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2012年1月31日 (火)

気になる日本語

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    日本は社会の隅々にまで、一様性がまかり通っている。ある物事に対して、だれに聞いても似たような言い回しをすることが多い。だから、「だれもがそう言うのだから、きっとそうなんだろう」と思うようになる。発端はテレビによくでている評論家やタレントたちの言い回し。視聴者が口まねをして、職場や学校で使う。たとえば「ボタンの掛け違い」「上から目線」「モチベーションを高める」「温度差」など便利な言葉である。「人と人との心をつなぐ絆の大切を知りました」といえば優等生に見られることを子供たちも知っている。ほんとうに常套句を上手に使いこなすだけの人間でいいのだろうか。新聞・雑誌の原稿を書く人、政治家の演説の下書きを書く人、みんな耳障りのよい言葉を選んで無難なことを書いている。とくにNHKのアナウンサーの言葉が酷い。実況中継が多かったむかしのアナウンサーはその場の雰囲気をつかんでなめらかに話していた。一様性、均一性は思考の劣化をまねく。

雨降って地固まる

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    変事があってかえって前よりよく基礎が固まること。英語では Storm makes oaks take deeper root.(嵐が樫の木の根をいっそう深くする。)というのがある。国や文化が違っても似たような言葉はどこにもあるものである。

五つ子誕生の日

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    昭和51年1月31日、鹿児島市立病院でNHK政治部記者山下頼充、紀子夫妻に五つ子が誕生。5人は元気に今年36歳。世界には、オーストラリアの九つ子をトップに、メキシコで八つ子、スウェーデン、ベルギー、アメリカの七つ子が知られている。

島田一郎の墓

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    明治11年5月14日、島田一郎(1848-1878)ほか5人は、内務卿大久保利通を東京麹町紀尾井坂で暗殺した。その足で自首し、同年7月27日に斬首された。谷中霊園(台東区)には、6人の墓が並んでいる。実行犯は、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤である。

タヌキ、ウサギ、ニワトリ

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    国や文化が違っても似ているような表現がある。日本では「捕らぬタヌキの皮算用」(どうなるかわからないことをあてにして、計画をたてること)とあるが、英米では次のような表現がある。

First catch your hare then cook him.まずウサギを捕える。料理はそのあと。

Don't count your chickens before they are hatched.孵化する前にニワトリを数えるな

  *  *  *  *  *

二兎を追う者は一兎をも得ず

If you run after two hares you will catch neither.

思い立ったが吉日

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   国や文化が違っても似たような言葉はどこにもあるものである。ベンジャミン・フランクリンの格言に「明日為すべきことは今日これを為せ」がある。

Never put off till tomorrw what can be done tday.

明日のことは思いわずらうな

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  イエスは、思いわずらっている人々にこう言った。「何を食べようか。何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。あなたがたは、彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、誰が、思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことでわずらうのか。野の花がどうして育っているのか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。・・・だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である」あなたも神様に知られているのであるから、明日の思いわずらいは神様にお任せして、今日は今日の事だけで力いっぱい生きることである。

So do not worry about tomorrow,it will have enough worries of its own.There is no need to add to the troubles each day brings.

明日のことは思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

    「太平洋沖、M8級余震が近く起きる」「大地震、首都圏に4年以内に70%以上」「2060年に日本の総人口8674万人。年金財源は?」という情報が毎日流れる。消費増税のためマスコミにリークしているのだろう。4年先、50年先(私はこの世のものではないが…)を思いわずらうよりも、ソマリアの干ばつで緊急援助が必要な人々のことを考えるべきだろう。昭和48年のオイルショックのトイレット・ペーパーが無くなったときは、大阪のスーパーが販売促進のため「紙がなくなる」という張り紙が発端だった。昨年の震災直後、やはり東京で買いだめが起きた。消費増税リークも政界と産業界が結託した販売促進も、大地震発生も、惑わされてはいけない。

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 イエスの教え「明日のことは思いわずらうな」。キリスト教国のアメリカでも買いだめは起きたことがポスターからもうかがえる。

2012年1月30日 (月)

老いた女は美しい

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   1960年代女優、サマンサ・エッガー(72歳)、ジュヌヴィエーブ・ビユジョルド(69歳)、リー・テーラー・ヤング(67歳)、みんな現役女優である。サマンサ・エッガーは「コレクター」(1965)、ジュヌヴィエーブ・ビュジョルドは「まぼろしの市街戦」(1966)、リー・テーラー・ヤングは「悪女のたわむれ」(1969)がある。「若い女は美しい。しかし老いた女はもっと美しい」(ホイットマン)

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    アイドルから演技派へと成長したブレンダ・ヴァッカロも72歳。「真夜中のカーボーイ」(1969)のキューティ・ガールから「マリブビーチ殺人事件」(1990)では太った小母さんに変貌。いまだ現役女優。

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「哀愁の花びら」(1967)のバーバラ・パーキンス(72歳)は1998年に芸能界を引退し、悠々自適の生活。

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晩年の川端康成

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  川端康成(1899-1972)は「掌の小説」という短編集を若い頃から書いている。全部で122編もあるが、例えば39番目の「一人の幸福」という一編は結びの言葉が有名である。「一生の間で一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」と書いている。このように健全な精神を持っていたが、晩年の川端はこれらを否定するようになった。ノーベル賞の授賞記念スピーチで「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の歌を引用し、日本人の季節の移り変わりの中に感じる美意識を紹介している。死生観や美意識を小説のテーマに幾度となく取り上げてきた川端であるが、自身の人生の最晩年において、大往生で死すか、文学に殉ずるか、という選択は作家としての一つの決断であろう。川端は、ある出版人に「谷崎や志賀の死は文学者の死ではない」と言ったと伝えられている。数年後、ガス自殺を遂げた日本人初のノーベル文学賞作家の死は社会に大きな衝撃を与えたが、2年前の三島由紀夫(1925-1970)の割腹自殺と同じように日本人固有の死の美学という印象が強い。明治以降の近代文学作家をみても北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、太宰治、田中英光、原民喜、久坂葉子、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦、鷺沢萌、森村桂と主な作家だけでも十数人が自殺している。海外でみると、ジャック・ロンドン、ヴァージニア・ウルフ、アーネスト・ヘミングウェイなど作家の自殺は意外と少ない。それも死の美学に殉じたという感じはない。日本人の作家とて自殺の理由は病気や経済的理由などそれぞれであろうが、三島由紀夫、川端康成などの自殺の動機は謎が多いが、死の美学に殉じたという表現がよくなされるようである。

岩瀬忠震(いわせただなり)

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    水野忠徳や小栗忠順とともに「幕末三傑」と称された岩瀬忠震(1818-1861)。1854年、阿部正弘に見出されて目付を任され、軍艦操練所や洋学所の開設、品川の砲台の築造などに注力した。その後、外国奉行として日露和親条約、日米修好通商条約に署名。開国に積極的な、開明的な外交官として列強との折衝にあたった。1858年、13代将軍・家定の後継者争いで慶喜を支持。井伊直弼ら反対派の弾圧に遭い、安政の大獄で作事奉行に左遷。のち蟄居を命じられた。

岩瀬忠震関係文献
岩瀬肥後守家伝 維新史料56 1890
岩瀬鴎処 川崎紫山 春陽堂 1897
巖瀬鴎所君墓碑 永井介堂 旧幕府8 1897
岩瀬肥後守 福地源一郎 民友社 1900
近世百傑伝 千河岸貫一 博文館 1903
匏庵遺稿 栗本鋤雲 裳華房 1903
人物と遭遇 犬養毅 博文館 1922
岩瀬忠震 太田熊太郎 中央史壇12-9  1926
岩瀬忠震の開国交易思想 松本順 経済論叢54-3  1942
岩瀬肥後守忠震とその手記 京口元吉 早稲田大学史学会1961.7
幕末三俊の随一・岩瀬忠震 坂田吉雄 日本及日本人1972.7
岩瀬忠震 日本を開国させた外交家 松岡英夫 中公新書 1981
横浜開港の恩人岩瀬忠震 森篤男 横浜歴史研究普及会 1982
岩瀬忠震の年譜的研究 飯田虎男 1996
日本の開国と3人の幕臣 桑原三二 1996
一橋派運動と岩瀬忠震 飯田虎男 政治経済史学 1997.2
光芒遥かなり 小説岩瀬忠震 岸上耿久 忠震会 1998
暁星 開国の扉を開けた幕吏・岩瀬忠震 森健次 文芸社 2001
知性 岩瀬忠震のことなど 赤塚行雄 公平2006.11
幕末三美男政治家 阿部正弘、安藤信睦、岩瀬忠震 野口武彦 東京人2008.4

時は金なり

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   1733年、ベンジャミン・フランクリンは格言入りのカレンダー「貧しいリチャードの暦」を出版した。

人とメロンは中味がわからぬ

Men and melons are hard to know.

生きんがために食え、されど食わんがために生くるなかれ

Eat to live,and not live to eat.

    いちばん有名なのは「時は金なり」(Time is money.)だろう。すべてがフランクリンの創作というわけではないが、古いことわざにも彼の工夫が入っている。「時は金なり」の語源は複雑である。原典ははっきりとしないが、起源はかなり古く、ギリシアの哲学者ディオゲネスの文献に「時は人間が消費しうるものの中で最も貴重なものである」というのがある。ラテン語になって「時は高い出費」となる。16世紀フランスの作家ラブレーの文献にも見える。アメリカで最初に用いたのはフランクリンだろう。フランクリンがカレンダーを出版し、勤勉に仕事にはげむことの大切さを簡潔な言葉に表したものとして、その功利精神がアメリカ人に広く受け入れられた。フランクリンの著書「若き商人への手紙」にみえる。

沖田総司の墓

  最近、有名人のお墓を訪ねて歩く人が増えて、ひそかなブームとなっている。「墓マイラー」というそうだ。「有名人のお墓トラベル」という本も出ている。新選組一番隊組長、沖田総司の墓は六本木ヒルズの裏手、専称寺(港区元麻布)にある。ふだんは参拝できず、塀の外から眺めて拝むようになった。ただし年に1度だけ総司忌のみお参りできる。小さな墓碑は読めないほど風化が進んで、幼名の「沖田宗次郎」とある。

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亀の甲より年の劫

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    日本の生活に根付いた「ことわざ」は、英語では「proverb」と言う。国や文化は違っていても似たような内容を伝えているものは少なくない。

「The older,the wiser.」「Years bring wisdom.」は「亀の甲より年の劫」。ギリシアでは「老いたサルは罠にかからない」、フランスでは「狩りは老犬にかぎる」、ポーランドでは「年功は書物より多くのことを知っている」などある。聖書箴言16-31には「白髪は、神の従う道に見出されるとき、栄光の冠である」

Long life is the reward of the righteous,gray hair is a glorious crown.

富岡鉄斎の器玩

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   清荒神清澄寺・鉄斎美術館で「鉄斎の器玩」が開かれている。今年は江戸中期の禅僧で売茶翁として世に知られた高遊外(1675-1763)の没後250年にあたる。売茶翁は書家亀田窮楽、画家浦上玉堂らと親交があった。最後の文人画家といわれた鉄斎は売茶翁の清廉な生き方に深く傾倒していたという。

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煎茶碗 富岡鉄斎(染付) 初代三浦竹泉(1854-1915)の作 大正時代

おしゃれ泥棒

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 レンブラント「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」1633年

   ロバート・ウィットマン「FBI美術捜査官」という本がある。レンブラント、フェルメールなどの絵画が盗まれ、それを奪還する美術犯罪捜査官の物語である。美術品盗難事件は欧米では日常茶飯事である。被害を受ける大半の美術品は、蚤の市や小規模なオークションなど目立たない所で安い値で売られる。だが我々の想像を超えるほど高価な名画が美術館から奪われる強盗事件も頻発している。2004年にムンク美術館から「叫び」が盗まれた。しかし2年後には発見されている。犯人は転売することが難しいため諦めたらしい。

友だちがいない

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    「便所飯」in-toilet feeding とは、一緒に食事をする相手がおらず一人で食事を取るところを他人に見られたくないという理由から、トイレを食事の場所に選ぶことをいう。ランチメイト症候群の一種。友達がいないということは、なかなか人に言えないことだ。「もてない」よりも場合によっては辛いことだ。学生や若者の話だと考えるかもしれないが、むしろ高齢者の孤独のほうがより深刻である。老人もむかしから歳をとっていたわけではない。職場で誰からも相手にされず、悩みを聞いてくれずに、淋しい思いで辞めていった人も多い。親しい人同士でいつも賑やかに食事をする人々と、ぽっり一人で食事をする人がいた。みんなどうしているだろうか。ダニエル・ラドクリフが「ルパート・グリントは友達じゃない。ほとんど会うことも話すこともない関係だ」とインタヴューに答えている。エマ・ワトソンとは、映画同様に仲の良い友達でいつも携帯メールを送り合っているけど、ルパートとは携帯メールのやりとりはないし、全然会うこともない。6ヵ月に1度ぐらい顔を合わせる機会があるが、「ハロー、元気?」と言葉を交わす程度という。「俺たちの旅」を毎日観ているが、カースケとオメダ、中村雅俊と田中健も本当は全然交遊がないんだろうか。

チャールズ1世の処刑

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    王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世(1600-1649)は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。

   1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門を出て、ホール前につくられた処刑台に登った。最後まで身につけていた宝石と勲章をカンタベリー大司教に渡し、首切り台に身をかがめると、群衆のうめき声のうちに、チャールズ1世の首がころげ落ちた。

ガンジーは何故ノーベル平和賞を授与されなかったのか?

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The Nobel Prize for peace was awarded to Mr.Obama in 2009.

    ガンジーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた。しかし受賞することなく、1948年1月30日、ヒンドゥー教徒に暗殺された。のちにノーベル財団は次のような理由をあげている。1937年は、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があったる1947年は、ガンジーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしていた。1948年は、故人に対してノーベル賞を与えるかで議論された。当時は規定で除外されていなかったが、最終的に、故人に賞を与えるのは不適切だという結論となった。これらの理由が正当なものとは思えない。選考委員の主観的で一貫性のない曖昧な判断によるものだ。所詮、ノーベル平和賞は政治的に利用される権威付けの道具となってしまった。

2012年1月29日 (日)

ああ、月桂冠に涙あり

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    大阪国際女子マラソンは重友梨佐が2時間23分22秒で優勝、ロンドンへの切符を確実にした。過去、五輪マラソンの金メダリストは高橋尚子、野口みずき。実は1936年のベルリンオリンピックで朝鮮出身の孫基禎が優勝している。これまで朝鮮南北双方が自国籍に訂正するようIOCに要請しているが、記載の変更は認めなかった。つまり現在でも日本国籍として記録されている。ただし昨年12月、IOCのホームページで孫基禎の記述を変更し、「ソン・キジョン」と韓国語の発音に基づくローマ字表記とした。また胸の日の丸を消した写真を新聞に掲載した東亜日報の記者が投獄されたことや、民族意識に対する言論弾圧で休刊されたことなどを付記している。韓国側では「半分だけ要求が通った」としている。(参考:「ああ月桂冠に涙」1985年)

文豪の書斎

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 司馬遼太郎記念館

    関西には川端康成(茨木市)をはじめ与謝野晶子(堺市)、佐藤春夫(新宮市)、志賀直哉(奈良市高畑)、谷崎潤一郎(芦屋市)、司馬遼太郎(東大阪市)など日本を代表する作家の文学記念館や旧居がある。書斎を再現しているところもあり、生前のままに日用品が置いている。

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 志賀直哉が使用していた机

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谷崎潤一郎が使用していた机(倚松庵)

これら文豪は関西以外にも各地に展示室が散在している。

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三国路与謝野晶子紀行文学館「椿山房」(群馬県利根郡みなかみ町) 与謝野晶子愛用の黒檀の机

女性と読書

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    昭和10年頃の写真だが、若い女性が読書している写真がある。撮影者は誰かわからないが、なにか名画をおもわせる風情が感じられる。水着のマリリン・モンローがジョイスの「ユリシーズ」を読んでいる写真は有名である。モンローと難解な小説とのギャップが面白い。

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人口調査記念日(1月29日)

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     明治5年、初の全国戸籍調査が実施されたことに由来する。当時の調査結果では、男性1679万6158人、女性1631万4667人の総人口3311万825人となっている。総務省統計局発表の最新人口(2012年1月1日現在)1億2773万人(前年同月より29万人減)。厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所は、2060年までの日本の将来推計人口は、8674万人と、半世紀で約4100万人減少すると予測している。

読書する女性

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    ゴッホの有名な絵に「アルルの女」がある。モデルはゴッホがよく通ったカフェの経営者ジヌー夫人。夢中で読書している様子ではなく、ひとつは思案しているポーズであり、もう一つはこちらを向いて、本を机に置いてある。2枚とも、「読書と女性」という画題ではどちらかというと珍しい趣向である。大衆向きに売れそうな絵を描くならば、若い娘の横顔あるいは、伏目がちで、物静かに読書しているというスタイルが一般的であろう。古典例としては、フラゴナール「読書する女」(1776年)がある。

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19世紀の風景画家コローにも読書する女の作品がある。

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印象派ではルノアールやカサットの作品がある。

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イワン・クラムスコイ「読書する女、ソフィの肖像」 1866年

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ヴィルヘルム・ハンマースホイ「読書する女性」 1903年

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アンリ・ファンタン=ラトゥール「読書する女」 1861年

日本の画家の「読書」はオーソドックスな作品が多い

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  黒田清輝「読書」(1890) 浅井忠「読書」(1902)

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テオドル・アクセントヴィチ(1859-1938)はポーランドの画家

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 ダニエル・ハンティントンは現代の画家

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 ルギ・ブラッチは現代イタリアの画家

井上靖の臨終の言葉

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愛用の万年筆「モンブラン・マイスターシュテュック146」(神奈川近代文学館所蔵)

    井上靖は平成3年1月29日、83歳で亡くなった。家族の見守るなか、最後の言葉を残している。「臨終とはこういうことだ。しっかりと見ておきなさい」と。

  明治40年5月6日、北海道石狩国上川郡旭川町(現・旭川市)で生れた。生後、約1年で父の郷里である静岡県伊豆湯ヶ島に移り住む。従って文学記念館は、昭和48年には静岡県沼津に「井上靖文学館」、平成5年に北海道旭川に「井上靖記念館」が開館している。このほか鳥取県に「アジア博物館・井上靖記念館」(米子市大篠津町)が平成5年に開設している。井上靖と鳥取との関わりは、妻ふみと子供たちを日南町に疎開させたからである。井上は歴史小説、現代小説、美術評論など多彩であるが、晩年はシルクロードに関する著作が多く、アジア博物館はその特色を活かしている。

地獄の逃避行

   テレンス・マリック監督の「バッドライン」(1973年米映画)は当時主演のマーティン・シーンが無名なので日本未公開だったが、「地獄の黙示録」(1979)でスターとなり、この作品が「地獄の逃避行」という邦題でDVD販売されている。

   舞台はサウス・ダコタ。ある日、青年キット(マーティン・シーン)は仕事の帰りにホリー(シシー・スペイセク)に出会い、恋に落ちる。だがホリーの父親に交際を反対され、キッドが脅しのつもりで向けた銃が、誤って射殺してしまう。現代版ボニーとクライドのようなキッドとホリーの逃避行が始まる。映画は自然の風景をまじえて美しい映像であるが、この話は1958年にネブラスカ州リンカーンの町で実際に起きたチャーリー・スタークウェザー無差別殺人事件が基になっている。 

   チャーリー・スタークウェザー18歳(1938年生)とキャリル・フューゲイト13歳が知り合ったのは、1956年の夏の初めだった。ふたりはデートをかさねね愛し合うようになった。彼女に贈り物を買う金を得るために、彼が思いついたことはガソリンスタンドを襲うことだった。1957年12月1日、クレスト・ガソリンスタンドの店員を殺し100ドルちょっとを盗んだ。そして1958年1月21日、ベルモントでキャリルの父母妹の3人を殺害した。そして1月27日、マイヤー農場で1人、1月27日学校の地下室で2人、1月28日リンカーンの大富豪C・ラウアー・ウォード邸で3人を殺した。1月29日ワイオミングで靴のセールスマンが11人目の被害者となった。男6人と女5人。スタークウェザーはワイオミング州ダグラスの拘置所に連行された。1959年6月25日、彼は電気椅子で処刑された。終身刑を宣告されたキャリルは、ネブラスカ州ヨークの女子感化院に送られ、1976年仮釈放されている。

   1950年代のアメリカでは、豊かになったティーンエージャーが一つの社会階層として注目され始め、ブルージーンズに白いTシャツ、オールバックの髪という独特のスタイルの反抗的な若者も登場した。映画「乱暴者」のマーロン・ブランドや「理由なき反抗」のジェームズ・ディーンは彼らのヒーロー的存在であった。ジャック・ケルアックの小説「路上」は、若者の間でもてはやされた。

2012年1月28日 (土)

marriage divorce

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Our marriage didn't last long.私たちの結婚は長続きしなかった

They were divorced last  year.彼らは昨年離婚した

He was divorced from his second wife.彼は2度目の妻と離婚した

She want a divorce.彼女は離婚を望んでいる

They got a divorce recently.2人は最近離婚した

In 1980,Olivia Hussey maried Japanese  musician Akira Fuse,and had one son,Max(born 1983).Divorced from Fuse in 1989,she married American musician David Glen Eisley in 1991.In October 1993,she gave birth to a daughter,India Eisley,now an actress.

1980年、オリヴィア・ハッセーは日本の音楽家・布施明と結婚、そして息子が生れた。1983年、マクシミリアンくん。だが1989年、布施とは離婚し、1991年、アメリカの音楽家・デヴィッド・アイズリーと再婚・1993年10月、オリヴィアは一人娘を産んだ。インディア・アイズリーは女優となった。

君は薔薇より美しい

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オリヴィア・ハッセーと娘のインディア・アイズリー(パパは布施明ではなく、デヴィッド・アイズリー)

    今年になって芸能人の離婚のニュースばかりだ。宮崎あおいと高岡蒼佑、浜崎あゆみとマニュエル・シュワルツ、ダルビッシュと紗栄子、そして菊池桃子とプロゴルファーの西川哲。1980年、布施明はオリヴィア・ハッセーと結婚、日本人が世界的な女優と結婚したのは初めてのことで大きな話題となった。だが6年後に離婚。息子のマクシミリアンも28歳になる。オリヴイアはその後、ミュージャンのデヴィッド・アイズリーと再婚し、インディア・アイズリーが生れる。娘インディア(18歳)は美しく成長し、今後、女優として期待できる。最新作はケート・ベッキンセール主演の「Underworld:Awakening」(2012年)

三島由紀夫のペンネームの由来

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   三島由紀夫のペンネームはどのような意味でつけられたのか、いまだ謎が多い。父の平岡梓によれば、三島は電話帳を適当に開いてそのページにある苗字を使おうと決め、そして出てきた苗字が「三島」であり、また「由紀夫」のほうは作家の名前を2,3人ミックスしてつけたとある(「倅・三島由紀夫」)三島自身は、学習院中等科国語教師・清水文雄がこのペンネームを作ってくれたと言っている(「私の遍歴時代」)林富士馬によれば、「伊藤左千夫のような粋な名前をつけて下さい」と、三島が清水文雄にねだり、清水は下を万葉仮名で「由紀夫」、上は画数の多い字で「三島」とした(作品論「花ざかりの森」)という。その清水文雄によると、昭和16年に修繕寺温泉での「文芸文化」同人合宿から帰って、三島と2人でペンネームを考え、修善寺への入口の駅名から「三島」とつけ、「由紀夫」は本人の案「由紀雄」を一字修正したという(座談会「平岡公威の花ざかりの時代」)。

   「ミシマ」が地名「三島」であることは一致するものの、「ユキオ」の由来があいまいである。①三島から富士山がみえるので、「雪」を組み合わせたとするもの(佐川章「作家のペンネーム辞典」)②東文彦の小説「幼い詩人」の登場人物「悠紀子」から採ったとする(東季彦「マンモスの牙」)、などあって真相はつかみにくい。

経済センサス

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    調査員さんから「経済センサス調査票」を渡された。従業員は何人か。いつ開設したのか。売上金額などを調査票に記入し、回答するようになっている。「女性の書斎ひとり好き」は分類表ではサービス関連産業に属する。事業の種類は社会教育施設提供事業(図書館)になる。

ファム・ファタール

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  ファム・ファタール(Femme fatale)とは、運命の女、宿命の女という意味のフランス語。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。

    女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

浅川巧

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  朝鮮民芸研究家・浅川巧(あさかわたくみ 1891-1931)の再評価がなされている。1914年朝鮮に渡り、朝鮮総督府の林業試験所に入り、養苗などに従事。植物学者中平猛之進と親交。朝鮮民芸のなかに民族文化の美を発見し、深く傾倒。日本民芸運動の源流となる。1924年柳宗悦と協力し、ソウルに朝鮮民族美術館を開館。また植民地下にある朝鮮民族への温かい敬愛は、朝鮮人の信頼を得た。著書に「朝鮮の膳」(1929年)「朝鮮陶磁名考」(朝鮮工芸刊行会1931年)近年関係書が刊行される。高崎宗司「朝鮮の土となった日本人」(草風館1982年)「浅川巧全集」(草風館1996年)浅川巧「朝鮮民芸論集」(岩波書店2003年)「浅川巧日記と書簡」(草風館2003年)「朝鮮陶磁名考」(草風館2004年)など。

