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2011年12月20日 (火)

吉良邸絵図面取りの功労者は誰か?

    赤穂討ち入り前、吉良屋敷の現況を探るため、浪士たちのさまざまな行動がフィクションで語られている。たとえば神埼与五郎は火事が発生したとき屋根に上り、吉良屋敷を上から偵察したとか、前原伊助が米屋になって邸内を探ったという逸話が伝わる。もっともよく知られる話は、岡野金右衛門が大工の棟梁、平兵衛の娘お艶といい仲になり、とうとう絵図面を借り出すことに成功するというドラマのワン・シーンである。このほか、非常に美男だった磯貝十郎左衛門が吉良邸の女中に近づき、上野介の居間がどこにあるか探ろうとしたという巷説もある。「寺坂信行筆記」や「波賀清太夫覚書」などによると、吉良邸の絵図面は2つのルートから新旧2枚を手に入れたと考えられる。一つは吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である。今一つは吉良邸の前主の旗本・松平登之助家来、太田加兵衛。加兵衛は大石瀬左衛門の伯父である。この新古2枚の絵図面の入手はさほど困難ではなかったようである。したがって、岡野金右衛門の恋の絵図面取りはなかったであろう。

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忠臣蔵」カテゴリの記事

コメント

 下記は何を参照されたのでしょうか。

「吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である」


① 旗本ではない
  本多孫太郎(長員)は旗本ではありません
  結城秀康を祖とする越前松平家の家老です
  この当時で禄高は2万石
  立場的には大名の家来でありながら、大名格
  として得寓されていた家です
  大名の家老で万石以上であっても、幕府から
  江戸屋敷を拝領することはない
  この本多家だけは、例外です

  また、この本多家当主は越前府中在住で、
  江戸の屋敷にはいません


②忠見氏のこと
  この時代は、忠見扶衛門政常
  本多家の次席江戸留守居です
  堀部弥兵衛金丸の実家ではなく弥兵衛の
  後妻、わかの実家です
  赤穂浅野家改易後、堀部一家は鉄砲洲の
  浅野屋敷内の長屋を出て、本多屋敷内の
  忠見宅(一軒家)に1か月ほど仮住まいしました
  堀部弥兵衛は、忠見扶衛門の次男・文五郎
  を養子にして堀部家を継がせるつもりでいまし
  たが、浅野内匠頭がゆるしてくれない
  そこで、中山安兵衛を養子にし、娘のほりと
  結婚させたのです
  弥兵衛・安兵衛切腹後、文五郎は熊本の細川
  家に仕官し、堀部家を継ぎました

 詳細お知りになりたければ、メールください。


  百楽天 拝

百楽天様、ご教示ありがとうございます。本多孫太郎家来の忠見氏の件は「忠臣蔵のすべて 歴史読本臨時増刊1992年冬号」忠臣蔵の基礎知識「絵図面」川口素生、315頁をそのまま孫引きしました。義士関係の仔細な考証は未だ勉強不足です。

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