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2011年11月30日 (水)

「史記」伝来考

    レファレンス協同データベースに「史記の日本への伝来時期」に関する質問事例がある。山梨県立図書館の回答には、「確かな記録はなく不明。ただし遅くとも6世紀までには日本に伝来していた」とある。図書館の人が諸書を探しても見当たらないのは、おそらく専門家でも資料に乏しく伝来時期を特定することができないからであろう。

    この6世紀に日本に伝来したとする根拠は、聖徳太子の十七条の憲法に史記の字句が引用されているからとしている。しかしながら「日本書紀」の転載された十七条の憲法が604年制定のものであるかは疑義のあるところである。研究者の間では日本書紀の文章に参考にされたとおもわれる漢籍は「史記」も含めて80種以上あるが、これらの漢籍は、必ずしもその全文テキストが伝来したのではなくも「芸文類聚」などの類書よりの間接的引用であることが指摘されている。あるいは十七条の憲法に字句の豊富な漢籍の使用例などから後世の偽作と考える学者も多い。史記の日本伝来を飛鳥時代か奈良時代かでみるかでおよそ100年以上の差がある。つまり「日本書紀」の成立年である720年以前には「史記」は日本に伝来していたことは確実であるが、6世紀とみるのはいかがなものか。もちろん十分に読めなくとも、大和朝廷の時代に舶載品として伝来していた可能性はあるとする。しかし伝来時期を奈良朝と遅くみて、遣唐使などが持ち帰った史記で「日本書紀」編纂の参考としたと考えるほうが自然ではないだろうか。「続日本紀」(768年)の中で史記の亀策列伝の「神亀は天下の宝なり」が引用されている。

    それともう一つ「遅くとも6世紀までには日本に伝来していた」とする説を疑うのは、そのころは今日のように史記は重要視されていた書物ではなかったからである。とくに漢代においては支配階級に不評判であった。その理由は①史記は司馬遷が中書令としての身分で書いたもので、太史令として書いたのではなく、史家版にすぎなかった。②皇帝を批判する言辞がある。後漢の衛衡の漢書旧儀注には「司馬遷は景帝本紀を作ったが、景帝の短所や武帝の過失について言及しているので武帝は怒ってこれを削除させた」とある。史記が評価されるようになったのは唐代に入ってからである。9世紀平安時代には和訓で史記を読んでいたことは想像に難くない。藤原佐世の「日本国見在書目」(891年頃)には「史書80巻」記載されている。

世界の乾杯の言葉

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    「さあ、酒宴を始めましょう。カンパーイ!」 世界各地でいろんな人が、さまざまな場所で、乾杯の言葉を交わしています。スペインはサルー(Salud)、北欧はスコール(Skal)、ロシアは「Na Zdrowie」、英語は「Bottoms Up」、中国は「Wen Lie」、 フランスは「A Votre Sante」、イタリアは「Alla Tua Salute」、「チンチン(Cin Cin)」というグラスを鳴らす音から生まれた言葉もあるようです。

岡左内と黄金の精

    岡左内という武将は会津国の蒲生氏郷に仕えていたが、のちに蒲生家転封に従い上杉景勝に仕えていた。ところが岡左内の評判ははなはだ芳しくなかった。岡左内といえば、「東北のけちん坊侍か」といって、みんなが鼻わらいした。左内は誰もが知っているしみったれの見本みたいな男だった。「お前さんのご主人は、豊臣の天下で第一番の豪傑といわれたのに、その家来がけちん坊の見本とはひどいものだ」友だちは遠慮なく左内をあざけったが、本人は平気な顔でお金をためることに一所懸命だった。休みの日には小判を畳にいっぱいに並べて、その上で素裸で昼寝をしていた。ところが、関ヶ原の戦いの前哨戦が起こった。このとき左内は「金はこういう時に使うものだ」として主人の上杉景勝に大金をぽんと献上した。日頃、金銭は穢れたものだと言っていた上杉家の家来たちもこれには感嘆せざるをえなかった。

    ある夜のこと、左内が寝ていると枕もとで人が歩くけはいがする。目をさまして、行灯のそばを見ると、見なれない小人の男がニコニコ笑っていた。「お前はだれだ。何んのためにこんなところへやってきたのだ」「はい、わたしはあなたの大好きなものでございます。黄金の精でございます」左内は大喜びした。そして「世の中には、いくら真面目に働いても、貧しくて、冬の寒さにも着る物を食べるもののない者がいます。黄金はなぜ、こうした人たちのところへ、ころがりこんでこないのですか」「お金持ちとか貧乏人とかは、それぞれ人間にそなわった運命みたいなもので、これは、黄金のほうからは、なんともなりません。わたしたち黄金は人のふところからふところへ仕事の割合で流れあるきます。だれが主人ということなく、ただ水がひくい方へと流れるのと同じです」そこで左内は、いささか突飛だとは思ったが、天下の平和について黄金の精にたづねた。「いまは豊臣の時代です。秀吉が天下をとって平和にみえますが、この平和はいつまで続きますか。どうか教えてください」「困まりましたなあ。わたしは冷酷な黄金の精で、天下の未来のことなど、わかるはずもありません。しかし、わたしの立場でいえることは、金が欲しいくせに、これをさげすむような武士の時代は、必ず終わりになるでしょう。そして、お金を大切にする商人や、農民が、いまに頭をもたげて、まじめにはたらく人びとの世界がやってくるにちがいない。まじめに働らく貧乏人の天下がくれば楽しいですなあ」こういって小人は、またしても福の神のようにニコニコしながら姿を消していった。

岡左内の弟が岡重政(1577-1613)。石田三成の五女は岡重政に嫁いでいる。

豊臣秀吉とカラスミ

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    長崎名産カラスミ。ボラの卵巣を塩乾燥したもの。天正16年、豊臣秀吉が肥前の名護屋にいたとき、長崎代官鍋島飛騨守信正がカラスミを献上した。秀吉がその名を尋ねたので、形が唐の墨に似ているので、「唐墨」と答えたことから、その名がついたという。

織田信長とカステラはよく似合う

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  カステラは、元亀2年(1571)長崎に来たポルトガル人によって伝えられた南蛮菓子。スペインの旧名カスティーリャの名からつけられた。これを漢字を宛てて「家主貞良」「加須底羅」「粕底羅」などと書いた。新しいもの好きの織田信長は天正10年に亡くなるまで、おそらくカステラを口にしたことがあると思われるが、文献上の記録が残っているわけではない。

双宿双飛 兼続・お船

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 兼続お船の墓

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 お豊の方の墓

    春日山・林泉寺(山形県米沢市)は、米沢に移った上杉景勝の母仙洞院が1617年に建立した。以来、米沢上杉家の菩提寺として尊崇されてきた。直江兼続・お船の墓や9代藩主上杉鷹山の側室、お豊の墓もある。鷹山には幸姫という正室がいたが、病弱で30歳でなくなり、お豊の方との間に2人の男子がいる。

ゆでカエル国家ニッポン

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  「下流社会」とか「就職氷河期」「フリーター」「派遣」などという言葉の多くは、みな若者に対して使われることが多い。それでいまの若い人は可愛そうだという意見がある。しかし歴史(人類史)をみるといつの時代も若者たちは過酷な運命と向き合うようになっている。帝政ロシア末期のラスコリーニコフフのように。現代はむしろ老人のほうが厳しい生活を強いられていると感ずる。財政事情が悪化すれば、消費税は上げられ、年金も減額される。政治家というのは70歳でも80歳でも庶民の生活はわからない。「楽隠居」「好々爺」という言葉は死語になっている。白髪で背中はまがっても働いている人は多い。多く老人は深刻な顔して不安そうである。信頼していた銀行がある日、経営破綻するということも現実的な話である。危機意識をしっかり持てと社会全体が警鐘しているようだ。ただ一面に、このような恐怖を煽られている社会において現実と意識の問題を区別して考えることも必要であろう。銀行が破綻したことは現実の問題であるが、国家が破綻するかどうかはたぶん意識の問題で隠居老人にはあまり責任のないことであろう。カエルを熱湯に入れると飛び出して助かるが、ぬるま湯につかっていると死んでしまうという。これを「ゆでカエルの理論」という。管理が足りないと煽られているだけで、単なる意識の問題である。人は恐怖や不安の中よりも希望の中でもっと豊かに成長できるものである。情報過剰が人を不幸にすることもあるようだ。

石田三成の末裔

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 高知九反田の地蔵尊は三成の娘を祀る

  戦国時代は合戦に敗れた一族には悲惨な運命がまっている。 関ヶ原の戦いで処刑された石田三成の子供たちはどうなったのであろうか。一説によると2男5女いたらしい。秀吉の正室・高台院の養女だった3女辰姫(1592-1623)が当時8歳だった。高知の九反田には土佐に逃れて病死した幼い三成の娘の地蔵尊がある。辰姫は津軽藩主に嫁ぎ、3代目信義を産んでいる。4女は山田氏室、5女は岡重政室。石田三成の子孫は生き残っている。とくに津軽信義(1619-1655)には25男、26女の多くの子がいたというから、石田三成の子孫はいまも健在であろう。

柴野栗山と山陰海岸ジオパーク

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   山陰海岸ジオパークをご存知だろうか。兵庫県北部、山陰海岸の東西約110kmの美しい地質遺産の自然公園を称して「山陰海岸ジオパーク」というらしい。新温泉町にある山陰ジオパーク館がその拠点となっている。もともとこの施設は1994年の「但馬理想の都の祭典」の時に建設されたもので長い間、廃屋となっていのをリニューアルしたもの。山陰はこれまでも何度か地域興で失敗した歴史がある。交通アクセスが悪いからだろう。ジオパークの発見者は江戸時代の儒学者、柴野栗山(1736-1897)。文化4年に城崎温泉に湯治で立ち寄ったとき玄武洞を発見したのがその始まりである。

高官たちの人権意識

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    防衛相がブータン国王宮中晩餐会を欠席したことでブータン軽視を責められたが、今度は防衛局長の田中聡が普天間移設問題で「犯す前に犯しますよと言いますか」と人権意識の欠けた発言。明らかに沖縄と女性への差別だ。野田政権は「放射能つけちゃうぞ」「死の町」発言で就任からわずか9日目で鉢呂吉雄が辞任したのも記憶に新しい。過去も政治家・官僚の失言は枚挙に暇ない。順不同で。「女性は子供を産む機械」(柳沢伯夫)「知恵を出さないやつは助けない」(松本龍)「日本人は内向きな単一民族」(中山成彬)「原爆投下もしょうがなかった」(久間章生)「レイプするのは元気があってよろしい」(太田誠一)「日本は神の国」(森喜朗)「いじめられる人間も悪い」「津波は天罰」(石原慎太郎)

自然と調和しないものは醜い

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    ジョン・ラスキンはイギリスが機械文明化されて、自然の風景が破壊されて行くのをみて、「もしこのような状態がイギリスの将来であるならば、意匠も美術の発達もないだろう」といっている。これは産業革命に対する憎悪の言葉で、あくまで自然の美のうちに芸術の美を見出そうとした。「近代画家論」の中で、真の美術は自然を写すことである、と主張している。ラスキンの思想を受け継いだウィリアム・モリスも、「人間の手で作られた物は、とにかく或る形を必ず持っているものであって、もしその形が自然と調和して自然を助ける場合は、それは美しいものであるし、もし自然と調和しないで自然を妨げるものであれば、それは醜いものである」と言っている。彼等はあくなき人間の欲望を反省し、人間らしい生活を自然の中に確立することを考えたのである。

2011年11月29日 (火)

清水次郎長の生い立ち

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  清水次郎長こと山本長五郎(1820-1893)は文政3年1月1日、清水港の美濃輪に居住していた船持船頭高木三寿郎の子として生まれたということになっているが、清水市役所の戸籍簿には、文政3年12月10日出生とあり、いずれが真実かわからない。が,元旦生まれの子は賢才でなければ極悪人になると,親戚が迷信をかついで、他家へやったほうがよいということになり、三寿郎の妻とよの実弟で、「甲田屋」という米穀商を営んでいた山本次郎八へ養子にやられたというから、元旦生まれが正しいのかもしれない。もっとも,長五郎は4人兄弟の末っ子で次男だったから、もともと高木家には不要の子であったとも考えられ、元旦生まれ云々の説は、後からの作り話のようである。次郎八のところの長五郎というので、おいおい、次郎長の通称でよばれるようになったのである。  (青山光二「任侠の群像 日本の歴史10」暁教育図書株式会社 1975)

源平交代思想

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清和源氏の発祥地「多田神社」(兵庫県川西市)

    NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」が終わって、来年は「平清盛」。これは源平交代思想である。つまり平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→執権北条氏得宗家(平氏)→足利尊氏(源氏)→織田信長(平氏)→明智光秀(源氏)→豊臣秀吉(平氏)→徳川家康(源氏)

    織田信長の時代には源平交代思想が信じられていたらしい。信長は、突然それまでの藤原姓を捨て、平姓に転じた。つまり、織田氏の祖を平重盛の二男資盛の遺児親実(ちかざね)としている。この織田氏平資盛落胤説は「織田系図」や「織田家譜」などにみられる。信長を殺した明智光秀の明智氏は土岐氏の一族で、源氏の流れをくむ。これを討伐した豊臣秀吉は一時、平氏をとなえた。そして豊臣家は清和源氏を遠祖と称する徳川家(清和源氏の新田氏の支流得川氏)に滅ぼされた。

紫式部の墓

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    最近は歴史上の人物の墓を巡って、故人の足跡に思いをはせる「墓マイラー」が急増して、紫式部の墓も京都の新名所の一つとなっている。紫式部の墓は、京都市北区紫野西御所田町の島津製作所の附近にある。右に小野篁、左に紫式部の墓がある。式部の墓がこの地にあるということを最初に書いたのは、室町時代の四辻善成の「河海抄」である。この辺りは、むかし蓮台野と呼ばれる墓地だった。式部の生没年には諸説あるが、およそ1000年前に亡くなったものと考えられる。かつては小野篁と並んでいたが、1989年に墓所が整備されたようである。

ルソーの子棄て

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 ルソーとテレーズ

    来年はジャン・ジャック・ルソーの生誕300年にあたり、ジュネーブでは大規模な祭典が企画されている。1745年、ルソーは下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子どもに恵まれた。しかし養育を放棄して、5人とも全員孤児院に送ったことはよく知られている。当時は、乳母の時代であり、テレーズは乳がでずに産婆との合意であったのかもしれない。しかしルソーも後悔しているらしく、このことが「エミール」を執筆させた動機だといわれる。

バルナーヴ、処刑される

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    1793年11月29日、フランス革命下、アントワーヌ・バルナーヴ(1761-1793)が処刑される。バルナーヴは前年9月からグルノーブル監獄に入れられていた。彼は助命嘆願もせずに、容易に逃亡できたのに、それを拒否し、獄中で名著「フランス革命序論」を書いて、従容と死んだ。12月にはナポレオンがイギリス軍を撃退し、トゥーロン奪還に成功している。

太宰治と田辺あつみ

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    昭和5年11月29日、青森県金木町の県会議員の津島文治の弟である帝大文科第1学年学生津島修治(22歳)は、銀座のバー・ホリウッドの女給の田辺あつみ(本名は田部シメ子、19歳)と鎌倉の海岸でカルモチンによる心中自殺を図り、女を死に至らしめるという事件を起こした。

    相手の女性、田辺あつみ(田部シメ子)は、当時内縁の夫である高面順三が失業中だったので、知人の紹介で銀座のカフェー・ホリウッドへ働きに出てまもなくのことであった。当時、太宰と一緒に飲み歩くことの多かった小館保や中村貞次郎ら友人の話では、太宰が銀座へ繰り出して飲み始めたのは心中の1週間ぐらい前だというから、分家除籍になった直後のころだということになる。それから心中を図った11月28日までの数日間に、19歳の美貌の人妻と太宰との間にどのような交流があったのか詳らかでないが、シメ子の側にも演劇志望の夫と広島から状況して来たものの、失業状態が続いて精神的にも経済的にもかなり落ち込んでいた事情があり、そんな時、長兄に義絶勘当を申し渡されて自暴自棄になっていた太宰と意気投合し、太宰の誘いに乗って死出の旅路を約束したものと思われる。

   11月27日の午後、太宰は浅草に中村貞次郎を呼び出してシメ子を引き合わせている。その夜シメ子と太宰は帝国ホテルに一泊し、翌28日午後鎌倉に向かい、同日夜半に小動崎(こゆるぎざき)の海岸で二人ともカルモチンによる心中自殺を図った。翌朝土地の漁師に発見された時、シメ子はすでに絶命していたが、太宰は七里ヶ浜恵風園療養所に収容されて一命を取りとめた。

    鎌倉署では自殺幇助の疑いがあるとみて太宰の取り調べを始めたが、「胸の病気を苦にして将来を悲観」した太宰が女を道連れにして心中を図ったとして起訴猶予となった。小山初代は結婚を目前にして、夢の出端をくじかれたので、太宰を罵って喚き散らしたという。

   太宰治は後年、代表作「人間失格」(昭和23年)を書くが、この昭和5年の自殺未遂事件の翌年に「人間廃業」(昭和6年公開)というドイツ映画が日本でも公開されている。太宰がこの映画を観たかどうかはわからないが、タイトルに何か触発されたものがあるのかもしれない。

(参考:『太宰治事典』学燈社)

2011年11月28日 (月)

コロンビアの宝石カタリーナ・サンディノ・モレノ

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   かつて映画史を飾る美女といえばグレタ・ガルボやバーグマンのスウェーデン、ヴィヴイアン・リーやエリザベス・テーラーのイギリス、ソフィア・ローレンのイタリア、カトリーヌ・ドヌーブのフランスだった。21世紀の美女はコロンビアの出身、カタリーナ・サンディノ・モレノ。「そして、ひと粒のひかり」(2004年)でデビューしたボゴタ生れの美少女は世界の映画賞を獲得し、その美しさが世の男性の注目を浴びることとなった。ボゴタの人口は784万人という。人口が増えれば美女も生れるらしい。

頑固一徹

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    自分の考えや態度を少しも曲げようとしないで押し通すさまを「頑固一徹」という。この一徹とは戦国武将、稲葉一鉄(1515-1588)のことといわれる。

    一鉄は織田信長の家臣として姉川の合戦では奮戦した。功のあった一鉄に恩賞を与えるときに、「最も活躍したのは徳川家康だ」と突っぱねたという。稲葉氏は豊後臼杵藩主として明治まで続いた。

古代中国の座位(座席の順序)

    日本座敷の床の間はもともと上座から発展したものである。床の間は南面(北床)または東面(西床)するのがよいとされる。この礼法は「天子は南面する」という古代中国の思想からきている。中国の建物には堂と室があり、これにより異なる。

    堂は南面して建てられているので、普通、北に家長が座り、客人は南に座る。

     室とは部屋のことで、通常は東に門があり、西が上座になる。有名な鴻門の会では、項羽と項伯が東向き(西)に座した。つまり室での座位の順序は、西、北、南、東の順となる。

吉原英夫「古代中国の座位」 漢文教室148   1984年

大阪、ロンドンは衰退しているのか

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    大阪ダブル選挙は維新の会の圧勝に終わった。大阪都構想というイメージが有権者をひきつけたのだろうか。街頭演説で橋下は「大阪をニューヨーク、上海、ロンドンに勝てる都市にします」と豪語していた。欧米においても人口減少や衰退が見られるので、パリやローマの名はない。ロンドンと大阪は互角かもしれない。大阪も第一次世界大戦後は景気がよかった。ロンドンは19世紀に人口が爆発的に増加し、北京を抜いて世界最大の都市となった。20世紀初頭には人口が440万人を超えた。戦後、イギリス経済は衰退し、ロンドンも失業者が増加し、犯罪も多くなった。グレーターロンドン(面積1579k㎡)の人口は750万人を超えている。大阪府(面積1898k㎡)の人口は886万人。

アフリカと日本

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   アフリカには現在54ヵ国の独立国があるが、そのうち日本(37.8万k㎡)の面積より広い国が30ヵ国ある。同じ島国であるマダガスカル共和国と面積を比較すれば、マダガスカルは日本の1.6倍の広さをもつ。アフリカ最大のヴィクトリア湖は九州と四国とを合わせてもまだ大きい。地図帳で認識する以上にアフリカは大きい。アフリカの大陸と島嶼部をあわせた面積は3036万k㎡。これは日本の80倍の大きさである。

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

2011年11月27日 (日)

「できちゃった結婚」の元祖シェイクスピア

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 シェイクスピアの生家      アン・ハサウェイの生家

  1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは8歳年上のアン・ハサウェイと結婚した。翌年の5月には長女のスザンナちゃんが誕生しているので、いわゆる「できちゃった結婚」(英語でいうと shotgun marriage)だった。シェイクスピアの生家があるウォリックシャー州のストラットフォード・アポン・エイボンは年間50万人の観光客が訪れる観光地である。

本に関する格言・名言

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有益な書物とは、読者に補足を要求せずにはおかれぬような書物のことである。(ボルテール)

三日、書を読まざれば、語言味わいなし。(世説新語)

単に知るのみならず、その知識に従って行動せよ。(フィヒテ)

どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。(ハイネ)

人生の至楽は読書にあり。(永井荷風)

書物はひもとかなければ、一片の木片にすぎない。(イギリスのことわざ)

A closed mind is like a closed book,just a block of wood.

