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2011年10月31日 (月)

ワインと印刷

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  アメリカの書誌学者ダグラス・C・マクマートリーは「人類の文化史上、重要さの点で活版印刷術の発明に勝る大きな出来事はない」と言っている。長い間いろいろな説があったが、今日では、ドイツの金属職人ヨハネス・グーテンベルク(1399-1468)を印刷術の発明者とするに異議をはさむ者はほとんどいない。グーテンベルクが発明した印刷機は、オリーヴやブドウの搾り機からヒントを得て、木製の平圧式印刷機を作った。金属の活字にインクを付け、紙に押しつける、この技術がブドウ搾り機によく似ている。その実用化は一般に1445年頃とされる。これを企業化させたのは、ヨハン・フスト(1400-1466)とペーター・シェッファ(1430頃-1503)で、彼らはグーテンベルグから未完のまま引き継いだ「グーテンベルグ42行聖書」(1455年刊)を完成させ、「聖詩篇」(1457年刊)、「48行聖書」(1462年刊)、その他数多くの書物を刊行した。

ゴーストライターでノーベル賞!?

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  むかしのタレント本には大抵ゴーストライターがいた。林真理子は松田聖子のゴーストライターだったそうだ。学術的な本に代作はないのだろうか。昭和4年の村川固堅の「希臘史」は実は息子の村川堅太郎が書いたという噂を読んだことがある。ノーベル賞作家、川端康成は遅筆なので数人のゴーストライターがいたらしい。「東京の人」は梶山季之が代筆、「乙女の港」は中里恒子が原作者で川端が添削したらしい。「文章読本」も伊藤整の代筆。なんと「眠れる美女」は三島由紀夫が代筆したという噂もある。ライトノベルの「万葉姉妹」「夕映え少女」「こまどり温泉」なども疑わしい。

祝瓶山とヒメサユリ

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    山形・朝日連峰の最南端にある祝瓶山(いわいがめやま)は東北のマッターホルンといわれ、多くの登山家が急勾配に挑む。原始的なブナ林や初夏にはヒメサユリなどの高山植物が楽しめる。

ドビュッシーとエンマ

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   石田ゆり子主演のドラマ「不機嫌な果実」を見る。麻也子と夫航一、野村、工藤をめぐる四角関係でドラマは展開する。音楽評論家工藤がチェロをひく。フォーレの「シシリエンヌ」。つまりドビュッシーとエンマとフォーレの関係を予感させる。原作の林真理子の小説にはない。脚本家の中園ミホの創案かもしれないが上手い。

ガリレオの受難

7c5b8aefbcc09dd85fbb0f4c98728139ヴァチカンの宗教裁判に引き出されたガリレオ ジョゼフ・フルーリ 1846年

    ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)がはじめて望遠鏡を空に向けた時、宇宙の法則はコペルニクスが正しく、プトレマイオスはまちがっていることを確信した。しかし、ガリレオの提示した理論は、いずれも当時において反論の余地ある仮説の域を脱していなかった。1600年にはジョルダーノ・ブルーノが異端として火刑に処せられている。ガリレオもまた宗教裁判において終身の自宅軟禁を言い渡され、2度とふたたびこの問題を取り上げることは禁止された。この判決の際、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。盲目となってからもガリレオの研究は最後まで衰えることはなかった。1642年、ガリレオは熱病にかかってフィレンチェ郊外のアルチェトリで死んだ。

きょうで世界の人口が70億人になる

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 インドの超満員列車

   46億年前に誕生した地球は20億年前に生命の起源が起こり、約450万年前に人類が誕生した。その後、第二次大戦終了を境に爆発的に人口が増加し、1950年に25億人だった世界人口は、2011年10月のきょうで70億人になるという。

  2050年には93億人と予測される。とくにインドは、今後30年以内に中国を抜いて世界一の人口大国になるといわれている。2050年の人口はインド16.6億人、中国14.1億人、アメリカ4.0億人、インドネシア3.0億人、パキスタン、ナイジェリア2.9億人、バングラデシュ、ブラジル2.5億人、コンゴ民主共和国1.9億人、メキシコ1.3億人、エジプト1.2億人、ロシア1.1億人、日本1億人。

    インドはカースト制、貧困問題と一般には負のイメージがあるが、現在では著しい経済成長で世界の注目となっている。現在のインドの人口は約11億3440万人で世界第2位。インドの特徴は国民の約6割が25歳以下という若い国であること。平均年齢で比較すると、インド26歳に対し、中国が30代前半、日本は40歳以上になる。日本は2100年には人口は9133万人に減少する。

2011年10月30日 (日)

日本人とユーモア

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    ユーモアの語源はラテン語の体液からきている。中世イギリス人は、人の基本的な性格は4つの体液が決定する、という考えが信じられていた。その4体液とは血液、粘液、胆汁、黒胆汁である。この4つの体液の配合が人間の持つ人格、思考、学識から発する言語や肉体表現が程よい品性となって相手に伝わるのである。チャップリンやローワン・アトキンソンの滑稽なしぐさにユーモアを感じるのはイギリス仕込みだからだろう。ではイギリス流ユーモアの特徴とは何か。先ず自分自身を笑いの種にする、次にいかなる困難な状況でも笑いの種になる、ということだろう。日本人の政治家や大学教授、企業人にユーモアのセンスが欠けている、というのは世界に広く知られていることである。かれらは厳しい受験競争に勝ったというエリート意識があるので、自負心が強く、ディベートで相手を負かすことは得意だが、ユーモアは皆無である。本来、江戸時代には庶民の間にはユーモアを楽しむ精神は残っていたが、明治以降東京には少なくなったように感じられる。他方、政治的中心地でない大阪にはユーモアを大事にする風土がいまも残っている。ギャグをかまさないと会話が弾まない。

なぜ岩波新書青版に名著が集中するのか

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岩波新書は総点数は2800冊を超えている

    評論家の呉智英は「岩波新書は青版の600,700、800番代に名著が集中する」と言っている。多少独断があるが、青版と広げると頷ける。岩波新書は1938年に創刊され、赤版→青版→黄版→新赤版と表紙が改められた。呉のいう600~899番は、1966年から1974年にかけて刊行された岩波新書である。なるほど代表作は多い。その著者はほとんど他界されている。最近の岩波新書から名著が生れないのは、知の劣化を意味するのであろうか。

世界史概観(599,600) H.G.ウェルズ
デカルト(602) 野田又夫
日本人の法意識(630) 川島武宜
知的生産の技術(722) 梅棹忠夫
漱石詩注(640) 吉川幸次郎
漢字(747) 白川静
音楽の基礎(795) 芥川也寸志
山の思想史(860) 三田博雄
背教者の系譜(862) 武田清子
資本論の経済学(733) 宇野弘蔵
性格はいかにつくられるか(652) 詫摩武俊
中国文学講話(696)  倉石武四郎
良心的兵役拒否の思想(720)  阿部知二
日本の政治風土(700) 篠原一
現代日本の民主主義(728) 宮田光雄
戦後日本の保守政治(737) 内田健三
人間であること(746)  時実利彦
知識人と政治(848) 脇圭平

   だが前後の本にも名著はある。丸山真男「日本の思想」(434)、E・H・カー「歴史とは何か」(447)、石井桃子「子どもの図書館」(559)、湊正雄・井尻正二「日本列島」(963)、荒井献「イエスとその時代」(909)、堀田善衛「インドで考えたこと」(297)、蒲生礼一「イスラーム」(333)。中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」(583)は我が国の農耕文化の起源を照葉樹林文化の一形態とみる考え方を提唱した。

    武谷三男「原子力発電」(955)は原子力発電が未熟な技術であると説いているが、それは現在にも当てはまる。大田昌秀「沖縄のこころ」(831)も必読書。岩波新書の長所は完全無欠なものでなく、現在の問題を書き下ろしで提起して、どれだけ肉薄できるかにある。刊行後、数十年経てから、読者がその問題意識に気づかされるものもある。

ティッシュペーパーと原発

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  日本人はいつごろからティッシュペーパーをこんなにも使うようになったのだろうか。それは原子力発電所が安全だと思うようになったころだと思う。日本でティッシュが生産されたのが1953年、東海村に研究所が設置されたのが1957年のことだ。日本人の好きなものは、マッタケとマグロとティッシュペーパーと原発だった。いまや原発への信頼は過去のものとなった。原発の学者や研究者たちが、「物が言えない雰囲気だった」とこぼすようになっている。言い訳や責任逃れにも聞こえる。大王製紙の井川会長が巨額の融資を引き出した事件も謎が多い。使途はカジノか投資か不明であるが、誰も気づかなかったのか。浪費家の経営者は実は日本人が支えていたことに気づかない。今日は教育勅語が発布された日。天皇という権威に絶対服従という風土も変わっていない。権威に従順なる官庁、企業、組織。ティッシュ・ペーパーはおそらく世界一消費する国民だろう。年間1人当り4.5㎏、アメリカ人1.3㎏。でもティッシュの無い生活など有り得ないと女性たちは言うだろう。脱原発より脱ティッシュのほうが国民にとって身近な問題だろう。

やかんの湯気

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    1763年、イギリスのグラスゴーでのこと。家族そろってのティータイム。ジェームズ・ワット家では、食卓のヤカンが沸騰している。息子がヤカンの口をふさぐと、沸騰した蒸気の力で蓋がカタカタと音をたててもちあがった。それをみんなが楽しそうに眺めていた。だがワットはふと「蒸気の力」に気づいた。その日からワットはニューコメン機関の改良に関心を抱くようになり、新しい蒸気機関を発明したという。このワットの有名な逸話は実は、作り話である。17世紀のウスター卿が炉の上の鉄瓶の蓋が湯気で持ち上がるのをみて、蒸気ポンプを作ったという逸話をワットにすりかえたものらしい。

内村鑑三不敬事件

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    明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。

   しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

2011年10月29日 (土)

房総半島岬めぐり200キロ

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  富津展望塔                   富津岬
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   大房岬                    洲崎灯台
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   野島崎                    入道ヶ岬
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     八幡岬                  太東岬

   東京から木更津まで75km。富津公園の展望台は五葉松を形どったモニュメンタルな塔。かつて富津岬の沖の人口島まで歩いていくことができたが、いまでは侵食されて半島が短くなってしまった。

   館山まで行くと130km。洲崎灯台がある。そして房総半島の最南端、野島崎。鴨川市の入道ヶ岬。勝浦まで180km。八幡岬が美しい。いすみ市までおよそ200km。終点は九十九里浜の南端、太東岬。

風も吹くなり雲も光るなり

   林芙美子の「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき」は、「浮雲」や「放浪記」の中の一節のように思われがちだが、どの作品にも出でこない。生前に芙美子が直筆でしたためた色紙が残るだけであった。しかし2009年、村岡花子の遺品の中に、原稿用紙に書かれた芙美子の短詩が発見された。

風も吹くなり

雲も光るなり

生きてゐる幸福は

波間の鴎のごとく

漂い

生きてゐる幸福は

あなたも知ってゐる

私もよく知っている

花の命はみじかくて

苦しきことのみ多かれど

風も吹くなり

雲も光るなり

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 五ノ坂の旧邸         新宿中井の旧居

芥川賞か直木賞か?

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    先日、どくとるマンボウで知られた北杜夫が亡くなられたが、ユーモア小説と純文学とを書き分けた作家だった。芥川賞、直木賞、どちらを受賞したのか。1960年に「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞している。では次の作家は芥川賞か直木賞のいずれを受賞したのであろうか。

松本清張、宇野鴻一郎、梅崎春生、井伏鱒二、高橋三千綱、西村賢太。

    答えは、松本・宇野・高橋・西村は芥川賞で、梅崎、井伏は直木賞。日本の芥川賞、直木賞の選考基準はわからないところがある。中国の書物の題名に「中国俗文学史」というのがある。そのものズバリと明確に表現するのが中国で、日本は万事、あいまいにぼかすことを好むようである。評論家の巽孝之は「仮に今日、芥川本人が復活したとしても、芥川賞をとれないだろう」とマジメに論じている(「芥川龍之介は何故、芥川賞をとれないか」別冊新評1976年夏季号)もちろん芥川賞、直木賞を受賞しなかった人で優れた作品を残した作家も多い。小松左京、広瀬正、星新一、筒井康隆、小林信彦、椎名誠、田宮虎彦、阿部昭、黒井千次、後藤明生、太宰治、三島由紀夫、村上春樹など。

2011年10月28日 (金)

靴屋のマルチン

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  ある町にマルチンという靴屋さんがいました。マルチンは地下室の小さな部屋に住んでいました。その部屋には、小さな窓が一つだけありました。そして、その窓からは道を通る人の足だけが見えるだけでした。トントン、トントン、朝から晩までトントン、トントン。マルチンの靴は一生懸命のいい靴ばかりでした。

   けれども、本当はマルチンはとても悲しい気持ちで暮らしていました。マルチンの奥さんも子どもも、ずっと前に死んでしまいました。それで、マルチンは一人ぼっちでした。

   ある日、マルチンは夢の中で、イエス様の声を聞きました。「マルチン、あした行くから待っておいで」次の日がきました。ふと窓の外を見ると、雪かきのおじさんが、いました。「年をとって雪かきなんて、疲れることもあるだろう。そうだ、あのおじさんにお茶を差しあげよう」マルチンはおじいさんに声をかけました。「少しあつたまって行きませんか」マルチンはおじさんに熱いお茶を入れてあげました。雪かきのおじさんは、心も身体もあつたまって帰って行きました。マルチンは暗くなってきたので、道具を片付け、棚から聖書を取り出して、きのうの続きを読もうとしました。その時、昼間の雪かきのおじさんが現れ、「マルチン、お前は、私に気付づかなかったのか」と言われました。そして、フッーと消えてしまいました。

   マルチンは叫びました。「夢ではなかったのだ。私はイエス様にお会いできた」マルチンの心は、喜びでいっぱいになりました。

地球岬は北海道?沖縄?どっち?

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    日本の北にある北海道と南にある沖縄は何もかも対照的である。北海道の面積は沖縄のおよそ35倍あるが、人口密度は沖縄が581人に対し北海道は73人と日本一低い。地形、植生、生産物なども大きな違いがあるが、共通する点は、隣接する府県と海で隔たてているのは北海道と沖縄の2県だけである。つまり周囲四方が海となり、岬が多い。地球岬は北海道にある。室蘭市の南端に位置する。アイヌ語の「ボロ・チケップ」(親である断崖という意味)がチケウエ→チキウ→チキュウと転化して、地球岬となった。北海道には有名な岬も多いが、時計周りに数えると、宗谷岬、能取岬、知床岬、納沙布岬、尻羽岬、襟裳岬、地球岬、恵山岬、汐首岬、白神岬、茂津多岬、積丹岬、雄冬岬、と13くらいある。

月、満つれば虧く

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    秋の夜空は月が美しい。何事も盛に達すれば、やがては衰える。会社の社長や役員は解任され、監督や選手は解雇され、主役は少しずつ代わっていく。「敗軍の将はもって勇を言うべからず」と。むかしの人々にとって、日常生活の中で常に起こる様々な出来事の大部分は、説明できない不可思議なものであったから、月の満ち欠けをみて、自分に好都合にはならないことを悟ったのであろう。

髭を生やしている男をみなくなった

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  19世紀は西欧も日本も成人男子は髭を生やしているのはごく普通であった。西欧で髭を生やすようになったのは市民革命と関係がある。革命以前は身分の上下を画するものの象徴が髭だった。政治家、役人、教師、警察たちの専売特許であった髭が、革命後、学生、給仕、職人まで髭を反体制の象徴として自由に生やせるようになった。日本では江戸時代、一般に髭は剃刀でそり落すのが普通であった。幕末の佐久間象山の「天神ひげ」などは例外的であろう。明治になって、文明開化の気運によって、欧米の風習をまねて、髭を生やすことが流行になった。伊藤博文や井上馨などの欧化主義者はその典型であろう。また夏目漱石のような洋行帰りの学者たちも口髭をたくわえた。口髭では「カイゼル髭」と「コールマン髭」がよく知られている。カイゼル髭とはドイツ皇帝ウィリヘルム2世の髭のように末端のはねあがった口髭のことで日本だけの造語である。コールマン髭は映画俳優ロナルド・コールマンに由来するが、短く刈り調えた上品な口髭である。コールマン髭は英語にもあり、コールマンは死ぬまで髭を剃ることはなかった。ダブニー・コールマンという映画俳優も、コールマンという名前からやはり口髭がトレードマークなのも面白い。歴史上の人物では、探検家バスコ・ダ・ガマの「大ひげ」、南宋の詩人・陸游の「どじょうひげ」、ホー・チ・ミンの「やぎひげ」、米大統領リンカーンの「あごひげ」、英国の政治家ロルド・マクミランの「鼻ひげ」などいろいろある。映画俳優では、髭のスターといえばチャップリンやクラーク・ゲーブルが有名であるが、フレドリック・マーチやウィリアム・パウエルも印象的である。またデビッド・ニーブンの洒落た英国紳士にも口髭がよく似合う。オマー・シャリフやショーン・コネリーのような口髭の似合うスターも段々と少なくなってきて淋しい気がする。

画像の人物 メンデル、リンカン、陸奥宗光、チャップリン、ゲバラ、ブラームス、ドビュッシー、ヘミングウェイ、伊藤博文、ニーチェ、マゼラン、トルストイ

愛欲の十字架

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  跡を絶たない痴漢行為やハレンチ事件が新聞社会面をにぎわしているが、教師、医師、裁判官、警察官でも、心の情動にかられて、欲情行動をおこすことはあるだろう。賢者といわれたダビデ王も入浴するバテシバを見て、過ちを犯かしたことがある。人類の教師といわれるアリストテレスでさえ、こんな痴話が伝わる。マケドニア王フィリッポスは王子アレクサンドロスの教育ために、アリストテレスを招聘した。若い王子は学問よりも美少女フィリスに溺れていたため、アリストテレスは2人の仲を遠ざけた。そのことで恨んだフィリスはこの哲学者に復讐しようとして一計を案ずる。彼女は裸足でアリストテレスの窓の下を歩き、わざとその艶かしい素足を見せる。すると、たちまちは老哲学者は彼女の虜になり愛を告白したので、フィリスは、その気になったふりをして、翌朝自分を馬乗りさせて庭を歩くように指導する。フィリスに知らされて王子が庭をのぞくと、だらしなく美女を背中に乗せて悦にいっている哲学者の姿を目の当たりにして、王子は学問の限界を悟ったというのである。西欧艶笑小話の一つであるが、考えさせられるものがある。

乃木希典と玉木正誼

   明治の陸軍大臣・乃木希典(1849-1912)の父は乃木希次(1805-1877)という。希次は、はじめ、萩藩分家長府藩の江戸詰藩医だった乃木本家の娘秀子に婿入りした。長男源太郎が生まれた。その後秀子と離別して、同藩馬廻りに取り立てられた。弘化4年、土浦藩士長谷川金太夫の娘寿子と再婚する。寿子の最初の男子は半年で早世した。嘉永2年、源太郎が23歳で死去。その年、11月11日三男、希典(幼名、無人)が生まれる。ついで長女キネ、四男真人(のち正誼)、二女イネ、五男集作。

    希典より6歳下の実弟、乃木正誼(のぎまさよし、1855-1876)はのち玉木文之進(1810-1876)の養子となり、名も玉木正誼と改め、のち萩の前原一誠の参謀格となる。

    乃木希典は若い時代、吉田松陰の叔父にして師である玉木文之進の元に寄寓して薫陶をうけ、山鹿素行と吉田松陰に私淑している。乃木希典、26歳の明治7年、陸軍卿伝令使となる。明治8年には、熊本鎮台歩兵第14連隊心得となる。

   乃木希典のもとに実弟玉木正誼が前原一誠の密命を帯びて、訪ねてきたのは明治9年2月の下旬のことであった。弟は兄を涙ながらに説得しようしたが、乃木はこれを拒否した。

    去年よりも今年の秋はものうけれ

    またくる年はいやきさるらむ

 この頃の乃木の歌である。こうして9月中旬に乃木は正誼に義絶を申し渡している。

   明治9年10月28日、前原一誠(1834-1876)を指導者とする殉国軍が萩の明倫館を拠点として挙兵した。玉木正誼は10月31日に戦死した。正誼の養父で乃木の恩師である玉木文之進は11月6日、祖父の墓前において自刃した。12月3日、前原一誠、奥平謙輔は斬首された。

漱石文学と味の素

    夏目漱石(1867-1916)は、明治33年9月8日、横浜を出航、途中パリで万国博を見学して、10月28日ロンドンに到着した。ここで約2年4ヵ月を英語研究のため過ごした。文部省留学費が年1800円にとどまっていたことから、ケンブリッジなどの英国の大学生活が自己の目的にかなわないと知って、大学の講義を聞くことを断念した。ロンドンで、ウィリアム・ジェイムズ・グレイグの個人教授を1年あまりうけながら、下宿を5度変えて、学生街から西南の場末の新開地にうつり、衣食をきりつめて、高価な書籍の買入に留学費の大部分を傾けた。この間、美濃部達吉、長尾半平、大幸勇吉、土井晩翠らと多少の交渉をもったほかは、社交をさけ、下宿籠城主義をとり、古今の英文学書の耽読に過ごしたといってよい。ただひとつ、ドイツ・ライプツィッヒから帰途たちよった池田菊苗(1864-1936)との3ヵ月たらずの交友が、漱石に重大な影響を与えた。漱石は次のように書いている。

   「倫敦で池田君に逢ったのに、自分には大変な利益であった。御陰で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりとした研究をやろうと思い始めた」

    化学者・池田との交友により、科学的研究方法による「文学論」の執筆を思い立った。明治34年5月5日から8月30日までのロンドンでの二人の交流が漱石文学と味の素を生んだともいえるのではないだろうか。(参考:瀬沼茂樹『夏目漱石』東京大学出版会 昭和37年3月)

映画でみる歴史偉人伝

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    オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」(2003年)を見る。あのジュリエットの面影はないが、聖女を美化せず真実の姿が感じられる人間ドラマに出来ている。意外な大物スターが歴史上の偉人を演じる例はいくつかみられる。なかには失敗作もあるが、ご愛嬌的な面がある。無声映画のころから、クレオパトラなどの映画(ゼダ・バラ)は見世物的で人気があった。ハリウッドは大物スターもドンデモ映画に出ている。

  ゲーリー・クーパーがマルコ・ポーロ(「マルコ・ポーロの冒険」1938)、ジョン・ウェインがジンギスカン(「征服者」1956)、モンゴメリー・クリフトがフロイト(「フロイド」1962)、ヘンリー・フォンダがリンカーン(「若き日のリンカーン」1939)、リチャード・バートンがアレキサンダー大王(1956)、カーク・ダグラスがゴッホ(「炎の人ゴッホ」1956)、グレゴリー・ペックがマッカーサー(1977)、ロッド・スタイガーがナポレオン(「ワーテルロー」1970)、クリフ・ロバートソンのケネディ(「魚雷艇109」1963)、ジェラール・ドパルデュー(コロンブス、1492」1991)、オマー・シャリフがゲバラ(1969)、イングリッド・バーグマンがジャンヌ・ダルク(「ジャンヌ・ダーク」1948)など。アジアでは金城武が諸葛孔明、勝新太郎が秦始皇帝、山本富士子が楊貴妃、田中裕子が西太后(ドラマ)などを演じている。

    成功例をみると、ジェームズ・スチュワートのリンドバーグ(「翼よ!あれが巴里の灯だ1957)、ポール・スコフィールドのトマス・モア(「わが命つきるとも」1966)、グリア・ガースンのキュリー夫人(1943)、グレタ・ガルボのクリスチナ女王(1935)、マドンナのエビータ(1996)、なぜか女性物が多い。

2011年10月27日 (木)

「テレビの下の読書運動」から43年

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    2011年注目のプロ野球ドラフト会議。菅野は日本ハム、藤岡はロッテ、野村は広島が1位指名し、交渉権を獲得した。ドラフト史上最も豊作だったのは43年前の1968年だろう。阪神は田淵、広島は山本、中日は星野を獲得した。この年の12月、三億円事件が起きた。サッカーでは、この年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した。2011年、なでしこジャパンがW杯優勝と同様に日本サッカー界の誇るべき記念碑だ。ちなみにこの年、石井富之助が提唱した「テレビの下の本棚運動」というのがあった。この出来事は誰も語らないし、誰も覚えていないかもしれない。現在、テレビの下には、本ではなく、ビデオデッキとDVDが占領している。

野の花に天をみる

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一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天を見る

これは英国の詩人ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の詩の一節。

 To see a world in a grain of sand and a heaven in a wild flower.

戦艦大和と土佐沖ノ島灯台

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  有名な戦艦大和の写真は昭和16年10月20~30日間、宿毛沖、沖ノ島から鵜来島付近で撮影されたものといわれる。土佐沖ノ島灯台が初点灯したのは昭和8年。大和試運転の航海時、土佐沖ノ島灯台の灯りはともっていたことであろう。

島ではないが、やっぱり桜島

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    大正3年の火山活動で大隅半島と陸続きになったが、観光名所の桜島の名前は変えることが出来ないだろう。かつて桜島は飛び地で有名だった。東桜島地区は周囲は垂水市、鹿児島郡桜島町に囲まれていたが、2004年に桜島町が鹿児島市に編入したので、こちらのほうは解消された。

新選組の裏切者・加納鷲雄

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    加納鷲雄(1839-1903)、本名・加納道之助は文久3年10月、篠原泰之進らと尊攘思想の実践のため新選組に加盟上洛する。伊東甲子太郎らとともに、孝明天皇の御陵衛士を拝命して、高台寺月真院に本拠を構える。慶応3年11月、七条油小路において新選組と乱闘、辛くも脱出し、中村半次郎(桐野利秋)を頼って薩摩藩の庇護下に入る。翌月18日には、伏見街道藤森神社付近で近藤勇を要撃、銃傷を負わせる。慶応4年4月、下総流山で投降した大久保大和こと近藤勇を看取する。その後、薩摩軍に属して野州並びに奥州に転戦する。会津並びに仙台において、降伏人の調査役を勤めた。明治4年には加納通広と改名し、開拓使となって札幌に赴く。明治10年の西南戦争には黒田清隆を助けて出兵、かつて新選組に追われてあわやの窮地を救ってくれた桐野利秋を敵に廻すことになった。明治15年には農商務省に転じ、19年には民間会社に移って明治35年10月27日、麻布の自宅で亡くなっている。加納鷲雄は幕末の動乱期を裏切りの連続で成功者となった稀有な例ではあるが、今日、新選組隊士一員としての彼の名を記憶する人はあるまい。

2011年10月26日 (水)

殺された卑弥呼

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   これまで卑弥呼の死は老衰か病気による自然死といわれてきた。ところが松本清張は、倭国の部族長たちが謀って卑弥呼を殺したと推理している。魏志倭人伝の「卑弥呼以って死す、大いに冢を作り」の解釈も諸説あるが、岡本健一は「以死」の用例をあたり、そのほとんどは尋常な死ではない場合に用いられたとする。つまり卑弥呼の死は自然死ではなく、非業の死であるとする説が近年、有力視されている。シャーマンとしての霊力が衰えた卑弥呼は、狗奴国との戦争に敗れたことを理由に、殺害されたのかもしれない。

スポーツマン金之助

   夏目漱石は「吾輩は猫である」の苦沙弥先生のような病弱な書斎人で、スポーツとは無縁のようなイメージがあるが、実際の夏目金之助は学生時代、壮健で運動神経もよく、なかなかのスポーツマンだったと思われる。「大学時代器械体操の名手だった。抜群にうまかった」という同級生の証言も残っている。正岡子規の野球に対抗してか、子規への手紙では「当時は弓の稽古に朝夕余念なく候」と書いている。漱石は帝大在学中に弓道の修行に専念し、それは明治29年熊本の第五高等学校に移るまで続いた。弓のことは漱石の俳句が多数残されていることからも推察できるが、寺田寅彦の証言によると、去来の「秋風や白木の弓につる張らん」の句が漱石の言葉から出たことも知られている。(「夏目漱石先生の追憶」)後年になって禅に親しむ漱石であるが、若き日の弓道の体験とどこか通じるところがあるように感じている。

三顧之礼

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  日本のことわざに「三度目の正直」があるが、イギリスの諺にも「Third time lucky.」(三度目はうまくゆく)がある。これに関する西洋の故事は知らないが、中国では「三顧の礼」の故事がよく知られている。三顧之礼は人材を厚く迎えるために礼を尽くすことであるが、3度も繰り返すというところは「三度目の正直」の発想と通じるところがある。

    諸葛孔明は、戦乱の世を避けて、襄陽の西、隆中山の臥龍岡という丘に草廬を結んで静かに暮らしていた。村人たちは臥龍先生といって尊敬していた。

   白雲いういう去りまた来る

   西窓一片、残月あはし

   浮世をよそなる 静けき住居

   出でては 日ごと 畑を打ち

   入りては 机に 書をひもとく

  劉備玄徳は、新野の県城に駐屯していたが、ある日、学者の徐庶は隆中に住む諸葛孔明という人物こそ「臥龍」(眠れる龍)であるとして劉備に強く推挙した。そこで劉備は礼をあつくし辞をひくくして訪ねていったが、孔明は不在とのことで、会うことはできなかった。 

  建安12年12月、劉備は再び関羽、張飛を連れて会いに行く。朔風凛々として雪が降る。張飛は不平をいいだす。「いかなれば軍をせずして、無益の人を遠く訪ねたまふ。まず新野へ立ち返りて、この大雪をさけたまえ」劉備の曰く「吾かくするは孔明に慇懃の意を知らしめんためなり。汝寒気をいとわば、ここより帰れ」張飛が曰く「吾は死することをも恐れず。なんで寒気をいとうことあらん。ただ益も無きことに心を苦しめたもうを思うやゆえなり」劉備の曰く「汝かならず多言することなかれ」

 だが、この時も会えず、空しく新野に帰る。

 年が改まって、三度孔明を訪ねようやくにしてその目的を果たした。時に孔明27歳、劉備47歳であった。いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのである。

   雪降り乱れる 冬のあした

   風なほ冷たき 春のゆうべに

   劉備が三顧の こよなき知遇

   我が身を捨てて 報いんと

   起ちてぞ出でぬる、草のいほり

 (引用の詩は尋常高等小学校国語 6年「孔明」より)

人は病気しなければ120歳まで生きられる?

