近江観音寺城と石部城
観音寺城は近江守護六角氏の居館である。全国屈指の規模の中世山城で、石垣など遺構が残る。六角義賢(号は承禎)は織田信長と敵対したため、1574年に佐久間信盛に攻められ、義賢・義覧父子は観音寺城を放棄し、石部城に逃れた。石部城は臣下の石部家清の居館である。義賢は石部城落城後、流寓の晩年を送り、1598年に78歳で没した。石部家清は、義賢におくれること1年半、1599年に没した。石部城址にある石部氏の菩提寺、善隆寺には石部家清自筆の一族縁者の法名軸が所蔵されている。それには、「承禎様 一念のこころは西へうつせみの、もぬけてはてたる身こそやすけれ」と、主君義賢の死を悼んでの詠草が書かれている。
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