松平定信はなぜ徳川姓を許されなかったのか
徳川家康は兄弟に恵まれなかった。祖父の清康は26歳で、父の広忠は24歳で、それぞれ暗殺された。このため母伝通院が久松俊勝と再婚した子、異母兄弟である、康元、康俊、定勝などに松平姓を与え、徳川一門を強固なものにしようとした。
徳川家康には17人の子が知られており、そのうち男子は11人であった。そのうち2代将軍に補任されたのは秀忠である。ほかの男子のうち9男義直、10男頼宣、11男頼房は徳川姓を許され御三家を創出した。秀忠の血統は7代家継までである。吉宗は紀州家の出で家康の曾孫にあたる。
寛政の改革で知られる松平定信(1758-1829)は徳川宗武(田安宗武)の7男で吉宗の孫にあたる。御三家・紀州吉宗の血を継ぎながら何故に徳川姓を名乗れなかったのか。宗武は父が将軍就任にともない、西の丸に入った。田安門内に邸地を与えられたことから田安と通称された。定信もこのままであれば徳川姓を拝領するところであるが、不運にも1774年に久松松平家の庶流で白河第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。定信は1783年に白河藩主に就任した。定信は徳川家康の異母兄弟である定勝から数えると9代にあたる。(7代定賢のとき白河に転封された)。アナウンサーの松平定知は定勝を祖とする久松松平家の子孫にあたる。
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