ネッド・ラッドの正体は?
産業革命期のイギリスに起こった機械破壊の暴動、ラッダイト事件(1811-1817年頃)は世界史教科書にも取り上げられ、有名であるが、その実態については謎が多い。なぜラッダイト運動は急速に拡大したか。それまで小規模で散発的な機械破壊事件は各地で起こっていた。たとえば1768年には、紡績工がハーグリーヴズの家を襲い、ジェニー紡績機を破壊した事件があり、ランカシャーにアークライトの建てた工場は1779年暴徒に焼打ちされている。また1792年には、カートライトの力職機400台を設備した新式工場が焼かれたこともある。しかし1811年に起こったラッダイト運動はその規模からいっても、それ以前のものとは比較にならなほど大きい。ノッチンガム市附近にはじまった運動はたちまちダービィシア、レスターシアへと波及し、さらに翌年にはチェシア、ランカシアなどイギリス北部の工業地帯全体に燎原の火のように燃え広がった。なぜ急速にひろがったのだろうか。当時のイギリスは、ナポレオンの大陸封鎖令、海上封鎖勅令などによりアメリカをはじめとする海外市場を失い、加えて租税の強化があって、不況のどん底にあえいでいた。また連年の不作から穀価の暴騰が起こり、下層大衆の生活が極度に窮迫していた。ラッダイト運動は翌年1812年春にかけて中・北部諸州に広がった。リバプール政権のきびしい規制立法によって、1813年ヨークにおける大量裁判の結果多数の者が絞首刑、あるいは流刑に処せられ、運動は鎮圧した。
ラッダイト運動Luddite Movementの名は、機械破壊者たちが、ロビン・フッドの物語と結びつけて、シャーウッドの森のネッド・ラッドNed Ludd 、あるいはキャプテン・ラッドCaptain Luddと呼ばれたことから生じた。つまり本当の名前はわからず神秘的な指導者が存在していたのかもしれない。日本の穂積文雄の研究によると、本当の指導者はジョージ・メラーGeorge Mellorという職工であったという。彼は1813年1月、22歳で死刑になっている。(参考:穂積文雄「英国産業革命史の一断面 ラタイツの研究」有斐閣 1956)ところで穂積文雄は戦前、中国経済史とくに貨幣の研究で知られていたが、戦後、ラッダイト運動の研究で学位を取っている。このように東洋史と西洋史を研究された学者はきわめてめずらしい。もちろん東西交流史の研究者は多数いるが、異なる地域、時代を研究することは多くない。
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