すべて良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものである。(デカルト)

書を読みて栄える者を見たり、書を読みて落ちぶれる者を見ず。(金言童子教)

機知に富みうちとけた言葉は永久に生命を持つ。(ゲーテ)

身体には鍛錬、心には読書。(アディソン)

この世のあらゆる書物もお前に幸福をもたらしはしない。だが書物はひそかにお前自身の中にお前を立ち帰らせる。(ヘッセ)

書物なき部屋は魂なき肉体のごとし。(キケロ)

私の実際的な読書の法則は三つある。
1.一年を経過していない本はどれも読まないこと
2.有名な本のほかは読まないこと
3.好きな本のほかは読まないこと(エマーソン)

私は人生を知ったのは人と接したからではなく、本と接したからである。(アナトール・フランス)

人生は短い。この書物を読めばあの書物は読めないのである。(ラスキン)

人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである。(スマイルズ)

万巻の書を読み万里の路を行けば自ずと胸中に自然が映し出されるようになる。(董其昌)

読書とは、著者の魂との邂逅である。(亀井勝一郎)

インドの全財宝をあげても、読書の楽しみには換え難い。(エドワード・ギボン)

書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。(フラア)

読書のほんとうの喜びは、なんどもそれを読み返すことにある。(ロレンス)

書物は一冊一冊が一つの世界である。(ワーズワース)

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   書物に関する図書目録

倭板書籍考 幸島宗意撰 1702
官板書籍解題略 杉山精一訳 1847
日本書籍考 林羅山撰 1850
文芸類纂 榊原芳郎 1878
古梓一覧 西村兼文 1882
本朝書籍刊考 黒川真頼 1895
日本訪書誌 楊守敬 1897
国書解題 佐村八郎 1897
日本印書考 中根粛治 1899
明治出版史話 三木佐助 1901
古文旧書考 島田翰 1905
漢籍解題 桂五十郎 1905
近藤正斎全集 近藤守重 1907
日本古刻書史 朝倉亀三 1907
徳川幕府時代書籍考 牧野善兵衛 1912
朝鮮図書解題 朝鮮総督府 1914
江戸物語 和田維四郎 1915
慶長以来書賈集覧 井上和雄編 1916
嵯峨本考 和田維四郎 1916
訪書余禄 和田維四郎 1918
製本術 島屋政一 1918
図書学概論 田中敬 冨山房 1924
典籍叢談 新村出 岡書院 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 懐徳堂 1925
書庫之起原 植松安 間宮書店 1927
京阪書籍商史 蒔田稲城 1928
書物装釘の歴史と実際 庄司浅水 1929
思想名著解題 春秋社 1929
本邦書誌学概要 植松安 図書館研究会 1929
書物の敵 庄司浅水  1930
書誌学とは何か 寿岳文章 ぐろりあそさえて 1930
装釘の常識 三村清三郎 岡書院 1930
日本訪書志補 王重民 1930
修訂建武年中行事註解 和田英松 明治書院 1930
製本術 ブレガー著 赤坂・庄司訳 ブックドム 1931
日本蔵書印考 小野則秋 文友堂 1931
書誌学 小見山寿海 芸艸会 1931
宋元版の話 内藤虎次郎 名古屋市立図書館 1931
正徹本徒然草 川瀬一馬 文学社 1931
善本影譜 長沢・川瀬編 日本書誌学会 1931~35
好書雑載 高木文 井上書店 1932
西洋書誌学要略 橘井清五郎 図書館事業研究会 1932
粘葉考 田中敬 巌松堂 1932
成簣堂善本書目 川瀬・長沢 民友社 1932
簣堂善本書影七十種 川瀬・長沢 民友社 1932
舊刊影譜 川瀬・長沢 日本書誌学会 1932
嵯峨本図考 川瀬・長沢 一誠堂  1932

論文
写本時代と板本時代とに於ける支那書籍の存亡習合聚散 市村瓚次郎 史学雑誌第13編1・3号 1902
唐以前の図書 那波利貞 歴史と地理2-2  1918
書帙の歴史 那波利貞 歴史と地理19-3・4・5 1927
支那書籍小史 1・2・3 長沢規矩也 書誌学1-4・5・6 1933
中国の文教政策 内田幸一 日本及び日本人 1954
記録の文化史 小倉親雄 図説世界文化史体系別巻 1961
図書・図書館の歴史(断章) 中村初雄 早稲田大学図書館紀要4  1963
唐本の値段 餘自録 大庭脩 東洋史研究24-4  1966
洛図洛書の一考察 原田正己 早大・東洋文学研究6  1967
中国における著作意識の発達 石田公道 図書館界21-5~23・
4 1970~71
古代中国図書史 木村靖 文化史学26  1971
清代の官書局の設置について 大西寛 長沢先生古稀記念図書学論集 1973
書禁と禁書 宮崎市定 アジア史研究2所収 1974
中国本ものがたり1~8 劉国鈞著 松見弘道訳 東海地区大学図書館協議会誌22  1977~78
中国における図書分類法 井坂清信 参考書誌研究17  1979
秘閣図書の源流について 神田喜一郎 「芸林談叢」所収 1981
洛陽の紙価 小池秋羊 東西交渉1 1982
中国に於ける刻書事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要7 1982
禁書に関する二三の資料 長崎聖堂文書研究1 大庭脩 史泉40 1970


シスレー「牧草地」

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 シスレー「牧草地」  1875年

    アルフレッド・シスレーは他の印象派の画家たちのような強烈な個性はないが、温和で穏やかな田園風景には日本人好みの詩情が感じられる。「牧草地」はワシントン・ナショナル・ギャラリーの創設者アンドリュー・メロンの長女エルサ・メロン・ブルース(1901-1969)のコレクションの一点。ルーヴエシエンヌ近くの田園風景を描いたものだろう。前景の野原には野生の草が生い茂り、可憐な花が咲いている。麦わら帽子をかぶったふたりの人物は草むらに隠れてよく見えない。柵と樹木でさえぎられた先にある小高い丘には田んぼがあり、そこにも働く農民たちが小さく描かれている。同じ田園を描いてもモネとルノワールの作品には都会的な感じを与えるが、シスレーの作品の人物たちは農村的で田園の趣がより濃厚である。また空を占める部分が半分以上あり、のどかな情趣をかもしだしている。

漱石・陶潜・王維の東洋的境地

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    漱石は『草枕』の中で、東洋詩人の代表的な境地として、陶潜の「飲酒」と王維の「竹里館」をあげている。

    「飲酒」は全体は20首の連作であるが、漱石は、とくに五首目の詩の第五句と第六句をとりあげて「ただそれだけのうちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向こうに隣がのぞいているわけでもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」と言っている。

 菊を 東籬の下で采り

 悠然として 南山を見る

陶潜(365~427)。字は淵明(えんめい)。一説に名が淵明、字は元亮(げんりょう)。29歳のときから官職についたが、なかなか昇進できず、社会情勢も不安定な中、しだいに役人生活に希望を失い、41歳のとき辞職して郷里に帰った。以後は郷里の村人たちと交遊し、酒と菊を愛する隠逸詩人として活躍した。『陶靖節集』4巻がある。その詩は貴族社会では高い評価を受けなかったが、唐代になって真価が見直された。

                          *

   漱石は、王維の「竹里館」について「只二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寝込む様な功徳である」と言っている。

 独り坐す 幽篁の裏

 琴を弾じて 復た長嘯す

 深林 人知らず

 明月来たって 相照らす

    結びに漱石は、「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。」と言っている。

王維(699?~761)。字は摩詰(まきつ)。21歳の若さで進士に及第、以後順調な役人生活を送る一方、自然を愛し、しばしば別荘に赴いて友人たちと閑敵の時を過ごした。また仏教を深く信仰し、その影響は彼の詩の随所に表れている。李白の「詩仙」、杜甫の「詩聖」と並んで「詩仏」と称せられる。『王右丞集』6巻がある。

    cataloging

陶淵明集 岩波文庫 幸田露伴校閲 漆山又四郎訳註 岩波書店 1928陶淵明・王右丞集 続国訳漢文大成 文学部24 釈清潭 国民文庫刊行会 1937
陶淵明 上村忠治 ブックドム社 1933
陶淵明の詩 ラジオ新書 佐久節 日本放送出版協会 1942
陶淵明 村上嘉実 冨山房 1943
陶淵明詳解 鈴木虎雄 弘文堂 1948
陶淵明伝 新潮叢書 吉川幸次郎 新潮社 1956
陶淵明 中国詩人選集4 一海知義注 岩波書店 1958
陶淵明 筑摩叢書 李長之著 松枝茂夫・和田武司訳 筑摩書房 1966
陶淵明 中国詩人選8 星川清孝 集英社 1967
陶淵明 文心雕龍 世界古典文学全集25  一海知義、興膳宏 筑摩書房 1968
陶淵明 中国詩人選1 星河清孝 集英社 1972
陶淵明詩集 カラー版中国の詩集2 富士正晴 角川書店 1972 
陶淵明 中国詩文選11  都留春雄 筑摩書房 1974
陶淵明詩文綜合索引 堀江忠通編 京都・彙文堂書店 1976
陶淵明伝 牟田哲二 勁草出版サービスセンター 1977 
陶淵明 中国の詩人2 松枝茂夫、和田武司 集英社 1983
陶淵明ノート 帰去来の思想 高橋徹 周文社 1981
陶淵明・寒山 新修中国詩人選集1 一海知海、入矢義高 岩波書店 1984
陶淵明 中国古典入門叢書1 廖仲安著 山田侑平訳 日中出版 1984
陶淵明の詩の研究 井出大 嶋屋書店 1984
陶淵明伝 中国におけるその人間像の形成過程 廖仲安著 上田武訳注 汲古書院 1987
陶淵明 鑑賞中国の古典13  都留春雄、釜谷武志 角川書店 1988
陶淵明伝 中公文庫 吉川幸次郎 中央公論社 1989
陶淵明全集 上下 岩波文庫 松枝茂夫・和田武司訳注 岩波書店 1990
陶淵明詩解 東洋文庫529 鈴木虎雄 小川環樹解題 平凡社 1991
陶淵明 中勘助全集10  中勘助 角川書店

第1回十字軍

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  西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀にひろまった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝は、ローマ教皇に救いを求めてきた。ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月27日、クレルモン教会会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2011年11月26日 (土)

秦始皇帝と万里の長城

秦始皇帝の統一事業

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 陝西省咸陽市秦咸陽宮1号宮殿遺蹟出土

郡県制度 全国を36郡に分け、それぞれの郡に長官として守、副長官として丞、軍の指揮官として尉、監察官として監(御史)などの官吏が中央から派遣される。この36郡は、その後さらに新領土が加わったことや、大郡を分けることによって増加し、48郡にされたといわれる。

思想統一 法家李斯の献策で、焚書坑儒を断行。

貨幣の統一 半両銭に統一。1個の重さは半両(1両は24銖、半両は12銖、約8g) 中央に四角の穴のある銅銭は基本形となった。

文字の統一 篆書

度量衡の統一 秦量と秦権

対外政策 北方に将軍蒙恬を派遣し、匈奴を討伐。さらに旧六国の長城を補修して、東は遼東から西は臨洮までの万里の長城を築いた。南方では越を攻め、安南を平定し、桂林・象・南海の3郡を設置。

optin なぜ正月は1月か?

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    一年の最初の月を正月というのは、当たり前と思われるでしょうが、国土の広い中国では始皇帝の統一以前、各地でそれぞれの暦が存在していました。また時代によっても異なります。だいたい古代中国の暦は、夏暦、殷暦、周暦を三正といって、それぞれ歳首(としはじめ)、朔日(つきのはじめ)など違います。秦と楚とは3カ月ズレています。最初、秦は南部の楚を統治するにあたって旧習俗を許容する柔軟な姿勢で臨んでいましたが、やがて始皇帝の全国統一で当然「暦の取り込み」が行われました。中国では歳首は「夏正」のごとく、立春をとっていますが、「秦正」は10月が歳首です。漢代になって、前103年以後はおおむね夏正が用いられました。唐の則天武后のとき「周正」を用いて冬至が1年のはじまりとなった例外もあります。

参考文献

万里の長城 上・下 中野江漢 支那風物研究会 1923
万里の長城 大世界史3 植村清二 文芸春秋 1967
万里の長城 世界史研究双書13  青木富太郎 近藤出版社 1972
万里の長城 攻防戦史 渡辺龍策 秀英書房 1978
万里の長城 中国小史 中公文庫 植村清二 中央公論社 1979
万里の長城 ジャック・ジュネ、ディック・ウィルソン J.P.ドレージュ、ユベール・ドラエほか 田島淳訳 河出書房新社 1984
萬里の長城 サンデー毎日別冊写真集 幻の西端を求めて 矢口篤雄 毎日新聞社 1991
万里長城の歌 日本の詩歌2 土井晩翠 中央公論社

アフリカ最大の湖は?

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   ウガンダ、ケニア、タンザニアの3ヶ国に囲まれたヴィクトリア湖である。琵琶湖の102倍の広さがある。1875年にヴィクトリア湖がナイルの水源であることが確認された。

    湖の中にはセセ諸島やウケレウェ島をはじめ約3000の島々がある。最大の島ウケレウェ島(面積530k㎡)には人口15万人が住んでいる。

うちのパパは世界一

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   テータム・オニールのパパは「ある愛の詩」のライアン・オニール。やはり世界一有名な父と娘。俳優の子の場合、男子よりも女子のほうが、はやく売れっ子になる確率が高い。テータム・オニールの場合、その典型であろう。歌手ナンシー・シナトラはフランク・シナトラの娘。ジェーン・フォンダはヘンリ・フォンダの娘。ロミナ・パワーはタイロン・パワーの娘。アンジェリーナ・ジョリーはジョン・ヴォイトの娘。ジェーミー・リー・カーティスはトニー・カーティスの娘。ジェニファー・ジェースン・リーはヴィック・モローの娘。ジョーン・キューザックは監督リチャード・キューザックの娘。アマンダ・プラマーはクリストファー・プラマーの娘。アンジェリカ・ヒューストンは監督ジョン・ヒューストンの娘。マリア・シュナイダーはフランスの二枚目ダニエル・ジュランの娘。カトリーヌ・スパークは脚本家シャルル・スパークの娘。イザベラ・ロッセリーニは監督ロベルト・ロッニリーニの娘。ジェラルディン・チャップリンはチャーリー・チャップリンの娘。シャルロット・ゲンズブールはセルジュ・ゲンズブールの娘。スーザン・ストラスバーグは演出家リー・ストラスバーグ。ライザ・ミネリは監督ヴィンセント・ミネリの娘。リブ・タイラーはロックバンド、エアロスミスのスティーブン・タイラーの娘。ロマーヌ・ボーランジェはリシャール・ボーランジェの娘。

パパは有名人

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    京都の光縁寺に沖田総司の内縁の妻・石井秩の墓がある。沖田総司との間に「キョウ」という名の女児がいたというがその後の消息は一切わからない。歴史上の人物でも「○○の娘」とあるが、その生涯がわからないことが多い。聖徳太子にも片岡女王、馬屋古女王など6人の娘の名前が史書にのこされているが真偽のほどはわからない。紀貫之の娘は鶯宿梅の故事で知られるし、在原業平の娘は在原美子という名が残されている。北条政子は北条時政の娘。千利休には吟(ぎん)、三(さん)など6人の娘がいたらしい。春日局は斎藤利三の娘。西郷隆盛の娘、西郷菊子(1862-1909)は大山誠之助(大山巌の弟)に嫁いでいる。伊藤生子(1863-1934)は伊藤博文の次女。山縣松子は山縣有朋の次女。松平千代子(1846-1927)は井伊直弼の次女。陸奥冬子(11871-1893)は陸奥宗光の娘。幸田文は幸田露伴の次女。円地文子は言語学者上田萬年の次女。東條満喜枝は東條英機の次女。日本では男女平等とはいえ、男系を女系よりも優位としているようで、女性の生涯を調べることはなかなか難しい。

2011年11月25日 (金)

メリメと鴎外

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    「カルメン」「コロンバ」等で知られるフランスの作家プロスペル・メリメと森鴎外とは共通するところが多い。共に高級官吏にして、外国語に長じて翻訳の業績も多く、小説・戯曲を書いて、後年史伝を書くに至った。メリメをわが国に初めて紹介したのは鴎外である。明治22年の「柵草紙」2号掲載の「今の諸家の小説論を読みて」において「仏にはメリメの小著の如きものあり」としている。

潜水器の歴史

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    海中の中を潜りっぱなしで歩行できるマシンという潜水艦の原型とでもいうべき潜水器の構想は古くからあった。へクレニエルという男は「潜水ベル」と名付けた。アイデアが浮かんだとき、寺院のベルが鳴ったことにちなむ。アレキサンダー大王の潜水伝説もある。前332年にフェニキアの古代都市ティルスを攻撃したとき、大王は船から降ろされて、球状のガラス瓶に入って海中の様子を見たのが潜水器の始まりであるとされている。

一人殺せば悪党だが、数百万人殺せば英雄

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    映画「チャップリンの殺人狂時代」でアンリが処刑まぎわに言う。「一人殺せば悪党だが、数百万人殺せば英雄だ」と。一般に語源は英国国教会牧師ベイルビー・ポーテューズ(1731-1809)とされるが、もともとはアレクサンドロス大王の故事。大王が海賊に「海を荒らすのはどういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えた。これはアウグスティヌスの「神の国」に載っている話なので、おそらくベイルビー牧師はアウグスティヌスの書物から引用したのであろう。

ヨーロッパ最大の湖はどこ?

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   ヨーロッパ最大の湖はラドガ湖。面積は18,315k㎡で世界第14位。ロシア北西部サンクトペテルブルク付近の氷河湖。湖の中には約660ほどの島があるが、最大の面積であるヴァラーム島(面積36k㎡)には修道院がある。

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ケルチ海峡

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   ケルチ海峡と聞いて、白地図で位置を指せるかたは世界地理に詳しい人だろう。ウクライナのアゾフ海と黒海をつなぐケルチ海峡は重要地点である。港町ケルチの歴史は、ギリシア人、スキタイ人、サルマティア人、フン人、ハザール人、スラブ人、モンゴル人、トルコ人、ロシア人と主役が入れ替わり、まさに世界史の縮図である。第二次世界大戦では独ソ戦の激戦地で多くの人がここで亡くなった。

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三島由紀夫UFOを発見せず

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    昭和45年11月25日、三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込み、自衛隊の決起を促したが果たせず、割腹自殺した。現代社会において流行作家というのは富と名声を得た代表的存在といえる。知的な存在において人気俳優や大物政治家も及ばない影響力を持つ。太宰治や三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹の例をみれば明らかであろう。経済的な困窮生活であった太宰の時代はともかく、昭和30年代になると職業作家の生活は庶民の羨望の的となる。石坂洋次郎のように軽井沢に別荘を持ち、趣味はゴルフというのがオーソドックスなスタイルであろう。そういった点をみても三島は他の作家とは変わっていた。なぜか別荘やゴルフは嫌いなようだ。自家用車も嫌いなのようで、あまり車と一緒になった三島の写真をみたことがない。かわりにボディビル、ボクシング、剣道というのはよく知られているところであるが、変わった趣味として天体観測がある。自宅の屋上に観測所を作り、毎晩のように星空を見ていた。天文に興味があるのではなく、宇宙人の存在を信じていたらしく、真の目的はUFOの発見にあった。「日本空飛ぶ円盤研究会」という怪しげな団体に入っている。三島の会員番号は12番だ。本当にUFOの存在を信じていた。だがついに三島はUFOを見ることはなかった。

2011年11月24日 (木)

三等の時代

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  源氏鶏太の小説に「三等重役」というのがあった。当世は三等社長の時代だろうか。大王製紙の井川意高の背任横領はあまりに呆れた事件である役員はみな「井川家は神のような存在」という。創業者井川伊勢吉は小柄な男でつねにボロ服を着てリヤカーを引いて古紙を集めていた。遠くに行くときは旅館に泊まらず、かならず車の中で寝泊りしていた。長男高雄の長男が意高。直系のプリンスが博打で身を滅ぼすか。「三代目は身代つぶす」よくある話だ。会社を築いた創業者が社長で一等、名門に生れて帝王学を学んで社長になった2代目が二等、そしてマカオのカジノに約90億円を投ずるのが3代目。経営者に限らず、政治家、医師、作家、俳優、野球オーナー、総て三等の時代である。

大正デモクラシーとキリスト教

    宮城県における大正デモクラシーの三羽烏といえば、吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作之助(1877-1947)、小山東助(1879-1919)である。三人は同じ仙台第二高等学校の卒業である。明治20年に第二高等学校が創設されたが、明治中期ころ、仙台では英語の学習のためキリスト教も学生たちの間で関心が高かった。

    明治30年、栗原基(1876-1967)は尚絅女学校の校長をしていたアンネ・サイレーナ・ブゼル(1866-1936)が土曜日の夜間に開いていた聖書研究会に同級の内ヶ崎を誘った。その後、吉野作造、小山東助、島地雷夢(1879-1914)、小西重直(1875-1948)、深田康算(1878-1928)、斉藤信策らもこれに参加した。鳥地は明治31年6月25日、広瀬川で徹夜の祈りを捧げ、神の御手に触れた体験を与えられた。翌日曜日、吉野、内ヶ崎らと共に特別祈祷会を持ち受洗を誓い、7月3日に中島力三郎から浸礼を領した。

    アンネ・S・ブゼルはアメリカのネブラスカ州ジュニアタに生まれ、父も熱心な開拓伝道牧師だった。少女時代から日本への伝道の志をもっていたという。明治25年11月25日、26歳で宣教師として来日、仙台に赴任した。キリスト教の伝道と女子教育に生涯をかけた。大正4年、校長を辞してからも盛岡、八戸、遠野、塩釜、利府および登米などに宣教し、教会・幼稚園などを設立した。

   後年、栗原基は「ブゼル先生伝」を著わしている。(昭和15年)参考までに栗原基の他の訳書も記しておく。「バーバンクと植物品種の創造」(昭和17年)、「近代基督教思想史」マッギファート著(昭和5年)、「イエスの人格」フォスヂック著(昭和28年)、「ナザレ人イエス」H.E.フォスヂック著(昭和29年)、「宝瓶宮福音書」リバイ・ドーリング著(昭和45年)「信仰の意義」などキリスト教関係が多い。しかしながら栗原基の専門は英語学である。とくに明治43年の「英語発達史」(博文館)は英語史のまとまったものとして日本では最初のものであろう。明治40年に藤沢周次と共編で「英国文学史」を出版している。92歳の生涯をかけて栗原基はブゼル女史から学んだ信仰と英語を日本に伝えたのである。

早良親王の怨霊

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    奈良市西紀寺町に崇道天皇社がある。崇道天皇とは光仁天皇の皇子、早良親王の追号である。早良親王は反桓武天皇の中心勢力で、藤原種継暗殺事件に関係ありとされ、淡路に配流される途中で自害した。その後、都に悪疫が流行したり、桓武天皇の夫人藤原旅子が死去し、桓武天皇の母、皇后も相次いで亡くなった。陰陽師によると、これらはみな親王の崇りであるとして、桓武天皇は怨霊を鎮めるために親王に「崇道天皇」の追号を贈り、この神社に祀ったのである。

日本人と「論語」

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    戦国の名将・加藤清正が、江戸と熊本を往来する船の中で、「論語」を読みながら朱点ほほどこしているのを見ていた飼い猿が、清正が厠へ行った間に主人の真似をして「論語」の上に縦横に朱の線を走らせてしまった。戻ってきた清正はこれを見てニッコリ笑い、「おぉ、そちも聖人の教えを知りたいか」といいつ頭を撫でたという。この有名な逸話によって、清正が平生「論語」に親しんでいたことがよくわかる。清正に限らず心ある部将はみな論語を愛読した。大内義隆、徳川家康など。明治以後は渋沢栄一、下村湖人、武者小路実篤など。第一生命の創始者・矢野恒太にも『ポケット論語』の著書がある。講談社をつくった野間清治にも、事業運営の柱に「論語」を据えたことは、あまねく知られている。最近では野球の野村克也が『野村の実践論語』の著書を刊行している。

  cataloging

論語補註 2冊 和本 山本章夫註 京都・山本読書室 1903
論語弁 荻生徂徠 祥雲碓悟校 天書閣 1910
論語明解 江口天峰 至玄社 1929
論語評釈 大江文城 関書院 1935
精講 論語百講 松田金重編 三省堂 1936
論語物語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1951
論語百選 現代人のために 三省堂百科シリーズ 新垣淑明 三省堂 1957
論語発掘 通釈への疑問と解明 合山究 明治書院 1975
論語墨書 名筆による名言鑑賞 広論社出版局編 広論社 1981
論語八方破れ TOKUMA BOOKS 竹村健一 徳間書店 1982
論語は問いかける 孔子との対話 H.フィンガレット著 山本和人訳 平凡社 1989