高橋新吉 ダダと禅

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  高橋新吉(1901-1987)は、明治34年1月28日、教師・高橋春次郎、マサの二男として、愛媛県西宇和郡伊方村小中浦(現・伊方町)に生まれる。新吉6歳のとき、父が鉱山会社に勤務し、八幡浜へ移転する。新吉11歳のとき、母マサが亡くなる。新吉13歳のとき、八幡浜商業学校(現・八幡浜高等学校)に入学する。その後、父が後妻を迎えたため、新吉は卒業間際の大正7年2月、無断で上京するが、数ヵ月後郷里に帰る。その年の春、二度目の上京のときは、チフスにかかり行路病者として養育院に収容され、2ヵ月後に帰郷。大正9年、「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかかぐ」が入選した。そして8月15日、同紙掲載のダダイズムの紹介記事を読み、強い衝撃をうけた。ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラの「ダダ第一宣言」である。翌大正10年2月、郷里の真言宗出石寺に入り、8ヵ月の修業の後三度目の上京をする。大正10年12月ガリ版で「まくはうり詩集」を60部作って、知人に配った。それを持って辻潤を訪ねた。そして大正12年には「ダダイスト新吉の詩」が刊行され、その強烈な破壊的精神で注目されるようになった。しかしこの詩集は辻潤が新吉に無断で出版したものであった。そのとき八幡浜の警察の留置所にいた新吉は、この詩集を受け取って破り捨てたという。書名も辻が勝手に決め、杜撰な編集でノートの書きさしや未定稿の詩が混じっていて誤植が多かった。

   このように高橋新吉は、ダダイスト詩人として紹介されるが、その後の彼はダダとは訣別し、心の病を禅修業により克服し、悟りを得た。「私はダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている」(日本のダダ)と言っている。

    昭和62年6月5日、高橋新吉は86歳で亡くなったが、詩集のほかに小説集、仏典研究、美術評論集も多い。

武者小路実篤の愛人

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    真杉静江(1901-1955)は美貌の女流作家。福井県丹羽郡殿下村に生まれる。3歳で台湾に渡り、神官の娘として少女時代を父のいる台湾で過ごした。台中高等女学校を中退、看護婦をした。親の意向で17歳で結婚したが出奔、大阪で文学修行のかたわら大阪毎日新聞学芸部記者をしていた。大正末期、奈良に転居してきた武者小路実篤(1885-1976)とは昭和2年に知り合い庇護をうけた。そのころ実篤は竹尾房子と別れ、妊娠した飯河安子と結婚していた。昭和2年、東京へ移った静江と実篤の関係は昭和7年頃まで続いたが、彼女の言葉をかりれば「夕方になれば、白い蚊帳の中へ自分を残して、妻子の待つ家へ戻っていく男」だった。実篤と別れた静江は、昭和8年創刊の同人雑誌「桜」に参加、若い小説家中村地平(1908-1963)と同棲する。のち中村は宮崎へ帰り、戦後、宮崎県立図書館長(在職1947-1957)として活躍する。昭和17年、中山義秀(1900-1969)と結婚したが、昭和22年に離婚した。戦後は鏡書房を設立したり、昭和24年日本ペンクラブ有志と広島、長崎を視察、被爆少女に手術をうけさせるために尽くして社会的名士になったが、創作活動から遠ざかり不遇のうちに肺がんで没した。真杉静江の人生は、いろいろな男性遍歴で華やかであるが、女流作家としては優れた作品を残せなかった。しかし彼女と関係をもった男たちは皆それぞれに成功している。最初の創作集「小魚の心」(昭和2年)に収められた「松山氏の下駄」は武者小路実篤がモデルで佳作である。他に「帰休三日間」「ひなどり」「草履を抱く女」「その後の幸福」「甲斐なき羽撃き」「南方紀行」「天日爽やかに」「ことづけ」「鹿鳴館以後」「妻」「凱歌」「三つの誓ひ」「母と妻」「万葉をとめ・真杉静枝短編傑作集」「思はれ人」「鏡と鬢」「後宮の人」「花怨」「美しい人」「仇ごよみ」「愛情の門」「嵐の中の姉妹」「人生案内・小説」「梅の忌・久米正雄を悼む」「人間・性・モラル 真杉静枝・美川きよ対談」「女といふ魚より」「ふしぎ国の原爆乙女」「現代の恋愛観」

「蒲団」のモデル・岡田美知代

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  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

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   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

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    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

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   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

    横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9月)

2012年1月27日 (金)

ニッポン新無責任時代

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    今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。天候不順が続き冬の野菜が高騰している。大根、ナス、キャベツ、ネギ、レタス、昨年に比べ1.3倍から2倍。庶民は悲鳴をあげているが、政治家は増税に必死。これ誰れの責任?JR福知山線脱線事故、前社長無罪。107人の尊い命が失われた大事故なのにトップの責任は?そして郵政不正事件も真相は闇に葬りさられた。世の中、納得できないことが多すぎる。暴力団と親しい不動産屋が逮捕され野田首相の献金111万円が発覚!昨年は外国人から献金を受けて陳謝したばかり。今回も「全く知らず」で済まされるのか。大臣が失言し任命責任を問われても「適材適所だと思う」と繰り返すばかり。いまや日本全体に無責任が蔓延している。

グラツィオーソ

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    山口なお美の小説「グラツィオーソ」は県大会突破すら考えられなかった弱小吹奏楽部が謎の美人教師の指導で生まれ変わり、吹奏楽の甲子園・普門館への出場権を目指す青春ストーリー。「グラツィオーソ」とはイタリア語で、発想標語の一つ、「優美に」「優雅に」の意。豆から入れるコーヒー「グラツィオーソ・コーヒー」も有名。

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三ヶ島葭子と左卜全

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    明治19年8月7日、埼玉県入間郡三ヶ島村堀之内(現・所沢市堀之内)に生れる。父・三ヶ島寛太郎は、中氷川神社の出、小学校長。明治41年6月から大正3年3月まで、東京府西多摩郡小宮尋常高等小学校(現・あきる野市立小学校)に在職。この時期、与謝野晶子の門下となり、「女子文壇」「スバル」等の雑誌に多くの短歌・散文を発表した。一時は晶子の後継者と目されたこともあったが、大正5年に発病。原阿佐緒の紹介で島木赤彦の門下となり短歌を発表する。大正10年、親友の原阿佐緒と石原純との恋愛問題に関する論文を、「婦人公論」に掲載したことにより、アララギを破門される。大正15年、古泉千樫の「青垣会」結成に参加したが、昭和2年3月26日、麻布谷町(現・六本木)の自宅で喀血の後、逝去。なお、俳優の左卜全は、葭子の異母兄弟である。

名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき 我もまた見ぬ人の恋しき

寂しさを歌ふ人なくなりし時 ろをまの国は亡びしときく

   左卜全、本名・三ヶ島一郎は、寛太郎と後妻のぶとの間に生れる。葭子は異母姉。明治42年に上京。さまざまな職業につきながら立教中学に通う。大正3年、帝劇歌劇部3期生の補欠募集で入り、「ブン大将」のコーラス・ボーイで初舞台。昭和になって松旭斎天華一座に入る。その後、軽演劇のムーラン・ルージュで老け役の喜劇俳優として独自の芸風を確立した。埼玉県所沢市の三ヶ島葭子資料室には、卜全資料も平成6年に、夫人・三ヶ島糸(旧姓・中村糸)から市に寄贈され、資料室内に合わせて展示されている。

タマラ・ド・レンピッカ

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    1920年代のパリでアール・デコを代表する女性画家タマラ・ド・レンピッカ(1898-1980)は忘れられた画家であったが、近年、展覧会が開かれ、ちょっとしたブームのような気がする。「緑色のブガッティに乗るタマラ」(1925)はよく表紙などに使われその名を知らずとも1度は目にしたかたも多いだろう。ボリューム感のある裸婦はモディリアーニを凌駕している。そのポップでエロチックな感覚は現代的で男性に好まれるであろう。

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富田木歩

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夢に見れば死もなつかしや冬木立

   「夢に見た自らの死。もはやそれは恐れるようなものではなく、なにか懐かしいような既視感が漂っている」

  富田木歩(1897-1923)は2歳のとき、病のため下肢の自由を失い、貧窮のうちに育つ。そのため義務教育を受けることなく、新聞雑誌などから仮名文字を学んだ。臼田亜浪に師事。大正6年、新井声風と親交をむすび、俳号を木歩とする。彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。やがて境涯作家として俳壇に名を知られる。関東大震災の際、声風の救助の甲斐なく向島堤上で焼死。享年27歳。

西行出家をめぐる謎

    西行、俗名を佐藤義清(1118-1190)という。平清盛と同年だが9年、長生きしている。鳥羽上皇に北面の武士と仕えたので、平清盛と面識があったと考えられるが資料としては残っていない。西行と頼朝とは面識があったことは証明されている。西行が出家隠遁したのは、保延6年、23歳のときで、動機については古来諸説ある。①友人が急死し、無情を感じたという説②待賢門院璋子に失恋したという説③崇徳天皇への同情。

①の無常観説は、明日を約束して別れた同僚が、次の日家を訪ねてみたら死亡していたという。そして、家に帰ってみたところ、4歳になる娘が喜んでむかえてくれた。かわいいと思ったが「この思いが煩悩だ」と悟り、娘を縁の下へ蹴落とし、自ら髻を切って出家したという。②の失恋説は、女性と一夜を共にしたが別れぎわに「これきりですよ」と言われ、身分違いを痛感、世俗の秩序から離れようと出家したという。③の説は、保延6年は崇徳天皇の帝位失墜の前年であり、皇位交替をめぐる宮廷内部の情勢に義憤を感じたという。NHK大河ドラマ「平清盛」ではどのように描かれるのであろうか。

横光利一の故郷、三重県柘植

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   作家に関わる作品や遺品、あるいは写真で紹介しようとする試みは近年さかんで、全国各地に文学館・記念館は数え方にもよるが数百あるといわれる。だが不幸にも戦前期、昭和文学の主導者であった横光利一文学記念館はない。単独館がないという意味で、展示室の類は数箇所ある。妻の横光千代の書簡が価格12000円で市場で販売されているが、記念館がないと散逸してしまう恐れがあるだろう。横光の父が測量技師で、幼い頃、各地を転々としたことも関係するであろう。生れは福島県北会津郡の東山温泉の旅館「新瀧」だった。千葉県佐倉へ移り、明治37年に母の故郷三重県阿山郡東柘植村で落ち着いた。横光利一の故郷は柘植であろう。ここには柘植歴史民俗資料館や三重県立上野高校明治校舎「横光利一史料展示室」がある。妻千代の故郷山形県鶴岡市の大宝館にも展示室がある。

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三重県立上野高校明治校舎には中学時代の日記など所蔵し、最も充実したコレクションである

実朝暗殺の謎

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    源実朝の右大臣拝賀式は承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた。早咲きの梅の花を見て、「出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠んだ。辞世の歌のような悲しいひびきがある。その儀式の夜、日暮れから降りはじめた雪はしんしんと積もった。実朝が雪の石段を下りたところ、頼家の遺児の公暁は突イチョウの木の陰から突然おどり出して、将軍実朝を殺し、太刀持ちの源仲章も斬り伏せた。公暁は実朝暗殺のあと、三浦義村を頼ったが、義村に裏切られ、長尾定景に謀殺されてしまった。将軍実朝は30歳に満たない若い命を散らし、公暁も死に、ここに源氏の嫡流は絶えてしまったのである。

   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

アリストテレスの弟子

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    英雄アレクサンドロス大王(前356-前323)は東方遠征による世界帝国の形成者という世界史上、最も重要な人物である。だがアレクサンドロス自身は、もともとインドまで広がる大帝国の建設を本気で考えていたのであろうか。ただ言えることは、未知なるものに向かっていく精神の旺盛な若者であったということだけは確かであろう。アレクサンドロスがまだ皇太子のころ、13歳から16歳まで、当時の最高の学者アリストテレス(前384-前322)から直接、学問を学んでいることはよく知られるところである。二人の子弟関係がどのようなものであったかは詳しいことは明らかではない。最高の賢者と最高の帝王との出会い。「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」というアリストテレスの言葉から推測すれば、ヘレニズム精神がいかに培われたか興味深いものがある。

2012年1月26日 (木)

漂白の俳人・種田山頭火

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何の草ともなしに咲いているふるさと

やつぱり一人がよろしい雑草

   種田山頭火(1882-1940)は本名・種田正一。生家は山口県西佐波令村(現・防府市)にあるが、種田家の先祖は土佐国山内家に仕えた郷士だったといわれる。居住地は土佐国香美郡。大正15年には雲水となって西日本を中心に旅し句作を行う。四国遍路の旅は2度している。1回目は昭和3年で、土佐路の札所24番から39番までを回っている。2回目は昭和14年で、徳島を立ち、高知から愛媛松山に入る約20日間の旅だった。太平洋の海を見て、「われいまここに海の青さのかぎりなし」にどのような思いがたくされていたのだろうか。この四国遍路の1年後に没している。

Photo_6 四国遍路日記

北原白秋と壇一雄と柳川

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  北原白秋は「私の郷里柳川は水郷である。さうして静かな廃市の一つである」と第二詩集「思ひ出」に書いている。この「思ひ出」が刊行された翌年、壇一雄は山梨県南都留郡谷村町(現・都留市)に生れている。壇一雄の父の参朗は柳川市沖端で古賀という家の次男で檀家の養子となった。檀家は柳川藩の普請方を努めた家柄であって、北原白秋の生家と隣同士である。明治34年の沖端大火で大半を焼失した北原家は没落し、壇一雄の祖父が北原家の屋敷を取得している。壇一雄は柳川にいたのは幼少期であるが、終生、柳川を故郷と思っていた。

梶井基次郎と松阪

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    梶井基次郎は大正13年の夏、姉夫婦、宮田汎、富士が住む伊勢の松阪におよそ1ヶ月ほど滞在したことがある。「城のある町にて」(「青空」第2号、大正14年)は病気療養の峻が町の人々たちとの交流で、4歳で死んだ妹への思いがいやされていく。また義兄一家の質実な生活にふれ、義妹勝子(宮田ふさ)に仄かな慕情を覚えながら、峻は次第に人生へと回復していく。富士の夫の汎は松阪商業学校の体育教師。汎の妹ふさは亀山の三重県女子師範に在学し、夏休みで帰省していた。当時19歳だった。

  現在、松阪公園に梶井基次郎文学碑が建立されている。姉の家は現在の松阪市殿町にあったとされる。

赤染衛門の父親は誰か?

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    百人一首「やすらはで寝なましものを小夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな」の作者として知られる平安中期の歌人、赤染衛門(この歌の作を馬中将との説がある)。「栄華物語」の作者ともいわれる赤染衛門だが人気、知名度は紫式部、清少納言ほど高くはない。赤染衛門は赤染時用(ときもち)の娘とされるが、そのころ時用が衛門尉であったところから、父の官名によって衛門と呼ばれた。『袋草紙』によると、赤染の母ははじめ平兼盛の妻であったが、離婚した際、妻は既に妊娠しており、赤染時用と再婚したあとに赤染衛門が生れた。兼盛が娘の引渡しを求めて、裁判で争ったが認められなかった、という話が伝わる。曾孫の大江匡房の伝えで信憑性が高い。(斎藤照子「赤染衛門の周辺 平兼盛と大江匡衡」文学・語学9 1958年)

鈴鹿野風呂

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 さにづらふ紅葉の雨の詩仙堂

   鈴鹿野風呂(1887-1971)は京都市の生まれ。生家は吉田神社の神官。大正9年、京大三高俳句会を基盤に「京鹿子」を創刊。日野草城、岩田紫雲郎、田中王城、長谷川素逝らがいた。のち主宰。旅に関する句が多く、句集に「浜木綿」など。野風呂記念館(京都市左京区吉田中大路町)が平成9年に開館。

くぐり門押せば開くなり寒げい古

わだつみの神のかざしの浜おもと

花人の散りし古野の月を観る

鶯や今日の本尊にこやかに

ネッド・ラッドの正体は?

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  産業革命期のイギリスに起こった機械破壊の暴動、ラッダイト事件(1811-1817年頃)は世界史教科書にも取り上げられ、有名であるが、その実態については謎が多い。なぜラッダイト運動は急速に拡大したか。それまで小規模で散発的な機械破壊事件は各地で起こっていた。たとえば1768年には、紡績工がハーグリーヴズの家を襲い、ジェニー紡績機を破壊した事件があり、ランカシャーにアークライトの建てた工場は1779年暴徒に焼打ちされている。また1792年には、カートライトの力職機400台を設備した新式工場が焼かれたこともある。しかし1811年に起こったラッダイト運動はその規模からいっても、それ以前のものとは比較にならなほど大きい。ノッチンガム市附近にはじまった運動はたちまちダービィシア、レスターシアへと波及し、さらに翌年にはチェシア、ランカシアなどイギリス北部の工業地帯全体に燎原の火のように燃え広がった。なぜ急速にひろがったのだろうか。当時のイギリスは、ナポレオンの大陸封鎖令、海上封鎖勅令などによりアメリカをはじめとする海外市場を失い、加えて租税の強化があって、不況のどん底にあえいでいた。また連年の不作から穀価の暴騰が起こり、下層大衆の生活が極度に窮迫していた。ラッダイト運動は翌年1812年春にかけて中・北部諸州に広がった。リバプール政権のきびしい規制立法によって、1813年ヨークにおける大量裁判の結果多数の者が絞首刑、あるいは流刑に処せられ、運動は鎮圧した。

 ラッダイト運動Luddite Movementの名は、機械破壊者たちが、ロビン・フッドの物語と結びつけて、シャーウッドの森のネッド・ラッドNed Ludd 、あるいはキャプテン・ラッドCaptain Luddと呼ばれたことから生じた。つまり本当の名前はわからず神秘的な指導者が存在していたのかもしれない。日本の穂積文雄の研究によると、本当の指導者はジョージ・メラーGeorge Mellorという職工であったという。彼は1813年1月、22歳で死刑になっている。(参考:穂積文雄「英国産業革命史の一断面  ラタイツの研究」有斐閣 1956)ところで穂積文雄は戦前、中国経済史とくに貨幣の研究で知られていたが、戦後、ラッダイト運動の研究で学位を取っている。このように東洋史と西洋史を研究された学者はきわめてめずらしい。もちろん東西交流史の研究者は多数いるが、異なる地域、時代を研究することは多くない。

帝銀事件

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    昭和23年1月26日、帝国銀行椎名町支店に午後3時過ぎ、東京都防疫消毒班の腕章をつけた色白いやせ型の初老の男が現れた。男は進駐軍の命令で赤痢の予防薬を飲んでもらうことになったという。まず自分で飲んでみせたあと、行員全員に飲ませた。まもなく、12人が死亡、4人が重体となり、現金16万円と小切手が奪われた。毒物は青酸化合物と判明した。

    当初、警察は毒物の専門知識を持つ者の犯行として、犯人像を旧関東軍の細菌兵器研究部隊(731部隊)関係者に絞り込んでいた。ところが、事件から7ヵ月後、突如捜査方針が転換した。8月22日、テンペラ画家平沢貞通が逮捕された。一旦は犯行を自白したが、公判では否認。物的証拠がなく、毒物の入手経路も判明しないまま、昭和30年に平沢の死刑が確定した。しかし、死刑は執行されず、平沢貞通は昭和62年に95歳で獄死した。遺体は東京大学に献体として運ばれ、脳は薬品処理され、保存された。その後、池田研二(元・東京都精神医学総合研究所精神疾患研究係長)が脳を解析した結果、狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎の後遺症と推定される病変を発見した。病変の状態から、認知症にはいたらなかったが、虚言など性格変化を起こすという。

    帝銀事件の真相は依然として謎が多い。占領下の昭和24年、下山事件、三鷹事件、松川事件と三大謀略事件が立て続けに発生している。平沢貞通の冤罪事件もこれらと関連づけて考えることができる。当初、警察は731部隊の犯行と見ていた。もし石井部隊の研究員が逮捕されると、731石井部隊の研究データをアメリカに提供していることや、細菌研究の全容が明るみにでるため、隠蔽工作の指示がGHQから出されたとケペルは推理する。石井部隊の細菌研究者たちが医学界の中心的存在として君臨し、その後、石井部隊出身者が薬害問題をひきおこしていく。帝銀事件の真相の究明は松本清張のミステリー小説からやがて、歴史の研究対象としても重要になっていく。戦後はまだ終わっていない。

2012年1月25日 (水)

青山ミチ「風吹く丘で」

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  「亜麻色の髪の乙女」というヴィレッジ・シンガーズや島谷ひとみのヒット曲は広く知られている。実はこの曲は昭和41年に青山ミチで「風吹く丘で」というタイトルで発売される予定だったが、失踪事件で発売中止となった。2年間お蔵入りになっていたのをタイトルを変更して、ヴィレッジ・シンガーズが歌ってヒットしたのである。43年には青山も復帰して、「叱らないで」がヒットした。「♪あの娘がこんなになったのは あの娘ばかりの罪じゃない」という歌い出だしで始まる。しかし、数年後に覚醒剤所持で逮捕されて芸能界から消えてしまった。

兵庫のまん中でキラリと現金が光る

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大河ドラマ「平清盛」のロケ地にもなった砥峰高原のある神河町川上

    兵庫県発注の治山工事をめぐる贈収賄事件。すでに植野建設社長と県職員と神河町職員の逮捕者がでた。「兵庫のまん中でキラリと光る町」というキャッチフレーズで誕生したのは6年前。神河町という地名も県民にすらまだ認知されていなかったが、今度の汚職事件が連日のように報道され、神河町が有名になったのは皮肉なことである。

石川啄木と及川古志郎

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  盛岡中学校時代の石川啄木は、英雄ナポレオンが好きだったが、やがて一年生の頃から二年生にかけて、海軍士官の方へ心を引かれていった。三年生の石川は同級生の石掛友造とともに五年生の及川古志郎(1883-1958)、吉田初五郎、田子一民らの指導を受けて文学的な知識を養った。そして及川の紹介で野村長一(胡堂)、金田一京助(花明)ら、盛岡中学における代表的な文学青年と交わった。啄木は風采の堂々とした及川と得意となって歩き、同級生に「一さんは及川のP (かわいがられ者の意)だ」などとやじられたりしている。

   この啄木に文学的影響を与えた及川古志郎はのちに海軍兵学校を出て海軍大将、海軍大臣になっている。とくに昭和15年9月、日独伊三国同盟問題の紛糾で辞職した吉田善吾に代って、第2次近衛文麿内閣の海相となり、従来の海軍の三国同盟の消極的姿勢を捨て、同盟の締結に同意した人物として歴史にその名を残している。

    盛岡中学の出身の二人を比べて、山田風太郎は「今日啄木が天才歌人として不朽の名声を得ているのに反して、及川古志郎は誰一人省みる者はいない。生きているうちは優勝劣敗の法則が適用されても死後まで見とおすと、必ずしもそうではないのが人間世界の面白さである」と書いている。

姫路城と池田輝政

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    元弘3年(1333年)、赤松則村(あかまつのりむら)が一時陣城を置き、正平元年(1346年)、赤松貞範(あかまつさだのり)が城郭を築いた。天正8年(1560年)、羽柴秀吉が修築、中国地方経略の居城として三層の天主を建てた。慶長5年(1600年)、池田輝政が入り、慶長13年頃まで大改築した。その後、豊臣秀頼の未亡人千姫と婚した本多忠刻(ほんだただとき)が父とともに入城、千姫のために西の丸を経営した。以後、親藩、譜代の10万石ないし15万石程度の要人が入り、明治維新に至った。

   城は山陽道に沿い播磨平野の中央にあり、高さ45メートルの丘を中心に渦巻状に2巻き、時計と反対の方向に巻いている縄張になっている丘上に本丸・二の丸・三の丸・西の丸をおいて内曲輪とし、その周囲の平地に中曲輪・外曲輪がある。内曲輪はほぼ円形の平面をなしており、堅固な石垣をめぐらしている。中曲輪はおおむね石垣と水濠、外曲輪は土塁と水濠で囲んでいる。天守は本丸の中央にあり、大天主のほかに三つの小天主を多門で連結した連結式天守閣で、五層六重穴倉一重で白壁総塗籠造(ぬりごめづくり)。初層の東側、二層の南・北側に軒唐破風(のきからはふう)をつけ、その下に出窓風な張出しを設けたこと、四、五層に軒唐破風を設けたことなどが特徴である。櫓は40棟、渡櫓18棟、多門40棟、長局8棟で、櫓の主なものには片仮名の「イロハ」で、門の主なものには平仮名の「いろは」で名付けられていた。内曲輪は大体保存され、中・外曲輪は破壊されて市街になった。

   姫路52万石の初代藩主、池田輝政の400回忌法要が増位山随願寺で行われた。輝政は慶長18年1月25日、姫路城で急死する。享年50歳。豊臣秀吉の呪いとも噂される。

ヒッポメネスと黄金のリンゴ

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  むかしアトランタという美しい娘がいた。言い寄る若者たちも多かった。「結婚したいと願うならば、私とかけっこをして勝たねばなりません。私が負けたら、あなたのものになります。でも、私が勝つたら、あなたの命をいただきます」と。そして何人かの若者が死んでいった。ヒッポメネスという美しい若者がいた。彼はその競争に参加することにした。そしてアフロディテに祈った。女神は彼の祈りを聞き入れて、黄金のリンゴを与え、「競争している間、それを投げるのだ」と言った。レースが始まった。試合の途中で、ヒッポメネスは黄金のリンゴを投げた。そして彼女がリンゴを拾っている隙に抜き去り、そのままゴールに入った。そしてアトランタを妻にした。

