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2012年1月 9日 (月)

円谷幸吉の栄光と死

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(左から)畠野洋夫(コーチ)、円谷幸吉、南三男、宮路道雄

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    昭和58年から東京オリンピックのマラソンで日本人初の銅メダルに輝いた福島県須賀川市出身の円谷幸吉(1940-1968)の業績を讃えた「円谷幸吉メモリアルマラソン」が毎年行なわれている。2010年(第28回)10km招待選手の中に宮路道雄の名前をみる。

    昭和43年1月7日、宮路道雄は自衛隊体育学校の校庭で偶然に円谷幸吉に出会った。「やあ、明けましておめでとう。今年も頑張ろう」新年の挨拶を交わした二人は、しばらく並んで走った。二人で走るのは、東京オリンピックのレースの朝、逗子海岸で、南三男と三人でジョギングをして以来のことだ。「もうすっかりいいんだろう。よかったなあ。もちろんやるんだろう、オリンピック…」宮路は話かけたが、幸吉はうなづいただけで、それには言葉で答えず、ほかの話題に移した。「宮路君も、目を悪くしたと聞いたけど、もうよくなったのか」「医者に、栄養失調だと、いわれてね。左右とも1.5に戻ったよ。アハハハ…」疲労のためだというと、幸吉が気を使うと思って、宮路は、しきりに栄養失調を強調した。競技のことには、ほとんど触れぬまま、二人は別れた。それが二人の最後の出会いだった。二日後、幸吉は、自衛隊体育学校の自室で肉親と上官に遺書をしたため、剃刀自殺した。

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Img_0004周囲の人々への謝辞と、その期待に応えられないことへの詫びからなる円谷の遺書

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