泰西人の孔子を評するを評す 井上哲次郎 東学芸4  1882
孔子ノ教ハ支那国ニ如何ナル影響ヲ与ヘンヤ 赤座好義 東学芸3-46  1885
孔子の学術を汎論す 柳沢保恵 輔仁会雑23,24,28  1893~94
孔子之道と徂徠学 加藤弘之 東哲1-6  1894
孔子以後の学派 藤田豊八 東哲1-8,11,12   1894,95
孔孟の道 内藤耻叟  東哲1-3  1894
孔子とイエス 大塚繁樹 媛大紀要1-4  1953
詩書と孔子の天及び天命の思想 米田登 文と思6  1953
孔子および孟子の兵戦思想 内田智雄 同志社法学26  1954
孔子学団 宇都宮清吉 東洋学報(京都)25  1954
天下周遊の構造 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報5  1954
孔子の管仲譚 華夷論の一端として 高田真治 東洋研究6  1963
孔子の仁の思想について 馮友蘭著 高橋均訳 漢文教室64  1963
貝塚茂樹著「孔子」についての往復書簡 西谷啓治、貝塚茂樹 図書24  1951
孔子に於ける仁思想成立の過程 石黒俊逸 支那学研究8  1951
尚書孔子伝の態度 加賀栄治 学芸3-1  1951
人間孔子 谷川徹三 斯文4  1951
孔子死生の説 那智佐典 東洋学研究7  1938
孔孟以後の儒教 秋月胤継 斯文20-6  1938
東洋史上に於ける孔子の位置 宮崎市定 東洋史研究4-2  1938
論語に現われたる孔子の人間観 西村侃三 斯文21-11,12  1939
孔子的自我の展開 牧尾良海 哲学雑誌55-639,642  1940
孔子の仁 平田栄(講演)  斯文22-1  1940
孔子の学的精神とその展開 田所義行 漢学雑9-3,10-1  1941-42
孔子より孟子に至る自己観の展開に就いて 赤塚忠(講演) 斯文24-12  1942
孔子の思索生活  1,2 田所義行 漢学雑11-2,3;12-1,2   1943~44
孔子の教学 佐藤匡玄  建大研月報38  1944
孔学総論 谷本富 東学芸4-73  1945
孔子について 貝塚茂樹 世界10  1946
人間孔子 林語堂 実藤恵秀訳 新中国1-3  1946
マルクス孔子に会う 郭沫若 実藤恵秀訳 中国文学95  1946
孔子と子産 貝塚茂樹 東光1   1947
孔子の学問精神 原佑 叙説4  1950
孔子の人間観 板野長八 学士院紀要8-1  1950
春秋著者説話の原形 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 叙説5  1950
孔子の精神に関して所感を陳ぶ 元良勇次郎 東洋哲学2-10  1895
孔子の誕生会に就て 日下寛 東洋哲学2-9  1895
孔夫子誕生祭に就き 関根正直 東洋哲学4-2  1896
孔子誕生に就きて 重野安繹 東洋哲学3-1  1896
孔子の精神 日下寛 東洋哲学4-2  1897
孔子の降誕に就きて  島田重礼 東洋哲学4-1  1897
孔子の学説 松村正一 東洋哲学8-9~12 1901
孔子の教育及宗教 穂積秀範 龍谷史壇10  1902
孔夫子と儒教 島田三郎 東洋哲学 9-1,2  1902
孔子の所謂君子に就きて 蟹江義丸 東洋哲学10-1  1903
孔子教の趣旨 星野恒 東洋哲学11-1   1904
孔夫子研究を評す 中島徳蔵 丁酉倫33,34  1905
孔子ノ人格ニ就テ 井上哲次郎 太陽13-10  1907
孔聖の修養 山田準 東洋哲学15-6  1908
孔夫子の運命観 大島順三郎 東洋哲学17-6,8・18-3 1910~11
孔子に対する社会的信仰の矛盾 村上専精 丁酉倫101  1911
孔子の倫理説に就て 松村正一 東洋哲学18-5   1911
支那に於ける孔夫子の尊崇 服部宇之吉 東亜研究1-1  1911
孔夫子の政治上に於ける教訓 深作安文 東亜研究3-6  1913
孔子教 及川生 慶義学208,209  1914
孔子 井上哲次郎 斯文20-6  1938
孔子伝より見たる論語の解釈 岡村利平 大東文化16  1937
孔子と老子 諸橋轍次 斯文33-4  1937
遭難 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報6  1955
文学としての孔子世家 バートン・ワトソン 中文教2  1955
孔子の思想について 吉川秀一 阪学大紀4  1956
孔孟の命について 金谷治 日中会報8  1956
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報7  1956
孔子の陳蔡厄考 田中佩刀 静岡女子大紀要4  1957
「孔子の道」の解釈をめぐる二三の疑義 近藤康信 東支学報3 1957
孔教私観 長谷川如是閑 斯文22  1958
孔子と易 高田真治(講演)  大東漢学1  1958
孔子と墨子 山室三良 九中会報5  1959
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報9  1959
孔門の十哲に就いて 山本徳一 漢学研究1  1936

 

 

便所の神様

    「トイレの神様」という歌が昨年流行したが、日本には古くから便所に神様がいるという信仰が全国各地にあるようだ。園田学園女子大学の壺井裕子は長野県下伊那郡阿南町新野の事例を詳しく報告している。例えば、長野県大野市社舘之内では「便所には、便所の神様がいる。12月31日に、ススハキをしてきれいにしてからオカザリを供え、松もかざる」「お便所の神さんは粗末にしてはいけない。粗末にすると祟る」という。「便所を大事にするときれいな子が生れるという」諏訪郡原村では「便所には美人の神様がいて、月役(月経)・お産を軽くしてくれるという」

参考:壺井裕子「便所神考」 園田学園女子大学 史園5 2004年

2011年11月23日 (水)

熱河

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    1703年に康熙帝が熱河避暑山荘を造営したのが始まりで、以後熱河は清朝の副都のような存在である。温泉が出る熱い河というのが語源。1733年には承徳直隷州と改称され、1778年には承徳府とされた。清末のアロー戦争では、咸豊帝は熱河避暑山荘で亡くなっている。

①熱河 皇帝の都 ヘディン探検紀行全集11 ヘディン著 斎藤明子訳 白水社 1978
②熱河遺蹟 岸田日出刀、土浦亀城 相模書房 1940
③熱河古蹟と西蔵芸術 五十嵐牧太 洪洋社 1942
④熱河事情 満洲文化協会編 南光社 1933
⑤熱河省漢代城址的発見 森富雄 森富雄刊 1942
⑥熱河探検記録 藤木九三 朝日新聞社 1934
⑦熱河討伐とその真相 加藤越山編 大阪図書株式会社 1933
⑧熱河の蒼い空 満州国特務警察活動記 幕内満雄 大湊書房 1989
⑨熱河離宮 随筆集 城千枝 九州人文化の会 1973
避暑山荘史話 中国歴史小双書 郭秋良・劉建華 北京・中華書局

⑥藤木九三は登山家として知られる。⑨城千枝は文筆家で、一度原稿をもらいに行ったたことがある。

永遠の少年「シェーン」「子鹿物語」

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    アメリカ映画で永遠に忘れられない二人の少年がいる。「シェーン」と「子鹿物語」である。ジョーイが「シェーン!カムバック!」と呼びつづけるラストシーンは永遠に記憶に残る。ジョーイを演じたブランドン・デ・ワイルド(1942-1972)は当時11歳。1972年、コロラド州デンバーで自動車事故で亡くなっている。「子鹿物語」のクロード・ジャーマン・ジュニアは12歳で出演し、世界中にその名を知られたが、1950年代に西部劇を数本出演したあと引退している。77歳になる現在も壮健のようだ。

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 クロード・ジャーマン・ジュニア

園まりの「ローマの休日」

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   甘く囁くような歌声で「何も云わないで」「逢いたくて逢いたくて」「何んでもないわ」「やさしい雨」と昭和40年代初めヒットを連発した園まり。なぜか最近再び園まりブームなのだ。きっかけはNHK「歌謡コンサート」で草野仁が恥ずかしそうに園まりと対面してからだろうか。なぜか園まりファンと言うのは気恥ずかしさをともなうようだが、よくぞ勇気を出して世間に云った者だと感心しきりである。もちろん園まりの、いじらく、健気な風情が長い間、世の男性の心を虜にするのだろう。映画「逢いたくて逢いたくて」は全盛期の魅力が溢れている。大学のイタリア文化研究会の道子(園まり)は、部の運営のため、賞金目当てで「園まりそっくりショー」へ出演。これをきつかけに、本物の園まりと1週間入れ替わることになる。不審に気づいたカメラマンの渡哲也が道子を取材する。2人は互いにひかれるものの、道子は渡に恋人の松原智恵子がいることを知って身をひく。デートをしたあと、渡は週刊誌にのせるはずだった写真を道子に渡す。(このシーンはローマの休日のパクリ)どうせならスクーターで東京を巡るシーンも入れればよかった。ボーリング、エレキギターなどの風俗も楽しい。園まりのコンサートといえばザ・ドリフターズだったが、この映画にも出演している。

「いとほし」と「いとをかし」の異同

   枕草子の能因本と三巻本との異同を調べていると、「いとほし」と「いとをかし」の混同があることに気づかされる。例えば、第21段「すさまじきもの」は金子元信の「枕草子通解」(能因本系)では、

ゆるぎありきたるも、いみじういとほしう、すさまじげなり

 「うそうそと家の中を歩き回っているのも気の毒だし、また何とも気ぬけのしたような光景だ」という大意である。

同じ箇所が三巻本では、もともとこのようになっていた。

「ゆるきありきたるも、いみしういとをかしすさましけなり」とある。

   ここでは、「いとをかし」ではなく「いとほしう」(気の毒で、という意)であるので、能因本系が正しいことになる。三巻本は「いとほしうすさまじげなり」と訂正されている。

参考:大川五兵衛「枕草子の伝本による「いとほし」と「いとをかし」の異同」 聖徳大学紀要12   1979年

ロバートくん全員集合

   ROBERTというありふれた名前のスターや監督。20人以上言えたら、あなたはかなりの映画通ですね。なぜかロバートという名前には二枚目が多い。

  「椿姫」「哀愁」などトップ女優の相手役をつとめた世紀の二枚目といえば、ロバート・テーラー。まさにアメリカの「誇り高き男」といえるロバート・ライアン。ジェニファー・ジョーンズの最初の旦那さんといえば、ロバート・ウォーカー。スリーピング・アイといわれたアクション・スターといえば、ロバート・ミッチャム。「アンタッチャブル」のエリオット・ネスといえば、ロバート・スタック。「ララミー牧場」のジェスといえば、ロバート・フラー。「ジョーズ」のシャーク・ハンターといえば、ロバート・ショー。脇役から主演へと長いキャリアを誇るロバート・デュバル。ナタリー・ウッドとの似合いのカップルだったロバート・ワグナー。「0011ナポレオン・ソロ」といえばロバート・ボーン。ニューシネマのヒーロー、ロバート・レッドフォード。若きビート・コルレオーネといえば、ロバート・デ・ニーロ。「トレインスポッティング」「フル・モンティ」などイギリスの演技派ロバート・カーライル。チャップリンの伝記映画でオスカー候補になったが、ドラッグから復帰したロバート・ダウニー・ジュニア。「トワイライト初恋」のバンパイアといえば、ロバート・パティンスン。

  監督では、「ウェスト・サイド物語」のロバート・ワイズ、「アラバマ物語」のロバート・マリガン、「特攻大作戦」のロバート・オルドリッチ、「マッシュ」のロバート・オルトマン、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のロバート・ゼメキス、「スパイキッズ」のロバート・ロドリゲスがいる。記録映画監督のロバート・フラーティー、「人間廃業」(1931)「らせん階段」(1945)のロバート・ジオドマーク、「すべて王の家来」(1949)のロバート・ロッセンなど。

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これからは、懐かしい俳優になるので説明を要する。

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 ロバート・ヤング              ロバート・ドーナット

   ロバート・ヤングはドラマ「パパは何でも知っている」で日本でもお馴染みの俳優。ロバート・ドーナットは「城砦」「チップス先生さようなら」の名優。

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 ロバート・アルダ            ロバート・アームストロング      

ロバート・アルダは「アメリカ交響楽」「外套と短剣」、ロバート・アームストロングは「キングコング」

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 ロバート・モントゴメリー            ロバート・ハロン

   ロバート・モントゴメリーは俳優。のち「湖中の女」(1946)で監督デビュー。「奥様は魔女」のエリザベス・モントゴメリーは彼の娘。 ロバート・ハロンはサイレントの名作「イントレランス」「国民の創生」「メトロポリス」などに出演している。

交通事故死

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  今から22年前の11月23日、米国アリゾナ州でアイドル歌手、志賀真理子が交通事故で19歳のはかない命を終えた衝撃はいまでも忘れない。交通事故で亡くなった人といえば、ジェームズ・ディーンや大場政夫など若者が思い出される。ジャズ・ベース奏者スコット・ラファロ(1936-1961)は50年前の7月6日、ニューヨーク州ジェニヴァ近郊のフリントを愛車を飛ばして亡くなった。まだ25歳だった。事故のわずか10日前、ビル・エヴァンズ、スコット・ラファロ、ポール・モチアンからなるヴィレッジ・ヴァンガード・ライブを公演したあとだった。エヴァンズはラファロの死のショックから半年間家にひきこもって、まったくピアノを弾こうとしなかった。

2011年11月22日 (火)

近代趣味生活のはじまり

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  科学者である寺田寅彦(1878-1935)は、随筆、俳句なども多数残している。寺田のいいところは、美術、音楽、映画などのハイカラ趣味があって、今日の日本人の知的生活のスタイルは寅彦からはじまったといってもいい。夏目漱石はレコード鑑賞や活動写真をみることはなかったが、寺田はレコードを聴き、銀座を歩き、浅草で映画をみている。「秋の歌」という随筆には、チャイコフスキーのピアノ曲集「四季」(1876)の中の一曲を鑑賞したという、ただそれだけの内容ものである。演奏者はエフレム・ジンバリスト(1889-1985)である。つまりテレビ俳優エフレム・ジンバリストJRはその息子である。

  大正時代になって、「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句が現れた。この名コピーは三越宣伝部の浜田四郎(1873-1952)の作。

参考文献: 浜田四郎「百貨店一夕話」 日本電報通信社 1948

女優と歌唱力

   「プラダを着た悪魔」などで知られる若手美人女優のアン・ハサウェーは抜群の歌唱力が話題となっている。女優のもう一つの才能として歌唱力が問われることが多い。あのオードリー・ヘプバーンもミュージカル映画に出演したが、残念なことに歌唱力不足のため吹き替えだった。メリル・ストリープは「マンマ・ミーア」でその歌唱力を披露している。歌手から大女優へ転身した人は多い。「第三の男」で世界的女優となったアリダ・バリはイタリアの歌手だった。レーガン大統領の最初の妻ジェーン・ワイマンも歌手の経験があり、何度か映画で歌っている。ジュリー・ロンドンは女優としてデビューしたが、ボビー・トゥループの指導を受け、ジャズシンガーとして大成した。

名前を拝借した有名人

   俳優の根津甚八というのは真田十勇士の一人・根津甚八からとったものである。このようにそのまんま拝借することは日本では珍しい。俳優の内田良平が玄洋社の内田良平の名前を拝借したとは考えにくい。藤原釜足(藤原鎌足のモジリ)などのケースが多い。アメリカではそのままが一般的。米国テレビドラマ「ターミネーター サラ・コナー クロニクルズ」でサラ・コナーの息子ジョンを演ずるのは人気俳優トーマス・デッカー。同姓同名にエリザベス朝時代の劇作家トマス・デッカー(1572-1632)がいる。英米には同姓同名は多い。ベン・ジョンソンは詩人のベン・ジョンソン(1572-1637)、ジョン・フォード作品の常連俳優のベン・ジョンソン(1918-1996)、それに陸上選手ベン・ジョンソンがいる。「思い出のグリーン・クラス」で知られる歌手のトム・ジョーンズもフィールディングの有名な小説の主人公と同姓同名である。女優のアン・ハサウェーはシェイクスピアの妻の名である。

親の七光は有り難し

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 日活映画「七人の挑戦者」の吉行和子

Photo   ウィル・ロジャースJr.(1911-1993)映画「西部の掟」(1954)でナンシー・オルソンと共演している。あまり知らない俳優だがお父さんはとても有名なスターだった。テキサスには「ウィル・ロジャース記念センター」がある。ドラマ「FBI」でおなじみの俳優エフレム・ジンバリストJr。お父さんは世界的な有名なバイオリン奏者。アメリカでは名前に堂々と「Jr」をつける。日本でも「親の七光」はやはり強い。とくに政治家は二世三世は当たり前。麻生太郎は吉田茂、鳩山由紀夫は鳩山一郎の孫である。小泉純一郎は「いれずみの又やん」の愛称で知られた小泉又二郎の孫だ。与謝野馨は与謝野晶子の孫。文化人も著名人を祖父にもつ人は多い。石橋エータローは画家の青木繁の孫。漫画家の夏目房ノ介は夏目漱石の孫。イケメンDAIGOは竹下登の孫だ。大沢あかねは野球監督の大沢啓二の孫。安藤和津は犬養毅の孫。巨人のエース内海哲也の祖父・内海五十雄も巨人に在籍した。

   ほかにも芥川龍之介の孫の芥川貴之志(デザイナー)、森英恵の孫の森泉(モデル)、斎藤茂吉の孫の斎藤由香(エッセイスト)、黒澤明の孫の加藤隆之(俳優)、有島一郎の孫のRomi(女優)、服部良一の孫の服部隆之(作曲家)など社会に続々進出している。

   親子で有名人は多数いるが、NHK朝ドラ「つばさ」から2人紹介しよう。甘玉堂の女将玉木千代を演じている吉行和子は昭和初期に活躍した流行作家・吉行エイスケ(1906-1940)の長女である。つばさの恋人役・翔太を演ずる小柳友の父はむかし山田康雄が司会していた「お笑いスター誕生」で:警察官コントで10週勝抜いた小柳トムである。「おひさま」には柄本兄弟の弟がでていた。いま放送中の「カーネーション」。糸子の夫を演ずる駿河太郎はミュージシャン。鶴瓶の長男。大河ドラマ「江」にも二世俳優がいる。平岳大(平幹二朗、佐久間良子)、中山麻聖(三田村邦彦、中山麻理)など。

   考えてみると、大正、昭和はそんなに遠いむかしのことではないというのが結論である。

2011年11月21日 (月)

雪はげし抱かれて息のつまりしこと

   橋本多佳子は美女で知られた俳人。18歳で大阪船場商人の御曹司と結婚するも、昭和13年に先立たれ未亡人となる。亡夫への恋情を歌った句で知られる。「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」は昭和24年の作で、大意は「その吹雪を見ていると、かって夫に激しく抱かれたことが自然に思いだされてくるようだ」という恋歌。石川さゆり、藤あや子の演歌の世界に通ずるものがある。

警官を見たら痴漢と思え

    20代の女性が、警察に痴漢被害の相談に行ったら巡査に痴漢行為をされたという。また神戸では、女子大生が市道で警官から抱きかれて、胸など触られた。悲鳴を上げると、犯人は逃走し、近くでごみ収集車が250m追跡して、取り押さえて警察に引き渡した。警察署長は「指導を徹底し、信頼の回復に努めたい」というコメントを発表しているが、市民の不安は相次ぐ警官の不祥事に解消されない。

ミッシェル・ウィリアムズがモンローに変身!

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    話題の映画「マイ・ウィーク・ウィズ・マリリン」が23日、全米で公開される。物語は「王子と踊り子」の撮影のために、初めてイギリスを訪れたマリリン・モンローと助監督コリン・クラークとの恋の物語。マリリンを演じるのは「ブロークバック・マウンテン」のミシェル・ウィリアムズ。コリン役はエディ・レッドメイン。ほかにローレンス・オリビエにケネス・ブラナー、ヴィヴィアン・リーにジュリア・オーモンド、ジュディ・ディンチにエマ・ワトソンが扮する。

やぶ医者のルーツは兵庫県養父市

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   江戸の俳人・森川許六は次のようなことを書いている。「薮医者とはもともと但馬国養父にいた名医に由来する。」(「風俗文選」(1706年)死者を甦らせるほどの腕を持ったその名医の噂は京の都にも届いた。ところがやがて、大した腕もないのに、自分は養父医者の弟子だ、と口先だけの医者が続出して、養父医者の名声も地に落ち、いつしか「藪」(やぶ)の字が宛てられ、医術のつたない医者のことをいうようになった。

アイドル戦国時代はどうなる?

  町の本屋には2012年のカレンダーが飾っている。宝塚に住むがタカラヅカスターのカレンダーばかりで、AKBのカレンダーが一つもないのは不思議である。

  NHKが8日の深夜3時間もAKB48のライブを放送していた。NHKだけを見ているとAKBがこのアイドル戦国時代を制したようにみえる。AKB、NKB、SKE、その他の研修生を含めると130人以上いるだろう。前田敦子、大島優子、板野友美、柏木由紀、篠田麻里子くらいならオジサンでもわかるようになってきた。老舗のモーニング娘。はどうだろう。最近、テレビで見かけない。ドリーム・チームも不発に終わった。総勢32人のハロープロジェクト「モベキマス」も知名度はイマイチ。モー娘。Berryz工房、キュート、真野恵里菜、スマイレージの頭文字をとったもの。太陽とシスコムーンやカントリー娘はどこに消えたのだろう。AKB48の夏のライブ3日で全曲64の盛大なものだった。ハロープロジェクトの完敗の1年だった。いまやAKBは宝塚歌劇団(400名)に匹敵する規模になりつつある。板野友美は有馬稲子に似ている。

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イギリスのことわざ

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書物はひもとかなければ一片の木片にすぎない

結婚はくじ引き

良い弁護士は悪い隣人

嫁を選ぶなら土曜日に選べ

まっすぐな棒も水の中じゃ曲がる

三度目はうまく行く

指輪をなくしても指はある

漱石と胃潰瘍

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  夏目漱石(1867-1916)は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の五度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

   帝大長与又郎博士の解剖によれば、漱石の脳の重さは1620グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く天才的頭脳の型であったと報告された。

女陰禮讃

    一休はある日、木曽川のほとりを歩いていると、若い娘たちが一糸も纏わぬ姿で水浴びをしている。一休は、しばし足をとめて若い娘たちの鮎のようなピチピチとした裸身をしげしげと眺めていたが、何を思ったのか、娘の陰部に向かって三度礼拝すると、スタコラと立ち去った。その振る舞いをいぶかった村人が一休を追いかけ、「なぜあんなところを拝みなさった」とたずねた。その問いには答えず、一休は一首詠んで村人に与えた。

「女をば 法のみ蔵というぞ実(げ)に

   釈迦も達磨もひょいひょいと生む」

徳川家治は名君だった!?