バッハ 月明りの写譜

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バッハには最初の妻との間に7人、2番目の妻との間に13人の子どもがいた

   J・S・バッハは、町楽師ヨハン・アンブロシウス・バッハの8番目の子(末っ子6男)としてチューリンゲンのアイゼナッハで生れた。父からバイオリンの手ほどきを受け、聖ゲオルク教会で伯父ヨハン・クリストフ・バッハの弾くオルガンに耳を傾けつつ成長する。9歳のとき母エリーザベトが死に、翌年父も後を追った。両親を失ったバッハはオールドルフの町で教会オルガニストをつとめていた長兄のヨハン・クリストフに引き取られ、この兄からクラビーアの演奏を教えられた。このようなエピソードがある。兄のところには当時の新しい楽譜がたくさんあった。しかし兄はどういうわけか楽譜を弟に見せてくれなかった。そこでバッハは、こっそりと書斎から楽譜を盗み出し、そして一同寝静まった後で、月の光をたよりに写し取った。このことが見つかって兄から散々に叱られたが、そのときにはその楽譜をすっかり暗記していた。バッハは作曲家としての基礎を学んだ。

コルネリア夫人の宝石

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 ノエル・ハレ「コルネリア夫人の宝石」

  グラックス兄弟の母コルネリアは賢夫人として世界史に名を残している。ローマの貴族たちが、奢侈にふけって遊んでいるのには目もくれず、二人の息子たち、兄のティベリウス、弟のガイウスの教育に全力をそそいだ。その評判が高いのを嫉んだ貴婦人がやって来て、めいめい美しい身の回りの宝石を見せびらかして、夫人にも見せてくださいとせがんだ。夫人はにこやかに応えて言った。

  「まことにお恥ずかしゅうございますが、わたしにはそのような貴いものをもちあわせておりませんが、見ていただきたいと思う宝石を連れてまいりましょう」といって、ティベリウス・ガイウスの兄弟を呼んだ。

   呼ばれて部屋に現れた二人の少年の立派な態度と風采をみて、貴婦人たちは、いまさらのように自分たちの心がけの浅はかなことに気がつき、赤面して帰ったということである。

それでも地球は回っている

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富山県泊町での宴会の写真を証拠として弾圧がなされた

   宗教裁判で地動説が間違いであることを強要させられた天文学者ガリレオは、小さな声で「それでも地球は回っている」と言った、という逸話は子供にもよく知られている。これは国家権力による思想弾圧の有名な事例であるが、昨今世論を賑わしている田母神俊雄が政府見解と異なる論文を発表し、更迭されたという問題が、言論の自由や思想弾圧と無関係なことと本当にいえるのだろうか。自民党、民主党、共産党や朝日新聞など巨大メディアすべてが田母神攻撃をしている状況をみると何かこの国の異常さを感ずる。たんに戦後の呪縛といってすますことのできない根深い問題である。

    話題は変わるが10月31日、平成14年3月に申し立てた横浜事件の第4次再審請求について、開始されることが決定したという。横浜事件とは、太平洋戦争中に神奈川県特高課が細川嘉六の雑誌論文を手がかりに西沢富夫らの日本共産党再建計画をでっちあげ、さらに雑誌編集者や調査研究所員らあわせて70余名を検挙し、拷問で5名を獄死させたというものである。再審請求は、平成3年1月最高裁によって棄却されたものの、別の遺族の件が申し立てて最近再審請求が認められた。この事件も発端は「改造」に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」である。この時代は悪名高い治安維持法の下で行なわれたものである。ケペルは保革、左右のいかなる陣営に属するものではなく、理性と良心にしたがうのみである。しかし民主主義の名のもとにおいて、日本の将来を論ずる意見内容で各政党やマスコミが大政翼賛会のように、村山談話を御旗として、言論弾圧、思想攻撃をすることは恥ずべき行為であると考える。

リンドバーグ少年と愛犬の死

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  チャールズ・リンドバーグははにかみ屋でおとなしく、友達も多くなかったが、ペットを非常にかわいがる子供で、とくに犬には夢中だった。常に何匹もの犬を飼っていて、少ないときでも5匹いたが、中でもずっと一番のお気に入りだったのは雑種のディンゴだった。ミネソタ州リトルフォールズにあったリンドバーグ家の農園で、ゴミをあさっている子犬を見つけたのが、チャールズとディンゴの出会いだった。少年と子犬はすぐに友達になった。13歳のときのことだった。ある朝チャールズは、ディンゴが庭で死んでいるのを見つけた。故意に撃ち殺されという証拠は何もなかったが、連邦議会の議員をしていたチャールズの父は、その意見のため、論争の渦中に身を置くことが少なくなかった。ディンゴは、それに腹をたてた有権者の標的にされたとも考えられた。

2012年1月24日 (火)

花ぼうろ

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   NHK歌謡コンサート。ラストの曲は川中美幸「花ぼうろ」。「えっ、花ぼうろってお菓子のこと」「それは乳ボーロだろう」「いや、そばぼうろ」「花ぼうろもあるよ」「NHKが宣伝するか!」と意見続出。ネットで調べると、長崎の雲仙地方では冬の晴れた日、山の木々に氷がついて白く輝ていることがある。この霧氷を地元の人は「花ぼうろ」と呼んでいるらしい。

平清盛の人気挽回なるか?

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 平清盛ドラマ館のフィギュア

    日本歴史上、平清盛ほど誤解されている人物は、他にないかもしれない。多くの人の清盛のイメージは軍記物「平家物語」に描かれた悪逆無道の男である。近年の歴史研究では、これまでの文学作品の虚像を見直し、評価が変わりつつある。貴族の時代から武士の時代へと転換させた歴史的な役割や、大輪田泊を改修して日宋貿易をすすめ、日本経済の繁栄を計画した。渡宋する日本の商船が増加したため、宋が制限を加えたほどであった。人物としても部下思いのやさしい一面があった。「十訓抄」によれば、清盛は家来の中にあまり面白くない冗談を言う者がいても、さも面白そうに聞いてあげたという。また清盛はとるに足らないような身分の低い家来に対しても、人の前では恥をかかせないように一人前の家来として扱ったという。

   兵庫県知事はツーリズムによる経済効果をもくろむあまり、再三の大河ドラマ批判に固執している。過去にも時代小説家が清盛を題材に成功した例はあまり知らず、清盛人気が沸騰するのは至難と思える。

この10年の社会事象

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    毎日があっという間に過ぎる。1年が短く感じられる。10年前もこないだのことのような気がする。2001年は小泉政権誕生。実習船えひめ丸、米原潜と衝突し沈没。大阪・池田小に刃物男、児童8人殺害。アメリカで同時多発テロ起こる。2002年は日韓共催のサッカー・ワールドカップ。初の日朝首脳会談で金総書記、拉致を謝罪。無名の民間技術者・田中耕一氏にノーベル賞。2003年米英イラク攻撃。米シャトル・コロンビア号空中分解。2004年は自衛隊がイラクに派遣される。新潟中越地震、スマトラ島沖地震が発生。アテネ五輪。2005年は愛知万博開催。日本の人口、初の減少。尼崎のJR福知山線事故107人死亡。パキスタン北東部で大地震。米南部でハリケーン被害。2006年は堀江貴文、村上世彰のヒルズ族が逮捕される。イラク高等法廷でフセイン大統領に死刑判決。秋篠宮家に悠仁さま誕生。ジャワ島で大地震。2007年は参院選で自民党が惨敗、安倍首相の突然の辞任。サブプライムローン焦げ付きに端を発した金融不安。年金記録不備問題。2008年は中国で初のオリンピック開催。日本人学者にノーベル物理学賞と化学賞。中国・四川省で大地震、死者・不明8万人超。米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻を受け金融危機が世界に波及。2009年は民主党、政権交代で鳩山内閣発足。新型インフルエンザ流行。裁判員制度スタート。大雪山系トムラウシ山で登山者遭難9人死亡。2010年はハイチ地震で死者31万人超。中国漁船、尖閣沖で巡視船に接触。チリ鉱山事故69日ぶり33人救出。小惑星探査機「はやぶさ」帰還。2011年は未曾有の被害をもたらした東日本大震災とレベル7の東京福島第1原発事故。サッカー「なでしこジャパン」世界一。金正日総書記死去。中東民主化とカダフィ大佐死去。欧州の財政危機拡大。東アフリカ大旱魃。

バルニバービ国の財政健全化策

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    本日24日から衆院本会議で消費増税を論議している。なにやらスウィフトの「ガリヴァー旅行記」のバルニバービ国の話を思い起こさせる。架空のその国でもいかにして、民衆を苦しめないで税金を搾り取れるか有識者に聞く。

    ある教授は悪徳と愚行に税金を課するという一種の累進課税案を唱えた。ただこの方法では、脱税が頻発する恐れがある。そこで、他の教授は、むしろ逆に心身の長所に税金を課した方がよいのではないかと主張する。優れた者が多く負担をするのは当然であり、それを自分で否定することは難しいから、かなり公正な税制が期待できる。ちなみにその教授によると、女性にモテる男性、あるいは美貌と着こなしのよい女性にも重税を課すという。

当世流行作家しらべ

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    「石の上にも3年」と言うように、3年という時間の経過は何らかの変化がみられる。事業であれば見通しがつくし、悲しい出来事や記憶は少しは癒されていく。3年間以上も近くの図書館を利用していなかった。医者から健康のために歩くことをすすめられて、小林まで往復30分歩いて本を借りている。いま最も人気の作家はだれだろう。圧倒的に東野圭吾だそうだ。図書館ホームページの予約の多い本ランキング小説部門から。東野圭吾、東川篤哉、湊かなえ、池井戸潤、有川浩、高野和明、奥田英明、桐野夏生、沼田まほかる、夏川草介、三浦しをん、海堂尊、村山由佳、宮部みゆき、津村節子、百田尚樹、葉室麟、畠中恵、金原ひとみ、大沼紀子、今野敏、三上延、岩崎夏海、宮本輝、貴志裕介、万城目学、道尾秀介、吉田修一、川上未映子、玉岡かおる、長沢樹、山田詠美、さだまさし、伊集院静、角田光代、窪美澄、佐々木譲、佐伯泰英。知らない作家もいる。窪美澄の「ふがいない僕は空を見た」は山本周五郎賞を受賞し、映画化が決定している。ベスト50までだが、重複しているので38人。大江健三郎、村上春樹や村上龍といった現役作家も新作がなければ、ランクインしない。人気の持続性があるのだろうか。このなかで30年後、40年後も人気のある作家がどれほどいるのであろうか。2chで近代小説のベストを選んでいる。(長編のみ) 例えば、夏目漱石「明暗」、島崎藤村「夜明け前」、森鴎外「渋江抽斎」、有島武郎「或る女」、谷崎潤一郎「細雪」、川端康成「山の音」、永井荷風「濹東綺譚」、志賀直哉「暗夜行路」、三島由紀夫「金閣寺」、大江健三郎「個人的な体験」などが挙がっていた。他に遠藤周作、安部公房、埴谷雄高などの作品が挙がっている。100年後も読み継がれていく小説を探していきたい。

コモド島

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   コモド島はインドネシアの小スンダ列島にある小さな島。体長3mもある世界最大のコモドオオトカゲが生息することで知られている。オオトカゲはおよそ6000万年前に存在していたといわれ、現在、31種、58亜種が南半球に分布している。コモドオオトカゲはオーストラリアのレースオオトカゲやオオトカゲとの交配種で、唯一この地にのみ生息している。野生のブタやシカを倒して食するほどに強靭だが、普段は比較的おとなしい。コモド国立公園は世界遺産に登録されている。

フカ切り岩の不思議

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    芦屋川をさかのぼっていくと、弁天岩とフカ切り岩がある。むかし、芦屋付近の人々は、干ばつがおそうと農作物が枯れ、苦しい生活をしなければならなかった。こんなとき人々は、芦屋川の上流にある弁天岩の水神に雨乞いのお祈りをし、それでも雨が降らないときは、フカ切りの行事を行った。それは、芦屋沖で捕らえた鱶を、フカ切り岩といわれる大きな俎板にのせて料理し、その血を弁天岩に浴びせると、水神が怒り、汚れを洗い流すため大雨を降らせてくれるという。天保5年8月1日から95日の日照りが続き、山伏の勇徳院彦兵衛が断食をして、このフカ切りの行事を行った。すると、石宝殿あたりから、にわかに黒雲がたち、雷とともに、大雨が降った、と芦屋の古記録には記されている。

醜女の「伊豆の踊子」考

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  渡辺えりといえば「Shall we ダンス?」のオバさんダンサー。キモい醜女というイメージがある。渡辺は講演会などで盛んに「伊豆の踊子の薫を演じたい」と話している。また「若い頃、内藤洋子に似ているといわれた」と話す。おデコのパーツだけだが、内藤洋子は額、渡辺のデコは才槌頭だろう。ともかく「伊豆の踊子」には詳しくて、映画化された7作品と原作とを比較検討して緻密に考察している。舞台女優でもあるが、関東学院客員教授だけに意外と理論派である。醜女女優といえば、古くはマリー・ドレスラー、最近ではキャシー・ベイツ。日本では清川虹子、樹木希林くらい。希少性において、渡辺えりは存在しているのであろうか。渡辺えりが「伊豆の踊子」を演ずる機会は残念ながらないであろうが、薫を田中絹代以来、アイドル的女優が演ずるものというのは不自然な気がする。もっと普通の素朴な顔立ちの娘が演じたら、原作の雰囲気を活かせると考える。有田紀子が「野菊の如き君なりき」で成功したように。

春藹と秋水

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 幸徳秋水と管野スガ

  幸徳秋水(1871-1911)。本名を伝次郎といい、高知県幡多郡中村町に生れる。父・幸徳篤明は早く亡くなり、母・多治は女手ひとつで4人の子を育てた。伝次郎は明治20年に林有造(1842-1921)を頼って上京し、同年末、保安条例発布により東京から追放される。翌年、同郷の中江兆民の学僕として住み込み、その思想・人格に感化される。中江家は貧乏で、いつも豆腐と葉っ葉だった。「自由新聞」に入るとき、兆民が言った。「処世の秘訣はもうろうとすることだ。号はぼんやりと春藹(しゅんあい)としたらどうだろう」「ぼんやりはきらいです」「そんなら、反対に秋水はどうだ。とぎすました鋭利な刀を秋水という。

   幸徳秋水は、明治44年1月24日に明治天皇暗殺計画を理由に絞首刑となるが(大逆事件)、名刀でなく春がすみだったら、彼の人生も変わっていたかもしれない。

大逆事件と大石誠之助

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   大石誠之助(1867-1911)は和歌山県新宮市の出身の社会主義者で、明治29年、医院を開業。貧しい人からは治療費をとらず、「できるだけ払ってください」と札をかけていた。明治43年1月24日、幸徳秋水の大逆事件(天皇暗殺計画)に連坐し、幸徳秋水、宮下太吉らと共に処刑された。近年、ジョセフ・クローニンが「The Life of Seinosuke」(2007年)という伝記を出し、海外でも知られるようになった。辻原登の小説「許されざる者」の主人公・槇隆光は大石誠之助がモデルである。

大石誠之助の情歌 森長英三郎 1965

大石誠之助 糸屋寿雄 1971

大石誠之助小伝 浜畑栄造 1972

禄亭大石誠之助 森長英三郎 1977

大石誠之助全集 森長英三郎 1982

大石誠之助物語 北村晋吾 2001

大逆事件と大石誠之助 熊野新聞社 2011

カノッサの屈辱、どっちが勝ち?

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  教皇グレゴリウス7世(在位1073-1085)に廃位と破門を宣告された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(在位1056-1106)は、王妃、王子と数名の従者を伴い、1076年の暮れ、教皇に謝罪するため、ひそかにブルグンド王国にむかって旅立った。それは異常な寒波がおそった冬だった。国王の一行はブルグンド王国の首都ブザンソンで、護衛の一隊をととのえて、アルプスを越え、おりからグレゴリウスの滞在するカノッサ城外に到着した。

   ところが、グレゴリウスはなかなかハインリヒに会おうとしなかった。しかしトスカナ女伯マティルダの仲介により、ハインリヒは、三重の城門の第二門のなかに入ることを許された。1月25日から27日までの3日間、かれはただひとり、無帽、はだしで、わずかに粗毛の修道衣をまとったまま、雪の上に立ちつづけ、やっと城門をといてもらうことができた。これがカノッサの屈辱とよばれる事件である。ところがカノッサ事件は、これで終わらなかった。

    その後、諸侯を武力で制圧したハインリヒ4世が教皇に軍を差し向け、1084年、ローマを包囲した。グレゴリウス7世は、なんとか追っ手を逃れて脱出したが、翌年、二度とローマに戻ることなく亡くなった。その後も、皇帝と教皇の争は、1122年にウォルムス協約が成立するまで、30年以後も続くものの、ハインリヒとグレゴリウスの闘争は、ハインリヒが勝利をおさめたのである。だが東京大学教授・堀米庸三は次のようにみている。「カノッサ事件は、しばしばいわれるようにハインリヒのグレゴリウスに対する外交的勝利であったのだろうか。短期的な見通しに立てばそういえないこともない。だが、いってみればこれは楯の一面にすぎない。カノッサがたとえ一つの演戯にすぎなかったにせよ、そのような方便に訴えざるをえなかったところにハインリヒの精神的敗北がある。これはハインリッヒが結局、法王をドイツ国内の問題に関し裁定者として認めたことを意味し、1075年12月8日の法王側の要求に屈服したとみるほかないのである」と。(「岩波講座世界歴史10」1970)

歴史事件を皮相的にみるのでなく、多元的、複眼的にみることは必要だ。あなはカノッサ事件をどうみるでしょうか。

フリードリヒ大王生誕300周年

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    フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテーアの子として生まれた。ドイツは近世になっても中央集権が完成せず、オーストリア大公が皇帝として選出されて、ハプスブルク家が支配していた。しかし、18世紀になると、プロシアのホーエンツォルレン家が強力になり、ブルボン・ハプスブルク家に対立していく。プロシアのフリードリヒ大王(1740-86)とオーストラリアのマリア・テレジア(1740-80)は即位の年も同じで40年もの間、宿敵のライバルとなる。

    オーストラリア継承戦争(1740-1748)は、オーストリア皇帝が男子がなくて没したため、相続権を主張するバヴァリア侯、ハプスブルク家の打倒をめざすフランス、亜麻工業の中心地であるシレジアの領有を望むプロシアは同盟を結んで、オーストリアに侵入した。フランスと植民地を争っていたイギリスと、プロシアの強大を恐れるロシアは、共にマリア・テレジアを助け、8年にわたる大戦となったが、アーヘン条約(1748)によって、列国はマリア・テレジアの帝位継承を認め、プロシアはシレジアを得た。8年後、マリア・テレジアはシレジアを回復しようと、国力を養い、ロシア・フランス・スウェーデンを誘って、反プロシア同盟をつくった。これに対して、プロシアはイギリスと同盟を結んだ。いわゆる七年戦争(1756-63)は、プロシアが機先を制してザクセンに侵入、プラーグの戦でオーストラリア軍を破り、またプロイセンに侵入したロシア、フランス、スウェーデン、オーストラリア軍をロスバッハの戦、ロイテンの戦などで撃破した。その後、イギリスではピットが失脚したため、イギリスの援助を失ったプロシアは苦境に陥った。しかしロシアではピョートル3世(在位1761-62)が即位して、突然プロシアと和睦し、次いでイギリス・フランスも和を講じたため、マリア・テレジアもフベルツスブルク条約を結んで(1763)、ついにプロシアのシレジア領有が確認され、戦争は終結した。

   オーストラリアのハプスブルク家は、ドイツ皇帝としの勢力は失っていったが、一方その領地であるオーストラリアでは、漸次支配力をつよめ、18世紀後半マリア・テレジアとその子ヨーゼフ2世(在位1780-90)のときに、専制主義を確立した。しかしその支配地には異民族が多くて、封建的要素を多分に残したまま衰退していった。

2012年1月23日 (月)

劣等生だったジョン・F・ケネディ

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   ジョン・F・ケネディは、1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、実業家ジョセフ・P・ケネディ・シニア、ローズ・フィッツジェラルド・ケネディ夫妻の次男として生れた。少年時代のケネディは体が弱い子だった。生まれつき背骨に障害があり、怪我をしやすく、しばしば激痛に襲われた。1930年、13歳のケネディはカトリックの寄宿学校カンタベリー・スクールに入学したが体調不良になり、1年後に家に送り返された。父はケネディを兄の在籍していたチョート校に転校させた。しかし、もともと兄に対して激しいコンプレックスを持っていたケネディにとってチョート校での日々も楽しいものではなかった。チョート校の寮監先生は、ケネディの父親にこんな手紙を書いている。

「息子さんは土壇場にならないと勉強しませんし、約束の時間も守りません。ものに対する価値感覚がほとんどなく、自分の持ち物の置き場所もわからなくなります」

  成績はどん底で、ラテン語に至っては落第している。勉強する気にさせることはとうてい不可能と思われた。良い成績を取ると、父親はヨットだのヨーロッパ旅行だの馬だのといった高価なものを買い与えたが、いったんプレゼントが手に入ると、また逆戻りだった。結局、未来の大統領は、112人中64番という成績でチョート校を卒業している。それでも卒業時のクラス投票では、「将来最も成功しそうな人」に選ばれた。

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 現在のチョート・ローズマリー・ホール(コネチカット州ウォリングフォード)

近代短歌の先駆者、大隈言道

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    大隈言道(1798-1868)は江戸時代後期の筑前の歌人。「酒は呑め呑め、呑むならば・・・」で有名な「黒田節」の作者・二川相近に書と歌を習い、天保3年から伝統的な歌風を離れ、新しい歌を作り始める。「ただ一人われをよく知る人しあらば 千々のそしりは土塊(つちくれ)ぞかし」には、先覚者の気概が表れている。明治31年になって佐佐木信綱が神田の古書店で偶然に「草径集」を発見し、橘曙覧と並び近代短歌の先覚者と評価されるようになる。

なぜか薄毛男優がモテまくり!?

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    かつてはロン毛で長身の男優がモテていた。しかし現代社会は複雑なので経験のある渋い男性がモテる。多少髪の毛がなくたってかまわないという女性は多くなってきたらしい。(多分・・・)ハリウッドをみても、ブルース・ウィリス、ジェイソン・ステイサム、ニコラス・ケイジ、エド・ハリス、ケヴィン・スペイシー、ジョン・マルコヴィッチなど、歳を重ねてますますイイ男ぶりを発揮している。日本でも竹中直人、片岡鶴太郎、鶴瓶などパーソナリティーの良さが際立っている。

「富士山」の語源

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    美しい姿で古来から歌に詠まれてきた富士山。古くは「福慈岳」「不尽山」「不二山」と書かれていたが、語源のほうは謎に包まれている。マレー語で、「すばらしい」「すてきだ」という意味の「puji」(プジ)が転訛して、フジになったという音韻史の学説があるらしい。

ユーラシアの地名の由来は?