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    PPK運動というのがあるそうです。初めに言い出したのは評論家の樋口恵子と言われています。ピンピンと健やかに老いて、コロリと死ぬという意味です。水野肇・青山英康編「PPKのすすめ」(1998年)という本もあります。元気で長生きして半年か1年ぐらいで死ぬのが理想だといっています。だいたい100歳をメドにしているようです。でも古代ユダヤ人は、人は病気しなければ120歳まで生きられると考えていたようです。当然、心臓の限界や細胞が死滅するので人には寿命はありますが、現代医学でもだいたい120歳前後が世界最高齢者ですので、古代ユダヤ人の思想は正当といえそうです。モーセも120歳で亡くなっています。また仏教の世界でも人の一生は46000日といわれています。およそ120年です。

謎の小泉鉄

Koizumi_2     小泉鉄(1886-1954)ほど評価されない文学者もめずらしい。「こいずみまがね」と読む。広辞苑には採録されていない。だが国立国会図書館で検索すると21件もヒットする。

    福島県出身。東京帝国大学哲学科中退。武者小路実篤に共鳴し、明治44年より「白樺」同人となる。自らも小説「三つの勝利」を書くも、ゴーギャンの「ノア・ノア」やストリンドベリイなどの翻訳を手がける。だが彼の特異なところは、関東大震災以後、大原社会問題研究所の嘱託を務め、大正14年から昭和3年の4年間、台湾に渡り原住民の人類学的調査を行っている。「蕃郷風物記」や「台湾土俗史」の著書がある。社会学、人類学、法律学などに深く、小説、評論などその教養の広さに驚かされる。

無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば

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    無人島に本を一冊だけ持ってゆけるとすればどの本をあなたは選びますか?という質問にあなたは、とう答えるだろうか。中原中也の詩集だとか、「ホメロス」とか「万葉集」とか「広辞苑」と、いろいろな書名が挙げられる。イギリスの推理小説家チェスタトンの「造船術の本」というユーモラスな回答もよく知られている。だがやはり欧米人には聖書と答える人が圧倒的に多い。このことを最初に明言した人はだれだろう。ロシア生まれの哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と書いている。

「サボる」の「サボ」とは木靴のこと?

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   「学校をさぼる」と日常語としてよく使われる。もともとはフランス語の「サボタージュ」を略して、ラ行五段活用語尾を付けた造語。外来語に語尾「る」を付けて動詞化することは、ダブる、トラブる、ミスる、ハモる、アジる、ググる、バグる、など多くの例がある。

  「サボタージュ」とはフランスの労働者がサボ(sabot 木靴)で機械を破壊したことが語源。怠業。日本で最初に使われたのは、大正8年、川崎造船所の賃上げ要求の総怠業で、当時の大阪朝日新聞の記者、本多雪堂が社説の中でその言葉を使っている。

(参考:村嶋帰之「サボタージュ 川崎造船所怠業の真相」大正9年)

本日も cataloging

近代支那における宗教結社の研究 伊藤斌 東亜研究所 1944
近代支那の学芸 今関天彭 民友社 1931
近代支那の政治及文化 矢野仁一 イデア書院 1923
近代支那文化 和田清等編 光風館 1943
近代支那文化思想運動史 何幹之 日本青年外交協会出版部
近代支那民族運動史 中国現代史研究委員会編 石川正義訳 生活社 1940
近代支那論 矢野仁一 弘文堂 1923
近代主義に挑戦する中国 片山巌編 恒文社 1971
金代女真の研究 三上次男 日満文化協会 1937
金代政治制度の研究 金史研究2 三上次男 中央公論美術出版部
1970
近代西蔵史研究 矢野仁一 雄山閣 1930
近代西蔵史研究 ほか3篇 東洋史講座14 矢野仁一ほか 雄山閣 1935
近代中国 中国の歴史8 佐伯有一 講談社 1975
近代中国絵画 鶴田武良 角川書店 1974
近代中国外交史研究 坂野正高 岩波書店 1970
近代中国革命史 今永清二 弘文堂 1970
近代中国関係欧文図書目録 東洋文庫近代中国研究委員会編 東洋文庫 1975
近代中国関係文献目録 1945~1978  近代中国関係文献目録刊行委員会編 中央公論美術出版部 1980
近代中国関係文献目録彙編 近代中国研究委員会編 東洋文庫油印本 1961
近代中国教育史資料 清末編 多賀秋五郎編 日本学術振興会 1972
近代中国教育史資料 民国編 上中下 多賀秋五郎編 日本学術振興会 1975

近代中国教育史資料 人民中国編 多賀秋五郎編 日本学術振興会 1976
近代中国研究 仁井田陞等 好学社 1948
近代中国研究 1 2 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1958
近代中国研究 3 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1959
近代中国研究 4 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1960
近代中国研究 5 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1963
近代中国研究 6 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1964
近代中国研究 7 近代中国研究委員会編 東京大学出版会 1966
近代中国研究入門 坂野正高、田中正俊、衛藤瀋吉編 東京大学出版会 1974
近代中国史 文庫クセジュ ジョルジュ・デュバルビエ 後藤富男、白鳥芳郎訳 白水社 1955
近代中国史 紀伊国屋新書 蔵居良造 紀伊国屋書店 1965
近代中国思想 藤原定 思潮社 1948
近代中国社会史研究序説 中村哲夫 法律文化社 1984
近代中国人物研究 山田辰雄編 慶応通信 1989
近代中国政治外交史 坂野正高 東京大学出版会 1973
近代中国政治史研究 東大社会科学研究叢書26 衛藤瀋吉 東京大学出版会 1968
近代中国政治思想論 藤谷博 晃洋書房 1989
近代中国とイギリス 百瀬弘、沼田苗丙雄 蛍雪書院 1940
近代中国都市地図集成 地図資料編纂会編 柏書房 1986
近代中国と日本 北山康夫 法律文化社 1958
近代中国における宗教の足跡 W.T.チャン著 福井重雅訳 金花舎 1974
近代中国における女性解放の思想と行動 中山義弘 北九州中国書店 1983
近代中国における民衆運動とその思想 里井彦七郎 東京大学出版会 1972
近代中国・日中関係図書目録 市古宙三編 汲古書院 1979
近代中国のあゆみ 青木新書 米沢秀夫 青木書店 1972
近代中国の革命思想と日本 湯志鈞著 雅児野道子訳 日本経済評論社 1986
近代中国の苦力と「猪花」 可児弘明 岩波書店 1979
近代中国農村社会史研究・付租覆(影印)  東洋史学論集8 東京教育大学東洋史研究室 大安書店 1967
近代中国の国際的契機 朝貢貿易システムと近代アジア 浜下武志 東京大学出版会 1990
近代中国の思想世界 「新青年」の群像 野村浩一 岩波書店  1990
近代中国の書 附・中国遊記 松井如流 二玄社 1960
近代中国の政治と思想 野村浩一 筑摩書房 1964
近代中国の政治と社会 市古宙三 東京大学出版会 1971
近代中国の思想と文学 東京大学文学部中国文学研究室 大安 1967
近代中国の社会と経済 仁井田陞 刀江書院 1951
近代中国の社会と民衆文化 日中共同研究・華北農村社会調査資料集 佐々木衛編 東方書店 1992
近代中国の対日観 山口一郎 アジア経済研究所 1969
近代中国の地主制 祖覈の研究訳注 鈴木智夫 汲古書院 1977
近代百年史 川上忠雄 高文堂出版 1979
近代中国文学運動の研究 秋吉久紀夫 九州大学出版会 1979
近代東北人民革命運動史 旧民主主義革命時期 中国科学院吉林省分院歴史研究所編 大安 1966
近代東北人民革命運動史 汲古書院 1970
近代における中国と日本 新文化選書 北山康夫 法律文化社 1958
近代日支鮮関係の研究 田保橋潔 原書房 1979
近代日中関係史研究論文目録 1946年~1989年 塚瀬進 龍渓書舎 1991
近代日中関係史の諸問題 河村一夫 南窓社 1983
近代日中関係資料 1~10  加藤祐三編 龍渓書舎 1975
近代日中関係資料 小島麗逸編 龍渓書舎 1976
近代日中関係史文献目録 山根幸夫編 東京女子大東洋史研究室 1979
近代日中交渉史の研究 佐藤三郎 吉川弘文館 1984
近代日中交渉史話 実藤恵秀 春秋社 1973
近代日中政治交渉史 歴史選書30  渡辺龍策 雄山閣出版 1978
近代日中民衆交流外史 渡辺龍策 雄山閣出版 1981
近代日本外国関係史 田保橋潔 刀江書院 1943
近代日本とアジア 文化の交流と摩擦 国際関係論のフロンティア2 平野健一郎編 東京大学出版会 1984
近代日本と中国 上下 朝日選書 竹内好、橋川文三編 朝日新聞社 1974
近代日本と中国 日中関係史論集 安藤彦太郎編 汲古書院 1989
近代日本と東洋史学 五井直弘 青木書店 1976
近代日本における対満洲投資の研究 金子文夫 近藤出版社 1991
近代日本の中国語教育 六角恒広 淡路書房新社 1961
近代日本の中国語教育 六角恒広 不二出版 1984
近代日本と東アジア 年報・近代日本研究2・1980 近代日本研究会編 山川出版会 1980
近代日本の中国認識 アジアへの航跡 野村浩一 研文出版 1981
近代日本の東アジア認識 レグルス文庫 河原宏 第三文明社 1976
近代日本綿業と中国 歴史学選書 高村直助 東京大学出版会 1982
近代日本を創った百人 上下 大河内一男、大宅壮一監修 毎日新聞社  1965~1966
近代の中国 中学生歴史文庫 世界史11 北山康夫 福村書店 1950
近代東アジア世界の形成 東アジア世界の形成2 藤間生大 春秋社 1977
近代仏教界の人間像 常光浩然 世界仏教協会 1962
近代文学における中国と日本 共同研究・日中文学関係史 伊藤虎丸、祖父江昭二、丸山昇編 汲古書院 1986
近代蒙古研究 矢野仁一 弘文堂 1925
近代露支関係の研究 沿黒龍江地方之部 宮崎正義 満鉄会社 1922
近代露清関係史 世界史研究双書 吉田金一 近藤出版社 1974





川上俊彦と3人の男の死

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  川上俊彦(としつね)        安重根

    明治42年10月26日、伊藤博文がハルビン駅で射殺されたとき、随行の5人も被弾した。明治・大正の外交官、川上俊彦(1861-1935)もその場に居合わせて被弾した一人である。ここでは彼と関わりのあった3人の男とその死について述べる。1人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。2人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。3人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。

    明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。森槐南はその傷がもとで数ヶ月のち死亡した。

    大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。

    第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。

    川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。(参考文献:西原民平編「川上俊彦君を憶ふ」昭和11年)

2011年10月25日 (火)

ふたりの国松

   現代では、誕生とともにつけられた名前を、死ぬまで用いるのが普通であるが、昔は幼名、通称、号など、一生の間にいくつもの名前を用いた。NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」でも江の二男竹千代(家光)と三男国松(忠長)が登場している。病弱で吃音であった兄・竹千代より容貌端麗な国松(1606-1634)を江は寵愛していた。国松は門松丸、北丸殿、国千代などと改名されるが、視聴者には煩雑であるので、ドラマでは国松と統一されている。国松は元服してのち忠長と改名する。駿河、遠江、甲斐を領していたが、1632年に大逆不道の罪をうけ甲斐に蟄居を命ぜられ、翌年に自刃した。享年28歳。同じ頃、豊臣家にも国松がいた。豊臣国松(1608-1615)である。秀頼の子で、母は側室の伊茶(渡辺五兵衛の娘)。大坂夏の陣の後、国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、六条河原で斬首された。享年8歳。

姉さん女房

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   巨人の澤村一拓(23)と日テレ女子アナ(30)との婚約が話題である。野球選手にはよくある姉さん女房。これまでイチロー、野村、原、落合、江川など名選手に多い。俳優では石原裕次郎と北原三枝。松山ケンイチと小雪のカップルもかなり年齢は離れている。現実社会でも年の差カップルを多く目にするようになった。いやむかしからよくあるのかも。徳川家康の正室・築山殿は1歳年上、お江と秀忠とは6歳離れている。姉さん女房は金の草鞋をはいて探せ。

名を竹帛に垂る

   これは後漢書にある言葉で、名を歴史に残して長く後世に伝わることは中国でも古くから栄誉とされてきた。近代スポーツの野球でもチームの勝敗が決まると個人成績が話題となる。今年の打撃部門では、首位打者に長野久義、内川聖一、本塁打王にバレンティン、中村剛也、打点王に新井貴浩、中村が選ばれた。秋の叙勲でも文化勲章の丸谷才一など数名の発表があった。こうして選ばれた名は永久に残るものである。だが経年累積されるので記録として記されたとしても記憶として人々に残るとはかぎらない。一番いいのは国家的な史書の列伝に記されることであるが、日本の場合、明治以降のスタンダードな史書が存在しているとは思われない。そこで思いあたるのは、「名を竹帛に垂る」に最も近いのは岩波書店の「広辞苑」ではなかろうか。第6版では「スーダラ節」の植木等が採録された。おそよの基準としては①物故者である②誰もが認知している③業績がある、の三つである。政治家でも首相経験者でないとなかなか採録されない。五輪で金メダルをとっても採録されるとは限らない。野球選手もタイトルだけでは採録されないだろう。小説家でもベストセラーを書いても採録されるとは限らない。有名無名各界の人物を当ってみたが次のような人物は採録されない。理由はご想像にお任せする。沖田総司、富田砕花、いかりや長介、青島幸男、苅田久徳、夏目雅子、テレサ・テン、金子みすず、若乃花幹士、円谷幸吉、クラーク・ケーブルなどは未採録である。

    ところで丸谷才一は山形県の出身で旧制高校時代に植村清二から東洋史を学んだことはよく知られている話だ。恩師の植村清二は東洋史の世界では知られた学者だったがなぜか広辞苑に未採録だ。文化勲章を得たことで弟子の丸谷が没後、名を竹帛に垂るかもしれない。

オーレル・スタイン

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 樹下説法図 8世紀中頃 敦煌

    本作品は絹に描かれたもので、朱衣をまとった仏陀が、菩提樹の下に坐り、説法の印を両手で結ぶという構図で、敦煌に伝えられた唐朝仏画の代表作。1907年に考古学者オーレル・スタイン(1862-1943)が敦煌千仏洞を発掘調査した際に英国へと持ち出した美術品の一つである。現在、大英博物館スタイン・コレクションとして管理保存している。

    スタインは1904年イギリスに帰化したものの、ブタペスト生れのユダヤ系ハンガリー人である。またスタインはサンスクリット語、チベット語、その他の中央アジア諸語の知識を持っていたが、漢文は読めなかったし、仏教学の教養はなかった。そのため宝庫の漢訳経典や珍書籍の類の多くを見落としている。それでもスタイン収集約1万点が大英博物館にある。パリ国立博物館にはペリオ収集約6000点が、レニングラード・アジア諸民族研究所にはオルデンブルグ収集1万点がある。なお最初に敦煌を訪れた西洋人は1905年、ロシアのオブルチェフ(1863-1956)であるが地質学が目的であるため、文物の持ち出しはなかったようである。

マルドメ

   日本企業が海外に進出しようとした10年ほど前から、隠語として「マルドメ」が流行した。「まるでドメスティック」つまり純国内派の人のことを指し、国内企業しか働けない、という意味。英語が弱いてコミュケーションがとれない、というこんな笑い話も伝わる。

How often do you have election?(日本で選挙はどのくらい頻繁にあるの?)

と聞かれたところ、大蔵省のマルドメ局長は「毎朝です」と答えたという。electionを「選挙」ではなく、「勃起」と解したのだろう。「勃起」のスペルは「erection」だが発音の違いを聞き分けるのは英語初心者には難しいかも。

   いまでは死語になりつつある「マルドメ」だが、日本でしか働けない、というネガティブなニュアンスを含み、ライバルを嘲笑し、揶揄するときに使われる言葉で、企業内人事の陰湿さを物語る。

近代日本の西洋文化摂取の姿勢

    明治初期は、欧米列強の脅威に囲まれながら、近代的統一国家建設のため、旧来の陋習を破り、西洋の近代文化を摂取することが緊急かつ至上の課題であった。そのため日本の知識人の間に、日本の歴史や伝統的な文化を軽視する傾向が広まった。

    明治9年、お雇い外国人として来日し、東京医学校(東京大学医学部の前身)で医学・生理学を講じ、後に「近代日本医学の父」と称せられたドイツ人E・ベルツ(1849-1927)は、そうした日本の現状を観察して、自国の固有の歴史や文化を軽視するようなことでは、かえって外国人たちの信頼を得られないだろうと日本人の西洋文化摂取の姿勢を批判している。

ところがなんと不思議なことには、現代の日本人は、自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころが、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱり「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、わたしが本心から興味をもっていることはわかりますが、しかし、日々の交際でひどく人の気持を不快にする現象です。それに、その国土の人たちが固有の文化をかように軽視すれば、かえって外人のあいだで信望を博することにもなりません。これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです」(「ベルツの日記」明治9年10月25日)

2011年10月24日 (月)

象徴的なタイトル

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  青い鳥を探す童話劇、メーテルリンクの「青い鳥」(1908)はタイトル作法にも影響を与えたと思える。ジッドの「狭き門」(1909)、マンの「魔の山」(1924)、モームの「月と六ペンス」(1919)「剃刀の刃」(1944)、ヘミングウェイ、スタインベックなどの小説も判じ物めいたタイトルが多い。映画、演劇などにも多い。「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」「熱いトタン屋根の猫」「ティファニーで朝食を」「お茶と同情」「イヴの総て」。日本の近代文学では「破戒」「蒲団」「暗夜行路」「カインの末裔」などのタイトルは象徴的作法といえる。たとえば有島の「カインの末裔」(1917)は北海道で働く小作人の話であるが原罪というテーマ小説であるためこのようなタイトルを採っている。西洋風であるといえる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」は日本海海戦を大勝利にみちびいた知将秋山真之の物語だが、やはりタイトルから内容を正しく想像することはできない。

身を隠して暮らしたデカルト

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    ガリレイ(1564-1642)は1633年ローマの宗教裁判においてコペルニクスの地動説を採ったという理由で有罪にされた。これを聞いたデカルト(1596-1650)は地動説を採った自分の論文の発表をさし控えることにした。ガリレイと同じ運命がふりかかることを警戒したのである。住まいを明らかにせず、身を隠して暮らした。デカルトは生涯の間に24回も引っ越したのはそのためであろう。臨終の言葉は「さあ、今度は出かけねばならぬ」だった。

ブーケファラス

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  アレクサンドロス3世がまだ王子だった頃の話である。父王フィリッポス2世のもとにテッサリアから1頭の名馬が贈られた。ブーケファラス(Bucephalus 牛の頭をした馬という意味)と呼ばれた荒馬は誰も乗りこなすことができなかった。フィリッポスは機嫌を損じ、連れ出すように命じた。ところが、そこに居あわせたアレクサンドロス王子は言った。「下手で臆病で乗れないからといって、あんな名馬を置いておくのはもつたいない」と。王は「お前に馬が乗れるのか」と言うと、アレクサンドロスは「この馬ならほかの人より上手に扱えます」と言った。「もし出来なかったならば、この馬の代金を払います」大笑いがおこった。アレクサンドロスはすぐに馬のところにかけよって馬靭をとり太陽の方に向けたが、これは馬が前に落ちる自分の影が動くのを見て騒ぐのだと見てとったためだった。こうしてしばらく速歩で行く馬に細心の注意を払いながら、馬に安心感を与えた。そして馬が落ち着いたとみるや静かに外套を脱いで飛び乗り、しっかり跨った。手綱でくつわを軽くしめ、打ったり、強くしめて口を痛めたりせずにおとなしくさせた。馬に脅かす気がなくなり駆け出そうとするのを見ると、駆足に移り、その時大声で励まして足で腹を蹴った。みんなは歓声をあげたが、フィリッポスは喜びのあまり涙を流し、馬からおりた王子の頭に接吻して「ああ、お前にふさわしい王国をさがすがよい。マケドニアにはお前のいる場所がない」と言ったと伝えられる。

待賢門院堀河

   待賢門院堀河は平安後期の女流歌人で「長からむ心も知らず黒髪の 乱れてけさはものをこそ思へ」というなまめかしい艶歌でしられる。人物に関して詳しいことは何も伝わらない。鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子(たまこ)に仕えて堀河の局と呼ばれていた。父は有名な歌人であり、作者の兄妹にも歌人が多かった。「待賢門院堀河集」1巻がある。

私の円をみだすな

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アルキメデスの墓

   ローマ軍はシラクサを攻め落とし、アルキメデスの家にも兵士たちがやってきた。そのとき、アルキメデスは庭で幾何の勉強をしていた。ローマ兵が図形を踏もうとすると、彼は、「私の円をみだすな(ノリ・トゥルバレ・キクロス・メオス」と言った。しかし、彼はローマ兵に殺されてしまった。

替え歌のほうが原曲に近い?

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   「♪夕空晴れて秋風吹き」日本では「故郷の空」という題名がつけられ、学校唱歌として誰でも知っている。ところが1970年、ザ・ドリフターズが「♪誰かさんと誰かさんが、麦畑」と歌うと、PTAから抗議が出た。教育的な愛唱歌を猥雑な歌にしたというのである。もともとはスコットランド民謡で、それに18世紀の詩人ロバート・バーンズが若者が麦畑でイチャイチャしている戯れ歌を作った。実は明治の大和田建樹はこのことをまったく知らずに別な歌詞をあてた。この歌は、いまでも欧米では猥雑な歌というイメージがある。ほんとうはドリフのほうが原曲に近いのに・・・知らない日本人ほどおそしいものはない。

朝の英単語

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       church              heaven

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      prayer               baptize

King_james_bible1 Thelordissavior
    the Bible                savior

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star of David    the Passover

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the Sabbath       the Atonement

2011年10月23日 (日)

老人力ブームから13年

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「人はみな長生きしたいと念ずるが、同時に、老人になりたくないと思う」(スウィフト)

「ついに来る道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」

  テレビのコマーシャルでは若さを保つサプリメントの宣伝は多い。いつの時代も永遠に若くありたいと人は願う。ところが、赤瀬川原平は「人は老いて衰えるわけではなく、ものをうまく忘れたりする力、つまり老人力がつくと考えるべきである」と述べた。このような加齢を肯定的に捉える発想は世に容れられて、「老人力」は1998年の流行語大賞にも選ばれた。しかし所詮は流行語である。やがては飽きられて使われなくなった。むしろ高齢化社会は厳しさを増し、死亡届けも出されずに行方不明になっている老人が増加している。結局、ブームに便乗した「○○力」本だけが氾濫しているのをみると、出版業の空しさを感ずる。

私の趣味はテニスです

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   すぐに頭から、My hobby is~、と訳しそうだが、

I  love playing tennis.(私の趣味はテニスです)

I  love reading books.(私の趣味は読書です) と表現するほうが自然です。

でもこのような表現もあり。

One of my hobbies is making model airplanes.(模型飛行機づくりが趣味です)

画像の趣味を英語で表現しょう。(knitting,star watching,chess,riding,insent cllecting,social dancing)

絢爛豪華オールスター・キャスト

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   成瀬巳喜男「流れる」(1956)はざっと10人以上の女優が出演している。田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子、栗島すみ子、岡田茉莉子、賀原夏子、中北千枝子、南美江、松山なつ子。日本映画女優史と改題したほうがいい。

    TBSドラマ「風が燃える」(1977)も女優陣は山口百恵、三田佳子、佐藤オリエくらいだが、男優陣が豪華。三浦友和、平幹二朗、森繁久弥、加藤剛、竹脇無我、山口崇、宍戸錠、森田健作、地井武男、高松英郎、南原宏治、城所英夫、横内正、天田俊明、高橋昌也、森本レオ、財津一郎、風間杜夫、小坂一也、津川雅彦、垂水悟郎、篠田三郎、鈴木瑞穂、佐藤祐介など。「大岡越前」「水戸黄門」「赤いシリーズ」「7人の刑事」などが混成したキャスティングだが、最近の大河ドラマよりずっと豪華だ。

ナポレオンとコルシカ島

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 アジャクシオにあるナポレオン生家

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 コルシカ島       ナポレオンの母の寝室

  中世のコルシカ島はイタリアの都市国家ジェノヴァの支配下にあった。ナポレオンが生れる前にコルシカ独立戦争があり、ジェノヴァはフランスと手を結んで独立軍を鎮圧しようとした。ナポレオンの父カルロは独立闘争の指導者パオリの副官であったが、フランス側に転向し、その見返りとしてフランス貴族と同じ権利を得た。フランス本土への足がかりを得た父はナポレオンと兄ジュゼッペをフランスへ送り教育を受けさせた。いまでもナポレオンの故郷コルシカではフランス側に寝返った父の子として、ナポレオンの人気はないという。それでもコルシカ島はナポレオン観光でもっている。ナポレオンの生家には世界中から多くの観光客が訪れている。

タレスの金儲け

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  ある人が学者のタレスの貧乏なことをあざけって、学問などは人生に無用だと言った。するとタレスは天文の知識により、冬の間にその年の秋にオリーブは豊作だと予見し、余り金をはたいてミレトス一帯のオリーブ搾り器を安い値で全部借りてしまった。秋が来て、搾油器がなくてうろたえた人たちにかれは高い値でまた貸ししてたちまち財産をつくった。

   この話を伝えたアリストテレスはこうつけ加えている。「学者は、なろうと思えば金持ちになれる。しかし学者の目的は別にあることをタレスは世間に教えたのである」と記している。(参考:村川堅太郎『世界の歴史2』)

ソロンと王様

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   ギリシアで財政破綻による政府の緊縮政策に反対した13万人市民のデモが起きている。だがストに参加している人の自宅をみると、大理石の豪邸に住み、小型船でエーゲ海の島でバカンスを楽しんでいる人たちである。ギリシア人には伝統的に楽天的で浪費家な気性があるようにみえる。世界史で最初に登場する人物はソロン(前640頃~前560頃)という調停者で、貨幣経済の進展で貧富の格差が激しくなって財産政治(ティモクラシー)を説いたという。ソロンにこんな挿話が伝わっている。

    ソロンが、クロイスという裕福な王様に会ったときのこと。クロイスは自分の持っている宝をソロンに見せたあとでいった。「世界でいちばん幸福な人は誰だと思う」王はソロンが自分をいちばん幸福な人だといってくれると思っていた。ところがソロンは、若くして美しく死んだ人の名前ばかりをあげて王様の名前はついにあげなかった。王様はとうとう黙っていられないので、その理由を聞いた。ソロンは、「神は幸せ者に嫉妬するということを王様はご存知か。浮き沈みは世の習い。幸福がいつまでも続くとは限りません。人間は死ぬまで、その人の幸福はわからないものです。死んで始めてその人が幸福だったかどうかわかります」王様はこの答えの意味が理解できなかったが、ソロンのいうことに反対できないので、内心不服だが黙っていた。

   その後この王様は、隣国の王様と戦争し負けて、いよいよ殺されることになった。その時、王様はソロンのことを思い出して、「ソロン、ソロン」とつい口に出して言ってしまった。それを聞いた敵の王様は、「なぜ、ソロン、ソロンというのか」と訊ねた。王様はそこで、かつてソロンにいわれたことを話した。その結果、王様は殺されずにすむことになった。

冬のソナタとジェーン・エア

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  有島武郎の「或る女」はトルストイの「アンナ・カレーニナ」に似ている。名作は名作に似ているものかもしれない。「冬のソナタは嵐が丘で始まり、ジェーン・エアで終わる」といわれるらしい。冬ソナ、ユジンとチュンサンとの出会いは転校生という設定だが、嵐が丘では哀れな父(てて)なし子・ヒースクリフを主人が拾って屋敷へ連れてくるところから物語が展開する。冬ソナ最終回、ユジンとチュンサンが再会する場面は、盲人となったロチェスターとジェーン・エアとの再会と酷似している。もちろん馭者は車の運転手になっているが。

       *      *     *     *     *    *

    ロチェスターが30マイルばかり離れた、自分の荘園に住んでいるときいて、ジェーンは二輪馬車を頼んで早速出発した。陰気な森が繁っていた。花崗岩の門柱の鉄の扉から入ると、あたりはぐっと暗くなった。建物は見つからなかった。森の中の暗さと日暮れの本当の暗さとが迫ってきた。そのうち、少し木立がまばらになり。家が見えてきた。正面に二つの破風があり、窓は狭かった。正面の入口も狭く、一つ踏み段がついていた。近づくと、木の葉に降る雨の音に混じって、内で物音がした。狭い入口の扉が動いて、一人の男が立っていた。暗かったけれども、紛れもなくエドワード・ロチェスターである。この一年の間に、彼の力強さは失われてはいなかった。毛髪も豊かで黒かった。しかし、彼の容貌の変化は、絶望的な暗さであった。金の縁のある眼を残忍にえぐり取られた捕われの鷲は、あの盲のサムソンのような様子をしていたのではないだろうか。「放っておいてくれ」と言ったが、ジェーンが一年ぶりに聞いた、ロチェスターの最初の声であった。それは、腕を貸そうとしたあの馭者のジョンに言われた言葉であった。ロチェスターが内に入って、メアリーがコップの水とろうそくを持って行くことになった時、ジェーンが代わりに行った。