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    徳川幕府の将軍15人の中で第10代将軍徳川家治(1735-1786)は将軍在職26年という長期にわたる割に何故かその人物像は知られていない。家斉50年、吉宗30年、家綱29年、綱吉29年、家光28年と第6位である。

    その性質は温和であり、文武両道を嗜み、壮時は快活であり、力持ちでことに記憶がよかった。射礼を復興し、ことさらに絵を描き、書画の鑑定にまさったと伝えられる。将棋も好んだ。しかし、旧慣を重んじ異風・珍味・華美は嫌いであり、妓女などが舞曲を奏するというので山王祭も見物せず、筝三絃も好まなかった。とても時間厳守で几帳面であった。また、知識欲も旺盛で、海外の情勢に留意し、物価の高低も知り、流行病や大名旗本の病気の有無をも尋ねた。ところで、病には下々をおもい、特に関心をもった。それらのために医書の出版も心がけたのである。蘭学を奨励し、解体新書が出版されたのも家治の時代である。

   家治は田沼意次を側用人に重用したため、かつては暗愚と見なされていたが、田沼の評価が上がった今、家治の再評価もすべきか。ともかく泰平の将軍としては名君といえるだろう。

2011年11月20日 (日)

唐荷島と山部赤人

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   揖保郡御津町室津(現在・たつの市)の藻振鼻から南西約2.5kmの間に、地・中・沖の3島が並ぶ唐荷島がある。播磨国風土記によると、韓人の船が難破して、その荷物がこの島に漂着したので韓荷島といったという。

    万葉集全4500首には北は小田(宮城県遠田郡湧谷町)あたりから南は薩摩の迫門(黒ノ瀬戸)までので多くの地名が出てくる。唐荷島は「辛荷島」「からにの島」ともいわれ、山部赤人の短歌で知られる。

玉藻刈る 辛荷の島に島廻(み)する 鵜にしもあれや 家思はざらむ

(玉藻を刈る辛荷の島で島めぐりをする鵜でもあろうか。そうではないのにどうして家のことを思わずにいられようか)

 

藤代禎輔の漱石批判

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藤代禎輔(写真中央)

    藤代禎輔の「猫文士気焔録」(1906)に次のような一節がある。「此頃日本の文壇で夏目の猫と云うのが、恐ろしく幅を利かして居ると、今は天国に居る吾輩の耳にも聞こえてきた・・・(中略)但少し気に喰わぬのは、文筆を以て世に立つのは同族中己が元祖だと云わぬばかりの顔附きをして、百年も前に吾輩という大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知って居なら、先輩に対して礼を欠いている訳だ」

藤代禎輔(1868-1927)は漱石の友人でもあるドイツ文学者。ルートヴィヒ・ティークの「長靴を履いた牡猫」(1797)やエルンスト・ホフマンの「牡猫ムルの人生観」(1820-1822)などの作品をさす。猫を主人公として文明批評を展開するという風刺文学は、漱石の独創ではなく、西欧文学に伝統的にある手法であるといってよい。だが「吾輩は猫である」は明治の日本にはとても新鮮であったに違いない。

「枕草子」の伝本と語釈

    誰しも高校古文で「枕草子」を学び、注解書の一冊くらいは所蔵しているものの、その書の底本が何にであるかを注意して学習する受験生は少ないであろう。現代はおそらくは三巻本といわれる陽明文庫所蔵をテキストとするものが多い。だが戦前の出版物であれば、春曙抄本といわれるものが多かった。春曙抄本は能因本系統の末流である。古文学習といっても大学の受験参考書であるから、三巻本が主流になることは当然である。「枕草子」には異本が多く、このほかに、前田家本、堺本がある。国文科を専攻する学生であれば、このような数種の異本を比較検討することが一つの古典研究の醍醐味となってくる。ケペルの蔵書にむかし古本屋で買った金子元臣「枕草子通解」がある。奥付の発行年は昭和30年とあるが、金子元臣(1869-1944)は明治元年の生まれであるから、実際に書いたのは、それよりもずっと古いとおもわれる。著名な学者の名前を死後も出版することは参考書の場合よくあることであった。あまりに古色騒然としているので一時は処分しようとも考えたが、全段が収録されているので保存しておいた。そして仔細に調べると、この書の底本は三巻本ではなく、能因本であることから、いまでは稀少なものであると気づいた。では、能因本と三巻本ではどのようにちがうのであろうか一例を挙げてみる。

五月六月の夕かた、青き草を、ほうにうるわしく切りて、赤衣着たるをのこの、小さき笠を着て、左右にいとおほく持ちて行くこそ、すずろにをかしけれ。(能因本247段)

五月四日の夕つ方、青き草おほく、いとうるはしく切りて、左右になひて、赤衣着たる男の行くこそ、をかしけれ。(三巻本209段)

  三巻本では端午節前日であるが、能因本ではただ夏の盛りの夕刻となっている。ところで圷美奈子の論稿「枕草子 五、六月の夕がた(能因本)、「五月四日の夕つ方」(和洋女子大学紀要48  2008年)では、能因本の「ほうに」の意味がわからないとある。「方」や「盆」と解しているらしい。金子元臣によると「ほうに」は「細う」とあり、「刈り取ったのが細く見えるものをいう」と語釈されている。戦前の学習参考書も役立つときがある。むかしの学生であれば、春曙抄本で学習したので、このような疑問は生じなかったであろうが、若い古典学者にとっても金子元臣は遠い存在になったのであろうか。ただし結語の「三巻本系統本のみによって鑑賞し研究するようになった近年の状況については、ただ今、見直しの時期に来ていると痛切に感じる」は同感である。

中世から近世への転換点

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   大河ドラマ「江~姫たちの戦国」や韓国時代劇「トンイ」を日曜日に楽しみに見ている。お隣の国なのに、はっきりと違いが気づくのは成人男子の髭である。朝鮮王朝では「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」という儒教の教えから、国王から賤民に至るまで、髭を伸ばし、髷を結っていた。ではなぜ日本の近世社会では髭を伸ばさなかったのであろうか。日本も中世までは髭を伸ばしていた。ドラマに登場する柴田勝家や加藤清正はたいてい髭をたくわえたイメージで登場している。だが将軍徳川家光や綱吉が髭を伸ばしている姿はドラマでみたことがない。ドラマ「江」で向井理・秀忠が口髭をたくわえているがまだ戦国の遺風があるのだろうか。家光以降、おそらく江戸幕府は戦国の荒々しい遺風を嫌い、文治政策をすすめる。「かぶきもの」の横行を抑えるため、相次ぐ禁令を出し、そのなかで髭を立てることを禁じた。髭の禁令は繰り返し出され、ついには上は天皇・将軍・大名から、下は庶民に至るまで、日本の男子は髭を生やさなくなった。これは中世社会とは明瞭に異なるもので、同時代の世界を見回しても、髭のない成人男子は世界でも珍しい。ムダ毛にも神経がくばられ、脛毛まで剃るという無毛時代だった。鎖国社会であったため、徳川の髭禁止令は世界史上においても独特な社会を形成したのである。

ウォーター・ストライダー

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    ジャッキー・チェンの映画「タキシード」(2002)を見ると、アメンボのことを英語で「ウォーター・ストライダー(water strider)」と言っている。新コンサイス和英辞典で調べると、「ウォーター・スパイダー(water spider)」または「ポンド・スケーター(pond skater)」とある。

  ミズスマシのことは「whirligig beetle」とある。カゲロウは、5月頃に羽化し大発生することから「5月の虫」メイフライ(mayfly)という。

トルストイの晩年

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    レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828-1910)の晩年は、世界中の多くの人から沸き起こる喝采の嵐に包まれていたが、また一方では自分自身の信念と:現実生活の矛盾に苦しんでいた。領地や財産を他人に与えたために家庭内の不和が起った。トルストイはさまざまな反目に耐えられず、1910年10月28日、ヤースナヤ・パリャーナを出て、三等列車に乗り込みあてもない旅に出た。31日、突如、肺炎をひきおこし、寒村アスターポヴォ駅で途中下車。トルストイの容態を心配して、枕元に集まってきた人々に対してトルストイは言う。「世界には数百万人の困苦者がいるのに、なぜ君たちは私ひとりのためにここにいるのか」と。トルストイは11月20日午前6時5分、駅長の官舎で息を引き取った。享年82歳。

    トルストイの宗教論、非戦論、芸術論はチェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフなどのロシア作家に、さらに西欧や日本の白樺派などに大きな影響を与えた。京都・一燈園の西田天香(1872-1968)もその一人である。トルストイの著作に接したことがきっかけで社会奉仕に目ざめた。昨年は没後100周年にあたり「トルストイ展 平和主義の源流」が一燈園資料館「香倉院」で開催した。

トルストイとチェス

   ロシアの文豪トルストイは、大のチェス好きであった。大学生のころ、ペテルスブルグのチェスクラブの常連であった。そこでいつもツルゲーネフと、チェス盤をはさんで向かい合っていたという。トルストイの晩年の生活では、チェスはさらに重要なものとなっていた。チェスは、夕方の日課だった。相手をつとめたのは、アレクサンドル・ゴリテンヴェイゼル(1875-1961)という若いピアニストであったが、2人は15年間に600局以上のケームをしたといわれている。ゴリテンヴェイゼルはトルストイの最期を看取った1人だが、回想録にはチェスのことが詳しく書かれている。

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 ゴルデンベイゼル

2011年11月19日 (土)

なんてことすんの

  If it ain't broke,don't fix it.

 直訳すれば、「こわれていないならば、直すな」となるが、「ちゃんと機能しているものを、やたらにいじくるな」という感じが近いだろう。例えば、巨人の沢村が8回まで好投していて、9回も当然沢村が投げるものと思っていたら、なぜか、原監督が抑えの久保に代え、続けさまにホームランを打たれて逆転負けをしたようなものである。

月月火水木金金

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    伊集院五郎(1852-1921)は、明治41年5月、海軍第1艦隊司令長官となる。同年10月、連合艦隊司令長官に兼補され、11月20日まで務めた。伊集院は海軍には日露戦争での大勝によって軍紀の弛緩を感じた。そのため、土曜と日曜の半休、全休を返上して、猛訓練を行なった。この時の猛訓練を評して「月月火水木金金」という言葉が生まれた。海軍には休日なしという意味である。

    一般によく知られている軍歌「月月火水木金金」(作詞・高橋俊策、作曲・江口夜詩)は昭和10年のもので、休日返上で訓練や仕事に励むという標語として太平洋戦争に向けて定着していった。

 朝だ 夜明けだ 潮の息吹

 ぐんと吸い込む 銅色の

 海の男の 艦隊勤務

 月月火水木金金

親鸞とキリスト教

    親鸞は「ただ念仏して、阿弥陀に助けていただくと、よきひと(法然上人)の教えを受けて信じるほかに、特別のわけもない」と語っている。この親鸞の「信仰のみ」は、パウロの説く「エホバの名を呼び求める者は救われるのです」(ローマの信徒への手紙10-13)という考え方と、とてもよく似ている。西本願寺には「世事布施論」という本が所蔵されている。これは唐代に中国に伝わった景教、ネストリウス派キリスト教で、内容はいわゆる聖書である。親鸞は「世事布施論」を読んでいたといわれる。救いを求める祈りは、神仏の業であり、仏教もキリスト教も共通するものである。親鸞は聖書を読んでいた!?

芭蕉と陶淵明

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 菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る

    夏目漱石の『草枕』にも引用され、昔から日本人にもよく知られている陶淵明の詩の一節。この「南山」とは陶淵明の故郷、潯陽(江西省九江市)に近い盧山と考えられている。大垣で芭蕉はこの詩をヒントに伊吹山をみて、「折々に伊吹を見ては冬ごもり」と詠っている。「漂白の詩人」芭蕉と「隠逸の詩人」陶淵明、煩わしい世間を避け、生を楽しむ境地になったのには二人の共通する人生体験があったからだ。

    陶淵明は44歳のとき、大火に遭って、家も財産も失い、すっかり貧乏になったという。飢えと寒さに迫られ、物乞いすることもあった。63歳で、飢えに悩まされながら病床でやせ衰えて死んだ。貧乏、不遇、孤独、つらい生涯だった。

    芭蕉も39歳のとき、天和2年12月、駒込の大円寺から出火した大火は江戸中一帯に広がり、芭蕉庵も類焼した。有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句は、これまで貞享3年とされてきたが、最近の考証の結果、天和元年、2年頃の作とする説が有力である。(志田義秀『芭蕉俳句の解釈と観賞』)火事が詩人にとっての人生の大きな転機であった。

文豪と羊羹

   夏目漱石は甘党で知られる。その甘党ぶりは、「君のくれた菓子は僕が大概くつて仕舞った。小供も食べました」(明治38年4月13日、森巻吉宛書簡)とある。数ある菓子の中でも特に羊羹を愛した。「余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける工合は、どう見ても一個の美術品だ」(草枕)と羊羹の美術性を述べている。だがこんな逸話も伝わる。甘党のために漱石は糖尿病を患うようになった。鏡子は漱石の病気を案じて、好物の羊羹を隠した。すると漱石は、いつものように羊羹が入っているはずの戸棚を必死に探し続けた。その様子を見かねた幼い娘が在り処を教えてやると、漱石は娘を大いに褒め、上機嫌で羊羹を頬張ったという。

漱石俳句紀行

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 鳥越峠の「峠の茶屋」

    熊本時代、旧制第五高等学校の英語教師であった夏目漱石は、2度ほど俳句旅行をしている。1度目は山川信次郎とともに明治30年12月27、28日頃から翌年の正月にかけて、熊本から金峰山を越えて有明海沿いの小天温泉(玉名市天水)までの約15kmの「草枕」コース。2度目は明治32年正月、奥太一郎との耶馬溪までの大旅行である。これらの体験が後年の「草枕」や「二百十日」の題材になっていることはよく知られている。

   小天温泉旅行は郷士である前田案山子(1828-1938)による道楽半分の温泉宿(前田家別邸)に泊まった。小説「草枕」で小天温泉は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」となっている。前田案山子は本名を覚之助といって、文政11年4月、小天八久保に前田金吾の三男として生まれた。細川藩の槍指南を勤めていた武芸の達人だったが、維新後、農民とともに歩む決意で「案山子(かがし)」と改名した。第1回衆議院議員として自由民権運動に奔走した。「草枕」の「志保田の髯の隠居」のモデルである。

    那古井の「那美さん」のモデルは、前田案山子の二女の前田卓(つな、1868-1938)である。卓の最初の結婚は明治20年10月に土地の豪農の息子である植田耕太郎と結婚するが翌年には離婚している。漱石が行ったときは年は31歳だった。漱石は才気煥発の卓に興味を感じたのだろう。小天温泉での旅行中の色々な出来事は、ほとんどすべて、さまざまに変容して「草枕」に採用されている。

    前田卓は、父の影響から自由に思想を語り、上京してからは中国革命を支える妹の槌(つち)・宮崎滔天夫妻を助けて活躍し、中国人留学生から慕われていた。明治37年に歩兵中佐・加藤錬太郎と二度目の再婚をするが、翌年に離婚している。昭和13年、71歳で亡くなっている。

    耶馬渓旅行は、柳ヶ浦から馬車で宇佐八幡宮まで行き、羅漢寺、耶馬渓を訪れ、帰りは山国町に宿泊し、伏見峠を越えて日田から吉井、山川町、追分と旅したあと、久留米を経由して熊本に戻った。

かんてらや師走の宿に寝つかれず

甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地

神かけて祈る恋なし宇佐の春

漸くにまた起きあがる吹雪かな

せぐくまる蒲団の中や夜もすがら

新道は一直線の寒さかな

降り止んで蜜柑まだらに雪の船

参考文献
「大分県俳行脚における漱石の足跡」 小野茂樹 大分県立芸術短期大学研究紀要5 1966年

1763年は重要年代

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    歴史学習には記憶すべき重要年代がある。遠藤正典によれば日本史では100以上の重要年代があるという。歴史は暗記というが無理矢理に記憶しても無意味であろう。むかしから「いい国つくろう鎌倉幕府」とか口調よく暗記できる記憶法がある。「日本史重要年代記憶法550」ではなんと550もの実例が紹介されている。わたしは年代は記憶しない主義で暗記しているのはほんとうに少しだけである。645年、710年、1192年、1600年、1868年、1945年。世界史では1914年。それと1763年が重要だと考えている。七年戦争の講和条約・パリ条約締結の年であり、英のインド・米大陸における優位を約束するものであった。現代の英米の優位する時代の出発点としてのメルクマールになる。そのころ日本は10代将軍家治の頃で完全な鎖国状態にあった(1639-1854)。歴史は18・19・20世紀の300年間が重要である。

2011年11月18日 (金)

「ふるさと」の作曲者・岡野貞一

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    「♪兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷」(大正3年)岡野貞一作曲、高野辰之作詞。

  「広辞苑」にはなぜか、岡野の名はなく、高野しか採録されていない。岡野貞一(1878-1941)の名前が、出版物で公にされたのは30年ほど前からである。文部省唱歌という公の編集物であることから、著作権上の確定作業はなかなか困難なものがあるらしい。ほかにも岡野作品には「春が来た」「桃太郎」「紅葉」「春の小川」「朧月夜」など数々の名曲がある。

もっと知りたいブータン

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    ブータンの国王夫妻が来日している。2人は10月に結婚したばかりで、事実上の新婚旅行。若くて美しいジュツン・ペマ王妃に注目が集まり、どこへ行ってもブータン・フィーバーが続く。ブータンは1907年にワンチュク王朝が始まり、ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王は5代目。ブータンのことをもっと知りたい。

坂本龍馬と沖田総司もし戦わば

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  坂本龍馬と沖田総司が剣で戦わばどちらが強かったか?などと想像しても無意味なことかもしれない。しかし二人は相当な剣の達人であったという。龍馬は北辰一刀流、沖田総司は天然理心流。龍馬が学んだ北辰一刀流は江戸三大道場の一つで、千葉周作の神田お玉ヶ池道場玄武館には門人3千人といわれ、現代剣道に及ぼした影響は大きい。幕末の剣客としては、清河八郎、海保帆平、塚田孔平、大羽藤蔵、藤堂平助、山南敬助、伊藤甲子太郎、服部武雄などがいる。一方の天然理心流は開祖は近藤内蔵助で、武州多摩に広まった農民剣法。木刀による形稽古が中心。近藤勇、土方歳三らがいる。これだけみたのでは明らかに北辰一刀流のほうが勝るように思える。ちなみに年は龍馬は近藤の一つ下で土方と同年である。しかし沖田の剣の実力は近藤、土方よりも上であるという証言が残っている。沖田には「三段突き」という得意技があった。突く、引く、また突く、という三挙動を一調子でおこなう手練の早業である。「敵を刀で斬るな、からだで斬れ」と常に教えられ、よく真剣の呼吸を体得していた。つまり道場試合では北辰一刀流が勝るものの、激剣となると勝敗はわからない。ただし、ひとつ判断材料がある。慶応3年11月18日、高台寺党の伊東甲子太郎、服部武雄ら北辰一刀流の使い手たちが新撰組によってたちどころに斬殺されている。暗殺された場所をとって「三条油小路の血闘」といわれる。龍馬が近江屋で暗殺されたわずか3日後のことである。伊東の殺害者は大石鍬次郎。大石は武州日野の佐藤彦五郎の道場で剣術を磨いた居合い抜きの名人である。やはり史上最強の暗殺集団・新撰組の暗殺剣は北辰一刀流の道場剣法を相手にしない凄まじさがあった。小島鹿之助は「此人(沖田総司のこと)剣術者晩年必名人に可至人也、故ニ我等深心配いたす」と近藤勇が語ったことを日記に残している。近藤は自分に万一のことがあった場合は沖田に天然理心流の道統を継がせる腹であったといわれる。

心にしみる古賀メロディー

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    テレビの歌番組が少なくなった。NHK歌謡コンサートを唯一楽しみに聴く。15日の古賀政男名曲集も楽しめた。古賀は明治37年11月18日、福岡県大川市で生れた。池田輝郎という中年の歌手がいる。遅いデビューだが、今、懐メロを歌わせたらこのかたの右にでる歌手はいない。「湯の町エレジー」も古風な歌唱で心地よく聞ける。番組でエントリーされなかった「悲しい酒」「サーカスの唄」「緑の地平線」「青い背広で」なども聞きたかった。やはり4000曲以上を作曲した古賀政男は偉大というほかない。生い立ちは不遇だったと聞く。5歳のとき、行商を営む父が死亡、母のセツは8人の子を育てた。大正元年、一家をあげて朝鮮に渡り、少年時代を京城ですごした。労働者がうたう民謡などにしばしばきき惚れたという。古賀メロディーの原点には朝鮮の音楽がある。明治大学に入学した古賀はマンドリン倶楽部の結成に参加。昭和4年、「影を慕ひて」で作曲家・古賀政男が誕生する。昭和6年、藤山一郎の「酒は泪か溜息か」が100万枚の大ヒット。学生であった藤山は覆面歌手なので、コロンビアは古賀の写真を出して宣伝したため、古賀も一躍スターとして世に知られるようになったという。

おうい雲よ

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  山村暮鳥。なんとなく寂しい響きのある名前だ。Bocho 母音「o」で終わると、ほんわか、のんびりとしたイメージを抱く。「ほのぼの」という語は、すべて母音は「o」である。暮鳥もそのようなイメージがある。

    「おうい雲よ ゆうゆうと馬鹿にのんきさうじゃないか どこまでゆくんだ ずっと磐城平の方までゆくんか」暮鳥の晩年の詩集「雲」に収められた一編。死の床で校正を終えたが、彼はこの詩集を手に取ることなく亡くなった。墓は、水戸市八幡町の江林寺墓地(祇園寺が管理)にある。

2011年11月17日 (木)

かわいい北欧雑貨

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   コロニーストックホルムというブランド名は、北欧雑貨として日本でも人気がある。ロッタ・クルホーンのデザインによるもので、キッチン用品など日常雑貨が多い。

エリザベス・ビショップ

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    エリザベス・ビショップ(1911-1979)は、日本ではあまり知られていないが、戦後頭角をあらわした最も才能あるアメリカの女性詩人である。第1詩集「北と南」(1946)で注目される。マリアン・ムーアとの友情は1972年にムーアが亡くなるまで続いた。ブラジル・カナダなどの見聞が作品に影響を与えた。代表作「旅の問い」「アルマジロ」

実在しなかったハワイ航路

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   「♪晴れた空 そよぐ風 港 出船のドラの音 愉し」 昭和23年の岡晴夫のヒット曲「憧れのハワイ航路」。戦前はサンフランシスコ行きの「あさお丸」がハワイ経由で就航していた。だが戦後は、日本の客船ではハワイ航路はなかった。アメリカの会社が昭和22年からサンフランシスコと横浜をハワイ経由で就航していた。それからも時代は航空機が発達したので「憧れのハワイ航路」はあこがれで終わってしまった。この歌を作詞した石本美由紀は、このときハワイに行ったことはなく、あくまで架空の産物だった。

モンゴル人の名前

   日本人はあまりモンゴルに関心がないように思える。だが大相撲を見ていると、モンゴル力士の圧倒的な活躍が目立つ。モンゴル勢があまりに強すぎることが日本での相撲人気低迷の一因なのだろうか。連日客席がガラガラの九州場所だが、一方モンゴルでの相撲人気はすごいものがある。

    鶴竜は裕福な家庭に育ったようで、NHKの相撲中継を見てどうしても相撲取りになりといと志願したそうである。本人の努力もあって幕内上位、大関を狙える地位にまでなった。鶴竜力三郎という。顔立ちは日本人のようだ。本名はマンガルジャラビーン・アナンド。基本的に父の名が最初にくるから、アナンド君と覚えればよい。白鵬翔はダワージャルガル、日馬富士公平はビャンバドルジ、朝青龍明徳はダグワドルジ。日馬富士は結婚披露宴を開いたが、昨年12月に長女ニャムジャラガルちゃんが生れている。日馬富士は日本国籍取得を希望しているようで、ニャムジャラガルちゃんに「美琴(みこと)」という日本名をつけている。大相撲を通じて日本とモンゴルとの友好関係が発展することを願う。

三木佐助と鉄道唱歌

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    「♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・」という鉄道唱歌は、全5集・334番からなる。作詞は大和田建樹、作曲は多梅稚(おおのうめわか)。この歌はもともと大阪の昇文館の市田元蔵が企画してつくらせたもの。しかし版元が倒産したため、その「鉄道唱歌」の版権一切を買い取ったのが三木佐助(1852-1925)という人物である。

    この佐助は河内屋佐助4代目である。京都生まれで、三木家に丁稚として入った。三木家は文政以来、赤本の出版、貸本、漢籍などの販売を営んでいた。養嗣子となった4代目佐助は出版業と楽器販売などへも広げ、1925年合名会社大阪開成館三木佐助商店(現在の大阪書籍)と改称した。三木が「鉄道唱歌」第1集を刊行したのは明治33年10月のこと。楽団を組んで列車で宣伝行脚して売り込んだ甲斐あって、歌集は大好評となって、歌は全国に知れ渡った。

