柔道130年史
嘉納治五郎(1860-1938)がそれまでの柔術という名称を改め、新たに「日本伝講道館柔道」を起こしたのは、明治15年2月、東京下谷区稲荷町の永昌寺内に道場を開いたときからである。
嘉納は明治4年上京し、明治10年、天神真楊流の福田八之助について柔術を学ぶ。福田の病没後、その伝書を継承し、さらに神田お玉が池に道場を開いた同じ流儀の磯正智に従い、また明治14年、起倒流の名人飯久保恒年に師事した。同年東京帝国大学文学部を卒業、学習院に奉職するかたわら、永昌寺に居をかまえ、従来の柔術に科学的改良を加えて講道館柔道を創始する。時に嘉納師範23歳。道場は広さ畳12枚、初年度の入門者は富田常次郎、西郷四郎、山県正雄、白藤丈太郎ら9名であった。講道館は、その後、南神保町へ移った。この道場は別名土蔵道場といわれる。西郷四郎が代稽古に立つのはこのころからである。明治18年ごろ、攻玉社の学生であった広瀬武夫も講道館に通った一人だった。明治海軍に柔道を導入したのは、彼と在校中の教官八代六郎の尽力によるものである。
嘉納治五郎を中心とする講道館柔道の草創期の逸材は、西郷四郎(1869-1922)、富田常次郎(1865-1937)、山下義韶(1865-1935)、横山作次郎(1869-1912)の講道館四天王である。明治18年に山下は揚心流の照島太郎を他流試合で破り、講道館の名声は上がり、山下は警視庁師範となる。小説「姿三四郎」のモデルといわれる西郷四郎は、のちに野望を抱いて中国に渡り各地を転々とするが志を得ず帰国、長崎に住んで「東洋日の出新聞」の経営に加わったが失敗、晩年は尾道で零落した。
嘉納はスポーツ振興のために尽力し、IOC総会で第12回オリンピックの東京招致に成功(戦争のため中止となる)。昭和13年カイロIOC総会に出席し、その帰途太平洋を渡る氷川丸船中で急性肺炎のため死去した。
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