   「おまえ、メアリーじゃないな?」と彼は言った。「メアリーは台所でございますよ」とジェーンは答えた。ロチェスターは素早く手を差し伸ばした。手はまだジェーンに届かぬまま、「誰です?誰です?もう一度、今の声で答えておくれ」とロチェスターの声は高くなった。

      *   *   *   *   *

 もちろん冬ソナがパクリだというつもりはない。むしろ世界文学はいつの時代も人を感動させる力をもっていることの証をしただけである。

泉に落ちた哲学者

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  古代ギリシアのイオニア学派の自然哲学者タレス(前640頃~前546)は「万物の始原(アルケー)とは何か」ということを日夜考えあぐねていた。タレスは、空をふり仰いで、星をいっしょうけんめいに見ていたために、足もとの泉に気がつかず、落ちてしまった。それを見ていたトラキア生まれの女奴隷に、「ご主人さまは空のことにはたいへんご熱心ですが、鼻先や足もとのことには、ぜんぜんお気づきになりませんね」と笑われた。ところが、さすがにタレス先生、「万物の始原は水なり」と悟ったという。

高井几董

    蕪村の高弟高井几董(1741-1789)は京都の高井几圭の次男として生まれ、中興俳諧の指導的役割を担った。寛政元年、松岡士川の伊丹の別荘で、49歳で急逝した。几董忌は陰暦10月23日、冬(11月)の季語。

  悲しさに魚食ふ秋の夕かな

  舟慕ふ淀野の犬や枯尾花

  馬鹿づらに白き髭見ゆけさの秋

エウレカ

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  「ユリイカ」というのは英語で、「わかった」の意。もとのギリシア語ではエウレカ (eureka)「見つけた」という意味で、意外な発見のよろこびをあらわす。

   シチリアのシラクサの王ヒエロン2世は、純金の塊を金細工師に渡して王冠をつくらせたが、出来上がった王冠に不純物がまぜられているのではないかと疑って、科学者のアルキメデス(前287-前212)にそれを調べるように命じた。王冠をこわして分析するわけにもいかず、困りはてたアルキメデスだが、ある日、公衆浴場にいったところ、水が湯ぶねから溢れるのをみて、その瞬間、ある原理を発見した。水中に物体を入れると、同容量の水が排除される。金は銀より重いから、同じ目方の銀塊は金塊より多くの水を排除するにちがいない。アルキメデスはこれに気づくや、喜びのあまり「エウレカ、エウレカ」と叫びながら丸裸のまま家へ帰り、早速に実験にとりかかって、王冠に不純物が混ぜられていることを証明した。金細工師は死刑に処されたという。

個人全集を読むこと

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 高山樗牛は「文は人なり」といったが、この言葉は18世紀のフランスの著名な博物学者ビュフォンが1753年にフランスのアカデミーへはいったときの就任演説「文体論」の一節である。評論家の小林秀雄は「読書について」で「ある作家の全集を読むのは非常にいいことだ。研究でもしようというのでなければ、そんなことは全くむだごとだと思われがちだが、決してそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」(文は人間そのものである)ということばがあるのだが、このことばの深い意味を了解するのには、全集を読むのがいちばん手っ取り早い、しかも確実な方法なのである。一流の作家ならだれでもいい、好きな作家でもよい。あまり多作の人はやっかいだから手ごろなのをひとり選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類にいたるまで、すみからすみまで読んでみるのだ。」と論じている。だがかつての漱石全集などには書簡があった。けれども最近の全集には書簡集がないのもの多い。作家すら手紙を書かずにメールで済ませる時代だから、作品集はあっても個人全集で日記や書簡の類まで知ることは不可能になるかもしれない。

2011年10月22日 (土)

G党駅名めぐり

   巨人の選手と同姓の駅看板を見るだけでうれしくなります。巨人最終戦。劇的な長野の代打逆転サヨナラ満塁本塁打。(過去8人目)内海最多勝。

Jrthara01 静岡県沼津市

080626tsuruoka01 山形県鶴岡市羽越本線

Img_1585319_44954295_1 茨城県真岡鉄道

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Utsumic 愛知県知多郡名鉄知多線

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不遇の俳人日野草城

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    日野草城(1901-1956)は1929年「ホトトギス」同人となり、新興俳句運動の旗手として、俳句の近代化をはかった。しかし、「俳句研究」に発表したミヤコホテル10句は騒然たる毀誉を浴び、ホトトギス同人を除名された。戦災、戦後の労苦をへて、闘病のなかで早世した。

  妻子を担ふ片眼片肺枯手足

  火の色やけふにはじまる十二月

世界の迷信

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   日本にも古くから伝えられた迷信は数多くある。「夜に爪を切ってはいけない」「食べた後に横になると牛になる」「ピーナッツを食べると鼻血がでる」。お隣の韓国では、妊娠中や出産にワカメスープを食べる。そして「誕生日の朝にもワカメスープ」というのが定番である。欧米ではやはりキリスト受難の日、金曜日を嫌う。結婚や重要な取り引きなどは避けられる。「6月の花嫁は幸せになる」というジューン・ブライドはよく知られている。5月の結婚・出産は嫌われる。フランスで面白いのは「犬の糞を左足で踏むと良いことがある」。

モチベーションをアップする英語力!?

   数年前から気になる言葉に「モチベーション」がある。しばしば変な表現がよく見られる。「モチベーションをアップする英語力」というのは笑える。英語motivationの本来の意味は「動機付け」「行動を促す要因」「刺激」である。つまり鼻の先にニンジンをぶら下げて、馬を速く走らせようとすることか。ところが日本では数年前から省庁や産業界で「モチベーション」なる語がさかんに使われだした。ヤル気のないような部下に対しては「モチベーションが下がっている」と言うし、部下は上司に「あんな奴ではモチベーションが上がらない」と言う。「意欲」や「熱意」と同じような使い方をしている。広辞苑第4版では「動機を与えること」とあるが6版には「物事を行う意欲。やる気」という2つ目の意味を追加している。英語を日本語化することで英語本来の意味から少し変化する事例は多いであろう。一種の流行語のような気もするが、モチベーションが本当に日本語として定着していくのかどうか見定めたい。

予の辞書に不可能という言葉はない

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  1800年、ナポレオンが再度オーストラリア軍を攻撃するために、吹雪のアルプスを越えるときに放った名言として知られている。将兵は「この険しいサン・ベルナール峠は、とうてい大軍がとおることはできそうにありません」しかし、ナポレオンは大きな声でいった。「わたしの辞書には、不可能という言葉はないのだ。人間の力で、この峠が越せないはずはない」フランス軍は、進撃をつづけた。

   このエピソードは、海外の書物にも記されているのか、それとも日本の子ども向けの伝記だけなのか。だがなんとなく源義経の鵯越の逆落としを思いおこさせる。実際にナポレオンが「余の辞書に不可能という言葉はない」に近い言葉を残したのは、10年以上のちのことである。ワーテルローで敗戦して、連敗続きでチェルリ宮に籠っていた1813年初夏のころ。前線にいるドイツのマグデブルクの司令官ルマロワが「この街を守るのは不可能な気がいたします」と弱気の報告書をナポレオンに寄こした。これに対してナポレオンは7月9日付で「不可能ですと。あなたはそうお書きになりましたが、不可能という言葉はフランス語にはありせん」と書いて送った。ここからナポレオンの名言「余の辞書に不可能という言葉はない」が生れたと思われる。

セザンヌの最期

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 セザンヌ夫人、オルタンス  1900年ころ

   晩年、ポール・セザンヌの名声は日を経るに従って高まっていったが、セザンヌは孤独な日々を過ごしていた。1898年には、母アンヌが死んだ。妻のオルタンスは息子の教育のためと称してパリへ行き、セザンヌのもとには帰らなかった。そして、糖尿病がセザンヌを苦しめるようになった。しかし、その苦しさのなかでも、絵を描くことだけは絶対にやめられない。1906年10月15日、セザンヌは野外で風景の写生をしているうちに、豪雨にあい、帰り道で倒れた。農夫に発見されてエクスの家にかつぎこまれたが、翌日はすぐに起き上がり、庭師ヴァリエの肖像画を描き続けようとした。しかし、そのために肺炎を悪化させて再び床につく。パリにいる妻のオルタンスは危篤の電報を手にしても、なぜか駆けつけようとはしなかった。5日後、10月22日、パリから帰らない息子の名前をよびながら、妹マリーにみとられブルゴン街の自宅でセザンヌの67歳の生涯は終わった。故郷エクスの墓地に埋葬される。

2011年10月21日 (金)

政治家の最期

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   何となく、じいんと身のうちに寒さを覚える。そぞろ寒。鶏皮(そぞろさむ)。カダフィ大佐が20日、出身地シルト近郊で、銃撃戦に遭い、頭部に銃弾が当って死亡したニュース。69歳というのはサダム・フセインと同じ年である。ヒトラー56歳、ムッソリーニ62歳、と独裁者の寿命は長くない。だが国家最高指導者が一兵士の銃弾で死亡するというのは稀である。シーザー、リンカーン、ケネディ、朴正熙、みんな暗殺である。カダフィ大佐の死は、いわば明智光秀が小栗栖で農民に刺殺されたようなものであろう。国際政治のことはわからないが、何となく寒さを覚える秋である。

ケンブリッジ

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   ケンブリッジ大学は、言わずと知れた中世以来の古い歴史をもった大学である。ニュートンが力学を、ダーウィンが進化論を、マックスウェルが電磁気学を、ラザフォードが原子物理学を、創始したのはこの地である。科学研究ばかりではない。詩人のミルトン、バイロン、テニソン、ワーズワース、作家ではサッカレー、フォースター、歴史学のマコーレー、哲学ではフランシスコ・ベーコン、バートランド・ラッセル、経済学のケインズなどがいる。

2011年10月20日 (木)

ちょっと風邪を引いてるみたい

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I think I have a slight cold.

軽い風邪のときは「ちょっと風邪を引いているみたい」と言います。ひどい風邪のときは、「a bad cold」と言います。

I have a headache.(頭痛がする)

I have a sore throat.(のどが痛い)

天動説と地動説

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  ドイツで行われた調査から、11歳から15歳の若者の40%は太陽が東から昇ることを知らず、60%は月の満ち欠けが起きるのは「月が地球の影に入るから」と、月食と混同していることが明らかとなった。日本でも近年、小学生の理科離れが深刻な問題となっている。もともと天動説は古代から人類は信じていた説で、子どもの感覚では教えなければだいたい天動説であることが多い。「地球が太陽の周りを回っている」ことを理屈で理解させることはなかなか難しい。太陽と地球との位置関係だけでなく、他の惑星の動きなどの関連から導かれる事実である。もしも「太陽が地球の周りを回っている」ならば、他の惑星は不自然な公転をする事になる。だから「天動説は物理法則に反した動きをしているので、地動説が正しい」という結論になる。

行かなくちゃ

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朝起きたらもう8時。もう、行かなくちゃ。

Ⅰ have to go.

「坊っちゃん」の清の墓が養源寺にある?

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    夏目漱石「坊っちゃん」に「だから清の墓は小日向の養源寺にある」とある。だが小日向に養源寺はない。駒込にある。なんと養源寺の案内板には「きよの墓」と立てられている。それにしても米山家とあるのは何故か。漱石の学生時代の友人、米山保三郎の祖母が清のモデルといわれているからで、清の墓を訪ねる人が跡をたたないそうだ。

江戸文学と「五雑組」

   明末の百科全書的随筆「五雑組」は現在の日本では殆ど省みられないが、江戸時代は学者や文人がよく読んでいたようである。「倭漢三才図会」でしばしば「五雑組」に拠っているし、「東海道中膝栗毛」の十返舎一九もこの「五雑組」を読んでいた。上田秋成は「藤簍冊子」(つづらふみ)の自序もそのまま盗用している。あの本居宣長先生でさえも、引用を明らかにせず、「玉勝間」で「五雑組」からの盗用しているのである。

鬼磨子書房

   出版社のなかにも難読のものがある。鬼磨子書房は何と読めばいいのか。「くいまーずしょぼう」と読むそうだ。池本義男「宦官攷」を刊行している。池本義男の著作を調べると他にも中国文学関係が多い。「中国婦女奴隷史稿」「中国近代秘密結社考」「金瓶梅詞話の飲食私釈稿」「中国茶書茶関係語彙」「喫茶攷」「庶民の隠語俗語襍」などある。池本氏については大学教授とおもわれるが詳しいことはわからない。

日間賀島と軍艦島

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    愛知県知多半島の先端、師崎港から2.4km沖合いに浮ぶ周囲5kmの小さな島、日間賀(ひまか)島。タコとフグが名物で釣りや海水浴の観光客も多い。面積が0.77k㎡に対して、人口が2164人となっている。現在、島の人口密度では日本№ワンだそうだ。かつて日本一の人口密度を有していたのは海底炭鉱によって栄えた端島(はしま)だった。通称、軍艦島。いまは閉山とともに無人島になっている。

ヴェルレーヌとランボー

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秋の日の ヴィオロンのためいきの

身にしみて ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ色かへて 涙ぐむ

過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて ここかしこ 

さだめなく とび散らふ 落葉かな。

    ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)は、フランスのメッツに生まれ、パリ市役所の下級吏員となり、早くも22歳にして「サテュルニャン詩集」(1866年)、25歳にして「艶なるうたげ」(1869年)、「よき歌」(1870年)を出し、逸楽的な夢想と憂愁とを、自由・大胆なリズムのある形式に託して、音楽的に暗示するという、その独自の詩風を示した。しかしやがて飲酒の習慣に陥る。1871年秋、美少年アルチュール・ランボー(1854-1891)を知るや、奇怪な情熱にとらわれて、妻マチルド・モーテ・ド・フルールビルを棄ててランボーとイギリスに出奔。1873年7月、ついにブリュッセルの街上で、ランボーを拳銃で撃ち、2年間、モンスの刑務所に捕われた。妻との離婚確定の知らせに深刻な打撃を受け、悔い改めてカトリック教に帰依し、獄中で、宗教詩の傑作「叡智」(1880年)を書いた。1875年出獄後は中学校教師をして生活の建て直しに努めたが、また、1885年には、ヴゥジー刑務所に、1ヵ月間投獄されたり、その一生は放蕩と、飲酒の悪癖と、神秘主義との間を絶えず行ったり来たりしていた。1896年1月8日、肉親友人もいないウジェニー・クランツの部屋で、一人淋しく死んだ。

   今日10月20日は象徴派の詩人アルチュール・ランボーの誕生日。ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)。シャルルビルに生まれる。早くから異常な知的能力を発揮し、8歳で文章の天分を示した。ランボーが残した著作は少なく、散文詩集「地獄の季節」(1873年)「イリュミナシオン」(1874年)がある。以後は文学と別れて、ヨーロッパを放浪したり、エジプトでコーヒー商をやったり、エチオピアで探検家兼武器売込人になったり、多彩な人生を送った。(参考:大塚幸男「写真・フランス文学史」)

Verlaine Rimbaud
      ヴルレーヌ                     ランボー

2011年10月19日 (水)

滅びの美学

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  日本人は、古代の伝承の中でも滅びゆくものの悲しみを好んでいた。「源氏物語」の世界にも死の影が全体を覆っているし、「平家物語」にも、滅びるものへの限りない哀惜の情が注がれている。松尾芭蕉は「わび」「さび」を美の境地と考えた。一方、近松門左衛門は、その作品にしばしば心中を取り上げた。近代でも、永井荷風がひたすら滅びゆく情緒を愛し続けたし、太宰治は「斜陽」で滅びの美学を描いた。三島由紀夫にも戦争を不吉で美しい死の場所とする考え方があった。

   cataloging

漢王朝の光と影 中国の歴史4 陳舜臣 平凡社 1981
漢開通褒斜道刻石 書跡名品叢刊 二玄社 1960
漢賈誼政事疏考 夏炘 1931
漢学紀源 続々群書類従第10 伊地知秀安 国書刊行会 1906
漢学者伝記及著述集覧 小川貫道編 関書院 1935
漢学者伝記及著述集覧 小川貫道編 名著刊行会 1970
漢・瓦当文集 書跡名品叢刊 二玄社 1960
漢簡 居延漢簡 1~8 赤井清美編 東京堂出版 1975~77
宦官 側近政治の構造 中公新書 三田村泰助 中央公論社 1963
宦官 中公文庫 三田村泰助 中央公論社 1983
漢官解詁 1巻 胡広注
漢官儀 衛宏
漢官儀 3巻 応劭 平津館叢書・続古逸叢書所収
漢官旧儀 1巻 補遺1巻 衛宏撰 武英殿聚珍版全書
漢簡研究 大庭脩 同朋舎出版 1992

漢簡研究の現状と展望 漢簡研究国際シンポジウム'92報告書 大庭脩 関西大学東西学術研究所 1993
宦官攷 全2巻 金瓶梅詞話を主として 池本義男 鬼磨子(クイマーズ)書房 1987
漢奸裁判史 1946~1948 益井康一 みすず書房 1977
漢官職典儀式選用 1巻 蔡質撰
漢官典儀 蔡質
漢簡與漢代城市 馬先醒 簡牘社 1976
漢簡七種通検 陳祚龍 巴黎大学漢研所 1962
宦官物語 男を失った男たち 東方選書12  寺尾義雄 東方書店 1985
宦官物語 河出文庫 寺尾義雄 河出書房新社 1989
漢官六種 孫星衍 台湾・中華書局 1966
漢紀 30巻 荀悦
漢儀 1巻 呉丁孚撰
漢魏思想史研究 堀池信夫 明治書院 1988
漢魏制度叢考 揚鴻年 武漢大学出版社 1985
漢魏叢書 3冊 程栄校輯 中文出版社 1970
漢魏碑文金文鏡銘索引 隷釈篇 内野熊一郎 極東書店 1966
漢魏碑文金文鏡銘索引 金文・鏡銘・墓誌銘・碑文篇 内野熊一郎篇 極東書店 1972

漢魏碑文金文鏡銘索引 隷釈篇 補訂 内野熊一郎編 高文堂出版社 1978
漢魏六朝 東洋文化史大系2 松田寿男 誠文堂新光社 1938
漢魏六朝韻譜 于安瀾 汲古書院 1970
漢魏六朝時代 世界文化史大系17  松田寿男著 鈴木艮編 誠文堂新光社 1936
漢・魏・六朝・唐・宋散文選 中国古典文学大系23 伊藤正文・一海知義編訳 平凡社 1970
漢・魏・六朝詩集 中国古典文学大系16  伊藤正文・一海知義編訳 平凡社 1972
漢魏六朝篇 邦訳支那古詩 小村定吉訳 昭森社 1941
漢魏両晋南北朝仏教史 上下 湯用彤 中華書局 1955
漢舊義 衛宏
鑑鏡の研究 増補 梅原末治 京都・臨川書店 1975

漢・金文 書跡名品叢刊 二玄社 1960
漢古印縁起 中公文庫 陳舜臣 中央公論社 1989
刊誤引得 榕園叢書 侯毅編 1934
漢口慰安所 長沢健一 図書出版社 1983
漢口大攻略戦 支那事変少年軍談 講談社 1939
漢・孔宙碑 書跡名品叢刊1 二玄社 1959
幹校六記 文化大革命下の知識人 楊絳著 中島みどり訳 みすず書房 1985
漢語音韻学入門 唐作藩著 本橋春光訳 明治書院 1979
漢呉音図 勉誠社文庫57 太田全斎著 林史典解説 勉誠社 1979
漢刻石八種 書跡名品叢刊 二玄社 1961
漢語の知識 岩波ジュニア新書25 一海知義 岩波書店 1981
漢語文典叢書 1~6 
別巻 吉川幸次郎、小島憲之、戸川芳郎編 汲古書院 1979~81
漢語文法論 古代編 牛島徳次 大修館書店 1967
漢語文法論 中古編 牛島徳次 大修館書店 1971
漢籍輸入の文化史 大庭脩 研文出版 1997

アッシジのキアラ

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   有島武郎の小説に「クララの出家」(大正6年)がある。クララは聖フランチェスコの導きにより修道女の道に入る。あのフランコ・ゼフィレッリィ監督の「ブラザー・サン・シスター・ムーン」でジュディ・バウカーが演じた尼僧である。クララともクレアとも言うがキアラ(Chiara)が原音に近い。キアラ(1194-1253)は実在の人物で、フランチェスコより13歳年下。フランチェスコが亡くなるまで、病に伏した彼の世話をした。

200pxsimone_martini_047アッシジのサン・フランチェスコ聖堂のフレスコ画 シモーネ・マルティーニ画

ササン朝

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  ササン朝(226-651)は、アルデシール1世がパルティアを倒して、クテシフォンを都に新しく開いた王朝である。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一をはかった。シャープール1世は東方のクシャーナ朝を破ってアフガニスタンに進出し、西方ではエデッサの戦い(260)でローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。その後、カッパドキアまで進んだが、パルミラの軍に敗れてユーフラテス川以東に後退した。6世紀ホスロー1世のときササン朝は最盛期を迎えるにいたった。7世紀半ばにアラブのイスラム軍が来襲して、ニハーヴァンドの戦い(642)でイスラム軍に完敗し、ササン朝は滅亡した。

鳥取罹災史

Tensai_img3鳥取大地震Tensai_img4鳥取大地震 2009033020050930162550_ph_0鳥取大火

   鳥取はむかしから災害の多い都市で、明治18年、大正7年、12年には大水害に見舞われ、また昭和18年には、鳥取大震災が発生し、市内の建物の7割以上が全半壊し、甚大な被害があった。そして昭和27年、戦後最大といわれた鳥取大火があった。市内中心部で発生した火事は5228戸を焼失、市内の3分の2を焼き尽くした。いまから40年前、昭和46年10月19日、栄町の商店街190店が全焼している。

北の最果てトド島

121332_2 手前にスコトン岬、遠景にトド島。左にメナシトマリ岩が見える

    北海道には、アイヌ語の地名に漢字を宛てたされる地名が今も残っている。礼文島は「レブンシリ(沖のほうの島)」という意味。スコトン岬の北方には周囲4kmの無人島トド島がある。冬の間は繁殖のためにトドが来島し、夏にはアザラシが来遊する。野鳥の楽園でもある。渡島希望者が5人以上集まると漁船で渡ることもできる。

「哀愁」の日本映画への影響

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    ヴィヴィアン・リー、ロバート・テーラー主演の「哀愁」は昭和24年3月に日本公開され、婦女子の紅涙を絞った。センチメンタルな悲劇の代表として類似映画は世界中にあり、枚挙に遑が無い。ハリスン・フォードの「ハノーバー・ストリート」(1979)はそのリメイクではあるが悲劇性は少ない感がある。日本映画では「君の名は」や「銀座の恋の物語」(記憶喪失の部分は「心の旅路」の影響)などにウォータールー橋ならぬ数寄屋橋が登場する。だが「哀愁」マイラが汚れた職業に堕ち轢死するヒロインの悲劇性を最も忠実に再現した日本映画は浅丘ルリ子主演の「十六歳」(1960)であろう。

  玉川せん子(浅丘)は埼玉の米軍基地のある貧しい農家の娘。中学3年生でバトミントン部のキャプテン。健康で明るい少女だが、近所に住むパンパンに好奇心をもつ。中根先生(葉山良二)が好きであるが、本間先生(長門裕之)から就職の斡旋をしてもらう。御礼に本間の下宿を訪れ、レイプされる。そして本間の子を宿すが、堕せといわれる。家出をしたせん子は売春婦となる。ある霧の夜、路上で倒れているせん子を中根が見つける久しぶりの再会であるが、すでに汚れたせん子は逃げ出した瞬間、疾走してきたトレーラーにひき殺される。あらすじのとおり救いようのない悲惨な結末で映画は終わる。当時すでに20歳の浅丘は、中学生をムリなく演じている。名作という評価は聞かないが「哀愁」のペシミズムが見事に再現されている。もちろん恋愛映画としてみた場合、教師と生徒との関係が恋愛としては不十分で、児童文学の映画化という感じはする。原作は打木村治の「雑草のような命」。

2011年10月18日 (火)

いかりや長介とクレージーキャッツ

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川田晴久(中央)。左から鹿島利之、小島宏之、灘康次

         3人以上のグループの場合リーダーがいる。グループ名にリーダー名をつけるか省くかは大問題である。ハナ肇とクレージーキャッツ、これに対してザ・ドリフターズは、リーダーいかりや長介の名前はおもてにない。当時、GS旋風だったからか。ザ・タイガース、ザ・スパイダーズとリーダーは付かない。ジャッキー吉川とブルー・コメッツはインスツルメンタルの時代があったからリーダー名が付いているのだろう。ムード歌謡にはリーダー名がつくのが一般である。和田弘とマヒナ・スターズ、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、黒沢明とロス・プリモス、敏いとうとハッピー&ブルー、森雄二とサザン・クロス、秋庭豊とアローナイツ、中井昭・高橋勝とコロラティーノという長いグループ名もある。嚆矢は川田晴久とダイナ・ブラザーズ。

   ところでロス・インディオスはムード・コーラスなのに棚橋静雄とロス・インディオスとはいわない。杉山清貴&オメガトライブはサザンやTUBEのようなニューミュージック系バンドなのにボーカル名が前面に出ている。チャゲ&飛鳥は、テツandトモのようだ。メロン記念日はサラダ記念日のようだ。

チャゲ&飛鳥は CHAGE&ASKAだ

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    グループ名には二つのタイプがある。「じゅん&ネネ」型と「トワ・エ・モワ」型である。つまり構成員の名を前面に売り込む方式と、2人セットでグループとしてのイメージを出す方式に分かれる。昭和40年代、多くのデュオ、デュエットが出たが、ケンとメリー、ヘドバとダビデ、ベッツィ&クリス、最高はヒデとロザンナだろう。「トワ・エ・モワ」型にはシモンズ、チェリッシュ、ダ・カーポ、ビリー・バンバン、そしてピンク・レディー、あみん、WINKがいる。昭和50年代にデビューしたチャゲ&飛鳥はなぜ「じゅん&ネネ」型なのだろうか。お互いに個性が強くてひとつのグループ名が決まらなかったのだろうか。もともと「じゅん&ネネ」型は色ものに多い。漫才コンビもほとんどこの芸名が一般的である。エンタツ・アチャコ、やすし・きよし。タッキー&翼、はコンビの活動は不定期だからであろう。ふつうならばチャゲ&飛鳥は統一したネーミングを付けるケースだろう。コブクロのように統一名でないところが、CHAGE&ASKAの魅力なのかもしれない。ソロになって成功したケースは過去に少ないかもしれないが今後の活躍に期待したい。

日本一、高貴な「シェー」ざんす!!