スエズ運河物語

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   「イギリスを打ち負かすには、エジプトを占領しなければならない」とナポレオンは言ったが、甥のナポレオン3世は平和的にエジプトに接近、エジプト副王のサイード・パシャと結び、レセップス(1805-1894)の手で地中海と紅海とを結ぶ運河の開設権を獲得した。運河の開通によってロンドン・ボンベイ航路はケープタウン経由よりも約1万キロ短縮される。スエズ運河開設にはイギリスは猛反対したが、1869年11月17日完成した。そのかげには、苦痛にみちたエジプト農民の無償の強制労働があった。しかし、6年後、運河建設の負債と財政を破綻させたエジプトは、持株を売りに出した。これを知ったイギリスのディズレーリは、議会の承認をあとまわしにして、ロスチャイルド家から400万ポンドを借りて、太守の持株40%を買占め、運河の支配権を得た。以来、第二次大戦の後まで、スエズはイギリスのアジア政策の戦略的拠点となった。しかしイギリスの支配体制も1956年のナセル大統領のスエズ運河会社国有化宣言で崩れ去った。

2011年11月16日 (水)

ジェンキンスの耳戦争

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    戦争は、普仏戦争のように当事国の名前をつけたり、太平洋戦争のように主な舞台となった地名をつけたりするのが普通である。ところが、1739年にイギリスとスペインとの間で起こった戦争には、「ジェンキンスの耳戦争」(1739-1748)という、なんとも奇妙な名前がつけられている。

    1731年、ロバート・ジェンキンス(1700-?)というイギリスの船長が、西インドからの帰途、スペイン警備艦に捕らえられ、片方の耳を切り取られた。そのころイギリスとスペインは西インド諸島における奴隷貿易の利権をめぐって、抗争が激化していった。だが開戦するには、何か口実がいる。そこで、イギリスの下院で取り上げられたのが、8年前のジェンキンスの耳切り事件だったというわけである。1739年10月、イギリスはパナマ地峡にあるスペイン貿易の重要拠点、ポルトベロを占領した。この戦争は、やがて翌年のオーストリア継承戦争に合流する。ジェンキンスの耳1つがパリ条約(1763年)後のイギリスの覇権の確立に大いに役立ったのである。ところで「ジェンキンスの耳戦争」と戦争名に冠せられたジェンキンス氏だが、ご当人がいつ没したのか歴史の記録にまったくなく、いまのところ不明である。

漱石の墓が人気スポット

    夏目漱石は明治維新後の日本文化を外発的なものと批判し、倫理的な個人主義思想に立脚し、近代的自我の確立を説いた近代の文豪の1人としていまだ根強い人気がある。とくに最近、「墓マイラー」といって都心の霊園を訪れることがブームになっている。雑司ヶ谷墓地は漱石の聖地として墓を参る人でたえることがない。

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見合い写真          道後温泉

Dh000153ロンドン塔Img_934456_26750284_1三四郎池(東京大学)

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Middle_1186912871前田卓子(草枕、那美のモデル)

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大塚楠緒子            明治時代の坊っちゃん列車

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20070418douzou2漱石公園(新宿区早稲田南町)E5a48fe79baee6bcb1e79fb3e381aee5a29雑司ヶ谷霊園の夏目漱石墓

クック諸島

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   南太平洋ポリネシアにあるクック諸島。1773年、英国人ジェームス・クックが来航。1888年英保護国。1901年ニュージーランド領。2011年3月、日本政府はニュージーランドと自由連合関係にあるクック諸島を国家承認した。日本の承認国は現在193ヵ国である。

住民のほとんどはマオリ系。面積237k㎡、人口13,572人。主産業はパパイヤ栽培や観光。

2011年11月15日 (火)

テイストが似ている

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   秋元順子の「愛のままで」を聞くと、大橋純子の「シルエットロマンス」を思い出すし、冬のソナタ「最初から今まで」は雅夢の「愛はかげろう」を思いださせる。こういうのをテイストが似ているというらしい。栃ノ心と黒海は似ていると思ったら、同じグルジアだった。映画「デイライト」(1996)はパニック映画「ポセイドン・アドベンチャー」とテイストが同じ。トライアングルはキャンディーズに似せて造ったのに、違うテイストだった。

相手の意表をつく作戦

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    日本サッカーが北朝鮮に敗れた。アウェーでの異様な雰囲気に充分な実力が出せなかったのか。数年前、サッカーの試合でカターニャのフリーキックの最中、トリノGKセレーニの前にカターニャの選手が壁を作ったが、その中の一人ジャンビート・ブラスマティが突然セレーニの前方でパンツを下げた。キーパーが予期せぬ出来事に唖然した隙に、フリーキックは見事に決まり、試合はカターニャが勝利した。ブラスマティの行為はワルテン・ゼンガ監督の指示による珍作戦だったそうだが、その露出作戦はルール上では合法であるものの、下品な行為として非難の嵐が吹いている。

    スポーツでは、スポーツマン・シップやフェア・プレーの精神が尊重されている世界なので、サッカー選手のパンツずらし作戦は世の顰蹙を買う破目になったが、軍事上では桶狭間や真珠湾奇襲攻撃のように相手の意表をつく奇襲作戦は古来から戦術として認められている。生死を賭けた戦いは常に一発勝負の厳しい世界だ。糞尿を敵に浴びせるのは当たり前の作戦である。

    相撲でよく知られる戦法に「猫騙し」がある。立ち合いと同時に相手力士の目の前に両手を突き出して掌を合わせてたたく。相手に隙を作り、有利な体勢を作るために使う戦術で決まり手にはならない。相撲の必殺技といえば「首投げ」だろう。相手が差してきたとき、とっさに片方、例えば左の手で相手の首を巻き、右の手で相手の左を殺して投げるのである。決まるとまことに華やかな手である。首投げは、相手の意表外に出て、咄嗟の間に打つことによって決まるものである。相手が首投げにくることを察したら、首をすくめて防ぐし、巻かれても抜くということになってなかなか決まらないものである。なんの手でも意表の外に出ることによって利き目があるものであるが、首投げはとりわけそうである。

アメリカ女性詩人の肖像

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              愛

  一時間 待つことは長い

  もし 愛がすぐ向こうにあるならば

  永遠に 待つことは短い

  もし 愛が終りにあるならば

          ディキンソン  安藤一郎訳

    エミリー・ディキンソン(1830-1886)はアメリカの女流詩人。厳格な清教徒の家に生まれ、1847年マウント・ホリヨーク女子学院に入学したが1年で中退、詩作を始めた。1855年妻子あるワーズワース牧師を知って以来、その詩的才能は堰を切ったようにあふれ出た。1755篇にのぼる作品はあまりに斬新な詩風のため生前は認められなかったが、死後次々に詩集が出版された。エミリーは生涯、家のなかにひきこもり勝ちに、きわめて孤独な日々をおくったといわれる。

   セアラ・ティーズデール(1884-1933)は、韓国ドラマ「冬のソナタ」でその詩が引用されてからすっかり日本でも知られるようになった。ヒルダ・ドゥーリトル(1886-1961)は筆名H.D.で知られる。エドナ・セント・ヴィンセント・ミレイ(1892-1950)とガートルード・スタイン(1892-1946)はアメリカ生れの詩人であるがヨーロッパで活動した。

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 セアラ・ティーズデール

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 H.D.

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 エドナ・セント・ウィンセント・ミレイ

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 ガートルード・スタイン

義和団

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  清代の白蓮教系の秘密結社。義和拳教徒が組織した自衛団。日清戦争後、1899年、キリスト教および列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。翌年北京に入城した各国公使館区域を包囲したため、日・英・米・露・独・仏・伊・墺の8ヵ国は連合軍を組織してこれを鎮定。清朝に4億5000万両の賠償金を支払わせた。

義和団 中国とヨーロッパ 中国近現代史双書1 G.N.スタイガー著 藤岡喜久男訳 桃源社 1967
義和団事件 小田嶽夫 新潮社 1969
義和団民話集 中国の口承文芸1 東洋文庫 牧田英二、加藤千代編訳 平凡社 1973
義和団の研究 村松祐次 巌南堂 1976
義和団と明治国家 小林一美 汲古書院 1986
義和団 光風社選書 G,N.スタイガー 光風社出版 1990

風景画家リチャード・ウィルソン

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   18世紀のイギリスの風景画家リチャード・ウィルソン(1713-1782)はロイヤル・アカデミーの創立の1人であり、名声をほしいままにしたが、晩年は酒に溺れ、その気難しい性格で人気は急落した。「リン・ナントル湖から見たスノウドン山」(1765年)は彼の代表作で、古典主義の伝統にのっとった理想化と調和を、自然主義的な実際の景観と渾然一体にすることに成功している。

クムトラ石窟

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    新疆ウィグル自治区クチャにある仏教石窟寺院の遺跡。5世紀から8世紀にかけて開窟された。出土美術としては大谷探検隊将来の塑像頭部(唐代)などが、東西の様式をよく表している。

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クムトラ石窟 中国石窟4 平凡社・文物出版社編 平凡社 1985

2011年11月14日 (月)

貯蓄ゼロ

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   日本人は世界的に貯蓄の好きな民族といわれてきた。きんさん、ぎんさんが国民的人気者になったとき、出演料はどうされているか、と質問された。すると「老後のために貯金します」と回答して話題となった。ところが最近、日本に異変が起きている。貯蓄の好きな日本人も、格差社会が拡大して、若い世代を中心に、貯蓄ゼロである世帯が急増している。復興増税でますます苦しむ庶民層。21.7%は貯蓄ゼロ世帯である。

税金がもったいないね「もんじゅ君」

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    高速炉「もんじゅ」の経費は9265億円と公表されていたが、実は総額は約1兆810億円だったことが明らかになった。「もんじゅ」の危険性はいまさら言うまでもない。ただこうして廃炉もせずに維持していけば毎日どんどんお金が消えていく。「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、なんとも皮肉にひびく。

鳰海

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    「鳰の湖」という珍しい四股名の力士が十両西4枚目にいる。滋賀県大津市出身であることから納得される方は古典の教養のあるかただろう。「鳰海(におのうみ)」は琵琶湖の古称で歌所である。古歌に「にほ鳥の潜く池水こころあらば君が我が恋ふる情(こころ)示さね」「にほの海やかすみて暮るる春の日にわたるも遠し瀬田の長橋」など。「鳰」とは「かいつぶり」のこと。「水に入る鳥」という国字である。かもに似た小さな水鳥で、琵琶湖には古くから多かったことから、琵琶湖を「鳰海(にほのうみ)」と呼んだのであろう。

世界で一番人口の少ない国

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英国領ピトケアン諸島

   南太平洋のピトケアン諸島は人口がわずか50人だが正式な国家ではなく英国領。独立国家としてはバチカン市国の人口は800人ほどだが、昼間人口は世界からの観光客で連日賑わう。ツバル(9,652人)やナウル共和国(10.210人)も少ないが、ニウエは1400人の人口がさらに減少している。世界で中国のみが承認している国であるが、ニウエがほんとうに世界で一番人口の少ない国になるであろう。

フレーメルを探せ

Flamel1 Nicholas Flamel(1330-1418)

   「ハリー・ポッターと賢者の石」でハリーがニコラス・フラメルNicolas Flamelがどんな人物か調べる場面がある。図書館のカードの中から探し出す。「タンブルドア教授は特に、1945年、闇の魔法使い、グリンデルバルドを破ったこと、パートナーであるニコラス・フラメルとの錬金術の共同研究などで有名」とある。

    小さな手がかりから何かを調べることは大変である。ハリーは目録カードを使った。いまはインターネットがある。しかしリサーチするための検索エンジンも有料のものから無料のものまで実に多くのものがある。東京大学のガコスや国立国会図書館の雑誌記事索引も十分に使いきれていない。学術研究データーベース・リポジトリというものもあるが文献目録だけで本文は閲覧できない。JAIRO(ジャイロ)やCiNii(国立情報学術研究所)は一部フルテキストが閲覧できる。しかしあまりにも検索ツールが多様なので専門家でなければすべてを駆使することはなかなか難しい。いま私は「フレーメル」という人物を探しているがなかなか見つからない。湯浅光朝「科学文化史年表」(中央公論社)には「1854年フレーメル、結核にサナトリウム療法を提唱」と記載されている。しかしフレーメルがドイツ人であること以外、情報が入手できない。

青年モネ

Monet_the_seine_at_argenteuil_18721アルジャントュイユのセーヌ川  1872年

  クロード・オスカール・モネ(1840-1926)は、印象派画家のうちで最もひたむきで、純粋な実践者であった。モネは1840年11月14日、食料品商で元船乗りのアドルフ・モネの長男としてパリに生まれた。1845年、一家はノルマンディーの港町、ル・アーブルに移り、父親は食料品店と船具商の経営を継ぎ、家計は潤っていた。セーヌ河口のこの港町で、クロードは、幸せな子ども時代、そして青年期を過ごした。

   アマチュア画家であった叔母のソフィー・ルカードルがクロード少年の絵画の才能を喚起したようだ。ル・アーブル市の学校へ通うようになったモネは、よく教科書者やノートに戯画を落書きしていた。15歳になるころには、彼の絵は町の評判になり、売れるまでになった。

   モネの絵は地元の額縁屋に展示され、これが彼の人生を決定するきっかけとなった。同じように、オンフール出身の風景画家、ウジェーヌ・ブータンもこの店に絵を展示しており、ここで二人は知り合った。ブータンは年若いモネに風景画を描くことを勧め、ともに制作に励んだ。当時、風景画は室内で制作されるのが一般的だったが、海や浜辺の風景画を得意としていたブータンは、「じかにその場で描かれたものこそ、アトリエで描かれたものにはない力強さと躍動感がある」と主張して、外光のもとで描くのを好んだ。

   最初、モネはブータンの作品を「気に染まない」と感じていたが、やがて彼の考え方を理解し、共鳴するようになった。そして1858年の夏、17歳にしてモネは、「突然、目の前のベールが引きはがされ、絵画がどうあるべきかを悟った。独自の姿勢を貫いて自分自身の芸術に専念しているこの画家のただ1枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれた」と述懐している。

   1859年、モネはブータンや叔母の推薦状を手にパリに出た。アトリエ・シュイスでは、のちに印象派の中心人物となるカミーユ・ピサロと知り合いになり、また、ギュスターヴ・クールベ、エドゥワール・マネら前衛芸術家のたまり場だった。モンマルトルのブラッスリー・デ・マルティルでしばしば芸術談義にふけったりした。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎)

羊羹

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    羊羹はもともと中国のもので羊肝と書く。羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくったむしもちのようなものだった。鎌倉・室町時代に、禅宗文化が渡来したとき、この羊肝餅が中国から日本に入った。獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国語句にある「羊羹」という料理名を用いた。肝(カン)に近いオンである羹(キョウ)またはカウだが、カウがカンと音転する。京都で煉羊羹ができたのは天正17年で鶴屋がつくったといわれている。

現代の知の冒険者たちの肖像

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ミッシェル・フーコー 1926-1984

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マックス・ホルクハイマー1895-1973

   ホルクハイマー、アドルノ、フロム、ハーバーマスなどフランクフルト学派でいまも生きているのはハーバーマスだけである。かれらは、現代の人間疎外を克服するためには、理性が自由な批判的精神を回復しなければならない、と説いた。ほかにポパー、レヴィ・ストロース、フーコー、デリダ。高校倫理用語集(山川出版社)に掲載されている現代の思想家たち。名前だけでは思想がわからない。顔を覚えよう。

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テオドール・アドルノ 1903-1969

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エーリッヒ・フロム 1900-1980

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ユルゲン・ハーバーマス  1929-

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レヴィ・ストロース 1908-2009

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ヘルベルト・マルクーゼ 1898-1979

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ジャック・デリダ 1930-2004

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カール・ポパー 1902-1994

エア恋愛してますか?

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   NHKあさイチ「キラキラ40夫は知らないエア恋愛」エア恋愛とはジェーン・エアの恋愛ではない。ギターの弾き真似をすることをエア・ギターというが、妄想だけの恋愛をいう。6割以上の主婦がエア恋愛の経験があるらしい。女性が小説、ドラマなどに理想の男性像を空想することは今に始まったことではない。歌舞伎役者、少女歌劇、映画スター、アイドル歌手、ベッカム、ヨンさま、チャン・グンソク。最近では新大久保のコリアンタウンでイケメン店員を見るというのがブームになっている。なかにはマッサージなど新風俗もある。生理学上は異性との適度な刺激は女性ホルモンの分泌によい効果があるらしい。心地よい状態にあることが更年期の女性にはプラス面もある。畠山みどり「♪恋をしましょう、恋をして、恋はするほど艶がでる」

君の瞳に乾杯

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   シネマの名セリフとしてハンフリー・ボガートのカサブランカ「君の瞳に乾杯」は人口に膾炙するところである。これは字幕翻訳者・高瀬鎮夫によるものでかなり意訳ともいえる。「Here's looking at you, kid.」直訳すると、「あなたを見ているということに乾杯」となり、「君のことを見ているだけで僕は幸せだ」ということだろうか。さらに美しいバーグマンを目の前にしたボガートの心境になりきって、その感動を込めてハードボイルド風に解釈すれば、「美酒を湛えた杯のような君の瞳に映っている男はじっと君を見つめていて、なんとそれは俺ではないか。その俺の感動を、いまここにこうしている俺の刹那を祝して君に伝えよう」となる。

2011年11月13日 (日)

本は見た目か、中味か

イギリスのことわざ。

Don't  judge a book by its cover.

本の中味を装丁で判断するな。

納得するが、表紙デザインの良いものは中味もよいものもある。

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                     真鍋博 装丁

プルキニエ現象

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    色は網膜の視細胞で感知しているが、明るい場所では赤が鮮やかに見え、青は黒ずんで見える。一方、暗い場所では青が鮮やかに遠くまで見えるのに赤は黒ずんで見える。これは、桿体と呼ばれる視細胞の働きによるもので、人の目は暗くなるほど青い色に敏感になる。これを利用して、最近では青色街路灯を導入して防犯対策などに用いている。「プルキニエ」とはチェコの生理学者ヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニエ(1787-1869)が解明したことから命名された。彼は他にも多くの生理学上の研究業績があるが、1823年には指頭の触覚についての研究で、指紋の形態を9型に分類している。またゲーテやシラーの詩もチェコ語に翻訳している。

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二番煎じも美味しいか

   「バットマン」と「グリーン・ホーネット」、「スーパーマン」と「スパイダーマン」、チャップリンとW.C.フィールズ。何事も二番煎じがある。ダイアン・レインの「トスカーナの休日」はキャサリン・ペップバーンの「旅情」だろう。韓国ドラマ「トンイ」も「チャングム」の二番煎じだが面白い。

   なぜか陰に隠れてしまう場合がある。モーツァルトの末子フランツも作曲家となり、「モーツァルト2世」を名乗ったが音楽史に名を残すほどの作曲家ではない。日本の作曲家中村二大は弟の八大の影にかくれてしまいその名を知られることはなかった。菅原昭子は桜田淳子と同じ秋田出身の歌手だが目立たなかった。中津川みなみも山口百恵と同期デビューだったが、影に隠れてしまった。織田信長の正室濃姫は高台院(おね)、淀君、築山殿、崇源院(お江与)のように戦国ドラマに登場しないのはなぜだろうか。

   有島武郎の「或る女」はトルストイの「アンナ・カレーニナ」に似ている。AKBの秋元康は、日劇の丸尾長顕に似てきた。

中国の植物学者の娘たち

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 ミレーヌ・ジャンパイノ       リー・シャオラン

   唐山大地震で両親を失い孤児院で育った李明(ミレーヌ・ジャンパノイ)は、孤島にある植物園に実習生として赴く。そこには怒りっぽいチェン教授と美しい娘陳安(リー・シャオラン)がいた。李明と陳安はお互いに強く惹かれ合い、肉体を求めるようになる。陳安の兄と無理やり結婚させられた李明は夫から暴行をうけ、ふたたび陳安と関係をもつ。ふたりが同性愛であることを知ったチェンは激怒するが、2人は身を守るために教授を殺害する。同性愛が禁じられている中国では法律により2人は銃殺刑に処せられる。「中国の植物学者の娘たち」(2006)は幻想的な雰囲気をだしながらもリアルな物語となってしまった。むかしハドソンの「緑の館」をオードリー・ヘップバーンが演じたが十分なファンタジーにならなかった。しかし森と妖精はよく似合う。

2011年11月12日 (土)

屈原

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   楚の王室に生れた屈原(前340-前278)は、懐王から信任を得て国事に奔走した。ところが彼の改革に反対する者に陥れられ、追放のうき目にあう。自分の政策を受け入れず、亡国の危機に瀕する楚国に心を傷め、「離騒」「九章」等の詩を書き残し、ついに汨羅の淵に身を投じた。

屈原 岩波文庫 郭沫若著 須田禎一訳 岩波書店 1956
屈原 岩波新書 目加田誠 岩波書店 1967
屈原 中国の詩人1  竹治貞夫 集英社 1983
屈原 中国古典入門叢書4  敦維森著 安藤信広訳 日中出版 1984
屈原研究 郭沫若 新文芸出版社 1953
屈原詩集 カラー版中国の詩集1  黒須重彦訳 角川書店 1973
曹植と屈原 小守郁子 1989
屈原 畑中昭彦 日本文学館 2007

新聞閲覧所

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    世界で最初に新聞と呼べるものが登場したのは17世紀でドイツに現れる。イギリスでは1695年に特許閲覧法が廃止され、新聞が自由に刊行されるようになった。オックスフォードにコーヒー・ハウス・ジェイコブスが創られたのが始まりで、1680年にはロンドン市内だけでも3000軒のコーヒーハウスがあったという。

山のあなた

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山のあなたの空遠く

「幸(さいわい)」住むと人のいう。

ああ、われひとと尋めゆきて、

涙さしぐみ、かえりきぬ。

山のあなたになお遠く、

「幸」住むと人のいう。

   ある図書館のレファレンスで、「山のあなた」以外のカール・ブッセ(1872-1918)の詩が読みたい、という依頼があった。図書館員が書庫にもぐって、詩集を片ッぱしから探した。「山のアナ、アナ・・・」と。しかし、「山のあなた」はなお遠く、ついに見つからなかった。「三人兄弟」(ドイツ詩評釈1、1960)があるだけだった。だれかドイツ語のできるかた、翻訳してくれないものだろうか。

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Over the  mountains,

far to travel, people say,

Happiness dwells.

Alas, and I went,

in the crowd of the others,

and retuned with a tear‐stained face.

Over the moutains,

far to fravel,people say,

Happiness dwells.

