年家綱が没し、綱吉が将軍になると名実ともに大奥の実権を握った。お玉には宿敵お夏がいたし、トンイにはヒビンがいた。お玉が1702年には女性として最高位の従1位に上った。トンイはすでに1699年に淑嬪(正一品相当)となっている。お玉とトンイ、2人のシンデレラはよく似ている。

ネヴァ河の幻想

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    1821年、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーはモスクワのマリヤ貧民施療病院(現在、国立結核予防研究所)の官舎で生まれた。父ミハイル・アンドレイェヴィチは退職軍医、母マリア・フョードロヴナはモスクワの富裕な商家の出で、音楽や詩にも秀でた心の優しい女性だった。17歳のとき陸軍工兵学校へ入学、22歳でぺテルブルグ工兵隊に編入、製図課所属となった。1844年1月、23歳のドストエフスキーは、工兵隊に勤め始めてまもなく「ネヴァ河の幻想」と呼ばれる不思議な体験をした。

   その時、もうひとつの物語が私の目の前に浮かんできた。どこか暗い貸間、ある正直で心の清らかな九等官、彼とともに登場するのは、辱しめを受け、悲しみに打ち沈んだある娘。こうして彼らの物語全体に私の心は深くえぐられるような思いがした。

   これはドストエフスキーの文学の出発点を形づくる創造的啓示の瞬間であった。彼は文学に対する溢れるばかりの情熱を消しとめることができず、やがて工兵隊を退職し、失敗したらネヴァ河に飛び込む覚悟で「貧しき人々」の執筆に専念した。原稿は友人のグリゴローヴィチの手はずで、詩人ネクラーソフのところへ持ち込まれた。ネクラーソフは夜明け近くまでかかって原稿に目を通したあと、早暁、ドストエフスキーのアパートを訪ね、新進作家誕生を祝福した。2日後、無名の一青年はついに大批評家だったべリンスキーに引き合わせられ熱い賛辞を受ける。ドストエフスキーは後年「これは私の生涯のうちでもっとも感激的な一瞬だった。私は徒刑時代にこの時のことを思い出しては勇気を奮い起こしたものだ」と回想している。

  ドストエフスキーの晩年は比較的落ち着いた幸福な時期であった。1881年2月9日、サンクトペテルブルクで永眠した。享年59歳。

仏頂面の喜劇王

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W.C.フィールズ、チャップリン、バスター・キートン、グーチョ・マルクス

    ひとつの国の文化をまるごと知ることは、なかなか難しい。アメリカなどは戦後多くの文化が日本に移入したけれども、やはり本国に住んでいないとわからないものもある。先日、「刑事コロンボ」第44話「攻撃命令」を見ていると、犯人は映画ファンらしく古いポスターが飾ってあるが、一人の太っちょのコメディアンが日本にあまり馴染みがなくわからなかった。W.C.フィールズ(1879-1946)という。チャップリンとともに喜劇王と呼ばれた。腹話術、ビリアード、帽子とステッキなどがトレード・マークのボードビリアン。デブであまり笑顔は見せず、むくれっ面が特徴であるが、チャップリンと異なり、話芸(ジョーク)が売り物か。

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 20世紀の代表的喜劇人をあげるとすれば、チャップリン、バスター・キートン、マルクス兄弟、ハロルド・ロイド、W.C.フィールズ、ジャック・タチ、ルイ・ド・フィネス、フェルナンデル、ジェリー・ルイス、ボブ・ホープ、ダニー・ケイ、ウディ・アレン、ピーター・セラーズ、ロビン・ウィリアム、エディー・マーフィー、ローワン・アトキンスン。

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   日本ではルイ・ド・フィネスは禿げ頭の喜劇王で知られていますが、いま本国フランスではサルコジ大統領が若き日のルイ・ド・フィネスにソックリと評判です。

カミュ「異邦人」

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    アルジェの船会社に勤めるムルソーは、町のどこにでもいるような平凡な青年である。養老院に入れた母親が死ぬが、通夜に出席しても彼は涙ひとつ見せず、煙草を吸い、コーヒーを飲み、眠りこんでしまう。埋葬のとき母親の年を尋ねられても正確に答えられないし、周囲の人物の様子に気をとられている。アルジェに帰ると喪章をつけたまま海水浴にでかけ、浜辺でマリーという娘と出会い、夕方喜劇映画を見たあと夜を共にする。事務所ではよく働くが、栄転の話がでると断わってしまう。またマリーを愛しているわけではないのに、せがまれると結婚を承諾する。    ある日やくざ者のレイモンに手紙の代筆を頼まれ、それがもとでその情婦とのいざこざに巻き込まれ、招待されていった先の海岸で、彼とはなんのかかわりもないアラビア人を射殺して逮捕される。裁判の過程でこうしたムルソーの行為は、予審判事、検事といういわば伝統的価値の擁護者によってひとつひとつ検討されていく。彼らは行為のあいだに意図的な繋がりを見出し、悪しき本能が彼を殺人に導いたことを証明しようとする。彼らはしかし、すべては偶然のなせる業であると述べ、殺人の動機を太陽のせいにして、なんら悔悛の情を示さぬムルソーを、理解できぬままに、社会の敵、怪物とみなし、社会秩序の名のもとに死刑を宣言する。  ムルソーは不自由な牢獄の生活にもすぐ順応してしまうが、終盤近く彼を神の手に縋らせようとする告解僧にたいして怒りを爆発させ、それまでの自分の生き方の真実性をはっきりと自覚する。そして星空を眺め、そこに自分と同じ無関心のしるしを認めて、意識的に世界に向かって心を開き、幸福だと思う。

    1951年に発表されたカミュの「反抗的人間」は大きな反響を呼び、サルトルとの間に論争がおこり、やがて2人は絶交してしまう。1957年にノーベル文学賞を受賞するが、1960年1月4日、パリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァンにおいて自動車事故で死んだ。日本でタレントとして活躍するセイン・カミュは甥にあたる。(参考:「世界の文芸と主役総解説」)

2012年2月 8日 (水)

越中人国記

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 戦国大名朝倉義景

  越中とは西に加賀、北に能登、東に越後に囲まれた国であるが、国境は時代により変動する。ここではだいたい現在の富山県とする。古代の越中の国府はいまの高岡市伏木の地であった。732年田口朝臣年足が越中守に任ぜられたのが越中の国司の初めで、大伴家持が国司に任ぜられたのは746年である。保元の乱後の平氏の全盛期に平教盛、盛俊、業家らが相次いで越中の国司となった。1183年、源義仲は平氏の大軍を礪波山の倶利加羅峠(加賀と越中との境)で破り、入京した。鎌倉幕府が越中においた歴代守護の名は明らかでないが、1223年、名越朝時を北陸道の守護に任じて以来、名越氏が歴代越中の守護であった。建武中興に際して中院定清が越中守に任じぜられているが、足利尊氏の命を受けて守護普門蔵人利清らに攻撃され石動山に敗死した。建武以来30余年の間、越中の国は宗良親王の意を奉じた宮方と足利方の武士との抗争が続いた。戦国時代になると、織田信長の配下の佐々成政は1573年、朝倉義景を、1581年には上杉氏を討ち富山城に居城した。本能寺の変後、成政は織田信雄をたて主家の再興を夢み、豊臣秀吉と同心する前田利家を駆逐し、北越をその手に収めようとしたが、秀吉に降ってより越中の支配権は前田利家に移った。越中は江戸時代を通じて長く前田家加賀百万石の所領であった。

    民間では藩農政の末端を預かる初期の十村に、鳥尻村刑部、鳥村次郎右衛門、戸出村又右衛門、津幡江村宅助らがある。新田開発の功労者には、牛ヶ首用水四万石を開いた八町村善左門をはじめ、石黒信由、椎名道三、五十嵐篤好があり、また町人では塩野の開発者岡田屋嘉兵衛が知られる。富山売薬の開祖は富山藩2代藩主前田正甫と伝えられるが、富山の町人松井屋源右衛門が反魂丹の看板を掲げて諸国販売の途を開いた。冨商茶の木屋三郎右衛門も売薬商人で、一家相伝の奇応丸、熊参丸販売で財を築いた。阿曽三右衛門は礪波郡で福光、福野、津沢の3町を、また米屋少兵衛は婦負郡で八尾の町を開いた。文化の面では、瀬戸村彦右衛門は越中瀬戸焼の開祖であるが、ほかに色漆で知られる城端塗の小原治五右衛門、富山青貝細工の杣田光正、画家では虎の絵で知られる岸駒、明清画風の谷口藹山、京都大内裏便殿の絵を描いた吉田公均ら、ほかに天文暦学家の西村太冲(城端町簑谷)、蘭方医黒川良安(上市町)がある。明治にはいると、海運業で成功した馬場道久(東岩瀬)、安田善次郎(伏木)は上京して成功し、安田財閥を築いた。小説家の堀田善衛(高岡市)、歌人の渡辺順三(富山市)がある。