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   赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」から生れたイヤミの「シェー」が大流行。映画「怪獣大戦争」(1965)の中で、なんとゴジラまでが「シェー」をするシーンがある。だが日本シェー史に於いて画期的、かつ高貴なる日本美を放つ「シェー」は大阪万博会場で浩宮徳仁親王(現・皇太子)が披露されたシェーの一発ギャグであろう。三菱未来館シルエトロン舞台でスクリーン上の5倍の姿で映しだされた。当時、まだまだおおらかな良き時代だった。

不束(ふつつか)

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   ふとつか(太束)の変化という。宇津保物語に「いと大きやかにふつつかに肥え給へるが」とある。「太くて不恰好」で下品な感じを伴っている。江戸期になっても「お琴はふつつかなるかたち」(好色一代男)などの例がある。現代でも「不束者」は「無骨な者。ゆきとどかない者」の意で使われている息の長いことばである。

沖ノ鳥島

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   小笠原諸島の最南端・南硫黄島からさらに西南方約600kmの太平洋上に沖ノ鳥島がある。別名パレセ・ベラ、あるいはダグラス・リーフという。東西4.5km、南北1.7km、周囲11mの楕円形環礁で、径約2mの北小島と東小島など干出岩が点在している。17世紀初めスペイン人が発見したが所属が問題とならなかった。1922、25年に測量船満洲が調査し、沖ノ鳥島と命名し、1931年に小笠原支庁管下となり、日本領と認められた。第二次世界大戦後、アメリカの統治下にあったが、1968年に小笠原諸島の返還と同時に東京都に帰属した。

口は風、筆は跡

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    中国のことわざ。中国人は信義を重んじ、口約束でもかたく守るという。その中国人にも、こんな諺がある。書いたものは、のっぴきならぬ証拠だというのである。メールや携帯なども記録に残るので、注意したほうがよかろう。

織田信長の上洛

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  永禄10年、織田信長(1534-1582)は美濃の斎藤龍興(1548-1573)の本拠井ノ口城を陥れた。信長はここを岐阜と改めるとともに、僧沢彦に撰ばせた「天下布武」の印をつくって、武力統一に対する抱負を示した。翌年9月7日、美濃・尾張を平定した信長は、大軍を率いて岐阜城を出発した。そうして、その途中、六角義賢の支城箕作、その他の城々を一蹴し、義賢の居城観音寺山を陥れた。9月28日、信長は足利義昭(1537-1597)を擁して京都に入った。上洛を遂げた信長は東寺に陣し、義昭は清水寺に入った。信長が入京するというので、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した信長は、細川藤孝に御所の警備を命ずる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された足利義栄が摂津富田城(高槻市)に、三好三人衆がそれぞれ山城勝竜城(長岡京市)、摂津芥川城(高槻市)、越水城(西宮市)に拠って信長に抵抗していたが、勝竜寺城は29日に、他の諸城も数日のうちに攻略され、三好党は阿波へ敗走した。10月18日、足利義昭は室町幕府15代将軍に就任した。

2011年10月17日 (月)

明暗の秋

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    勝負の世界は結果がすべて。阪神真弓監督が4位確定で辞任を発表した。新監督は和田コーチの昇任か、梨田招聘か。巨人も低迷したが、沢村一拓という救世主が現れた。オフには結婚。新人王と花嫁さんと両手に花になりそうだ。

マルコ・ポーロ

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    マルコ・ポーロの「東方見聞録」は、日本をジパングと呼び、豊かな黄金の産地としている。誇張癖のある彼自身の言動に周囲の不信感が強かったこともあってほとんど顧みられることはなかったが、大航海時代の航海者の冒険心を誘うのに一役をかい、不可欠の世界案内書となった。

本日も目録作業cataloging

マルコ・ポーロ 青木富太郎 平凡社 1948
マルコ・ポーロ 岩波新書 岩村忍 岩波書店 1951
マルコ・ポーロ 世界最初の探検家 少国民の偉人物語文庫 福田和彦 岩崎書店 1959
マルコ・ポーロ 少年少女世界探検家物語5 砂田弘 三十書房 1964
マルコ・ポーロ 人と歴史シリーズ・東洋11  佐口透 清水書院 1977
マルコ・ポーロ 講談社の子ども伝記19  川崎洋 講談社 1981
マルコ・ポーロ 講談社火の鳥伝記文庫 保永貞夫 講談社 1982
マルコ・ポーロ 国際カラー版世界の伝記21 たかしよいち 小学館 1983
マルコ・ポーロ紀行 瓜生寅訳 博文館 1912
マルコ・ポーロ東方見聞録 青木富太郎訳 社会思想社 1983
マルコ・ポーロの研究 上 岩村忍 筑摩書房 1948
マルコ・ポーロのぼうけん 日本児童文学 高木博 日本児童文庫刊行会 1958
マルコ・ポーロ旅行奇談 吉原公平 大同館 1936

栄枯盛衰

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    ローマのコロッセウムの外壁が崩壊したり、ロンドンのビッグベンの傾きが問題となったり、歴史的建造物は話題に事欠くことはない。今度はインドのタージマハル廟が川の水位低下が原因でいずれ倒壊する危険性にあるという。建物はムガール帝国のシャー・ジャハーンが死去した愛妃のために建設した17世紀の廟である。日本でも熊野古道が台風の被害にあった。歴史ある日本は記録にある城址だけでも全国になんと2万5000あるという。神社仏閣の廃寺跡など加えれば数10万にのぼるだろう。

ムック40年史

  ムックとは雑誌と書籍との中間的な出版物。1972年に平凡社から出された「別冊太陽・日本のこころ 百人一首」が第1号とされる。ムックが本格的に出版されるようになったのは1980年代から。ムックの特徴は大判でビジュアル、実用的である、カタログ中心。現代でも書籍では取り扱えないジャンルのムックが出版されている。

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本多正信と本多忠勝

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  NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」で第2代将軍秀忠のころ、重臣の本多正信(1538-1616)が権勢を振るっていたようである。演ずるは二枚目俳優の草刈正雄だが、実際の正信は70歳を過ぎた老人だった。官僚派の正信は、本多忠勝(1548-1610)、大久保忠隣(1553-1628)ら武功派と対立していたと伝えられる。正信と忠勝は同じ本多姓を名乗るように、早くから松平氏に仕えた三河武士であり、遠い親戚である。「徳川十六将図」という画題が何枚も描かれているが、多くは武功派武将たちで、官僚派の本多正信が16人にエントリーされることはなかった。

紛らわしい漢字

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    漢字には多くの種類がある。中日ドラゴンズ優勝。「竜」と「龍」どう違うのか。「土」と「士」、「未」と「末」、一画の長さでまったく異なった意味の文字になる。むかし新聞などで「天皇陛下」を「天皇陸下」を誤字したことがあった。とかく漢字には紛らわしいものが多い。「貪」と「貧」も似ているが、「貪欲」と「貧乏」で「むさぼる」と「まずしい」。大きく異なった意味の文字である。

     「僕」「撲」「樸」も紛らわしい漢字の1つ。これらはみな「ボク」と読む同音異字。僕は「しもべ」という意味で熟語には「家僕」がある。撲は「うつ」という意味で熟語は「撲滅」がある。樸は「切り出したままの材木」という意味で「朴」と同じで「樸訥」(飾り気がなく、口べた)という熟語がある。

なぜかいま人気のツルダン鶴瓶

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 鶴瓶の誕生日は天皇陛下と同じ日

   わからないことがある。これまで爆笑王といわれた芸人は多い。エノケン、ロッパ、アチャコ、エンタツ、林家三平、コント55号、渥美清、やすし・きよし、三枝、さんま、タモリ、北野たけし、ダウンタウンなどなど。彼らには突出した芸やギャグがある。時代を先取りした才覚のようなものがうかがえる。笑福亭鶴瓶という落語家がいる。「鶴瓶の家族に乾杯」でお馴染みだ。とくに落語の名人ではないし、さんまのように饒舌でもないし、たけしのように天才でもない。しかし「ゆるキャラ」時代の嗜好にあっているのか、通天閣のビリケンのような薄毛のツルダンが人気だ。その理由はいまひとつわからない。演技者としても高く評価されているようだ。「母べえ」「奈緒子」「おとうと」と助演から主演級へとランクアップしている。ながい芸歴ながら中年以降、順調にキャリアを伸ばしてきた芸人もめずらしい。上方落語、松鶴一門には仁鶴、鶴光、鶴瓶とみな鶴の一字が付いている。なかでも鶴光は「うぐいすだにミュージックホール」(1975)のころ人気者だった。東京進出が成功したのは鶴瓶だった。いまや「ゆうちょ銀行」の宣伝でも、仮面ライダーの藤岡弘をさしおいて、鶴瓶がセンターポジションにいるのは驚きである。

美食家ではない実篤

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    最近はグルメブームで食通、美食家、健啖家がもてはやされるらしい。漫画「美味しんぼ」(海原雄山は陶芸家の北大路魯山人がモデルらしい) あたりからブームになったのだろうか。いまや世間でも美食を競っている。「作家の食卓」(平凡社)では、立原正秋、石川淳、永井荷風、壇一雄、色川武夫、内田百閒、谷崎潤一郎、吉田健一、池波正太郎、開高健などの美食が紹介されている。

   ところが、作家すべて美食家かというと、そうでもないらしい。嵐山光三郎によれば、武者小路実篤(1885-1976)は味音痴だそうだ。家族が、これならと思う美味しいものをすすめると、「くえる」というのがほめ言葉だった。食通の梅原龍三郎に中華料理をごちそうになり、味はどうだったか訊かれたとき、実篤は「やわらかかった」と言ったという。独特の画風で知られる実篤の野菜の絵も、生命力はあるが、そこに食欲はなく、ひたすら観察があるだけである。嵐山は「それは実篤が公家の出で、はかない味を好んだためだという」そして「明治の公家の食卓はつつましいものであった」という。そういえば実篤の小説には食べ物の描写はほとんどないと記憶する。楽天的で無頓着なところが実篤の魅力なのかも知れない。実篤は昭和51年4月9日、尿毒症で90歳で亡くなっている。(参考:嵐山光三郎「文人暴食」)

沖田総司の妻

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    沖田総司(1842-1868)といえば今では知らぬ人はないほど歴史上の有名人物であるが、むかしは「新選組」といえば近藤勇くらいで、あとの隊士はほとんど無名であった。中里介山の「大菩薩峠」に沖田総司が登場するのが初めであろうか。昭和37年に発表された司馬遼太郎の短編集「新選組血風録」と東映が昭和40年にドラマ化したため一躍、土方歳三(栗塚旭)、沖田総司(島田順司)、斎藤一(左右田一平)の名はお茶の間に知られるようになった。とくに若くして結核で死ぬ沖田総司は青年剣士のイメージで熱狂的な女性ファンをつくった。鶴田浩二版「新選組」では有川博が演じた。その有川も先日、急性呼吸不全のため亡くなられた。BSプレミアム「新選組血風録」では、辻本祐樹が半井お悠(寺島咲)との淡い恋を描いている。だが史実はどうなのだろうか。幕末維新史家の川西正隆によれば、池田屋の変の戦闘で負傷した総司は壬生村の医療所、浜崎新三郎・トク夫妻宅で手当てを受けた。総司はこの時、トクの助手をしていた石井秩という女と知り合う。彼女は山城乙訓郡西本生邑・百姓石井忠左衛門の娘で天保15年(1844)10月18日の生まれであった。秩はユキという女子の連れ子をして、浜崎家へ来ていた。総司はユキを連れて壬生寺へ遊びに出かけたという。総司と秩は恋仲になり、秩は慶応2年11月5日にキョウという総司の子供を産む。しかし秩は翌3年4月26日に死没した。京都・光緑寺の墓地の「沖田氏縁者」と刻まれた墓碑は秩のものだという。娘ユキとキョウはその後どうなったのか。誰かに育てられたらしいが、明治の世、新選組隊士の娘は、はばかられる時代なので、いかなる人生をすごしたかは誰もわからない。沖田総司の子孫は現在もいるかもしれない。(川西正隆「沖田総司の恋人の謎」歴史と旅 昭和55年11月号) Photo_2 沖田総司の妻、秩の墓(京都市四条大宮町37番地)

2011年10月16日 (日)

香港 過去・現在・未来

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中国返還後、香港経済が目覚しい躍進を続けている。

香港 その現状と案内 中公新書  姫宮栄一 中央公論社 1964
香港 中国の軒下で栄える資本主義 日経新書 小泉允雄編 日本経済新聞社 1971
香港 海外地図15 日本交通社 1975
香港 移りゆく都市国家 中嶋嶺雄 時事通信社 1985
香港 過去・現在・未来 岩波新書 岡田晃 岩波書店 1985
香港 経済・貿易の動向と見通し 世界経済情報サービス 1987
香港 海外生活情報シリーズ 田畑書店 1987
香港 海外フリータイムガイド 昭文社 1988
香港 海外たべあるき・ショッピング2 昭文社 1988
香港 世界一等旅行1 ザ・トラベル商会 1988
香港 ジェトロ貿易市場シリーズ288  日本貿易振興会 1988
香港 世界の御案内16  近畿日本ツーリスト 1989
香港 海外旅文庫3 昭文社 1990
香港 タウン・マニュアル2 ジョン・チャン 駸々堂 1990
香港・運輸網の変動 その実態と評価 大橋正璋 アジア経済研究所 1972
香港買物美食手帳 野末陳平編 扶桑社 1987
香港広東語会話 千島英一編著 東方書店 1989
香港喜劇大序説 平岡正明 政界往来社 1987
香港グラフィティ 小宮清、新谷直恵 みずうみ書房 1986
香港グルメ&ショッピング JTBのポケットガイド 日本交通社出版事業局 1990
香港・広州・桂林 ブルーガイド・パシフィカ8 実業之日本社 1989
香港コンフィデンシャル 蒼蒼スペシャル・ブックレット 秦原道 蒼蒼社 1986
香港市民生活見聞 新潮文庫 島尾伸三 新潮社 1984
香港斜陽物語 洛風著 牧浩平訳 ハト書房 1953
香港上海雑貨見物 島尾伸三、潮田登久子 東京三世社 1986
香港ショッピング案内 マイライフシリーズ 西尾忠久 グラフ社 1980
香港ショッピング事典 洋泉社 1988
香港・シンガポール スーパー・ショッピング 光文社 1987
香港世界 山口文憲 筑摩書房 1984
香港世界 筑摩文庫 山口文憲 筑摩書房 1986
香港・台湾 中公ガイドブックス 世界の旅2 中央公論社 1972
香港・台湾の経済変動 成長と循環の分析 坂井秀吉、小島未夫 アジア経済研究所 1988
ホンコン脱出記 中国文学選書 茅盾著 小川環樹訳 弘道館 1954
香港旅の雑学ノート 山口文憲 ダイヤモンド社 1979
香港旅の雑学ノート 新潮文庫 山口文憲 新潮社 1985
香港・チャイナ(広州・マカオ)に夢中!旅ガイド おそどまさこ 山と渓谷社 1987
香港徹底ガイド 伊本俊二 三修社 1976
香港と海南島 朝日東亜リポート1 東亜問題調査会編 朝日新聞社 1939
香港と広州・桂林を歩く Your Guide 深井聡男 YOU出版局 1984
香港の工業化 小林進編 アジア経済研究所 1970
香港の工業化 アジアの結節点 アジア工業化シリーズ8 小島麗逸編 アジア経済研究所 1989
香港の水上居民 中国社会史の断面 岩波新書 可児弘明 岩波書店 1970
香港の挑戦 日本経済人への警告 邱永漢 中央公論社 1981
香港へ行こう! PHP研究所 1990
香港・マカオ パン・ニューズ・インターナショナル 1980
香港・マカオ オレンジガイド2 自由現代社 1981
香港・マカオ 外務省アジア局中国課編 日本国際問題研究所 1982
香港・マカオ ブルーガイドパック・ワールド5 実業之日本社 1982
香港・マカオ 交通公社のるるぶガイド4 日本交通公社出版事業部 1983
香港・マカオ トラベルJoy 別冊 山と渓谷社 1987
香港・マカオ MMガイド2 松島駿二郎、村山秀司 昭文社 1989
香港・マカオ ワールドJoy8 山と渓谷社 1989
香港・マカオ 海外・旅のデータバンク1 昭文社 1989
香港・マカオ 全日空シティガイド4 全日本空輸株式会社 三推社 1990
香港・マカオ・広州 エアリアガイド 室岡まさる 昭文社 1986
香港・マカオ・広州・桂林 カドカワ・トラベル・ハンドブック3 角川書店 1987
香港・マカオ・広州・桂林の旅 ワールド・トラベル・ブック5 ワールドフォトプレス 1983
香港・マカオ・台北の旅 平岩道夫 金園社 1970
香港・マカオ・台湾 ブルー・ガイド海外版1 実業之日本社 1966
香港・マカオ・台湾 海外ガイド4 日本交通公社 1972
香港・マカオ・台湾 ポケットガイド120 日本交通公社 1979
香港・マカオ・台湾の旅 カラーブックス 平岩道夫 保育社 1971
香港・マカオの旅 ブルーガイド海外版 実業之日本社 1974
香港・マカオの旅 ワールドフォトプレス編 ワールドフォトプレス 1979
香港・マカオの旅 ブルーガイド海外版 金重鈜 実業之日本社 1979
香港・マカオの旅 ワールド・トラベル・ブック5 ワールドフォトプレス 1982
香港・マカオの本 旅のガイドムック10 近畿日本ツーリスト 1985
香港・マカオ120パーセントガイド ひとりで行ける世界の本4 日地出版 1990
香港レストランショッピング案内 カラーガイド10  平岩道夫、平岩雅代 三修社 1983
 




日本列島の位置

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   日本はユーラシア大陸の東側に位置する弧状に連なる島国で、4つの大きな島と6800以上の島々から成り立っている。オホーツク海を臨む最北端・択捉島カムイワッカ岬から最南端の太平洋を隔てて米領北マリアナ諸島と隣り合っている沖ノ鳥島まで南北約2800kmある。

  排他的経済水域を接していない最東端・南鳥島(マーカス島)から、東シナ海を挟んで中国大陸および台湾島と隣り合っている最西端・与那国島西崎まで東西約2500kmある。

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   与那国島西崎(いりざき)

蠃顛劉蹶

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蠃顛劉蹶(えいてんりゅうけつ)

秦の姓は蠃、漢の姓は劉。つまり秦の国も漢の国も、結局はくつがえり滅びたこと。

本日も目録作業(cataloging)

王陽明 亘理章三郎 丙午出版社 1911
王陽明 支那聖賢講話全書9 山田準 章華社 1937
王陽明 山本正一 中文館書店 1943
王陽明 中国人物叢書Ⅱ-7 谷 光隆  人物往来社 1967
王陽明 上 陽明学大系2 安岡正篤、荒木見悟 明徳出版社 1972
王陽明 下 陽明学大系3 近藤康信、荒木見悟 明徳出版社 1972
王陽明 人類の知的遺産25  大西清隆 講談社 1980
王陽明 百死千難に生きる 中国の人と思想9 山下龍二 集英社 1984
王陽明 上 シリーズ陽明学2 岡田武彦 明徳出版社 1989
王陽明 下 シリーズ陽明学3 岡田武彦 明徳出版社 1991
王陽明研究 桑原重矩 帝国堂 1917
王陽明研究 安岡正篤 玄黄社 1922
王陽明研究 安岡正篤 明徳出版社 1960
王陽明言行録 偉人研究57  渡辺芳雄編 1909
王陽明集 中国文明選6 島田虔次編 朝日新聞社 1975
王陽明詳伝 高瀬武次郎 広文堂書店 1915
王陽明靖乱録 中国古典新書続編 中田勝 明徳出版社 1988
王陽明全集 全10巻 安岡正篤監修 明徳出版社 1983-1987
王陽明伝習録提綱 漢魏研究会 中興館 1922
王陽明と湛甘泉 志賀一朗 新塔社 1976
王陽明と明末の儒学 岡田武彦 明徳出版社 1970
王陽明の解脱観 安藤州一 敞文館 1942
王陽明の詩 菅原兵治 名古屋・黎明書房 1972
王陽明の禅的思想研究 久須本文雄 日進堂書店 1958
王陽明の哲学 三島復 大岡山書店 1933
王陽明文集 中国古典新書 岡田時彦 明徳出版社 1970

世界食料デー

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   日本でフランス語の「gourmet」が移入され、「グルメ」という流行語となったのは何時頃からであろうか。図書の題名に「グルメ」が冠しているのは柴田書店の「新フランス料理グルメのための美食料理」(1979年)である。最初はフランス料理に関して使われていたが、すぐに日本語の「食通」「美食家」と同義語として普及した。翌年から柴田書店からシリーズ「Tokyoグルメブック」が刊行されている。こうして1980年代からはグルメ番組がテレビ界を席巻する。

  NHKのお昼の番組「ひるブラ」を観る。大阪の食の台所・黒門市場を香坂みゆきがレポート。ふぐ、蒲焼、天ぷら、そしてマグロ。昨夜放送の「鶴瓶の家族に乾杯」でも飯島直子がマグロを食っていた。番組スタッフは美女がトロを食う姿が視聴者が喜ぶと思っているのだろうか。テレビ東京の旅番組もよく観る。熟女が露天風呂につかり、旅館で豪華な夕食。そしてSMAPなどの料理番組。美食家、食通がよしとされる時代風潮にある。世界には飢饉に苦しむ人、国内には避難所生活を余儀なくされている人が大勢いてもグルメ番組は多い。もともと江戸時代の武士は菜食主義だった。欧米の菜食主義とは違うかもしれないが、肉類で動物性食品を摂らない狭義のベジタリアンだった。これが変化したのは明治の西洋化のためだろう。洋行帰りの漱石や鴎外の食生活がハイカラなのは当然だろう。永井荷風も今日からみれば食通とはいえないが、奇妙な美食家だった。経済的余裕のある文士はみな健啖家を自慢する風潮が起きた。昭和戦後になって山口瞳、開高健、向田邦子、辻邦夫、立原正秋など現代的な美食家が登場した。やがて一般庶民もまねる。タレント・芸能人の美食自慢がテレビを独占する。しかし過度の栄養摂取は健康に悪いだろう。美食家が長寿を全うした話はあまり聞かない。人間の腸は草食動物のように長く、体調の約12倍の長さがある。肉食動物のライオンの腸は4倍、雑食の犬は体長の6倍である。つまり人間は肉食には適さない。アインシュタインは「菜食主義への移行ほど健康に有効な方法はない」といい、シュバイツァーは「動物を食べることは私の信条に合わない。だから、私は絶対に肉食をしない」と言っている。

マリア・テレジアとマリー・アントワネット

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 マリア・テレジア       マリー・アントワネット

    マリア・テレジアは、20年の間に16人の子どもを出産した。もともと多産系のハプスブルク家でも特に多かった。成長したのは10人だけで、6人が女児だった。女児のうち3人はブルボン家系の家に嫁いだ。六女のマリア・アマリアはパルマへ、十女のマリア・カロリーナはナポリへ。そして末娘のマリア・アントニアは、1770年、フランスの皇太子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)のもとに嫁いだ。マリー・アントワネットのことである。

    マリー・アントワネット(1755-93)が、祖国オーストリアを離れ、異国の地フランスに嫁いだのはわずか15歳のことである。あまりの習慣の違いにショックを受け、嫁いだ当初は母マリア・テレジアに手紙を書き綴っていたという。しかし、次第に宮廷内の贅沢三昧な暮らしになれていく王妃。この華燭に満ちた生活は、やがて重税であえぐ国民の反感をかい、フランス革命勃発へとつながった。捕われ、処刑台に上がるときに役人の足を踏んでしまったマリー・アントワネットは、「お許しください。わざとではないのです」と謝ったという。処刑台を目の前にし、こんなにも気品のある言葉がごく自然に出たという。1793年10月16日、38歳の若さでその短くもはかない人生を閉じた。

阪神、初の日本一(1985年)

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   10月16日、阪神はリーグ優勝に輝いた。この年、バックスクリーン三連発がある。4月17日、甲子園球場で7回裏、巨人の槇原からバース、掛布、岡田が3者連続でバックスクリーンへ本塁打を放った。試合は6対5で阪神が逃げ切った。スターティングメンバーは9真弓明信、8弘田澄男、3ランディ・バース、5掛布雅之、4岡田彰布、7佐野仙好、6平田勝男、2木戸克彦、1工藤一彦。11月2日、阪神は9対3で西武を下し、初の日本一に輝いた。

2011年10月15日 (土)

読書尚友

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読書尚友(どくしょしょうゆう) 書物を読むことによって、古の賢人を友とすること。「孟子」万章下