津島佑子と太田治子

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  津島佑子                 太田治子

  太宰治(1909-1948)には4人の子供がいる。石原美知子(1912-1997)との間に長女園子、長男正樹、次女里子。太田静子との間に生まれたのが、太田治子である。

    津島園子は早稲田大学卒業後、津島雄二(衆院議員)と結婚し、渡米。津島正樹(1944-1959)は病死。津島里子は作家・津島佑子。昭和22年3月30日生まれ。白百合女子大学文学部英文学科在学中から小説を発表。宮崎あおい主演のNHK連続テレビ小説「純情きらり」は「火の山 山猿記」を原作からドラマ化している。

   太宰と「斜陽」のモデルとされる太田静子との間に生まれた女児が作家の太田治子で、昭和22年11月12日の生まれ。高校2年の時に書いた「十七歳のノート」が注目され、吉永小百合主演で「斜陽のおもかげ」(昭和42年)として映画化されている。明治学院大学英文学科を卒業後、OL生活を経て、作家となる。代表作は「心映えの記」(昭和60年)。太宰治(津島修治)から一字「治」をとって「治子」に思い入れがあるのか、戸籍名そのままで作家デビューしている。

    それにしても、津島佑子、太田治子と二人の女流作家を娘にもつ太宰治の文学的家系もめずらしいことである。子供が父親の思い出を随筆として書くことは数多くあるが、本格小説の女流作家として成長したことは異例であろう。

難波大助の生と死

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   津田三蔵、安重根、難波大助、佐郷屋留雄・・・・戦前の暗殺史で、日本人が最もその名を知るのは安重根だろう。難波大助などは手元の日本史辞典にも名前すらない。NHKの歴史番組でもほとんど紹介されることはないだろう。やはり虎ノ門事件はいわゆる「未曾有の不詳事件」語ることすら憚られるタブーの日本史なのか。

    難波大助(1899-1924)は衆議院議員・難波作之進の四男。難波は幸徳秋水を深く尊敬していた。そうして秋水を処刑にしたものに対して憤激と憎悪を強める一方、労働運動の無力を批判してテロリストの道を選ぶにいたり、摂政宮裕仁を暗殺せんとした。1923年12月27日、摂政宮を虎ノ門付近で狙撃したが弾はガラス窓を打ち抜いて天蓋に達し、車内にガラスの破片が散乱したが、摂政宮に命中することはなかった。難波はその場で逮捕され、翌年11月13日、大逆罪で死刑判決、2日後の15日に刑死となった。執行が判決の2日後というのは異常な早さである。32年前の大津事件では、大審院はロシア皇太子を普通人に対する謀殺未遂として、津田三蔵を無期徒刑にした。これは司法権の独立として高く評価されたが、難波の死刑(大逆罪)については目を向けることはほとんどないように思える。ウィキペディアに無期懲役から死刑に変わった経過が記述されている。大助の父はその後、閉門蟄居して餓死したという。

2011年11月11日 (金)

我思う、ゆえに我あり

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    デカルトは哲学的考察をはじめるにあたって、誰しもが認めざるをえない確実で、明確・単純な事実から出発すべきであると考え、あらゆることを疑ってみる。その結果、疑っても疑いえない事実として、疑う自分につきあたる。それが「われ思う、ゆえにわれあり」という命題で、これから彼の哲学は組み立てられていく。

紀得   ジイド

湯思比  トインビー

馬克斯  マルクス

康徳   カント

里爾刻  リルケ

    詩人ハイネの話によれば、カントはいつも午後に散歩をしたが、その時刻は一分と違わなかった。それで町の人々は、ときどき止まったりする大通りの時計よりも、カントの通る姿を見て、めいめいの時計を合わせたという。

帰ってきた団次郎

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   NHK連続テレビ小説「カーネーション」に糸子が勤める紳士服店長に団次郎が出演している。資生堂のモデルとして売り出してから40年。大きく変貌した。でも元気そうだ。芸名も団次朗、団治郎、団時朗と4度も変わった。父はアメリカ兵で朝鮮戦争で戦死したという。「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹が帰ってきた。

今日の名画

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 ピサロ 「手押車」

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8330  +33

8242  -88

8155  -87

2011年11月10日 (木)

最後まで試合を捨てるな

    テレビ中継で野球解説者が、「勝負は下駄をはくまでわからない」という表現を使う。「勝負事は、すべて終わるまで結果はわからない」という意味。もともとは囲碁からできた言葉で「下駄を履く」は、勝負が終わって碁会所から帰るときを意味する。

  これによく似た表現はアメリカにもある。ヤンキースの名選手で監督を務めたヨギ・べラが「全部終わるまで試合は終わらない」という言葉は有名である。

 The game isn't over till it's over.

しかしアメリカには他にこんな英語表現もある。

 The opera isn't over till the fat lady sings.

「太ったプリマドンナが歌わないことにはオペラは終わらない」つまり「出てくるべき人が出てきて、やるべきことをやらないと、終わりにならない」、転じて、「全部終わってしまうまでは何が起るかわからない」「まだまだこれからだ。あきらめるのは早い」の意味に使われることがある。

明日はどんな日?

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    クマに襲われた

   明日は2011年11月11日。つまり1が6個も並ぶ日。あと90年も経たないと6個並ぶことはない。1を目出度い数字をみるか、始まりの数=リセットとみるか。

    雨に降られた。小石に躓いた。風呂場でころんだ。遅刻した。パソコンが壊れた。包丁で指を切った。鳩のフンが頭に落ちてきた。レジで計算間違いで10円多く支払った。お米が無くなった。株価が下がった。

洛杉磯ってどこなの?

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   ロサンゼルス。むかしの表記は「洛杉機」だったが、いまは「洛杉磯」(ルゥオーサンチー)が一般的。日本ではむかし「羅府」と表記していた。サンフランシスコは「圣弗朗西斯科」。日本ではむかし「桑港」だった。

華盛頓   ワシントン

巴爾的摩 ボルチモア

特倫頓   トレイトン

費城     フィラデルフィア

波土頓   ボストン

多倫多   トロント

芝加寿   シカゴ

密爾沃基  ミルウォーキー

印第安納波利斯 インディアナポリス

辛辛那堤   シンシナティ

哥倫布     コロンバス

亜特蘭大    アトランタ

梅肯       メーコン

杰克遜維爾  ジャクソンヴィル

新奥爾良    ニューオーリンズ

休斯敦     ヒューストン

奥斯汀     オースティン

阿爾伯克基  アルバカーキー

菲尼克斯    フェニックス

西雅日      シアトル

丹佛        デンバー

明尼阿波利朗  ミネアポリス

聖路易      セントルイス

哈里斯堡     ハリスバーグ

奥爾巴尼     オークバニ

金斯頓      キングストン

布法囉      バファロー

伊利        エリー

克利夫蘭     クリーブランド

哈密爾頓     ハミルトン

底特律      デトロイト

麦迪遜      マジソン

加里        ゲーリ

南本徳      サウスベント

皮奥里亜     ペオリア

里土満      リッチモンド

査爾維登斯   チャールストン

普囉維登斯    プロヴィデンス

波特蘭      ポーツマス

林奇堡      リンチバーグ

日韓の美人の基準

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   テレビをつけたら、めずらしく韓国の女優キム・ハヌルがNHKに出演していると思ったら、青木さやかだった。ムムム・・・似ている。歌手のチェウニにも見える。

カンガルーケアは大丈夫?

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    出産直後の母親が新生児を抱っこするカンガルーケア(kangaroo care )が日本でも7年ほど前から広がりをみせている。これまで出産後早期に赤ちゃんと引き離され、ママは喪失感や罪悪感にさいなまれることがあった。直接肌と肌がふれあい、親子のきずな作りや母親の自信回復、そして母乳育児にもよいそうだ。カンガルーケアは1979年、保育器が不足する南米コロンビアのボコダの病院で始まった。だが今朝NHK「あさイチ」では、カンガルーケアの最中に、乳幼児が急変し、救急搬送するという事故が急増しているとある。痙攣、呼吸停止、脳性麻痺など。やはりカンガルーケアの事故をなくすには、安全管理のもと保育士や助産婦がつきそうことが必要だ。

高僧列伝情報ファイル

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最澄 (766-822) 天台宗の開祖。比叡山で研学し、804年、入唐、翌年帰朝して、延暦寺に天台宗を開く。さらに、大乗戒壇の設立を図って、南都教団と対立。死の直後、会談設立が許された。
「伝教大師」半井桃水 延暦寺 大正10年

空海 (773-835)真言宗の開祖。804年入唐、密教を学び、2年後帰国。816年高野山に金剛峰寺を開き、823年京都の東寺を与えられ、両寺を中心に真言宗を弘めた。
「弘法大師」渡辺勝 大鐙閣 大正11年
空海 日本を創った人びと3 田村円澄 平凡社 1978
空海 朝日評伝選 上山春平 朝日新聞社 1981
空海 思想読本 宮坂宥勝編 法蔵館 1982
空海 シネマファイル 講談社 1984
空海 物語と史蹟をたずねて 八尋舜右 成美堂出版 1984
空海 高僧伝4 松長有慶 集英社 1985
空海 人と書 春名好重 淡交社 1988
空海 京都・宗祖の旅 沢田ふじ子 淡交社 1990
空海さま 少年少女伝記読みもの 山本和夫 西山三郎絵 さ・え・ら書房 1983
空海上人伝 山本智教 朱鷺書房 1983
空海大字林 2冊 飯島太千雄編 講談社 1983
空海!ちょっと悟って感動の人生学 大栗道栄 中経出版 1984
空海辞典 金岡秀友編 東京堂出版 1979
空海伝説の形成と高野山 白井優子 同成社 1986
空海と真言密教 読売新聞社 1982
空海と心霊密教 安達駿 大陸書房 1984

法然 (1133-1212)浄土宗の開祖。初め比叡山に学んだが、天台宗にあきたらず、1175年専修念仏の信仰に到達して浄土宗を開いた。旧仏教から敵視され、その訴えにより、1207年土佐国へ配流の処罰をうけたが、のち許されて帰京。
「法然上人と其弟子」 勝井辰純 真声社 大正13年

栄西 (1141-1215)臨済宗の開祖。2度宋に留学し、1191年禅宗と茶種を伝えた。鎌倉幕府の援助によって鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建てた。
「栄西禅師」木宮泰彦 禅門叢書第5輯 丙午出版社 大正5年

親鸞 (1173-1262)浄土真宗の開祖。法然の教えを受け、法然の罪に連坐して越後国に流された。法然の専修念仏の思想を徹底させて絶対他力の教と、悪人正機説を唱えた。旧仏教で破壊とされた肉食妻帯も、往生のさまたげにはならないとし、みずからも妻帯して悲僧非俗の生活を送った。
「親鸞聖人」高楠順次郎 山喜房仏書林 昭和8年

道元 (1200-1253) 曹洞宗の開祖。栄西に禅を学び、入宋して曹洞宗を伝えた。宇治に興聖寺を、越前に永平寺を開く。権勢に近づくことを排しねひたすら坐禅によって釈迦正伝の仏法を興隆しようとした。
「道元禅師伝」 塩沢観山 弘法窟 明治30年

施福多

   江戸後期に長崎に住んでいた医師、博物学者シーボルトは漢字表記は「施福多」である。なにやら縁起よさそうな漢字が並ぶが、これは日本流であって、中国でどのように表記するのかは知らない。いま西洋人名の漢字表記がマイ・ブーム。本日の誕生日マルチン・ルター(1483年)、シラー(1759年)は、「路徳」、「昔爾列爾」と書くらしい。命日はランボー(1871没)。「蘭波」

ジャーナリストの品格

    田原総一朗の名前を知ったのは大分むかしのことである。地方の役所に勤めていたとき、テレビ局から市長と対談したという依頼があった。インタビューは田原総一朗という。まだ幹部たちもその名を誰も知らないようだったが、私はテレビで何度か見ていたので、その取材は断ったほうがいいと言った。市長が忙しいことを理由に対談の話は流れた。あれから数十年が経つ。みんな高齢になったが、田原はいまもメディアで活躍している。その乱暴な言い分がテレビ受けするのだろう。「有本恵子さんは死んでいる」と発言したことも彼流の乱暴そのものだった。ご両親や遺族会が訴訟したこともうなずける。先ごろ裁判所は合理的根拠がないとして田原に100万円の支払いを命じた。田原は控訴するとなお強気の姿勢をみせている。だが状況は横田めぐみさんも2005年まで生存していた可能性があると「週刊朝鮮」が報道しているように、真実は誰にもわからない。結局、田原発言は憶測にすぎなかった。それは二葉百合子の歌謡浪曲「岸壁の母」を聞きながら「息子は死んでいる」と言うことと大差ない。報道の自由というが、むしろ報道の責任について考えさせられる。お互いに皆高齢なのだから、はやく100万円支払って潔く土下座すべきだろう。

武器商人ランボー

   あるとき友人の文学青年がランボーが好きだと言った。私もすかざず「ああ、シルヴェスター・スタローンのアクションはスゴイね」と言ったら、笑ってもう何も話さなくなった。ジョン・ランボーとアルチュール・ランボーは似て非なるものがある。先ず、スペルが違う。RamboとRimbaudである。サバイバル兵士とフランス詩人・同性愛者とは大きくことなる。詩人ランボーは傲慢、不作法、猥褻な言動で、ヴェルレーヌからピストルで撃たれたりするが、晩年はエチオピアで武器商人として成功する。癌でスペインの病院で亡くなる。背丈は180cmあり長身だった。

ゲーテとシラーの友情

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    近藤勇&土方歳三、夏目漱石&正岡子規、マルクス&エンゲルス、ピーター・カッシング&クリストファー・リー、星野仙一&田淵幸一、草薙剛&香取慎吾、澤穂希&宮間あや、チャゲ&飛鳥。古今東西を問わず、世の中には、不思議とウマの合うコンビがいる。ゲーテとシラーもなぜか相性がよかった。

友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする(シラー)

    ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)は、1759年11月10日、シュヴァーベン地方のネッカール河の小さな町マールバッハに生まれた。1787年7月21日、シラーはワイマールに着いた。ゲーテ(1749-1832)はイタリア旅行中であったが、ウィーラント、ヘルダーなどと会った。9月7日、ゲーテと初めて会う。1788年12月15日、シラーはゲーテの推薦によってイェーナ大学の歴史の員外教授に就任した。その後、二人の間で手紙のやりとりが交わされたものの、1794年7月20日頃、イェーナの自然科学の学会の帰途ケーテとはじめて胸襟をひらいて語り合うことができた。これが機縁となって二人は急速に親密な友情で結ばれる。

   シラーと付き合いはじめてゲーテの文筆活動は急速に活発になっていった。「ヴィルヘルム・マイステルの修業時代」が完成を見る(1796年)。シラーと共同で文芸批評的な短詩「クセーニエン」(1796年初めより)を書き続ける。1797年3月には「へルマンとドロテーア」ができる。そして「ファウスト」が書き継がれていった。

   1805年5月9日、46歳でシラーが没すると、ゲーテは数日間泣き続けた。親友の音楽家ツェルターにあててこう書いている。「私は自分が死ぬかと思ったが、その代わりに一人の友を失った。そしてこの友のうちに私の存在の半分を失った」。

キバと幸福

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    NHKでは、日本海海戦を大勝利にみちびいた知将の秋山真之、その兄の陸軍大将秋山好古、同郷で親友の俳聖正岡子規、三人の生涯を余すところなく描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を再放送している。率直な感想は、明治人の気概や爽快さなど横溢しており、ドラマとしては良質のものである。ただ日露戦争に続く日本の悲惨な歴史を考えると手ばなしで喜ぶこともできない人も多いだろう。ドラマの中でしばしば福沢諭吉の言葉がでてくる。「一身独立して一国独立す」と。ドラマのテーマを一言で言いえている。今日の朝日新聞の夕刊記事で梅棹忠夫さんのことが紹介されていた。梅棹忠夫さんの漢字廃止論は有名だそうだ。また宮沢内閣のとき、アジア太平洋問題に関する首相の諮問委員会が設置された最初のゲストスピーカーが梅棹さんだった。開口一番「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことがない、が私の結論です」と言われて、参加者はあっけにとられたそうだ。まるで福沢の脱亜入欧論ではないか。その梅棹さんはこんなことも言っている。「みなさまがたのなかには、明治生まれのかたがかなりたくさんいらっしゃるようにお見うけいたしますので、たいへん失礼な表現になるかとおもいますが、明治をしらない現代人からみれば、明治はやはり、はるかなむかしというほかありません。この一世紀は、日本の国家にとりまして、ひじょうな躍進の時代であり、いわば国家としての急速な成長期でありました。極東の一角のささやかな国家から、たちまちにして世界のいわゆる列強のひとつに仲間いりをするようになったのであります。数次にわたる対外戦争および第二次世界大戦における敗戦というきびしい試練をうけましたけれども、その傷もおおむね回復して、今日においては、国の実力からいいましても、すでに堂々たる大国であり、ふたたび第一級の国にのしあがったのです。もともと日本は、明治の初期には完全な農業国であって、だいたい国民の80%以上が農民でした。それがいまや農業人口は40%をきるところまで縮小しています。日本はそういう国がらにかわってきたのです。農業国から工業国にはっきり転換したのです。そして、それにともなって、国家の、あるいは社会の、いわば生理作用がかわってきたのです。わずか一世紀のあいだに、日本はすっかり体質がかわってしまいました。そういう社会あるいは国家の体質の変化にともないまして、国民の個人生活、あるいは人生についてのかんがえかたというのも、明治のころとくらべまして、もうすっかりべつなものになってしまっていると、わたしはおもうのです。(中略)明治時代のひとの人生の生きかたというものをかんがえてみると、これは理想にむかって驀進した猪突猛進型であったといえましょう。イノシシがキバをむきだして目的にむかって驀進した。そのとき、個人の目的と国家・社会の目的とは一致していたのです。そのものすごいエネルギーによって、かれ自身は立身出世し、同時に近代日本の建設がすすんで、このような繁栄がもたらされたというわけです。しかしながら、その繁栄の結果として、現代ではイノシシのキバは不要になったのです。あるいは、平和な社会生活においては、キバは邪魔でさえある。おしあい、へしあいの高密度社会で、そういうキバをふりまわされては、あぶなくて仕かたがない。他人が迷惑する。そういう時代になってきたのです。そこで、キバはすてるほかない。武装解除です。現代は、イノシシたちの武装解除の時代です。キバをうしなったイノシシとは、なんであるか。それはつまりブタでしょう。現代の日本の青年たちはまさにブタのごとき存在になりつつあるというわけです。(中略)これはどうも日本だけの話ではないのでして、近代国家の生活者一般の未来像なのです。」

 「キバと幸福」1959年11月10日の講演。梅棹忠夫のユニークな文明史観、未来像は注目に値する。1959年というかなり以前の講演であるが、今、「坂の上の雲」を見て、梅棹忠夫の著作に注目している。さらに講演は続く。

「そこでこれからどうなってゆくんだろうかということですが、こういう世俗のきわみのままでどんどんながれていって、われわれの社会はどうなってゆくのか。心の奥そこまで世俗化され、そのあげくのはてに、いったいどういうことになってゆくのかということです。どうもこれはへんないいかたでありますが、わたしは、そのような幸福追求とか生活水準の向上とかの世俗のきわみのはてに、もういっぺんに崇高な、なにか聖なるものがでてくる可能性があるのではないか、とかんがえています。聖なるものというのは、いったいどういうことか。かんたんにいいますと、目的がないということなのです。すくなくとも、実利的目的がない、そういう性質のものです。そのことを一所懸命にやったところで、わが身になんの利益も還元することがない、そういう性質のものです。つまりなにかを獲得するために自分はこうするのだということでなしに、おかえしを期待しない行為、これをわたしはひじょうに神聖なものだとかんがえています。完全な自己放出、あるいは、自分自身をなにかにささげてしまう、そういう生きかたです。さきほどから俗なるものといっているのは、それとはちがうものなのです。こうすればこうなるというような、やりとり関係のなかで人生が組みあげられている。幸福追求というものはやはりそうだとおもうのです。なにか自分が努力することによって、こういうものをかちとることができるのだ、というふうになっている。聖なるものというのはそうではなくて、全然おかえしを期待しないで自分自身をなにかにポッとほうりなげてしまう。こういうのが、聖なるものとよばれるものだとおもいます。そして、人間の聖なる行為というものは、世俗的欲求がいちおう充足されたときにでてくるものではないか、というのがわたしの仮説なのです。(中略)ブタに、もう一どキバがはえてくるかもしれないのです。ブタの再武装です。しかし、このときキバはすでに防御や攻撃に有効な、生物的生存目的をもったキバではありません。あたらしいキバは精神のキバです。人間の問題は、本来人間の精神の問題です。もし個人がキバをもつとすれば、それは精神のキバです。それは、生物的生存目的のためには不必要な武装です。それは、生物的な目的の喪失をこえて、人間精神の聖なる放出のための武装です。世俗の生活がみちたりたとき、精神の神聖な再武装がはじまるというわけです。」

エレベーターの日

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    本日は「エレベーターの日」。これは1891年、浅草の凌雲閣がオープンしたことを記念して制定した。電動式であったが、使い物にならずわずか1年で取り払われた。

  手動式エレベーターの歴史は古く、紀元前3世紀末のアレキサンドリアに始まる。アルキメデスが人力による巻き揚げ式のエレベーターを考案したといわれる。これを実用化したのがローマ皇帝ネロだった。ロープと滑車を利用して、奴隷たちが力をあわせてロープを引っ張ると、ゴンドラが上がっていくという仕掛けである。フランスのナポレオンは王妃が長いすそをひいて、階段を上るのが大変だろうと、椅子のケージをつけた簡易なリフトを製作させたといわれる。日本では徳川斉昭(1800-1860)が1842年、水戸に好文亭という図書館を建設したとき、本を運ぶためにロープを手繰ると昇り降りする小型リフトを設置した。以上は、いずれも手動式で、その後、水圧を利用するものや蒸気機関を応用したものが考えられ、1880年、ドイツのマンハイム博覧会で電動機を動力とする近代エレベーターがジーメンス・ハルスケ会社の発明品として初めて試運転された。

    日本で最初にエレベーターを考案したのは水戸藩主、徳川斉昭で好文亭の配膳用として使用した。電動式では、明治23年、浅草の凌雲閣(67m)の12階建てが最初であるが、本格的なエレベーターは明治25年の帝国ホテルのものである。(Archimedes)

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 好文亭のエレベーター

2011年11月 9日 (水)

寄らば大樹の陰

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  身を寄せるならば、大木の下が安全である。同じ頼るなら、勢力のある人のほうがよいというたとえ。英語表現では馬とロバをつかう。

Btter be the tail of a hores than the head of an ass.

中国では「大樹のそばにおればもす薪に事かかぬ」挨着大樹有柴焼

聖職者の過ち

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    世界遺産の神社の神主が電車内での痴漢容疑で逮捕された。昨日のニュースでは柔道金メダリストの教授がセクハラ容疑があるという。教師、公務員、医師など社会的地位の高い人たちの性犯罪が気になる。「浮世はなれた坊主でさえも木魚の割れ目で思い出す」久米の仙人は川のほとりで、洗濯をしていた女性の脹脛に見とれて神通力を失い、落下したという。

外国人名の漢字表記

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「アイ・アム・奥巴馬」

   西洋人名を漢字表記することは明治の日本や中国で幾種類の表記があるが、ここではおよそ中国でなされている一般的な表記をあげる。

アインシュタイン 愛因斯坦

アウグスティヌス 奥古斯丁

アウグストゥス 奥古斯都

アクバル 亜格伯

アーサー 亜撒

アショーカ 阿育

アムンゼン 阿夢森

アルキメデス 阿基米得

アレキサンダー 亜歴山

アンデルセン 安得仙  安従生

イエス  耶蘇

イソップ 伊曽保

ウィリアム・テル 維廉・底爾

ウェーバー 韋伯

ウェブスター 韋白斯特

エジソン 愛迪生(恵智遜)

エマーソン 愛黙生

エリザベス 以利沙伯

エンゲルス 恩格思

オバマ 奥巴馬

カエサル 該撒

ガリバルディ 加里波地

ガリレオ 伽利略

カント 康徳

キリスト 基督

グーテンベルク 哥天百格

グリム 格林

クレオパトラ 久麗王葩都羅

クロムウェル 格朗穵

ゲーテ 歌徳

ケネディ 肯尼第

ゴッホ 梵高

コロンブス 哥倫布(閣龍)

シーザー 獅威挫

シェークスピア 沙士比阿

シーボルト   施福多

シューベルト 叔伯特

シューマン 叔曼

ショパン 蕭邦(肖邦、暁邦)

ショーペンハウアー 叔本華

シラー 席勒 昔爾列爾

ジンギスカン 成吉思汗

スターリン 斯達林

ソクラテス 瑣格刺底

ゾラ   佐拉

ダーウィン 达爾文

ダンテ    丹第

チェーホフ  柴霍甫

チャイコフスキー 柴可夫斯基

チャーチル 察赤爾

チャップリン 卓別麟

チョーサー 綽塞

ディケンズ 迭更斯

デカルト 笛卡児

テニソン 丁尼生

デュマ 仲馬 杜馬

トゥルゲーネフ 屠格涅夫

ドゴール     載高東

ドストエフスキー 陀斯妥以夫斯基

ドビュッシー    徳布西

トルストイ 托爾斯泰

ナイチンゲール 奈亭給爾

ナポレオン 拿破崙 奈破崙 奈破翁 

ニーチェ 尼妥

ニュートン  奈端 牛頓 紐頓 

ヌルハチ 奴児哈赤

ネロ     尼禄

ハイドン   海頓

バイロン  拜崙

パスカル  巴斯格

バッハ    巴哈  巴赫

バルザック 巴爾扎克

フォーレ  佛瑞 

プーチン  普京

ブッダ    仏陀

フビライ   忽必烈

プラトン   普拉土  柏拉図

ブラームス 勃拉姆斯

フロイト    弗洛伊徳

ヘーゲル   海格爾

ベートーベン 貝多芬  比沙文

ペリー     彼理

ホメロス     荷馬

マテオ・リッチ 利瑪竇

マホメット 馬何美 馬哈黙

マーラー 馬勒

マルクス 馬克斯

ミケランジェロ 弥開爾安曰洛

ミルトン  彌爾敦

メーテルリンク 梅徳林克

メンデルスゾーン 孟徳爾頌

モーツァルト 莫扎特 

モンテーニュ 孟泰尼

ユゴー 維夕爾

ライプニッツ 来布尼疵

ラスキン 拉斯金

ランボー 蘭波

リスト   李斯特

リンカーン 林肯 琳閣倫

ルター 路徳

ルソー 盧騒

ルノワール 雷諾同

レオナルド・ダ・ヴィンチ 達芬奇 雷渥那徳

レーニン    列寧

ロダン    羅丹

ロック    洛克

ロッシーニ 羅西尼

ワシントン 華盛頓

ワット    瓦徳

スターカップルはなぜ結ばれないのか?