美しい横顔

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 ドロテア・ヴィーク

    絵画にしろ、ポートレートにしろ、やはり彫りの深い外国人のほうが美しい横顔がみえる。古典的な作品としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの「マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステの肖像」である。日本の洋画では藤島武二「芳恵」(1926)が有名である。

    ポートレートでは女優イングリッド・バーグマンやオードリー・ヘプバーン。男優では「偉大なる横顔」といわれたジョン・バリモア。

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政治に口出ししたければ金持ちになりたまえ

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  「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊が。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。法皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ官憲」

   この有名な「共産党宣言」の冒頭に登場するフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(1787-1874)とはいかなる人物であろうか。フランスは七月王政時代に産業革命がすすんだが、大地主・銀行家・大商工業資本家などの富裕層によって支配され、たとえば選挙権・被選挙権は一定額以上の納税者に限られていた。有権者はフランス全人口の数パーセントにすぎず、国民の大部分は政治から除外されている。ギゾーは野党の追求に、話が選挙権の拡大におよぶと、かならず「金持ちになりたまえ!」と選挙法改正に反対した。このため1848年2月、労働者や学生が蜂起し、多くのパリ市民も加わり二月革命が起こった。ルイ・フィリップは退位し、臨時政府(第二共和制)は、男子普通選挙法を認めた。ギゾーはロンドンに亡命し、以後は歴史研究に専念した。

芸と藝

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    芸(ウン)と藝(ゲイ)とは別字だった。芸とは南欧原産のミカン科多年草ヘンルーダのこと。防虫に有効な成分が含まれているとして書物に入れて虫害を防ぐ効果がある。藝を新体字にするとき、芸という字に、藝術の意味はなかったが、強い香気にどこか学術的な香りがしたのかわからないが、2つの別な漢字を1つにした。これには不評らしく現在でも「文藝春秋」「東京藝術大学」などのようにこだわって旧字をつかう団体もある。

アリの町の神父ゼノ

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    ポーランド出身の聖職者ゼノ・ゼブロフスキー(1891-1982)は長崎で被爆した。戦後、東京浅草のバタヤ街など全国各地で「アリの町」支援活動を始める。1982年2月来日したローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問した。ゼノに影響を受けた女性で、貧者への献身的な活動に身を投じて若くして散った「アリの街のマリア」こと北原玲子がいる。

捨欠伸(すてあくび)

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    俳句などで、五音にするため、「捨欠伸」とか「欠伸捨て」「大欠伸(おおあくび)」などの語を用いることがある。「欠」という漢字の読みは「ケン、かける、かく」とするのは、「缺」の新字体として、そうなったものである。本来、この字の読みは、「ケン、あくび」に限られていた。「欠伸」(ケンシン)という熟語が中国古典のなかに「君子欠伸し、日の早晏を問ふ」(儀礼・士相見礼)などと用いられている。「あくび」は日本の古辞書には「吹呿」(新撰字鏡)と登載されているが、徐々に中国式の「欠伸」となっていく。

千葉の女が乳搾り

    伊藤左千夫は千葉県の農家に生まれ、20歳のとき上京して、数年京浜間の牛乳店で働き、25歳のとき独立して錦糸町駅前に牛乳店を開いた。屋号は「乳牛改良社」と称したが、ほかに「芽の舎」とも「デボン社」ともいった。夏目漱石の「坊っちゃん」にこんな一節がある。「考えると物理学校などへ入って、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった」とある。芥川龍之介の実父、新原敏三は東京市京橋区入船町で耕牧舎という牛乳店を経営していた。

奈良という地名の由来

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    いま奈良が注目されている。「カーネーション」の糸ちゃん演じる尾野真千子は奈良県五條市出身。三輪山のふもと奈良県桜井市にある纒向遺蹟からは邪馬台国のものと思われる宮殿跡や遺品が発見されている。「奈良」は本来、「那羅」「平城」と漢字で書かれていた。JR大和路線の木津駅と奈良駅との間に平城山駅がある。「平城」は「平らにすること」をいう。ならす(平す)と同じ意味で、緩やかな傾斜の平らな土地を表したと考えられる。「城」は当時、中国の北魏に「平城」という都があったので、「ナラ」を漢字2文字で「平城(なら)」と読ませるようになったのであろう。

蟻鼻銭

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  きびせん。中国、戦国時代の青銅製貨幣の一種。平らな面に刻文があり、貝貨を模したものといわれる。蟻の顔に似た、解読できない文字をもつものが多いので、この名がある。片面は平らで、片面凸形、卵形をなす。長さは1.5~2.0㎝、重さは2~3gぐらい。楚の領域から多く発見されている。

ブライアンの汚点

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    ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(1860-1925)は最も人気ある政治家であったが、反進化論運動に加わったことが彼の汚点となった。1925年、テネシー州デイトンの高校教師スコープスは、生物の授業で進化論を生徒に教えたため、州法違法で逮捕された。アメリカ公民権連合(ACLU)は思想信仰表現の自由の侵害するものとして反進化論法に反発した。反進化論陣営は大物政治家ブライアンを投入した。ACLUはダロウに弁護を依頼した。だが判決はスコープスは有罪、100ドルの罰金刑となった。一般には、このモンキー裁判はダローがブライアンに神は実際に6日で世界を創造したわけでないと認めさせたことをもってダローの勝ちとされる。だが反進化論法が40年以上の間存続することとなり、モンキー裁判は痛み分けの結果で幕引きとなった。そして判決後まもなく、ブライアンが心臓発作で亡くなった。新聞には「田舎の聖人として殉教した」という、彼を揶揄する見出しが踊っていた。

後鳥羽上皇と伊賀局

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   伊賀の局は鎌倉時代、後鳥羽上皇の寵妃でもとは白拍子の亀菊といった。上皇は寵愛のあまり摂津国長江・倉橋の二荘を賜った。鎌倉幕府はこの荘園に地頭を補任したが、地頭の横暴が激しいという理由で、上皇はその地頭の罷免を幕府に命じた。しかし執権・北条義時は聞き入れず拒否したため、この事件が一因となって承久の変が起こった。上皇は承久の変に敗れて、隠岐島に配流され同島で没した。いわば伊賀局も傾国の美女といえなくもない。

    伊藤小坡(1877-1968)は、三重県宇治山田(現・伊勢市)の猿田彦神社の宮司の長女として生まれた。明治31年京都に来て、谷口香嶠に師事。大正4年第9回文展で「制作の前」で三等賞となり、以後文展、帝展に出品、大正8年日本自由画壇の結成に参加したが、翌年には竹内栖鳳のすすめで脱退し再び官展に帰った。上村松園につぐ閨秀作家といわれる。昭和43年に90歳で没した。

〒マークは最初は「丁」だった!? 

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  明治20年2月8日、「逓信省」(テイシンショウ)は郵便マーク「〒」を制定した。逓信省の頭一文字、片かな「テ」を図案化したものといわれる。「逓」とは「つたえる」という意味。「次々と横に渡していく。リレーする」という意味がある。唐代駅伝の制度は都長安を中心に整備されたが、郵による官文書の逓送が行われた。「長安を出で逓に乗じて行く」と白居易の詩にもある。明の洪武帝は官物の輸送を担当した役所「逓運所」を設置している。日本では江戸時代、飛脚制度が整備され、江戸・大坂間は「定六」といわれて6日間が通例で急行が4日間であった。逓信省の語源は明らかでないが、郵便・電信・船舶管理・灯台業務を処理する機関であることから、駅逓+電信から逓信となったのか、本来から逓信という漢語が使用されていたのか定かではない。しかしながら、「逓」という字は戦前は小学生でも読めただろうが、現在では大人でも読めない人がいるだろう。

    〒マークは最初は甲乙丙丁の「丁」だったという。ところが外国では郵便料金不足の表示「T」と紛らわしいとわかり、「〒」に変更したといわれる。

2012年2月 7日 (火)