以下、目録作業(cataloging)をする。

五経四書説略 中国文化史知識叢書84 台湾商務印書館 1994
孔子與儒家 中国文化史知識叢書81  台湾商務印書館 1994
古代中西文化交流 中国文化史知識叢書3  何芳川 台湾商務印書館 1994
中国印刷史話 中国文化史知識叢書76  台湾商務印書館 1994
中国古代医薬衛生 中国文化史知識叢書72 台湾商務印書館 1994
中国古代飲食文化 中国文化史知識叢書49  林乃 台湾商務印書館 1994
中国古代駅站與郵傳 中国文化史知識叢書69 台湾商務印書館 1994
中国古代園林 中国文化史知識叢書30 耿劉同 台湾商務印書館 1994
中国古代音楽 中国文化史知識叢書23 伍国棟 台湾商務印書館 1994
中国古代絵画 中国文化史知識叢書22  徐改 台湾商務印書館 1994
中国古代化学 中国文化史知識叢書79  台湾商務印書館 1994
中国古代学校 中国文化史知識叢書56  郭斎家 台湾商務印書館 1994
中国古代家庭教育 中国文化史知識叢書55  畢誠 台湾商務印書館 1994
中国古代官制 中国文化史知識叢書52  王天有 台湾商務印書館 1994
中国古代漢族婚喪風俗 中国文化史知識叢書42  李仲祥、張発嶺 台湾商務印書館 1994
中国古代地理学 中国文化史知識叢書7 趙栄 台湾商務印書館 1994
中国古代青少年成才史話 中国文化史知識叢書6 朱仲玉 台湾商務印書館 1994
中国古代舞踏 中国文化史知識叢書24 劉芹 台湾商務印書館 1994
中国古代棋芸 中国文化史知識叢書25 徐家亮 台湾商務印書館 1994
中国古代戯曲 中国文化史知識叢書26 周伝家 台湾商務印書館 1994
中国古代建築 中国文化史知識叢書29  楼廣西 台湾商務印書館 1994
中国古代鉱業 中国文化史知識叢書65  李仲均 台湾商務印書館 1994
中国古代考試制度 中国文化史知識叢書54 郭斎家 台湾商務印書館 1994
中国古代交通 中国文化史知識叢書4  王崇煥  台湾商務印書館 1994
中国古代字典詞典 中国文化史知識叢書85  台湾商務印書館 1994
中国古代商業 中国文化史知識叢書66  呉慧 台湾商務印書館 1994
中国古代的小説 中国文化史知識叢書14  張国風 台湾商務印書館 1994
中国古代神話與伝説 中国文化史知識叢書1  潜明茲 台湾商務印書館 1994
中国古代数学 中国文化史知識叢書77  台湾商務印書館 1994
中国古代生物学 中国文化史知識叢書80  台湾商務印書館 1994
中国古代造船與航海 中国文化史知識叢書70 台湾商務印書館 1994
中国古代体育 中国文化史知識叢書58  任海 台湾商務印書館 1994
中国古代的天文與暦法 中国文化史知識叢書9  陳久金 台湾商務印書館 1994
中国古代著名科学典籍 中国文化史知識叢書87  台湾商務印書館 1994
中国古代著名史籍 中国文化史知識叢書10  畢素媚 台湾商務印書館 1994
中国古代著名水利工程 中国文化史知識叢書10 朱学西 台湾商務印書館 1994
中国的書院 中国文化史知識叢書13  朱漢民 台湾商務印書館 1994
漢字発展史話 中国文化史知識叢書11  董琨 台湾商務印書館 1994
中国的詩詞曲賦 中国文化史知識叢書15  劉耕路 台湾商務印書館 1994
中国古代雑技 中国文化史知識叢書27  劉蔭柏 台湾商務印書館 1994
中国古代陶瓷 中国文化史知識叢書21  李知宴 台湾商務印書館 1994
中国古代都城 中国文化史知識叢書35  呉松弟 台湾商務印書館 1994
中国古代度量衡 中国文化史知識叢書68  丘光明 台湾商務印書館 1994
中国古代農業 中国文化史知識叢書64  李根蟠 台湾商務印書館 1994
中国古代服飾 中国文化史知識叢書48  載欽祥、陸釿、李亜麟 台湾商務印書館 1994
中国古代武術 中国文化史知識叢書28 任海 台湾商務印書館 1994
中国古代物理学 中国文化史知識叢書78  台湾商務印書館 1994
中国古代兵器 中国文化史知識叢書62  王兆春 台湾商務印書館 1994
中国古代兵書 中国文化史知識叢書63  柳玲 台湾商務印書館 1994
中国古代紡織與印染 中国文化史知識叢書73  台湾商務印書館 1994
中国古代法制史話 中国文化史知識叢書53  李用兵 台湾商務印書館 1994
中国古代民間工芸 中国文化史知識叢書20  王冠英 台湾商務印書館 1994
中国古代冶金史話 中国文化史知識叢書74  台湾商務印書館 1994
中国古代礼俗 中国文化史知識叢書47  王煒民 台湾商務印書館 1994
中国史前文化 中国文化史知識叢書2  王仁湘  台湾商務印書館 1994
中国少数民族婚喪風俗 中国文化史知識叢書43  厳汝嫻、劉宇 台湾商務印書館 1994
中国人的字別号 中国文化史知識叢書40  吉常宏 台湾商務印書館 1994
中国重要考古発見 中国文化史知識叢書31  黄石林、朱乃誠 台湾商務印書館 1994
中国造紙史話 中国文化史知識叢書75  台湾商務印書館 1994
中国俗文学史 鄭振鐸 北京・作家出版社 1954
中国政治史 周谷城 上海・中華書局 1940
中国政治思想史 中国文化史叢書 楊幼炯 商務印書館 1938
中国政治思想史 呂振羽 北京・生活読書新知三聯書店 1955
中国政治思想史 呂振羽 人民出版社 1961
中国税政史 中国文化史叢書 呉兆華 商務印書館
中国青銅器時代 郭宝鈞 三朕書店 1963
中国政党史 中国文化史叢書 楊幼炯 商務印書館 
中国石器時代的文化 斐文中 中国青年 1954
中国禅学思想史 新・中国文化史叢書13  洪修平
中国蔵書家攷略 楊立誠、金歩瀛 淅江省立図書館 1929
中国蔵書家考略 楊立誠、金歩瀛合編 兪運之校補上海古籍出版社 1987
中国俗曲総目稿 附補遺 劉復、李家瑞等合編 中央研究印歴史語言研究所 1932
中国大事年表 陳仄麟編 商務印書館 1934
中国大同思想資料 中国科学院哲学研究所 中国哲学史組編 中華書局 1959
中国大陸省別地図 外交時報社 1971
中国地学論文索引 2冊 王庸、茅乃文編 国立北京師範大学・北平図書館 1934
中国地学論文索引 続編2冊 王庸、茅乃文編 国立北京師範大学・北平図書館 1936
中国地方行政制度 厳耕望 国立中央研究院歴史語言研究所専刊45 台北 1962
中国地方志目録 上海日本大使館特別調査班編 上海・同調査班 1942
中国地名大辞典 劉鈞仁編 国立北平研究院出版部 1930
中国中薬史 新・中国文化史叢書17  魏子考
中国長城沿革考 王国良 1931
中国雕板源流考 孫毓修 商務印書館 1917
中国鳥類分布目録1 鄭作新 北京・科学出版社 1955
中国地理沿革史 張相文 北平中国地理学会 1935
中国地理沿革図 蘇甲榮編 上海日新香興地学社 1931
中国地理学史 王庸 長沙商務印書館 1938
中国地理大勢論 梁啓超 中華書局 
中国通史 金兆豊  昆明・中華書局 1937
中国通史 上 呂史勉 開明書店 1940
中国通史 下 呂史勉 開明書店 1945
中国通史 上下 周谷城 上海人民出版社 1957
中国通史 翦伯賛 新知書店 1947
中国通史簡編 修訂本第一編 范文蘭 人民出版社 1949
中国通史簡編 修訂本第二編 范文蘭 人民出版社 1958
中国通史簡編 修訂本第三編 范文蘭 人民出版社 1965
中国通史 第5冊 蔡美彪等  人民出版社 1978
中国通史参考資料選輯 第1集 原始時代 東世澂編 新知識出版社 1955
中国通史参考資料 翦伯賛 鄭天挺主編 高等教育出版社 1961-1965
中国通史大事年表 中国人民大学中国史与革命史教研室編 中国人民大学 1951
中国通俗小説書目 孫楷第編 北京・作家出版社 1957
中国通郵地方物産誌 交通部郵政総局編 上海・商務印書館 1937
中国的印刷 劉国鈞 上海人民出版社 1960
中国的印章與篆刻 中国文化史知識叢書19  王志敏 台湾商務印書館 1994
中国的書法 中国文化史知識叢書57  欧陽中 台湾商務印書館 1994
中国的石刻與石窟 中国文化史知識叢書33  徐自強、呉夢麟 台湾商務印書館 1994
中国的地方志 中国文化史知識叢書38  周迅 台湾商務印書館 ぬよよう
中国的著名寺廟宮観與教堂 中国文化史知識叢書37  余桂元 台湾商務印書館 1994
中国的年譜與家譜 中国文化史知識叢書39  来新夏、徐建華 台湾商務印書館 1994
中国的仏教 中国文化史知識叢書16  潘桂明 台湾商務印書館 1994
中国的文房四宝 中国文化史知識叢書18  斎桂儆 台湾商務印書館 1994
中国的名山與大川 中国文化史知識叢書34  謝凝高 台湾商務印書館 1994
中国的道教 中国文化史知識叢書17  金正耀 台湾商務印書館 1994
中国的名勝古蹟 中国文化史知識叢書8 葛暁音 台湾商務印書館 1994
中国的類書・政書與叢書 中国文化史知識叢書86  台湾商務印書館 1994
中国哲学史 馮友蘭 上海商務印書館 1934
中国哲学史綱 李維武編著 巴蜀社 1988
中国哲学史史料学初稿 馮友蘭 上海人民出版社 1962
中国哲学史大綱 上 胡適 上海商務印書館 1919
中国哲学史通論 范壽康 上海開明書店 1937
中国哲学発展史 魏晋南北朝 任継愈主編 人民出版社 1988
中国哲学范畴発展史 張立文 中国人民大学出版社 1977
中国田賦史 中国文化史叢書 陳登原 商務印書館
中国道教史 中国文化史叢書 伝勤家 商務印書館
中国道教史 新・中国文化史叢書 劉精誠 
中国図書館事業史 蘆荷生 1986
中国図書館発展史 王酉梅 吉林教育出版社 1991
中国図書史略 昌彼得 文史哲出版社 1974
中国土地制度 陳登元 上海商務印書館 1932
中国度量衡史 中国文化史叢書1 呉承洛 上海商務印書館 1937
中国南洋交通史 中国文化史叢書 馮承鈞 商務印書館 
中国日本交通史 中国文化史叢書 王輯五 商務印書館
中国日本朝鮮越南四国歴史年代対照表 山西省図書館 1979
中国年鑑 民国25年(1936) 上海日報告社 1935
中国農村経済資料 正続編 馮和法編 上海黎明書局 1935
中国版刻図録 増訂本 北京図書館編 北京・文物出版社 1961
中国美術家人名辞典 中文出版社 1987
中国美術年表 伝抱石 上海商務印書館 1937
中国百科年鑑 中国大百科全書出版社 1980
中国標準化石脊椎動物 楊鐘健等 北京・地質出版社 1954
中国標準化石無脊椎動物 楊敬之等 北京・地質出版社 1955
中国風俗史 張亮采 商務印書館 1917
中国武術史 新・中国文化史叢書6 張純本
中国婦女生活史 中国文化史叢書 陳東原 商務印書館
中国婦女文学史 謝無量 上海・中華書局 1916
中国仏教史 新・中国文化史叢書10  郭朋
中国仏教史3 任継愈主編 中国社会科学出版社 1988
中国仏教与伝統文化 方立天 上海人民出版社 1988
中国文化界人物総覧 橋川時雄編 北京・中華法令編印館 1940
中国文学概論 上 段凌辰 瑞安集古斎書社 1929
中国文学家辞典 古代第1分冊 成都・四川人民出版社 1980
中国文学家大辞典 譚正壁 上海・光明書局 1934
中国文学系年刊 第4期 新亜書院中国文学系系会編 香港・新亜書院 1966
中国文学史 5冊 鄭振鐸  北平樸社 1932
中国文学史 曾 毅 泰西書局 1915
中国文学批評史 陳鐘凡 上海中華書局 1927
中国文学批評史 上 郭紹虞 上海商務印書館 1934
中国文学批評史 郭紹虞 上海・新文芸出版社 1955
中国文学百科全書 4冊 楊家駱 1937
中国文化史概論 新・中国文化史叢書20 劉志琴
中国文化史叢書 上海・商務印書館 1937
中国文化史要論 人物・図書 蔡尚思 湖南人民出版社 1979
中国文献学 張舜徽 河南省許昌・中州書画社 1982
中国文献学概要 鄭鶴聲 鄭鶴春 台湾商務印書館 1967
中国兵器史稿 周緯 三聯 1957
中国壁画 湯兪華 1958
中国報学史 戈公振 北京・生活読書新知三聯書店 1955
中国封建社会経済史 1 傳筑夫 北京・人民出版社 1981
中国封建社会農民戦争問題討論集 史紹賓 三聯書店 1962
中国法制史 大学叢書 陳顧遠 上海・商務印書館 1935
中国法制史 山西・群衆出版社 1982
中国法律思想史 中国文化史叢書 楊鴻烈 商務印書館
中国民間宗教史 新・中国文化史叢書14  馮佐哲
中国民間剪紙 中国美術家境界美術服務部編 北京・国際書店 1956
中国民族史 呂史勉 世界書局 1934
中国民族史 新・中国文化史叢書12  楊学琛
中国名物特産集粋 中国文化史知識叢書71  台湾商務印書館 1994
中国歴史上重要革新與変法 中国文化史知識叢書51  徐凱 台湾商務印書館 1994
中国歴代貨幣 中国文化史知識叢書67 郭彦崗 台湾商務印書館 1994
中国歴代婚姻與家庭 中国文化史知識叢書50 顧塩塘 台湾商務印書館 1994
中国歴代帝王陵寝 中国文化史知識叢書36  黄景略、葉学明 台湾商務印書館 1994
中日文化交流史話 中国文化史知識叢書90  台湾商務印書館 1994
美洲華僑史話 中国文化史知識叢書89  台湾商務印書館 1994
墨子與墨家 中国文化史知識叢書83  台湾商務印書館 1994
老子與道教 中国文化史知識叢書82  台湾商務印書館 1994

ケペル先生クイズ「そこはどこ?」

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問1 島崎藤村の「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」で知られる渥美半島の西端はどこ?

問2 佐藤春夫の「ここに来し をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ」で知られる関東地方の最東端はどこ?

問3 インド最南端はどこ?

問4 ロシアで最も北極に近い島は?

解答 1伊良湖岬 2犬吠埼 3コモリン岬(インド名をカニヤクマリ) 4コムソモレツ島

夢色って何色ですか?

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    山口百恵の7枚目のシングルに「冬の色」(1974)がある。ラジオで初めて聞いた時、いい歌だと感じた。案の定、オリコンチャートで百恵初の1位になった。ところで冬の色はどんな色。一般的には雪をあらわす白だろう。ところがシングル・ジャケットの写真は琥珀色。コーヒーカップを片手にもって百恵のまどろむ表情がいい。

  早見優の「夏色のナンシー」(1983)、菊池桃子「夏色片思い」(1986)や松本典子の「春色のエアメール」(1985)、松田聖子「風は秋色」(1980)など、どんな色かわからないタイトルが続出。きわめつけは西村知美の「夢色のメッセージ」(1986)だ。「夢色」を広辞苑で探しても出ていない。おそらく受けて側がイマジネーションをはたらかせるのであろう。俳句に「夢色の雛あられと膨れつつ」(石塚友二)がある。石塚はピンク色した雛あられを想像したらしい。「夢色」は好評で、漫画「夢色パティシエール」(松本夏美)、アニメソング「夢色の恋」(アツミサオリ)、「夢色チェイサー」(鮎川麻弥)などある。

アガラス岬と大間崎

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    ポルトガル語でアガラス(Aguihas)とは「針」の意。先端部の尖った岩礁に由来する。アフリカ大陸最南端に位置するが、なぜか約160kmも北西にある喜望峰(Cape of Good Hope)のほうが一般に知られているのは何故だろう。ちょうど本州最北端の大間崎より竜飛崎のほうがよく知られている。太宰治のせいか、島倉千代子のせいか、青函トンネルのせいかわからないが、大間崎をよろしく。明治41年、大町桂月がこの地を訪れている。

獄中記

    オスカー・ワイルドは今から155年前、アイルランドのダブリンで医者の父と詩人の母の間に生れた。芸術のための芸術を信条とする耽美主義で知られ、「ドリアン・グレイの肖像」「サロメ」で名声を得た。しかし美青年アルフレッド・ダグラス(1870-1953)との同性愛が法廷に訴えられて禁固刑(1895-1896)に服す。「獄中記」はその牢獄生活に書かれた懺悔録である。題は、「ディー・プロファンディス(De Profundis)」深き淵よりの意(旧約聖書「詩篇」130)。ここにはワイルドの宗教観、人生観、芸術観が吐露されている。

本を読もう。世界が変わって見えるから

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    韓国映画「無影剣」(2005)を観る。渤海の王子を救う女武士の話。ユン・ソイ、イ・ソジン。926年ころの物語で、契丹人が悪者。アクション中心だが歴史ファンも必見。

比較文明 中国とメキシコの旅から 内田譲吉 日本評論社 1983
東アジア 日本・朝鮮・中国 大林太良監修 平凡社 1980
東アジア アジア論1 ラジオ大学講座 浜口允子 放送大学教育振興会 1984
東アジア 世界地理2 木内信蔵編 朝倉書店 1984
東アジア 新訂 世界地誌ゼミナール1 河野通博編 大明堂 1990
東アジア近現代史 上原一慶、桐山昇ほか編 有斐閣 1990
東アジア近代史の研究 大塚歴史学会編 御茶の水書房 1967
東アジア国際関係の数量分析 北京・平壌・モスクワ 1961年~1966年 猪口孝 アジア政経学会 1970
東アジア古代史 三国志夷狄伝訳 ヒデミ・フミノ訳著 新人物往来社 1986
東アジア古伝承と日本原住民 田中勝也 新泉社 1990
東アジア史概説 前田正名 文化書房博文社 1977
東アジア史における国家と民衆 西嶋定生博士還暦記念論叢編集委員会 山川出版社 1984
東アジア史入門 布目潮渢、山田信夫編 法律文化社 1975
東アジア史の謎 李家正文 泰流社 1989
東アジア政治史研究 東大社会科学研究叢書27  衛藤瀋吉 東京大学出版会 1968

東アジア世界研究への模策 校倉歴史選書 藤間生大 校倉書房 1982
東アジア世界の形成 世界史講座 上原専禄、尾鍋輝彦、江口朴郎、山本達郎監修 東洋経済新報社 1955
東アジア世界の形成 藤間生大 春秋社 1966
東アジア世界の形成 2 近代東アジア世界の形成 藤間生大 春秋社 1977
東アジア世界の形成 3 壬午軍乱と近代東アジア世界の成立 藤間生大 春秋社 1987
東アジア世界の形成 Ⅰ 岩波講座世界歴史4  岩波書店 1970
東アジア世界の変貌 世界の歴史6 筑摩書房 1961
東アジア葬・墓制の研究 斎藤忠 第一書房 1987
東アジアと日本 歴史編 田村圓澄先生古稀記念会編 吉川弘文館 1987
東アジアと日本 宗教・文学編 田村圓澄先生古稀記念会編 吉川弘文館 1987
東アジアと日本 考古・美術編 田村圓澄先生古稀記念会編 吉川弘文館 1987
東アジアにおける儀礼と国家 東アジア世界における日本古代史講座9 井上光貞 学生社 1983
東アジアにおける朱子学の地域的展開 李基東 東洋書院 1987
東アジアの安全保障 新書 金垣茂 教育社 1978
東アジアの王権神話 大林太良 弘文堂 1984
東アジアの開国 東洋の歴史10 波多野善太、藤村道生、桜井敏照 人物往来社 1967
東アジアの科学 吉田忠 編  勁草書房 1982
東アジアの近代 ビジュアル版世界の歴史17  加藤祐三 講談社 1985
東アジアの初期鉄器文化 潮見浩 吉川弘文館 1982
東アジアの食文化 北京・香港・ソウル 中野謙三 研文出版 1989
東アジアの食文化探検 三省堂選書162  周達生 三省堂 1991
東アジアの世界 世界歴史4  羽田明、日比野丈夫編 人文書院 1965
東アジアの世界帝国 ビジュアル版世界の歴史8  尾形勇 講談社 1985
東アジアの先史文化と日本 佐藤達夫 六興出版 1983
東アジアの創世神話 君島久子編 弘文堂 1989
東アジアのなかの日本歴史5 日中儒学の比較 王家驊 六興出版 1988
東アジアの中の邪馬臺国 白崎昭一郎 芙蓉書房 1978
東アジアの農耕儀礼 新嘗の研究1 にひなめ研究会編 学生社 1979
東アジアの美術 文庫クセジュ ジャンヌ・オーボワイエ著 眞鍋俊照訳 白水社 1965
東アジアの仏教 岩波講座東洋思想12  高崎直道、平井俊英ほか 岩波書店 1988
東アジアの変貌 ビジュアル版世界の歴史11  小山正明 講談社 1985
東アジアの民俗宗教 桜井徳太郎著作集7  吉川弘文館 1987
東アジアの民族と祭儀 熊谷治 雄山閣 1984
東アジアの歴史と考古 岡崎敬先生退官記念論集 全3巻 同朋舎出版 1988
東アジア文明の形成 世界の歴史3  筑摩書房 1960
東アジア民族史 1 東洋文庫 井上秀雄他訳注 平凡社 1974
東アジア民族史 2 東洋文庫 井上秀雄他訳注 平凡社 1976
東シナ海の道 倭と倭種の世界 国分直一 法政大学出版局 1980
東チベット横断紀行 朝日教之 山と渓谷社 1988

書斎での学習が大事

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   海外留学がさかんです。でも基礎的な英語力もなく、授業を受けてもほとんど理解できずに帰国する若者も多い。甘い業者の宣伝に騙されただけである。イギリスのことわざに「愚者をフランスへやっても、愚者のまま帰ってくる」( Send a fool to France,and he'll come back a fool.)がある。

人間・石原莞爾片々録 宮本忠孝 麹町会館 1978
人間汪兆銘 人生新書5 松山悦三 人生社 1940
人間・尾崎秀実の回想 笹本駿一 岩波書店 1989

人間革命 中国知識人の思想改造 中国研究所編訳 中国資料社 1952
人間学論語 越川春樹 以文社 1972
人間孔子 唐沢斗岳著 学芸社 1935
人間・孔子 その思想と生活 李長之著 守屋洋訳 徳間書店 1979
人間・孔子 徳間文庫 李長之 徳間書店 1989
人間三国志 1 2 3 4 5 6 林田慎之助 集英社 1989
人間周恩来 蘇叔陽著 竹内実訳 サイマル出版会 1983
人間詩話 岩波新書 吉川幸次郎 岩波書店 1957
続 人間詩話 岩波書店 吉川幸次郎 岩波書店 1961
人間ゾルゲ 徳間文庫 石井花子 徳間書店 1986
人間の岬 あるヤンシュウ伝 上下 夏堀正元 新潮社 1986
人間の歴史 全6巻 安田徳太郎 光文社 1952-1957
人間の歴史 イリーン著 木村浩訳 偕成社 1964
人間味の文学 魚返善雄 明徳出版社 1957
人間毛沢東 最後の護衛長・李銀橋は語る 権延赤著 田口佐紀子訳 徳間書店 1990

もののあわれは秋こそまされ

    秋が悲しいというのは日本人だけらしい。ロンドンの秋は濃霧がもっともひどいが、もの悲しいという風情はない。秋は行事も多く、さまざまな社交が催され、友人を招きあって楽しい季節である。日本は「盆と正月が一度に来たよう」と並べて言うくらい、盆は日本人にとっては大きな行事であった。盆という大きな祭が済んでしまうと、あとは収穫祭を待つだけであり、鎮魂祭から春祭へと続く一連の厳粛なもの忌みの季節であった。

ツルダン、いま薄毛の男がモテる!!

   ハゲてる男性に朗報。いま欧米ではツルダンがモテるらしい。薄毛は若い男にない魅力があり、タフでセクシーに見えるという女性が多い。ブルース・ウィリスやジェイソン・ステイサムのおかげか。日本でも竹中直人、ドラゴンズの和田一浩、鶴瓶などが活躍している。ついにハゲの時代がキタッー!!。

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上から、ユル・ブリンナー、テリー・サバラス、ブルース・ウィリス、ショーン・コネリー、さだまさし、吉田拓郎、松山千春、孫正義、温水洋一、和田一浩、東国原英夫、ラミレス、竹中直人、モト冬樹、ジェイソン・ステイサム、笹野高史、歌丸、志村けん、谷村新司、田山淳成、鶴瓶

漱石と光太郎

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    大正元年の秋、銀座の読売新聞3階の催し物会場で若手芸術家たち「フューザン会」のグールプ展が開かれた。ある日、夏目漱石は寺田寅彦と共に来場、斎藤与里と高村光太郎の作品を購入したという。だが漱石と光太郎はその後、光太郎が新聞に漱石の芸術家としての態度を難じたことで不仲となった。漱石と親交のあった洋画家・浅井忠が明治40年、開設された第1回文展(文部省美術展覧会)の審査委員会委員になったことから、漱石も文展との関わりが深かった。漱石の「文展と芸術」は東京朝日新聞大正元年10月15日から28日に掲載されている。漱石は芸術への造詣が深く、己の審美眼に自信があったはずである。とくに英国留学経験から世紀末美術を愛好していたが、ようやく日本に紹介されたばかりのポスト印象派などの理解は十分とはいえない。つまり大正初期の新芸術を提唱した高村光太郎たちとは断絶があったと思われる。その間の事情は漱石が津田青楓に宛てた手紙で推測してみる。「高村君の批評の出ている読売新聞もありがとう。ちょっとあけてみたら芸術は自己の表現にはじまって自己の表現に終わるという小生の句を曖昧だといっています。それから陳腐だと断言しています。そのくせ読まないと明言しています。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました」とある。(大正元年11月13日)東京朝日新聞VS読売新聞、文展(官展)VS新興芸術、といった構図もみえる。「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである」という漱石のテーゼは余裕派といわれた漱石の作家としてのスタンスでもある。芸術の最初最終の大目的は他人には没交渉である。芸術家の孤独性、純粋性といっている。文展の会場に「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものである」という漱石の句が飾られていたらしい。やはり明治文人がすましているだけのことに青年には感じられるのだろう。高村光太郎の意気もまた賞賛すべきところであるか。

2011年10月14日 (金)

秋茄子は嫁に食わすな

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    むかしの言葉には意味のはっきりわからなくなった言葉がある。たとえば「小股の切れ上がった女」など辞書を引いても「股」という身体のパーツの説明が理解できない。「秋茄子は嫁に食わすな」も現代でもよく使われるが意味不明の1つである。姑の嫁に対する意地悪ではなくて、秋茄子は種子が小さくなっているで、子種がなくなる、という発想で、嫁の体調への気遣いから生れた言葉ともとれる。

書の歴史 中国と日本 榊莫山 創元社 1970
書譜 展大法帳9 孫過庭 春潮社 1951
書譜 十七帖 書跡名品叢刊158  清・包世臣  ニ玄社 1970
書譜 上中下 中根貞臣編 豊橋・日本書院 1972
書譜 中国古典新書 孫過庭著 西林昭一訳 明徳出版社 1972
書譜 原色法帖選1 台北故宮博物院 二玄社 1984
書法及書論集 岡本素泉編 興文社 1936
初歩の中国語 金丸邦三 昇龍堂出版 1979
諸名家孔子観 孔子祭礼典会編 博文館 1909
書物と印刷の文化史 日本少年文庫13 斎藤正二 国土社 1982
書物を焼くの記 岩波新書 鄭振鐸著 安藤彦太郎ほか訳 岩波書店 1954
書林と詩苑 其1 福本雅一 同朋舎出版 1990
白川義員作品集 中国大陸 上下 小学館 1984
書の文化史 上 西林昭一 ニ玄社 1991
書の歴史 中国編 須羽源一 書道出版社 1953
書の歴史 中国篇 伏見冲敬 二玄社 1960
書のための漢詩手帖 進藤虚籟 木耳社 1987

読書タイム

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    「読書は人間としての純粋な時間」と言ったのは評論家・亀井勝一郎。

支那思想の展開 1 高田眞治 弘道館 1946
支那思想のフランス西漸 後藤末雄 第一書房 1933
支那思想発達史 遠藤隆吉 冨山房 1904
支那社会の測量 円谷弘 有斐閣 1937
支那社会の組織と展望 湯良礼著 中山蒐美三訳 育生社 1940
支那社会の裏表 一色忠慈郎 大阪屋号書店 1931
支那と仏蘭西美術工芸 小林太市郎 弘文堂 1937
支那と蒙古 米内山庸夫 北光書房 1943
支那屯田兵制史 支那文化叢書 張君約著 藤田実訳 人文閣 1942
支那内閣関税制度3 台湾総督府 1932
支那歴史地理 北京の歴史地理 小野勝年 支那地理歴史大系刊行会編 白揚社 1942
支那歴史地理叢書 冨山房 1939
支那歴代沿革図説 河村与一郎編 前川文栄堂 1881
支那歴代沿革地図  新撰 山本頼輔 赤沢政吉 1895

支那歴代親耕親蠶考 農林省米穀局 日本米穀協会 1936
支那歴代地名要覧 青山定男 東方文化学院研究所 1933
支那労働視察記 支那に於ける人間性と労働 アンダーソン著 高山洋吉訳 生活社 1939
支那労働者研究 続支那研究叢書2 小山清次 東亜実進社 1919

どんな本にも運命がある

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  ことし「苦役列車」で芥川賞を受賞した西村賢太が敬愛し、惚れ込んだ藤澤清造(1889-1932)という小説家のことは何も知らない。最近では「根津権現裏」「藤澤清造貧困小説集」が既に出版されている。だが西村が自力で彼の全集を出版するという話にはオドロキである。同時代の金子みすず(1903-1930)のように何十年経って脚光を浴びる人がいるが運命のようなものを感じる。ゴッホ、安藤昌益も没後に評価された。

孟子古義 7巻 伊藤仁斎 江戸
孟子講話 市村讃次郎 章華社 1936
目睹書譚 内藤虎次郎 弘文堂 1948
目録学 倉石武四郎 汲古書院 1979
蒙和辞典 増補改訂 精松源一 大阪・甲文堂 1937
もうひとつの三光作戦 姫田光義・陳平著 丸田孝志訳 青木書店 1989
もうひとつの中国論 福岡徹 日新報道出版部 1972
もうひとつの天安門 三浦香代子ほか著 創和出版 1990
もうひとつの文明 モンゴルからの報告 金山宣夫 三修社 1982
もうひとつの満州 沢地久枝 文芸春秋 1982

もうひとつの満州  文庫 沢地久枝 文芸春秋 1986
もう一人の空海 寺林峻 春秋社 1990
孟法師碑 1. 2 拡大法書選集 二玄社 1978
孟法師碑 猪遂良 原色法帖選13 二玄社 1985
孟法師碑・雁塔聖教序 シリーズ書道基本名品集3 比田井南谷編 雄山閣出版 1985
モンゴル社会経済史の研究 岩村忍 京都大学人文科学研究所 1968

ケペル先生クイズ「そこはどこ?」

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問1 近畿地方の最北端はどこ?

問2 スリランカの首都は?

問3 アフリカ分割をめぐって英仏が衝突したファショダ。この地名は現在の地図帳には見当たらない。何という地名に変更したのか。

問4 南極と小島を除いて世界最南端の町はどこ?

問5 アメリカ最南端の島は?

問6 2004年に川之江市、伊予三島市、宇摩郡土井町、宇摩郡新宮村が合併した市。映画「書道ガールズ!!」の舞台となった市はどこ?

問7 マリリン・モンローの映画「バス停留所」の舞台となった市はどこ?

問8 日本最西端はどこ?本土最西端は?

問9 日本と最も国土面積が近い国は?

解答 1経ヶ岬 2スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ 3コドク(Kodok) 4チリ・ナバリノ島のプエルト・ウィリアムズ(Puerto Williams)。アルゼンチンのウスワイアより僅かに南に位置する 5キーウェスト(Key West) 6四国中央市 7フェニックス 8与那国島西崎(いりざき)、本土では長崎県佐世保市小佐々町の神埼鼻 9ジンバブエ

魚返城

   中国文学者に魚返善雄(おかえりよしお)というかたがおられた。「魚返」という苗字は珍しい。なんでも大分県に多いそうだ。玖珠川の北岸一帯は中世の清原魚返氏一族の所領で、魚返城があった。玖珠川に滝があり、魚がここから上ることを阻んだことから、魚返りの名が生れたという。いまは玖珠町戸畑魚返という地名が残る。

なつかしの鉄道記念日

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    明治5年10月14日、新橋・横浜間に鉄道が開通。台風のため3日延期されたが、この日、晴れの鉄道開業式が挙行された。明治天皇も試乗され、砲兵の祝砲・軍艦の賀砲がとどろき、2万人に赤飯が配られ、にぎやかな開業式であった。「鉄道記念日」は1922年に正式に決められた。1994年に「鉄道の日」と改称される。

    日本の鉄道の知識は1840年代から一部の蘭学者のあいだに広まっていたと考えられる。1855年には佐賀藩精錬所で模型機関車が制作された。1864年には海軍操練所の佐藤政養(1821-1877)が鉄道知識をえる。1865年にはイギリス人トーマス・グラバー(1838-1911)が長崎・大浦海岸で英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号、鉄道の試運転を行い300m走行した。1867年にはアメリカ公使館書記官アントン・ポートマンが江戸ー横浜間鉄道建設の免許を得たが、幕府の倒壊によって無効となった。1869年、明治政府はイギリス駐日公使ハリー・パークス(1828-1885)の進言をいれ、大隈重信・伊藤博文らが中心となって鉄道建設を決定し、1870年3月新橋ー横浜間の工事を開始した。イギリスからの資金提供と、エドモンド・モレル(1840-1871)以下のイギリス人技術者および資材が導入された。新橋ー横浜間開通に先立ち6月には、品川ー横浜間が仮開通していた。鉄道は陸蒸気(おかじょうき)とよばれ、客車は上等・中等・下等に分けられていた。この開通を先駆けに、鉄道は政府の重要施策となり、官営・民営による各地の鉄道建設が進められることになる。そして、1874年大阪ー神戸間、1877年京都ー大阪間、1884年上野ー高崎間、1887年仙台ー郡山間、1889年東海道が開通する。

    明治初年の鉄道開設には「鉄道の父」といわれた佐藤政養の功績が大きい。佐藤は明治4年に初代鉄道助(現在の運輸次官)に就任している。ちなみにNHK大河ドラマ「龍馬伝」では有薗芳記が演じていた。

征服王ウィリアム1世

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  ノルマンディー公のロベール2世は「悪魔公」の渾名を持つ。そのいわれは謎であるが、ある日のこと、彼は狩りの帰りに、小川で洗濯をしていた娘ヘルレブを見初め、彼女を城へ連れ込んだ。そしてその結果にできた子がギヨーム2世(1028-1087)、のちのウィリアム1世である。ギヨームは庶子であった。しかし悪魔公がエルサレムへ巡礼に出かけ、その帰路にトルコで客死してしまったので、家督は幼いギヨームに譲られることになった。わずか7歳でノルマンディー公を相続したギヨーム2世は人から侮られないよう、武芸に励んだ。1066年、エドワード懺悔王が死に、義弟ハロルドが即位すると、ギヨームはノルマンディー、フランドル、ブルターニュ各地より集めた数千の騎士を率いてイギリスに侵入した。

The Normans conquered England in 1066.

ノルマン人は1066年にイングランドを征服した。

    日本でも「入れろ無理矢理(むりやり)へイスティングズ」(1066年)と暗記させられる年号だ。

    騎馬攻撃を中心とするノルマンディー公と歩兵密集陣形を得意とするイングランド王ハロルド2世とのあいだに1066年10月14日戦闘が開始された。午後4時頃、ハロルドの目に矢が命中し、ハウスカールの必死の抵抗も甲斐なくハロルドは斬り殺され、イングランドの敗北が決まる。貴族や騎士達が着ていた高価な鎖帷子はことごとく剥ぎ取られ、へイスティングズの戦場には裸の死体が累々と残された。ギヨームはその年のクリスマスにロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠し、それよりウィリアム1世として王位に即いた。だから彼の渾名は「征服王」である。

2011年10月13日 (木)

日本で最初にミシンを使ったのは篤姫だった!?