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    最近、シングル・レコードをよく聴く。西城秀樹と桜田淳子の曲である。カミさんがファンだったのでEP盤がたくさんある。「2人はお似合いのように見えるがなぜ結婚しなかったのか?」と聴いたら、カミさんも同感のようだった。聖子・ひろみ、明菜・マッチ、スター同士が結ばれるのは端で考えるほど簡単ではない。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニも「昨日・今日・明日」「ああ結婚」「ひまわり」「結婚宣言」などイタリアを代表する名コンビだが結婚しなかった。マルチェロが選んだのはカトリーヌ・ドヌーブだったし、ソフィアが選んだのは太っちょのカルロ・ポンティだ。マルチェロの160本以上の出演作のうちソフィアと共演したのは10本前後で意外と少ない。「ある愛の詩」のライアン・オニール&アリー・マックグロウ、「プリティ・ウーマン」のリチャード・ギア&ジュリア・ロバーツなどなど。

   ペ・ヨンジュンとチェ・ジウ、イ・ビョンホンとソン・へギョも結ばれることはなさそうだ。映画やドラマと現実とは違うといえばそれまでだが夢のカップルというのはなかなかないものである。実は最近になって知った話だが、小林旭と浅丘ルリ子は昭和35年ごろ同棲していていわば事実婚だった事が雑誌記事で明らかになっている。ちょっと納得した気分になった。

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    ジェームズ・ディーンとピア・アンジェリの2人も悲恋に終わった。旧教、新教の違いが原因ともいわれるが、ピアは歌手のビッグ・ダモンと結婚した。サンドラ・ディーも「避暑地の出来事」で共演したトロイ・ドナヒューと結婚せずに、歌手ボビー・ダーリンと結婚した。だがピアもサンドラもその後の人生はあまり幸福だったとは思えない。最愛のカップルというのがありそうだ。

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2011年11月 8日 (火)

懐かしの挿絵画家・生沢朗

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   井上靖「氷壁」挿絵

   兵庫県宍粟市出身の画家・生沢朗(1906-1984)の展覧会が宍粟防災センターで開催している。週刊朝日など連載小説の挿絵で知られる。立原正秋「冬の旅」、井上靖「氷壁」、石坂洋次郎「ある日わたしは」、松本清張「けものみち」など。その子にレーシング・ドライバー生沢徹がいる。

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夏王朝は実在したか

初期王朝の発生 中原平野の地には、早くから漢民族が拠って農業に従事していたが、邑という集落を形成し、これが国・郡という形態に発展する。やがて他の邑を圧倒して王とよばれ者が現われた。伝説によれば中国の古帝王に三皇五帝や堯、舜、禹の三王があり、禅譲によって継承されたが、禹の時代から王位が世襲となって夏王朝が成立したという。(およそ紀元前2070年ころ)

禹 治水事業に成果があったとされる中国最初の王朝・夏の始祖。(架空の人物とみられる)夏王朝は禹から14世代、17君、前後471年間(432年説もある)続いたといわれる。

夏王朝の実在性 現代中国の史学界では夏王朝が実在したことは常識となっている。河南省にある二里頭遺跡、二里岡遺跡が夏の遺跡とみられている。しかしながら、殷のように甲骨文字や青銅器銘文のような出土史料がまだ発見されていないので、夏王朝の歴史的実在が完全に証明されているわけではない。

「夏王朝は実在したか」和田清 日本学士院紀要10-1   1952
「夏王朝は実在したか」松崎寿和 「黄河・シルクロードの考古学」 1985

太田道灌「山吹の教え」

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  太田道灌が武蔵野で狩りをしていた時のことである。にわか雨にあったので、とある民家で雨具を貸してほしいと頼んだところ、家の中から出てきた少女は無言で、山吹の一枝をさしだした。道灌は少女の真意がわからなかった。あとで古歌「ななえ八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」(「後拾遺集」兼明親王)に託して「実の(蓑)」をかけて、貧しきゆえに雨具を貸せないことを詫びた少女の心情を知った道灌は、風雅を解することができなかったことを恥じて和歌の道に励み、のちには武将ながらも名高い歌詠みになったということである。

亜當と夏娃(アダムとイヴ)

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  中国で聖書の印刷がこのほど8000万冊を突破した。この印刷会社では毎月100万冊の聖書を発行しており、その数字は現在世界中で印刷されている部数の4分の1に相当する。当然、すべて漢字で表記されている。「亜當」は何と読むのだろうか。アダムである。以下、主な聖書漢字表記を記す。

エホバ 耶和華

ノア   諾亜

モーセ 摩西(孟西)

サムエル 撒母耳

エズラ 以斯拉

ネヘミア 尼希米

エステル 以斯帖

ヨブ    約伯

ダビデ  大衛

ソロモン 所羅門

イザヤ 以賽亜

エレミヤ 耶利米

エゼキエル 以西結

ダニエル 但以理

ホアセ  何西阿

ヨエル  約珥

アモス  阿摩司

オバテア 俄巴底亜

ヨナ    約掌

ミカ    彌迦

ナホム  哈巴谷

ハガイ  哈該

ゼカリヤ 撒迦利亜

マラキ  瑪拉基

マタイ   馬太

マルコ   馬可

ルカ    路加

ルツ    路得

イヴ    夏娃

アベル  亜伯

カイン   該隠

アブラハム 亜伯蘭

エデン   伊甸

大地の生命力を描く画家ピサロ

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 ピサロ
 「朝のコーヒーを入れる農家の娘」1881年
 シカゴ・アート・インスティテュート蔵

    ピサロは、この作品と「棒切れを持って坐る農家の娘」を一時最高の出来栄えの作品と言っている。息子に宛てた手紙には次のようにある。「お前は、私がもし再び出品するなら最高の作品をロンドンに送るべきだという。…しかし最高作が何かと自問するとき、誰でも大いに困るのだということはお前にもわかるだろう。「朝のコーヒーも入れる農家の娘」と「棒切れを持って坐る農家の娘」をロンドンに送っているのかというが、もちろんこれ以上完成された会心の作品を私には送れない。けれどもこれらはロンドンでは無器用とみなされた。…私が、田舎者の気質をもち、陰気な人間で、絵が荒削りの野性味をもっていることを思い出してくれ…」

    カミーユ・ピサロ(1830-1903)は西インド諸島のセント・トーマス島に生まれた。1855年、画家を志してパリに出て、アカデミー・シュイスに学ぶ。万国博覧会の美術展でコローの作品に感激してから、風景画一筋の制作を始め、サロンに出品するがいずれも落選。1863年の落選画展にはじめて並んだ。1870年の普仏戦争の時はロンドンに難を逃がれ、そこでモネとともにターナーらのイギリスの風景画を研究。戦後パリ北西郊外のポントアーズに居を構えて、ふたたび質朴な田園風景を連作。モネらと印象派グループ展に参加し、以後同派の最年長者としてただ一人毎回これに出品しつつげた。その作風は、印象派独特の技法を用いながら地味な堅実さを示し、モネやシスレーよりいっそう構成的な点に特色がある。

今日の名画

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ピサロ  「ボワザン村の入口」 1872年

パリ近郊の平穏な田舎の村の雰囲気がよく表現されている。

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ピサロ「雪に映える朝日、エラニー・シュル・エプト」 1895年

今日の名画

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ピサロ 「ルーアンの波止場」 1883年

   1883年9月から11月の間にルーアンで制作され、眺めは、ラクロワ島からセーヌ沿いに東側を見ている。そして河の彼方には、ケイ・ド・パリの工場群が見え、その背後の丘の上には、ノートル・ダム・ド・ボンスクール大聖堂のシルエットが現われている。カミーユ・ピサロ(1830-1903)は、1883年秋、ユージェーヌ・ミュレルの経営するホテルに3ヶ月間逗留した。ミュレルの本職はパン造りで、画家のアルマン・ギヨーマンの幼な友だちであったために、ギヨーマンを通じて他の印象派の画家たちとも知り合った。数年前、株式仲買人としての経歴を捨てて絵画に専念しようとしたゴーギャンも、1883年11月にルーアンにやってきてピサロと合流している。

男は度胸

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  江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。

ポントワーズの庭園

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 カミーユ・ピサロ「ポントワーズの庭園」1877

ピサロは1830年デンマーク領(当時)セント・トーマス島に生れた。

2011年11月 7日 (月)

プロ野球この10年

   プロ野球この10年でどう変わったのか?2000年の選手名鑑を見ると、巨人が長嶋監督、阪神が野村監督、ダイエーが王監督だった。長嶋・王・野村のビッグ3がグラウンドから消えたのがこの10年という感がする。ほかに10年前に監督だったのは、星野中日監督、梨田近鉄監督だが、ついに星野一人になる。野手ではイチローはまだオリックスに在籍していた。投手の寿命は短い。中日の岩瀬や山本昌は今も頑張っている。桑田、斎藤、槇原、佐々岡(広島)、籔(阪神)、工藤(ダイエー)、松坂(西武)、黒木(ロッテ)なども懐かしい。

消えた吉良の仁吉

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    岩手の瓦礫を東京都に移して処理することに関して石原知事の毅然とした態度は賞賛に値するものの、都民の地域エゴが露骨なのに今さらながら呆れた。「がんばろう!日本」は掛け声だけで、日本人に人情はないのか。義理人情といえば吉良の仁吉親分の生地、愛知県三州吉良も今年4月、西尾市に編入されて地図からその名が消えた。仁吉の恋女房お菊は穴太の徳次郎の妹。徳次郎が荒神山(三重県鈴鹿市)を奪ったため、清水次郎長への義理のため、お菊と離縁して、徳次郎を討った。血煙荒神山で勝利するもの、仁吉は鉄砲に撃たれて、斬り殺される。28歳だった。忠臣蔵の仇役、吉良上野介は三州吉良の領主。吉良上野介やヤクザ吉良の仁吉にゆかりある地名が消えて寂しく思う。

曲学をもって世に阿るなかれ

    漢武帝時代の官吏には、二つのタイプがあった。一つは儒教の教養によって登用された儒家的官吏であり、もう一つは法令と刑罰に任ずる法術的官吏である。司馬遷のいう酷吏である。そして、儒家的官吏の代表は公孫弘であり、法術的官吏の代表は張湯である。公孫弘は、かつて廉直な轅固生という儒者から「曲学をもって世に阿(おもね).るなかれ」とたしなめられ、また董仲舒から「従諛」(へつらいもの)と評せられた、俗物である。「曲学阿世」とは、ゆがんだ学問で(もしくは学問をゆがめて)世におもねることをいう。『史記』儒林列伝には「正学を務めて以て言え、曲学以て世に阿るなかれ」とあるのが出典である。かつて吉田茂が単独講和に反対する学者を非難して「曲学阿世の輩」と称し物議をかもしたことがある。そして、曲学阿世の輩は国家と出世欲のある限り、どの時代にも現れるものだ。いま、これを撃退するには、反出世、反権力で筆誅を加えるしかない。

「反出世」ということでは、やはり『史記』に次のような挿話がある。

    漢初、長安の都で評判だった司馬季主という易者のことばである。それは、あるとき、中大夫の宋中と博士の賈誼が、同じ日に勤め明けとなり、つれだって町に出た。折からの雨で人通りも少なく、一軒の店で易者が三、四人の弟子を相手に講釈をしていた。聞いていると、天地の道、陰陽吉凶の根源を説くさまは並の人物とも思えない。二人はすっかり感心して言った。「先生は大へんな方だ。どうしてこんな偉い方が、易者などというしがない商売をしておられるのか」易者はカラカラと笑って「学問のあるお二人とお見受けしたが、なんでそんな乱暴なことを言われる。あなた方の言う偉い人とはどういう人のことですかな」「賢人は認められて世に出る。これが偉い人物ではありませんか」そこで易者は滔々と説き出すのである。「真の賢者とは、毀誉褒貶をかえりみず、自分の信じたことをおし通す。相手が高位高官であろうがへつらわず、金や地位を得ても得々とせず、失っても平然としている、こういう人物であるべきでしょう。だが、あなた方の言う賢者とは何か。ペコペコして権勢にとりいり、徒党を組んで清廉の士を追いおとし、ひたすら出世を求める。私利をはかって、法を捻じ曲げ、下々をしいたげていばりちらす。ありもしない功績をかざりたて、空疎な文章を書き立てて国民をたぶらかす。位の上の者を偉い人と思い込み、人を蹴落として出世しようとする。強盗とどこが変わりましょう。才能もないのに位を占め、俸禄を貪り、有能の士を妨げる。これこそ位を盗む者ではありませんか。徒党を組んだ者が出世し、財産のある者が尊敬される。ひどい誤りではありませんか。真に立派な人物が用いられないようになったのは、あなた方の責任ですぞ。そもそも易者といものは、天地の法に則り、利害成否を判断し、わずかの謝礼で、人が過ちを犯さぬようにする。大金持ちになろうとか、出世しようとかは考えません。それが、なんでしがない商売と言われるのか」これを聞いて二人は「忽として自失し、茫乎(ぼうこ)として色なく、悵然として口を噤(つぐ)みて言うこと能わず」であったという。(『史記』日者列伝)

賈誼の政策 遠藤隆吉 東洋哲学10-4  1903
賈誼新書の思想 重沢俊郎 東洋史研究10-4  1949
賈誼と賈山と経典学者たち 漢初儒生の活動2 金谷治 東洋の文化と社会6  1957
賈誼の賦について 金谷治 中国文学報8  1958
漢書賈誼伝について 鎌田重雄 日本大学史学会研究彙報2  1958
賈誼の鵬鳥の賦の立場 伊藤富雄 中国文学報13  1960
賈誼  沢口剛雄 「中国の思想家 上」所収 1963
賈誼と顧租公鋳法 好波隆司 史学研究(広島)100  1967

因幡街道をゆく

  播磨国姫路から因幡国鳥取までを結ぶ因幡街道。宿場は11ある。飾西宿、觜崎宿、千本宿、三日月宿、平福宿、大原宿、坂根宿、駒帰宿、智頭宿、用瀬宿、河原宿。

    平福宿(佐用町)にある天神橋は13歳で兵法者と勝負した宮本武蔵初決闘の地である。

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 上から飾西宿、平福宿、大原宿、智頭宿

人生を降りることができない人たち

    西岡参議院議長が死去された。写真でみる姿はやつれはてて、壇上でよろめき、声もかすれ気味だった。国難に直面して重責を任され、自ら降りることはできず、まさに殉死のような印象をうける。長く「めざましテレビ」の司会をしている大塚アナウンサーは大病で入院。十分に養生することが必要だろう。天皇陛下もお風邪を召されて東大病院に入院された。ご高齢でありながら被災地への見舞いが堪えたのではないだろうか。一日も早いご回復を願うばかりである。天皇という地位は退位できず一生涯のものであるそうだが、自ら降りて楽隠居できない制度というものは考えさせられるものがある。

カインの末裔

   遅ればせながら李相日監督の映画「悪人」を見る。原作は吉田修一の芥川賞作品だけにテーマがしぼれている。最後で光代が「彼は悪人なんですよね」と呟くシーンが印象的。映画とは事件で作り手側が結論を押し付けるのではなく、観客がどのように感じるかが大事だろう。この映画などは観る人によって意見や感想が異なるだろう。やはり祐一のしたことは許せないとする人。世の中、誰が悪人なのか疑問を感じる人、さまざまであろう。殺人といえば人類史上初の殺人事件、カインが弟のアベルを殺したことを想起する。人間は愛されなかったり、自分を無視されたりすると、感情に走って、なにをしでかすかわからないものです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に背いた祐一は、せっかく光代という素晴らしい女性にめぐり合いながら一緒になることができまんせん。祐一、光代、祖母、遺族たちの悲み、苦しみ、が伝わってくる映画です。

人物は面体を調べよう

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    人物はその人となりや業績を十分に知り尽くしたとしても、面体が明らかでなければ半分も理解したとはいえない。神護寺の源頼朝像なども、これまであの姿形が頼朝だとおもっていたものが、実は足利直義といわれると大きくイメージが異なるであろう。イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンとノーベル平和賞を受賞したオースチン・チェンバレンはしばしば混同されることがある。二・二六事件では松尾伝蔵は岡田啓助と容貌が似ていたために、間違えられて射殺された。アメリカ俳優のライオネル・バリモアとジョン・バリモアはあまりにも有名な兄弟スターで誰一人混同する者はなかったが、さすがに年数を経ると区別がつかなくなってきた。

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  ネヴィル・チェンバレン     オースチン・チェンバレン

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   ライオネル・バリモア         ジョン・バリモア

ピレネー条約とベラスケス

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30年戦争(1618-1648)はハプスブルグ家とブルボン家の対立がからんだヨーロッパの国際紛争であったが、1648年のウェストファリア条約で講和が成立した。だがその後もヨーロッパの覇権をめぐる争いは続き、スペインとフランスだけは戦争が継続していた。10年後の1659年11月7日、両国の間を流れるビダソア川にあるフェザント島で講和条約(ピレネー条約)が結ばれた。

   スペインの宮廷画家として知られるベラスケス(1599-1660)は1652年に王宮配室長に任命され、多忙な晩年であった。1660年、ピレネー条約で定められたマリー・テレーズとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備のため、フェリペ4世に同行してフェンテラビア(バスク地方)に行った。だが慣れない長旅と高齢のため、ベラスケスはマドリード帰還後約1月のち病が高じて、8月6日、61歳で没した。

2011年11月 6日 (日)

日米野球カウント・コールの謎

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    今年からプロ野球の全試合でボールを先にコールするBSO方式に統一された。国際試合の機会も増加したためBSO式に改めたのである。しかし、なぜアメリカから野球を導入した日本が本場に逆らってまでストライクを先にコールするSBO方式を採用したのであろうか。これまでその理由を多くの研究者たちが古い文献や資料を渉猟し調査したが今もって謎とされている。「野球とアンパン」の著者・佐山和夫は「打撃優先のアメリカと守備優先の日本との違い」と考えている。ところが不思議なことに、大学野球では昭和7年頃、ボールのコールが先だった(牧野直隆の記憶)。逆にアメリカでは、ヤンキーススタジアムが創立された1923年当時のスコアボードは、ストライク、ボール、アウトの順番だった。アメリカでもBSOかSBOで、ゆれていた時期があった。しかし、その後、アメリカではBSOで定着し、日本ではSBOが定着した。日米野球カウント・コールの謎は終わらない。

北海道の義経伝説

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    源義経は平泉で死んだのではなく、主従ともども密かに居館を脱出して北へ逃れたという。東北地方には青森八戸種差海岸、貴船神社、福島城、龍馬山義経寺などに義経伝説がある。義経の足跡は津軽半島までとする説もあるが、北海道にも全域にわたり伝説がある。函館の船魂神社には、やっとの思いで北海道に上陸した義経一行が水を探しているところ、岩の上に現れた童子が指さすほうを見ると水がこんこんと湧き出ていたという童子岩伝説がある。国後島には弁慶が地元の人々と協力して知床半島の羅臼から国後島へ渡る橋を造ろうとしたが、村長の娘との恋がカムイの神の怒りにふれ、集めた材木が岩になってしまつたという「国後島の材木岩」伝説がある。「義経しりもち岩」伝説とは、義経が鯨をみて、一刀のもと蓬串に刺し、焼いて食おうとしたが、その串がたちまち折れてしまった。驚いた義経は尻もちをついたので「しりもち岩」と名づけられた。

アンドラ公国

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    ピレネー山中にあり、フランスとスペインに挟まれた国、アンドラ公国。面積は金沢市とほぼ同じで、首都はアンドラ・ラ・ベリヤ。8世紀カール大帝がおいたウルヘル伯領を起源とする。のちにウルヘル伯より宗主権を獲得したスペインのウルヘル司教と、フォワ伯爵領との間に争いが起き、1278年、宗主契約が結ばれた。フォワ伯の権限はナバラ王→ブルボン家→フランス大統領に引き継がれた。1993年、新憲法を制定し、ウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする独立国家が誕生した。現在の首相はアルベール・ピンタート。

チャイコフスキー、謎の死因

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  ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)は11月6日、生水を飲んで、当時流行っていたコレラにかかって死んだというのが一般に信じられている死因である。しかし、このことは死の当初から疑問があった。甥のユーリイ・ダヴィドフ(1876-1965)は、回想記の中で次のように述べている。

   「いくつかの新聞に死因に対する疑問が出た。毒殺、自殺、その他馬鹿げた説がささやかれ始めた。私は確信をもって証言する。ピョートルおじさんを死なせた病気は正真正銘のコレラで、その当然の余病が腎臓にきて尿毒症を引き起こし、そのために衰弱した体が回復できなかったのである」と。

   ところが最近出た国際的に権威のある音楽事典「ニュー・グローヴ」(1980年)が、チャイコフスキーの自殺説を支持する論文を採用したことで、死因に関する論争は再燃した。恐ろしい伝染病にもかかわらず、チャイコフスキーの死には多数の親戚、知人が集まり、死者の別れの接吻をしているが、誰一人としてコレラに罹ったものはいない。生水を飲んでコレラで死んだという話は捏造かもしれない。

2011年11月 5日 (土)

逆立ちさせられた間抜け王

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  ノルマンディー公ロベール

    ヴァイキングがフランク王国を襲いはじめたのは8世紀末からで、さすがのカール大帝もこれには手をやいたが、次のルイ敬虔王が貢物を与えてご機嫌をとったことが、ヴァイキングを増長させた。彼らの侵入はシャルル2世禿頭王、シャルル3世間抜け王のとき、北フランスの沿岸地方に進入してきた。

    ロロはヴァイキングの首領の1人で、911年にシャルル3世からキリスト教の改宗と国土防衛を条件に、ノルマンディー地方と王の妹をあたえられ、ノルマンディー公に封じられた。名をロベールと改めた。

     ロベールは、その君臣の誓いの儀式である臣従礼(オマージュ)をおこなうことになったときのことである。ロベールのそばにいた司教がかれに、「こんなすばらしい贈り物をうけるものはだれでも、あいさつとして国王の足に接吻するものだ」というと、ロベールは「わしはどんな人間にも、ひざをまげようとは思わない。他人の足に接吻するなどはもってのほかだ」と剣もホロロにことわった。しかしフランク人があまれにつよく頼むので、いきなり国王の足をかかえて逆立ちをさせて、ゆうゆうと臣従礼を終えたという。

トッカリショ岬

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  北海道室蘭市の首部を形成する絵鞆半島の最南部に突出する地球岬。だが古い地図帳ではトッカリショ岬とある。トッカリショの語源はアイヌ語「トカル・イショ」(アザラシの岩)で、かつて冬に室蘭近海をアザラシがこの付近に群泳していたそうだ。いまは先端の岬は地球岬が知られて、東にある海抜100mの断崖絶壁が13km続く浜をトッカリショとさすそうである。

我が家の楽園

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    フランク・キャプラーの「我が家の楽園」(1938)を見る。主演はジェームズ・スチュワートとジーン・アーサーというよりも、ライオネル・バリモアとエドワード・アーノルドである。ハーモニカを吹いて自由に気ままに暮らすヴァンダーホフ老人と銀行の大富豪を対照的に描く。全編新教の理想主義と人間愛に溢れている。ライオネル・バリモアの妹がエセル、弟がジョン。そしてジョン・バリモアの息子がジョン・ドリュー・バリモア。現在人気女優ドリュー・バリモアはジョンの孫娘。

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2011年11月 4日 (金)

イカすぜ!慎太郎

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   トリスバーが街にできて1杯50円だった昭和30年、小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞。弟裕次郎は映画デビュー。まったくイカした兄弟だった。

  岩手・宮古の震災がれきを受け入れたことで東京都に苦情が3000件寄せられた。「そんなの、誰がどうすんの。力のあるところが手助けしなくちゃ、しょうがないじゃないの」「一言、黙れ!」と一喝。まったく、今回だけは石原慎太郎に拍手喝采。

犬公方・徳川綱吉は名君か?