魔法の亀

    アメリカの細菌学者ハンス・ジンサー(1878-1940)の自伝「彼の追憶R.S.の伝記」(1940)にこんな話がある。

    第二次世界大戦前のパリ。小さな店の女主人と店の2階に住む学生がいた。店の正面の出窓には水槽があり、ちっぽけな亀が飼われていた。学生は自室の窓から身を乗り出せば、水槽のなかで楽しげに泳ぐ亀をまっすぐに見おろせることに気づいた。女主人は毎日せっせとパンくずを振りまき、ペットに餌をやっている。そんなある日、あることを思いついた学生は、サイズのちがう6匹の亀と釣竿と網を買ってきた。彼は翌朝早く、窓から身を乗り出して、釣竿で亀をすくいあげ、少しだけ大きなものと取り替えた。学生は6日にわたって、毎朝亀を少しずつ大きなものに取り替えていった。2回目の入れ替えがあったあと、女主人はようやく変化に気づいた。4回目までには、奇跡の成長を遂げる亀のことを興奮しながら近隣中に触れまわった。獣医はあまり餌をやりすぎないほうがいいともっともらしい助言を与えた。6日目に水槽が窮屈になるほど亀が大きくなると、女主人は新聞社に連絡した。パリ・ミディ紙はこの話を載せた。この時点で、学生が買った亀はもういちばん大きなサイズにまで到達していた。そこで、今度は元のサイズになるまでだんだん小さくしていくことにした。これがさらなる反響を呼んで、店の売り上げは記録的にのびた。珍しい亀を見ようとあちこちから野次馬が押しよせてきたのだ。やがて、亀が元の寸法にもどると、学生はもうじゅうぶんだと思い、代役を演じた亀たちを川に放してやった。ペットが急成長したほんとうの理由をまるで知らない女主人は、この珍しい亀を王立動物園に寄贈した。ふたたび大きくなりだすであろう亀を生物学者たちが観察できるように。

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昭和っぽい

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 なとなくGメン75を思い出させる

   東京スカイツリーのユニフォームがネットでは「昭和臭い」という評判である。昭和を知らない世代が増えると、古臭いもの、時代遅れな感じのものを揶揄したくなるらしい。「昭和臭い」とか「昭和っぽい」という表現をよく耳にする。もっとも昭和どっぷりの世代は、「昭和っぽい」と言われて喜ぶ人もいるから人さまざまである。ある世代には心地よく感じて、ある世代には古臭く感じる。とくに音楽などはもっとも嗜好がハッキリしている。歌番組が視聴率を獲れなくて少なくなったのも、そのような時代の変わり目だからだろう。「戦後」という言葉が消えゆくなかで、今われわれは、戦争で犠牲となった310万人(数値は厚生省援護局発表)に対しても、歴史から学んでいかなければならない。

海底に眠るUFO?

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    難破船を捜索していたスウェーデンの海底探査会社がバルト海の深さ80mの海底に謎の巨大物体があると発表した。その形状から未確認飛行物体ではないかとする説まで飛び交っているが、杳として正体は謎に包まれている。こういった話はウソであっても楽しい。騙されたのが楽しいというウソもある。1934年に発表されたネス湖の怪物、1938年の火星人来襲のラジオ放送、雪男など大騒ぎさせられたが、ホッと息ぬきさせられる。人を騙すことは決して誉められたことではないが、ユーモアのセンスは必要だろう。

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マリー・クワントとミニスカート

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    NHK朝ドラ「カーネーション」がますます面白くなってきた。長嶋が巨人に入団したころを今ドラマで描いているが、同じ頃、ロンドンでバザール店を出したマリー・クワントが1958年頃から、スカート丈を短くしてミニスカートとして売り出した。やせっぽちのモデルのツイギーが膝うえ20㎝のスカートで登場し、日本にもミニスカートブームがやってくる。「カーネーション」ではどのように描かれるのだろうか。

英語ことわざ

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A day after the fair.市の次の日(後の祭り)

Love is blind. 恋は盲目(恋路の闇)

Love sees no faults. 恋は欠点を見ない(痘痕もえくぼ)

All good things come to an end.

どんなよいことにも終わりがある

It is no use crying over spilt milk.

こぼれたミルクを見て泣いても無駄だ

One is never too old to learn.

学ぶのに年齢はない

There is no royal road to learning

学問に王道はない

Do to others what you would be done by.

己の欲する所を人に施せ

Tomorrow will take care of itself.

明日は明日の風が吹く

See Naples and then die.

ナポリを見て死ね

After pleasure comes pain.

喜びの後には苦しみがくる

Today you,tomorrow me.

今日は人の身、明日は我が身

Walls have ears.

壁に耳あり

Silence is golden.

沈黙は金

Out of the mouth comes evil.

口は災いの元

Make haste slowly.

ゆっくり急げ(急がば回れ)

Bad news travels fast.悪い知らせは早く伝わる(悪事千里を走る)

謎の邪馬台国の仮面

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    纒向遺蹟から2007年に出土した木製仮面。第149次調査において、太田池の底で確認された土坑より出土した仮面は、長さが約26㎝、幅が約21.5㎝。アカガシ製の鍬を転用してつくられ、口は鍬の柄の穴をそのまま利用しているが、両目部分の穴は新たにあけられており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現が見られる。また眉毛は、線刻により表現されており、その周辺にはわずかに赤色塗料が付着していた。これまで縄文時代の土製仮面の存在は知られているが、弥生時代や古墳時代の仮面の実例はほかに見られない。この仮面が実際に祭祀に使用されたのかどうかはわからない。

気になる小説

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  「まほろ駅前多田便利軒」三浦しをん。東京のはずれに位置するまほろ市の駅前で、便利屋を営む多田のもとに、高校時代の同級生・行天が転がり込んできた。ペットのあずかり、塾の送迎、納屋の掃除・・・。原作も映画も観ていないが平成版「俺たちの旅」なのか。

「やさしいため息」青山七恵。まどかは社会人5年目で友人なし。恋人は3ヵ月前に出て行ったばかり。そんなまどかの前に、行方知れずの弟の風太と緑くんが現れる。孤独だけど不幸ではない。ため息をつきながらも、平凡の中にある非凡なもの、そこに気づくことができたら、人生はより色鮮やかに見えるのではないか。

「食堂かたつむり」山本文緒。失恋のあと、倫子は故郷に戻り、実家の離れで食堂を経営する。ここの料理を食べると、恋や願い事が叶うというまことしやかな噂とともに、食堂が評判になる。「ショコラ」「かもめ食堂」など繁盛記。

「乱暴と待機」本谷有希子。復讐相手として憎まれている限り、お兄ちゃんが私から離れていくことはない。「復讐」「お兄ちゃん」「2段ベット」で構築された世界。愛情関係よりもずっとずっと確実なつながりを祈るように求め続ける男と女の物語。

北方領土の日

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    1855年2月7日、日露和親条約が調印された。この条約は両国の国境を択捉島とウルップ島との間と定めたもので、北方四島は日本の領土と確認された。

文豪の父ジョン・ディケンズ

    チャールズ・ディケンズはイギリスで最も人気のある、そしておそらく最大の小説家である。チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズCharles John Huffam Dickensは、1812年2月7日、ポートシー町(のちポーツマス市に編入)の一区ランドボートに生まれた。現在のコマーシャル・ロード393番地で、その家は博物館になっている。父のジョン・ディケンズはその地の海軍主計局の事務員だったが、チャールズが9歳の時に、父は一家をまとめてロンドンに出て来た。彼は小説『デイヴィド・コパフィールド』に登場するミコーバーのモデルだけあって、金銭にはだらしなく、多くの借金を背負い込み、遂に投獄される。これからチャールズの苦難の時が始まる。小説のミコーバーはこれといった収入はなくとも、好きな酒を飲み、贅沢な物を食べるので、借金が日増しに増えるが、彼はそんなことは一向気にしないで「そのうちどうにかなるさ」と、いつもうそぶいている。この人物は多くの読者に喜ばれたために、ついにミコーバリズム(楽天家)という語が一般に通用するようになった。「年収20ポンドだとする。その人の支出が19ポンド19シリング6ペンスならば、あの人は幸福であるが、支出が20ポンド06ペンスならば、その人は不幸である」と、デイヴィドに語っている。放漫家の彼がいかにももっともらしい講釈をするのだから、誰でも笑わずにはいられない。

シェークスピアの名言

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まことの恋が平穏無事に進んだためしはない(夏の夜の夢)

人生は歩きまわる影法師(マクベス)

今が最悪の事態だと言える間は、まだ最悪ではない。(リア王)

ばかの愚かな行いは、いつも知恵者の砥石になるものですわ。(お気に召すまま)

過ぎ去った不幸を嘆くのは、すぐにまた新しい不幸を招くもとである。(オセロ)

美しさはつかのま

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 ティツィアーノ 「聖愛と俗愛」 ボルゲーゼ美術館

    あでやかさは偽りであり。美しさはつかのまである。しかし主を畏れる女は、ほめたたえられる。(箴言31-30)