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    連続テレビ小説「カーネーション」。陽子は裁縫が苦手だが、糸子は裁縫が大好き。おとなしい陽子にくらべ活発な糸子、尾野真千子がいい。ミシンは1810年、ドイツの靴職人クレムスが発明。その後、1850年、アメリカのシンガーが量産をはじめた。1854年にペリー提督が篤姫にミシンを献上している。大正時代から日本でもミシンが普及していった。

クイズ「あんた、誰れ?」

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  過去のブログ記事の中から超レアなクイズを思いつき出題。全問正解なら天才です。

問1  漁色家というイメージがあるが、馬関芸者お梅を正妻として迎えた政治家は誰れ?

問2 女湯などをのぞく好色な男を「出歯亀」というが、この言葉のもとになった変態男とは誰れ?

問3 オノマトペ俳句「へろへろとワンタンすするクリスマス」この作者は誰れ?

問4 最近、野球解説でよく耳にする言葉「生命線はカーブ」。もともと幣原外交を批判し、「満蒙はわが国の生命線」と言ったのがはじまり。生みの親は誰れ?

問5 世界一周のマゼランは実は途中フィリピンのセブ島で殺された。では無事にスペインのセビリヤに帰港した船長は誰れ?

問6 通算盗塁記録1065個を達成しながら、国民栄誉賞を「立小便がでけへん」と断わったカッコイイ選手は誰れ?

問7 ヒロポンや深酒で早世したミスターテイチクといわれた人気歌手は誰れ?

問8 ヨーロッパとアジアとを総称する言葉「ユーラシア」の生みの親は誰れ?

問9 コロンブスが新大陸の航海で使った地図を作ったのは誰れ?

問10 アヘンからモルヒネを抽出することに成功したのは誰れ?

問11  平井房人の漫画「思ひつき夫人」の映画主題歌を歌った人気歌手は誰れ?

問12  日本人単独による最初の翻訳聖書「西洋教草」の作者は誰れ?

問13  「司千恵子」「森川美里」の芸名で活動したが売れず、3度改名し「しのぶの渡り鳥」がヒット。なでしこ川澄奈穂美に似た美人演歌歌手は誰れ?

問14  森鴎外の孫「真樟(まくす)」は誰の名前にあやかったのか?

問15  死の自覚から自分の生の意味をもう一度考え直すことを「投企」という。この言葉の生みの親は誰れ?

問16  日本女子登山隊、田部井淳子と共に1975年、エベレスト登頂に成功した人は?

問17  日本人女性として初めてドーバー海峡を完泳した人は?

問18  かって大学に女子学生が増え、「女子学生亡国論」を著した学者は誰れ?

問19  2011年のノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人は誰れ?

問20  将棋ソフトと対戦して初めて負けたプロ女流棋士は誰れ?

問21  2013年大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるか演じる新島襄の妻は名前は?

問22  マッカーサー暗殺未遂で逮捕された少年は誰れ?

問23  学生出身の関取は多いが、笠置山以来といわれる早大出身の力士は?

問24  終戦直後、食料統制を守ってヤミ米を食わずに栄養失調で死んだ判事は誰れ?

問25  昭和電工疑獄で日野原節三の愛妾で陰で暗躍した元芸妓は?

問26  早稲田大学野球部監督で「学生野球の父」と呼ばれたのは?

問27  モーセが出エジプトのときのファラオは誰れ?

解答 1伊藤博文 2池田亀太郎 3秋元不死男 4松岡洋祐 5エルカノ 6福本豊 7楠木繁夫  8ロイヒ 9ヘンリクス・マルテルス・ゲルマヌス 10ゼルチュルナー 11市丸 12永田方正 13音羽しのぶ 14マックス・フォン・ペッテンコーファー 15ハイデッガー 16渡辺百合子 17大貫映子 18暉峻康隆 19トーマス・トランストロンメル 20清水市代  21新島八重(旧姓・山本八重子)  22荒井照成 23皇風俊司 24山口良忠 25秀駒 26飛田穂洲27ラムセス2世(一説にメルエンプタハ)

美男(イケメン)ですね

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    延長10回裏。阪神榎田の高めの速球をバット一閃、巨人高橋由伸の打球はライトスタンド中段へ。劇的なサヨナラ3ランホームラン。美男高橋が最高ヒーローになると、その笑顔は格別だね。そういうわけで球界随一の美男を探そう。二軍にイケメンは多いだろうが、ここではスタープレーヤーたちでまとめる。

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     浅尾拓也(中日)           国吉佑樹(横浜)
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    能見篤史(阪神)         川崎宗則(ソフトバンク)

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アレクサンダー大王とブケファラス

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 アレクサンダー大王の少年時代のお話。ブケファラス(ブケパロス)という名馬がいたが、ひどい暴れ馬で、だれも乗りこなせなかった。様子をじっと見ていた王子は、「自分ならうまく乗れるのに」と言いだした。彼は、馬が自分の影におびえていることに気づいていたので、馬の首を太陽のほうに向け、馬をあやしながらひらりととび乗った。そんな王子を見て父王フィリッポス2世は「マケドニアはおまえには小さすぎる。おまえにふさわしい大きな国を捜すがよい」と言ったという。ちなみに今上天皇が幼少のころ乗っていた愛馬は右流間(うるま)号。

安藤昌益の墓

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   秋田県大館市の南の郊外二井田地区に、曹洞宗温泉寺がある。この寺域に江戸時代中期の医者・思想家安藤昌益(1701-1762)の墓がある。昌益の事績は戦前までほとんどわからなかった。戦後の研究によって生年、没年、出生地、死没地なども特定できるようになった。没年は宝暦12年10月14日である。墓石には「堅勝道因士」「昌安久益信士」と戒名が刻まれている。ところが昭和60年、大館市の安達家から昌益の位牌が発見された。位牌には「帰元賢正道因禅定門」と記されている。おそらくこの戒名は三回忌の法事のとき追授されたものらしい。明和元年10月13日、跡継ぎの安藤孫左衛門は門弟たちと法事を行った。このとき魚料理でお祝いしたことが聖道院の怒りにふれた。昌益に感化された門弟たちは信仰心をもたなくなり、昌益を神として「守農太神」の石碑を各地に建てていた。代官所は、神仏を畏れぬ行為として、石碑を打ち壊し、孫左衛門に「郷(ところ)払い」を命じた。江戸時代、昌益の思想は危険思想だったのだろう。明治の狩野亨吉が昌益の「自然真営道」の稿本を発見するまで忘れられた思想家だった。

2011年10月12日 (水)

有名人の趣味と特技

    雑誌などをみると有名人の趣味や特技が記事になっている。趣味とは自分の時間を楽しむためのものだが、やはり有名人ともなれば趣味の世界でも一流をめざすらしく、特技として強調される面がある。

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三遊亭小遊三の卓球、高木ブーのクレー射撃、福山雅治の写真、八代亜紀の絵画、川島なお美のワイン、苅谷俊介の考古学、小沢一郎の囲碁、森永卓郎のミニ・カーなどフィギュア収集、田中健のペルーの楽器ケーナ、タケカワユキヒデの漫画収集

日韓芸能交流この10年

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    2003年にNHK「冬のソナタ」が火付け役となって、日本ではかってないほどの韓国ブームがおきた。いわゆる韓流ブームはこの10年衰えるどころかますます広がりをみせている。K-POP旋風、東方神起、BIGBANG、そしてRAIN(ピ)。少女時代、カラ、2NE1、ティアラ、アフタースクール、ブラウンアイドルガールズなど女性グループの日本進出が続く、一方で、高岡蒼甫が日本の文化保護を唱えてフジテレビや韓流ブームを批判したことでデモ騒動も起きた。紆余曲折はあるものの、日本と韓国との共同制作あるいは俳優の共演は着実に増えている。深田恭子とウォンビン、竹之内豊とチェ・ジウ、南野陽子とヤン・ジヌ、松嶋菜々子とソン・スンホン、そして宮崎あおいとイ・ジュンギ。

グローブ座と大坂城炎上

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    NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」では豊臣秀頼が上洛して家康と対面したところである。家康は秀頼の成長ぶりに不安を抱く。豊臣と徳川との対立がしだいに深まっていく。このころ晩年を迎えたシェークスピアは、郷里ストラトフォード・オン・エイヴォンとの往復も繁くなってきたが、おそらく「あらし」を書き上げてから、ロンドンを引き払って、郷里に帰ったであろう。1613年にはグローブ座で「ヘンリー8世」初演中、ほんものの大砲を使ったところが、火を発し、劇場全体が焼け落ちてしまった。かずかずの名場面を生んだ舞台が消えてしまったばかりか、シェークスピアの原稿を含めて、かけがえのないエリザベス朝演劇の資料が灰になってしまったものと思われる。そのころ1614年11月ついに大坂冬の陣がはじまり、翌年5月に大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。シェークスピアは1616年の4月23日、52回目の誕生日に、この世を去った。

俳優ジョン・スミスを覚えていますか?

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   アメリカで最も多い苗字は、職業「鍛治屋」を意味する「スミス(Smyth)」だそうだ。つまり山田太郎はジョン・スミス、山田花子はジェーン・スミス。ところで俳優ジョン・スミスを知っていますか?わたしは初めて覚えた俳優の名前がジョン・スミスだった。テレビ「ララミー牧場」のしっかり者のスリムを演じている俳優ジョン・スミス(1931-1995)。懐かしい。

信じよう、本の力

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  読書週間の標語「信じよう、本の力」。電子書籍もいいけれど、本が大事と思いたい。

中国服の作り方全書 楊成貴 文化出版局 1978
中国富豪列伝 中国4千年史の中の富豪たち 黄文雄 経営評論社 1979
中国武術写真大鑑 中国・人民体育出版社編 ベースボール・マガジン社 1988
中国婦女 J・クリステヴァ著 丸山静訳 せりか書房 1980
中国仏教史 改訂新版 道端良秀 法蔵館 1965
中国仏教史 岩波全書 鎌田茂雄 岩波書店 1978
中国仏教史1 初伝期の仏教 鎌田茂雄 東京大学出版会 1982
中国仏教史2 受容期の仏教 鎌田茂雄 東京大学出版会 1983
中国仏教の旅1 北京・太源・西安・洛陽 美乃美 1980
中国仏教の旅2 美乃美 1980
中国仏教の旅3 美乃美(雄渾社) 1980
中国仏教の旅4 美乃美 1980
中国仏教の旅5 麦積山石窟・敦煌石窟ほか 美乃美 1981
中国文化大革命 その資料と分析 中島嶺雄編 弘文社 1966
中国文化大革命 その事実と論理 菅沼正久 三一書房 1967
中国文化大革命 ウィリアム・ヒントン著 藤村俊郎訳 平凡社 1974
中国文化大革命の再検討 上 東西文化研究所紀要編集委員会編 霞山会 1978
中国文化大革命をどうみるか 新日本出版社編 新日本出版社 1968
中国文化全書 高文堂出版社 1986
中国歴史地理研究論文目録 吉田寅・棚田直彦編 東京教育大学文学部東洋史学研究室アジア史研究会 1960
中国労働運動の歴史 中村三登志 亜紀書房 1978
中国労働事情 パウル・アルトン等著 藤沢久蔵訳 生活社 1941
中国論 レーニン、スターリン共著 平沢三郎等訳 京都・五月書房 1951
中国論理学史研究 経学の基礎的探求 加地信行 研文出版 1983
中国・和蘭羊毛技術導入関係資料 角山幸洋編著 関西大学出版部 1989
中国・忘れえぬ日々 林滋子 亜紀書房 1986
中国を歩き日本を考える 佐藤藤三郎 筑摩書房 1974
中国を動かす200人 最新中国人名辞典 霞ヶ関研究会 国際図書 1967
中国を変えた西洋人顧問 ジョナサン・スペンス著 三石善吉訳 講談社 1975
中国を考える ガルブレイス訪中記 J.K.ガルブレイス著 加瀬英明訳 番町書房 1973
中国を考える 対談 司馬遼太郎・陳舜臣 文芸春秋 1978
中国を考える 文春文庫 司馬遼太郎・陳舜臣 文芸春秋 1983
中国を知る 朝日新聞外報部 朝日新聞社 1978
中国を知る 岩波ジュニア新書181  田畑光永 岩波書店 1990
中国を知る事典 石川昌 日本実業出版社 1981
中国を知るために 第1集 竹内好 勁草書房 1967
中国を知るために 第2集 竹内好 
勁草書房 1970
中国を知るために 第3集 竹内好 
勁草書房 1973
中国を知るために 上 竹内好全集10  筑摩書房 1981
中国を知るために 下 竹内好全集11  筑摩書房 1981
中国を知る探訪アルバム 名古屋テレビ報道部 青年書館 1973
中国をめぐる近代日本の外交 白井勝美 筑摩書房 1983
中国をめぐる国際環境 岩波講座現代中国6 岡部達味 岩波書店 1989
中国をめぐる国際政治 影像と現実 坂野正高・衛藤潘吉編 東京大学出版会 1968
中国を狙う経済戦略 国頭義正 日本文芸社 1979
中国を見抜く法 城野宏 情報センター出版局 1979
中国を訪問して 井手雄太郎 中央出版社 1988
中国を読む プラネット・ブックス 中嶋峯雄他述 プラネット社 1990
中国を読むキーワード 竹内実編著 蒼蒼社 1990
中古漢語音韻論 城田俊 風間書房 1981
中古漢字音字典 石井一二三 名著普及会 1986
中山王国文物展 図録 東京国立博物館編 日本経済新聞社 1981
中支湖南戦線とブーゲンビルの展開 半沢幸親 共栄書房 1983
中支産業要覧 東亜問題研究会編 三省堂 1939
中支風土記 絵と文 高井貞二 大東出版社 1939
中国文学概論 中国文化全書4 近藤光男他著 高文堂出版社 1986
中国文学館 詩経から巴金 黎波 大修館書店 1984
中国文学研究文献要覧 1945-1977 20世紀文献要覧体系9 戦後編 日外アソシエーツ 1979
中国文学講話 岩波新書 倉石武四郎 岩波書店 1968
中国文学語学文献案内 初稿 中国文学会(早稲田大学内) 1979
中国文学語学論集 古田教授退官記念 古田敬一教授中退官記念事業会 1985
中国文学この百年 新潮選書 藤井省三 新潮社 1991
中国文学歳時記 春 上 黒川洋一・入谷仙介他編 同朋舎出版 1988
中国文学歳時記 春 下 同朋舎出版 1988
中国文学歳時記 夏   同朋舎出版 1989
中国文学歳時記 秋 上 同朋舎出版 1989
中国文学歳時記 秋 下 同朋舎出版 1989
中国文学歳時記 冬   同朋舎出版 1989
中国文学歳時記 別巻 同朋舎出版 1989
中国文学最新事情 竹内実編著 サイマル出版会 1987
中国文学雑考 小野忍 大安 1967
中国文学雑談 吉川幸次郎対談集 朝日選書 朝日新聞社 1977
中国文学史 倉石武四郎 中央公論社 1956
中国文学史 宋雲彬著 小田嶽夫・吉田巌邨訳 東京創元社 1953
中国文学史 内田泉之助 明治書院 1956
中国文学史 文庫クセジュ17  オディル・カルタンマルク・ゲギエ著 魚返善雄・高田淳共訳 白水社 1957
中国文学史 吉川幸次郎述 黒川洋一編 岩波書店 1974
中国文学入門 アテネ文庫 吉川幸次郎 弘文堂 1951
中国文学史 前野直彬 東京大学出版会 1975
中国文学史 上 中国文化全書5 荘司格一・小川陽一ほか 高文堂出版社 1985
中国文学史 下 中国文化全書6 佐藤一郎 高文堂出版社 1983
中国文学史 上 大矢根文次郎 前野書店 1955
中国文学史 佐藤一郎 慶応通信 1971

 

コロンブスの卵

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  世界史上における最も重要な業績の一つとして、すぐ思いつくのは「1492年、コロンブスのアメリカ大陸発見」であろう。アメリカの多くの州では10月第2月曜を「コロンブス・デー」の祝日としている。

  クリストファー・コロンブス(1451-1506)は「地球は丸い」とする学説に基づき、大西洋を西に進めばアジアに到達できると考えていた。第1回航海(1492-93)は船3隻、乗員120人で、1492年8月、パロス港を出発し、カナリー諸島を経由して西航した。配下の者が航海について不安になって反抗を起こそうとするのを抑えて航海をつづけ、10月12日バハマ諸島の一つに到着した。これをサン・サルバドルと名づけた。現在のサン・サルバドル(別名ワットリング島)がこれに当たるものと推定される。次にサマナ・ケイ島付近にも立ち寄ったとされる。これがアメリカ発見の端である。帰還するとコロンブスは英雄として迎えられた。しかしこの偉業をただ西へ向かって航海したら偶然に出くわしただけではないか、と評する人々もいた。コロンブスは目の前の卵を立てることができるかと質問した。誰もできないのを見た彼が教えた方法は、卵の尻をたたいて平らにすることだった。創業というものが、最初に考え、最初に実行するところに意義があるのだということを示したという有名なこのエピソードは残念ながら史実ではないようだ。この話はイタリアの建築家ブルネレスキ(1377-1446)のことという。そうなると、ブルネレスキの卵という方が正確かもしれない。

2011年10月11日 (火)

弓削島「塩の荘園」

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    瀬戸内海のほぼ中央部、因島の南に位置する弓削島。面積8.8k㎡の小島である。「東寺百合文書」によると、平安時代末期に弓削島は荘園化された。はじめ後白河法皇の荘園であったが、のちに皇女の宣陽門院に譲られ、さらに宣陽門院は、鎌倉時代になって東寺(教王護国寺)に寄進した。こうして東寺領の荘園としての弓削島荘の歴史が始まり、それは室町時代の中期まで続く。そして島では中世を通じて大量の塩が生産され続けた。塩を積んだ船を操縦して港を出て行ったのは、梶取と呼ばれる人々である。鎌倉期に塩年貢の積出港として出発した弓削の港は、やがて室町時代には、ここを拠点にして多くの船舶が畿内との間を行き来していた。島にある弓削神社は、荘園時代には浜戸宮と呼ばれていた社の後身で、今も海に面した社殿や鳥居が残っている。

楽しい歌謡コンサート

    司会が小田切千になってもう5年。その第1回のとき、「いしはらじゅんこさん、そして、しまずあやさん~、そして・・・」と詰まった。小田切アナは黙って後ろを向いて田川寿美の方をじっと見る。小田切アナ、思い出した!という感じで「たがわとしみさん!」と紹介した。その後もよくトチるし、曲の題名を間違える。本日の放送では、完全に音羽しのぶの名前をど忘れするハプニング。毎度のことで会場から笑いが・・・小田切はキャラクターで救われている。それにしても音羽しのぶちゃん、サッカーの川澄奈穂美に似ているぞ!!

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皇太子、皇太子妃の座配

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   皇太子御成婚の写真などを見ると、殿下を右側(向かって左)、妃を左側とする。ウィリアム英王子とキャサリン妃ご成婚の写真も同様である。しかし我が国では、古来左側(向かって右)を上席としてきたが、明治以降の西欧化につれて、天皇家や皇族方も儀式において西欧風に女性が左側に位置するように変わってきたのである。現在でも京風の時代雛では男びなが左側(向かって右)となって古式をとどめている。ちなみに太宰治と石原美知子の簡素な結婚式(昭和14年)の写真を見ると、新郎が左側である。礼法は時世人情によって変化するけれど、吉田兼好は「何事も古き世のみぞ慕はしき」と言っている。

左党天国

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    「ラガー」とはドイツ語で「貯蔵」を意味する製造法からきた言葉。つまりラガーは商品名キリンラガーだけのものではなく、アサヒもサッポロもラガーである。もともとはドイツ・バイエルン地方のローカルなビールだった。秋の終わりにビールを洞窟の中で氷と共に貯蔵し、翌年の春に取り出す。この貯蔵されたビールをラガービールと呼んだ。それが冷却機などの設備が発明された19世紀以降に普及し、それまでの主流だったエールをしのいで、ビールの主流となった。イギリス人だけは保守的でエールの味が忘れられず、ビタービールを作り出し、かたくなに飲み続けている。

   ところで最近の研究によると、酒に強い体質、弱い体質は遺伝子で決まるとされる。アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)をつくる遺伝子には、NN型、ND型、DD型の3つがある。都道府県別に調べると、下戸とみられるDD型が中部、近畿に多く、北海道、東北、九州、沖縄に酒豪が多い。(参考:川成洋・石原孝哉「ロンドン歴史物語」)

芸名あれこれ

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    芸名は芸能人の命である。五木ひろしは成功するまでに、5回改名している。川中美幸は春日はるみ、夏川りみは星美里という旧名がある。俳優も改名する人は多い。林長二郎が長谷川一夫、城健三郎が若山富三郎、柴田吾郎が田宮二郎、峰岸龍之介が峰岸徹、安田道代が大楠道代、丸山明宏が美輪明宏、悠木千帆が樹木希林、高樹沙耶が益戸育江。漢字を平仮名に、あるいはその反対の場合もある。柏原よしえ→芳恵、大谷みつほ→允保。伊藤麻衣子→いとうまいこ、にしきのあきら→錦野旦。バルサンのCMでお馴染みのコメディアン谷幹一。本名は高本昌明。戦前の日活の二枚目半の谷幹一に似ているといわれ、芸名をつける。

コプト Copts

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   エジプト・カイロでコプト教徒と軍隊が衝突し、少なくとも25人が死亡し300人以上が負傷した。エジプト各地ではコプト教徒に対する攻撃が相次いでいる。コプトとは何か。ローマ帝国時代からイスラム教時代の芸術、建築など中世初期の文化にまでしばしば適用されるため、非常にわかりずらい。また今日まで存続し、エジプトには多くのコプト教徒が住んでいる。コプト教徒がイスラム社会の下で圧迫され、信教の自由を完全に認められているとはいえない状況にある。高校世界史にはコプトという用語は登場せず、一般書もコプト織など美術書に限られた紹介である。

  コプトの名称は、アラビア語の「qibt」「qubt」がヨーロッパ化されたもので、これらアラビア語はギリシア語の「Aigyptioi(エジプト人)」から出たものと解せられる。コプト教は古代エジプト末期のアレクサンドリアで生まれ、ローマ末期ないし初期キリスト教時代のコスモポリタン的性格が強く、キリスト教単性説を信じるものである。(参考:村山盛忠「コプト社会に暮らす」岩波新書 1974)

斜陽の象徴ビッグベン

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  ウェストミンスター寺院の北東に建つビッグベン(時計塔)。1859年に建てられ150年以上が経つが、8年前から北西への傾きが大きくなってきたことが確認された。近年の地下鉄工事などが影響を及ぼしたものと考えられる。名称のベンとは、工事責任者のベンジャミン・ホール(1802-1867)の名にちなんで命名された。来年はロンドン五輪の開催地だが、ピサの斜塔のように傾きで観光客を呼ぶことになるのだろうか。

2011年10月10日 (月)

個性的な顔は役者の財産

    鼻が大きいジェラール・ドバルデュー。頑固そうな顔のピート・ポスルスウェート。トミー・リー・ジョーンズは缶コーヒーのCMで怖くなくなった。やっぱりポリス・カーロフは怖い。

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ひじきと丁稚

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    野坂昭如の小説「アメリカひじき」を読むと「ひじきと油揚げは大阪商人の丁稚の好物」と書いてある。そういえば私はひじきの五目煮を毎日のように食べている。スーパーの弁当にも必ず端にひじきがある。ひじきを食べると長生きする、と昔からいわれる。ところがひじきには発ガン性のある無機ヒ素の含有率が高いという説もあるが、ともかく、ひじきはご飯のおかずとしてポピュラーである。鹿尾藻、鹿角菜、羊栖菜、六味菜とも書く。野坂の小説「アメリカひじき」はちょっと人を食ったところがあって、ひじきは実はアメリカ製の紅茶の葉。水につけて戻し、干してから食べたところ、美味しくなかったという、体験談を題に付けている。

広辞苑「後藤文夫」問題

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   山本達雄          後藤文夫

   広辞苑の政治家の採録の基準は謎が多い。内務大臣1927年から1934年について調べる。

○鈴木喜三郎
×望月圭介
○安達謙蔵
○中橋徳五郎
×山本達雄
×後藤文夫

山本達雄は東洋史学者・山本達郎の祖父。後藤文夫は戦後、日本の原子力発電導入の推進者。

広辞苑「渡辺啓助」問題

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    推理作家、渡辺啓助(1901-2002)は「広辞苑」に採録されていないことも惜しい。昭和4年、雑誌「新青年」の企画「映画俳優による探偵小説競作」に、岡田時彦のコーストライターとして書いたのが処女作「偽眼のマドンナ」である。「オルドスの鷹」は直木賞候補となった。戦後は軽妙で風俗小説めいたものが多かった。

広辞苑「富田砕花」問題

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    広辞苑の人名採録で文学者についてはかなり充実している部分である。ところが地方で文学活動をしながら、中央文壇で知られていない文学者には光があたらないことがある。次の文学者で広辞苑に採録されていないのは、民衆派の代表的詩人、富田砕花だけである。

○石橋忍月
○千葉亀雄
○水上滝太郎
○中村武羅夫
○久保栄
○久板栄二郎
×富田砕花
○高橋新吉

広辞苑「クラーク・ゲーブル」問題

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   外国俳優。星の数ほどあるスターのなかでもひときわ輝くビッグ・スター。広辞苑にも世界的な大スターは採録している。辞書に外国人名を採録する意味は大きい。日常の校正作業でかつてこんな体験をした。「ハンフリー・ボガードかボガートか?」広辞苑を引けば「ボガート」と確認できる。もちろんインターネットのない時代の話であるが。主な外国スターを調査し、採録ありには「○」を、採録なしは「×」をつける。

○ルドルフ・ヴァレンチノ
○ジェームズ・ディーン
○ハンフリー・ボガート
○ジェラール・フィリップ
×クラーク・ゲーブル
○ゲーリー・クーパー
○ジャン・ギャバン
○チャップリン
○ジョン・ウェイン
×スティーブ・マックイーン
×ヘンリー・フォンダ
×ユール・ブリンナー
×ジェームズ・ギャグニー
○ローレンス・オリヴィエ
×バート・ランカスター
○ジャン・ルイ・バロー
×マルチェロ・マストロヤンニ
○ジェームズ・スチュアート
×ジャック・レモン
○グレゴリー・ペック
○マーロン・ブランド

    近年、外国人俳優の採録のハードルは高くなりつつある。第7版新版には、ポール・ニューマン、チャールトン・へストン、ピーター・フォーク等は新収録されるだろうか。

広辞苑「成経」問題 鹿ケ谷の人々

    鹿ケ谷の山荘で、藤原成親・成経父子や平康頼、俊寛僧都らは平氏討伐を謀ったが、発覚し、成経、康頼、俊寛の3人は薩摩国鬼界ヶ島へ流された。1178年、成経と康頼は赦免されて京へ戻るが、俊寛は許されず、鬼界ヶ島に一人残されて、非業の死を遂げる。康頼は帰京後、東山の雙林寺で、「宝物集」を編集執筆した。成経は、京で官に復し、昇進をかさねる。なお父の成親は備前に配流されて1177年に殺されている。

   ところで、広辞苑に採録されているのは、鬼界ヶ島で死んだ俊寛、「宝物集」を書いた平康頼、備前で死んだ藤原成親である。鹿ケ谷のあと平凡で幸せな人生を過ごした藤原成経だけが広辞苑に採録されていない。後世の辞書に名を残すことが幸せなのか、不幸なのかは、誰にもわからない。

鶴御崎

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   九州と四国の狭間にある豊後水道。大分県の鶴見半島の最先端にある鶴御崎(佐伯市)は、九州の最東端である。白亜の灯台を中心とする一角はミュージアム鶴御崎として観光スポットになっている。

広辞苑「苅田久徳」問題

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    岩波書店の「広辞苑」は、国語辞典と百科事典を兼ね備えた辞書として1955年刊行以版を重ね、最新版は第6版(2008年刊行)である。広辞苑のユニークな特徴の1つに人物項目が豊富なことがあげられる。採録基準は明らかにはしていないが次のような特徴が考えられる。①物故者である②広く誰もが認知している③業績がある。たとえば俳優の植木等が採録されたが、「無責任男」「お呼びでない?」などのギャグで一時代を風靡したタレントであることはいうまでもない。だが青島幸男は採録されていない。直木賞作家であり、国会議員でるあるのに疑問は残るであろう。広辞苑では政治家の場合は議員、大臣クラスでは採録されない。宇野宗佑が採録されているように総理大臣クラスが1つの目安になっているように思える。

    歴史上の人物の認知度、業績を評価することは困難な問題が想像される。「植木等」「ハナ肇」は採録したが、将来、第7版で「谷啓」を採録するかどうか、悩ましい問題である。タレントの認知度、業績はとても判定しずらいものがあるが、データのはっきりしている野球選手の場合はどうであろうか。これまで広辞苑に採録された野球選手は、水原茂、三原脩、スタルヒン、沢村栄治、藤村富美男、鶴岡一人、大下弘などである。採録されていない有名選手としては、藤本定義、苅田久徳、小鶴誠などである。名二塁手といわれた苅田や51本塁打、161打点を放った小鶴が業績において大下弘に劣るとは思えない。両者の差は認知度である。いわゆる知名度というファジーな部分で採録の当否が下されるのは権威ある辞書としては一考の余地があろう。

龍馬脱藩の道

    坂本龍馬が土佐藩を脱藩したときに通った道を走る「龍馬脱藩マラソン大会」が梼原町で10月9日、開かれた。コースは梼原町役場前を出発、四万十川支流沿いや、幅1メートルほどで急な勾配の林道などを通って韮ヶ峠で折り返す。龍馬が通ったといわれる「宮野々番所」跡を通る。完走したランナーには脱藩認定書が贈られた。龍馬は文久2年(1862年)3月25日から27日にかけて、梼原から韮ヶ崎を越えて長浜まで2日で踏破している。

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  明治の文士などで本名のままという人はめったにない。最もユニークなのが二葉亭四迷。本名・長谷川辰之助は子供のころから本の虫だったため、父親から「お前のようなやつはクタバッテシメエ」とよく怒鳴られたので、それをもじって「フタバテイ・シメイ」としたのは傑作ペンネーム大賞ものであろう。推理作家・佐賀潜のペンネームは、「(真犯人は)探せん」というシャレからきている。複数のペンネームを持つことで異なるジャンルを書く作家もいる。長谷川梅太郎は林不忘、牧逸馬、谷譲次の3つのペンネームを使い分けたし、今岡純代は、栗本薫と中島梓の2つのペンネームをもつ。

    最近の作家では、馳星周は香港の俳優・周星馳をひっくり返してつけた。芥川賞作家・赤染晶子は、赤ちゃんのころ、赤染衛門の札をかじったことにちなんでつけた。藤子不二雄は藤本弘、安孫子素雄の共同ペンネーム。桐生操は堤幸子、上田加代子の共同ペンネーム。辛酸なめ子は傑作ペンネーム。

   そこでペンネーム・クイズ。次の本名の文士・作家は誰か?