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   大相撲初場所はユーラシア場所という感がある。初優勝の把瑠都はエストニア出身。モンゴルの白鵬、日馬富士、鶴竜。ブルガリアの琴欧洲、碧山。ロシアの阿覧、阿夢羅。グルジアの栃ノ心、臥牙丸、黒海。チェコの隆の山。ハンガリーの舛東欧。中国の仲の国、カザフスタンの風斧山など。ユーラシア諸地域から強豪が日本に集結している。このヨーロッパ(Euro)とアジア(Asia)とをあわせたユーラシア(Eurasia)という地名を作ったのは誰であろうか。19世紀ドイツの地理学者ロイヒが『地理学手引』(1858年)の中で初めて用いられたといわれるが詳しいことはわからない。

「ねこばば」の語源

    「ねこばば」とは猫が脱糞後、脚で土砂をかけて糞で隠すことから他人のものを隠し、自分のものとすることをいう。だが「ばば」は「婆」を表すという説もある。江戸時代の中頃、江戸の本所に猫好きなお婆さんがいた。孫が医者で裕福なこの婆さん、猫を30匹も飼っていて「猫婆」と呼ばれていた。人から借りたものを返さないという悪い癖があったといわれるこのお婆さんの渾名が「ねこばば」。それが転じて、他人のものを自分のものにすることの代名詞になってしまったという。(参考:「話を盛り上げる究極雑学」2003年)

漱石愛用の万年筆「オノト」

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    夏目漱石は英国トーマス・ド・ラ・ルー社製のオノト Onoto を愛用していた。

「オノトで書いているのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であって、ペリカンを追い出した余は其姉妹にあたるオノトを新しく迎え入れ」と書いている(「余と万年筆」)

    漱石は大正元年から5年間愛用し、「行人」「こころ」「道草」「明暗」などを、このペンで生み出した。残念ながら、同社の万年筆は1950年以降製造を中止し、オノトはもう手に入らない。

長尾山を探せ

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 標高302mの長尾山の▲がない

  兵庫県西宮市・宝塚市・川西市・三田市と川辺郡猪名川町にまたがる山地を「長尾山地」というらしい。主峰は大峰山(552)、検見山(424)、秀ヶ辻山、鳥脇山、古宝山などがある。長尾山には近年になって分譲墓地が造成されて、「長尾霊園」としてその名が市民に知られるが一般の地図には▲マークが見当たらない。国土地理院2.5万分の1の地図「武田尾」には▲長尾山(302m)がある。宝塚高原ゴルフ場の北に位置する。

「リッタの聖母」の謎

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 レオナルド・ダ・ヴィンチ「リッタの聖母」 1490年頃

   ロマノフ王朝200年の都サンクト・ペテルブルクが「北のパリ」として欧州に名を馳せるのは、18世紀後半のことである。エカテリーナ2世は、学芸を奨励し、美術品を数多く収集した。王宮は現在エルミタージュ美術館として一般公開されている。エルミタージュ Hermitage とは「隠遁者」の意。数ある美術品でもダ・ヴィンチの「リッタの聖母」はとくに尊重されている名品の一つであるが、一方この作品をレオナルドの真筆とはみなさない学者もいる。制作のもとになったらしい素描もルーブル美術館にあるが、反論者たちは仕上げは弟子の手によると主張している。ケネス・クラークは、この作品は過去にすくなくとも2度顔料が塗り直されており、1度はミラノの画家によってこの絵が仕上げられたとき、2度目は19世紀に板からカンバスに移行されたときであるとし、レオナルドの真筆説を否定している。おそらくレオナルドの前記の素描のほか、いくつかの素描をもとに弟子が仕上げたものであろうか。クラークはジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ(1467-1516)の初期の仕事であると想定している。

小便小僧が作られた理由

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ジェローム・デュケノア(1619年)

   ベルギーの首都ブリュツセルの広場に立つ高さ60cmほどのブロンズ像、「小便小僧」。なぜこのようなポーズの彫刻が建てられたのか、三つの説がある。①少年がスペイン兵に小便をしたという説②ジュリアンという名前の少年がスペイン軍の火薬に小便をかけて消火したという説③迷子になった子どもが無事に発見された時のポーズの像を作ったという説。(参考:「つい誰かに話したくなる雑学ベスト」2007年)

イギリスはU.K.

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   今年6月はエリザベス女王即位60周年記念式典が、7月にロンドンオリンピックが開催されるので、イギリス・ブームになるだろう。「イギリス」という呼び名の国名は実際には存在しない。正確には「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」である。略してU.K.(United Kingdom)と言う。イギリス人全体を指す場合は「British」と表現する。イギリス政府は「British Government」、イギリス文学は「English Literature」。

青森歩兵第五連隊八甲田遭難始末記

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    日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。ところは厳寒積雪の季節に青森から田茂木野、田代、増沢、三本木と八甲田山を縦走する。ちょうど110年前の明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。

2012年1月22日 (日)

島崎藤村と有島武郎

    近代日本文学の場合、作家を自然主義とか白樺派とか文学運動で識別して理解する傾向が強い。たとえば自然主義の島崎藤村と白樺派の有島武郎との間の隔たりは大きかったのであろうか。藤村と有島の弟生馬とは親友であった。藤村と有島武郎とが交遊関係にあったという事実はないが、麹町界隈に居住していたので面識はあったであろう。文学上の影響でいえば、キリスト教というベースがあり、藤村の「ある女の生涯」は有島の「或る女」にインスパイアーされているのではないだろうか。早月葉子は「新しい女」を自認し、奔放な生き方であるが、「ある女の生涯」の主人公おげんは「古い女」であり対照的ではあるが、孤独な死を迎えていくというプロセスでは共通している。自然主義と白樺派との距離はなく、2人は理解しあえる部分があったような気がする。

レファレンス再考

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 逢初夢子、森雅之、滝沢修、原節子

     山田洋次が選んだ日本の名作100本で吉村公三郎の「安城家の舞踏会」(1947)を録画しておいた。チェホフの「桜の園」みたいで意外とよかった。この映画には小さな思い出がある。もちろん上映当時に見たわけではない。若い頃、レファレンスで「安城家の舞踏会という古い映画のあら筋や出演者のリストのようなものが見たい」という簡単な相談を受けたことがある。いまならネットや本でも簡単に調べられるのだが、当時はそうした基礎的なデータがなかなか入手困難だった。利用者本位の新しい図書館活動として、レファレンス・ワークが普及していくためにはツールの整備が不可欠だった。そのためには解決しなければならない問題がたくさんあった。日本図書館協会が刊行している図書館の仕事シリーズ「レファレンス・ワーク」を職員全員で夜に勉強会するということからスタートした。なつかしい思い出を書いてしまった。自分がなぜブログを書くのか。それはレファレンス質問記録票を残すことができなかったという悔いが根底にあるのかもしれない。

「びびる」は鎧が触れ合う音

    ビビる大木という芸人の出現で、現代俗語の地位に落ちていた「びびる」という由緒ある日本語が復権したようだ。関西人の間では「何、びびってんねん!」という感じでよく使われる言葉だ。怖がって尻込みしている状態をさす。もともと平安時代からある言葉で、大軍が動くとき鎧の触れ合う音が「びんびん」と響くことから「びびる」という語が生れたという。

ソップ型力士の明武谷

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    チェコ出身の力士で隆の山は100㎏にも満たない軽量ながら高い身体能力で活躍中だ。「あんこ」の反対でソップ型力士というらしい。「そっぷ」とはオランダ語「Sob」(スープ)の意で、ダシを取った後の鶏ガラに喩えてこう呼ぶ。千代の山、千代の富士、初代貴ノ花、若島津、霧島、日馬富士、寺尾などがいる。とくに柏鵬時代に活躍した「人間起重機」明武谷はつり出しが得意で印象深い力士である。

同姓同名の悲劇

   松坂大輔は昭和55年の生まれ。この年、甲子園で活躍した早稲田実業1年生投手・荒木大輔にあやかって命名された名である。生まれた愛するわが子の幸福を願って命名するのは何時の時代も同じ。いまプロ野球には、10人のも大輔が在籍している。荒木大輔、延江大輔、早川大輔、前田大輔、田中大輔、白川大輔、三浦大輔、草野大輔、加藤大輔、宮本大輔。

  しかし同姓同名となると、思いもよらぬ不幸が待っていることがある。昭和46年5月、平凡な会社員だった大久保清という名前の青年は、いつもと同じように朝刊をみた。トップに連続婦女暴行犯がつかまるとある。犯人の名前を見て驚く。自分と同姓同名の大久保清である。彼の人生はこの日を境に一変した。会社へ行けば同僚たちかにからかわれ、営業先で名刺を出すと、先方はたいへんに驚く。大久保清はかなり平凡な名前だったので全国に同姓同名のかたはかなりおられただろう。その後の人生がどうだったのかはいまだ話せる歳月ではなさそうだ。大久保清は1976年1月22日に死刑になった。没後36年が経つが、名前が風化するにはどれくらいの歳月を要するのか誰にもわからない。

 ワンマン宰相といわれた吉田茂(1878-1967)にも、同姓同名の政治家で吉田茂(1885-1954)がいた。戦前、厚生大臣、軍需大臣をしている。ある日、間違ってお祝いの品が届いた。人の物をあけるとは何事だとトラブルとなった。2人は、生ものなど送り返す時間がないものは、届けられたほうが喰ってもよいという約束を交わした。流石に政治家である。

    同姓同名で薬剤師に薬を取り間違えられたという話をきくことがある。また最近、歴史の本を調べていたら、村上春樹の「平将門」という本が出版されていることを知った。あの「海辺のカフカ」の作家が時代小説を書いたのかと思ったが、別人で国文学者の村上春樹(1937年生まれ)である。作家の村上春樹(1949年生まれ)よりも先輩であるし、出身大学も同じ。文句はいえないだろう。渡部二郎といえば、ふつうプロボクサーを思いうかべるが、東京大学教授に渡邊二郎(1931-2008)がいる。ハイデッガーの研究で著名な人である。映画監督の黒澤明(1910-1998)とロス・プリモスの黒沢明(1934-2009)。黒龍会の創始者、内田良平(1874-1937)と悪役俳優の内田良平(1924-1984)。

   日本十進分類法の考案者としてしられる森清(1906-1990)にも同姓同名がたくさんおられた。愛媛県の政治家、森清(1925-2008)、千葉県の政治家、森清(1905-1968)、そして写真家の森清(1970生まれ)。

兵庫県たつの市と野見宿禰墳墓伝説

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  「日本書紀」によると、垂仁天皇の御世、当麻蹴速と野見宿禰が角力をとり、宿禰が勝ち、大和国当麻の地を与えられた。また「播磨風土記」には、相撲の始祖とされる野見宿禰は播磨国の立野で没した、とある。墓を立てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「たつの」の地名の由来である。たつの市には墳墓伝説が残り、後世になって野見宿禰神社が建てられた。

賛美のこころを持つ

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    聖書には、古代イスラエルを統一した王ダビデの歌った詩がたくさんある。

I will always thank the Lord;I will never stop praising him.(わたしは常に神をほめたたえよう。その賛美は絶えずわたしの口にある)

   神の愛と真実は、いつもわたしたちに向けられている。困難や試練がやってきても、落ち込んだりしないで、明るい気持ちでいます。

なぜマラソンの距離は半端なのか?

    近代オリンピックとともに始まったマラソンは、古代ギリシアのマラソンの戦いにちなんでいる。伝令ピリッピディス(一説にフィディピディス)が勝利をアテネに伝えるや絶命したという故事はよく知られている。もちろんマラソンの距離42.195㎞は、伝令が走った長さではない。1908年のロンドンオリンピックのマラソンの距離が26マイル385ヤード(およそ26.2マイル、42.195㎞)だったことによる。なぜ半端な長さに定めたのだろうか。大会の前に、王妃アレクサンドラが「ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したため、半端な数字の距離385ヤードだけ延長された。この大会で最初に競技場に入ったイタリアの選手ドランド・ピエトリ(1885-1942)はゴール地点を勘違いして直前に倒れたため、失格となっている。

オデッサ文学紀行

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 プーシキン            バーベリ

    黒海北岸の貿易港オデッサ。エカテリナ2世のときロシア帝国領となり、貿易都市として発展する。1823年から翌年にかけてオデッサに滞在した詩人のプーシキンはこの街が西洋的で明るい雰囲気であると手紙に書いている。プーシキンはヴォロンツォーワ夫人との情事で僅か2年でこの地を去る。ゴーリキーやクプリーン、アレクサンドル・グリーンも放浪生活の中でオデッサに立ち寄っている。1920年代以降、オデッサ出身の作家が活躍する。イサーク・バーベリ、イリフ、オレーシャ、ペトロフ、カターエフ、バグリッキイなど。芸術家が育ち、イデッシュ文化の中心地となった。

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 ワレンチン・カターエフ

   ワレンチン・カターエフ(1897-1986)はオデッサに生まれ、ソ連文学のなかで長く大きな影響力をもつ地位にあった。

「出歯亀」の語源

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    庭で行水する女性や女湯の板塀の節穴から覗いたりする変態男を「出歯亀」という。近年はあまり耳にしない言葉だが、携帯でスカートの中を盗撮することも「出歯る」行為だろう。「明治の末の変態性欲者、植木職の池田亀太郎に由来。出歯の亀太郎の意。女湯をのぞくなど、変態的なことをする男の蔑称」と広辞苑にある。

  明治41年3月22日、植木職の池田亀太郎(25歳)は、近所の女湯をのぞているうちにムラムラとなり、官吏の妻(28歳)のあとをつけ、空き地に引きずり込んで強姦し、殺害した。この男はものすごい出っ歯だった。彼はすぐに獄舎につながれたが、特赦で10年後には釈放された。だが悪い癖というものはそう簡単には治らない。その後ものぞきを重ね、15年後にふたたび逮捕された。そのとき彼は50歳。雀は百まで踊りを忘れないそうだが、亀太郎は50までのぞきを忘れずというわけか。しかし亀太郎の犯罪はのぞきや痴漢、ストーカーというよりも暴行殺害という凶悪である。出歯がユーモアをさそうのかもしれないが、日本語にその名の一文字を残し、権威ある辞書「広辞苑」にその名前を連ねるとは、なんとも幸運な人であろうか。

江戸の湯屋は男女混浴か?

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    江戸では入浴といえば、湯屋(銭湯)に行くことに決まっていた。町人が風呂を持つことはなく、江戸一番の呉服商越後屋でさえ風呂はない。幕末に600余軒というから、人口の割には数が少なく、どこの町の湯屋も混んでいた。誰でも毎日入浴し、料金は銭6文。男女老若とも同じ浴槽に入る。寛政(1789-1804)ころから男女別々となったと書物には記されるが、確かなことはわからない。幕末のハリスやヒュースケンには、下田の湯屋で14歳くらいの女の子が平気で、若い男が入っている浴槽に、全裸で入浴する光景を目にして驚いている。考古学者シュリーマンは世界一周の旅の途中、日本に立ち寄っている。江戸の男女混浴を「旅行記」(1865年)に次のように記している。「浴場の前を通ったらアダムとイブそのままに、丸裸の男女がそれぞれ出てきて、外国人の私を見物した。羞恥心も無ければ風紀の乱れる様子もなく、なんという聖なる単純さであろうか」と。混浴が風紀上問題となったのは西洋人の指摘で改善したものであろう。

世紀末パリ カフェと電灯

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  1900年をはさんで前後30年間ほどの時代を、フランス人は回顧的にベル・エポック(古き良き時代)と呼ぶ。それが1914年の第一次世界大戦勃発をもって終焉したことは明らかであるけれども、その始まりを具体的にどの時点に置くかという点では意見はいくつかに分かれる。1875年のパリ・コミューン鎮圧後の第三共和制の成立、1880年7月14日の革命記念日、1889年のパリ万国博、などベル・エポックの開幕とする見方はいろいろある。

   近代都市パリはセーヌ県知事オスマン男爵のパリ大改造の都市計画によって生まれかわった。道路は整備され、大通り(ブルヴァール)が作られ、鉄道が敷かれ、電灯が灯り、鉄とガラスによる新しい時代を告げる建築が建てられ、カフェや劇場は賑わいを見せ、パリジャンたちは良き時代の生活を謳歌した。それは、「19世紀の首都」(ベンヤミン)と呼ばれるにふさわしいものであった。

   印象派の画家たちが登場したのもちょうどこの頃である。カフェ・ゲルボアが印象派と、カフェ・ヴォルテールが象徴派と結びついた存在であったことはよく知られているが、カフェ・プレバン、フランスカッティ、トルトニ、カフェ・アングレ、カフェ・ナポリタン、カフェ・ド・ラ・ぺ、カフェ・ド・パリ、カフェ・リッシュ、あるいはドーム、ロトンド、セレクト、クーポールといったカフェが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリの芸術界でいかに大きな役割を果たしたかについては、強調してもしすぎることはあるまい。記録によれば、1900年までにパリに27000軒のカフェがあった。モネ、シスレー、ピサロ、ルノアール、ゴッホ、ベルナール、あるいはカイユボットがさまざまなブルヴァール風景を描いた。しかし、記録という点では写真家も忘れてはならない。ルイ・ヴェール、セベルジェ兄弟、ウジェーヌ・アジェなどはベル・エポックを代表する写真家たちである。

   カフェはただコーヒーを飲むところではなかった。パリのパサージュを遊歩するフラヌール(遊民)なる存在はすでにボードレールにおいて先駆的に体現され、そしてそれについてはヴァルター・ベンヤミンが論じている。カフェは芸術家、都市遊民(ボヘミヤン)、社交界の女、高等娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)、労働者などなどさまざまな階層の人々の溜まり場となった。この時代にパリの人口は200万から300万に増加した。まさにパリは独特の香気にみちた快楽都市、モダン・バビロンとしてヨーロッパの中心都市として君臨することになる。電灯の普及で夜のパリは明るくなった。日本で初めて電灯が点いたのは、1887年1月22日、鹿鳴館である。

2012年1月21日 (土)

「のろま」の語源

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 野呂松人形

    江戸中期、人形浄瑠璃の一座に野呂松勘兵衛という人形の遣い手がいた。勘兵衛の扱う人形は、頭が平たく、色が黒かった。さらに、身なりがみすぼらしい上にとても鈍重な役である。ところが、その扱い上手だったので、大評判になった。しまいには、動作が鈍重な人を「あいつは、のろまつだ」と言ったりする流行語が生れた。これが「のろま」の語源で、つまり、「のろま」は「のろまつ」を略した言葉なのだ。(「雑学大全2」)

大相撲2場所連続して13日目に決着

    大相撲が低調である。把瑠都が初優勝を飾ったものの、稀勢の里戦では、立合いで変化して場内からブーイングが飛んだ。両国国技館の四方の壁に飾られた32枚の優勝額はすべて外国出身力士である。長い相撲の歴史の中でもこのような暗黒時代は知らない。そして日本人力士の優勝が見られることは当分の間なさそうな気がする。

糞ころがし王

   世界史には可笑しな名前の王様がいる。シャルル2世は禿頭王、シャルル3世は間ぬけ王、エゼルレットは無能王。これらは渾名だが、自らを「糞ころがし王」と名乗った王がいる。古代エジプトのツタンカーメンである。古代エジプト人は、糞をころがすスカラベ(scarab)をみて、日輪の回転を司るケペラ神の化身とみなした。古代エジプト語の「再生」「復活」を意味する「ケペル」と音が近いため、スカラベは再生の象徴として崇拝された。下図はカルトゥシュ(王名枠)に入っているツタンカーメンの即位名「ネブ・ケペル・ラー」の象形文字。

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幻の芥川賞作家小山祐士

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    第146回芥川賞に田中慎弥と円城塔が選ばれた。「バカみたいな作品ばかり」と選考委員を辞めた石原慎太郎。何かと話題が多いのが芥川賞である。あるクイズで過去の芥川賞作家を知っているだけ答えよ、という設問があった。これが意外に思い出せず10人も言えればたいしたもんだろう。たいていの一覧表には第2回がなぜか空欄になっている。昭和10年下半期の芥川賞は「瀬戸内海の子供ら」の小山祐士(1906-1982)に決定と新聞発表までされながら、戯曲であるため、後で対象外として賞が取り消されたのである。

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ウラジーミル・レーニンの死

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    ロシアの革命家、ソビエト連邦の建国者ウラジーミル・イリイッチ・レーニン(1870-1924)は、1924年1月21日に53歳で他界した。死因は、その精力的な仕事からくる過労といわれているが、1918年8月30日、モスクワの工場労働者に演説中、左翼エスエルの35歳女性党員ファーニャ・カプランから2発の銃弾を受けた際の後遺症も死を早めたともいわれる。1922年5月26日、レーニンは第1回目の発作に見舞われた。10月2日、彼は再びオフィスの仕事に向かいはじめたが、断続的に、しかも短時間しか続けられなかった。12月16日、第2回目の発作が起こり、右の腕と脚が麻痺状態に陥った。1924年1月21日午後6時50分、モスクワ近郊のゴルキで亡くなくなった。遺体はモスクワのレーニン廟に現在も保存されている。

    ところで、レーニンという名はペンネーム(偽名)である。本名はウラジーミル・イリイッチ・ウリヤノフ。1901年末、「N・レーニン」という変名を初めて使ったがその由来には諸説がある。①シベリアの大河レナ川に因んで、「レナ川の人」という意味②レナという級友の名前③N・レーニンという変名のNはニコライの略。

2012年1月20日 (金)

カント 時計よりも正確

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  哲学者カントは、その一生のほとんどをケーニヒスベルク(現カリーニングラード)という小さな町で暮らしていた。毎朝5時起床、10時就寝と定まっていた。朝食にはコーヒーを2杯飲んで、タバコを吸う。午後3時になると必ず街に散歩にでる、というのが1日の習慣である。カントの体のなかに時計があるかのごとく、実に規則正しい生活であった。

   下男のランベは5時15分前に、ベッドの傍へ行ってカントを起す。前日どんなに夜ふかしをした朝でも、彼はこの声で飛び起きた。「ランベよ、お前と30年も暮らしてきたが、1日でも、2度も3度も私を起こさねばならなかったことはあるまい」と自慢していた。

    詩人ハイネの話によれば、カントはいつも午後に散歩をしたが、その時刻は1分とちがわなかった。それで街の人々は、時々とまったりする大通りの時計を当てにできず、彼の通る姿を見て、めいめいの時計を合わせたというほど規則的であった。(参考:西元篤『逸話365日』創元社 1958)

秦氏とネストリウス派キリスト教

   聖徳太子を「厩戸豊聡耳皇子」というが、太子をキリストに擬したのは景教(ネストリウス派)の信徒がいたという説は古くから存在する。佐伯好郎は渡来人の秦氏がキリスト教であったと考えた。京都にある秦氏の本拠地「太秦」には秦氏創建の広隆寺があり、広隆寺はもともと「太秦寺」と呼ばれキリスト教の教会であった。日本書紀には「弓月国の王が127県の民を引き連れて百済からやったてきた」とある。弓月国は3世紀から6世紀にかけて西域に栄えたキリスト教国だった。西突厥に滅ぼされ、弓月国の子孫である秦河勝が聖徳太子の側近となって、多くの神社を建てた。河勝は、太子亡き後、蘇我入鹿の迫害を避け、海路をたよって赤穂の坂越浦に逃れ、647年、80余歳で亡くなっている。現在、赤穂大避(おおさけ)神社には秦河勝が祀られている。

生ませた子どもは55人!?

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    天皇家や名家・名門、歌舞伎や茶道・華道の家元にとって跡継ぎを絶やさないことは最大重要事である。現行の皇室典範では、女性皇族は皇族以外と結婚した場合、皇族の身分を離れると規定している。このままでは宮家が減少するため、女性宮家創設が緊急性のある問題となっている。子孫が減少するのは困りものだが、反対に多すぎるのも困りものである。11代将軍徳川家斉は健康に恵まれ69歳まで生きたが、40人の側室がおり、そのうち子を生んだ側室は16人、合計55人もの子どもをつくった。これら将軍の子どもをどうするかが老中たちの悩みの種だった。いま東京大学のある赤門は、加賀前田家が家斉の21女の溶姫(やすひ、生母お美代)を迎えるために、本郷の藩邸にわざわざ建てた御守殿門である。

平清盛と天皇霊

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    兵庫県の井戸知事が大河ドラマ「平清盛」を「画面(映像)が汚い」と酷評したことが話題となっている。ドラマの経済効果にソロバンをはじく自治体の期待感が発言の背景にある。清盛ゆかりの自治体は、神戸だけに限らず、広島や四国など全国各地に平家伝説が残されている。とくに鳥羽・崇徳の不仲は後世に怨念として残された。保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐国阿野郡西庄村に配流される。そして1164年に崩御するまでの約9年間を坂出市で過ごした。上皇の没後、飢饉や火災、貴人の死などの凶変が相次いだが、これは上皇の怨霊の仕業であるという噂が広がった。そこで粟田宮と呼ばれる神社が建てられ、院は神霊として祀られることとなった。後世になっても、天変地異があればよく崇徳院の怨霊のせいとされた。配流の地、坂井市にも天皇寺高照院という名の寺があるが、崇徳上皇に因むものである。「平清盛」が後の世になって何にかと争乱の種となるのは崇徳天皇の怨霊からであるといえる。

禁断の木の実はリンゴか?