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    三代将軍家光には、家綱、綱重、綱吉という3人の子がいた。家光が死んだので、家綱は11歳で将軍になり、40歳で死んだ。次男の綱重は兄より先に35歳で死んだ。そこで三男の館林城主・綱吉が次期将軍になるはずであったが、大老酒井忠清は綱吉はふさわしくないと考えた。理由は綱吉が低身長症を患っていたからだ。しかし綱吉は勇猛果断で学問好きの英明な君主だった。堀田正俊らの意見で綱吉は35歳で五代将軍職についた。歴史上、綱吉が暗君といわれるのはあの「生類憐みの令」のためだろう。「伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉があった。江戸に多いものをいう。江戸に犬が多かったことは、綱吉の「生類憐れみの令」とも関係する。俗説では綱吉が戌年生まれであるから、犬を愛護したといわれる。実際は野犬が増えて疫病が発生したからである。「生類憐れみの令」は貞享4年(1687年)に発布された。中野、大久保に犬小屋が設けられ、江戸中の野犬を収容し、お犬奉行以下の役人をおいて丁重に世話をさせた。この令を犯したものは、死罪、遠島などの極刑に処せられたが、誤って刑にふれるものが多く数万人にものぼったという。しかしこの数字はのちの新井白石らの記録によるもので誇大な数字と考えられる。綱吉の悪評は大地震、勅願大火、宝永富士山噴火など自然災害に悩まされた庶民がその原因を為政者に押しつけたからであろう。綱吉は戦国遺風を儒学を重んじる文治政治に変革した名君であった。新田開発などの成功により、減税で庶民の暮らしに余裕がでて元禄文化が生れたのも綱吉の治世の成果である。

野球選手の必需品バリカン

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    バリカンは散髪屋さんが使うものだと思っていたら、いまでは家庭用のバリカンが市販されていて誰でも簡単に丸刈りにできる。今年、巨人の澤村一拓が9敗目したとき、自らバリカンで丸刈りになった。二岡智宏が不適切な関係があったときも、反省して丸刈りになった。バリカンはいま野球選手の必需品だ。

  ところで「バリカン」は英語ではヘアー・クリッパー(hair clipper)というが、なぜ日本や韓国では「バリカン」と言うのだろうか。明治16年にフランス駐在の外交官・長田桂太郎によって日本に初めて持ち込まれた物が、フランス製バリカン・エ・マール社だった。理髪師たちの間で、社名とは知らずに器具を「バリカン」と呼んだ。本当のフランス語はトンズーズ(tondeuse)という。

ツンデレ

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   ツンデレとは女性の性格や行動の傾向の一つ。普段はつんつんと無愛想な女性が、特定の男性と2人きりになると、でれっと甘えてくる様子から、アニメなどのキャラクターの性格設定として多く用いられる。もちろん語源は擬態語「つんつんする」「でれでれする」の合成したもの。「つんでれ」という言葉が生れたのは比較的新しいことであるが、現象面として捉えるとかなり古くから映画、ドラマなどによくみられる。女性からの積極的な恋愛表現ができなかったむかしにおいては、意中の人の前では、素直になれず、逆に「つんつん」した行動になるのが一般的であった。

    石坂洋次郎は女学校の教師経験から、「つんつん」と「でれでれ」の二態を巧みに青春小説に盛り込んだ。後年、石原裕次郎と芦川いづみが共演する青春映画ではインテリ女教師の芦川が「つんつんする」ものの、内心は石原に惹かれていく展開が、のちの学園ドラマでの王道としてパターン化された。1970年代の森田健作の「俺は男だ」や1980年代の「翔んだカップル」「高校聖夫婦」など。最近の宮崎あおい、上野樹里などのドラマにもよくみられる。

目力(めぢから)

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   女性雑誌などで「目力メイク」などという言葉をよく見かける。モテ顔のトレンドとしてデカ目メイク、猫目メイクが若い女性の間で人気だ。「目力(めぢから)」という表現は比較的新しい言葉で、むかしは眼力(がんりき)といった。アイメイクがほどこされた瞳の魅力的なシンガー、浜崎あゆみが登場した2000年以降、個性的な女性を感じされるメイクとして注目されだした。目力の強い女優としては、柴咲コウ、黒木メイサ、真木よう子などが登場した。だがむかしから瞳の大きな女優は人気があった。かつて映画は男性が主役と決まっていたが、ヒロインが主役となる女性映画がつくられるようになって、内面の強さが感じられる目の演技ができる女優が求められるようになってきた。元祖「目力女優」は日本では及川道子、ハリウッドではベティ・デイビスである。

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   ベティ・デイビス

四字熟語の格付け

   「あなたの好きな四字熟語は何んですか?」という質問に、「一発逆転」と答える人が多い。「一発逆転」は四字熟語なのだろうか。広辞苑には見あたらない。四字熟語の定義はあいまいで四字の漢字なら全てよいという広義の解釈もある。そこで四字熟語を格付けしてみる。

Aランク  絶体絶命 臥薪嘗胆  四面楚歌 汗牛充棟 万里同風 呉越同舟 心機一転 大風一過

Bランク 一期一会 大政奉還 我田引水 十人十色

Cランク 万里一空 成田離婚 一発逆転 無縁社会 偶像崇拝 
一球入魂

Dランク 国会中継 日露戦争 復興増税 三球三振

Eランク 仮免総理 柳腰外交 

A 中国の故事に基づいて成語として中国でも使われる。

B 日本で見た形が四字漢語になっているもの

C 熟語として未成熟なもの

D 複合しただけで特別の表現効果のないもの

E 死語

2011年11月 3日 (木)

アルチンボルド

    マニエリストの宮廷画家ジュゼッペ・アルチンボルド(1527-1593)は珍奇な動植物などを組み合わせて肖像画を描いた。1566年にアルチンボルドの最初の主君ハプスブルクのマクシミリアン2世が彼のデザインの版画化を許したので、ある「もの」を積み重ねて予想外の「もの」をつくりだす絵を「アルチンボルド風」と呼ばれて広まった。その後は長く、忘れさられたが20世紀初頭にダリやエルンストらシュールレアリストによって再評価された。

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智恵子記念館

10月6日、智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました。昨夜遺骸を自宅に連れてきました。あはれな一生だったと思ひます。(難波田竜起宛てはがき)

    高村光太郎の妻智恵子は昭和13年、肺結核で亡くなった。造り酒屋であった智恵子の生家には智恵子記念館(福島県二本松市)がある。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。

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岩波新書新赤版

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    岩波新書の「新書」とは何か。文庫本より大きくて、解説的な教養書を中心とした叢書という意味だろうか。命名者は竹久夢二の研究家でも知られる長田幹雄(1905-1997)である。昭和13年11月に「岩波新書」が創刊されたが、この年の1月に女優の岡田嘉子が新協劇団の演出家の杉本良吉と共に樺太国境を越え、ソ連に亡命したことが話題となった。「岩波新書の新は新劇という言葉の連想から生れた」という説がある。新劇とは、新協劇団、新築地劇団、文学座である。新劇とは左翼的であったし、革新的な意味合いで「新書」という命名を好んだのであろう、と推測している。

ところで岩波新書には、赤版、青版、黄版、新赤版の4種類がある。新赤版が一番点数が多くて現在、1336点刊行されている。新赤版の名著といわれるものを若干、列挙してみる。

日本社会の歴史 網野善彦
日本語練習帳 大野晋
日本の経済格差 橘木俊詔
コンクリートが危ない 小林一輔
市民科学者として生きる 高木仁三郎
ボランティア もうひとつの情報社会(235) 金子郁容
地球環境報告(33) 石弘之
インターネット(416) 村井純
イスラームの日常世界(154) 片倉もとこ
大往生(329) 永六輔
新しい文学のために(1)  大江健三郎
日本語(1)(2)  金田一春彦
新哲学入門(5)  廣松渉
原発はなぜ危険か(102)  田中三彦
ハイデガーの思想(268)  木田元

世界貿易センタービル

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   古い映画を観ていると2001年の同時多発テロで崩壊した世界貿易センタービルが当たり前のように聳えていることがある。背景の一瞬であるが、主役よりも観客の注目をひくであろう。映画「デイライト」のラストシーン。マンハッタンとニュージャージーをつなぐトンネルの大事故。シュワルツェネッガーの映画「コラテラル・ダメージ」は公開が延期となったことがあるが、シルヴェスター・スタローンの1996年度の作品はむかしの「ポセイドン・アドベンチャー」に酷似していて笑える。パニック映画は豪華キャストが魅力の一つだが、90年代、スターを集めることは困難な状況になっていたのだろうか、キャストがしょぼい。「ライムライト」のクレア・ブルーム、「バニシング・ポイント」のバリー・ニューマンが出演している。

ナイチンゲールはアルチンボルド風の絵がお好き

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   中央の人物がチョイバルサン

    世界史の王は渾名で呼ばれることがある。短軀王(ピピン3世)、禿頭王(シャルル2世)、無能王(エゼルレッド)、失地王(ジョン)など。清の初代皇帝ヌルハチも珍しい名前だ。ハワイのカメハメハ1世。現代史ではメキシコのパンチョ・ビリャ、アルジェリアのベン・ベラ、インドネシアのハビビ、モンゴルのチョイバルサンなど。ゴキブリ、ダニ退治かと思わせる。その名のとおりノモンハンでは関東軍が撃退された。親ソ連政策をとったが、晩年スターリンの粛清によって1952年、モスクワで謎の死を遂げた。中国では喬巴山と書く。

   「世界珍名偉人伝」という本があるそうだ。現物は未見であるが、イザベラ・オチチ(アテネ五輪5000m2位)、ブランコ・ウンチーニ(イタリアのライダー)、ヤンネ・アホネン(スキージャンプ)などの珍名が紹介されている。

「文化の日」雑感

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    戦前、11月3日は「明治節」で明治天皇の誕生を祝う日であった。現在では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としているが、GHQの占領下、明治天皇を讃美することは表向きはばかられた時代だった。そこで憲法公布の日を明治節にあわせて、カムフラージュして明治天皇の誕生を祝っていたのである。最近では糊塗する必要もないので、「文化の日」を堂々と「明治の日」に改めようとする動きもみられる。国民の祝日をみると6つは天皇家に由来するものである。「建国記念の日」は神武天皇が即位したとされる日。かっての紀元節である。「昭和の日」は昭和天皇の誕生日。「海の日」は制定当初7月20日だった。この日は明治天皇が明治丸で横浜港に帰着した日を記念している。「勤労感謝の日」は皇極天皇時代の新嘗祭に由来する。そして今上天皇の誕生を祝う「天皇誕生日」。

2011年11月 2日 (水)

本籍地は富士山、それとも甲子園球場

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    タレントの上沼恵美子がタクシーに乗り、家までというと、運転手は大阪城にハンドルを切る。本当に大阪城に居住するのは不可能だが本籍を移すのは誰でも可能である。最近、なぜか本籍地を移すことがブームで、甲子園に本籍がある人は699人になったという。一番人気はやっぱり皇居で2100人。無人島の南鳥島にも100人以上の人の本籍がある。東京ディズニーランドや国会議事堂、網走刑務所、東京タワー。これから東京スカイツリーが増えるだろう。日本の戸籍制度って意味あるんだろうか?

裏切りの世界史

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   ゲオルギー・ガポン

    世界史における裏切者といえば、イスカリオテのユダ、ブルータス、明智光秀、小早川秀秋などが思いうかぶ。もしもユダが裏切らなかったらイエスが十字架で処刑されなかっただろう。そして、100歳まで生きて大往生をとげていたら世界史はどうなっていたであろうか。

    ロシアのゲオルギー・ガポン(1870-1906)は皇帝側のスパイで現代史の裏切者の代表である。1905年、ガポン神父によって指導された6万人の平和行進がサンクトペテルブルクで行われた。突如、軍隊が発砲し、少なくとも1000人以上の市民の死傷者がでたといわれる。いわゆる血の日曜日事件である。ロシア正教会のガポンは、政府の工作員であったが、翌年、フィンランドで社会革命党によって暗殺された。

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北村透谷と石坂美那子

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北村透谷(1884-1894)は、明治元年12月29日、没落した小田原士族・北村快蔵の長男として、小田原唐人町に生まれる。最初、政治に志し、民権運動に情熱を燃やしたが、大阪事件に参加しなかったことで挫折を経験する。明治20年7月ころ、三多摩民権青年の指導者の石坂昌孝の長女石坂美那子(1865-1942)と知り合う。石坂は許婚者平野友輔を捨てて、明治21年11月3日、透谷と数寄屋橋教会で結婚する。透谷はその翌年長詩「楚囚之詩」を発表。次いで明治24年劇詩「蓬莱曲」を書き詩人としての新しい出発を始めた。明治25年正式に結婚届を出し、北村美那子となる。だが、精神の自由と民衆の解放を求める透谷の戦いは困難を極め、明治27年、ついに自宅の庭で縊死を遂げた。時に、満27歳4ヵ月余。

 夫透谷に先立たれた美那子は、明治32年6月、長女英子を義父に預け単身渡米する。苦労しつつインディアナ州のユニオン・クリスティアン・カレッジに学び、のちオハイオ州立ファンアンス・カレッジに入学。明治39年6月卒業。明治40年1月帰国。義母と娘を向かえて東京牛込宮比町に住む。以後、豊島師範学校、品川高等女学校で約6年間英語教師をつとめる。昭和3年1月から透谷の詩の英訳をはじめる。昭和17年、76歳で死没。

  透谷の親友で、美那子の実弟であった石坂公歴(いしざかまさつぐ、186-1944)は、大阪事件で父昌孝が逮捕されるや、アメリカに亡命して「新日本」や「革命」などという新聞を発行し、抵抗をつづける。のち西部の開拓者、アメリカ、カナダ、アラスカを転々と放浪して、昭和19年、日本人強制収容所で波乱の生涯を終えた。

有名人と糖尿病

    田中角栄は、天丼、ラーメン、すき焼きなどにジャブジャブと醤油をそそいで、十分しみこませて食べたという。塩分過多な不健康な食事で重度の糖尿病になった。胃潰瘍で知られる夏目漱石だが、晩年は糖尿病で苦しんだ。織田信長も糖尿病だったといわれる。糖尿病神経障害で、イライラして残虐行為をくりかえした。源頼朝は落馬で死んだといわれるが、「猪熊関白記」には「飲水病」と記されている。飲水病とは今日でいう糖尿病のことで、落馬も糖尿病による両脚衰弱が原因ではないかと推測される。

スウェーデン・デザイン

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   オーレ・エクセル         ココアアイズ

   シンプルで洗練された美しいガラス製品や家具で知られるスウェーデン・デザイン。ボルボ、サーブの自動車、ハッセルブラッドのカメラなど、その実用的かつ美しいフォルムはまさに芸術品である。スウェーデンのグラフィック界の巨匠といえばオーレ・エクセル(1918-2007)。その名を世に広めるきっかけとなったのは、チョコレート企業マゼッティ(現ファッツェル)の「ココアアイズ」(1956)。

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美人すぎる革命家ザスーリチ

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    ロシアの女性革命家ヴェーラ・ザスーリチ(18849-1919)はスモレンスク県の小地主の家に生まれ、モスクワで高等女学校を卒業後、教員免許を取るためにペテルブルクへ赴いた。ナロードニキの運動に参加して、ネチャーエフ事件で逮捕され、投獄・流刑となった。その後キエフにおけるナロードニキの蜂起に参加したのち首都に潜行し、ペテルブルク警視総監を単独で狙撃して逮捕されたが、陪審裁判で無罪となってスイスに亡命した。ブレハーノフらと「黒土分割派」に属したが、スイスに再亡命してからナロードニキと手をきり、ロシア最初のマルクス主義グループ「労働解放団」の創設に加わった(1883)。マルクス、エンゲルスと文通し、彼らとの往復書簡はマルクス主義の重要な文献となっている。レーニンとも親交があって、イスクラ(火花)紙などの編集にもあたったが、ロシア社会民主労働党の分裂後はメンシェヴィキに属してレーニンに反対した。第一次大戦で排外主義者となり、二月革命後はブレハーノフらと反革命派の統一派に所属した。

「成田離婚」は四字熟語か?

    四字熟語の定義はかならずしも統一されていない。広義の解釈では四文字で構成された熟語を四字熟語とする意見もある。広辞苑には「漢字4字で構成される成句や熟語」とある。成句を厳密に適用するならば、「百発百中」「百戦百勝」「無芸大食」は四字熟語であるが、「三球三振」「百人一首」は四字熟語ではない。「一球入魂」は、古人の作った詩文の句ではないし、新語であるが、広辞苑には「野球で投手が一球に全身全霊を込めること」と熟語として採録されている。このように厳密に四字熟語を判別することはむずかしい。

   「成田離婚」という新語がある。広辞苑では採録されていないが、熟語ではなく、流行語と判断したのであろうか。「結婚したての男女が新婚旅行を機に離婚してしまうことを指して使われた、1991年頃の新語。スピード離婚」。広辞苑の基準としては、「成田離婚」は四字熟語としては認めていないようだ。狭義で四字熟語として認められない漢語を調べてみよう。

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ハンカチと別れ

   ハンカチが服飾品として盛んに使われだしたのはブルボン王朝のフランス宮廷でのこと。貴婦人たちが絹のハンカチの美しさを競いあった。当時はロココ調が流行し、長方形、三角形、丸型など様々な形のものが存在していた。そこでマリー・アントワネットは正方形が使いやすいとルイ16世に進言して、1785年に「ハンカチのサイズは縦横同一にせよ」という法令を布告させた。それに因んで日本ハンカチーフ協会では11月3日を「ハンカチの日」に制定した。(昭和58年)理由はマリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に近い祝日による。

    ハンカチはかつてはイニシャルや紋様を入れた愛の贈り物の定番だった。シェークスピアの「オセロ」では、オセロが妻デスデモーナに贈った一枚のハンカチが悲劇をもたらすことになる。また最近では、ハンカチを恋人に贈ると「もうお別れしましょう」という意味になるという。トレンディ・ドラマの先駆けとなった「東京ラブストーリー」の最終回で、赤名リカ(鈴木保奈美)が永尾完治(織田裕二)の故郷を訪れた帰りに、駅のホームの柵に結びつけたハンカチ。それには赤い口紅で「バンバイ カンチ」と書かれてあった。

2011年11月 1日 (火)

鶯宿梅

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   村上天皇の時、清涼殿前の梅が枯れてしまった。使いの者に命じて、西の京のある家に立派な梅の木を掘り取ってきたが、そのとき、その家の主人は、木に文を結びつけた。風刺の歌が女の筆跡で書かれていた。

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   尋ねさせてみると、その家は紀貫之の娘紀内侍の住む所であった。このことを、村上天皇は遺憾に思い、梅の木を返したという。

自分の息子に種痘を接種したのはジェンナーではなかった

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    18世紀のイギリスでは天然痘はめずらしくなく、子どものうち3人に1人が3歳までに亡くなるという恐ろしい病気だった。1721年にボストンに天然痘がさかんになったとき、コットン・マザー(1663-1728)がトルコ式接種を提唱し、ワクチンで人工的に免疫を獲得させることをすすめた。これには反対も多かったが、医師ザブディエレ・ボイルストンは自分の息子に天然痘のウィルイを接種して成功した。この方法では危ない面があり、これを牛痘から種痘法を発見したのがエドワード・ジェンナー(1749-1823)である。ジェンナーの逸話して知られる、息子に接種したという話はボイルストン医師の話が混同しているようである。

ちょこっとおでかけ

   カリフォルニア州アナハイムにディズニーランドが誕生したのは1955年。世界にあるテーマパークはディズニーランドを模したものが多い。だが世界的不況でその輝きを失いつつある。倉敷チボリ公園は数年前に閉園している。各地でも多くの遊園地、テーマパークが消えていく。長崎ハウステンボスは経営者交代で黒字化が話題となった。経費の見直しでなんとかもちこたえている。だが趨勢は少子化と不況でやはりレジャー産業は厳しい。全国各地にユニークなテーマパークもあるが今のうち見ておこう。

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「脱原発」が今年の流行語で終わらないことを願う

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    書棚の奥にしまっていた岩波新書の古い解説目録(1976年秋)がやっとでてきた。実は「図書1997」の企画で「私の薦めるこの1冊」という429人の著名人のアンケートをみていて、武谷三男の「原子力発電」「原水爆実験」を挙げる識者が1人もいなかったことが気になっていたからだ。1997年という時代は高度経済成長を経て石油ショック、ロッキード事件、冷戦の終結、バブルとその崩壊、平成不況、阪神大震災という背景にあった。大江健三郎がノーベル賞を受賞直後で「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」「あいまいな日本の私」をあげる識者も多い。しかし核問題、原発、農村などへの識者の関心は低い。岩波新書の古典といわれる「万葉秀歌」(斎藤茂吉)、「新唐詩選」(吉川幸次郎・三好達治)、「日本の思想」(丸山真男)、「知的生産の技術」(梅棹忠夫)など著名な作品が目立つ。岩波新書には地味な問題、日本の階級構成、労働問題、人口集中と過疎、農村と医療などをテーマにしたものが多いのが特色の一つだが、残念ながら選ばれることはなかった。だが今年は3.11以降、一変したといえる。大江健三郎、鎌田慧、落合恵子の「脱原発集会」、池澤夏樹・坂本龍一・池上彰ほか「脱原発社会を創る30人の提言」、俳優・山本太郎の発言などなど枚挙に遑が無い。これまで「原子力平和利用」や「原発は環境にやさしい」はすっ飛んでしまった。「脱原発」が売文業のネタになることがおそろしい。オセロゲームのように白黒が豹変する日本人がおそろしい。「脱原発」「3.11」という軽いフレーズが流行語となることもおそろしい。またこの社会不安に乗じて増税や便乗値上、福祉の切捨ての二次災害、三次災害がおそろしい。

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