漱石俳句紀行
熊本時代、旧制第五高等学校の英語教師であった夏目漱石は、2度ほど俳句旅行をしている。1度目は山川信次郎とともに明治30年12月27、28日頃から翌年の正月にかけて、熊本から金峰山を越えて有明海沿いの小天温泉(玉名市天水)までの約15kmの「草枕」コース。2度目は明治32年正月、奥太一郎との耶馬溪までの大旅行である。これらの体験が後年の「草枕」や「二百十日」の題材になっていることはよく知られている。
小天温泉旅行は郷士である前田案山子(1828-1938)による道楽半分の温泉宿(前田家別邸)に泊まった。小説「草枕」で小天温泉は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」となっている。前田案山子は本名を覚之助といって、文政11年4月、小天八久保に前田金吾の三男として生まれた。細川藩の槍指南を勤めていた武芸の達人だったが、維新後、農民とともに歩む決意で「案山子(かがし)」と改名した。第1回衆議院議員として自由民権運動に奔走した。「草枕」の「志保田の髯の隠居」のモデルである。
那古井の「那美さん」のモデルは、前田案山子の二女の前田卓(つな、1868-1938)である。卓の最初の結婚は明治20年10月に土地の豪農の息子である植田耕太郎と結婚するが翌年には離婚している。漱石が行ったときは年は31歳だった。漱石は才気煥発の卓に興味を感じたのだろう。小天温泉での旅行中の色々な出来事は、ほとんどすべて、さまざまに変容して「草枕」に採用されている。
前田卓は、父の影響から自由に思想を語り、上京してからは中国革命を支える妹の槌(つち)・宮崎滔天夫妻を助けて活躍し、中国人留学生から慕われていた。明治37年に歩兵中佐・加藤錬太郎と二度目の再婚をするが、翌年に離婚している。昭和13年、71歳で亡くなっている。
耶馬渓旅行は、柳ヶ浦から馬車で宇佐八幡宮まで行き、羅漢寺、耶馬渓を訪れ、帰りは山国町に宿泊し、伏見峠を越えて日田から吉井、山川町、追分と旅したあと、久留米を経由して熊本に戻った。
かんてらや師走の宿に寝つかれず
甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
神かけて祈る恋なし宇佐の春
漸くにまた起きあがる吹雪かな
せぐくまる蒲団の中や夜もすがら
新道は一直線の寒さかな
降り止んで蜜柑まだらに雪の船
参考文献
「大分県俳行脚における漱石の足跡」 小野茂樹 大分県立芸術短期大学研究紀要5 1966年
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