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    聖書の中で、アダムとイブはこの世に登場した最初の人類として描かれている。エデンの園に暮らしていた2人は、蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べ、それがもとで2人は楽園から追放される。一般に禁断の木の実は、リンゴだといわれる。それはラテン語の「malus」の意味をとりちがえたものらしい。malus は、形容詞では「邪悪な」を意味するが、名詞になると「リンゴ」の意味になる。禁断の木の実=リンゴ説が一般化するのは、ミルトンの「失楽園」(1667年)からだといわれる。しかし、「聖書」創世記2章17には「善悪の知識の木」とあり、リンゴという記述はない。東欧のスラブ語圏では、禁断の木の実はブドウと考えている。またアダムとイブがイチジクの葉で体を隠していたことから、イチジクの実に違いないという説もある。ミケランジェロ・ブオナローティのシスティーナ礼拝堂天井画はイチジクが描かれている。このほか、ザクロ、キャロブ、シトロン、ナシ、ダチュラ、トマトなどが禁断の果実という説がある。リンゴが西欧世界で性のメタファー(隠喩)となるのは、ギリシア神話の影響があるからだとする説もある。争いの女神エリスがリンゴを投げ入れ、「最も美しき女性に」と書かれたことから、アフロディテ、ヘラ、アテーナーの3人が争った。その審判をトロイア王のパリスが行った。パリスは、アフロディーテを選び、その結果、世界一美しい女性へレンを得た。これがトロイア戦争の発端となるという「黄金のリンゴ」の伝説は、アダムとイブの「禁断の果実」とも結びついているというのである。

白蛇姫、野溝七生子

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若き日の野溝七生子

  大正5年、19歳の野溝七生子は同志社大学英文科専門部予科に入学した。夏ごろ、体調を崩し、比叡山で兄弟三人で療養生活を過ごしていた。そのころ、辻潤は伊藤野枝と別れて、「唯一者とその所有」を翻訳するために、友人の武林無想庵の紹介で訪れた比叡山で野溝七生子と出会った。辻は、わが心の永遠の女性として、彼女にオマージュを捧げている。

ふみにじられた雑草の

 最初の花束を

わが観自在白痴菩薩

 白蛇姫の御前にささぐ

 わがままにして従順なる汝の奴隷 風流外道跪拝

ただしこれは辻の片思いであった。辻潤の永遠の人、野溝七生子(のみぞなおこ)とはどういう女性なのだろうか。

    野溝七生子(1897-1987)。明治20年1月20日、父野溝甚四郎、母正尾の二女として、兵庫県姫路市で生まれる。野溝家は代々豊後竹田の在で、中川家に仕えた士族であった。大正12年、震災のために東洋大学が休校となり、実家に帰省。上京後の10月末頃、福岡日日新聞の懸賞小説募集広告を知り、「山梔(くちなし)」を応募し入選する。歌人の鎌田敬と同棲、戦後は東洋大学で文学を講じながら、ホテルに一人暮らす。昭和53年、瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」でのトラブルが話題となった。野溝は辻潤との交際に関する記載が事実でないことに激怒し、瀬戸内は謝罪した。それと前後して病気が進行しホテル滞在ができなくなり、老人専門病院に移った。昭和62年、2月12日、急逝心不全のために仁友病院で死去。90歳。

    野溝七生子にとっては辻潤との関係を取り沙汰されることは、迷惑なことであったであろう。しかし、辻にとっても七生子の影響は大きかったようだ。後年の辻の放浪生活はここから始まる。

2012年1月19日 (木)

菊花の香り

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   佳人薄命といえばデュマ・フィスの「椿姫」。マルグリット・ゴーチェは椿を愛したが、東洋では菊の花のほうがふさわしい。韓国映画「菊花の香り」(2003)はやはり佳人薄命映画だ。そして不幸にも主演女優のチャン・ジニョンは、この作品から僅か6年後の2009年9月、胃がんで亡くなっている。快活でスポーティな彼女だけにファンの悲しみはひとしおのものがある。彼女は亡くなる2ヵ月前、ラスベガスで極秘結婚を挙げていた。映画のヒジュも同じ病(胃がん)で世を去るという悲しい結末だが、純粋な愛に生きたチャン・ジニョンは素晴らしい人生を懸命に生きたと思いたい。

椿椿山の名品破損事件

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    渡辺崋山の弟子に椿椿山(1801-1854)という文人画家がいる。「つばきちんざん」と読む。代表作は重文「高野長英像」(岩手県奥州市にある高野長英記念館が所蔵)。数年前、愛知県の田原市で展示会があるので貸し出したところ、返却されてから損傷があることに気づいた。調査した結果、田原市の職員が作業ミスで傷つけてしまったという。誤りは誰にもあるが正直に報告せずに、黙って返してしまった。重要文化財を破損したときは、国に報告する義務が法で定められている。破損は小さなもので、補修技術があれば復元できるだろうが、展示会ブームとはいえ、大事に扱いたいものである。

ケーゼクーヘン

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ケーゼクーヘン(kasekuchen)。ドイツ語で「チーズのお菓子」。チーズをたっぷり使った甘くないパイ。お菓子というより料理に近いので、ビールやワインとともに楽しむのが美味しい食べ方です。

used to + 原形

   「日暮れて道遠し」手もとの辞書に「年を取ってしまったのに成すべきことがたくさんあって、目的に達するには程遠いことのたとえ」とある。まことに身につまされる。英語の参考書「基礎英文解釈の解明」(山口書店)を読む。妻の本である。150の Idiom が紹介されている。覚えていない。多分頭が悪くて、1つ覚えると、1つ過去の分を忘れるようにできていて、結局1つも覚えていない。赤線が引いているが、妻も1つも覚えていない。おそらく100人のうち90人は、ほとんど覚えていなくて、10人は英語をマスターして、使えるようになっているのだろう。90人の方も英語が出来なくても日常生活には困らないで生きてきたと思う。わたしも英語は習得しなくても困らないが、最近英語をネタに記事を書く。もちろん初歩的な内容で、知識を披露するという類ではない。あくまで学習ノートである。定めし誤りもあると思うが、ご容赦お願いしたい。

    この本の公式97番目に「used to +原形」がある。「a ~するのが常であった」「b もとは~であった」

(a) Mother used to sit up late at night.(母は夜ふかしするのが常であった)

(b) He used to live in Osaka.(彼は以前は大阪に住んでいた)

宜候(ようそろ)

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   「おもかじいっぱーい」「とりかじいっぱーい」「ようそろー」、これは航海用語で、操舵号令である。面舵は、船を右に向けること、取舵は左へ転進させること、宜候は、右左に向ける必要なく真っ直ぐに進め、というときに使う。読んで字の如く「宜しく候」である。これは幕末海軍の名残であり、古くは足利時代の八幡船に使われていたのが、そのまま受け継がれたものとされている。ところでイタリア豪華客船転覆事故は驚かされることが多い。多くの死者、行方不明者をだし、船長は過失致死で逮捕された。乗員の6割超は船員の資格はなかったという。今年はあのタイタニック号の沈没事故から100年目にあたる。そしてコスタ・コンコルディアが座礁したのが13日の金曜日の夜のことだった。歴史は繰り返されるというが、われわれは過去の事故から教訓を学ばなければならない。

カンニング物語

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 科挙のむかしからカンニングはあった

    受験シーズンである。昨年は京大で「ヤフー知恵袋」を利用したカンニング事件が世間を騒がせた。カンニングという和製語が出来たのはおそらく明治時代だと思うが(あの石川啄木もカンニングで退学させられている)、英語 cunning は「ずるい」あるいは「悪がしこい」という意味で、試験で不正行為を働くことは cheat と言う。

Ⅰ was caught cheating in the English exam.(英語の試験でカンニングをしているところを見つかった)

カンニングの方法も古来いろいろあり、衣類に公式や単語を記入しておく方法や、青大将こと石山新次郎のように無線で外部と連絡をとるなど趣向をこらしている。むかしは試験勉強よりもカンペ作りに情熱を燃やす学生もいた。昨年のカンニング事件のように世間やマスコミが大騒ぎすると、今後も悪ふざけでカンニングする者も現れるかもしれない。戦前はカンニングペーパーのことを洒落て「勘平」(カンペイ)と言ったが、いまでも放送業界では台本内容や構成を掲示した板をカンペと呼ぶ。このカンペは基本的にはTV画面に映らないものであるが、あえてカンペを持ったADを映すことで笑いをとることもある。カンニングで大騒ぎしたり、持物検査をするよりも、現実的に通信、情報技術が進歩した時代なので、端末や携帯なんでもOKで、情報獲得のスキルを重視しながら、かつ基本的な知識がなければ解けない設問で競うことに移行してはどうだろう。

黒板の歴史

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  日本における黒板の歴史は江戸時代にさかのぼる。安政2年には長崎の海軍伝習所で黒板を使用していた。寺子屋では石盤にうるしなどを塗った「塗板」が使用されており、石井研堂の『明治事物起原』によれば、文久3年に、開成所の教官であった神田孝平が、黒板を自分で製作したという。

   そして明治5年には、アメリカから来日した大学南校の英語教師マリオン・スコット(1843-1922)がブラック・ボードを持ち込んだという。このブラック・ボードの直訳が「黒板」になった。国産化されるのが明治7年頃。日本らしく製法は、墨汁を塗った上に柿の渋を塗った黒板が製造された。すでに明治10年頃には全国の学校に黒板が広まっていたという。

足利尊氏は逆賊か?

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 足利尊氏墓

   足利尊氏(1305-1358)の墓は等持院(京都市北区)にあるが、墓を参る人の数は少ない。それは「逆賊」の評判がいまでもあるからだろうか。だが尊氏=逆賊というレッテルが貼られたのは明治になってからである。明治44年1月19日付の読売新聞の社説だった。ここでは、水戸学的な南朝正統論の立場から、当時使用されていた国定教科書「尋常小学日本歴史」を批判していた。それを受けて、大阪選出の代議士・藤沢元造が質問書を衆議院に提出。「南北朝正閨問題」は政治問題にまで発展した。桂太郎は明治天皇の勅裁を受けた。そこで南朝が正統と決められた。そのため、北朝の天皇は歴代天皇表に記載しないことになり、正統でない天皇を担ぎ出したということで、足利尊氏は「逆賊」とされたのである。ところで、このあと、足利尊氏に「逆賊」の烙印を押す決定的な事件が起きている。昭和9年、雑誌に「足利尊氏は人間的にはすぐれた人物だ」と書いた商工大臣の中島久万吉(1873-1960)は2月9日、大臣を辞任させられた。

   尊氏の生涯は波瀾の連続であった。楠木正行の亡きあとは、足利の天下であったが、直義とは不和の末にこれを毒殺し、わが子直冬にも叛かれるという不幸な晩年を過ごした。その尊氏も、病には勝てず、正平13年(延文3年)4月30日、54歳の幕を閉じた。

   これまで尊氏像とされていた京都国立博物館所蔵(旧・守屋美孝)「伝足利尊氏像」は、武具や馬具に描かれた紋章が足利氏のものではなく、高氏のものであることなどから、高師直もしくは、その子・師詮(もろあきら)ではないかと言われている。

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2012年1月18日 (水)

孔子と喜怒哀楽

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 孔子像(湯島聖堂)

   喜怒哀楽は人間の本来誰しもが持っている感情である。ただ、これに振り回されると、道義を見失うことがある。孔子も本当は激しく感情的な人であったかもしれない。弟子の顔回が死んだとき、「ああ、天はわれをほろぼした」と嘆き悲しんだ。喜怒哀楽に関しては『中庸』にふれている。「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆な節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す」とある。考えや行動などが1つの立場に偏らず中正であり、過不足なくさりとて単純に中間をとればよいというのではなく、極端にならないことがよい。(黄紹祖「孔子之喜怒哀楽」 1987年)

国立国会図書館の検索機能がすごい!!

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    新年から国立国会図書館のOPACが新システムに更新された。画面も一新したがスピードが速い。簡易検索でキーワードを入力すると従来は図書だけだったが、論文までヒットする。つまり本を出版していない私でも、論文なら数点書いているので、検索からヒットするので感激ひとしお。むかし「ティファニーで朝食を」でジョージ・ペパー度がニューヨークの図書館の目録カードから自分の名前を探していたけど・・・。蔵書検索だけではない。「秋本圭子」と検索すると、DVD「俺たちの旅」がでてくる。つまりドラマの出演者からもヒットするのだ。音楽映像資料室の検索も1度でOK。ほんの小さなキーワードから簡易検索でも意外なヒントをつかむことができるはずだ。俳優の名前をど忘れしたときなどにも便利だ。たとえば「地獄の戦線」(1955年)に出てたあのスターの名前がでてこない。そんなとき「地獄の戦線」と入力すれば、オーディー・マーフィーとでてくる。事典のような使い方もできる。もちろん簡易検索だとゴミがたくさんでるので、絞込み検索も充実している。

モンゴルの宗教

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    ガンタン寺

    13世紀の中頃、チベットはモンゴル帝国の襲来を受け、軍事的には屈服せざるを得なかったが、宗教面ではモンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となった。16世紀ごろにはウンドール・ゲゲン・ザナバザールがモンゴル仏教(黄色仏教)を確立した。1930年代には政治的弾圧をうけ、750以上の僧院や寺院が破壊され、ほぼ3万人のラマ僧が殺された。1990年の民主化以降仏教は復興され、ウランバートルのガンタン寺はモンゴル仏教の総本山としての役割を果たしている。現在モンゴル人の90%はラマ教で、人口の6%を占めるカザフ族は回教徒である。

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 活仏の前で腹ばいになって礼拝するラマ教徒

幻のレイ・オズボーン艦隊

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   ネルソン・レイ       シェラルド・オズボーン

    清朝末期、ヨーロッパの近代文明を導入することで軍事力の増強を図ろうとする動きがあった。1861年、中国総理衙門はイギリスから兵船を購入し艦隊を編成する計画を立てた。労崇光とロバート・ハートが商議した結果、西洋式兵船8隻の購入が決定した。依頼を受けたイギリスの総税務司ホレイシオ・ネルソン・レイ(1832-1898)と海軍大佐シェラルド・オズボーン(1822-1875)の2人の名をとってレイ・オズボーン艦隊 Lay-Osborn flotilla と呼ばれる。しかし、1863年、この艦隊の司令官並びに乗組員を中国人にするか、西洋人にするのか、あるいはレイが艦隊の指揮権を清朝におくことを認めなかったため、結局、この購入計画は白紙となった。8隻のうち、4隻はイギリスへ、残り4隻はインドのボンベイに送られる。レイは総税務司を罷免され、事件は1ヶ月で収束したが、中国の中央政府の無力さを海外に露呈することとなった。

井上裕正「レイ・オズボーン艦隊事件の外交史的意義について」東洋史研究34-2  1975年

平林寺

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   午前11時ころ、近所の平林寺へ散歩。境内には誰れ一人いない。途中も誰にも会わなかった。石仏には花が供えられてまだ新しい。平林寺は埼玉県の新座市のほうが有名だそうだ。こちらは武庫山平林寺。マカロンを買って食べる。

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日本とイタリア

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 フランチェスコ・クリスピ

   日本とイタリアとはよく似ているといわれる。少子化の原因が貧しさにあることも共通している。近代史も共通している。たとえばヴィットリオ・エマヌエレ2世を明治天皇、マッツィーニを吉田松陰、カブールを大久保利通、ガリバルディを西郷隆盛に当てられる。大きく違うところは第二次世界大戦でイタリアは王制は廃止されたが、日本の天皇制は残ったところである。大河ドラマ「平清盛」で「王家」という言葉に非難があったという。NHKとしては近年研究された歴史用語「王家」を使用したが、国家主義的傾向が強くなった日本では天皇家を王家と呼ぶことにアレルギー反応があったようだ。イタリアと日本がなぜダメなのか、原因を検証することはなかなか難しい。小さな多くの歴史事実を小石のように積み重ねていくしかない。フランチェスコ・クリスピ(1819-1901)という政治家がいる。日本の高校世界史ではその名前が出てこないが、実は重要人物である。その長い政治家としての生涯は我が国に匹敵する人物が見当たらない。一応、ガリバルディを補佐した人物とみなされているが、西郷は西南戦争で死なずに勝利して、桐野利秋が首相になったものである。イタリアのリソルジメントと日本の明治維新が違うのは、西南戦争を分岐点とするのであろう。両国とも帝国主義国家をめざずが、持たざる国として国民の犠牲のうえに国家が成立しているところは共通している。貧しく災害の多い国であるがゆえに民族紐帯の結束を強固とし、国民の犠牲のうえにたえず国家主義的傾向を強めようとする性格が濃い。

牧野富太郎と「本草綱目啓蒙」

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  牧野富太郎(1862-1957)は、文久2年4月24日、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷に生まれ、昭和32年1月18日に亡くなった。生家岸屋は名字帯刀を許された酒造業と雑貨商を営む裕福な商家である。幼少から父母を失い祖母浪子の手で養育された。明治7年、佐川町に小学校が開校されたので、下等一級に入学した。しかし授業に飽き足らず、明治8年退学。これが、彼が受けた正規の学校教育のすべてである。

    この逸話は小学校を退学したころの話。その頃、近くに住む西村尚貞という医師が小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の写本を数冊持っていた。富太郎はたのんでこれを借り、行燈の灯の下で、一心にこの端本を筆写した。この苦心して写した写本をたよりにして、採集してきた植物と照合し、名前を考定してみたが、それらの端本では、ないものが多くて用をなさなくなっていた。なんとかして、完本がほしいと祖母浪子に願ったところ、すでに富太郎の才能を見抜いていた浪子は、高価な「重訂本草綱目啓蒙」全20巻を、すぐに町の洋物屋の鳥羽屋へ命じて、大阪から取り寄せてもらった。牧野少年の喜びと感激は生涯忘れぬものとなった。祖母浪子は、牧野富太郎が26歳の明治20年5月6日、78歳で没した。

2012年1月17日 (火)

崋山とナポレオン

    あるとき渡辺崋山(1793-1841)は甥の少年から「今世界で一番えらい人はだれですか?」と問われた。崋山は「払郎察(フランス)国王の那波列翁である」と答えた。崋山は小関三英の書物を読んでおり、ナポレオン(1769-1821)が匹夫の身で全ヨーロッパを征服したということを知っていた。しかし崋山の知識は皮相的で、ナポレオンを生んだフランス革命も合理主義も自由主義も何も知らなかったし、理解できなかった。日本人が本当に理解できるようになるのは、中江兆民が「民約訳解」を刊行する明治15年まで待たねばならない。しかし真の意味で今の日本人が共和制や民主制を理解しているかどうかは疑問である。日本人は崋山の時代とあまり変わらないのではないかと思う。

ウィリアム・フォークナーと映画

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    ウィリアム・フォークナーの小説「サンクチュアリ」が再映画化されるという。フォークナー作品の映画化はヘミングウェーのように成功例があまりない。「サンクチュアリ」も1961年にリー・レミック、イヴ・モンタン主演で製作されているが日本未公開である。小説「Pylon」がダグラス・サーク監督で「空に賭ける命」(1957)として日本公開されたくらいだろうか。だがフォークナーは新聞記者から映画脚本家に転身して、1930年代にはハリウッドで多数の脚本を書いている。ハワード・ホークスとは親友で「三つ数えろ」「脱出」の脚本を担当した。結局、ハリウッドの体質があわず、ミシシッピ川に引きこもり、作家業に専念して、ノーベル賞作家となった。

尾崎紅葉「金色夜叉」

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    かつて1月17日は「金色夜叉」熱海の海岸だった。やがてその日は山口百恵の誕生日に代わり、平成7年からは阪神大震災の日になった。「明治は遠くなりにけり」である。

    尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。

   三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。

    最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。

   打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。

「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」

   五歩六歩行きし後、宮はようよう言い出でつ。

「堪忍して下さい」

「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」

「…………」

「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」

   差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。

(中略)

「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

(中略)

「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」

   木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、

「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」

   その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」

   宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、

「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」

   貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。

(中略)

   ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。

「宮さん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

   首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。

2012年1月16日 (月)

スワンダフル

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    一風変わったタイトルと歌詞は、1927年当時流行していた「It's…」の「It」を省略する言い回しから来ている。

'S wonderful,'s marvelous

That you should care for me

Oh 's awful nice 's paradise

'S what I love to see

素晴らしいな

なんて素敵なんだろう

きみが愛してくれるなんて

すごくいいな

すっとして天国に行ったみたいさ

見ているだけでも好きになっちゃうね

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芭蕉と3人の女

 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」

  芭蕉の生涯は旅によってその人間を完成し、脱俗的俳諧に身をささげたといわれている。このような俳諧隠者としての名声は貞享元年から2年にかけて「野ざらし紀行」の頃には出来上がっていたと考えられる。つまり反俗的な文学が世間で受け入れられたというのは、世俗秩序の愚かさや、ずるさや、ごまかしや、わずらわしさに、世間の人々が何ほどか気づいたということである。フランスの文芸批評家ティボーデの「真の小説は小説に対して発する否(ノン)に始まる」という有名な言葉があるが、芭蕉の風狂文学こそ真の芸術であった。だが芭蕉自身は後世の門人たちが創り上げた隠者ではなく、若い頃は女好きで遊女や女中と遊んでいたらしい。生涯独身の芭蕉ではあるが、すくなくとも3人の親しい女性の名前が残されている。寛文2年から6年まで、藤堂新七郎家で料理人として勤めていたが、そこで「おとせ」という女中と恋仲になった。また「寿貞」という女中とは、一緒に江戸に出て同棲していた。芭蕉が彼女を愛していたことは「松村猪兵衛宛真蹟書簡」から読み取ることができる。のち寿貞は門弟と駆け落ちしたため、芭蕉は隠者、脱俗的な境地になっていった。晩年には大坂で「園女(そのめ)」という美人で教養の高い人妻と親しくなっている。元禄7年芭蕉が没したのは園女邸である。園女は宝井其角を頼って上京し、俳諧師になっている。

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深川雄松院の園女墓。「度会氏園女之墓」とあるのは、伊勢度会郡の出身であるためか

竹村健一の原発安全神話

    パイプを銜えながら「大体やね」と独特の関西弁で辛辣な批評をする竹村健一。最近あまりテレビで見ない。かつて「原発危険は日本人のカン違い。原発は安全、それが世界の常識」「原発事故ではなくトラブルだ」「日本人は原発アレルギー」とテレビや著書でさかんに言っていた。フジテレビの番組「世相を斬る」や文藝春秋で上坂冬子と対談していた。日本で「脱原発」という言葉が生まれ、それなりの反対運動が起こったのは1986年ころのことで、チェルノブイリのあとのことで保守派の評論家やメディアは原発の安全性をさかんに広告しだした。竹村健一は「日本の常識 世界の非常識」(幻冬社、2005年)で原発事故と飛行機事故を比べてこのように書いている。(同書73頁)「たとえば飛行機に乗るとき、絶対安全だとは言いきれない。初期のころ飛行機に乗った人はさぞ怖かったことだろうと思う。あんなに大きくて重いものが空中に浮いて、飛んでいること自体、実感としは危険なのではないかと感じてしまう。現実に事故が起これば、生存の可能性もかなり限られる。だが、飛行機に乗って事故に遭い、死ぬ確率はかなり低い。日常当たり前のように利用し、自分で運転する自動車とは比べものらならないほど事故死の確率は低いのだ。ともすれば日本人は、1つの危険にとらわれ、過大視して、他との比較ができなくなってしまう。原発についての多くの日本人の感覚にも同じような傾向がある。(中略)そのうえで、情報をバランスよく整理、分析し、どうするのがいいのか、国民の合意を得ていくのがいいだろう。」つまり竹村は原発事故は起こり得るものであるが、原発問題を感覚的なものとして、「飛行機事故のようなもの」と言っている。福島原発事故以降このような認識の評論家はいないだろうが、わずか6年前の著書でこのような意見が平気で通っていた。

悪魔くんメフィストは法隆寺壁画模写技官だった!?