   井上ひさしは、ある時、大辞典をひもといて、男についての言い方を調べた。すると、男子、殿方、紳士、旦那、偉丈夫、快男児、猛者、野郎、勇者、烈士、志士、悪夫、健児、益荒男、壮漢など230種あった。ところが、女のほうを調べて卒倒せんばかりに驚いた。なんと700種以上もの言い方があったという。貞女、淑女、聖女、悪女、姐御、色女、淫婦、采女、姥桜、石女、大年増、おぼこ、女盛り、佳人、麗人、看板娘、貴婦人、閨秀、紅一点、小娘、女子、処女、女性、女房、女流、手弱女、童女、刀自、女人、妖婦、令嬢、毒婦、獏連、白鬼、すれっからし、魔性の女、あげまん、さげまん、慰安婦、酌婦、グラマー、ヴァンプ、細君、柳腰、御侠、嫋やか、オバタリアン、コギャルなどなど。彼の結論は、鬼女、美姫、悪女など男の三倍もあるのは、女は男の三倍化けるからだというものであった。つまり聖書の箴言では「女性の見かけの美しさは偽りで、たとえ美しくとも、長続きはしない」と忠告している。誰にそう言っているかというと、女性にも、男性にもである。女性に対しては、「若いときの華やかさはやがてすたれるものであり、また、美しく着飾ったところで、地は変わるものでないからすぐに現れてしまう。それよりも神様を信じ、心を清められた女性になりなさい」と言っているのある。また、男性には、「外見の美しさに心を奪われるのではなく、神様を信じて、心の清められた女性に目を向けなさい、そういう人を探しなさい。そのような女性こそ、永遠にかわらない美しさをもっているのですよ」と教えているのである。

ズボンを巡る争い

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    西欧中世には「ズボンを巡る争い」というテーマの奇妙な図像が多数残されている。これは力を持つ男に対し、持たない女が力でズボンを奪取するという逆転の発想から生まれたものである。この場合、ズボンは主権、あるいは優越性の象徴である。画像では、男女が同時に一つのズボンを引っ張っているが、どちらが優勢なのは判然としない。多くの図像は女性が優位であるという。フランスの各都市に民衆版画店が栄えた時代にこうした画題のものが好まれた。同類のテーマに女が四つんばいになった男の馬乗りになるものもある。まるで谷崎潤一郎の「痴人の愛」ナオミズムの世界だ。女性上位の源流は西欧中世にあり。

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2012年2月 6日 (月)

藁井文暁

    「花屋日記」(1811年刊)は芭蕉の死をめぐる事情を門人たちの手記や手紙の形で記したものである。従来は本物として信じられてきたが、大正末ころから研究者によって、これは俳人あるいは僧侶の藁井文暁(1735-1816)が創作したものであるとわかった。偽作とはいえ、芥川龍之介がこれを素材に「枯野抄」を書いたり、島崎藤村が「わたしは枯尾花にある其角の追悼よりも、はるかに花屋日記を愛する」とまで言わしめている。

和算の開祖、毛利重能

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毛利重能の顕彰碑(兵庫県西宮市)

    西宮市の熊野神社に「算学神社」がある。毎年8月8日は「そろばんの日」でソロバン供養祭が開催される。算盤は中国では2世紀に作られた。日本に伝来したのは安土桃山時代の頃。「日本風土記」(1570年代)には「そおばん」と表記されている。豊臣秀吉の家臣の毛利重能が明から伝来したとも言われる。重能は京都でそろばん道場を開いて、多くの塾生を育てた。吉田光由、今村知商、高原吉種などの弟子が輩出した。江戸時代、商業が盛んになると算盤は普及した。

呂尚の離婚

    周の呂尚は若いころ、馬氏の娘を娶ったが、毎日、読書ばかりしていて働かなかったため、妻は愛想をつかして実家に帰ってしまった。やがて、呂尚は西伯に見出され、出世したため、妻は復縁を求めてきた。呂尚は盆の水をこぼし、「この水を元に戻せたならば、復縁に応じよう」と言った。そこで呂尚は「お前は1度別れたのに復縁を求めてきたが、こぼした水は戻せない」と言って断った。覆水、盆に返らず。英語にも諺がある。

It is no use crying over spilt milk.こぼしたミルクを見て泣いても無駄だ

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雪崩に注意

   暖かくなると斜面に積もった雪が解けて、大量に崩れ落ちることがある。「雪崩」(なだれ)この言葉は、もと、動詞だった。「去年は大雪だったよ。よく雪崩てね」(川端康成「雪国」)とある。「なだれこむ」「なだれる」の古典語形「なだる」。連用形が「なだれ」。むかしは「雪頽」(なだれ)と文明本節用集にみえる。「雪頽」という表記は明治になっても見られる。

2012年2月 5日 (日)

ことわざで見る諸葛孔明

   日本でいう「三人寄れば文殊の知恵」と同様のことわざが中国にもある。「平凡な靴屋でも、三人集れば諸葛亮の知恵」(三個臭皮匠、合成一個諸葛亮)という。智謀の軍師・諸葛孔明は兵法だけでなく、知恵の象徴でもある。
    日本では孔明といえば劉備との理想的な君臣関係(「三顧の礼」「水魚の交わり」)として知られ、至誠至忠の臣、南朝の忠臣・楠木正成に比せられることが多い。俗諺に「楠も孔明も跣足」というのがあった。「跣足(せんそく)」とは、はきものをはかない、すあしのこと。智謀の優れたことをいい、よい智恵の出た時などに使う言葉だった。

原子力開発への警告

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  原子力潜水艦ノーチラス号

    この1年で大きく変わったことは国民の原子力政策に対する意識であろう。もはや原子力の平和利用という呪文も通用しなくなった、もともと日本はエネルギー資源の貧しさから、被爆国でありながら、基本的に原子力政策は支持されてきた。子どもたちに人気のあった鉄腕アトムというロボットは原子力を動力としている。ウェツプの「ノーチラス号北極横断記」は子どもたちによく読まれた。1960年代、海運国の日本は将来に予想される原子力船時代にそなえて、原子力船「むつ」の建造を計画した。1969年、「むつ」は船体は石川島播磨重工業で、原子炉は三菱原子力工業で完成され、就航した。だが1974年、北太平洋航行中(青森県尻屋岬東方80km)に放射線漏れをおこした。陸奥湾漁民らは帰港に反対し、むつは9月5日からおよそ1ヶ月以上も漂流をつづけた。10月14日に協定が締結され、15日ようやく大湊定係港に帰港した。1993年、原子炉を解体撤去し、現在は海洋地球研究船「みらい」と名を変えて活躍している。アメリカの核物理学者イングリスは「平和の名を借りた」ものとして批判した。そして「日本がアメリカのように原発推進の道をとらず、他の平和エネルギー開発のパイオニアを目指すよう助言したい」(1974.7)と見解を発表している。

地名「別府」と「大分」

   「別府」という地名は、全国各地に大字、小字も数えると40ヶ所以上もあり、読み方も「べふ」「べぶ」「べっぷ」「べっぶ」あるいは「びょう」「びゅう」など特殊な読みが九州にあり、さまざまである。つまり大分県の温泉地の別府だけの固有の地名ではなく、平安時代末期から鎌倉時代、荘園の租税を特別扱いするところをさしたものである。大分県の別府は宇佐八幡宮の荘園があった。免符が与えられて新たに新田開発されたところも多い。「別符」と表記されることもある。かつて兵庫県の加古川には「別府鉄道」が走る別府という地名あるが、荘園領に由来するものであろうか。

    県名「大分」もなぜ「おおいた」と読むのだろうか。これまで「豊後国風土記」による景行天皇が訪れた際、「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田(おほきだ)国と名づくべし」と言ったとして土地の広大さや「大き田」から転しだとされてきた。しかし「碩田」より「大分」のほうが古いということがわかった。「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていた。「オオキダ」は大きく刻み分けられた所と解されている。この地の周囲は山や川によって大きく刻まれた地形だったことに由来する説が有力である。

死んでいた千坂兵部

    いま放送中の「赤穂浪士」(大佛次郎原作、1979年)では、山村聡が千坂兵部に扮し、重厚な演技をみせている。義士討ち入りのとき、実父吉良義央を助けるために出兵しようとする上杉綱憲を押しとどめる。だが実際には刃傷事件のとき(1701年)には千坂はすでに死んでいた。(元禄13年、1700年没) 千坂兵部の名前は大佛次郎の筆によって有名になったのだろう。最近の忠臣蔵では色部又四郎に代わっている。ところが本当に上杉綱憲を押しとどめた人物は、稲葉丹後守正通とも、畠山義寧(1664-1746)とも言われている。

癒し系

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    缶コーヒー「ジョージア」のCMで飯島直子が「ひとやすみ、ひとやすみ」と呼びかける。こんなセリフに和んだ人も多いのではないだろうか。それまで、90年代のCM女王といえば西田ひかる、内田有紀、広末涼子など明るく元気なアイドルが主流だったが、世紀末になると、ふっくらとして軟らかい肌の感じの大人の女性が好まれるようになった。優香、本上まなみ、井川遥、井上和香、釈由美子、吉岡美穂、安めぐみなど癒し系タレントがグラビアを飾った。たがみんな30歳を超えて結婚していく。現在の癒し系は誰れ?綾瀬はるか、蒼井優、皆藤愛子。佐々木希や宮崎あおいは癒し系かどうか意見の分かれるところである。癒し系は激減したようだ。

