宮本武蔵の生誕地は兵庫県か、岡山県か?
宮本武蔵(1584-1645)と佐々木小次郎との巌流島の決闘から来年で400年になる。武蔵の生誕地をめぐっては兵庫県(播州説)と岡山県(作州説)で争いがあり、はっきりしない。吉川英治の「宮本武蔵」では、武蔵の生誕地を作州の宮本村、現在の岡山県英田郡大原町とした。そのため作州が武蔵の故郷と思っている人も多い。なぜ、故郷が二説になってしまったのだろうか。
生誕地が明確でない一番の原因は、武蔵自身が自分の来歴を詳しく残していないことにある。もちろん武蔵は、著書「五輪書」の中ではっきりと「生国播磨」と記している。しかし、これは播磨の何処なのかまでは明記していないのである。播磨と一口にいっても、現在の兵庫県の約三分の一以上を占めようかというぐらい広範囲を指す。これでは、記しているようでしていないのも変わらない。その本人が「生国播磨」と記したのに対し、長い間一般的に武蔵の生家とされている新免家は、まぎれもなく作州に住んだ一族なのである。
小倉の手向山に武蔵の死後、養子の宮本伊織が設けた碑文には「播州英産赤松之末葉新免之後裔武蔵玄信」「父号新免無ニ」とある。文章は生前の武蔵を知る春山和尚の作によるとされている。この播州がどこに掛かるのかで意味が大きく違ってくる。播州の英産なのは、赤松なのか、武蔵自身なのかである。作州説に立つ人は赤松氏が播州出身であることをいっているのであって、武蔵が播州出身であるとはいっていないと解釈する。そして播州説に立つ人は、武蔵を播州英産としているのだとしている。碑を建てたのは伊織自身であるから、碑文を春山和尚に依頼したとして、草稿のできた時点でおそらく文面を伊織は見ているはずである。もし文面に誤りあれば、特に出自にかかわることについては正したことだろう。解釈の仕方でどちらともとれる文章にしてしまったのが今となっては残念としかいいようがない。
« 歴史其儘と歴史離れ | トップページ | ミムラの落語 »
「日本史」カテゴリの記事
- 河越城の戦い(1546年)(2024.04.20)
- かえり船(2024.03.23)
- 鍋島騒動(2024.03.20)
- 勘解由使(2024.01.14)
- 藤原兼家(2024.01.12)
コメント