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  日活黄金期を支えたアクション・スター二谷英明が亡くなられた。京都府舞鶴市の生まれで、同志社大学英文科卒業の後、長崎放送局でアナウンサーを2年間していた。いまではアナウンサーから俳優志願する人は少ないがむかしは多かった。東宝の小泉博もNHKのアナウンサーだった。知的でスマートな都会派タイプが多い。これと対照的な戦後スターの代表が三国連太郎だろう。旋盤工、機帆船のボーイ、鉄工所の工員、映画館の看板描き、宮崎交通、サツマイモからグルコースを採取する仕事の指導員、税務署、肥料会社の技術指導員など苦労している。近藤正臣は京都の割烹旅館の板前。役所広司は東京都庁という恵まれた職をすてて俳優になっている。天津敏は小学校教師。安藤昇は正真正銘のヤクザ。八名信夫は東映フライヤーズの投手だった。花沢徳衛は斎藤与里に師事した本格的な洋画家だった。変わったところでは悪役の吉田義夫は戦前の8年間、法隆寺壁画模写技官として壁画の模写に従事していた。

    外国スターも前職は多彩である。ゲーリー・クーパーは美術学校を卒業して、新聞社でマンガを描いていた。バート・ランカスターやユル・ブリンナーはサーカス団で活躍していた。アラン・ドロンは17歳のとき外人部隊に入りインドシナにいた。ペ・ヨンジュンはチヂミの行商をしていた。ショーン・コネリーはトラック運転手、海軍、新聞社勤務など。リノ・ヴァンチュラはレスラー、バート・レーノルズはフットボール選手から俳優になっている。

4億円あれば何人の命を救えるのか

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   日本のある有名な人物が裁判で4億円の現ナマを隠し持っていることについて、ふつうの人の感覚ではわからないかもしれないが、政治家としては特別なことではないと言っている。われわれ庶民にはもちろん4億円などみたこともないし、どれくらいの嵩になるのか、金庫に入るのか、わからない。昨年、東アフリカのソマリアでおよそ2万9千人が亡くなっている。1万円あれば栄養失調児らに300食のRUTF(栄養治療食)を提供できる。つまり100人の子どもの1日分にあたる。4億円で5万6千人の子どもが1週間生きのびることができるのである。

ヒアシンス

    ギリシア神話にこの花にまつわる物語がある。太陽神アポロンの投げた円盤が嫉妬に狂う風の神ゼフィロスの起こした風で方向を失い、スパルタの王子ヒアキントスの額に当ってしまった。そして絶命した王子の額から流れる血が地に落ち、美しい紫の花ヒアシンス(Hyacinth)が咲いたという。ヒアシンスの花言葉は「勝負」「スポーツ」「遊戯」。イタリア語でヒアシンスのことは、ジャチントという。giacinto romano(ジャチント・ロマーノ)がヒアシンスの原型といわれる。写真でみると別の花みたいである。

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リカルド・モンタルバン

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    メキシコ映画でスターとなり、MGMに招かれて「闘牛の女王」(1947)でハリウッド・デビュー。映画「新・猿の惑星」「大列車強盗」「裸の銃を持つ男」など。むかしから映画の脇役でみかけるが、生涯を通してみると彼は大スターだった。その精悍な顔立ち、颯爽とした身のこなしなど、彼が登場するだけで惹かれるものがある。テレビ「0011ナポレオン・ソロ」第9話「鳩は何を告げる」でゲスト出演。東欧のある国へ行って、鳩の形をした勲章を奪うのがソロの任務。列車内でリカルド・モンタルバンとの奇妙なやり取りが見ものだった。40代半ばの彼は精悍で逞しかった。晩年に至るまで人気スターとしての地位を保ったのは立派だった。

樋口一葉と夏目家との破談の真相

    樋口一葉は明治5年5月2日(旧暦3月25日)、東京府第二区一小区内幸町一丁目一番屋敷、東京府構内長屋の官舎で生れた。戸籍はなつ、本名・樋口夏子といった。父・樋口為之助は天保5年生まれで、南町奉行同心であったが、維新後は東京府庁に勤めていた。明治になって名前を樋口則義と改めた。明治9年12月に東京府を退職した。明治14年3月、則義は警視庁警視属になったが、家計は苦しく、生計の苦労はたえなかった。

    明治19年頃、15歳の夏子に縁談話があった。相手は名主をつとめる夏目家の長男・大助(1856-1887)である。夏目小兵衛直克(1817-1897)は警視庁につとめ、樋口則義の上司でもあった。つまり夏目漱石の兄・大助の嫁に樋口一葉をどうかという、縁談があったのは事実であろう。しかし、翌年、大助は他界し、破談となった。一説によると、漱石と一葉との間に縁談があったのではないか、という新説もあるが確証はない。則義が度々直克に借金を申し込んだことがあり、これをよく思わなかった直克は、「親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って、破談になったという説もある。

    明治22年には樋口則義の事業が失敗し破産しているので、縁談はすすまなかったであろう。3月、死期が迫った則義は、一葉の将来を心配して、渋谷三郎に婚約をたのんでいた。しかし、7月に則義が死去し、樋口家が破産したことを知ると、渋谷は婚約を一方的に破棄した。同年、夏目金之助は英文学を志し、漱石の号を初めて用いた。翌年、樋口なつも小説家になることを決意し、一葉の号を用いた。

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樋口則義(1830-1889)

蔵書家、林若樹

  書誌学の森銑三(1895-1985)は、林若樹(1875-1938)のことを三田村鳶魚(1870-1952)、三村清三郎(三村竹清、みむらちくせい1876-1950)と並ぶ江戸通と賞賛している。

   林若樹は、本名を若吉といい、明治8年1月16日、東京麹町四番町に生まれる。父の林研海は、明治15年パリで病没し、さらに母もまもなく死亡。病弱であった林若吉は、叔父の林董(はやしただす、1850-1913)に養育されたらしい。しかし学業は中学中退で、以後趣味人としての人生を歩む。

   彼が今日その名を知られるのは「若樹文庫」という蔵書印のある貴重な古典籍のためである。その収集は、鳶魚によれば「天下の愚書をもってゐなければ、蔵書家とは云へない」といったもので広範にわたったという。また、その大半を一通りは読了していたといわれ、三村竹清は「所謂の蔵書家と伍すべき人ではない、寧ろ、読書家といふ可きである」と記している。類稀な学識の持ち主であったようだが、残念ながら林若樹自らが書き残した文章は極めて少ない。死後、若樹文庫は古書で売買され散逸した。現在「若樹文庫収得書目」(青裳堂)が刊行されている。

2012年1月15日 (日)

ラウフ・デンクタシュ

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    地中海の東に浮ぶキプロス島。ここには歴史を物語る文化的建造物や遺跡が多数ある。前7000年頃には人が住んでいた。ギリシア人はアラシアと呼んでいた。エジプト、ギリシア、ペルシア、ローマなどの侵略と支配に晒された。首都レフコシア(ニコシア)の城壁と砦に囲まれた旧市街にも名所や遺跡が多い。だが町は現在1974年以来のキプロス紛争で南のキプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国(トルコ軍実効支配地域)に分断されている。レフコシアはプトレマイオス1世(前367-前282)の息子レフコスによって再建されたので、レフコス(Lefkos)と地名接尾辞イア-iaの合成地名か。英語名ニコシアは、ギリシア神話の勝利の女神ニケに由来する。ラルナカの西南40kmのところにあるレフカラ村には、レオナルド・ダ・ヴィンチが1481年に訪れ、ミラノ教会に寄贈するためにレースを購入したと伝えられている。しかしダ・ヴィンチのキプロス旅行は年譜などには見当たらず、伝承の域をでないものであろう。

  1月13日、北キプロス・トルコ共和国初代大統領ラウフ・デンクタシュ(1924-2012)がニコシアの病院で亡くなった。トルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク(1881-1938)の名前を覚えるようにラウフの名も記憶にとどめたい。

光陰矢のごとし

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   健康のために毎日散歩している。亀井町界隈。閑静な住宅街だが空家、売り家が並んでいる。昭和に建てられた家も住人が代わって住む人がいなくなったのだろう。改装すれば使えるが駅から遠いし、買い物にも不便。駐車場もないでは買い手はないだろう。不景気と消費税増税では新築もできず、結婚は晩婚化するし、少子高齢化が恐ろしい未来をもたらす。Time flies when you are having fun.楽しんでいると時のたつのは早い(光陰矢のごとし)

英語の決まり文句

Every Tom,Dick and Harry.誰もかも、猫も杓子も

Out of the frying pan into the fire.一難去ってまた一難

ロドグナ王女像

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トルクメニスタン歴史民俗博物館蔵

   トルクメニスタン・アシガバート西方18㎞にあるニサ(Nisa)遺蹟は、パルティア王国(BC195~AD247)の最初の都として栄えた町。1952年にヘレニズム時代につくられたとされる彫刻が出土した。高さ60cm、大理石製。アフロディーテの姿をかりて、パルティア王ミトリダテス1世の娘ロドグナ王女を表したとされている。紀元前2世紀後半。官能的な美しさはミロのヴィーナスを思わせる。

2012年1月14日 (土)

鳥海青児と美川きよ

H_3a鳥海、小野忠弘、美川きよ

  画家の鳥海青児(1902-1972)が小説家・美川きよと結婚したのは昭和14年1月15日である。美川きよは小島政二郎(1894-1994)の愛人としてよく知られていた。直木賞候補にもなり、戦前は多数の作品を残している。鳥海37歳、美川38歳。美川には小島との間に一人の男子がいる。昭和53年に刊行された美川きよ「夜のノートルダム」は暴露本であるかもしれない。しかし流石に流行作家であっただけに、鳥海との出会い、A(小島)との別れ、鳥海の求愛などステキな男女物語が小説風に描かれている。鳥海を夢中にさせた美川きよは魅力的な人だったのだろう。そして題名の「夜のノートルダム」がよい。昭和8年の作品であるが、渋い色調でぶ厚く塗られた重厚な質感は鳥海の特徴がよく現れている。美川が鳥海のアトリエで買った作品であるという。「夜のノートルダム」を読むと鳥海青児が画家として大きな仕事をしたのは夫人の支えがあったことが伺われる。

ナポリを見てから死ね

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See Naples and (then) die.

イタリア語では、

Vedi Napoli e poi mori.(ベーディ ナポリ エ ポイ モーリ)という。vedi と mori は、それぞれvedere(見る)、morire(死ぬ)という動詞の命令法2人称単数現在形である。

    ところでイタリア語は、日本語における東京方言や英語におけるロンドン方言のように、首都の言葉が基礎になっているのではなくて、トスカーナ地方の言葉が標準語の母胎となっているそうである。それは13、14世紀のダンテ、ペトラルカやボッカチョらのはたした功績が大きいからかもしれない。

「風車の弥七」は舞台の名優

   2004年に中谷一郎が亡くなったとき新聞の見出しは「風車の弥七逝く」だった。小池朝雄が亡くなったときも「刑事コロンボの吹き替え」として紹介された。シェイクスピアなどの舞台が中心に活動されてきた俳優だが、故人の評価とは妙なものである。テレビドラマのコメディ演技で独自の境地を開いた石立鉄男も出身は文学座。若いときドラマで江守徹と共演したが、2人は新劇界のホープだった。名古屋章や杉浦直樹も舞台出身だがテレビドラマのお父さん役のほうが印象がある。田宮二郎のドラマ「白い巨塔」など大学教授や重役、インテリ役の多い中村伸郎は、文学座の中心的存在。「俺たちの旅」の紀子のお父さん役の北村和夫も文学座の幹部。テレビの脇役には名優が多い。

近ごろ悪役を見なくなった

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    かつて映画やドラマでは悪役が活躍した。日活アクションでは安倍徹、二本柳寛、金子信夫、東映では山形勲、進藤英太郎、薄田研二、三島雅夫、吉田義夫、今井健二、大映では成田三樹夫、西村晃、上田吉二郎など個性的な悪役がいた。とくに安倍徹は「誰がどう見ても悪人」という顔立ちである。「人間の条件」の非情な上官、「嵐を呼ぶ男」で裕次郎をいじめるマネージャー、「女を忘れろ」では悪徳土建屋、「網走番外地」シリーズなど戦後映画界屈指の悪役スターだろう。テレビの時代劇では北原義郎、川合伸旺など悪玉でもワルさが減少してきた。近ごろ時代劇はなくなり、刑事ものは複雑になり、見るからに悪人というのが無くなった。勧善懲悪が単純とみるのは間違いだ。むしろ人間の個性を明確にすることで本性があらわれるような気がする。

イタリア映画と新人女優

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   ディーン・マーチンの歌に「INNAMORATA」というのがある。「不道徳」という意味か。歌では女性のことをさしているようだ。イナモラータっぽい女優は誰か想像してみる。新しい女優は知らない。ラウラ・アントネッリ、オルネラ・ムーティ、ティナ・オーモン、グロリア・グイダといった感じだろうか。なんとなく中世ルネサンス「ボルジア家の毒薬」以来の淫らな貴婦人の伝統がイタリアには息づいているような気がする。イタリアには人生でなくてはならない大切なことが3つあるという。amor(アモーレ)、cantare(カンターレ)、mangiare(マンジョーレ)、つまり恋愛、歌うこと、食べることである。そしてその中でもアモーレが一番。映画をみれば女優を主演にする作品が多い。イタリアは日本と面積はほぼ同じながら人口は半分くらい。だが日本よりはるかに国際的で、世界中から美女を発掘して主演させている。スウェーデンから16歳のエヴァ・オーリン(殺しを呼ぶ卵)を、フランスからカトリーヌ・スパークを世界的スターにしている。ティナ・オーモンもアメリカ生まれだが、イタリア映画で活躍した。

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ポトラッチの儀式

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   北太平洋沿岸に住むアメリカインディアンの諸族、チムシアン族、トリンギット族、ハイダ族、ベラ・クラーク族、南北クワキウトル族、沿岸サリシュ族、チヌーク族等にみられる習慣で、公的な地位を誇示するために自分の富を放棄する一種の財産分与制度。ポトラッチ potlatch とはチヌーク語で「浪費する」という意味。

    種族によりそれぞれに特徴があるが、一般に主催者の地位により大小さまざまの祝宴が開かれ、近隣の人々を招き、その階級に応じて贈物をする。このとき主催者とその親族は気前のよさを最大限に発揮してその地位を誇る。後継者の披露、子女の誕生、成女式、婚礼、葬礼、新屋の棟上式などから、赤ん坊の発毛といった些細な理由でも行われる。ときには不名誉な行為の挽回のために行われることもある。招待されたものは、なんらかの機会により盛大な祝宴を開いて答礼する。特に南クワキウトル族のポトラッチは1840年から1925年にかけて最も盛大に行なわれ、何日も続く祝宴の間に何千枚もの毛布や仮面、カヌーなどに加えて、ヨーロッパから輸入したモーター・ボートやミシン、ほうろう引き器、衣類、小麦、砂糖などが配られた。しかし1960年代以降は経済的理由によりほとんど行なわれなくなった。ポトラッチは贈答するだけでなく、貴重な財物とされるカヌーや、彼に属しているトーテム像を刻んだ銅版を来客の面前で故意に破壊したり、所有する奴隷を殺したりして、その気前のよさを誇らせることもある。

    最近では「ポトラッチ・パーティーpotluck party」といって、「皆で持ち寄りで気軽に行うパーティー」という意味で使われることもある。

韓信の股くぐり

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  韓信は若いとき、洗濯のおばさんからご飯をめぐまれたことのあるほど貧乏だったが、身長が高く長い剣をぶらさげていた。町の無頼漢どもがばかにしてからかっていった。「おい、貴様は強そうなかっこうをしているが、内心は臆病らしいな。くやしければおれを斬れ。斬れなければおれの股の下をくぐれ」

  韓信は、「こんな男を相手にして争うのはばかばかしい」と思ったのか、そのまま四つんばいになって、股の下をくぐりぬけた。見物していた群衆は、あきれてしまい、「なんという弱虫だ」といって、声をそろえて笑った。のちに韓信は、蕭何に認められて、その推薦により、漢の劉邦の将軍となった。後に大功を立て、故郷に帰った時、「あの時我慢したおかげで今日の私があるのだ」と言った。いわゆる「韓信の股くぐり」「韓信、伏せて袴下より出ず」の故事は、「忍耐」「堪忍」の合言葉となり、日本では徳川家康の家訓と合致した。家康は「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」と言っている。江戸時代に流行った道歌には

堪忍のなる堪忍は誰もする ならぬ堪忍するが堪忍

がある。浄瑠璃の「源氏大草紙」にも「韓信が股、漂母の食、みな堪忍を守りし故、人の鑑と言わるるぞ」とある。古川柳には「韓信に意地の悪いは屁をかがし」がある。「仮名手本忠臣蔵」には「神崎与五郎股くぐり」がある。ケペルが子供の頃に読んだ熱血柔道漫画「イナズマくん」(下山長平)にも、イナズマくんがチンピラにからまれて股をくぐる場面があった。つまり、日本人が大好きなエピソードである。近代の歌に次のようなものもある。

 韓信が股をくぐるも

 時世と時節

 踏まれた草にも

 花が咲く

   韓信にはもう1つ有名なエピソードがある。漢の高祖の配下となった韓信は、牛皮の大凧を作り、体の軽い張良を凧に乗せ、夜陰に紛れて天空から楚の思郷の曲を吹かしめた。それまでよく持ちこたえた項羽の楚軍も郷愁の念をもよおし、戦意を喪失し漢軍に敗北したという。

2012年1月13日 (金)

鉛筆のはじまり

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   記録のあるところでは1565年にスイスの博物学者コンラート・ゲスナー(1516-1565)が自家製鉛筆を使用していた。16世紀の終わりごろには、イギリスで鉛筆が作られていた。1610年までには、ロンドンの市場で鉛筆が売られていた。17世紀の鉛筆は2枚の細長い木の板の間に、芯となる細長い黒鉛の棒をはさんで固定していた。1761年にはドイツでカスパー・ファーバーが現在のような鉛筆の製造をはじめた。1795年、フランス人のニコラ・ジャック・コンテが黒鉛と粘土で作った芯を高温で焼くという方法を発明した。( keyword;Konrad Gesner,Nicholas Jacques Conte )

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 シャルダン「鉛筆を削る若いデッサン画家」 1737年

日曜日は平安時代にもあった

    藤原道長の日記「御堂関白日記」の日付けに「日曜・月曜・・・・」

と書かれてあることからも、日月火水木金土はあった。宿曜道といわれる天文暦法による占星が流行した。七日週の起源は古代バビロニアにさかのぼるが、ユダヤの週に占星術上の七日週が結びついてユリウス暦にはいって普及した。ペルシアからインドへは5世紀、インドから仏典を通じて中国へ伝わったのは8世紀初頭。日本には中国から10世紀(平安中期)に輸入されたと思われる。

13日の金曜日内閣

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    野田改造内閣が発足。記者の質問に藤村官房長官は臆面もなく一言「適材適所」といった。四字熟語は便利な言葉だが、そう言われては、誰も呆れて質問をする気にもならない。一川保夫の後任の田中直紀が「安全保障のプロ」とでも言うのだろうか。支持率は28.4%に下落している。「危険水域」とされる3割を割った。閣僚のトークが下手だと国民に信用されない。

ラザロ・ビロとボールペン

Lazlo_biro   世界で最初にボールペンを発明したのは1888年アメリカのジョン・ラウド Jhon Loud といわれる。しかしインク漏れが酷くとても文字を書けたものではなかった。1938年にハンガリーのラザロ・ビロ Lazlo Biro(1900-1985)が実用に耐えるボールペンを考案した。ラザロはブダペストで編集業をしていたが、ペン用の即乾性のインクがあれば便利だろうと思い、そこで考えついたのがボールペンの原型だった。その後、ビロはブエノスアイレスに移住したが、そこのエテンペル社が1945年から製造、販売したものが世界最初の市販ボールペンである。だがラザロはアメリカで特許をとっていなかったため、あるアメリカのビジネスマンが1946年ニューヨークで発売して全世界に広がっていった。

夢の共演

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    「世にも怪奇な物語」(1968)を観る。むかし観たことがあるが、ドロンとBBが共演する二話「影を殺した男」がみたかった。ドロンが賭博場であった美女ブリジット・バルドーをイカサマで負かして、鞭でしばくところが見所か。ところでアラン・ドロンとブリジット・バルドーという同時代のフランス映画界のスターは意外と共演作は少ない。ドロンが一歳年下だからか、大物すぎたからか理由はわからないが残念なことだ。他の1本は「素晴らしき恋人たち」というやはりオムニバスの第四話「アニュス・ベルナウェル」。ババリアの王子が村娘と出会い愛し合うが、親たちの反対にあう。娘は魔女裁判により処刑されるというヨーロッパでよく知られた悲恋。ヒロインのアグネス・ベルナウアー(1410-1435)は実在上の人物。

ゴルゴ13は白いブリーフがよく似合う

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    男性の下着はブリーフ、トランクス、どちらがよい?銭湯に行く機会がないので、確認したわけではないが、いまはトランクス全盛の時代らしい。母親が息子に買い与えるパンツは白いブリーフが定番。成人しても白いブリーフをはいていると、女性からマザコンとみられてしまう。そこで高校生ころになると、柄物のトランクスを自分で選んで買うようになるらしい。もちろん自分で買わないで、親から与えられたパンツをいつまでもはいている人もいるから、この世にはブーリフ派とトランクス派がいつまでも存在する。むかしの本を読むとブーリフ派のほうが優勢だったらしい。「男性用下着といえば、ブリーフが全盛の時代です。若い人の90%はブリーフの愛好者だといいます」(おもしろ雑学百科 昭和61年)。昭和の時代は明治生まれの男性はブリーフなどははかず、いわゆる猿回しのサルがはいているような猿股といわれる一種のトランクスだった。ブリーフが発売され、はくのは子どもや若者だったから、女性からみれば、白いブリーフが可愛くみえたのだろう。だが外国風のさまさまな柄のトランクスが出回ると、通気性にとみ、清潔感のあるほうが好まれるようになった。女性500人にアンケートしたところ、およそ8割の女性がトランクスの男性を好むという結果がある。

2012年1月12日 (木)

ジョージ・ワシントンの入れ歯

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 ワシントン大統領の入れ歯

    古代エジプトには歯科専門医がおり、ギザの墓地から義歯が発掘されている。ローマ時代にはブリッジがあった。中国では明代に義歯に類するものがあった。近代における入れ歯の創案者はフランスのピエール・フォシャール(1678-1761)で、彼は『外科歯科医』(1728年)を著している。アメリカで最初に入れ歯を使用した著名人は初代大統領ジョージ・ワシントン(1732-1799)で、現在博物館にその入れ歯が展示されている。日本では剣術家の柳生宗冬(1613-1675)が黄楊を材料にして総入れ歯をつくったとされている。

血液型O型もとはC型だった

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 カール・ランドシュタイナー 

血液型はオーストリアの生理学者カール・ランドシュタイナー(1860-1943)が1900年に発見した。1901年にABC式血液型として論文に発表したが、翌年アルフレッド・フォン・デカストロとアドリアノ・シュテュルリによって第4の型があることが発見される。1910年には第4の型はAB型という名称が与えられ、C型の名称はO型に変更された。

戦時における敵性語の使用禁止

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   昭和18年1月13日、「ダイナ」「私の青空」「月光価千金」「アラビアの唄」「スザンナ」「南京豆売」などジャズ、軽音楽の演奏が禁止された。米英音楽は軽佻浮薄でこれを一掃するとした。すでに昭和15年頃から、芸名や駅名のカタカナ語を追放する動きはあったが、日米開戦を機に敵性語は排除された。追放対象は、雑誌名、職業名、スポーツ用語など、日常的に親しまれてきた米英語にも向けられた。2月には、エコノミスト→経済毎日、サンデー毎日→週刊毎日、キング→富士、大阪パック→漫画日本、エンジニアリング→機械技術、ホームクラブ→生活文化。レコード会社はポリドール→大東亜、日本ビクター→日本音響、日本コロムビア→日蓄工業、キング→富士音盤。煙草はゴールデンバット→金鵄、チェリー→桜、カメリア→椿。芸名はディック・ミネ→三根耕一、ミス・コロンビア→松原操、スタルヒン→須田博。

    とくに野球は敵性スポーツとの批判が高かった。チーム名はタイガース→阪神、イーグルス→黒鷲→大和、セネタタース→大洋→西鉄、用語では、ストライク→よし1本、ボール→1つ、三振→それまで、セーフ→よし、アウト→ひけ、ファウル→だめ、ボーク→反則、タイム→停止。

   清沢洌はこれらを「小児病的な現代思想」と嘆いたが、この時期アメリカでは対照的に日本語習得が盛んになっていた。

黄色い郵便ポスト

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    郵便ポストは赤と決まっていると思っていたら、実は日本にも黄色いポストがある。宮城県大崎市古川の四季彩通りの商店街の「幸福の黄色い郵便ポスト」。ドイツ、フランスなどヨーロッパ大陸では大体イエローが主流で、アメリカは青色。日本は最初は黒だったが、街に照明設備ないころなので、夜になるとわからなくなるというので、明治21年にイギリスの郵便ポストをまねして、赤いポストになった。

タイトルには定冠詞theがつく

Ⅰhave read the Bible.(わたしは聖書を読んだことがある)

   聖書には定冠詞 the がつく。書籍名にはとびらに the がつくことが多い。だが人名を書名としているときは、the をつけないのが普通である。

Ⅰ am reading Robinson Crusoe.

(わたしは「ロビンソン・クルーソー」を読んでいる)

   第三の男(The Third Man)、最後の一葉(The Last Leaf)、指輪物語(The Lord of the Rings)などタイトルには the がつく。だが映画化された邦題には「ロード・オブ・ザ・リング」となっていた。正確には「ザ・ロード・オブ・ザ・リングス」だろう。

誰もいない

   昼ごろ近所の公園を散歩したが誰ひとりいなかった。ほとんどの灯台は無人。広島刑務所の監視塔は無人でカメラだけだった。松山ケンイチが安芸宮島で牡蠣の工場へ行ったところ、日本人はおらずフィリピン人と中国人ばかりだった。テレビでみる相撲中継。空席が目立つ。国技大相撲のピンチだ。さまざまな日本の姿がある。

家康のふんどし

   ふんどしの色といえば、白色をイメージするだろう。倹約家の徳川家康は「ふんどしは薄黄色が一番!」といっていた。つまり汚れが目立たず、洗濯の回数が減って、生地が長持ちして、節約になるというのである。家康の使用済みの黄ばんだ褌が徳川美術館に所蔵されている。幅30cm、長さ8.6mで、ところどころに茶色のシミのようなものがみられる。家康の遺品のなかでも、まさしく珍品!ふつう六尺褌でも長くて3mだが、戦国時代の武将は防護用に下帯として麻で何重に腹部を巻いていたので8mもあるのだろう。

那珂湊と秋本圭子

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    中村雅俊主演「俺たちの旅」第12話「妹はちょっと甘えてみたいのです」カースケの妹みゆき(秋本圭子)が突然に上京してくる。だがすぐに帰郷したので、心配になったカースケは茨城県の那珂湊へ行く。ドラマには古い那珂湊の駅舎や港町が映っている。那珂川河口の水産都市・那珂湊という市はいまでは「ひたちなか市」になり、ひたちなか海浜線となっている。可愛い秋本圭子もどうしているのだろう。あれから36年という歳月が流れたのだ。ドラマを見たのはそんなに昔のようのことに思えない。カースケはよく故郷を「水戸」と言っていたが、正確には「那珂湊」だった。兄妹2人で墓参りをするワンシーンもあった。カースケの両親は早くに死んでしまったらしい。

金魚のマジナイに頼るしかない

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    ロシア探査機の残骸が14日から16日にかけて地球に落下するらしい。破片は30個、総量200㎏でもし家に落ちたら屋根を貫通して、頭上に当れば即死するだろう。防衛庁はパトリオットを配備しているのだろうか。もし落下被害に遭ったときロシア政府や日本が保障してくれるのか。むかし空襲保険というのがあったそうだが、実際に保険金をもらったという話は聞いたことがない。こんな話がある。どこかの夫婦が至近弾を受けて奇跡的に助かり、その人たちのいたところに金魚が2匹いた。夫婦は金魚が身代わりになったと、死んだ金魚を仏壇に入れて拝んだ。この話が伝わって金魚を拝むと爆弾に当らないという迷信が流行し、生きた金魚が入手困難なところから、瀬戸物の金魚が製造され、高い値段で売られていたという。

102歳のオスカー女優ルイーゼ・ライナー

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 ルイーゼ・ライナー

Luise Rainer was brought to Hollywood by a MGM talent scout and win two successive Oscars for best Actress for the Greet Ziegfeld and The Good Earth.