笑えない寒ぶいギャグが好き

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  朝日新聞に「永遠に笑える!不滅の昭和ギャグ」のランキングが載っていたことがある。①谷啓の「ガチョ~ン!!」②藤田まこと「あたり前田のクラッカー」③ツービート「赤信号、みんなで渡れば怖くない」④牧伸二「あ~あんあ、やんなっちゃった」⑤コント55号「なんで、そ~なるの!?」⑥ハナ肇「アッと驚く、タメゴロー~」⑦植木等「およびでない?およびでない?」⑧イヤミ「シェー!!」⑨ビートたけし「コマネチ」⑩志村けん「カラスの勝手でしょう~」とある。

異議あり。戦後の一時代を風靡したギャグは伴淳の「アジャパー」だろう。花菱アチャコの「無茶苦茶でござりまするわ」「わたしどうしましょう」も傑作だった。戦前なら高瀬實乗の「(アノネ オッサン ワシャ)カーナワンヨ」だろう。林家三平「どうもスいません」、由利徹「カックン」、東京ぼん太「夢もチボーもない」、個人的に好きなギャグはストレートコンビの「千葉の女が乳搾り」、パイレーツの「だっちゅーの光線」。

   ギャグも上手に使えば、その場の雰囲気を盛り上げるが、失敗するとミジメ、ミジメー~、なシラケ状態になる。むしろ白けるような、寒イボができるギャグがないだろうか。ルーキー新一の「知らない、知らない」と言いながら乳房をつまんで、腰をかがめていくギャグを知らないだろうか。「これはエライことですよ」というのもある。東京ぼん太「夢もチボーもないよ」、人見きよし「ホント、ち~とも知らなかった」、仁鶴の「どんなんかなあ」、鳳啓介の「ポテチン」も好きだ。植村花菜の「トイレの神様」は「♪月亭可朝の嘆きのボインがルーツなんやで~」。

大佛次郎記念館

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   「おさらぎじろう」と正しく読める人も少なくなっただろう。「だいぶつじろう」と読めば笑われるかもしれないが、家が鎌倉の大仏の裏にあったのでペンネームにしたそうである。横浜の港の見える丘公園には大佛次郎記念館がある。自筆原稿や遺品が多数・展示されている。「鞍馬天狗」「赤穂浪士」など時代小説家のイメージが強いが、「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」などのノンフィクションでも知られる。東大、外務省という体制の中にいる面と、反権力、反骨精神と両面性のある人であった。日記などを読むと、毎日ビフテキや高級料亭へ行くかと思うと、数十万円の洋書を買う。ラジオで王貞治のホームランに喜ぶ意外な一面がある。司馬遼太郎の作品はすべて読んでいたが、感想がない。若手の台頭にライバル視しているようにも思える。インテリでありながら、「軽薄でオッチョコチョイで気まぐれ」とは自身でも知っているようである。昭和30年代、自動車の交通量が増加すると、いちはやく人間優先を新聞に提唱し、のちのナショナル・トラスト運動へと発展していく。大佛次郎は決して忘れられない作家だ。

「社会の窓」英語で何て言うの?

   男子のスボンのチャックを俗に「社会の窓」という。これは昭和23年から放送されていたラジオ番組「インフォメーションアワー・社会の窓」に由来すという。女性の場合を「理科の窓」というらしいが1度も聞いたことがない。「社会の窓」は英語で「fly」。

学問に王道なし

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  「学問をするのに安易な方法はない」という意味で良く使われる言葉である。英語では「There is no royal road to learning」という。この言葉は誰が誰に対して言った言葉であのか、諸説ある。一般にはユークリッドが、エジプトのプトレマイス1世に諭したと伝えられる。有名な「ユークリッド原論第1巻」のブロクロスの注釈にあるからである。ところがこんな挿話もある。アレクサンダー大王がリュケイオンでメナイクモスから幾何学を学んでいた。あるとき、「幾何学を学ぶのに早分かりの方法はないのか」とたずねた。メナイクモスは答えた。「おお、王様、国中には私道や公道がありますが、幾何学に王道はごさいません」と言ったとギリシアの著述家ストバイオスは記している。こちらのほうが話としては面白いとおもうのだが。

アベック

   アベックというのはフランス語で、「~とともに」という意味。日本では「カップル」と同意語でよく「男女、特に恋人同士の2人づれ」という意味で使われた。むかしトニー谷が司会の番組「アベック歌合戦」があった。「死語大全」という本では今では死語となっているそうだが、自分は今でも使う。野球では、打者が連続して本塁打を打つことを「アベックホームラン」という。英語では back-to-back homers(連続ホームラン)という。

第3の壁

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   アメリカの社会学者ロバート・リンダーは、人間個人の生活を、三つの壁で閉じ込められた三角形の空間にたとえている。第1の壁は避けることのできない「死の壁」である。第2の壁は、もって生れた肉体的、精神的な能力である。第3の壁は、われわれの「無知と愚かさの壁」である。ただし、この壁には鍵であけることのできるドアがついている。無知や愚かさは、経験や知識、技術などを本として蓄積することによって克服できるのである。

佳人薄命

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    市川森一の「蝶々さん」を見る。お話は基本的にはプッチーニの歌劇と同じで、蝶々さんは自害して果てる。理不尽なストーリーには納得いかない視聴者も多いだろが、これより変えようはあるまい。つまり佳人薄命と諦めることである。昔からか容姿が美しい人は不幸なことが多く短命である。蘇軾の詩に「古きより佳人は多く命薄く、門を閉じて春尽き、楊花落つ」とある。虞美人、趙飛燕、楊貴妃、椿姫などヒロインは薄命ほど美しさがきわだつ。英語では、「The fairest flowers soonest fades.」

ルビコンを渡る

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    ローマの歴史上よく知られるアドリア海に注ぐルビコン川はそれほど大きな川ではなかったらしい。現在の地理で比定してリミエ付近のたくさんの川の中からそれらしいと思う川をさがすと、フィウミキノ川やウソ川とする説はあるが定説となるまでにはなっていない。

    紀元前50年の厳冬から、カエサルは属州ガリア・キサルピナとローマの国境近くに野営していた。このときカエサル53歳。翌年の1月7日、元老院はカエサルに対して、定められた期日までに属州の支配権を放棄しないならば、国家の敵として彼を扱うとして決議し、最後通牒をつきつけた。追いつめられたカエサルは、自分の採るべき途について沈思する。ギリシアの喜劇詩人メナンドロスの詩句「賽を投げよ」がときおり脳裏をよぎる。カエサルは力強く決断した。「賽は投げられたり」と。そして軍を率いてルビコンを渡り、ローマへと進軍した。ラテン語で「Alea jacta est」(アーレア・ヤクタ・エスト)、英語では「The die is cast.」

ジェニファーに恋して

  「♪恋というもの知りたくて あなたの名前を呼んでみた~」女性の名前には不思議な魔力がある。Jenniferという女性名を聞けば、どんなイメージをいだくだろうか。おそらく活発でダンスが上手い美人を想像するかもしれない。それはジェニファー・ビールズやジェニファー・グレイのイメージが作用しているからだろう。なぜかジェニファーと名のつく女優は美人が多い。

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ジェニファー・ジョーンズ、ジェニファー・オニール、ジェニファー・ビールズ、ジェニファー・コネリー、ジェニファー・ジェーソン・リー、ジェニファー・ガーナー、ジェニファー・グレイ、ジェニファー・アニストン、ジェニファー・ハドソン、ジェニファー・ラブ・ヒューイット、ジェニファー・ロペス、ジェニファー・ローレンス

スバールバル諸島

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    2月2日放送の番組「地球イチバン」ではノルウェーのスバールバル諸島にある人が定住する地としては最北に位置する町ロングイェールビーン(ロングイヤービエン)を紹介していた。人口2000人。1596年オランダ人探検家のウィレム・バレンツ(1550-1597)が発見。かつて石炭採掘の町であったが、現在、観光・教育・研究にも重点がおかれている。

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最も北にすむスバールバルライチョウは白い色をしている

寺田寅彦「天災は忘れたころにやってくる」

   東大地震研究所が「震災をきっかけに首都圏では地震活動が活発化してM7級直下地震が4年以内に70%の確率で来る」と発表した。東大地震研究所は86年前の大正14年、東京帝国大学付属地震研究所が設立された。初代所長は末広恭二(1877-1932)、2代目所長は石本巳四雄(1893-1940)。地震研究所の設立には寺田寅彦(1878-1935)も大きく協力していたようだ。正面玄関の壁には寺田による碑文が今も掲げられている。

明治24年濃尾地震の災害に鑑みて震災予防調査会が設立され、我邦における地震学の研究が漸く其緒に就いた。大正12年帝都並びに関東地方を脅かした大地震の災禍は更に痛切に日本に於ける地震学の基礎的研究の必要を啓示するものであった。この天啓に促されて設置されたのが当東京帝国大学付属地震研究所である。(中略)本所永遠の使命とする所は地震に関する諸現象の科学的研究と直接又は間接に地震に起因する災害の予防並びに軽減方策の探求である。この使命こそは本所の門に出入りする者の日夜心肝に銘じて忘るべからざるものである。

   有名な警句「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦全集をはじめ彼の著作物からその出所を明らかにすることはできない。だがこの言葉が寺田が地震研究所にいたころ生まれたのではないだろうか。だれかれということなく、寺田の考えを要約した警句として流布していった。英語の諺にもあるらしい。Natural disasters comes when we've forgorten all about then.