①福田定一

②松下幸徳

③厚川昌男

④平井太郎

⑤田中富雄

⑥平山藤五

⑦岩瀬伝蔵

⑧杉森信盛

⑨野尻清彦

⑩植村宗一

          *

答え

①司馬遼太郎、②佐賀潜、③泡坂妻夫、④江戸川乱歩、⑤源氏鶏太、⑥井原西鶴、⑦山東京伝、⑧近松門左衛門、⑨大佛次郎、⑩直木三十五

2011年10月 9日 (日)

風連湖と春国岱

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    北海道根室市と野付郡別海町にまたがる風連湖。春と秋には、1万羽を超すオオハクチョウ、ヒシクイ、コクガンなどが渡来する。風連湖の東の端に、湖をオホーツク海から隔てる長さ約8㎞の砂州、春国岱がある。アカエゾマツ林は世界でも珍しいとされる。

幕末・明治の京都四条大橋

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  京都市内を南北に流れる鴨川はいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策するときは四条大橋を渡る。幕末からすでに特別な橋であったようで、新撰組隊士たちも何度となく渡った。文久3年3月、近藤勇、沖田総司らは四条大橋で殿内義雄を斬殺している。木造だった橋は明治7年に工費16,830円をかけて鉄橋として完成した。

平成之大馬鹿門顛末記

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   平成8年3月、京都の仏教大学が新図書館などの建設にあわせて正門周辺の改修工事をした際、彫刻家・空充秋が制作した門柱が贈られた。大学側は当初、気づかなかったが、4月3日の入学式で、教員が門柱の側面に30cm四方の大きさで「平成之大馬鹿門」と彫り込まれていることを発見した。大学と空とで題名を削るかどうか話し合いが続けられたが、決裂した。大学は「馬鹿という言葉は大学には不適切。削ってほしい」と要求。空は「作品を削るといのは、自殺しろというのと同じ」と対立。大学側が引き取りを拒否したため、同年6月、門柱を香川県木田郡庵治町の自宅に持ち帰った。その後、各地から門柱の要望があり、空は兵庫県宍粟市へ寄贈した。現在、千種高原へ向かう道路を挟んで相対し聳える、おごしき山(1095m)と空山(901m)の、それぞれの山頂に1基づつ設置されている。

経ヶ岬灯台

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   丹後半島の最先端に位置する経ヶ岬灯台は、犬吠崎灯台、室戸岬灯台と並ぶ日本三大灯台の1つに数えられている。全国に6つしかない最高級第一等レンズを使用している。明治31年12月に初点灯し、その後昭和34年まで人の手によって点灯・消灯されていたが、現在では無人で運用されている。

童形太子像

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  本像は童子太子像として最も著名な像で、像内墨書銘によって造立年代、作者、造立の経緯等を知ることができる。その銘によれば、観音真言に続いて、太子生誕505年に当る治暦5年(1069)法隆寺大衆が結縁した仏師円快、絵師致貞の子により「聖徳太子御童形御影」を造顕したことが墨書されている。これにより本像は、太子彫像の最古の遺例であることが知られ、また観音信仰を伴っていること、その造立が大衆と称する法隆寺下級僧達の結縁によってなされたことが知られるのである。また仏師円快については明らかではないが信貴山の僧とされており、彩色を担当した秦致貞は旧絵殿障子絵の「聖徳太子絵伝」の著者でもある。

近江観音寺城と石部城

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   観音寺城は近江守護六角氏の居館である。全国屈指の規模の中世山城で、石垣など遺構が残る。六角義賢(号は承禎)は織田信長と敵対したため、1574年に佐久間信盛に攻められ、義賢・義覧父子は観音寺城を放棄し、石部城に逃れた。石部城は臣下の石部家清の居館である。義賢は石部城落城後、流寓の晩年を送り、1598年に78歳で没した。石部家清は、義賢におくれること1年半、1599年に没した。石部城址にある石部氏の菩提寺、善隆寺には石部家清自筆の一族縁者の法名軸が所蔵されている。それには、「承禎様 一念のこころは西へうつせみの、もぬけてはてたる身こそやすけれ」と、主君義賢の死を悼んでの詠草が書かれている。

2011年10月 8日 (土)

佐津川愛美

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  昭和30年代、日本映画界全盛期、年間の映画制作本数は500本を超えていた。平成10年以降、その全盛時に匹敵する本数を配給するようになっている。400本以上の映画が製作されるが、実際に映画館で見られるよりも、レンタルビデオやBS、CSで見ることが多い。俳優の名前も知らない場合が多い。朝のテレビ小説「カーネーション」のヒロイン尾野真千子も映画では数々の受賞歴があるが、知名度は低い。昨夜テレビで上野樹里主演「奈緒子」を見たが、マネージャー吉澤結希を演ずる小柄な女性が気になった。調べると「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の眼鏡美少女・和合清深である。やはり上野樹里の陰に隠れてアップのカットはない。これまで27本の映画に出演しても記憶にない。映画は脇役に注意すべし。

ブログのネタを考えるのは入浴中が一番

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   三上(さんじょう)という言葉がある。欧陽脩は「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。すなはち馬上・枕上・厠上なり」(帰田録)

文章を考えるのに最も都合がよいのは、馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき。なかなかうまい事を言ったものだと思う。移動中、就寝前、トイレの中、いずれも肉体的には不自由な拘束された状況にありながら、むしろ邪魔が入らず自由な時間が保てる。現代人が通勤電車内で新聞や文庫本を読んだりするのも同じだろう。欧米にも「3B」といって、bath、bed、bus お風呂、ベット、バスの中、という。お風呂の中が一番リラックスできて、よいアイデアがでそうな気がする。

寺田寅彦は忘れたころにやってくる

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    いま百貨店が売れないという。若者が百貨店で買わない。昭和の初め、銀座は憧れだった。三越、丸善といえば西洋の新文化にふれることができた。寺田寅彦は近代の知識人の生活スタイルを確立した人といってもよい。映画や音楽会、美術館へもしばしば行っている。西洋文化の憧憬と自己の趣味が完全に一致している。率直で無邪気な随筆は今、読んでも楽しい。だが「銀座アルプス」ではこんな恐ろしい予言をしていた。「自然の歴史が繰り返すとするならば20世紀の終わりか21世紀の初めごろまでにはもう一度、関東大地震が襲来するはずである。その時に銀座の運命はどうなるのか」(中央公論 昭和8年2月)寺田の予言はあたるかもしれない。だが寺田が一番に気にしていたのは、快楽の街、銀座のことだけというのがどうも・・・。戦前知識人の限界か。

東京のえくぼ

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    上原謙主演「東京のえくぼ」(昭和27年)は「ローマの休日」の逆バージョン。つまり大会社の社長がめくら判の毎日に嫌気がさして、秘書(丹阿弥谷津子)の手引きで会社をとびだし、子会社の缶詰工場で働くというストーリー。こちらのほうは、秘書へ「社長秘書事務係を免じ、社長妻を任ず」と辞令を渡しハッピーエンド。留置所へ入ったり、髭を剃ったり、ラーメン屋や焼酎を飲んだり、「ローマの休日」に対抗するようなシーンが満載。作品で脚本家・小国英雄(1906-1996)のオリジナルか?これらのほうがすこし古いだが、ほぼ同時期。ドルトン・トランボと小国英雄は交際があったのだろうか。この時期の小国は名作を書きまくっている。

昭和27年7月15日「東京のえくぼ」

昭和27年10月9日「生きる」

昭和27年10月23日「二人の瞳」

昭和28年3月5日「煙突の見える場所」

  「煙突の見える場所」は椎名麟三の小説であるが、小国は椎名と共にシナリオを完成させた。

   小国英雄はおそらく日本一の脚本家で幅の広さではナンバーワンだろう。「宇宙人東京に現わる」(1959)というSFもパイラ星人が善人だという発想や核問題などなかなか社会問題をうまくとりこんでいてアーカイブスとして面白い。

芦屋仏教会館

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    芦屋川のほとりに建つ芦屋仏教会館は、大きな建物ではないが、その立地からか印象的な建物である。大阪から芦屋に居を移した小出楢重も昭和2年にスケッチしている。大阪の財界人、伊藤長兵衛によって建てられたのが昭和2年のことである。つまりこの建物は築84年、水害も空襲も大地震もみな見てきたのだ。鉄筋コンクリート3階建てということだが、1階が講堂で天井高のため、実質的には2階建てのような物である。むかし地下でレストランをしていた時期もあった。昭和24年から4年間は芦屋市立図書館として利用されていたこともあるが、今では当時のことを知る人は少ない。

シルクロードと聖火

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    シルクロード(絹の道)という歴史用語は今日では中学校の教科書にも載っている。シルクロードの名が日本で有名になったのは、昭和39年の東京オリンピックがきっかけとなったといえば、歴史家は否定なさるかもしれない。理由は聖火がギリシアからシルクロードを通って、日本にやってきたからだ。

    もちろんシルクロードがリヒトホーフェンやアルバート・ヘルマンが発表してから数十年が過ぎ、日本の東洋史学者もその重要性は十分に認識しており、ユーラシア大陸の大動脈の交通路として、「絹の道(シルクロード)」という用語を知る以前から使っていたであろう。しかしそれがすぐに一般に知られるということではない。戦前の鳥山喜一「東洋史観」、橋本増吉「東洋古代史」には「シルクロード」の語は見えない。書名に「シルクロード」が使われるのは、

長澤和俊「シルクロード」校倉書房 昭和37年

林良一「シルクロード」美術出版社 昭和37年

おそらく井上靖の小説「敦煌」の影響で出版社は、魅力ある「シルクロード」を書名に冠したのであろう。論文でタイトルに「シルクロード」と冠するのは、

野溝七生子「シルクロード」東洋大学紀要10  1957年

    やはり井上靖の小説で知られるようになった西域物語のブームと東京オリンピックの聖火コースで、シルクロードが日本人に身近に感じるようになったといって間違いではないのではあるまいか。( keyword;Silk Road、Ferdinand Richthofen、Albert Herrmann ) 

よみがえれ二宮金次郎

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    戦前、全国の小学校の校庭にはたいてい二宮金次郎の像があった。背中に薪を背負い本を読みながら歩いている姿だ。年輩の人ならだれでも知っているが、最近の若い人は見たことないかもしれない。最初の金次郎像は1924年、愛知県前芝小学校に建てられたものだが、金次郎にゆかりのある神奈川県の桜井小学校や神戸や明石にも昭和の初めに建てられ、全国的に広がった。なぜ金次郎の像がなくなったのかはっきりとした理由はわからない。銅製の像は戦時中の金属供出のためであるが、石像のものは戦後もかなりの数は残っていた。1970年代、校舎の建替え工事などの際に無くなったものも多い。おそらく戦後の教育関係者が好まなかったのだろう。封建的、戦後民主主義に反するというイメージを持ったのかもしれない。金次郎の親孝行、勤勉、努力という考え方のどこがいけないのだろうか。ともかく二宮尊徳は教育現場から抹殺された。ところが最近、「フリー二宮金次郎」というブームがある。二宮金次郎を愛するイタリア人の青年が、純粋に人をなごませるために、道行く人に声をかけ、本を読みながら、ほんの少し一緒に歩いてもらうという活動をしている。世界的に普及しているFree Hug(フリー・ハグ)運動に因むという。街行く娘さんが携帯を手に持って急ぎ足で行く光景は感心しないが、フリー二宮金次郎という試みは大いに賞賛する。それをはじめたのがイタリア人だったというのが、なんともやりきれない。二宮金次郎は報徳思想といって「努力すれば報われる」という勤勉をうたったものだが、何でも簡単に手にはいる大量消費になれた日本人にとっては、忘れ去られた精神なのだろうか。大震災に遭った日本人にいま求められるのは二宮金次郎の「勤勉さ」「辛抱強さ」だろう。長嶋茂雄の田園調布の家には二宮金次郎の石像があるらしい。ミスターも古い日本男児で二宮金次郎を尊敬していたのである。

広辞苑「巨乳」問題

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    2008年に広辞苑が改定されたとき、「ニート」「イケメン」「うざい」など世相を反映した言葉が新登録されて話題になった。しかし「巨乳」という言葉は無かった。巨乳という言葉は既に人口に膾炙し、誰もが知っている言葉だが、日常語として使うには憚られる言葉である。この巨乳こそ広辞苑編集部を悩ます問題なのである。今回、見送りとなった理由は「いわゆる大きさを意味する接頭語としての巨に乳がついただけだから」ということだそうだ。類語の「豊胸」も旧版には無かったが、豊胸手術が一般化され、現在では採録されている。つまり「巨乳」が未来永劫に広辞苑に採録しないというわけではないらしい。一面的な倫理感で時代や風俗を反映する言葉を切り捨てることは好ましいことではない。辞書で「巨乳」が認知される日が来るのだろうか。ちなみに「ぼいん」は広辞苑に採録されている。「女性の乳房が豊かなさまをいう俗語」とある。巨泉、可朝の功績であろうか。

同じタイトル

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   このブログのコメント欄で菊池桃子と斉藤由貴が「卒業」という同じタイトルの曲をほぼ同時期にリリースするということが話題に取り上げられた。

  1994年、テレビ番組で太宰治の小説名と同じタイトルをつけたものが放送されたが、太宰の遺族から抗議があり、タイトルを「人間・失格」として放送したという事件があった。内容そのものは全く別ものであるが、過去には同名のタイトルというのは少なからずある。

「こころ」(夏目漱石、瀬戸内寂聴)

「女の一生」(モーパッサン、山本有三、遠藤周作)

「命売ります」(三島由起夫、太田蘭三)

「愛」(井上靖、曽野綾子、御木徳近)

「赤い雪崩」(新田次郎、大田蘭三)

「美しい村」(堀辰雄、立原正秋)

「女ざかり」(森瑤子、宇野鴻一郎)

「かわいい女」(チェーホフ、チャンドラー)

「吸血鬼」(江戸川乱歩、栗本薫)

「黒い蝶」(井上靖、松谷みよ子)

「少年」(井上靖、北杜夫)

「遠い顔」(瀬戸内晴美、佐野洋)

「白痴」(ドストエフスキー、坂口安吾)

    書名に占有権などを認めてしまうと、将来、日本語そのものが使えなくなってしまう。「人間失格」問題もことさら「人間・失格」にする必要はなく、堂々と使えばよかったように思う。

下田歌子と津田梅子

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  下田歌子                      津田梅子

  明治16年7月に井上外交のあの鹿鳴館が麹町区内山下町1丁目1番地(現・千代田区内幸町1丁目)に完成し、明治20年前後には西洋的な女子教育のあり方が主張された。下田歌子(1854-1936)は、明治14年に桃夭女塾を創設し、明治18年11月には華族の子女を教育するための華族女学校が創設されたとき、教授兼学監の資格であったが、事実上は校長の仕事をしていた(初代校長は谷干城)。歌子は生徒に袴と靴を着けさせたが、当時これが大評判となり、明治の女学生風俗の「海老茶式部」とよばれるスタイルを原型となった。明治39年4月には華族女子学院が学習院に併合され、歌子は学習院教授兼女学部長となった。翌年10月、乃木希典大将が学習院長に任じられると、その11月に歌子は辞任している。歌子は女子学生に常に教えていた言葉に「娘のときは端麗であれ、嫁にいったら艶麗であれ」とあるが、歌子の軟派的教育を、剛毅謹直の乃木が嫌ったとも、女子学生の服装の問題を巡って激しい論争があったとも言われて真相は不明である。もっとも世間では「乃木将軍はロシアに勝って歌子に負けた」と面白がっていたという。

   明治4年の岩倉使節団には、5人の女子留学生がのっていた。吉益亮子、上田貞子、山川捨松、永井繁子、津田梅子(1864-1929)。このうち7歳という最年少で渡米した津田は、明治15年11月、アメリカから帰国した。10余年にわたるアメリカ生活のため、まったく日本語を忘れ、通訳によって母や姉と話したという。そこで伊藤博文は津田を下田歌子に紹介し、日本語を学ばせた。そして津田は桃夭女塾に英語教師として通うようになる。つづいて華族女学校に奉職する。明治31年下田歌子は帝国婦人協会を設立し、会長となり、明治32年には実践女学校、女子工芸学校を設立する。津田は明治33年には津田英学塾を創設して、女子高等教育に尽くした。津田は女性の人権が確立しているアメリカで育ったので、女性の地位の極度に低い日本の生活になじめず、苦労した。下田歌子とは、共に華族女学院で女子教育に尽くすが二人が親しかったとは伝えられていない。アメリカで洗礼を受けた敬虔な清教徒として育った津田と、和歌と「源氏物語」など国漢の教養ある下田とは、水と油であったであろう。津田は昭和4年に亡くなるまでのおよそ30年を独立心に富む女性の養成にうち込み、現在の津田塾大学の名を不朽のものにした。津田梅子の墓は、ひところ青山霊園の津田家の墓に仮埋葬されたが、昭和7年、小平市に移転した津田塾大学構内に移された。津田が生涯独身であったためか「津田梅子の墓参りをすると結婚できなくなる」「墓参りをすると卒業から結婚まで10年かかる」という噂が1980年代の女子学生の間で広まったという。下田歌子は長命で昭和6年10月8日、82歳で亡くなっている。大正2年ごろと思われるインタビューの中で歌子は「わたくしの教育方針は、やはり現在の国情もよく参酌してはみますけれども、古い明治の真精神を継承して、しっかりと大地を踏みしめた着実質実な方針で進んでゆきたいと思います。わたくしは、だから目下の急務として、いわゆる新しい女をつくるまえに、古い女を完全なものにつくりあげるのが、ほんとうの教育だと信じます」という言葉が示すように、下田歌子と津田梅子、二人は全く対照的な二人の教育者である感がする。

苦楽をともにした男2人のコンビ

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    むかしディーン・マーチンとジェリー・ルイスの映画をよくみた。ぼんちおさむはジェリー・ルイスの影響があると最近になってきかされた。ザ・ぼんち、コント55号、やすし・きよし、ツー・ビート、男2人のコンビはなかなか難しいらしい。チャゲ&飛鳥もファンは2人の同じステージを見たいだろうが、不仲なのでどうしょうもない。そういえばマーチン&ルイスも人気だったが短かかった。

2011年10月 7日 (金)

石割松太郎の大阪毎日新聞社時代

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    人形浄瑠璃の研究家として知られる石割松太郎(1881-1936)は、早稲田大学卒業後、明治39年に堺屋石割書店を営業するもうまくいかず、後に新聞界に入り、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新聞、そして大阪毎日新聞の記者として活躍した。当時、学芸部長は薄田泣菫、副部長は深江彦一、部員には北尾鐐之介、名越国三郎、芥川龍之介、そして毛利宮彦がいた。毛利は石割より4歳年下で、早稲田の後輩にあたる。石割は昭和4年に毎日新聞社を退社し、東京に移る。生地の堺には、「石割松太郎生家の跡」の碑が建立されている。

日光東照宮唐門「舜帝朝見の儀」

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    有名な陽明門をくぐると唐門がある。彫刻「舜帝朝見の儀」舜帝は堯帝のあと、禅譲によって帝位に就いた伝説の人物。古来から中国では、堯と舜の2帝が最もよく国が治まった理想の時代といわれている。徳川幕府が目指すべき政権は孝行者として知られた有徳の治世である、との考えを示している。現在の平成の元号も、この舜帝が残した「内平外成」の言葉からとったものである。

結婚に年齢差は問題ではない

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 ザ・ザ・ガボール

   昨年ヒットしたドラマ「セカンド・バージン」が同じキャストで映画化。やはり若い男の体に溺れていくアラフォー女性に関心が集まっているのか。芸能界でも年下の男性との結婚は普通になってきた。アメリカ女優のザ・ザ・ガボールは相当な高齢だと思うが、1986年に26歳年下の男性と9度目の結婚をしている。愛あれば結婚に年齢差は問題ではない。

「チャタレイ夫人の恋人」を読みましたか?

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    「現代は本質的に悲劇的な時代である」という書き出しで始まるD.H.ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」は何かしら悲劇的な結末を予測させる。しかし意外なことにチャタレイは森番のメラーズの子どもができて、新しい生き方を求めるため、夫を捨てて愛を選択した。つまりハッピーエンド(?)。日本ではチャタレイ裁判で猥褻か否かが話題になったため正当に読み方がされなかった。いまでは大学のリーダーのテキストで使用しているのだろうか。

ホラズム

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  ホラズム(Khorazm)はアム・ダリヤ下流域の肥沃なデルタ地帯で、アラビア語ではフワーリズムという。ホラズムはその地理上の位置から東西文化の交流点となり、イランと北方遊牧民との仲介貿易の拠点となった。11世紀にセルジューク朝から独立しホラズム・シャー朝を樹立したが、1219年、蒙古軍チンギス・ハーンに破れた。なかにはホラズム人で蒙古の官吏となったものもいる。最後の皇帝ジェラール・ウッディーンは抵抗したが、ディヤルバクルでクルド人に殺害され、1231年、ホラズム・シャー朝は滅びた。

浦島太郎の話はポルノだった

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    日本五大昔話とは、桃太郎、かちかち山、猿蟹合戦、舌切雀、花咲爺である。なぜ一番有名だった「浦島太郎」がないのか。最近、小学校の先生が子どもたちに「浦島太郎」を知っているかたずねたら、15%以上が知らないと答えた。どうして浦島太郎の絵本が消えたのだろうか?実は浦島太郎の話は平安時代に書かれた「浦島子伝」がもとになっている。龍宮城での乙姫さまの宴会だけではなく、寝所での性技も描かれている。龍宮城での酒とバラの日々を過ごした浦島太郎は、さらに幼い亀姫を妻として迎え、甘い新婚生活を過ごす。ポルノ小説だった浦島太郎をリメイクして子どもの絵本として、復活したのが江戸時代のころ。講談社の絵本でも人気を誇ったが、なぜか浦島太郎も時代遅れの代名詞になって人気は凋落してしまった。浦島の復権はあるのか。

リップ・ヴァン・ウィンクル

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  英語「Rip  van Winkle」には「時代遅れの人」という意がある。ワシントン・アーヴィングの小説「リップ・ヴァン・ウィンクル」の主人公だからだ。なんとこの小説が森鴎外によって初めて翻訳されたときのタイトルは「新世界の浦島」だった。

鰾膠もない

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  「にべもない」ものの言いよう、などという。無愛想なこと。ニベとは魚の名前。浮き袋が接着剤として使われるほど粘り気があることから、愛想やお世辞を表す言葉に転じた。鰾という漢字は「魚の浮き袋」という意味。

    さらに強調して「鰾膠(にべ)もしゃしゃりもない」と言えば、「粘り気もさっぱりしたところもないの意から、味もそっけもない」ということ。「しゃしゃり」とは「しゃりしゃりした食感」の意。

懐かしき男優たち

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    最近、杉浦直樹や竹脇無我、山内賢、児玉清といった男優の訃報が続いている。二枚目、三枚目にかかわらずもともと男優は顔が良くて映画会社のニューフェースとして採用されるのである。小林桂樹や金子信雄も若い頃は二枚目役であり、中年になって三枚目や悪役となった。つまり二枚目からの転身が生涯通じて役者という商売ができるかのポイントである。育毛剤で杉浦直樹のイメージは大きく変わったが、ドラマ「図々しい奴」の頃は美男だった。美男から名優とよばれるようになった俳優は意外と少ない。竹脇無我は生涯二枚目だった。二枚目でも何らかのトラブルで人生が大きく変わることになった人もいる。惜しいことに、田宮二郎、沖雅也、沖田浩之などは絶頂期に謎の自殺をとげたし、園井啓介や加勢大周は事件で芸能界を去ってしまった。

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能島水軍と村上武吉

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    瀬戸内海のほぼ中央、大島と鵜島の間に位置する、周囲720mの無人島、能島。ここは中世、村上水軍の一派、能島水軍の根拠地だった。戦国時代、村上武吉(1533-1604)は厳島合戦で毛利軍に味方し活躍したが、1585年、豊臣秀吉との戦いに破れ能島城は廃城となった。

Imabarinosima1小早船(村上水軍の機動力として活躍した小型船)

参考文献
浅岡儀一郎「笠岡古城山沿革考」 北辰社
村上公一「村上海賊史」
村谷正隆「村上水軍史考」
「伊豫水軍と能島城址」 宮窪町観光協会
城山三郎「秀吉と武吉」 朝日新聞社

ホーソンとポー

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  ナサニエル・ホーソン(1804-64)は、マサチューセッツ州セーレムの旧家に生まれた。彼の作品に色濃いニューイングランドの風土性、過去に対する意識は、その出自に由来する。21歳でボードン大学を卒業。10年余り孤独な創作三昧の生活を続けた。1842年ソファイア・ピーボディと結婚、彼女の愛情が、強烈な自我と内面を見つめるホーソンの孤独を救った。1850年「緋文字」を発表するや、たちまち名声を確立した。このころメルビルと知り合い、互いに大きな影響を受ける。

   エドガー・アラン・ポー(1809-49)は、幼くして孤児となり、リッチモンド市の商人ジョン・アランに引き取られ、イギリスで初等教育を受けたのち、1826年バージニア大学に入学するが、1年たらずで退学。1833年「瓶の中から出た手記」が懸賞に当選し、作家としての、また雑誌記者としての道が開けた。その後のポーはリッチモンド、ニューヨーク、フィラデルフィアの各地で雑誌の編集にたずさわり、数多くの評論や書評を書くかたわら、数多くの小説を発表した。1849年10月7日、40歳で亡くなった。

    ポーは人間の心にひそむ内的恐怖や無意識にみごとな形態を与えた怪奇小説や幻想小説の書き手、明敏でときには辛辣な批評家、それに今日隆盛をきわめる推理小説(「モルグ街の殺人」)やSF小説の元祖であった。しかしポーの文学は、その生存中はかれの実力にふさわしい理解と賞賛とを受けなかった。それと同じように、人間としてのポーについても、これを伝える人々のことばに大きなへだたりを残したまま今日にいたっている。ボーの誹謗者たちはかれを神経病的な酔っ払いの麻薬常用者と考え、感情生活のいつも不安定な、道徳的誠実さの欠除している男とみなした。他方、かれを弁護する人々は、かれのすべての困難を、かれを嫌悪した人々の悪意、時代がかれに加えた苛烈な仕打ち、あるいはまた、かれをなやましたさまざまな肉体的、精神的病気のためであるといっている。かれについての真実がそのどちら側にあるかは、今でさえなお不明である。ポーがアルコールや阿片に過度なまでにふけったということがあまりにも伝説的になっているが、かれの場合には、他の多くのロマン派詩人のように、多分にかれ自身の偽悪的な面がはたらき、実際のかれ自身よりも自分をそのような姿に見せようとすることばや暗示があったであろうことを考えておく必要がある。(参考:「玉川百科大辞典16 西洋文芸」) 

2011年10月 6日 (木)

真田一族と上田城・松代城

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    真田一族、幸隆、昌幸、信之らは、戦国乱世を生き抜き、関ヶ原合戦では信之が東軍に属した。信之(1566-1658)は上田城主の座を安堵されたが、1622年、松代へと移された。信之は新天地で城下町の建設や新田開発を推進し、松代藩真田家10万石の基礎を築いた。松代藩は明治2年、10代藩主・真田幸民まで続く。

     なお、真田幸村の長男大助は大坂夏の陣で戦死したが、二男大八(1612-1670)は仙台伊達家家老の片倉家に養子となり、片倉守信と改名した。守信の子孫は仙台真田家として今なお続いている。

制服の処女

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   厳格な女子寄宿学校を舞台に、生徒の女教師に対する思慕を瑞々しく描いている戦前ドイツ映画。ナチス台頭のドイツで、自由と女性のやさしさをうたったもので映画史的意義あり。出演者、スタッフ、監督すべて女性。その後、教師を演じたドロテア・ウィークはハリウッドに渡るが売れなかった。

