平清盛と神戸・福原京
平清盛は、通商立国を目指し、日宋貿易のターミナルとして大輪田泊に大人工島を築いて改修し、同時に福原遷都を強行した。抵抗勢力に押され、すぐ京へ遷都となったが、半年間でも神戸の地が首都に選ばれた意義は大きい。福原とは摂津国八部郡(やたべごおり)。現在の神戸市兵庫区あたりの地名である。周辺には清盛塚(神戸市兵庫区切戸町)や雪御所(ゆきのごしょ)町の地名になった雪見御所旧跡などの史跡がある。
清盛塚は清盛橋付近にある十三重の石塔。高さ8.5mで、「弘安9年(1286年)2月」の年号が刻まれている。10mほど離れた現在の場所へ移転された。清盛の墓と伝えられていたが、大正時代の調査では遺骨は発見されなかった。石塔と並んで、清盛像、清盛の甥で琵琶の名手の経正(つねまさ)にちなんだ琵琶塚の碑が立てられている。
雪見御所は清盛の別荘跡といわれている。明治39年、湊山小学校の北約300mのところで瓦や土器が出土した。その後、校庭で礎石が発掘されたが、御所の庭に使用されていたものと考えられている。その礎石の一部で校庭に石碑が立てられた。現在は、正門の石井川寄りすぐの道路沿いにある。しかし福原京は平安京に比べいかにも狭かったといえる。
ところで日本銀行神戸支店では大河ドラマ「平清盛」放映による経済への波及効果を150億円と推定している。篤姫296億円、天地人204億円、龍馬伝234億円(高知)、210億円(長崎)、江162億円(滋賀)と比べと低めに試算しているが、巨額である。神戸の政財界や学者たちの獲らぬタヌキの皮算用が始まった。
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