    寺田寅彦は明治11年11月28日、寺田利正・亀の長男として東京で生まれた。明治14年、郷里の高知に転居。明治30年、熊本第五高等学校の学生だった寅彦は両親のすすめで、阪井重季の娘・阪井夏子(1883-1902)と結婚する。夏子は少女時代から目立つ美人で、松山に住んでいた頃、松山の中学生だった安倍能成(1883-1966)が憧れていたといわれる。目が大きく、「お夏さんの目が光るからランプはいらぬ」と親族の子どもから言われた。だが寅彦と夏子の幼い夫婦は熊本と高知と離れ離れの新婚であった。

    明治31年1月17日の寅彦の日記には次のようにある。「夏子より手紙きたる。先日、送りやりし泰西婦女亀鑑の礼や、夏の休暇の待たるる事やしたためたる末に、近来川田兄のしきりに伉儷を詮索される旨も書き添えたり」とある。伉儷(こうれい)とは夫婦の意。つまり寺田寅彦夫婦は両家公認ながら内密なものであった。その理由は、父親同士が陸軍仲間で夏子は不倫の子であり、祖母に育てられた夏子を幸せにしてあげたいという周囲のおもいやりからでたものという。寅彦の欠落した日記は結婚の経緯を秘密にしておくためだったと朝日新聞は推測している。明治32年東京帝国大学に入学した寅彦は夏子と東京での同居が始まり暮らし、明治34年に長女貞子も生まれるが、翌年の秋、僅か19歳で夏子は肺結核で亡くなる。(参考:牧村健一郎「愛の旅人・ハンカチ振る浜辺の妻」朝日新聞2008.1.12)

すべての道はローマに通ず

    ローマ帝国は、五賢帝の時代(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス)末期にいたるまで平和を享受し、「ローマの平和」(パクス・ロマーナ)と呼ばれた。その繁栄の絶頂はトラヤヌス帝のときで、領土はドナウ川の向こう岸のダキアを属領として、帝国の領土は最大となった。北はブリタニアから南はサハラ砂漠北端、東はメソポタミアから西は大西洋岸までの、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがり、地中海を内海、「我らの海」とする大帝国で、総人口は5000万人から6000万人であったと推定される。

    陸海の交通の安全が確保され、ローマ道は帝国中に張りめぐらされ、ギリシア・ローマの融合した都市的文化がゆきわたった。東方ではギリシア語が広く使われていたが、帝国政府はラテン語の普及に努めた。当時、帝国の東のはしから西のはしへ行く旅人はこの2つの言語を使えれば不自由せずに、またいたるところで同じような都市の生活を味わいながら旅行できただろうといわれる。

   17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌ「寓話」に「すべての道はローマに通ず」という格言(英語では All roads lead to Rome.)がある。かつてローマ帝国の全盛期には世界各地からの道がローマに通じていたことから、転じて、どんな方法をとっても同じ目的のところに達すること、真理は一つであることのたとえとして使用されたものである。

   ちなみにローマ帝国の属州と辺境の地名を調べると、ゲルマニア、ブリタンニア、ルシタニア、アクイタニア、ヒスパニア、ガリア、ダルマチア、ダキア、マウレタニア、ルティア、ラエティア、マッサリア(マッシリア)、ルテティア、トラキア、アシア、アンティオキア、アレクサンドリア、アルメニア、モエシア、バレンシア、ニコメディア、カッパドキア、カエサレア、ガラティアなどすべて語尾が「ア」である。これは、ギリシア語、ラテン語、ロマンス語では女性名詞の語尾は「ア(-a)」であり、地名は女性名詞によるものである。(参考:「詳説世界史研究」山川出版社)

歴史は繰り返す

   高校世界史は世代によって学習した範囲が大きく異なる学問である。ケペルはベトナム戦争は現在進行形だったが、今の高校生は湾岸戦争は20年も前の出来事である。現代史は若い人には理解するには難しいだろう。否、年配者にとっても国際政治は難しい。新聞で時代を読むことは有益であるが、時代の雰囲気に流される危険もある。明治の日清・日露の時代から、昭和の大東亜戦争の時代まで、新聞が正しく報道したであろうか。いつの時代も政治家やマスメディアは自国にとって好ましくない国家に「悪」のレッテルを貼る。枝野幸男が講演で「悪しき隣人」と中国を批判した。冷戦終結後、リビア、イラン、イラク、北朝鮮を「rogue state」(ならず者国家)と呼んだことを想起させる。米国にとり好ましくない国家に道義的な「悪」のイメージを国民に与える機能を果たしている。政治家やマスメディアが「悪しき隣人」とか「ならず者国家」とキャンペーンするときは、国民は注意深く世界史から学ぶべきである。

   1990年8月イラクがクウェートに侵入し、占領したが、翌年1月、国連の決議を受けて、アメリカを主力とする多国籍軍がイラクを攻撃した。日本は世界中で最高額の130億ドルの戦費を支出している。アメリカの圧倒的武力で勝利したもののサダム・フセイン(1937-2006)の体制は依然と存続した。今度は大量破壊兵器の査察をめぐって米・英軍は攻撃し(2003年3月~5月)、政権は崩壊してフセインは消息不明となった。2003年12月、米軍がフセインを逮捕。裁判によって2006年12月、処刑した。だが、湾岸戦争開戦の口実とされた「大量破壊兵器の保有」については、のち、その事実はないと国際的に確認されている。イラク戦争に米英の大義はなかった。日本政府が拠出した戦費についても反省や批判など公的な検証作業はされていない。歴史はたえず動いているので過去を反省している暇はないのかもしれない。しかし歴史は繰り返すともいう。アメリカがベトナム戦争でした過ちを再び湾岸戦争で繰り替えしたように、中国や北朝鮮を敵対視することをマスメディアが煽ることが再び繰り返されようとしている。そして政治家は国民の支持率の低下を恐れる。支持率を上げるには、強硬な姿勢にでることである。ホラズム海峡ではイラン・米国が衝突している。

「History repeats itself.」(トゥキディデス) 世界史を学ばず、愚行が繰り返されることが恐ろしい。

2012年2月 4日 (土)

銀箔は貼られてなかった銀閣寺

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   2月4日は「銀閣寺の日」。だが、これには歴史的に考えると多少問題がある。銀閣寺とは俗称であり、足利義政の死後は、その遺命により禅寺とし、彼の法号に因んで慈照寺と名づけられた。義政生前は「東山殿」と呼ばれ、つまり2日4日は、工事の着工記念日であり、このときはまだ観音殿つまり銀閣は完成していない。応仁の乱の直後の財政難の時代であり、工事はなかなか進まなかったようである。一年有半の歳月を費やして、竣工したのは翌年の文明15年(1483)6月27日である。実際に観音殿(銀閣)が完成するのは、さらに6年後の1489年である。

  造営が竣工した日、義政は長谷御所から浄土寺山荘に移った。「女中連れの賑やかな移転であった。山荘の落成を祝賀して貴戚権門が多数参集した。冠蓋織るが如くであった」と横川景三は書いている。義政の満足想うべきである。しかしまだ住居部分の山荘が落成しただけで、実は全体の構想の二分ばかりにすぎなかった。延徳元年(1489年)に、ようやく観音殿(銀閣)が上棟された。銀閣は2層からなり、第一層心空殿は正面4間・側面約3間で和様書院造風の構造。第ニ層潮音閣は3間四方、禅宗様仏風で、堂中に観音像を安置する。東山殿の建物は10箇所と伝えられる。そのうちでも特に念を入れて造ったのは持仏堂である。仏間には阿弥陀三尊像を安置し、その名を東求堂と名づけた。またこの堂内に小書院の「同仁斎」がある。この部屋は書斎で、書画奇玩を鑑賞するに最適の設備が施された。しかもその大きさは僅かに四畳半敷である。後世この小室を茶室の祖と称する。東求堂に対して「西指庵」があった。ここも義政が造営に力を入れたところである。亀泉集証は文明17年4月9日始めてここに入り、「実に天下の奇観なり」と讃えている。