ルイーゼ・ライナーはMGMのタレントスカウトで見出され、ハリウッドへ来た。そして巨星ジークフェルドと大地でアカデミー主演女優賞を2年連続受賞している。

ノーベル賞とかアカデミー賞というのは世界的な権威があり、かつポピュラーな賞である。だが歳月がたてば人々はその名前すら忘れさるのであろうか。例えばノーベル文学賞のシュリ・プリュドム(1901年受賞)、テオドール・モムゼン(1902年)、ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(1903年)の作品が図書館や書店にあるだろうか。1936年、1937年、主演女優賞を連続受賞したルイーゼ・ライナーをどれだけの人が知っているだろうか。102歳の誕生日を迎えるルイーズはいまだ健在である。

2012年1月11日 (水)

キリスト降誕

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Where did Jesus born in Bethehem? Jesus was born in a stable in Bathehem.

イエスはベツレヘムのどこで生れましたか? イエスは馬小屋でお生れになりました。

英文法の定冠詞のミステリー

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    固有名詞はその性質上、他と区別する必要がないから、ある特定のものを示す定冠詞 the をつけないのが原則であるが、習慣またはその他の理由により固有名詞にも the をつけるものも多い。

 The United States of America is a large country.アメリカ合衆国は大きい国である

群島・山脈は複数形であり、唯一物でなくなるため、普通名詞的な感じを与えるので the をつける。

 the Alps(アルプス山脈)

山や峰の名称は the をつけないのが普通である。ただし、名称をつけた当時の習慣により the をつけることもある。また名称が描写的な感じを与えるものは the をつけている。

 the Matterhorn(マッタホーン)、the Jungfrau(ユングフラウ峰) young woman の意。

太陽や月のような唯一物にも、the をつける。

 The moon goes round the earth.月は地球のまわりを回る

海洋など The Pacific Ocean(太平洋)など大体 the がつくが、Behring Sea のように the をつけないものもある。

警察や刑務所が新年からお粗末すぎる

    広島刑務所で、殺人未遂などの罪で服役中の1人が本日11時ごろ、脱獄した。屋外で運動中の出来事で見張りの職員は何をしていたのか。オウムの平田信の場合もヒドイ話だ。平田は出頭前に警察に電話しているが、担当者はウソだと思い相手にしなかった。平田は、電話→大崎署→警視庁→丸の内署、とぼとぼ650m歩いて出頭した。よく気が変わらなかったものである。それにしても警察の緊張感のなさが恐ろしい。

   もしも自分が身に覚えのない無実の罪で裁判員裁判で死刑を宣告されたとしたら、脱獄して、真犯人を自分の手で探し出して、身の潔白をはらすしかない。逃亡者には辛く長い日々がまっている。

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ノーパンツ・デー

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The No Pants Subway Ride,an annual event organized by New York City prank collective of the group enter asubway car at consecutive stops without pants in the middle of winter.

「パンツなしで地下鉄に乗ろう」 このいたずらは、ニューヨークで毎年恒例「ノーパンツ・デー」で、冬の中頃に組織されたグループがパンツなしで地下鉄の車内で過ごすというもの。

[注]ノーパンと言っても、ズボンやスカートをはいてないことで、かつての「ノーパン喫茶」のような類ではない。

女性参政権

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  ケイト・シェパード

   1918年1月11日、イギリスで30歳以上の女性に参政権を実現させた日である。ただし年間5ポンド以上の家賃を支払っている世帯主、あるいはその妻、など条件つきのものであった。イギリスで普通参政権が実施されたのは1928年のこと。世界初の女性参政権は、イギリスではなく、リチャード・セドン首相在任時のニュージーランドである。現在ニュージーランドの10ドル紙幣の肖像に使われているケイト・シェパード(1848-1934)は1893年に世界初の女性参政権実現に活躍したリーダーである。だが、日本ではそれより以前に高知県上町の女性、楠瀬喜多(1836-1928)が「戸主として納税しているのに女性だからといって選挙権がないというのはおかしい」と明治11年に県令に訴えている。明治13年、県令もその抗議に折れて、日本で初めて女性参政権を認める法令が成立している。ところが、明治政府は4年後に区町村会法を改訂して、女性を選挙から排除した法律をつくった。

   世界の主要国が女性参政権が成立した年は、1893年ニュージーランド、1908年オーストラリア、1906年フィンランド、1915年デンマーク・アイスランド、1917年ソ連、1918年カナダ・ドイツ、1919年オーストリア・オランダ・ポーランド・スウェーデン、1920年アメリカ、1928年イギリス、1945年に日本である。

    なお現在、国立国会図書館・図書課別室にはイギリスの婦人参政権運動家へレン・ブラックバーン(1842-1903)の「ヘレン・ブラックバーン・パンフレット・コレクション」のマイクロフイルムが所蔵されている。この資料の中には、選挙権実現の前年の動向を伝えるシェパードからブラックバーンに宛てた手紙もあり、女性参政権の世界的広がりを示す貴重な資料であろう。このほかアメリカのシカゴで初めてセツルメントを建設した社会事業家ジェイン・アダムス(1860-1935)、産児制限運動の指導者マーガレット・サンガー(1842-1903)関連の資料も含まれているという。

ウォータールー・ブリッジ

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Waterloo Bridge tells the story of a British army officer and a ballet dancer. This initial encounter occuers during an air raid in World WarⅠ.

映画「ウォータールー・ブリッジ」は英軍将校とバレリーナの物語。初めての出会いは第一次大戦下の空襲のときだった。

2012年1月10日 (火)

「佐分利信」芸名の由来

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    広辞苑は言葉だけでなく人物などの百科項目も充実している。だがなぜか採録されない著名人もいる。クラーク・ゲーブル、富田砕花、沖田総司、藤本定義、小鶴誠、苅田久徳。そして佐分利信である。

   佐分利信、本名、石崎由雄は明治42年、北海道空知郡歌志内の生まれ。昭和6年、入江たか子主演「日本嬢」で島津元の名前でデビューする。昭和10年、松竹蒲田に入社。芸名は監督の島津保次郎と同姓じゃまずいということで改名することになった。五所平之助が、外交官の佐分利貞男と、画家の佐分眞(さぶりまこと)にちなんで、佐分利信とつけた。だが佐分利貞男は昭和4年に謎の死をとげる。佐分眞は愛知県出身の新進画家で、昭和6年「貧しきキャフェーの一隅」で帝選特選、8年「画室」、9年「室内」が連続特選となる。39歳で自殺。まことに験の悪い芸名をつけたものだ。

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女王陛下万歳

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Who wrote the British national anthem God Save the Queen?    

Accrding to Brewer's Dictionary of Phrase and Fable,both words and music were written by a Dr. Henry Carey in 1740.

イギリス国歌「神よ女王陛下を守らせ給え」は誰が作ったのか?「ブルーワー英語故事成語大辞典」によれば、作詞と作曲との両方ともヘンリー・ケアリーによって1740年に書かれたとされている。

待つのも役者の仕事

   最近、「俺たちの旅」の再放送をみている。カースケ、同級生オメダ、それに同郷の先輩グズ六の青春ドラマ。それ以前に日本テレビ系で放送された学園ドラマの生徒たちも多数ゲスト出演している。寺田農、石橋正次、保積ペペ、水沢有美、清水昭博、佐久間宏則、三景啓司など。ワカメという渾名で浪人生の森川正太は準レギュラーでこのドラマ以降、名前を知られるようになった。その森川が「売れない役者」という本を書いている。むかしスタジオで出番を待っていた森川は「何時間またせるんだ!」と怒鳴った。そのとき同じように出番を待ていた年輩の役者から「役者は待つのも仕事のうちだ」とやさしく諭されたと書いている。帰宅後、母にその話をしたところ、その俳優は森雅之だった。森雅之はあの小説家有島武郎の長男で戦後は「安城家の舞踏会」「羅生門」などの映画をはじめ、数々の舞台で名演技をみせている名優。森川の母も息子の行状にあきれて絶句したという。

チャリング・クロス

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London is full of interest.Since the second half of the 18th century Charing Cross has been as the center of London.Samuel Johonson once declared,゛The full tide of existence is at Charing Cross."

Charing Cross Road is renowned for its specialist and secondhand bookshops.

ロンドンは興味あふれるところだ。18世紀の後半からチャリング・クロスはロンドンの中心だった。サミュエル・ジョンソンは「人間の存在その満ち引きは全てチャリング・クロスにある」と述べている。チャリング・クロスは専門家のための古本屋街として知られている。

神田如水会館

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  一橋大学が創建の地、神田一ツ橋を去り、校舎が国立に移転したのち、神田に残されたのが如水会館。旧館は洋風3階建てで大正8年に竣工した。現在の建物は昭和57年に竣工したもの。

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2012年1月 9日 (月)

1830年リヴァプール・マンチェスター間に最初の鉄道開通

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 George Stephenson is considered the  ゛Father of the Railways. "

He built the world's first public railway to use steam locomotives.

The Liverpool-Manchester  line opened on 15 September 1830.

ジョージ・スティーヴンソンは「鉄道の父」と見なされている。彼は世界で最初の蒸気機関車の鉄道をつくった。1830年9月15日、リヴァプール・マンチェスター間に最初の鉄道が開通した。

モルダウはブルタバ

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 プラハ市内の中央を流れるブルタバ川

   わが国では平成の大合併で大きく地名が変更された。戦後、外国地名も知らない間に多くは変更されている。外国地名の表記は原則として現地読みにする傾向がある。多くは英語式を地名にしていたが、慣用が固定しているものもあり、むずかしい。ドイツ名アウシュヴィッツは、イディッシュ語オシフィニチムに変更された。スメタナの作曲「モルダウ」で知られるモルダウ(Moldau)はドイツ語なので、チェコ語でブルタバ(Vltava)川と呼ばれている。

   主な変更地名をあげる。

ボンベイ→ムンバイ(インド)

マドラス→チュンナイ(インド)

カルカッタ→カルカタ(インド)

コロンボ→スリジャャワルダナプラコッテ(スリランカ)

マカッサル→ウジュンパンダン(インドネシア)

西イリアン→イリアンジャヤ→パプア(インドネシア)

ボルネオ→カリマンタン(インドネシア)

セベレス→スラウェシ(インドネシア)

ケルマンシャ→バフタラン(イラン)

ポルトラック→アシガバート(トルクメニスタン)

サイゴン→ホーチミン(ベトナム)

ホングイ→ハロン(ベトナム)

ビルマ→ミャンマー

ラングーン→ヤンゴン(ミャンマー)

サルウィン川→タンルウィン川(ミャンマー)

コンボムソム→シアヌークビル(カンボジア)

京城→ソウル(韓国)

北平→北京(中国)

新京→長春(中国)

奉天→瀋陽(中国)

広東→広州(中国)

ポナベ島→ボンペイ島(ミクロネシア連邦)

パラオ諸島→ベラウ(太平洋)

スバールバル諸島→スピッツベルゲン諸島(北極海)

ゴットホープ→ヌーク(グリーンランド)

コーカサス→カフカス(ロシア)

スターリングラード→ボルゴグラード(ロシア)

レニングラード→サンクトペテルブルク(ロシア)

チェリャビンスク→エカテリンブルク(ロシア)

ゴーリキー→ニジニノブゴロド(ロシア)

豊原→ユジノサハリスク(ロシア)

カザン→カザニ(ロシア)

アストラハン→アストラハニ(ロシア)

ダンチヒ→グダニスク(ポーランド)

クラカウ→クラクフ(ポーランド)

タンネンベルク→ステンバルク(ポーランド)

ケムニッツ→カールマルクスシュタット→ケムニッツ(ドイツ)

コルシカ→コルス(フランス)

オポルト→ポルト(ポルトガル)

シドン→サイダ(レバノン)

アレッポ→ハレブ(シリア)

ニコシア→レフコシア(キプロス)

ソールズベリ→ハラレ(ジンバブエ)

オートポルタ→ブル木ナファソ(アフリカ)

ダオメー→ベニン(アフリカ)

シスレーとホッベマ

Alfred Sisley was doubtless impressed,by Hobbema's The Avenue,Middelharris,which he would have seen in the national Galley during his early years in London.

Sometimes his roads and paths move gradually from one side of the canvas up to the other,sometimes they open fan-like,he favours low horizons;wide foregrounds of field,road or water,in which he often exaggerates the scale of stones,grass or ripples;a section of near detail obvious recession,strong,inter locking horizontals crossed by verticals of trees,their reflections,fences and pasts.

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   アルフレッド・シスレーは若い頃ロンドンのナショナル・ギャラリーで見たホッベマの「ミッデルハニスの並木道」から間違いなく強い感銘を受けている。彼の好むのは次のようなものだ。低い地平線。野原や道路や水面からなる広い地平線、あまりに明白すぎる奥行き感を中和する前景の細部の一画、目はその細部から遠くの眺めへと移っている、樹木やその反射、垣根や杭がつくる垂直線と交差する、力強い、重なりあう水平線。

1963年、ケネディ大統領暗殺

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John Fitzgerald Kennedy,the 35th President of the United States.His wit,grace,intelligence,and good-looking,he was a popular person.Kenndy was assassinated in Dealey Plaza,Dallas,Texas.

ジョン・F・ケネディは第35代アメリカ合衆国大統領。機知、上品さ、知性、すばらしい容貌をもった彼は人気者だった。テキサス州ダラス、デイリー・プラザ広場で暗殺された。

円谷幸吉の栄光と死

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(左から)畠野洋夫(コーチ)、円谷幸吉、南三男、宮路道雄

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    昭和58年から東京オリンピックのマラソンで日本人初の銅メダルに輝いた福島県須賀川市出身の円谷幸吉(1940-1968)の業績を讃えた「円谷幸吉メモリアルマラソン」が毎年行なわれている。2010年(第28回)10km招待選手の中に宮路道雄の名前をみる。

    昭和43年1月7日、宮路道雄は自衛隊体育学校の校庭で偶然に円谷幸吉に出会った。「やあ、明けましておめでとう。今年も頑張ろう」新年の挨拶を交わした二人は、しばらく並んで走った。二人で走るのは、東京オリンピックのレースの朝、逗子海岸で、南三男と三人でジョギングをして以来のことだ。「もうすっかりいいんだろう。よかったなあ。もちろんやるんだろう、オリンピック…」宮路は話かけたが、幸吉はうなづいただけで、それには言葉で答えず、ほかの話題に移した。「宮路君も、目を悪くしたと聞いたけど、もうよくなったのか」「医者に、栄養失調だと、いわれてね。左右とも1.5に戻ったよ。アハハハ…」疲労のためだというと、幸吉が気を使うと思って、宮路は、しきりに栄養失調を強調した。競技のことには、ほとんど触れぬまま、二人は別れた。それが二人の最後の出会いだった。二日後、幸吉は、自衛隊体育学校の自室で肉親と上官に遺書をしたため、剃刀自殺した。

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Img_0004周囲の人々への謝辞と、その期待に応えられないことへの詫びからなる円谷の遺書

天路歴程

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John Bunyan wrote The Pilgrim's Progress in Bedford Prison.

ジョン・バニヤンはベッドフォードの刑務所で天路歴程を書いた。

2012年1月 8日 (日)

トーマス・エジソンとキネトスコープ

In 1891, Edison introduced the Kinetoscope.

1891年、エジソンはキネトスコープを発明した。

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キネトスコープはスクリーンに映写されるのではなく、箱の中にフイルムを装填し、のぞき込む形になるので、1度に1人しか見ることができない。1度に多くの人が鑑賞できる映画は、フランスのリュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明(1895年)を待つことになる。.

クサンティッペ

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Socrates had two wives,Xanthippe and Myrto.Xanthippe is a   woman with a bad temper!One day she threw a bucket  of washing on Socrates.

ソクラテスには2人の妻がいた。クサンティッペとミュルト。クサンティッペは怒りっぽい気性の女性だったといわれている。ある日、彼女はソクラテスの頭の上にバケツに入った洗濯水を浴びせたことがあった。

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一説によると洗濯水ではなくて、尿瓶の尿だったともいわれる

49B.C.シーザー、ルビコン河を渡る

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Julius Caesar  crossed the Rubicon River and marches on Rome in defiance of the Senate.

ジュリアス・シーザーはルビコン河を渡って、元老院に反抗しローマに進軍した。

コンドラチェフの波

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   平均周期が50年(40~60年)のコンドラチェフの長期波動に関心が高まっている。ニコライ・コンドラチェフ(1892-1938)は旧ソ連の経済学者で、1930年、当局と意見が対立してソ連政府に逮捕され、不遇のうちに獄死している。景気循環の統計的研究により、資本主義経済には長期波動が存在する。

十字架にかけられるイエス

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Jesus cried again with a loud voice and yielded up his spirit.And behold,the curtain of the temple was torn in two,from top to bottom,and the earth shook,and the rocks were split.They were filled  with  awe,and said,゛Truly this was a son of  God!"

イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂けた。人々は恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。

みんなで家族の愛と絆を叫ぼう

Kids become disstisfied with parents.゛Why can't we be like the Andersons?" My kids used to say abut ゛Father Knoes Best,"in the 1960s.

子供たちは両親に幻滅を感じているのだろう。うちの子供たちは、

1960年代には、テレビ番組『パパは何でも知っている』を引き合いに出して、「どうして、うちは、アンダーソン家みたいにいかないのか」と言うのが常だった。

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当時の日本は家族団らんで『パパは何でも知っている』をみていた。家族の絆の大切さなどは当たり前なので、口にする人はいなかった。ただアンダーソン家の冷蔵庫の大きさには驚いた。こんな国と戦争しても大和魂だけでは勝てないと子ども心に悟った。

1796年 ジェンナー種痘法を発見

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

1610年 ガリレオ太陽黒点を発見

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Galileo observed the Sun through his telescope and saw that the Sun had dark patches on it that we now call sunspots.

ガリレオは望遠鏡で太陽を観察した。そしてわたしたちが現在、太陽黒点と呼んでいる太陽の表面に現れる暗い斑点を発見した。

川上澄生と港町

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  横浜山手之図 大正10年

    版画家・川上澄生(1895-1972)は、横浜市紅葉坂(現・西区紅葉ヶ丘)に生れた。川上の作品には、明治時代の文明開化や西欧異国情緒に満ちた南蛮もの、キリシタンもの、をテーマにした木版画が多く、横浜の情緒を生涯追い求めた作家といえる。だが、川上は3歳にときに一家はすぐに東京に転勤しており、東京で青山学院高等科卒業後は、カナダのヴィクトリア、アメリカのシアトル、アラスカ、帰国後は宇都宮、北海道の苫小牧、そして宇都宮と横浜に在住した記録はないようだ。しかし横浜のスケッチが多数残されており、しばしば訪れたことは間違いない。文明開化調、異国趣味、南蛮趣味の原風景はやはり横浜にあるのであろう。そして天才少女歌手・美空ひばりの原点が横浜にあるが、ブギとジャズ、そして演歌、その楽曲の多様性に中に横浜の魅力をみいだすことは容易であろう。横浜は不思議な文化が育つところである。川上は港町と縁がある。

2012年1月 7日 (土)

どっちが有名人

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   シュリ・プリュドムとカール・ブッセ、どちらの詩人を知っていますか。「山のあなたの空遠く 幸(さいわい)住むと人のいふ」やはりカール・ブッセ。でも世界的には第1回のノーベル文学賞を受賞したシュリ・プリュドムだろうか。明治の上田敏の翻訳の影響は大きい。プリュドムの没後100年は過ぎてしまったが、カール・ブッセ没後100年はあと6年後のことである。

あしながおじさん

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I've decided to call you Dear Daddy-Long‐Legs.(私はあなたのことを「あしながおじさん」とお呼びすることにします)

[注]decid …しようと決める、決心する

好きなスター

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    John Wayne,Kathrine Ross

Who is your favorite movie star?(きみのいちばん好きなスターはだれ?)

I'm  in love with Katharine Ross.(私はキャサリン・ロスに恋している)

1492年コロンブス第1回航海

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When did Columbus sail across the Atlantic Ocean?(コロンブスが大西洋を航海したのは何時ですか?)

Columbus sailed the Atlantic Ocean in 1492.(1492年です)

北斎と上方文化

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 潮干狩図 葛飾北斎 大阪市立美術館蔵

   むかし米ライフ誌が企画した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(1998年)では、日本人でただ1人葛飾北斎(1760-1849)だけが選ばれている。1位がエジソンで、以下、コロンブス、ルター、ガリレオ、ダ・ヴィンチ、ニュートン、マゼラン、パスツール、ダーウィン、ジェファーソンとなる。北斎は86位。ヨーロッパの印象画壇に影響を与えたことが世界的な評価となったのであろう。北斎は宝暦10年、江戸本所割下水(墨田区亀沢)で生まれ、長命な生涯のほとんどを江戸で過ごし、寛永2年浅草のぼろ長屋で死んでいる。生前諸国をよく旅行もしている。北斎漫画の初編を出した版元は名古屋にあったので、名古屋を訪れているし、晩年には信州小布施にも何度も旅行している。だが北斎と大阪との関係はほとんど知られていない。今秋に大阪市立美術館で「特別展北斎」では、大阪訪問の真偽を検証し、江戸と上方の文化交流の一端を明らかにするらしい。

泉隆寺の七草がゆ法要

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    泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、毎年1月7日に若菜をそえて、食する習わしが始まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2012年1月 6日 (金)

ハチ公広場

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The statue of Hachiko is in front of Shibuya Station.(ハチ公の像は渋谷駅前にある)

Columbus thought that the land was part of India.(その地をコロンブスはインドの一部と思った)

Friday the 13th is said to be an unlucky day.(13日の金曜日は不吉な日だと言われる)

He was in a traffic accident.(彼は交通事故にあった)

That company is on the verge of bankruptcy.(あの会社はもう危ない)

Ⅰ'm  in confident about speaking English.(英会話には自信がある) 

アメリカ独立宣言

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    The history of the United States as a   separate nation began on July 4,1776,when the thirteen English colonies  that became its original states  declared their independence  from Great Britain.

   フィラデルフィアで開かれた大陸会議は、独立宣言 the Declaration of Independeceを採択した。起草委員はトマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロバート・リヴィングストン、ロジャー・シャーマンの5名だった。宣言は有名な「We hold these  truths to be self-evident.(われわれはつぎにあげる真理を自明のことと信ずる)」という一文ではじまる。

再生のシンボルだった「幸福駅」

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    むかし若い女性たちが「愛国・幸福」間の切符をお守り代わりに大切に持っていた。北海道帯広の幸福駅と愛国駅の切符は昭和50年代に年間1300万枚も売れた。昭和62年に路線ごと廃止になって忘れられた。いまYouTubeで芹洋子「愛の国から幸福へ」、やまがたすみこ「幸福駅」の歌を聞くことができる。「幸福開拓80年史」によると、明治35年ごろ、大水害に遭った福井の農家の人々が北海道へ移住した。そこはもともと「幸震」だったが、「震」の字は縁起が悪いので、「福井」の「福」の字を採り、「幸福」としたという。そのような地名の由来のある「幸福駅」だったが、再生のシンボルにはならなかった。だが近年、遠方からの観光客が増え、ハッピーなブームが再燃しそうな気配がある。

名称決定には必ず事前に類似調査をすべきこと

    2年ほど前にこんな話題があった。山形県のある公立小学校が市民の公募により名称を「さくらんぼ小学校」と選定した。ところがアダルトサイトに同名のものが存在し、結局、名称は変更された。またリキッドがアダルトゲームソフト「聖隷学園」を発売しようとしたところ、発売中止を求められた。なんと「聖隷学園」は実在する有名校だった。聖書にてでくる最後の晩餐でイエスが弟子たちの足を洗う。自らすすんで下僕の業を行う。創立者の長谷川保(1903-1994)は、この教えを自分たちの理想の生活と考え、「聖なる神の奴隷」として生きることを決意し、自らを「聖隷」と呼んだ。現在、聖隷福祉事業団が全国各地のあり、「聖隷」という看板は街でよく目にする。知らない人は「聖隷」という文字を見ると、とまどいを感じるらしい。

今年こそ阪神優勝や!