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 ドロテア・ウィーク        ヘルタ・ティーレ

うわさの男

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    ハリー・ニルソン(1941-1994)は映画「真夜中のカーボーイ」の主題歌「うわさの男」で知られるミュージシャン。ニルソンはこの映画のために「孤独のニューヨーク」を提出したが、映画の編集の際に仮歌として使用されていた「うわさの男」(フレッド・ニューマンのカヴァー)を気に入ったジョン・シュレシンジャー監督の意向により、そのままこの曲が使用された。

年相応の恋がステキだ

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大雨のあとかぐはしや秋高く(立子)

   映画「最後の初恋」。リチャード・ギアは嵐の中、死んでしまった。ダイアン・レーンは年とってからよくなってきた。もともと細身で派手さはないが、ありのままの素顔で小じわのある普通の主婦がよく似合う。メールでなく手紙、CDでなくレコード、すべて古いのがかえってロマンチックな恋をもりあげている。中山美穂や南野陽子らにはダイアンのような自然な演技を見習ってほしい。

源頼朝、鎌倉に入る(1180年)

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    治承4年10月6日、源頼朝は父祖以来の源氏ゆかりの地、相模国の鎌倉に入る。そして10月20日、平維盛を総大将とする平氏の軍勢を富士川で、戦わずして勝利をおさめた。このとき頼朝34歳。

    翌日、数奇の手勢を率いた若武者がいた。義経24歳である。父・義朝の敗北と死という悲劇によって遠く引き離された異母兄弟が、長い歳月の末にようやく対面することができたのである。八幡神社には頼朝と義経が対面したときに腰をおろしたとされる対面石がある。このとき義経は何騎を従えて兄・頼朝のもとへ駆けつけたのか?「吾妻鑑」には、佐藤継信と忠信とたった3騎となっている。「義経記」では300騎ほどを率いて駆けつけたとある。義経の家来として名が知られているのは、武蔵坊弁慶、駿河次郎清重、片岡八郎弘経、亀井六郎重清、伊勢三郎義盛、鎌田藤太盛政、鎌田藤次光政、常陸坊海尊などである。だが、はたしてこれらの家来が実在の人物かどうかは、まるで証拠がない。そんななかで唯一、係累が明らかなのは佐藤継信、佐藤忠信の兄弟である。佐藤家の菩提寺・医王寺には2人の墓がある。

2011年10月 5日 (水)

書評誌「Guardian of Education」とトリマー夫人

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    英国19世紀児童文学・教育評論「ガーディアン・オブ・エデュケイション」およびトリマー夫人評伝」全7巻(英文)が復刊されている。トリマー夫人(1741-1810)は「こまどり物語」で知られた児童文学者。フランス革命を危険思想とみなし、子どもの教育のために動物の擬人化を用いて教訓的な創作物語を書いた。また児童書の書評誌「ガーディアン・オブ・エデュケイション」(1802-1806)を執筆・刊行する。たとえば、「シンデレラ」は嫉妬心、家族への嫌悪感、虚栄心などを子どもの心にうえつけるものであり、「ロビンソン・クルーソー」は放浪生活や冒険心をたきつけるものであり、「マザー・グース」にでてくる奇想天外なアイデアは子どもたちの心を乱すものとしている。熱心なクリスチャンであるトリマー夫人は、想像力が野放図に広がることに強い懸念を持っていたと考えられる。

読書は最もストレス解消に効果的

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    ストレス解消にはさまざまな方法がある。お金の多寡と関係なく、楽しいことはいくらでもあるはず。家庭菜園、釣り、囲碁、カラオケ。イギリスのサセックス大学で読書、音楽鑑賞、一杯のコーヒー、テレビゲーム、散歩、のうちどれが一番ストレス解消に効果があるのかを実験した。その結果、読書が一番効果があることがわかった。ルイス博士は「我を失うくらいに本に没頭することが究極のリラックス法」だとコメントしている。

今日もやっぱり処女でした 夏石鈴子

冷蔵庫より愛をこめて 阿刀田高

転がる石のように 景山民夫

国語入試問題必勝法 清水義範

独断流「読書」必勝法 清水義範

メディアで欲情する本 別冊宝島

おいしいシュークリーム

Cdb0c9ada7b4623b6aecf545296890dcしろたえB0139906_16271255トトロのシュークリーム

    洋菓子の定番といえばシュークリーム。関西の者は駅構内の売店にあるヒロタを思い浮かべるが、東京では「しろたえ」(港区赤坂)が人気だそうだ。ほかにも店ごとに工夫されているらしい。「白髭のシュークリーム工房」にはトトロの形をした可愛いシュークリームが売られている。

     シュークリームは明治のころからあったらしく、フランス語のシュ(chu)と英語のクリーム(cream)からなる和製外来語。シュとはキャベツのこと。寺田寅彦の随筆に鍋町の風月の2階の喫茶室に「ミルクのはいったおまんじゅう」という言葉が見える。(「銀座アルプス」昭和8年)寺田はハイカラでモダンな人だった。

韓国でもゴボウは食べる

  当たり前の話だけど、韓国や朝鮮でもゴボウ(ウオンという)は食べる。ところが昔から「ゴボウを食べるのは世界で日本人だけである」(たべもの語源辞典)とまことしやかに言われた。しかし、これは明らかに間違い。ゴボウの原産地は中国北部で、日本には朝鮮半島を経由して薬草として伝わった。ネットでも韓国の家庭料理としてゴボウはよく食べられる。もちろんキンピラゴボウもある。

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ゴボウの和え物

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ゴボウとゼンマイのナムル

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キンピラゴボウ

この10年をふりかえる

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    秋風が身に沁みる季節になった。朝から鬱陶しい秋雨が降っている。今年は10人が10人とも、「悪い年だった」と振り返るような年。10年前の2001年、21世紀初めの年はもっと明るく希望に満ちていたように思う。4月に小泉内閣が誕生し、「感動した」が流行語になった。12月には敬宮愛子さまが誕生した。モーニング娘や浜崎あゆみが人気だった。松浦亜弥が歌う「♪LOVE メールは返さない」この年からインターネット普及率が急激に延びた。2000年末で人口4708万人、人口率37.1%だったが10年間で75%を超えるようになった。家庭の主婦、シニア世代が使用するようになった。携帯、ブログ、ツイッターなどもこの10年間で普及した。政権交代はさらなる政治不信を生んだ。世界的不況に加えて、地震、台風による災害、失業、リストラ、定年、増税などによる生活苦が年々増している。「がんばろう!日本」が掛声だけにおわる1年だった。有名人にもそれぞれの10年の歳月がある。

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アイドマとエーサスの法則

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    アイドマ(AIDMA)とは1920年代にアメリカのサミュエル・ローランド・ホールが広告宣伝に対する消費者の心理のプロセスを示した略語のこと。すなわち、Action(買わせる)までの5段階を示す。

    Attention(注意)

    Interest(関心)

    Desire(欲求)

    Memory(記憶)

    Action(行動)

2005年に電通がエーサス(AISAS)を提唱した。

    Attention(注意)

    Interest(関心) 

    Search(検索) 

    Action(行動)

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ジョージ・ワシントンの悔恨

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  ニューヨーク市立図書館

    米初代大統領ジョージ・ワシントンは少年時代、父が大切にしていた桜の木を切ったことを正直に話して反省したという逸話はよく知られている。ところがそのワシントンが大統領時代に図書館から借りた本が未返却であることが明らかになった。ワシントンが借りたとされるのは、国際関係論と議会討論に関する2冊の本で、1789年10月5日に貸し出され、11月2日が返却期限になっている。1789年はフランス革命の年で、アメリカでもその外交政策が問われた頃である。ワシントンは国事に忙殺されて本のことをすっかり忘れてしまったのだろうか。結局、ワシントン死後もその2冊の本は長らく未返却のままであった。ニューヨーク市立図書館は当時アメリカでも唯一の図書館で初期の貸し出し記録にワシントンの未返却本があることを憂慮していた。ジョージ・ワシントンはアメリカ国民にとっては正直者のシンボルである。延滞料は221年で約43万円になるという。だが、最近ジョージ・ワシントン邸の管理団体が同じ版の図書を約100万円で調達し、ニューヨーク市立図書館に返却したという。ジョージ・ワシントンは長期延滞者として世界図書館史に残る記録を樹立したのである。

2011年10月 4日 (火)

真中瞳と堺雅人

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    映画「ココニイルコト」(2001)で2人は共演している。堺は順調にキャリアを積み、今月からBSで「塚原卜伝」が放送中である。真中瞳は「恋セヨ乙女」(2002)も好評だったが、2006年ころからスランプになり、2009年には芸名を「東風万智子(こちまちこ)」に変更している。やはり役者は個人商売でたいへんなんだろう。

あすという日が

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    NHK歌謡コンサートで夏川りみと秋川雅史が合唱曲「あすという日が」を歌っていた。これまで2003年から卒業式などで歌われてきた曲だが、今年の大震災以降、復興のシンボル曲ともいわれている。私は今年なにがヒットしたのか知らない。エンターテインメントで何が流行っているか正確な情報をつかむことは難しい。とくに音楽ランキングは。業界の宣伝があるからだ。あの小池聡行(1932-2001)が創業した会社は大きくなっていた。オリコンのサイトを見ると各種のランキングが載っている。BOOK部門では「知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物」という本がTOP10入りしている。シングルCDでは「Magic Power」「情熱のマリアッチ」「ピストル」「ワンモアタイム」「Rising Sun いつかきっと…」「愛を止めないで」「フライングゲット」「Love Parade」「FRIDAY-MA-MAGIC」「家族になろうよ」

退屈恐怖症って何?

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   英デイリーメールによると、退屈を常に感じる人は、心臓病や脳卒中による死亡率が、そうでない人より2.5倍も高いという。

  退屈恐怖症という言葉があるそうだ。ネットで調べても解説は見つからない。講談社「日録20世紀1990年」の11月29日に「若い女性に退屈恐怖症広がる、と新聞に」とだけある。新聞記事索引を調べればわかるかもしれない。新語でもあまり流行らなかったようだ。だがバートランド・ラッセルがすでに60年も前に「Fear of  boredom(退屈を恐れる心)」と題して、現代人の堪え難い特殊な退屈を分析している。

団次郎と草刈正雄

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  資生堂の団次郎

    草刈正雄の映画「汚れた英雄」を見る。カミサンのほうが喜ぶ。わたしはバイクには関心がない。レベッカ・ホールデンは綺麗だ。脇に団次郎がでている。資生堂のMG5つながりだろう。草刈は団次郎の弟分としてデビューしたのだ。団次郎は肥ったが今でも脇で見かける。レベッカ・ホールデンも現役女優。スタントのレーサー、平忠彦は1992年に引退している。角川春樹監督作品だが意外と見所は多い。

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平成23年とは、昭和天皇ご崩御から23年

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    町ではもう来年の手帳が販売されている。お正月の「おせち」料理も予約を受け付けている。今年もあと3ヵ月を切った。

   平成元年1月7日、足掛け64年にわたった「昭和」が幕を閉じた。昭和天皇は87歳と8ヵ月のご生涯だった。この年、亡くなった方々には著名人が多い。2月9日に漫画家の手塚治虫、4月27日に松下幸之助、6月24日に歌手の美空ひばりが他界している。

   この年はまだバブル景気といわれた後半の時期にあたる。消費者は高額商品を買うこと、「生活の豊かさ」を感じ、海外の高級ブランド品や高機能の家電製品を買いあさった。しかし1990年をピークに景気は下降し、バブルは崩壊し、長い平成不況が続く。

愚か者の船

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   ヴィヴイアン・リー最後の出演作になった映画「愚か者の船」。メキシコのベラクルスからドイツのブレーマハーフェンへと客船ベラが出帆する。この船の名が「Ship of Fools」。中世の諷刺詩セバスチャン・ブラントの「阿呆船」を想起させるものがある。「いずこの国にも有難い、救いの書物やバイブルや、聖者の教えやそのほかに、似たようなものが溢れてる、ところが誰も良くならぬ、こりゃまたどうしたことなのか。いやはや、それらが軽視され、この世は闇夜に蠢いて、罪を犯して目がさめぬ。通りも横町も阿呆に満ち、馬鹿な行為を繰返し、自分にゃそれがわからない。そこで私は、阿呆船。造ってやろうと考えた。」

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フレッシュな新星・笹森礼子

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   日活映画「少女」(1961)は笹森礼子の主演作品。田舎から上京したカネ子が美容院やバーに就職するが、勝気な性格で勤まらずに田舎に帰って百姓をするという話。笹森の可憐なイメージからすると意外性のある役どころ。共演の川地民夫はトランペットの好きな青年を好演。わずか1時間ほどの短い映画だが東京の風景などアーカイブとしても楽しめる。笹森は日活アクション映画のヒロインの1人だが大女優をめざすことなく寿退社してしまった。

O0570024410307110412紅の拳銃

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熱演型かサラリ型か

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    俳優には熱演型とサラリ型がある。外国スターを例にあげると、カーク・ダグラスやバート・ランカスターは熱演型で、ゲーリー・クーパーはサラリ型だ。日本だと宇津井健などは熱演型の典型だろう。だが最近の大河ドラマを見ていると、向井理の秀忠の演技などサラリ型が増えている。いよいよ「江」も春日局の登場でドロドロのお江与とのバトルが展開するが、民放の大奥とは一味違ったサラリとしたものになるのだろうか。

横顔の女性美

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   ルネサンスの画家たちは肖像画を描くとき横顔のポーズが主流だったように思う。横顔の美の伝統は欧米社会に生きていることは映画を観ているとわかる。イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、オードリー・ヘプバーン、映画のクライマックスで横顔の美しさを披露している。

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「最後の初恋」ダイアン・レーン

本の匂い

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    群ようこは「私は、本が発する匂いと手ざわがとても好きだ。気に入った本はいい匂いがするし、ページをめくったときや手に持っときの感触もいい。」と言っている。電子書籍には匂いも手ざわりもない。本にはそれぞれの匂いや手ざわりが違うところがいい。

2011年10月 3日 (月)

パフォーマンスの時代だ

朝ドラ「カーネーション」で岸和田のだんじり。迫力あるシーンに感心。パフォーマンスに感動がある。

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代議士先生、危険だからゼツタイ真似をしないで!

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    ジャッキー・チェンのようなアクションで選挙運動をする上草義輝。昭和54年から平成5年まで衆議院議員だった。

エリマキトカゲのパフォーマンス(1984年)

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  自分の感動を肉体や行為で素直に表現することが求められる時代になってきた。街頭での歌やダンス、寸劇などがパフォーマンスとして大流行した。

    この年、三菱ミラージュのCMに登場し、エリマキトカゲ・ブームが起こった。このユニークなトカゲは危険を察知すると、後ろ足で立ち上がり、黄色い口を開け、頚部の周りのカラフルなプリーツ状の襞を広げて、シュッシュッと音を立てる。それでもだめなときは、2本足で走る。エリマキトカゲのブームはすぐに消えたが、パフォーマンスという言葉は流行ではなく一般化し、今日も日常語として定着した。

大韓航空機撃墜事件(1983年)

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 釈明するソ連のニコライ・オルガコフ参謀総長

   1月、中曽根首相が訪米したが、そこでの「日米は運命共同体」「日本列島は不沈空母」という発言が野党や世論の反発を招いた。こうして始まった1年は、田中角栄元首相議員辞職勧告決議案をめぐる国会の空転、ロッキード裁判での田中元首相に対する有罪判決などで揺れ動き、年末に総選挙となった。自民党は過半数を割る敗北を喫したが、新自由クラブとの連立によって第2次中曽根内閣が成立した。9月1日、大韓航空機がサハリン沖でソ連領空侵犯、ソ連軍機に撃墜される。乗員乗客合わせて269人全員が死亡した。007便はなぜサハリン南部を飛行したのか?撃墜時の様子を、ソ連戦闘機の操縦者は「警告シグナルを点滅させたが、同機が無視したため、500 発以上の機関砲を連射した」と証言している。

15歳の林葉直子が将棋女流名人になる。また15歳の雉子牟田明子が全日本テニス選手権で優勝。流行語は「おしん」「ロンとヤス」「ニャンニャン」

結婚回数の多いスター

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    エリザベス・テーラーは結婚、離婚を繰り返して生涯に8回の結婚をした。しかしそれよりも上がいる。「赤い風車」のザ・ザ・ガボール(94歳)は9回。今年1月に感染症で右脚を切断する手術を受けたが、元気に回復したらしい。男性ではわれらがミッキー・ルーニーだ。映画「ナイト・ミュージアム」(2009)でも健在ぶりをアピールしたが、8回の結婚歴を誇る。いまや映画界の生きる世界遺産といわれる。日本へも「トコリの橋」で来日し、淡路恵子と共演したのが懐かしい。

オリビア・ハシーか、オリヴイア・ハッセーか

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    日本でも人気の高い女優オリビア・ハシーには、ハッセイ、ハッセー、ハッシー、ハセイ、ハセー、ハシーと様々な表記がされる。生国アルゼンチンを含むラテン系ではウッセイ、フランスではユッシー、ドイツではフッサイと発音するらしい。

    ちなみに表記が割れるスター名としては、ハリソン・フォードかハリスン・フォードがあげられる。「ジョーズ2」「刑事コロンボ 毒のある花」の監督ヤノット・シュワルツはフランス出身の監督で、日本語では、ジュノー・シュワルツ、ジャノー・シュワーク、ジャン・シュワルツ、ジャノット・シュウォークなど多数の表記がされる。「あなたの姓はなんと発音するのですか?」と記者が質問したところ、「祖先はハンガリー系でシュワルツと発音していたらしいのですが、あなたが呼びやすいように、どうにでも発音して下さい。わかればいいんだから」との返事だったそうである。

すご~いハンサムなのに忽然と消えた美男たち

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    画像は映画「エデンの園」のキャンペーンで東京銀座付近で撮ったもの。「アラン・ドロン二世」といわれた長身で甘いマスクのロニー・バレンテだが、この1本で映画から消えた。なぜか洋画界にはこのようなケースは多い。もちろん新作映画が日本に配給されなかったり、活動の場をテレビに移したりして、渋い中年俳優として活躍している場合もあるのだが。

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「ライアンの娘」で凛々しい英国将校を演じたクリストファー・ジョーンズも忽然と消えた一人だろう。名作「ベニスに死す」のビヨルン・アンドレセンの美しさは未だに語り草となっている。「個人教授」のルノー・ベルレーや「暗殺の森」のレンモンド・ラブロックの人気は日本だけのものだったのだろうか。「サマー・タイム・キラー」のクリス・ミッチャム、「インターナショナル・ベルベッド 緑園の天使」のジェフリー・バイロン、「エンドレス・ラブ」のマーティン・ヒューイットなどのように、スター女優の相手役で抜擢されたケースが多い。「普通の人々」のティモシー・ハットンのように若くして演技が認められると後が続かない場合もある。

2011年10月 2日 (日)

消えた鉾田線

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    長澤まさみ主演の映画「そのときは彼によろしく」(2007)に廃線になった鹿島鉄道が見える。茨城県石岡駅ー鉾田駅をつなぐ鉾田線で、廃止となる直前に玉造駅でロケがあった。智史と花梨が別れのキスをするシーンで使われた。いまは駅舎も線路もすべて跡形もなく無くなっているという。美しい風景だけに寂しい。

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1982年、エルチチョン火山爆発

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    ホテル・ニュージャパン火災。日航機羽田沖事故。でも地球的にみると、メキシコのエルチチョン火山が爆発したこと。44時間にわたって火山灰を噴き上げ、このときに30km以上の成層圏まで達し、長い間地球の上空にただよったため、翌年に世界中の平均気温が0.5度下がった。流行語は「森林浴」「芸術はバクハツだ」「ネアカ・ネクラ」「逆噴射」。映画「E.T.」「ブッシュマン」主役のニカウは2003年に60歳で亡くなっている。イギリスのロック歌手キム・ワイルド「キッズ・イン・アメリカ」のちにマイケル・ジャクソンの前座をつとめる。

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日本でも大ヒットしたブルック・シールズの恋愛映画「エンドレス・ラブ」恋人デビッドを演じたマーティン・ヒューイットはどうしているのだろう。

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1981年、ポートピア博覧会

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   チャールズ・ダイアナ結婚。16年後、ダイアナは交通事故死。ミニアコンガ峰で日本隊8人死亡。エジプトのサダト大統領銃撃により死亡。ムバラクが就任。江青に死刑判決。のち減刑されたが、1991年に自殺。放送作家の向田邦子が台湾旅行中に飛行機事故で急死。「なんとなく、クリスタル」映画化、ヒロインかとうかずこ。「9時から5時まで」ドリー・バートンの映画主題歌とシーナ・イーストンの「9 to 5」は無関係。「将軍」で島田陽子が日本人初のゴールデン・グローブ賞。ゴーマン美智子の伝記映画「リトル・チャンピオン」。流行語・「ハチの一刺し」「ノーパン喫茶」「ぶりっ子」「クリスタル族」「ウッソー」。歌謡曲「ルビーの指輪」「まちぶせ」。映画「泥の河」「駅 STASION」「エレファントマン」「普通の人々」「コンペティション」「歌え!ロレッタ愛のために」「裸足の天使」

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    ティモシー・ハットンは19歳でアカデミー賞助演男優賞を受賞。父のジムもノッポの俳優だった。みずみずしい豊かな感性を持った青年も人生の苦渋を知った中年になった。女優デブラ・ウィンガーと離婚後、再婚しテレビ出演が主なので活躍のほどはわからない。

1980年、金属バット殺人事件

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    川崎市の住宅で予備校生が両親を金属バットで撲殺した。事件の背景には根強い学歴信仰があり、悲劇を生んだ。大平正芳首相が急死。レーガン新大統領。ジョン・レノン射殺される。ルービックキューブが流行。山口百恵引退、松田聖子でビュー。たのきんトリオが人気。角川映画のオーディションで2年前に「野性の証明」でデビューした薬師丸ひろ子は学業優先でこの年わずか「翔んだカップル」の1本だけ。ただし相米慎二監督との出会いが翌年「セーラー服と機関銃」を生む。外国映画では「クレイマー、クレイマー」「地獄の黙示録」「ルードウィヒ神々の黄昏」「チャンプ」「ブラックホール」「テス」「忍冬の花のように」「グロリア」「将軍」

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    「エデンの園」に主演したロニー・バレンテというハンサムな青年は一作を残して映画界から消えた。

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1979年、イラン革命

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   イスラム教シーア派の最高指導者アヤトラ・ホメイニ師は、国外追放から2年3ヵ月ぶりに、テヘランに帰国した。イラン全土から集まった500万もの人が出迎えた。

  この年、韓国で朴正熙(パクチョンヒ)大統領が暗殺された。イギリス、サッチャー保守党内閣が成立。(1990年に政界引退)

    三菱銀行北畠支店に猟銃男・梅川昭美が強盗・襲撃し、行員と客40人を人質にした。梅川は42時間後、射殺された。和泉宗章は「今年の長島巨人は優勝しない」と占いを的中させたため、天中殺は爆発的ブームとなった。渡部絵美が国際大会で日本女子初の銅メダルを獲得。川島なお美「シャンペン№5」でデビュー。久保田早紀「異邦人」。

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1978年、イギリスで体外受精児誕生

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    7月25日、イギリス中西部マンチェスター郊外にあるオールダム総合病院で、人類史上初の「試験管ベビー」(体外受精児)が誕生した。ルイーズちゃん誕生のニュースが流れると、イギリスでは子どものいない夫婦5000組が病院に殺到した。ルイーズ・ブラウンは普通に成長し、2004年に結婚、2006年に男子を出産している。

    この年の秋、東芝が日本語ワードプロセッサの翌年発売を発表。価格は630万円。日本テレビ「24時間テレビ愛は地球を救う」放送。萩本欽一・大竹しのぶ。植村直己、単身北極点に到達。瀬古利彦・宗兄弟活躍、男子マラソン黄金時代。広岡達朗ヤクルト日本一。名球会結成。若三杉、横綱に昇進、若乃花襲名。前橋高校の松本稔投手、高校野球で初の完全試合達成。現在、完全試合は金沢高校の中野真博を含め2人。

インベーダゲーム、竹の子族。流行語は窓際族、サラ金、共通一次、タンクトップ、空白の1日。

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歌謡曲。「時間よ止まれ」「Mr.サマータイム」「いい日旅立ち」「季節の中で」「青葉城恋唄」「ガンダーラ」キャンディーズの妹分「トライアングル・ラブレター」でデビュー。ビリー・ジョエル「素顔のままで」「ストレンジャー」「オネスティ」ヒットを連発。

ベストセラー。ガルブレイス「不確実性の時代」、中沢けい「海を感じる時」、有吉佐和子「和宮様御留」、野末陳平「頭のいい税金の本」、森村誠一「人間の証明」

映画。「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」「サタデー・ナイト・フィーバー」

2011年10月 1日 (土)

多治見国長と土岐頼員

   岐阜県の南東部に位置する土岐市・多治見市は美濃焼の産地として全国にその名が知られる。地名の由来は、平安末期土岐氏が起こり、中世には美濃国の守護であったためによる。多治見国長(1289-1324)や土岐頼貞(1271-1339)の名が太平記にみえる。それぞれの郷村の豪族であろう。美濃国の人、国長は日野資朝に招かれ、京都に入る。後醍醐天皇の討幕計画を画策していたが、土岐頼員(生没年不詳)の妻が洩らしたため、六波羅に計画が露見した。京都にある国長の屋敷には、小串範行が3000騎で押し寄せた。国長はもはやこれまでと覚悟を決めて一族20余人は刺し違えて果てた。土岐頼兼も討死した。これが世にいう正中の変である。土岐頼員(初代美濃守護土岐頼貞の弟)は後に足利尊氏、義詮方に属した。

1977年キンディーズ解散宣言

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    現代史を記憶する方法は最も印象に残った事件を中心に、他の事柄を関連づけて覚えるのがよい。1977年7月18日、キャンディーズは解散宣言をした。この年、ピンクレディーは「ウォンテッド」「UFO」のヒットを飛ばしている。小説では三田誠広「僕って何」、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」が芥川賞。アイドルでは榊原郁恵、大場久美子デビュー。アーチストではバリー・マニロウ。映画界は「幸福の黄色いハンカチ」「宇宙戦艦ヤマト」「ロッキー」「サスペリア」。NHKの「大草原の小さな家」姉メリッサー・スー・アンダースンもお年頃。アル・パチーノがトップスターだった。円高差益。東京外国為替市場で、1ドル260円を割る。

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北欧ロバーツコーヒー

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    10月1日は「コーヒーの日」。秋になってコーヒーの需要も高くなるからだそうだ。そういえばスーパーでインスタント・コーヒーが特価だった。世界で国民1人当りのコーヒーの消費量が多い国はどこでしょうか?第1位はフィンランドで、第2位がノルウェー。大人は1日平均5~6杯は飲むらしい。

激似有名人を探せ

    世の中には自分と瓜2つの人は3人いるという。なるほど野田首相とダチョウ倶楽部の上島竜兵はよく似ている。福山雅治と韓国の二枚目俳優・リュ・ジンもよく似ている。

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上から、福山雅治とリュ・ジン、チョ・インソンと東野峻、チョン・ジニョンと竹中直人、マット・デーモンとジミー大西、土屋アンナとクリスティーナ・リッチ、沢村拓一と波田陽区、越岡裕貴と北山陽一(ゴスペラーズ)、加藤ローサと国仲涼子、小泉孝太郎・元木大介・錦野旦、宝田明とスチュワート・グレンジャー、筧利夫とピース又吉、有馬稲子と芦川いづみ、石川ひとみと倉田まり子、田山涼成と海原はるか、板尾創路と三代澤康司、エマ・ロバーツとジュリア・ロバーツ、堺雅人と小向日文世、青山京子と田代みどり、水樹奈々と眞鍋かをり

大正・昭和の大衆文化とレトロ・ポスター

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    第一次世界大戦を契機とする日本資本主義の発展は、会社員・銀行員・官公吏など月給取りを一つの社会層として作り出した。彼等は文化住宅に住み、背広姿で郊外電車に乗って都心へ通勤したるキネマ・カフェー・ダンスホールなど、手軽でモダンな雰囲気を楽しめる場所に「心の憂さの捨てどころ」を見い出した。

   ビールは明治初年から輸入されており、明治中期にはいくつものビール会社ができた。しかし、そのほろ苦い味がひろく好まれるようになったのは、大正期であり、サラリーマンの時代の到来とともに、ビールは彼らの社交に欠かせない飲物となった。

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北野大茶湯はなぜ1日で中止になったのか?

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    豊臣秀吉は天正15年10月1日から10日まで北野の森で大茶会を催す計画をした。茶の湯好きの者であれば若党・町人・百姓を問わず、釜・釣瓶・呑物を一つずつ各自が用意して集まるように命じた。10月1日は秀吉みずからと千利休、津田宗及、今井宗久が茶を点じ、800人以上にふるまった、という。しかし当初10日間としていたイベントは、この1日だけで茶会は中止された。博多から代表として招かれて上洛した豪商神谷宗湛は、1日で終わったためにまにあわなかった。僧英俊の『多聞院日記』には、何か不祥事があったものか、西国で佐々成政が討ち死にしたからか、との噂を記し、「ウソ歟」と書き加えている。一般の参会者には中止の理由はわからなかったであろう。佐々成政が討ち死にしたという噂はウソであったが、肥後の国一揆が勃発したのは本当のことで、おそらく秀吉は10日間も茶会を楽しむ気持ちはなくなり、中止したものであろうか。

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