  また俗に銀閣と称されている観音殿がある。これまで銀箔が貼られていたのではないかという言い伝えもあったが、このほど奈良文化財研究所のエックス線による分析で、銀閣は創建当時から一度も銀箔が施されていなかったことが科学的に証明された。では、なぜ銀閣寺と呼ばれたのであろうか。ひとつは、北山の金閣寺に対する呼び方として銀閣寺が定着したとする説。二つ目には、池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えたからという説がある。本堂・東求堂の南面に庭園が広がり、庭の主要部には錦鏡池がある。また庭の西北隅、即ち本堂の南面に不思議な砂盛りがある。これを銀沙灘(ぎんさだん)と呼ぶ。

2012年2月 3日 (金)

ラストタンゴ・イン・パリ

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  パリの街を舞台にした映画は数限りなくある。「巴里の屋根の下」「巴里祭」「巴里のアメリカ人」「おしゃれ泥棒」「シャレード」だがどれもパリの魅力を前面に出した観客に媚びたところがあり、現代人の悲しみを描いた作品は少ない。ベルナルド・ベルドリッチ監督の「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972)は性の根底にある現代人の孤独を鋭くえぐったパリを舞台にした数少ない秀作である。最初この映画の主演は、ジャン・ルイ・トランティニァンとドミニク・サンダが予定されていた。マーロン・ブランドが「自分にやらせてほしい」と名乗りをあげてきた。サンダは妊娠のため降板し、20歳の無名の女優マリア・シュナイダーが抜擢された。シュナイダーは「栗色のマッドレー」「花のようなエレ」に端役で出演したことがある程度だった。しかし彼女の父が往年の二枚目俳優ダニエル・ジュランであることはあまり知られていない。当時ジュランは女優のダニエル・ドロルムと結婚していた。シュナイダーの母はルーマニア人女性で、私生児だった。だが幼いころから芸能界への憧れは強かった。どんな役でも体当たりする覚悟はあった。マーロン・ブランドはシュナイダーに初めて出会ったとき次のように語った。「これから随分いろんなことをしなくちゃならない。だから、できるだけ僕をじっと見つめてほしい」と。シュナイダーの演技は監督の期待以上のものだった。その後俳優のマルク・ポレルと噂されたが別れたらしい。ポレルは34歳で亡くなっているし、シュナイダーの結婚歴は聞かない。マリア・シュナイダーは2011年2月3日、パリで亡くなった。風吹ジュンに似た感じの女の子だった。世界的スターでありながら薄幸な匂いがする。まるで「ラストタンゴ・イン・パリ」のために生まれたような人生だった。

Img_0031 「危険なめぐりあい」のマリア・シュナイダー

2012年2月 2日 (木)

当るも不思議、当らぬも不思議

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    易の繋辞伝によれば、宇宙の根元は太極であり、これが陰陽を生じ、陰陽が四象(春夏秋冬)を生じ、四象が八卦を生ずるとする。占いの八卦は、これにさまざまな意味を持たせる。そうして、6個の算木と50本の筮竹とを用いて一定の所作によって結果を出し、これを八卦に当てはめて占うのである。これで人の運勢がわかるかどうかは、まったく科学的な根拠がないことは誰しも知っている。だが人はなにかしら神秘的な方法に救いを求めて、さまざな占いや易、縁起物、姓名判断、おみくじ、風水などに凝る。「当るも八卦、当らぬも八卦」である。ばずれても文句を言う人はいない。伝統ある神仏に祈願しても現世のご利益がない場合もある。だが世の中悪い人も多い。ウソやインチキで金儲けをしようとする人も多い。霊感商法で騙される人が後を絶たない。現代科学も信用できない。津波の過少予測が悲劇を生んだ。放射線量の「人体に及ぼす影響はないとみられる」という報告もどこまで信じられるのか。「首都圏4年以内に70%の確率で大地震」予測は地震が発生するは70%だし、なければ30%だからハズレなしの予想である。隠蔽体質の日本に真実はないと見るべきだろう。

磁気学、電気学の基礎を築く ウィリアム・ギルバート

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    ウィリアム・ギルバート(1544-1603)はイングランドのコルチェスター町に裁判所判事の子として生れる。14歳でケンブリッジ大学に入り、1560年学士、1564年修士、1569年医学博士となって、ヨーロッパ各地を訪問する研究旅行に出た。1600年それまでの研究の成果を『磁石論』という本にまとめて出版した。エリザベス女王に磁石の実験を見せた。女王は興味をもち、財政的に応援したという。またエレクトリシティ(electricity)という言葉を名付けて、電気と磁石とを異質なものとして区別した。電気学の基礎を築いた最初の人である。

飛ぶ夢をしばらく見ない

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    細川俊之と石田えり主演「飛ぶ夢をしばらく見ない」(1990)を見る。48歳の田浦は、骨折で入院。病院側の都合で宮林という女性患者と一夜だけ個室をともにする。衝立で仕切られた2人はポッリ、ポッリ話をする。そして女は驚くようなことを言う。「私を犯してくれますか?」翌朝、看護婦によって衝立が取り払われたとき、田浦の目に入ったのは、67歳の老婆だった。退院後、女から会社に電話がかかってきた。田浦は忙しいと断わる。しかし街で偶然に田浦が目にした宮林は和服を着た40前後の女だった。不思議なことに女は会うたびに若くなっていく・・・。映画は2人で逃走したり、拳銃を発砲したり、中途半端なアクションとなり、奇妙な作品になってしまった。ファンタジーに仕上がっていれば別な作品になっただろう。ともかくブラッド・ピッドの「ベンジャミン・バトン」(2008)より18年も前に「若返り映画」が日本にあったのだ。細川俊之は昨年亡くなった。舞台やミュージカル、ラジオの「ワールド・オブ・エレガンス」など二枚目で有名だったが、映画、ドラマでは多彩な一面を見せていた。「女囚さそり」「あしたのジョー」の力石徹など珍品もある。この「飛ぶ夢をしばらく見ない」も愛すべき珍品である。

コーヒー・ブレーク

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    イギリス人といえば紅茶を思いうかべるだろうが、実は17~18世紀、むしろコーヒーを飲んでいた。イギリスで最初の本格的な「英語辞典」の編集で有名なサミュエル・ジョンソン(1709-1784)と彼の伝記を書いたボズウェルとはコーヒー・ハウスで知り合った。そのほか演劇俳優のガリック、画家のレイノルズ、思想家のエドマンド・バーク、音楽家のバーニー、歴史家のギボンらもこのコーヒー・ハウスに出入りして談話を楽しんだ。

    アメリカでは17世紀の半ばころに移住してきたオランダ人によって喫茶の習慣が伝わり、当時一種の社交的手段となっていた。アメリカへ移住したイギリス人の間では最初は紅茶が飲まれていたが、ボストン茶会事件以後、独立革命の時代になって、アメリカ人はコーヒーを選ぶ国民となった。

    これとは反対に、本国イギリスでは18世紀半ば頃から紅茶を飲む習慣が一般化していった。

    さてコーヒーブレーク(coffee break)とは、仕事の合間の、コーヒーを飲むための小休憩時間をいう。breakとは「中断する」という意味で、1945年ごろアメリカで使われだした俗語であるといわれる。

1848年グアダルーペ・イダルゴ条約

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    スペインの支配を受けていたテキサス、カリフォルアなど米大陸西部は、1821年、メキシコに併合されたが、その後、東部からの開拓民の流入が始まり、米墨戦争(1846-1848)に発展した。1848年2月2日、アメリカの特命使節ニコラス・トリストとメキシコのルイス・G・クエバス、ベルナルド・コウト、ミゲル・アトリスタインの3名が全権としてイダルゴ市(現在のグスタボ・A・マデロ)で調印され、5月に正式に成立。アメリカに譲渡されたのは、テキサス、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミングの一部、およびカリフォルニア、ネバダ、ユタの全域である。1853年、ガズデン購入によりアリゾナとニューメキシコの一部が譲渡された。

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赤:メキシコ割譲地
橙:ガズデン購入によりアメリカへ

古池や蛙飛びこむ水の音

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    山吹や蛙飛びこむ水の音

           *

    芭蕉の門人支考の『葛の松原』によると、貞享3年の晩春のころ深川の芭蕉庵に、芭蕉と其角が対座している折から、蛙の水に落ちる音を聞いて、芭蕉が「蛙飛びこむ水の音」という七五だけを得て、上五文字を案じていると、其角が傍から「山吹や」とつけた。しかし芭蕉はそれをしりぞけて、「古池や」と定めたのであるという。おそらくは山吹は実景で、古池のあたりに咲いていたのであろう。それに山吹と蛙は、和歌以来の詩的配合であり、かつまた都会人ではなやかなことの好きな其角の趣味にかなったのであろうが、しかしそれでは印象的な山吹の明るさが一句の中心になって、一通りの写生句になってしまうのである。この句の中心は、音でなければならぬ。静寂の領する芭蕉庵の晩春の昼下り、芭蕉と其角の間にかわされた風雅の私語も、その静寂を乱すにいたらない。折から思いがけず、庭前の古池に飛びこんだ蛙の水音が、芭蕉の心に波紋を描いた。静から動へ、動からふたたびまた静へかえるしばしの乱れが、いよいよ幽玄閑寂への思慕をかき立てるのである。