  新年5日、和田豊タイガース新監督は、7年ぶりの優勝を誓った。ところでむかし阪神には「ぶーちゃん」と呼ばれたもう一人の和田という選手がいた。和田徹である。

   昭和45年6月27日の明治神宮野球場。阪神、ヤクルトアトムズ戦。8回まで13-0で毎回安打、毎回得点で圧勝している。「ハッハッハッ、毎回得点か・・・。9回全部得点したチームってあるんか?」誰かがベンチで言った。「さあ、どうやろ?知らんな」こんな会話が交わされた。「オレが聞いてくる」この試合出番なしの、久保征弘投手が記録員にたずねにいった。それから数分後、久保からの報告を聞いた西山和良コーチが大声で叫んだ。「えらいこっちゃ」。ナインが一斉に西山コーチに注目したる「もし9回に得点すれば、球史で2度目の大記録や」西山のいうとおり、毎回得点は出来そうで出来ない記録である。現在に6度あるが、当時は昭和27年に南海が記録して以来、18年もなかった。しかし、セ・リーグでは1度も記録していない。「ここまできたらやっちまおう」ベンチの士気は上がった。

9回、先頭打者は4番のバレンタイン。だがヤクルト緒方勝投手の初球を打ち二ゴロ。5番は遠井吾郎から途中、和田徹に代わっていた。打率は1割台。ベンチは半ばあきらめムードだった。カウント2-2。緒方の5球目のシュートをコンパクトに振りぬいた打球は左翼スタンドに一直線に飛び込んだ。興奮したファンが大歓声。生還した和田はナインにもみくちゃにされながらベンチに戻った。和田は最後の得点をホームランで記録した男である。過去6度、毎回得点の試合はあるが、完封で毎回得点という完璧な勝利はこの試合のほか1度もない。

阪神   2 4 1 1 1 2 1 1 1   14

ヤクルト  0 0 0 0 0 0 0 0 0    0

モスキート爆撃隊

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    デハビランド・モスキートは桁や骨組みの重要な部分を除いて、外板などが全部ベニヤ板(バルサ)で作られている。この蚊のような木製飛行機は最大速度が時速667㎞で、航空機としての性能が高かった。ちなみに一式戦闘機「隼」が500㎞、「ゼロ戦」が52型で565㎞のスピード。そのため爆撃機、夜間戦闘機など多くの目的に使用され、大戦中に8000機もつくられた。

もつれた2つの「きずな」と「きづな」

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 積水ハウスの情報誌「きずな」

    2007年にJAXAとNIXTが共同開発した超高速インターネット衛星の愛称を一般から募集したところ、「きずな」が多数を占め、愛称に選ばれた。東日本大震災で被災された方を支援する活動「絆 きずなプロジェクト」などの影響で2011年の「今年の漢字」は「絆」が選ばれた。世の中、「絆」「きずな」がいたるところに目に付く。BS日テレの番組「キズナのチカラ」。新党「きづな」は当初は「きずな」を検討したが、「きづなが語源として正しい」という。真偽のほどは定かではない。「き+つな」で「綱」なのか。だが片かな「キヅナ」は不自然だろう。「きずな」と「きづな」日本語はややこしい。

冒険家セオドア・ルーズヴェルト

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   南米ブラジル高地を流れるアマゾン川。大森林地帯マット・グロッソの西の端にアマゾン川最大の支流マディラ川のまだ奥には1914年まで、地図にもない謎の川、ドゥヴィード川があることが知られていた。ドゥヴィード川は1909年ある探検家によって発見されたのだが、どちらの方角へ流れてゆくのか、どこで終わるのか、誰にもわからなかった。それで、「謎(ドゥヴィード)の川」という名前がつけられたものだった。

    1914年2月27日、第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルト(1858-1919)は大統領の任期を終えると、ブラジルに行き、謎の川の探検を行なうことにした。この時、54歳である。これまでもルーズヴェルトはアフリカで狩猟もすれば、ノース・ダコタでつらいカウボーイ生活もした。パナマ運河沿いを歩いたこともある。この探検には、息子のカーミット、生物学者ジョージ・K・チェリー、ブラジルのインディオ局長カンディード・ロンドン大佐が同行した。一行は3月10日までに、カヌーでわずか100キロを進んだ。まがりくねった急流。食料不足。川に棲むピラニア。また川の水面がとつぜん落ち込む大滝がある。4月15日には、一行の半数が病気で動けなくなった。だが数日後、やっとのことで探検隊はアマゾンの町マナウスに到着した。ルーズヴェルトは次のように記している。

    「われわれは、地図のうえに、ひとつの川を書きいれた。長さ1000キロのこの川の存在は、もし模範的な地図が正しければ、未知だけでなく、不可能でさえあったろう」ルーズヴェルトは熱病から全快できなかった。ハイキング、水泳、乗馬を続けていたが、ドゥヴィード川の探検は、かれの最後の大冒険であった。帰国して5年後、1919年1月6日、亡くなった。

    今日では、このドゥヴィード川はアリプアニャ川の西にある支流として地図に出ている。その名前は変わった。地元ではテオドロ川として、そのほかの世界では、ルーズヴェルト川として知られている。(参考文献:「図説探検の世界史 7 南米の謎をさぐる」集英社)

2012年1月 5日 (木)

Newton and an apple

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Newton discovered gravity when he saw an apple fall.

    ニュートンがリンゴの落下から引力を発見したという逸話は本当であろうか。ヴォルテールはニュートンの姪に聞いた話として「ニュートンは庭仕事をしている際に、リンゴが落ちるのを見て、彼の重力に関する最初の発想を得た」(Essay on Epic Poetry,1727)と紹介している。

伏見城の戦いの謎

    関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる伏見城の戦いは西軍の勝利となった。なぜ家康は伏見城を僅かな守備兵にしたまま、会津攻めに向かったのだろうか。

    1600年7月、西軍の小早川秀秋、島津義弘らは4万の大軍を率いて伏見城を包囲した。これに対して東軍は1800人。総大将の木下勝俊は早々と戦わずして逃亡する有様。副将の鳥居元忠が奮戦するも討死。8月1日、伏見城は炎上、落城する。西軍の勝利ながら、数日で落とせるはずのところ、10日以上要したことはその後の美濃・伊勢攻略の遅れとなった。家康は石田三成らを挙兵させる囮作戦だったのかもしれない。敵前逃亡の木下勝俊は本来ならば死罪であるが、北政所の庇護を得て、命を助けられている。勝俊は京に隠棲し、歌人として名をなしている。

「恐慌」 英語で言うと?

    2012年の世界経済の動向は?金融政策の軸足は世界的に金融緩和に移っており、欧州債務危機が深刻化するドル資金への需要が高まる。しかし米大統領選挙が、2012年11月に控えているが、オバマの当選が危ういとなれば、現政権はFRBにプレッシャーをかける可能性がある。その場合ドルの下落は免れない。

恐慌   financial  panic

              hyperinflation

投資   investment

国債   national debt

不良債権 bad debt

債務不履行 dafault

外国為替 foreign exchange

ジェーン・ワイマン

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  映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のワン・シーン。若き日のドク(クリストファー・ロイド)がタイムスリップしたマーティー(マイケル・J・フォックス)に「ロナルド・レーガンが大統領なら、ファースト・レディはジェーン・ワイマンかい?」というセリフがあった。実際にはジェーン・ワイマンは早くにレーガンと離婚したので、ファースト・レディになることはなかったが、ジョークとして面白い。

    ジェーン・ワイマン(1914-2007)は1940年から1948年までロナルド・レーガンと結婚していた。今年9月10日、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅で老衰のため死去した。享年93歳。

    サラー・ジェーン・フォークスは、1914年1月5日、 ミズーリ州セントジョセフに生まれた。誕生名はサラ・ジェーン・メイフィールド。父は町長。8歳の時、両親が離婚したので、彼女の名前はサラ・ジェーン・フォークスとなった。女優であった母の希望で幼い頃からダンスを習い、ロサンゼルスへ移住。10代でハリウッドで仕事を探したが失敗。帰郷してミズーリ大学卒業後、ネイリストや電話交換手をしていた。1932年頃、ラジオのコーラスガールとなり、ジェーン・デュエルという芸名で歌手となったが、やがてハリウッドへ行く。1936年、ワーナーブラザーズと契約し、「踊る三十七年」でジェーン・ワイマンに改名したが、その後もなかなかチャンスは掴めずブロンド娘役など脇役をしていた。「カナリヤ姫」「ハリウッド玉手箱」などで次第に脇役から主役級になっていく。1945年に「失われた週末」のアル中のレイ・ミランドを支える恋人役で注目されるようになった。クラレンス・ブラウン監督の「子鹿物語」(1946年)で厳格な南部の開拓農民の妻に扮してアカデミー主演女優賞にノミネートされた。「ジョニー・ベリンダ」(1948年)で聾唖のレイプ被害者を演じ、アカデミー最優秀主演女優賞を獲得した。「青いヴェール」(1951年)で二度目のオスカーをとりそこなったものの、1950年代半ばになると、ダグラス・サーク(1897-1987)監督のメロドラマで演技派女優としての貫禄が加わってきた。「心のともしび」(1954年)「天はすべて許し給う」(1955年)でロック・ハドソンと共演。ジェーン・ワイマン主演の作品はやがてお涙頂戴ものの陳腐なメロドラマとしてアメリカでは評価が低かったが、70年代になってヨーロッパでダグラス・サークの評価が高まった。母を演じ、妻を演じ、そして年下の青年との恋に苦悩するメロドラマ。50年代ハリウッド映画界には、ジェーン・ワイマン、ラナ・ターナー、スーザン・ヘイワード、デボラ・カー、ドロシー・マクガイアなどの名女優が健在であった。日本でいえば、三益愛子、月丘夢路、高峰三枝子といった感じであろうか。私生活では、マイロン・ファーマン、ロナルド・レーガン、フレデリック・カーガーの3人の男性と4度の結婚をしている。このほか「西部戦線異状なし」の俳優リュー・エアーズとのロマンスの噂もあった。レーガンとの娘モーリンはTV女優として活躍している。

         *  *  *  *  *  *  *

   ジェーン・ワイマンの人気が全盛であった頃の「映画の友」の記事を紹介する。「ドリス・デイには虫がおさまらぬ事がただ一つ、それはジェーン・ワイマンがビング・クロスビーとの共演以来(花婿御入来、あなただけの為に)、レコードにデイ張りの唄い方をすることです。これにはさすがのドリスもすっかりツムジを曲げ、今のところ、イッカナ仲のとりなしようもありません。そのジェーン・ワイマンは先日、ビング映画を監督の為欧州へ旅立ウィリアム・パールバークの為に大パーティを催して、ハリウッド各方面の名士が総出席、朝まで盛大に踊りぬきました。スタアではグリア・ガースン、ゲーリー・クーパー、ヴァン・へフリン、ヴァン・ジョンソンの奥方イーヴァーは一人で現れフランス語の唄を歌ってバーバラ・スタンウィックと一緒に来たジャン・ピエール・オーモンを顔負けさせ、ベティ・ハットン、チャールス・オカーラン(振付師)夫妻は得意のダンスをご披露し、タイロン・パワーはバンドに交じってドラムをたたく脱線ぶりの賑やかさでした。」(映画の友、1953.1、91p)

2012年1月 4日 (水)

「へその緒」 英語で言うと?

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 cord blood

   かつてブッシュ大統領が韓国から米軍を撤兵するとき「cutting the Umbilical Cord」と言っていた。

秋山真之の子孫

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 ロジェストウェンスキーを見舞う東郷平八郎と秋山真之(久保田金仙画)

   民主党の大石尚子(75歳)参議院議員が4日、呼吸不全のため都内の病院で死去した。大石議員の母方祖父は秋山真之中将である。

秋山真之と稲生季子(いのうすえこ)との間には四男二女がいた。

長男 大(ひろし) 仏教美術の研究家。早世する。

二男 固(かたし) 青山家より養子、日本製粉監査役

三男 中(ただし) 山下汽船取締役

長女 少子(わかこ)

四男 全(やすし)

二女 宜子(たかこ)

男子の一文字の名に、「すべからく簡素であるべし」とする兄好古の哲学があらわれている。

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秦漢帝国の成立

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  肥沃な黄河流域に初期農耕文化が生まれ、やがて殷・周の都市文明が形成された。そののち戦国時代に鉄器が普及すると、国家統一への機運が高まり、秦の始皇帝によって最初の統一国家が形成された。これをついだ漢帝国は約400年間続き、儒教を統治原理とする中央集権的な官僚国家体制の基礎が築かれた。

     cataloging

経子解題 呂史勉  商務印書館 1926
九朝律考 程樹徳 上海・商務印書館 1926
匈奴史研究 姚従吾 1930
匈奴民族考 白鳥庫吉著 何健民訳 中華書局 1936
秦漢史略 何茲全 上海人民出版社 1955
秦漢政治制度 史地叢書 陶希聖・沈任遠 台湾・商務印書館 1964
秦漢史 呂思勉著 夏徳儀校訂 台湾・開明書店 1969
秦漢史 銭穆 中文出版社
秦漢史話 祖国双書 羅世烈 北京・中国青年出版社 1985
匈奴伝考証 丁謙 正中書局

「承知しました」 英語で言うと?

Allright

All right!

Very well.

Certainly,sir.

Roger!(了解しました)無線で

「ばか!」 英語で言うと?

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You idiot!

You dummy!

つい、fool を用いたくなるが、fool はもっと見下した表現である。

ばかを言うな!

That's nonsense!

Don't be still!

Get serious!

Don't say such silly things!

Don't be a fool.

    foolishは「適切な判断力に欠ける、常識のない」の意。stupidは「生まれつき知能が弱い」の意。sillyは愚かな行為をして「笑いや軽蔑の対象にされるほど軽薄な」の意。dullは古風で「物わかりが悪い」の意。

600光年かなたに宇宙人いるかも?

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    宇宙は136億年前のビックバンで誕生したと考えられるが、太陽系外に生命が存在するかどうかは未知の世界である。最近NASAが600光年かなに地球サイズの惑星ケプラー22bを発見した。直径は地球の約2.4倍、気温22度前後、290日かけて公転している。生命が生存可能な気温で水が存在すると想定される。宇宙人いるかも。

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 惑星ケプラーは北極星より遠くにある

ラ・メトリとフリードリヒ大王

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    今年はプロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ大王(1712-1786)の生誕300年にあたる。大王の下にフランスの医師ラ・メトリ(1709-1751)が逃れてきたのは1748年頃のことと思われるが、年齢が近い2人はどのようなことを語り合ったのであろうか。ラ・メトリは「人間機械論」(1747年)のなかで、人間のあらゆる機能は物理的に分析できるとし、人間は一種の機械であると説いた。すでに16世紀にベサリウスは「人体解剖学」を著しているし、17世紀ハーベイは血液循環の原理を発見している。神が人間や宇宙を創造したものでないとする説は無信仰として攻撃される。ラ・メトリの思想はロボットまで言及していないが、将来、自動人形が文字を書き、ピアノを演奏し、兵隊として破壊兵器になる可能性を持っている。それゆえ、フリードリヒ大王の関心は深いものがあったと推測する。

    現代の宇宙物理学者スティーブン・ホーキングは「天国や死後の世界は実在せず、おとぎ話にすぎない」「宇宙は神が創造したのではなく、重力の存在によって自然発生的に生れた」「人間の脳は部品が故障すれば機能が止まるコンピュータのようなものである」と語っている。

2012年1月 3日 (火)

愛しのチェブラーシカ

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    チェブラーシカとはロシアの人気キャラクター。寂しがりやで可愛い。南国産のオレンジを入れた箱に詰められていた。小熊と猿との中間のような小動物。エドゥアルド・ウスペンスキーの1966年の絵本。3年後にロマン・カチャーノフが人形アニメ映画を制作。近年、日本でも知られた人気キャラクターになっている。ワニのゲーナ、いじわるなおばあさんシャパクリャクなどキャラクターが個性的である。全体にロシア的な哀調がただよう。

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見上げてごらん夜の星を

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   知っていても人生の役に立たないこともある。でも知っていたら楽しくなる知識もある。たとえば草花や星の名前を知っていたら、自然の美しさや、広大さを知ることができる。そこで一等星の名前を覚えよう。シリウス、カノープス、リギル・ケント、アルトゥルス、ベガ、カペラ、リゲル、プロキオン、アケルナル、ベテルギウス、ハダル、アクルックス、アルタイル、アルデバラン、スピカ、アンタレス、ポルックス、フォーマルハウト、デネブ、ミモザ、レグルス。

「残念だ」 英語で言うと?

  「日本人の9割は英語はいらない」という本があるそうだ。まだ読んでいないが、本当に英語が必要な人は1割以下。語学を勉強してもバカはバカという内容らしい。たしかに自分も外国人と会話する機会はないし、海外出張することはないし、英字新聞を読むこともない。13歳から22歳まで英語を学習しても身につかなかったのだから、英語を完全にマスターできることは生涯ないだろう。ある日、突然英語をペラペラと喋りだすなど奇蹟に近い話だ。しかし、年をとってから、海外のHPを見たり、英文を読まなければならない機会は増えた。そこでブログ記事も英語学習の初歩的なことを書いている。あくまで学習ノートのようなもので、定めし誤りも多いことだろう。もし誤りにお気ずきの方はご指摘いただければ幸いである。

   英語学習で悩むのは単語の記憶力がないことである。たとえば「残念だ」という日本語に対して、英語には「regret(残念に思う)」「mortify(悔しい)」「disappoint(がっかりさせる)」「sorry(気の毒で)」「shame(恥ずかしい)」などある。どれを使えばよいのかわからない。状況に応じてさまざまな英語表現があるのだとは思うがむずかしい。

That's a shame.     残念です

Ⅰ am sorry that ・・・    残念なことには

What a shame that・・・  ・・・とは残念だ

忠臣蔵の虚と実

   ああ、また「忠臣蔵」か、という気分ながら、やっぱり最後まで見てしまう。新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛」は内野聖陽が演じる堀部安兵衛とその妻ほり(常盤貴子)が主人公。堀部ほり(1675-1720)は討入り後、45歳で熊本で亡くなっている。木村拓哉の「忠臣蔵」(2001)では妻の深津絵里と離婚したことになっているが、今回は夫婦仲は良かったが、常盤貴子が明るすぎるのが不自然な感じだった。上杉家用人で吉良方についた親友吉川山右衛門(村田雄浩)との対決がドラマのメインか。吉川は清水一学の代わり。色部又四郎も千坂兵部の代わり。千坂はこのとき既に病死しているので、近年は色部となることが多い。最後の脱盟者毛利小平太の没年が不明なので、ドラマでは討入り直前に死ぬ場合と、生きのびて所帯を持って泉岳寺に墓参する場合がある。伊埼充則毛利小平太は墓参だった。全体に恋の絵図面取り、赤垣源蔵の徳利の別れや大石の東下りなどの人気の挿話を入れないのは、巷説を排し史実に近いシナリオといえる。とくに討入りで山鹿流陣太鼓はなかったのには驚いた。史実でも太鼓は打ち鳴らされなかったとされる。堀部安兵衛の人物像も巷談の「呑んべい安兵衛」とは異なり、史実に近いものとなっている。実際の安兵衛は酒を飲まなかったといわれるし、慎重で手堅い性格で能書家だったという。「武庸筆記」を書いて細井広沢に預けたことがドラマで紹介されているのも面白い。このように史実に近い忠臣蔵は評価できるものの、二刀流清水一学や俵星玄蕃が登場しないと物足らなさを感じてしまう。

アラスカ

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    1959年1月3日、アラスカは合衆国第49番目の州に昇格した。アラスカの面積(1,518,807k㎡)は、合衆国の州の中では最大である。アラスカはもともとロシア領だったが、1867年に720万ドルでアメリカが買った。アラスカとはアリュート語で「大きな土地」という意味。購入交渉をすすめたウィリアム・スワード(1801-1872)国務長官は「巨大な冷蔵庫を買った男」と嘲られたが、間もなくアラスカで金鉱脈が発見され、さらにアラスカは水産基地として栄え、いまではスワードは先見の明があったとされる。

どこまで続く「きづな」ブーム

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  「新党きづな」が誕生した。歌謡曲の文句「♪たとえ時がうつろうと縫いあわせた絆は決してほどけない」(平井堅)「♪愛という名の絆の糸は切れてしまえば結べない」(水森かおり)紅白歌合戦の歌詞や司会者のトークの中でも「絆」という言葉は10回以上は出てきた。正月番組「向田邦子が教えてくれること 山口智子と考える絆」

   「なでしこ」と「絆」が2011年のキーワードであったが、それは100年前の「日露戦争」と「大和魂」の関係によく似ている。ロシアに勝って(引分けだろう)一等国になってスローガンが「大和魂」。アメリカに勝って(引分けだろう)夢、希望、感動を与えてくれた、人と人とのつながりの大切を感じた1年だった、そしてすべて「きづな」に集約される。批判より肯定。日本人の一体感をもたせる言葉として「大和魂」はさすがに使えないので、かわりに耳ざわりのよい「絆」を使うようになった。本来、「きづな」は個人の心の奥で密に感じるもの。それが声高に国中が連呼して連帯感をもとうとする。「坂の上の雲」で漱石が大和魂を批判したら、子規の妹が立腹して、「もっと素直になりなさい。がんばれといえばよいのよ」と漱石を嗜める場面がある。これはもちろん司馬の原作にはない。NHKの制作者が意図的に創作したのである。きづなブームは国家主義プロパガンダそのものである。芸能人のメッセージというのは理性的なものではなく、常に時代に迎合的なものだ。被災地慰問は戦前の戦地慰問。年が明けたら芸能人や富裕層はみんな休暇をとって海外の保養地で楽しんでいるだろう。それと不思議に感じたのは、「なでしこがアメリカに勝った」という審査委員の発言。厳密には延長PK戦は公式記録では引き分け扱いで、日本とアメリカの対戦成績は25戦0勝4分21敗。まだ一度も勝ったことはない。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と。大和魂も絆も声高に言うのは胡散臭い。

2012年1月 2日 (月)

英語を英語で

  次の英文で示された単語を書け

1 a man who has not married

2  a plase in which literary and artistic and especially, books are kept for use and not for sale

3  a building in which are displayed objects of interest in one or more the arts or sciences

4 the season when grains and fruits are gathered

    answer

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正月に髑髏を持って「御用心」

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  一休和尚は正月早々、竹棒の先にされこうべをさすと、洛中へと歩き出した。町中に入ると、家々の門の口にこの髑髏を差し出して、「御用心、御用心」といいながら、歩きまわる。正月気分で祝っているところへ、髑髏であるからたまったものではない。どの家も門を閉ざしてしまった。

   一休いわく「この髑髏よりめでたいものはない。目が出て、穴ばかりが残ったのを目出たしという。人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことはひとつもない」一休、歌っていわく。

 門松は 冥途の旅の 一里塚

    めでたくもあり めでたくもなし

 (参考:『禅門逸話選』 禅文化研究所)

「鳩尾」 何て読むの?

足掻(あがき)

総角(あげまき)

家苞(いえづと)

転寝(うたたね)

囈語(うわごと)

晩稲(おくて)

恩愛(おんない)

苟且(かりそめ)

紙縒(こより)

遮莫(さもあらばあれ)

倭文(しず)

掏摸(すり)

佝僂(せむし)

為体(ていたらく)

鯨波の声(ときのこえ)

破落戸(ならずもの)

只管(ひたすら)

北叟笑む(ほくそえむ)

水分(みくまり)

兎唇(みつくち)

翻筋斗(もんどり)

鳩尾(みぞおち)

映画は脚本が大事

    正月のテレビはつまらないので、録画撮りを観る。池部良、司葉子の「現代の欲望」(1956、菊島隆三)と豊川悦司、小池栄子の「接吻」(2008、万田珠実)、2本とも良し。「現代の欲望」は金融界に生きる青年の挫折を描く。「接吻」は現代の心の闇を描く。凶悪犯の獄中結婚を望む若い女性の倒錯した心理と衝撃的なラスト。2本とも脚本が素晴らしい。

女のような名前、男のような名前

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 明治文学研究家の柳田泉

   室井滋という人はとても有名人なので、男性風の名前だけど間違える人はない。けれども尼子騒兵衛、松本ひで吉は最近までずっと男性だと思っていたけど女性だったことを知った。美水かがみも男性。反対に銀色夏生は女性。

   モデル森泉は女性だけど、柳田泉は男性。荒川静香は女性だけど荒川弘も女性。横須賀恵は女性だけど、若草恵は男性。鎌倉千秋は女性だけど、山川千秋は男性。

ああ、ややこしい。

2012年1月 1日 (日)

華美を排す

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    「紛華を謝して澹泊に甘んじ、個の清名を遺して乾坤に在れ」(菜根譚)華美を排したい。とあれ、正月ではあるので吉祥の絵物を紹介。橋本雅邦の「松竹梅七福図」。長寿の象徴である鶴が空を翔び、「めでたい」の鯛、財宝の象徴である米俵、七福神と松竹梅が描かれている。

合格クッキー

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    絵馬の形をしたクッキーに、合格の文字。受験生たちのおいしい味方「合格クッキー」。山口県大島町。

明けましておめでとうございます

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    いつもこのブログを見てくれる皆さま、2012年が素晴らしい1年になりますように、今年も「ケペル先生のブログ」をよろしくお願いします。

   「ゆく年くる年」では、大晦日の晩は奈良の大仏さまのお顔が上の扉が開いて遠くから拝めることを知る。富山県上市町の大岩山日石寺では、寒修行といい、滝に打たれる荒行や東京スカイツリーからの東京の夜景が映像で紹介されていた。大晦日の日本各地の情景をみて寝ることにする。

新しき歳とはいへどわが宿は これぞしるしといふ事もなし(木下幸文)

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服部嵐雪

    服部嵐雪(1654-1707)淡路三原の服部喜大夫高治の子。江戸に育ち、20歳ごろ新庄隠岐守に、つづいて井上相模守に仕え、24歳ごろ芭蕉に入門した。芭蕉死後は江戸の俳壇を其角と二分して多くの弟子を養成した。作風は平明温雅。

 元日や晴れて雀のものがたり

 梅一輪一輪ほどの暖かさ

 ふとん着て寝たる姿や東山

 時鳥啼くや利休の落し穴

 秋かぜに心うごきぬ縄すだれ

 石女の雛かしづくぞ哀れなる

 濡縁や薺こぼるる土ながら

 竹の子や児の歯ぐきのうつくしき

 真夜中やふりかほりたる天の川

 名月や烟はひ行く水の上

 沙魚(はぜ)釣るや水村山廓酒旗の風

 黄菊白菊その外の名はなくもがな

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