    「古池や」の句の季語は「蛙」。かえるの鳴き声が聞こえるのは梅雨時なので「夏」をイメージするが、旧暦なので春となる。

2012年2月 1日 (水)

うどん県香川

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    俳優の要潤がうどん県副知事に就任し、観光PRビデオで「香川県は、うどん県に改名しました」とまじめに発表する動画が評判だそうだ。実際に県名を改名するには法律の制定が必要だが、県観光振興課は今後も「うどん県」で押し通すという。「うどんの日」というのもある。昭和55年に香川県製麺事業協同組合が、うどんの消費拡大を目指して7月2日を「うどんの日」と制定した。香川県では農繁期が一段落した半夏生の頃にうどんを食べて、労をねぎらう習慣があったことに由来する。

人類月に立つ

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  1969年7月21日、アメリカの宇宙船アポロ11号が月面着陸に成功した。二ール・アームストロング船長(現在81歳)が月面への人類初の第一歩をしるした。彼は「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」(That's one small step for a man,one giant leap for mankind.)と語った。

髭の世界史余話

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    古代ギリシアではあごヒゲは伸ばして手入れするのが男の身だしなみだったが、前4世紀のアレクサンダー大王が「戦争中にヒゲをつかまれると不利になる」との理由で「ヒゲを切る令」が発令された。その影響で、ギリシアでもヒゲを剃るようになった。一説によると、理髪所ができたのもこの頃だという。

   紀元1世紀ローマ帝国では自由市民は髭を剃らなければならない。一方で奴隷は髭を伸ばすことに決まっている。中世から近世にかけて男子は髭を伸ばすことは一般的であった。(ダ・ヴィンチやガリレイなど)ところが17世紀になると髭を剃るようになった。18世紀はじめロシアのピョートル大帝は西欧の風習に倣うため、貴族に髭を剃ることを強制した。そして従わない者にはひげ税を徴収した。21世紀アフガニスタンのタリバンは、髭がないと罰せられるという。

Photo_5 天文学者ガリレイに髭がないと様にならないだろう

Photo_6 17世紀になるとダニエル・デフォーのように髭をはやさない

    ちなみに8月8日は「ヒゲの日」。日本ワーナーランバードが昭和53年に制定。漢字の「八」がヒゲの形に見えることからこの日を「ヒゲの日」にしたとか。

石橋を叩いて渡る

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    絶対に堅固であり、絶対に安全であるとされている石橋が、それでも危ないのではないかと、これを叩いて調べ、その安全なのを確認した上で渡るという意味。はたからみると滑稽なほどの用心深さである。世の中、絶対に大丈夫、絶対に安全はなくなった。安全といわれた原子力発電所も大津波の前ではひとたまりもなかった。英語表現では次のようになる。

You can never be too cautious.(慎重すぎるということはありえない)

   日本語には「危ない橋を渡る」という反対の言葉もある。英語表現では、「Take a risk.」「Walk on thin ice.」がある。

パワースポットは存在しない

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    三井住友銀行の情報誌「家楽手帖」。「全国招福パワースポットガイド」明治神宮、伊勢神宮、出雲大社は別格としても、知らないパワースポットもある。長野県伊那市の分杭峠は近年テレビなどでゼロ磁場として大きく取り上げられ、年間3万人以上の観光客が訪れるという。中央構造線上に位置し、断層の両側から押し上げるゼロ磁場があるというのだが、インチキくさい話だ。「気」とか風水とか迷信が蔓延るのは世の中全体おかしくなっているのだろう。

龍馬の次姉自害の真相

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    司馬遼太郎の小説「龍馬がゆく」では次姉、坂本栄は龍馬脱藩のとき刀を与え、大志をはげました。のち柴田家に禍が及ぶのを恐れて自害したとある。昭和43年に作られた栄の墓の享年は文久2年3月となっている。だが昭和63年本当の栄の墓が発見された。「柴田作右衛門妻」「坂本八平女」「弘化2年9月13日」と銘記されている。つまり栄は嫁いですぐに若くして亡くなっているので、龍馬に刀を与えたという話はウソだった。

日本人と珈琲、紅茶

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    珈琲と紅茶、日本に伝来したのは、どちらが先だろうか?答えは、ほぼ同じころだそうだ。

    コーヒーは世界で最も多くの国で飲用されている嗜好飲料である。喫茶店(コーヒー・ハウス、カフェ)は近代社会において人々が情報を得る場所として文化的にも大きな役割を果たしてきた。日本には天明年間(1781年~1788年)頃に、長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれる。

   今日放送されたNHK「ひるブラ」という番組で、はしのえみが幕末の弘前藩士が飲んでいた珈琲を味わっていた。酸味と苦味がある。寒さなどで殉難が多かったので薬用として珈琲を飲んでいたという。大田南畝は1804年に珈琲を飲んだときのことを次のように記している。「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ。豆を黒く炒りて粉にし白糖を和したるものなり。焦げくさくして味ふるに堪えず」とある。1855年ころ青森県弘前で珈琲が飲用されていたとは驚きである。

    紅茶は1791年11月1日、大黒屋光太夫がロシアのエカテリーナ2世から紅茶を贈られたという。日本紅茶協会は、昭和58年、この史実をもとに、11月1日を「紅茶の日」に制定している。

百聞は一見に如かず

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  何度も聞くよりも、1度実際に自分の目で見る方がまさる。漢書趙充国伝に見える故事。漢の宣帝のころ、趙充国が実際に現地へいって地形を調べたため、屯田兵となった歩兵1万人が、よく羌族の侵入を食い止めたことに因む。英語では Seeing is believing.(見ることは信じること)という。チェコには「耳で買うな、目で買え」がある。

藩閥政治家・山縣有朋

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  吉田松陰の蒔いた種は、高杉晋作、そして伊藤博文、山県有朋へと続いた。山県有朋(1838-1922)は勉強が得意ではなかった。しかし、幕末の藩政改革で、武道が奨励され、軽卒にも、棒術以外の武術を学ぶ機会が与えられた。有朋は、槍術で出世を夢みた。明治天皇の御前で試合をした時、「槍の半七」といわれた名人林友幸と対戦し、引き分けるまでになっていた。参議、内相、陸相、首相、枢密院議長。明治42年、伊藤博文が暗殺されて以降は、山県有朋が元老として政界に君臨した。大正11年2月1日、85歳で亡くなったが、葬儀は国葬をもって弔われた。墓所は文京区の護国寺。

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テレビ放送記念日

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    昭和28年2月1日、NHKが日本初のテレビ放送を行ったことに由来する。当日は、東京千代田区内幸町の放送会館第1スタジオから菊五郎劇団の「道行初音旅」や映画などが放送された。当時の受信契約数は868、受信料は月額200円だった。

マリリン・モンローの日本・朝鮮訪問

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  昭和29年2月1日、マリリン・モンロー夫妻が来日した。東京を吹きまくったモンロー旋風は、西へ西へと移動し、九州まで及んだ。夫君ジョー・ディマジオが野球コーチに専念しているあいだ、さらにモンロー女史は単身飛行機で朝鮮へと旅立った。ジェ-ン・ラッセルからマリリン・モンローへとGⅠのピンナップ・ガールの今や№1となった折も折、当のご本尊がやって来たとあっては、集まるわ集まるわ、国連軍最大の作戦といえどもこれほどのGⅠが参集することはないと言われる。

   特設のステージの上にたったマリリンを囲む、男、男、男・・・・。「こんなに男ばっかり集まっているのを見たのは生まれてはじめてだワ!」という彼女、およらくはよくぞ女に生まれけり、と心から思ったに違いない。寒い朝鮮の冬の下で、薄いドレス一枚での歴史的な大熱唱のステージだった。

犬も歩けば棒にあたる

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   「犬も歩けば棒にあたる」とは、犬がふらふら歩くと、棒で殴られるような災難に遭ったりすることから、余計な行動は慎むべきであるという戒めである。しかし、最近では、積極的にやってみると思わぬ幸運に出会う、という意味で使われることもある。

   イギリスには A flying crow always catches something.(飛んでいる鳥はいつも何かを手にいれる)とか The scraping hen will  get something.(足でかき回す雌鳥は何かを手に入れるが、うずくまる雌鳥は何も得ない)という諺があり、ドイツには「己の運を信じる者くらい、運のよい者はいない」がある。行動型の欧米人と慎重型の日本人では諺にも国民性の違いが現れている。

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